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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十三章 ピラトの前に立って

2011年12月20日 | カトリックとは
第四十三章 ピラトの前に立って

ポンシオ・ピラトの前に立ち、罪のないイエズス様は死を宣告されました。イエズス様は使徒たちに、同じように拷問と侮辱を謙遜に受け入れるように求められました。一九五八年に十五年の刑を宣告された時、そして労働改造所での看護人として働いた時に、私は自分の人生で拷問と侮辱の経験は僅かしかありませんでした。

 中国の労働改造所の人々は、医務室で働くことは労働改造所で最高の仕事だと言うでしょう。この職にありつくために多くの労働改造所の労働者は、自分の良心を失うことを犠牲にして、共産党員の看守を喜ばせるために彼らの最善を尽くしました。私は自分の26年間の投獄で、26年のうち20年を医療のポストで働くように配属されました。自分の強制的な監禁を振り返りますと、私はそれが簡単な生活であったとは言えませんでした。乏しい医薬品と貧弱な設備で、不安定な生活でした。2、3百人の労働者の命に責任を持つことは、簡単な仕事ではなく、大きい良心の重荷であり、肉体労働の負担よりもずっとはるかに、心配事が多かったのです。

カトリックの修道女である林シスターと私は、碭山の医療のポストに仕事を割り当てられていました。一般的に言いますと、同じ小隊で2人のカトリック教徒が一緒に働くように配置するのは、有り得ないことでした。当局は彼らのエージェントを持っており、その修道女は彼らの指示に進んで従い、一日に起きたことと私の行動を共産党の事務室まで報告する「矯正可能な囚人」であるというのが、共産党員の意見でした。スパイ活動は奨励されていました。

不十分な治療しか労働改造所では患者に施されませんでした。私たちが持っていたすべての薬の中で、ブドウ糖と抗生物質は最も貴重でした。この修道女は、通常は非常にまれにしか労働者の為にこの薬を使わず、共産党幹部とその家族のためにとっておきました。 病気の労働者のほとんどは、治療を受けることが出来ず、いわゆる病院に送られ、間も無く死亡しました。これが労働改造所の悲惨な人々の人生でした。

 休暇届にも問題がありました。共産党当局は言いました。「どんなに病気が重くても、もし熱か高血圧が朝に認められなければ、他の人のように外へ働きに出るべきである」最初、休暇届を発行するのは修道女の仕事でした。毎朝、彼女は承認を得るために、共産党の事務室へ全部の休暇届を提出しました。多くの労働者が彼女を好きではなかったどうかは分かりませんが、ある人は彼女は公平ではなく、賄賂を受け取ったと不平を言いました。一定期間の後、共産党の看守は、休暇届を担当するかどうか私に問いました。病人は休暇届を求めに、私のところに来ました。私は今、この新しい能力で、疲れた群れの世話をする羊飼いとして配置されたのを知りました。労働者は虐げられ、疲れて空腹であり、そして消耗していました。病人は惨めで孤独に見えました。治療や栄養は無く、話をする親戚もいませんでした。労働改造所の規則によると、午前中には発熱が無かった回復期の患者は、仕事に出かけなければなりませんでした。惨めな現実に直面し、どのようにして、彼らが生き残る手助けをするという私の責務を遂行するか考えました。医療室でこの新しい任務を引き受けた最初の日、私が病気の労働者を一人ずつチェックしました。私は、前任者の2倍であった十以上のケースが本当であるのを認めました。承認を受けるために休暇届の半券を事務室へ持っていくと、看守はあまりにも多く(10枚)を受け取った後、当り散らし出しました。彼は机の上を叩いて怒鳴りました。「おまえがやったことを見ろ!多くの休暇届を!おまえはわざとやった。野外作業を終わらせたくないのか?」私は動かず、恐れること無く立っていました。私は返答する術が分かりませんでした。私が黙っているのを見て、彼は私が言い負かされて、根拠を失ったと思いました。「おまえは、医療のポストにいたいと思っていないのか。肥料を運ぶために菜園に移りたいのか?」私は直ぐに、「そうです、私はそうしたいです」と答えました。良心的な医療人であることが出来なかったのならば、私はあきらめたほうが良いと思いました。私は、自分の自尊心、自分の幸福、自分の青春、自分の未来とあらゆる人間の尊厳の全てを失っていました。この労働改造所に来て、何か他に諦めるものがあるのでしょうか?この共産党幹部の前に立って、私は自分については多くのことを気にかけませんでした。天主様は御自身の計画を御持ちであるに違いありません。信じられないような話ですが、幹部は全ての休暇届を承認しました。
 
 物事は、最初の遭遇後には、それ程恐ろしくはありませんでした。看守が文句を言った時、私は、この人は高血圧のケースで、その人は心臓病のケースである等と辛抱強く説明しました。私は頻繁に言わなければなりませんでした。「ある病気の労働者は、重労働時に倒れてしまいがちです。彼らが果樹園で倒れたら、私たちは責任を負うでしょう。誰もが職場で死ぬのを許されないことを、あなたはとてもよくご存じです。私たちは、自分たちの能力と状況の限り、死を避けるべきです」ある労働者は、事務室のそばを通る時に看守が私に怒鳴るのを耳にして、心を動かされました。「美玉、あなたは私たちのために勇気を持っています。看守が怒鳴る時にあなたの髪が立っていなかったことに、わたしたちは気が付きました」彼らは、仲間内で言いました。「彼女は豹の胆を食べたに違いない」(豹の胆を食べた猟師は、豹のように恐れを知らないという中国のことわざがあります)他の人が私に言いました。「私は、あなたが私たちのために苦しんでいるのを知っています。もうこれ以上、休暇届を頼みません あなたをトラブルに巻き込むには及びません」私は答えました。「私はあなたの羊飼いです。もし、私があなたを守れないのなら、労働改造所での医療従事者の何が役に立つのでしょうか?カトリックは信仰を保つのに長けるだけではなく、他人に慈悲深くあることが前提です」

