Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

兄第愛について : ピーター・フォルティン神父様 2019年9月12日聖霊降臨後第十二主日の説教 

2019年09月03日 | お説教・霊的講話
2019年9月12日(主)聖霊降臨後第十二主日の説教 
聖ピオ十世会司祭  ピーター・フォルティン神父様


典礼年全体にわたって、福音には兄弟愛に関して述べられている箇所がたくさんありますが、本日の福音は、私たちの主のこの非常に重要な掟を扱うのに良い機会となっています。

この主日の福音は、良きサマリア人という美しいたとえを採り上げ、兄弟愛という聖徳を、キリスト教の独特のしるしとして提示しています。これから、このたとえをその文字どおりの意味で見て、あわれみと愛についての非常に深い教えを学んでいきましょう。良き母としての教会は、その子どもたちに、最も重要であることをいつも思い起こさせます。年間を通じて、兄弟愛は何度も出てきます。ある霊的な書き手によれば、兄弟愛こそが、キリストの愛する弟子である使徒聖ヨハネがその使徒職においていつも信者たちに思い起こさせていたことであった、ということを、教会が常に私たちに思い起こさせているのです。聖伝によれば、聖ヨハネはいつも聴衆に対して「小さな子どもたちよ、互いに愛し合いなさい」と言って、互いに愛し合うように勧めていました。その後、彼は信者たちに対して、「これは主の掟である。これが成就されるならば、それで十分である」ということを思い起こさせていました。教会は年間を通じて同じことを行い、飽くことなく信者に兄弟愛を思い起こさせています。私たちは、これら思い起こさせてくれるものを不必要で、当たり前のことだとは思うことはできません。その反対に、教会が特定の点を強調すればするほど、私たちはそれをもっと重要視しなければならないのです。

私たちの主は、私たちがこの兄弟愛という掟の重大さを理解することができるように、美しく力強い方法で兄弟愛について黙想させてくださいます。第一に、天主の国についての基本的教えを含んでいる山上の垂訓があります。真福八端には、特別に兄弟愛を扱った二つの幸いがあります。それは、「あわれみのある人は幸いである、彼らもあわれみを受けるであろう」(マテオ5章7節)と「平和のために励む人は幸いである、彼らは天主の子らと呼ばれるであろう」(マテオ5章9節)です。私たちの主が天主の律法の成就あるいは完成についてお話しになるときはいつでも、それは兄弟愛、隣人愛に関係しています。聖パウロは、これについて、「愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)と書いています。

山上の垂訓で、私たちの主は、旧約の掟は新約においてさらに完全で、さらに大きな義務となることをお教えになっています。私たちの主は、旧約においては、第五戒が「汝、殺すなかれ」とされているのに対して、新約においては、この掟は「兄弟に怒(いか)る人はみな裁きを受ける」(マテオ5章22節)であることさえ指摘なさいます。この掟は、殺すことについてさえ言及してないばかりか、人は兄弟を憎んだり、軽蔑したり不作法な扱いをすることも許されていないということです。聖ヨハネの書簡には、「兄弟を憎む者は人殺しである」(ヨハネ第一3章15節)と書かれており、人殺しは天国にあずかることはできません。山上の垂訓において、イエズスは次のようにまで言われるのです。「知ってのとおり、『目には目を、歯には歯を』と教えられた。だが私は言う、悪人に逆らってはならぬ。人があなたの右の頬を打てばほかの頬も向けよ」(マテオ5章38-39節)。私たちの主によるこの垂訓は、兄弟愛が私たちの主の教えの中で非常に特別な位置を占めているということを証明しています。

聖ヨハネの福音では、私たちの主は私たちに対して、「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい。あなたたちが互いに愛し合うならば、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるであろう」(ヨハネ13章34-35節)とお教えになっています。ファリザイ人たちは、私たちの主がラザロをよみがえらせられる前に、墓の前でラザロに対して示された愛に注目しました。「本当に、どんなに彼を愛しておられたことだろう」(ヨハネ11章36節)。

