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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します

2019年03月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

四旬節です。人間となった天主イエズス・キリストが私たちのために祈りと償いの模範をしめしてくださっています。よりよく祈るために、トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

トリエント公会議 公教要理 

第2の願い「御国の来たらんことを」

§ I. 天主の御国

51.この第2の願いの対象となっている「御国」とは、実に福音宣教全体の目的かつ終極を成すものです。洗者聖ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた1 」と述べて悔悛を説いたのも、実にこれを端緒としてでした。人類の救い主も、この同じ言葉をもって、福音の宣布をお始めになりました2 。山上で至福の道を弟子たちにお示しになった、かの尊い垂訓においても、「心の貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものだからである3 」と、まず仰って、「天の御国」をみ教えの主題として提示されました。また、群衆が主を引きとどめようとした際も、「私は他の街々にも、天主の御国のよい便りを告げ知らさねばならない。私は、そのために遣わされたからである」と述べて、当地を発たねばならぬ理由とされました。後に、使徒たちに宣布するようお命じになったのも、同じくこの御国に他なりません。また、まず父親を葬りに行く許しを願った者に主は、「行って主の御国を告げ知らせよ4 」とお答えになりました。そして、死者の中から甦られた後、使徒らに40日の間お現れった際も同様に、天主の御国について語られたのです。

52.したがって、司牧者は、この第2の願いの意味するところ、又当の願いがどれほど重要かつ必要なものであるかを、聴衆がよく理解するよう、全力を傾けねばなりません。

53.しかるに、このために司牧者が用い得る最良の手段は、たとえ主祷文において、この願いが他の祈願と合わさっているとは言え、主はこの願いを他の願いから切りはなして、単独で為すようお命じになったという事実を浮き彫りにすることです。実に主は、「まず天主の御国、そしてその正義とを求めよ。しかる後、他の一切はあなたたちに与えられるであろう」と仰り、当の祈願をとおして願うことを、何ものにも優る熱意をもって祈り求めるべきことをお教えになりました。

§ II. この願いに含まれる事柄

54.事実、この願いに含まれる天的賜はかくも大きく、数多いのであり、身体および霊魂の生命を維持するのに必要なもの一切を包含しています。しかるに、自分の王国の利善に関わる事物をなおざりにし、省みることのない者は、およそ王の名に値するとは言えません。さて、人が自らの治める地上的国家について、かくも大きな配慮をなすのであれば、王の王たる天主は、どれほどの摂理と心尽くしとをもって人々の生命と、救霊を始めとした全ての利善をお守りになることでしょうか。

55.したがって、主の御国を求める当祈願の内に、この世での流浪遍歴において私たちに必要となる一切のものが含まれていますが、主はすぐ後に「そしてこれら全てのものは、あなたたちに加えて与えられる」と優しく仰せになって、それらをお与えになることをお約束になります。

56.このように述べて、主は人類の上にあらゆる善をあふれるほど豊かに、かつ寛大にお注ぎになることをお明かしになったのです。ダビドが「主よ、あなたは私の王5 。私に欠くものは何もない6 」と歌うのも、かかる天主の限りない仁愛に思いを馳せてのことに他なりません。

57.しかるに天主の御国を熱心に祈り求めることは、もしそれと同時に、当の御国がそれをとおして探求され、かつ見出されるところの、いわば「道具」とでも言うべきものをことごとく用いるのでなければ、全く不充分です。実際、5人の愚かな乙女も「主よ、主よ、私たちのために扉を開けてください7 」と、しきりに願ったのでしたが、当の願いに伴うべきものが欠けていたために、中に迎え入れられませんでした。しかるにこれは、およそ当然のことであると言わねばなりません。なぜなら主ご自身、「主よ、主よと言う者が皆天の国に入るのではない8 」旨仰せになっているからです。

§ III. 現世が惨苦に満ちたものであること

58.したがって、司牧者は、聖書のかぎりなく豊かな泉から、信徒を天の御国を望み、これをかち得るべく駆り立てるところのものを汲み取る必要があります。

59.この同じ泉から、司祭はまた、信徒にこの世の惨めな境遇に目を開き、かくして我に立ち帰った彼らが、父なる天主の永久(とわ)の住居(すまい)に満ちみてる至福と、筆舌に尽くせぬ数多(あまた)の賜とを思い起こすのに適した章句を、汲み出すことができます。

