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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十章 家族全員の殉教者

2011年12月27日 | カトリックとは
第五十章 家族全員の殉教者

教皇ヨハネ・パウロ二世は、一世紀か二世紀前に亡くなった百二十五人の中国の殉教者を列聖しました。今日、中国でカトリックの信仰のための宗教の自由はまだ無く、中国のカトリック教徒は、その信仰の為に捕われて死ぬことが続いています。私は、より多くの前世紀における殉教者が、最終的にはバチカンによって列福及び列聖されることを確信しています。

 私は異教徒の家族に生まれましたので、私が洗礼を受けた後に主任司祭は、ある熱心な家族に私の世話をするように頼みました。この家族の主は、上海にある聖ペテロ教会の教区民である沈多才さんでした。彼は電気会社の技師として働いていました。彼は4男1女をもうけました。一九五五年に大きな政治的な嵐が上海教区を覆い、沈さんは逮捕されました。彼らは自分たちの信仰を放棄するつもりはなかったので、息子である楽天と楽平、そして彼の一人娘である梨霞もまた逮捕されました。沈夫人は、彼女の夫と二人の息子、そして一人娘が逮捕された夜を、次のように回想しています。夫が連れ去られようとした時、彼女は熱心に説きました。「天主様を信じ、勇気を出して。私たちは天国で再び会いましょう」その時点から、沈夫人は経済や精神上の苦難の多くに耐えました。他の二人の息子である楽安と楽仁は、自宅で母親と一緒にいましたが収入は無く、親戚や近所の人の重圧はトラブルをもたらしました。沈夫人は彼女の悲惨な経済状況にもかかわらず、労働改造所にいる自分の家族のために、日用品を郵送しに郵便局へ行きました。受取人が労働改造所の「囚人」でしたので、彼女が小包を送ろうとする度に、郵便局の局員は絶えず彼女を侮辱しました。彼らは、沈夫人に小包を調べるために何度も開封するように要求しましたが、その侮辱にも拘わらず、彼女は限りの無い忍耐と勇気で、彼らに恐れを見せませんでした。このことで、郵便局員は彼女の忍耐強さと親切さに感動するようになりました。この自分の家族への完全な忠実さにもかかわらず、沈夫人はほかの母親に労働改造所に何を送るかを助言し出しました。例えば、朱樹徳神父様の母親は労働改造所に4人の子供がいましたので、朱夫人に付き添ってかけがえの無い支援をしました。

 一九六八年に文化大革命が始まってからは、「反革命分子」の家族は、常に深刻な攻撃の下にありました。彼らは公の場でレッテルを張られて引きずり回され、そして殴られました。家族が耐えていた物理的および精神的な拷問は、筆舌に尽くし難いものでした。激しい迫害のために多くが自殺しました。沈夫人と彼女の二人の息子は、文化大革命の犠牲者の中に入っていました。共産主義者は彼女の手の両方を縛って、昼夜と彼女に責め苦を与え、二人の息子も見逃しませんでした。年上で先天性の心臓病で苦しんでいた楽安は、責め苦を受けている間に心臓発作を起こして亡くなりました。沈夫人は断固として、自分の全ての悲しみと痛みを天主様と聖母に捧げました。彼女は革命を生き延び、後にアメリカに来て今もそちらにいる自分の末の息子である楽仁と住んでいました。一九八〇年になってからやっとのことで、およそ三十年後の刑期の後に、彼女の二人の息子である楽天と楽平は、労働改造所から釈放されました。肉親との再会の直後に、沈夫人は肝臓癌であると診断されました。私は彼女を訪れたとき、彼女は非常に穏やかで喜びに満ちていました。「私は天主様に全てを感謝します。共産主義者は、私が自分の信仰を否定するように強制するために、あらゆる方法を試みましたが、私は彼らの拷問には屈しませんでした。私は怖くはありません。今、私は二人の息子が戻ってくるのを見ました。私は安らかに死ぬように祈る他に、何も望みません」彼女が死んだとき、彼女はとても安らかでした。私は、天主様が彼女の苦しみに報いられたと信じています。

長男の楽天は、地下教会のカトリックの司祭でした。一九五五年に逮捕された後、彼は司教様が「反革命分子」であると批判することを拒否しましたので、労働改造所に留まりました。彼は、カトリック教徒が政府を否定しているのではなく、共産主義者がカトリック教徒を否定していると発言したので、飢えによる処罰を受けました。食べ物や水無しの七日間後、彼は耳、鼻、目、口、そして肛門から出血し始めました。看守は、最後の殉教者である張伯たち神父様が、自分の死によって多くの不信心者を改宗させましたので、彼が殉教者として死ぬのではないかと恐れました。楽天は水を与えられ、生きて家に帰されました。