私たちの主が、深い印象を私たちの霊魂に与えることを望まれるもう一つのものは最後の審判の場面で、私たちは自分がどのように裁かれることになるかについて教えられます。主は、さまざまな悪徳、うそ、盗み、殺人、姦淫などを挙げることをされず、むしろ人がどれほど兄弟愛を実践するのかを重視されます。主は、私たちが隣人の中にキリストを見ることができたかどうか、私たちがキリストへの愛のゆえに隣人を愛し、隣人に対してあわれみのわざを行うことができたかどうかで、私たちを裁かれるのです。私たちの主は、「あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな者の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)ということを、私たちに思い起こさせてくださいます。

私たちは、主が罪びとたちに、また貧しく苦しんでいる人たちに対してどれほど大きな愛を持っておられたかという、私たちの主の完全な模範を見ます。それは、「私は良い牧者で、私は羊のために自分のいのちを捨てる」(ヨハネ10章11節)とか、「友人のためにいのちを与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)というものです。そのあと、十字架上で私たちの主は、処刑人たちのためにこう祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。自分の処刑の瞬間に、まさにその処刑人たちのために赦しを願うとは、信じられないことです。最後の晩餐において、主は奴隷の仕事をされ、弟子たちの足をお洗いになります。私たちの主が死の前に弟子たちにお与えになる最後の遺言は、「私があなたたちにしたことをあなたたちがするようにと、私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)というものです。兄弟愛に関するこれらの美しい言葉を聞き、そのあと、隣人を自分のように愛せよという天主のこの掟に従うカトリック信者にとってのまことの理想を実際に見ることは、胸を打たれることです。




【英語原文】
12th Pent 2019 Korea Osaka
Fr Peter Fortin, SSPX


There are many mentions throughout the liturgical year concerning fraternal charity, but today’s gospel allows an opportunity to treat of this very important commandment of Our Lord.

This Sunday marks the beautiful parable of the Good Samaritan and presents the virtue of fraternal charity as a distinctive sign of the Christian religion. We will look the parable in its literal meaning and learn from the very deep lesson of mercy and love. The Church as a good mother always reminds her children of those things that are of most importance. During the year, fraternal charity comes up many times. One spiritual writer remarks that the Church is constantly reminding us that fraternal charity is what St. John the Apostle, the beloved disciple of Christ, would always remind during his Apostolate. By tradition, he would always exhort his hearers to love one another by saying often “Little children, love one another”. And then he would remind the faithful that “It is the command of the Lord, if it is fulfilled, it is enough”. The Church does the same throughout the year, never tiring to remind the faithful about fraternal charity. We can not take these reminders for granted thinking that it is not necessary. On the contrary the more that the Church stresses a particular point then the more importance must be given.

Our Lord makes us reflect on fraternal charity in a beautiful and forceful manner so that we can grasp the seriousness of the commandment. First, there is the Sermon on the Mount which contains the basic precepts for the Kingdom of God. In the Eight Beatitudes there are two beatitudes treating specifically of fraternal charity. “Blessed are the merciful for they shall obtain mercy,” and “Blessed are the peacemakers, for they shall be called the children of God.” Whenever Our Lord speaks about the fulfillment or perfection of the God’s law, it is concerned with fraternal charity, love of neighbor. St. Paul writes concerning this: “Love is the fulfillment of the law”.

In the Sermon on the Mount, Our Lord shows that the commandments of the Old Law are more perfect and binding in the New Law. Our Lord even points out that in the Old Covenant, the fifth commandment reads: Thou shalt not kill.” In the new covenant this commandment says; “Whosoever is angry with his brother shall be in danger of the judgement”. It does not even mention killing, one cannot hate his brother, nor despise nor to treat in ill manner. In St. John’s Epistle, is written “Whoever hates his brother is a murderer” and no murderer can have part in Heaven. In the Sermon on the Mount, Jesus goes on to say: “You have heard it said ‘An eye for an eye and a tooth for a tooth.’ But I say to you to resist evil; but if one strike on thy right cheek, turn to him also the other.” This sermon by Our Lord proves that fraternal charity has a very special place in the teachings of Our Lord.