59.事実、私たちは流刑の地、かつ決して止むことのない憎悪にかられた悪魔のたむろする所に生きる身であり、加えて身体と霊魂、肉と霊との間でたゆまず繰り返される戦いから一時も自由になることがありません。実際、もし天主が、その御腕で私たちをお守りにならなかったならば、即座に倒れてしまうことが必定です。使徒パウロが「私はなんと不幸な人間であろう!この死の体から私を解き放つのは誰であろう!9 」と漏らしたのも、かくも惨めな境遇に耐えかねてのことに他なりません。

60.人類に押しかかるこれほど不幸な境地は、それ自体ですでに明らかですが、他の被造物、自然の事物と比較することによって、一層明白となります。理性、さらには感覚をも欠くこれらの事物の中で、あるものが固有のはたらき、知覚、ないしは動きを為さず、かくして(創造主によって)自らに割り当てられ、定められた目的を逸すると言うことは、およそ稀です。この事実は、地上の動物、および魚、鳥類においてかくも明白であるため、これについてあえて説明するにはおよびません。しかるに、天を仰ぎ見るならば、ダビドの、「主よ、み言葉は永遠のもの、天の如く不変のもの10 」という言葉がいかに当を得たものであるかが分かります。実に、天界は、たゆまぬ運動と果てることのない回転をつづけるものですが、天主によって定められた法則から、片時も外れることはありません。地球および全宇宙を考察するならば、不足をきたすものがどこにも見あたらないか、もしくはたとえあるとしても、甚だ希有であることを認めざるを得ません。

61.しかるに、惨めな人類は、きわめて頻繁に過失を犯し、正道から外れてしまうものです。なぜなら、為すべきことを正しく見てとった際も、これを首尾よく実行に移すことは稀であり、また、手をつけた善業も、往々にしてすぐに嫌気がさし、なおざりにしてしまうからです。さらには、つい今し方まで最良のものと思われた企図も、すぐに気に入らなくなり、これをうち捨てたあげく、恥ずべき、また自らにとって甚だ害となる思惑へと引きずられてしまうことも日常茶飯事です。

62.人の心がかくも変わりやすく惨めなものである理由は何でしょうか。それは天主の霊感に対する軽蔑に他なりません。私たちは天主の警告に耳を閉じ、天主が我々に投じてくださる光に目を上げようとせず、私たちの救いに導く掟をお命じになる天の父の越えに耳を貸そうともしません。

63.したがって、司牧者は信徒の目にかかる人類の惨めな境遇とその原因とを明示し、加えてその治癒策となるべきものを示さねばなりませんが、聖ヨハネ・クリゾストモと聖アウグスチヌスの著作、とりわけ使徒信経の解説中で先に引用したことを参照することによって、容易にこれを果たすことができます。

§ IV. 第2の願いにおいて祈り求めるもの

64.以上の説明をとおして信徒にこの祈願の実り多きことを示した後、司牧者は「御国の来たらんことを」というこの言葉をとおして天主に願うところのものが、何であるかを解き明かす必要があります。事実、「御国」という言葉は多くの意味を含み、これらの意味を説明することは、聖書の当の章句ならびにその他の箇所の正しい理解のために有益、かつ必須であるからです。

さて、「天の御国」という言葉が通常、かつ聖書中しばしば意味するところは、天主が人間および宇宙万物に対して有される権勢ないしは支配権のみならず、同じ天主が全ての被造物を治め律される御摂理(みせつり)をも含みます。

預言者[ダビド]が述べているように、「地の果ては主の御手の中にある11 」のですが、ここで言う「地の果て」とは、地中深く隠れた、あるいは至る所に散在する諸々の事物を指しています。そしてこの意味でこそ、マルドケオは主に向かって「主よ、全能の王である主よ、万物は御身の支配下にあり、なにものも御身の御旨に逆らい得ません。御身は、すべてのものの主であられ、なに一つ御稜威(みいつ)にたてつくことはできません。12 」

「天主の御国」という言葉は又、天主がこれをもって敬虔かつ聖なる者たちを守り、御配慮を注がれるところのきわめて特別な御摂理(みせつり)をも意味します。天主のかかる並外れた別格の御配慮について、ダビドは、「主は私の牧者、私に乏しいものはない13 」と、またイザヤは「我等の王たる主は、おん自ら我等を救い給(たも)う14 」と述べています。

