Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 9月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


9月 主の十字架を賞賛しましょう。
意向:カトリック教会が聖伝に立ち返るため
実践すべき徳:苦行
守護の聖人:聖ピオ十世

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 9月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  9月1日(主)聖霊降臨後第12主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月2日(月)証聖者聖ステファノ王(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭

  9月6日(初金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月7日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月29日(主)大天使聖ミカエル(1級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月30日(月) 教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモ(3級祝日)白
          午前6時 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  9月8日(主)聖霊降臨後第13主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  9月9日(月)日本205福殉教者(3級祝日)赤
          午前7時 ミサ聖祭

  9月29日(主)大天使聖ミカエル(1級祝日)白
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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教皇の不可謬性の行使の条件:教皇が「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義」し、「全教会」が信じるべきものとして、全教会に向けて、教義を信じるように強制すること

2019年09月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、
こんにちは!教皇が不可謬性をキリストから受けえるさらに別の条件に、次があります。

●教皇は「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義」して、教義を信じるように強制しなければなりません。

●さらに、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。

もしも教皇が、全世界の教会(普遍の教会 Universal Church)に対して、教義の定義を明確にせずに、教える場合にはこの条件を満たすことが出来ません。従って、誤りの可能性を除外することが出来ません。

「信じるべき教えを定義する」
信仰の内容を明確に、読み、理解し、信じることが出来るように言い表すこと、これが定義です。

たとえば、今日流行の「エキュメニズム」「信教の自由」「良心の自由」「第二バチカン公会議の精神」などは、一体何なのか、明確な定義がありません。曖昧な概念にすぎません。
もともと、第二バチカン公会議の新しい教えは、啓示された信仰の遺産ではありませんが、もしもたとえそうであったとしても(M君のために繰り返すが、本当はそうではない)、曖昧な概念のままでは、不可謬の対象にはなりません。

ピオ九世が、無原罪の御孕りのドグマを定義したとき、「無原罪の御孕り」とは何かをはっきりと定義しました。

「いとも聖なる童貞マリアが、その御孕り(受精)の最初の瞬間において、人類の救い主であるイエズス・キリストの功徳を先見し、全能の天主によって授与された特別の聖寵と特権により、現在のすべての汚れから免れていたという教えを、天主によって啓示された教えであり、従ってすべての信徒によって固くかつ常に信じられなければならないと、私は宣言し、発表し、定義する。」(Ineffabilis Deus, ピオ九世 1854年12月8日)

Declaramus, pronuntiamus et definimus doctrinam quae tenet beatissimam Virginem Mariam in primo instanti suae conceptionis fuisse singulari Omnipotentis Dei gratia et privilegio, intuitu meritorum Christi Jesu Salvatoris humani generis, ab omni originalis culpae labe praeservatam immunem, esse a Deo revelatam, atque idcirco ab omnibus fidelibus firmiter constanterque credendam.

あるいは、例えば、トリエント公会議では、「全実体変化」という言葉について、明確に定義しました

第4章 全実体変化について
Dz1642(877)私たちの贖い主キリストは、パンの形色のもとでささげたそれを(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)正に自分の体であると仰せられたので、天主の教会において常に確信されたことをも、この聖なる公会議は、今繰返して宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖別によって、パンの全実体は私たちの主キリストの御体の実体と変化し、ブドー酒の全実体は主の御血の実体に変化する。この変化は、聖なるカトリック教会によって、相応しく且つ適切に、全実体変化と言い表わされた(第2条)。

Quoniam autem Christus redemptor noster corpus suum id, quod sub specie panis offerebat (cf Mt 26.26ss; Mc 14.22ss; Lc 22.19s; 1 Co 11.24ss), vere esse dixit, ideo persuasum semper in Ecclesia Dei fuit, idque nunc denuo sancta haec Synodus declarat: per consecrationem panis et vini conversionem fieri totius substantiae panis in substantiam corporis Christi Domini nostri, et totius substantiae vini in substantiam sanguinis ejus. quae conversio convenienter et proprie a sancta catholica Ecclesia transsubstantiatio est appellata (can.2).

“By the consecration of the bread and wine there takes place a change of the whole substance of the bread into the substance of the body of Christ our Lord and of the whole substance of the wine into the substance of his blood. This change the holy Catholic Church has fittingly and properly called transubstantiation” (Session XIII, chapter IV).

Dz1652(884)2条。いとも聖なる御聖体の秘跡において、パンとブドー酒の実体が、私たちの主イエズス・キリストの体と血とともに残ると、もしも誰かが言ったとするなら、また、パンとブド一酒の形色だけは残しつつも、パンの全実体が御体に、またブドー酒の全実体が御血になるというかの素晴らしい変化(この変化をカトリック教会は、極めて適切に全実体変化と呼ぶ)を否定したとするなら、彼は排斥される(DzS1642参照)。

2. Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistiae sacramento remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri lesu Christi, negaveritque mirabilem illam et singularem conversionem totius substantiae panis in corpus et totius substantiae vini in sanguinem, manentibus duntaxat speciebus panis et vini, quam quidem conversionem catholica ecclesia aptissime transsubstantiationem appellat: anathema sit.