In the Gospel of St. John Our Lord instructs us “A new commandment I give unto you, that you love one another, as I have loved you, that you also love one another. By this shall all men know that you are my disciples, if you have love for another.” (John 13:34) The Pharisees had marked the love that Our Lord had for Lazarus outside the tomb before He raised him “See how He love him.”

Another deep impression that Our Lord wishes to leave on our souls is the scene of the Last Judgement, by being instructed on how we will be judged. He does not enumerate the different vices, lying, theft murder or adultery but on how one practices fraternal charity. He will judge us on whether we were able to see Christ in our neighbor, whether we were able to love our neighbor and to perform acts of mercy for our neighbor but out of love for Christ. Our Lord reminds us “Whatsoever you have done to the least of my brethren, you have done to me.”

We see the perfect example of Our Lord, How He had a great love for sinners for those who are poor and afflicted. “I am the Good Shepherd and I lay my life down for my sheep” and “Greater love than this no man has than to lay down his life for His friends.” Then on the cross, Our Lord prays for executioners: “Father, forgive them for they know not what they do.” Incredible, asking pardon for the very executioners at the moment of execution. At the Last Supper, He performs the work of a slave and washes the feet of the disciples. The last testament that Our Lord gives to His disciples before His death, “I have given an example that you may do what I have done to you.” It is striking to hear these beautiful statements on fraternal charity and then to really see the true ideal of a Catholic to follow this commandment of God to love our neighbor as ourselves.



カトリック教会の教えによれば、教皇の不可謬性は常に現実態として常駐しているのではなく、特別の条件がそろったときに教皇が誤りを犯すことを防ぐという限定されたもの

2019年09月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、こんにちは!

今日は、聖伝の典礼暦によると、聖ピオ十世の祝日ですね。

M君の主張する理論(O神父様によるセデヴァカンティズム批判論駁 第一回 2019年8月24日修正アップデート済み)によると、次の三段論法が使われるとのことですね。すなわち、

A)真の聖なるローマカトリック教会とその真の教皇たちは、第二バチカン公会議前のどの期間を取り出してみても、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった。

B)しかし第二バチカン教会(現在カトリックと自称する公会議教会)とその“教皇たち”は異端と誤謬を教えている。

C)従って、第二バチカン教会とその“教皇たち”は真の教会でも真の教皇でもない。

大前提となる、A)が言いたいことは、
「全ての真の教皇は、第二バチカン公会議以前まで、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった」が本当なら、「全ての真の教皇は、常に、誤謬を教える可能性がないし、誤謬を教えない」が予想される、
であると理解します。
何故なら、「全ての真の教皇は、第二バチカン公会議以前まで、異端どころか誤謬さえ教える事が出来なかった」という表現では、M君の言いたいことがうまく言えていないと思うからです。

M君が言いたいことは、次のような論理だと理解します。

大前提
E 真の教会と全ての真の教皇は、常に誤謬を教えることができない。
E 真の教皇と全ての真の教皇は、誤謬を教えたことがない。

従って

E 誤謬を教えることができる者は、真の教会と全ての真の教皇ではない。
E 誤謬をも教えたことがあるものは、真の教皇と全ての真の教皇ではない。

小前提
I ある教会のある教皇は、誤謬を教えることができた。
I ある教会のある教皇は、誤謬を教えた。

結論
O ある教会とある教皇は、真の教会と全ての真の教皇ではない。

ところで、この大前提A)に注目してみると、教皇自身が、私たちの知る限り少なくとも二名(教皇インノチェンテ三世、教皇アドリアノ六世)が、教皇は信仰に関して間違いうるし、異端を教えうるとさえ言っています。

たとえば教皇アドリアノ六世はこう言います。

"... plures enim fuere Pontifices Romani haeretici. Item et novissime fertur de Joanne XXII, quod publice docuit, declaravit, et ab omnibus teneri mandavit, quod animas purgatae ante finale judicium non habent stolam, quae est clara et facialis visio Dei."