65.先に述べたように、王としての天主の権能は、すでにこの地上において聖(きよ)く敬虔なる者らの上に、特別なかたちで行使されるものです。しかるに、主御自ら、ピラトに、ご自分の王国(みくに)はこの世のものでないこと、すなわち[天主により]創られ、いつの日か滅びるべきこの世に、いささかも由来するものでないことを、諭(さと)しておられます。なぜなら主は、諸々の君主、共和国、ないしは首長がするように、あるいは人民による要請又は選出を受けて地方、国家を治める者のように、あるいは武力によって力ずく主権を奪取する者が為すような仕方で統治されるのではないからです。

66.しかるに主キリストは、預言者ダビドが著しているように、天主御自らによって王と定められたのであり15 、又使徒パウロが教えるように、その統治は正義に他なりません16 。「天主の御国は正義と平和、聖霊による喜び17 」であるからです。

67.しかるにキリストは私たちの中(うち)に、信仰、希望、愛徳という内的な徳をとおして統治されます。これらの諸徳をとおしてこそ私たちは、ある意味で御国の一部を成すもの、天主に特別な仕方で従属するもの、かつその礼拝と崇敬とに奉献されるものとなるのです。かくして、使徒パウロが「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の中に生きておられる18 」と述べているように、私たちも「私は統治するが、もはや私ではなく、私の中におられるキリストが統治されるのである」と言うことができるのです。

68.しかるにこの統治は正義と呼ばれるのですが、これはかかる統治が主キリストの正義を基盤として存立するものだからです。その意味でこそ、主は聖ルカによる福音において「天主の御国はあなたたちの中に在る19 」と仰せられたのです。

なぜなら、たとえ主イエズス・キリストは信仰をとおして、いと聖き母なる教会の懐中にある者皆において統治されるとは言え、しかるに秀でた信仰、希望、愛徳を有して、自らをいわば清い、生きた肢体として天主に捧げる者らを、特別なかたちで統治されるのであり、このような者たちにおいてこそ、天主の恩寵の御国が存すると言われるのです。

しかるに「天主の御国」は、栄光の御国でもあります。主が聖マタイによる福音書で、「私の父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちのために準備されていた御国を受けよ20 」、と仰せられた際、「御国」という言葉で示しておられるのは、この意味での御国に他なりません。又、聖ルカによる福音書中で、[善い]盗賊が自らの罪を真摯(しんし)に認め、「主よ、御国に至られるとき、私のことを思い起こしてください 21」と願ったとき、さらには聖ヨハネが福音書中で、「もし人が水と霊とによって生まれなければ、天主の御国に入ることはできない22 」という主のみ言葉を記す際も、同様に栄光の御国が問題となっています。使徒パウロも又、エフェゾ人への書簡中で、この意味での御国を念頭に置いて「淫行を為す者、汚れた者、吝嗇(りんしょく)の者は皆―これは偶像崇拝者と同じであるが―、キリストと天主との御国を嗣(つ)がない23 」と述べています。最後に、主が「天の御国」について語られたたとえのいくつかも、この意味での御国に該当します24 。

69.しかるに、まず第一に恩寵の御国が私たちの中(うち)に築かれることが必要です。なぜなら天主の恩寵がまず統治しない者において、同じ天主の栄光が統治するということはあり得ないからです。

70.さて恩寵とは、主ご自身の御言葉によると、永遠の生命にわき出る水の泉に他なりません。25

71.しかるに栄光について言えば、これが、完全かつその究極に達した恩寵でなければ何でしょうか。

72.事実、私たちがこの脆(もろ)く死すべき身体をまとい、この流滴(るたく)の地で、か弱く、天主から遠く隔たりつつも、薄暗い[天の祖国への]道をさまよい歩く間、私たちを支える恩寵の御国の助力を拒むために、しばつまずき倒れてしまうのです。しかるに[天において]、完全な御国である栄光の御国の光明が私たちの目に輝くとき、そのとき私たちは、[善と完徳との中(うち)に]堅く揺るがず、永久(とわ)にふみ止(とど)まるのです。かくしてあらゆる悪徳、不便、厄難(やくなん)は消え去り、脆弱(ぜいじゃく)なるもの全ては、減じ得ない力に取って代わられ、天主は私たちの霊魂と身体の中に統治されるのですが、この点については、使徒信経中の肉体の復活について述べた際、すでに詳しく説明しました。