“If anyone denies that in the sacrament of the most Holy Eucharist are contained truly, really and substantially the body and blood together with the soul and divinity of our Lord Jesus Christ, and consequently the whole Christ, but says that He is in it only as in a sign, or figure or force, let him be anathema” (Session XIII, Canon I). 43

以上の例から、カトリック教会が教えを定義するやり方を見ることが出来ます。もしも教皇や公会議が教義を定義することをしないなら、つまり、信ずべき内容についての明確で決定的な説明を与えないなら、不可謬性を行使したとは言えません。不可謬権の行使のために必要なことは、教皇が、決定的で信じなければならないことを、明確に、表明するという意図です。それがあった場合、教皇が一人であれ、あるいは、公会議の文脈であれ、不可謬性によって誤謬から免れている、ということです。

しかも、そのようにして不可謬性を行使した教えを含む文書全体に、不可謬性が必ずしも適応されるとは言えず、その教義決定のあるその部分だけに掛かっているだけです。

詳しくは、Dogmatic Theology, Volume II, Christ's Church, by Monsignor G. Van Noort, S.T.D.の次の部分をご覧ください。一部を引用します。

The teaching office of the Church or, as they say, “the teaching Church,” is made up of those to whom God entrusted the right and the duty to teach the Christian religion authoritatively. The words “in matters of faith and morals in such a way as to require of everyone full and absolute assent” are included in the proposition because, according to Catholic teaching, the Church's rulers are infallible not in any and every exercise of their teaching power; but only when, using all the fulness of their authority, they clearly intend to bind everyone to absolute assent or, as common parlance puts it, when they “define” something in matters pertaining to the Christian religion. That is why all theologians distinguish in the dogmatic decrees of the councils or of the popes between those things set forth therein by way of definition and those used simply by way of illustration or argumentation. For the intention of binding all affects only the definition, and not the historical observations, reasons for the definition, and so forth. And if in some particular instances the intention of giving a definitive decision were not made sufficiently clear, then no one would be held by virtue of such definitions, to give the assent of faith: a doubtful law is no law at all.

従って、もしも、カトリック教会が、教皇が(あるいは公会議が)全教会にある特定の教えを強制しようとしたのか疑問に思い、論争し、果てしのない議論が続くようなとき、そのような教えは不可謬性を帯びているとは言えません。法であるか否か疑いのある法は、法ではないからです。

聖伝にしたがえば、この教えを強制するということを明確にするためによく使われるのが、anathema sit (彼は排斥される)です。つまり、もしも誰かがこれこれしかじかのことを信じないなら、あるいは、否定するなら、破門される、信仰を失ったことになる、という表現です。

第二バチカン公会議には、このような、明確な強制の表現はありませんでした。
したがって、第二バチカン公会議は、不可謬性を行使したわけではありませんでした。

この項は続きます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

コメント

M君らしい質問と願いに答える

2019年09月11日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

M君の質問とお願いを拝見しました。相変わらず君らしい質問でしたね。

なぜなら、第一に、内容よりも、どこから引用したのかと引用元に興味を示しているからです。

まず、M君の質問に答えましょう。
『参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

M君は、これの引用元を尋ねましたね。

 Monsignor Van Noort は、その有名な『キリストの教会』Christ's Church という本の中でそう言っています。

Dogmatic Theology, Volume II, Christ's Church, by Monsignor G. Van Noort, S.T.D.は、ここでも読むことが出来ます。

その本の中で、Van Noort は、不可謬性の「副次的な対象」について説明しています。(Christ's Church p110を見てください。)繰り返して言えば、不可謬性の第二の対象(副次的対象)とは、天主によって主要に(formally)啓示されたものではないが、啓示された遺産に緊密に関係している事柄です。

煩わしくなるので、Van Noort の説明の一部を引用します。詳しくは、上記のリンクをインターネット上でご覧ください。

One can easily see why matters connected with revelation are called the secondary object of infallibility. Doctrinal authority and infallibility were given to the Church's rulers that they might safeguard and confidently explain the deposit of Christian revelation. That is why the chief object of infallibility, that, namely, which by its very nature falls within the scope of infallibility, includes only the truths contained in the actual deposit of revelation. Allied matters, on the other hand, which are not in the actual deposit, but contribute to its safeguarding and security, come within the purview of infallibility not by their very nature, but rather by reason of the revealed truth to which they are annexed. As a result, infallibility embraces them only secondarily. It follows that when the Church passes judgment on matters of this sort, it is infallible only insofar as they are connected with revelation.

Van Noort は、次の5つの事柄が、不可謬性の副次的対象であると列挙しています。

1. 神学的結論 theological conclusions;
2. 教義的事実 dogmatic facts;
3. 教会の一般的規律 the general discipline of the Church;
4. 修道会の承認 approval of religious orders;
5. 列聖 canonization of saints.