「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

なんというパラドクスでしょうか!

真の教会と全ての真の教皇は、誤謬を教えることができないはずなのに、その真の教皇が「真の教皇らが異端者だった」と教えているのですから!

私たちは、教皇の不可謬性を正しく理解しなければなりません。

カトリック教会の教えによれば、教皇の不可謬性は常に現実態として常駐しているのではなく、特別の条件がそろったときに教皇が誤りを犯すことを防ぐという限定されたものです。

M君もご存じの通り、不可謬性は、天主が人間を動かして言わせたり書かせたりする聖霊の息吹(inspiration)ではありません。
また、不可謬性は、天主からの特別な方法による真理の伝達である啓示(Revelation)でもありません。

不可謬性は、天主から既に啓示された真理、つまり信仰の遺産に含まれた真理を守り説明するために、あるものです。

不可謬性は、真理であることを教えるように、あるいは、啓示された真理を擁護するように、教皇に与えられる聖霊の息吹でもありません。

不可謬性は、教皇の考えを真理と善との最終の基準と打ち立てるものでもありません。

不可謬性は、ただ単に、限定された条件の下で、教皇が誤謬を教えることを防ぐだけです。

これらは、M君もよく知っているとおりです。

第一バチカン公会議の最中に、ガッサー司教は、こう答弁しました

「(…)私は答えてオープンに認める。教皇の不可謬性はどのような意味においても絶対的ではない。何故なら、絶対的な不可謬性は天主にのみに属しているからだ。天主こそが、第一の本質的な真理であり、天主は騙すことも誤ることも決してあり得ないからだ。その他のすべての不可謬性は、特定の目的のために伝達されたものとして、その限界と条件があり、その下で不可謬性が存在すると考えられる。ローマ教皇の不可謬性についても、同じことが有効である。何故ならこの不可謬性は、ある制限と条件に縛られているからだ。(…)

(03) Note well. It is asked in what sense the infallibility of the Roman Pontiff is "absolute." I reply and openly admit: in no sense is pontifical infallibility absolute, because absolute infallibility belongs to God alone, who is the first and essential truth and who is never able to deceive or be deceived. All other infallibility, as communicated for a specific purpose, has its limits and its conditions under which it is considered to be present. The same is valid in reference to the infallibility of the Roman Pontiff. For this infallibility is bound by certain limits and conditions. What those conditions may be should be deduced not "a priori" but from the very promise or manifestation of the will of Christ. ...



教皇が不可謬であるための条件は、第一バチカン公会議によって明確に提示されています。第一バチカン公会議は、教皇の不可謬権を正確に定義したからです。第一バチカン公会議はこう教えています

「教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である天主は、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。」

Itaque Nos traditioni a fidei Christianæ exordio perceptæ fideliter inhærendo, ad Dei Salvatoris nostri gloriam, religionis Catholicæ exaltationem et Christianorum populorum salutem, sacro approbante Concilio, docemus et divinitus revelatum dogma esse definimus: Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.
Si quis autem huic Nostræ definitioni contradicere, quod Deus avertat, præsumpserit: anathema sit.
Pastor aeternus, DS 3074

キリストが、教皇の不可謬性を与える条件は、4つあることが分かります。
 すなわち、
(1)教皇は、「全キリスト信者の牧者として教師として」、つまり、個人的な意見を述べるのではなく、教会の頭として、キリストから直接に受けた「その最高の使徒伝来の権威」をはっきりと行使して、宣言しなければなりません。
(2)教皇が宣言する内容は、「信仰と道徳についての教義」でなければなりません。
(3)この「信仰と道徳についての教義」は、教えられるだけではいけません。教皇は「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義する」のでなければなりません。つまり、教義を強制しなければなりません。
(4)この強制は、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。

この項は続きます。

聖ピオ十世!われらのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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