73.以上、「天主の御国」という言葉の通常の意味を説明した後、「御国の来たらんことを」という祈願が特に意味するところを解説する必要があります。

しかるに、この祈願で私たちは、キリストの御国、すなわち教会が広がり、異教徒とユダヤ教徒が主キリストへの信仰に立ち帰って真の天主を認め、かつ離教者ならびに異端者が正気に返って、袂(たもと)を分かっていた天主の教会の交わりに戻るよう祈るのですが、これは、預言者イザヤの口をとおして主が述べられた次の言葉の実現・成就を祈り求めることに他なりません。「汝の幕屋の内陣を広げ、惜しみなく住まいのはり布を張り、[敷地を囲う]綱を伸ばし、杭をしっかりと打ち込め。汝は右と左とに押し進む。汝の造り主が汝の主となられるからである。26 」又、「民々は汝の光明(ひかり)の下に歩み、全ての王は汝より出づるかがやきに往かん。目を上げて見回せ。彼らは皆集いて汝に来たれり。汝の子らは遠くより来たり、汝の娘らは傍(かたわ)らより起きん。27 」しかるに教会には、口で天主[の名]を公言しつつも、行いによってこれを否み28、不全な信仰を持ち示す者たちが見出されます。悪魔は、罪の結果として、これらの者の中にあたかも己(おの)が住居(すまい)であるかのように住みつき、支配するにいたります。したがって私たちは、彼らにも天主の御国が訪れて罪の暗闇を押し払い、かつ神的な光明によって照らし、天主の子らの原初(はじめ)の尊厳に立ち戻すよう求めるのです。さらに、天の御父がその御国から、あらゆる異端者、離教者を駆逐し、かつ一切のつまずきならびに罪悪の元となるものを除き去って、教会という麦打場(むぎうちば)を浄められ、かくして当の教会が敬虔かつ聖なる礼拝を天主に捧げつつ、安寧で静寂な平和を享受する恵みを願うのです。

最後に、天主が私たちの中に、唯独り生き、かつ支配され、もはや死がその権利を再び求めることなく、却(かえ)って私たちの主キリストの勝利によって打ち滅ぼされること、又主があらゆる敵対者の主権、支配、勢力をく覆(くつがえ)して、全てをご自分の支配下に置かれることを祈ります。

§V.この祈願を為す際に持つべき心境

74.さて司牧者は、信徒がこの祈願を唱える際、いかなる思いと心構えとをもって、当の祈りを敬虔に天主に為すべきかを教示せねばなりません。そのためまず、救い主がお示しになった次のたとえの意味と含蓄とを推し量るよう促すべきです。「天の御国は畑にかくされている宝のようである。宝を見出す人は、それをかくして大喜びで去り、持っている物を全部売って、その畑を買う。29 」

75.このように、主キリストの富を知る者は、かかる宝のために一切を疎(うと)んじ、その目には、財産、所有物、権力などことごとく、価値のないものと化します。事実、この至上の宝に比較し得るもの、その傍(そば)に置くにさえ値するものは何一つありません。したがって、当の宝を知った者たちは、使徒パウロと声を合わせて叫ぶのです。「実に、イエズス・キリストを知るというすぐれたことに比べれば、[その他のことは]何によらず損だと思う。私はキリストを得るために、一切のものを捨て、これを芥(あくた)にすぎぬものと見なす30 」。これこそ福音の語る貴い真珠に他なりません31 。これを見出し、所持品一切を売り払ってこれを買う人は、たえることのない至福に与るのです。

76.もし主イエズス・キリストが、かかる天主の恩寵の真珠を見出し得るよう、私たちの心を照らしてくださったならなんと幸いなことでしょう。実に、この真珠によって主はご自分に属する者らの中に統治されるのです。この真珠を買い、これを保つために、私たちの持てるもの一切を売り払い、また私たち自身をも捧げ尽くすことを辞すべきではありません。このような気構えを持ってこそ、始めて私たちは、ためらいなく、「誰がキリストの愛から私たちを離すことができるだろう 」と言うことができるのです。しかるに、栄光の御国がいかに並外れて卓越したものであるかを知りたければ、預言者と使徒パウロが声を合わせて言っている言葉に耳を傾けましょう。「天主が、ご自分を愛する者たちのために準備されたことを、目はまだ見ず、耳はまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばない」のです33 。