 私がちょうど洗礼を受けたばかりの頃、行いによる罪と怠りによる罪という二種類の罪があることを知っていました。もし、私たちが良いことを行う機会を見逃すことがなければ、私たちは悔い改める事が少なくなります。労働改造所では、良いことを行い、あわれな病人の仲間を助けるための多くの機会がありました。天主様の御恵みにより、私は機会を見逃すようにはしませんでした。私は、イエズス様の聖心を慰めるために、最善を尽くさなければなりませんでした。多くの共産党の看守は文盲でした。ある人はさらに基礎的な医学の知識を持っておらず、人間の温度や血圧を理解するための常識すら持っていませんでした。その一方で、一部の労働者は実際には重い病気ではなく、単に非常に疲れ疲れていただけでした。彼らは1日の休息が欲しいだけであり、それが私に休暇届を求めに来る理由でした。このような場合、私は彼らを拒否したことは全くありませんでした。私はいつも自分の方法を行うことは出来ませんでしたが、自分の善意を大切にしました。その修道女は、この過度の慈善という愚行のことで私の足を引張りました。

 以前、別の修道女が私たちに加わりました。彼女は投獄前は非常に良い修道女であり、上海の支部で煉獄援助修道会の会員でした。張シスターと彼女は言いました。彼女は心拍の増加という頻脈で、医務室にやって来ました。私は彼女のために2日間の休暇届を書き、私と一諸にいた修道女はそれを見て叫びました。「あなたは何の教訓も得ていません。あなたは自分の行いの結果を恐れていません。何故そう簡単に2日間の休暇届を書くのです?彼女がカトリックの修道女であることを知らないのですか?あなたは人が変に思ったり、疑うことを考えていません」そして、事務室に彼女は行きました、5分も経たずに、看守が彼女と一緒に戻ってきました。彼はぶっきらぼうに私に聞きました。「なぜ、張は働きに出なかったのか?」「張さんは頻脈で苦しんでいます。これは重い心臓疾患であり、もし病気が処置されていなければ、私が責任を負うことになります。彼はそのままで終わらせようとはしませんでした。「担当の人に頼んで、再度確認しろ」医者がすぐに来ましたが、たまたまその人は、林シスターに特に良い印象を持っていませんでした。彼女は鋭い言葉を持っていたことを知っていましたが、彼自身はあまり良好な医療知識を持っていませんでした。こうして、彼は正確な診断を与えることが出来ませんでした、私の張さんの病気の説明を聞いた後、彼は頷いて言いました。「まあ、理論的には彼女の心臓の問題がありますから、毎日軽い仕事が割り当てられるべきです」こうして、別の危機が去りました。

 別の例ですが、文さんという方が、野外で疲労により気を失いました。私はすぐに自分の薬箱から40ccの液体ブドウ糖を取り出し、彼女に注射を与えました。私は修道女の許可無くブドウ糖を使うことになっていませんでしたので、それが危険であると知りつつ、宿舎に患者を戻すために手押し車を取りに行きました。その後、私は良い弁解があることに考えつきました。それは緊急のケースでした、私は修道女に依頼する時間がありませんでしたし、命を助けることが自分の第一の任務でした。それにしても、六十五歳の患者の文さんはあわれな女性でした。彼女自身の投獄は感動的な御話です。彼女は、かつての中国大陸の統治者である蒋介石の海軍将軍石震疆の妻でした。中国大陸で共産党が権力を掌握する前夜(一九四九年四月)に、かつての政府は台湾に逃れました。彼女の夫は自分と一緒に台湾に行くように文さんと息子に求めましたが、文さんは躊躇しました。彼女は自分たちの家を離れることに消極的であり、上海のいくつかの不動産はひどいジレンマでした。状況は死活問題でしたので、彼女の夫は去り、文さんと彼女の息子は上海に留まりました。上海市は一九四九年五月に共産党に占領されました。次の年、文さんの夫は自分の家族が台湾に来るように、中国沿岸に何人かのエージェントを派遣しました。再び、妻と息子は自分たちの故郷である上海を離れることを拒否しました。共産党が中国大陸を掌握すると、間も無く虐殺と抑制がはびこり、それは彼らに災難が襲いかかった時でした。文さんは反革命分子の妻でしたので、一九五一年に逮捕されました。彼女は7年の刑を言い渡されました。7年は恐るべき口実でした。彼女は自分の死まで、労働改造所でそれからの32年を過ごさなければなりませんでした!

彼女の息子は十六歳の時、父親と関連した反革命的な背景の為に逮捕されました。文さんは、私が彼女に会った三十二年中の三十年、労働改造所にいました。私が一九八九年にアメリカへ出発する前、彼女の息子は、彼の母親が数年前に労働改造所で亡くなったと私に告げました。そして、彼女が人生の終わりに私の親友のテレサによって洗礼を受けたことは、本当に天主様の御摂理でした。彼女の洗礼名はマリアであり、イエズス様の御母のように、不平無しに激しい苦しみを受け入れました。この親切な女性の文さんが、どうか安らかに眠りますように。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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