(繰り返します。もちろん、別のサイトから全文コピペすることが出来ますが、煩わしいので、ここでは一部だけを引用します。もしも疑う場合には、上記のサイトをご覧ください。)

When theologians go on to break up the general statement of this thesis into its component parts, they teach that the following individual matters belong to the secondary object of infallibility:
1. theological conclusions;
2. dogmatic facts;
3. the general discipline of the Church;
4. approval of religious orders;
5. canonization of saints.

Assertion 1: The Church's infallibility extends to theological conclusions. This proposition is theologically certain.

Assertion 2: The Church's infallibility extends to dogmatic facts. This proposition is theologically certain.

Assertion 3: The Church's infallibility extends to the general discipline of the Church. This proposition is theologically certain.

Assertion 4: The Church's infallibility extends to the approval of religious orders. This proposition is theologically certain.

Assertion 5: The Church's infallibility extends to the canonization of saints. This is the common opinion today.

第二に、M君らしいと思ったのは、私が発言していないことを発言したと読もうとする(読んでいる)、からです。これは、M君の三つの質問全てに言えます。そして、別の意味に理解して、それはどこに書かれているのか?と尋ねています。

例えば、最初の質問です。

『副次的対象については、カトリック教会が不可謬的に決定することが出来るか否かを第一バチカン公会議で取り上げる予定でした。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

これを素直に読めばわかるように、私の主張したことは次です。

「カトリック教会は、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来るか否かを宣言することがありませんでした。ですから、これについては、信仰の内容(de fide)ではなく、神学的に確実(sententia certa)であると考えられているだけです。」

つまり、

「"カトリック教会が、副次的対象について、不可謬的に決定することが出来る"ということは、神学的に確実(theologically certain)であるが、信仰の内容(de fide)ではない。」

ということです。上の命題の内容が、M君の理解した次の内容と異なっていることに気が付きましたか? 私の主張は「確実性の程度」の議論です。

しかし、M君はこう理解しました。
「副次的対象については教会からの決定が未だ出ていない、だから列聖、規律、教会法の不可謬性については信じる必要性がない」

M君の理解は、「信じる必要性」があるかないかです。この違いが分かりますか?


第二の質問ですが、やはり、私の言っていない別のことを読もうとしています。猜疑心からかな?

『参考までに、Van Noort の意見によると、列聖が不可謬であるということは、神学的に確実(sententia certa)よりも低い確実性の、共通意見(common opinion)に位置づけています。』(2019年9月13日(ママ) クレディディムス 掲載文)

という文章を読めばわかるように、

Van Noort は、カトリック教会の不可謬性が列聖にまで及ぶ、というのは、共通意見である、と位置付けている。
Assertion 5: The Church's infallibility extends to the canonization of saints. This is the common opinion today.

これが私の主張です。

少なくとも、Van Noort は、自分自身の主張はともあれ、その本では「カトリック教会の不可謬性が列聖にまで及ぶ」という主張は、共通意見であると述べている、です。つまり、すくなくとも、神学者たちの意見の中で確実性が少ないことは同意しています。

この理解が、M君の次の理解と違っていることが分かりますか?

「彼(Van Noort)は『列聖の不可謬性には絶対的確実性がない』というニュアンスでそう言っている」

M君の理解は、Van Noort 自身の立場についてです。


第三の質問も同じです。アドリアノ六世の言った言葉を私は引用しました。

『たとえば教皇アドリアノ六世はこう言います。
"... plures enim fuere Pontifices Romani haeretici. Item et novissime fertur de Joanne XXII, quod publice docuit, declaravit, et ab omnibus teneri mandavit, quod animas purgatae ante finale judicium non habent stolam, quae est clara et facialis visio Dei."

「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

なんというパラドクスでしょうか!』(2019年9月03日 クレディディムス 掲載文)

まず、よく読んでください。そこに書かれていることは、次のことです。

教皇アドリアノ六世は、次のように発言した。すなわち「複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。」と。

アドリアノ六世の言ったラテン語を直訳しただけです。

「煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼(=教皇ヨハネ二十二世)は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」と、アドリアノ六世が説教しています。

この引用元については、2019年8月30日付けの「教皇は個人的に異端に陥り得るか? 教皇は公然と異端を主張し得るか? 教皇インノチェンテ三世、教皇アドリアノ六世、ドミンゴ・デ・ソト、サレジオの聖フランシスコらの主張は?」に詳しく書かれています。よくご覧ください。

ラテン語は、ボシュエ全集 p. 20に引用されています。

Oeuvres complètes de Bossuet:XXVIII.
De Adriano VI cur privatim dicendum : unus rem totam conficit : ejus jam Pontificis recusus Romæ liber retractatione nulla.

教皇ヨハネ二十二世については、もちろん、詳しくお話するつもりです。
ただし、別の機会に改めて、詳しく、書きます。もともとそのつもりでした。

M君には、アドリアノ六世の言った言葉の内容も考えていただきたいと思います。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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