77.また、願うことを得るために、私たち自身がいかなる者であるかを思いなすことも、たいへん有益です。すなわち我々は、アダムの子孫、かつ正義に即して楽園から追い出され、流刑(るけい)の地にある者、その卑賤(ひせん)で邪(よこしま)な性(さが)は、天主にこの上なく忌み嫌われ、永遠の罰を受けるに値する者であります。

78.このことを思えば、私たちは謙虚で恐縮しきった心持ちになり、私たちの祈りはキリスト教的謙遜に満ちたものとなるでしょう。

こうして私たちは、一切の自負をふり捨てて、福音書の徴税人の如く、天主のおん憐れみに寄りすがるのです。

そして、その仁愛に一切[の善]を帰して、私たちに「アッバ、父よ」とあえて叫ぶことを得しめる、ご自分の霊をお与えくださった天主に、永久(とわ)の感謝を捧げましょう。

しかる後、天の御国に至るために何を為すべきか、また何を避けるべきかを知るための配慮と心遣いとを抱かねばなりません。なぜなら天主は怠惰で無為な生活に私たちをお呼びになったのではないからです。反対に、主は、「天の御国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う34 」ことを示され、また「もし命に入りたければ、掟を守れ35 」とお命じになっておられます。

79.したがって、もし人が熱意(おもい)と努力(ちから)を尽くすことなく、ただ天主の御国を祈り求めるならば、これは全く充分ではありません。天国へと至る道程における天主の恩寵の使役者かつ協力者となるべきだからです。

天主は、私たちと共にたえず留(とど)まられることをお約束になった以上、けっして私たちをお見捨てになることがありません。したがって、ただ私たちが恐れるべきなのは唯一つ、すなわち天主をすて去ること、そしてそのことをとおして、私たち自身を見放してしまうことです。 

80.事実、天主の教会というこの御国にこそ、人間の生活を守り、永遠の救いを全うするために必要なもの全てが含まれます。すなわち目に見えぬ天使たちの大群、および天的な力に満ち満ちた諸秘蹟の賜です。天主が私たちのために定め置かれたこれらの助力はかくも強大であるため、これによって私たちは、きわめて凶暴な敵の支配から免れるのみならず、当の暴君36 ならびに彼の忌まわしい手先の者皆を打ち倒し、踏みにじることができるのです。

81.したがって天主の霊に、一切をその御旨に即して果たすことを私たちに命じ給うよう、またサタンの支配を打ち砕き、殊に臨終の際に私たちの上にいかなる権勢をも有しないよう、きわめて深い熱意をもって祈り求めましょう。又、主キリストが何処(いずこ)にても勝利を収め、その法と則(のり)とが全地で守られ、誰一人これを裏切り、あるいはその軍陣から離れ去る者のないことを、却(かえ)って皆が王たる天主の御前(みまえ)にためらいなく進み出、彼らのために永遠の昔から定められた天の御国を受け、彼処(かしこ)にて主と共に永久(とわ)の至福に与ることができるよう心から願い求めましょう。


1 マタイ 3章2節
2 マタイ 4章17節
3 マタイ 5章3節
4 ルカ  9章60節
5 詩編のこの一節は、ふつう「(主は私の)牧者」と訳されるが、ギリシャ語原文で用いられている語は、「牧者」のみならず「王」ないしは「(牧者のように)民を統治する者」一般を指す言葉であり、当要理が「王」と訳するのは、これをふまえてのことである。
6 詩編22 1節
7 マタイ 25章11節
8 マタイ 7章21節
9 フィリピ人への手紙 3章8節
10 詩編18 8節
11 詩編94 4節
12 エステル4章17節
13 詩編22 1節
14 イザヤ書 32章22節
15 詩編2 6節
16 訳者注 すなわち完全なる正義の具現に他ならないということ。
17 ローマ人への手紙14章15節
18 ガラツィア人への手紙 2章20節
19 ルカ 17章21節
20 マタイ 25章34節
21 ルカ 23章42節
22 ヨハネ 3章5節
23 エフェゾ人への手紙5章5節
24 マタイ 13章
25 ヨハネ 4章14節
26 イザヤ書 54章2節以下
27 イザヤ書 60章3-4節
28 ティトへの手紙1章16節
29 マタイ 13章44節
30 フィリピ人への手紙 3章8節
31 マタイ13章45節
32 ローマ人への手紙 8章35節
33 イザヤ書 53章3節/イェレミア 3章16節/コリント人への前の手紙 2章9節
34 マタイ 11章12節
35 マタイ 19章17節
36 サタンのこと。

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