 共産党は沈一家の家を取り上げ、残る四人の家族を、総面積百平方メートルの狭い部屋に置きました。共産主義の罪を贖うために、楽天は自宅で毎日数回のミサを捧げました。彼らが滞在する部屋は、居住場所となるようには設計されていませんでした。そこは三階建ての建物の屋上にあるテラスから、粗雑に改築されました。そこを訪問するために、私は古くて倒れそうな階段を上り、一段毎に、まるで階段が壊れるかのような騒しくきしむ音がしました。自分たちのカトリック信仰のために奪われた彼らの美しい家と比較すると、屋根裏部屋は生き地獄でした。しかし、沈一家に不満はありません。屋根裏部屋は屋根の上に位置していましたので、下に住んでいた家族からの料理の煙が立ち込めていました。煙を吸い込んで数年後、楽天は喀血し、病院の緊急治療室で静かに亡くなりました。

 沈家の一人娘の名前は梨霞で、洗礼名はテレサでした。信仰の為に青海省まで流され、そこで乳癌であると診断されました。梨霞は自分の痛みを素晴らしい御恵みと共に耐えました。多くの信者は、彼女が自分の痛みを天主様の賜物として受け入れたことに心を打たれ、彼女を上海教区の小さな白い花と呼びました。彼女の癌の痛みへの忍耐は、何人かの異教徒を改心させました。

 もう一人の息子である楽平は、屋根裏部屋に住んでおり、四つの骨壷が置かれていました。遺骨は彼の母親、楽天、楽安と梨霞のでした。彼の父親の亡骸は全く見付かりませんでした。そうでなければ、五番目の骨壺があったでしょう。五人は皆、信仰の為に死んだのでした。屋根裏部屋は、葬儀場のように見えました。楽平は収入が無く、親戚は皆、彼を見捨てていました。もちろん、彼には骨壷を墓地に置くために費用を払う余裕はありませんでした。私が楽平に、墓地を探して骨壺全部を埋葬するべきだと提案すると、彼は同意し、とうとう墓地を探し当て、家族四人の骨壺を埋葬しました。楽平もその死後にそこに埋葬されました。

 楽平がこの世を去る前、上海で戸籍も仕事も無いままに屋根裏部屋に留まりました。戸籍がなかったので、食料と交換するための食料配給券を手に入れることは出来ませんでした。当時、全ての日用品は、配給券によって供給されていました。百グラムの油や小麦粉を買うのに、同じ価値の配給券が要求されました。どうしたことか、楽平は全く心配しませんでした。彼は授業料無しに英語を教え、彼の教え子がくれる食料で生活しました。彼は英語を教えると同時に、教理を教えました。彼の教え子が食料をくれる度に、楽平は乏しい食料を自分の近所のおばあさんと分けるか、またはおじいさんとビタミン剤を分けました。この人は、いつも他人を気にかけ、自分自身のことは気にかけませんでした。彼が亡くなる数ヶ月前、その両足はすで象の足のように腫れていましたが、なお自転車に乗って、お年寄りの家まで食べ物を届けました。どうして、私たちが彼を愛さずにいられるでしょうか?

沈一家は聖なる家族でした。彼らは上海のカトリック教徒の誇りでした。彼ら家族の物語は、歴史に記録されるべきです。家族全体でカトリック信仰の為に死に、そして彼らはいつの日か、ローマで列福されることになるでしょう。実のところ、沈さんが遠く離れた青海省の労働改造所で、どの様に亡くなったかは未だに謎です。労働改造所の看守は、彼がそうであったという証拠もないままに、肺炎で死亡したと家族に伝えました。何年か後に、労働改造所から戻って来た「囚人」が涙ながらに、何が起こったのかを楽平に語りました。冬のある雪の夜、沈氏は目を覚ますと、小便をするために自分の眠っている場所から外に行きました。衛兵は脱出を試みたと考え、彼を撃ちました。事実、意図的にその孤立のために選ばれた労働改造所は、冬には何キロもの雪で囲まれています。ですから、誰もが脱出しようと思っても、そこには生き残るための術は無いでしょう。飢死や凍死だけが、起こり得る結末でした。しかし、天主様は私たちの尊敬すべき殉教者に、起きたことを御ゆるしになりました。沈さん、どうか私たちのために祈って下さい。

 沈一家は長い間、私が弱くて混乱し、そして落胆していた時に、私を導いて下さいました。私は毎日、彼らの天主様への愛を言葉だけではなく、行いで模倣したいと思います。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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