Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十九章 骨の折れる訪問

2011年12月16日 | カトリックとは
第三十九章 骨の折れる訪問
この章では、私の親しい友人であり、私と同じ日の夜に逮捕されたテレサについて述べます。私たち2人は、同じ労働改造所に送られたレジオ・マリエの会員でした。

1962年、私は果樹園で作業するように割り当てられ、困難で孤独な生活をしていました。未だに白湖農場にいたテレサは、その時点で既に就業者でしたので、毎月私に5人民元(8人民元はおよそ1米ドル)を送金しました。彼女は月給で20人民元程度を稼ぐことが出来、それは現在のおよそ100米ドルに相当しました(5人民元は非常に大きな金額でした)。彼女の金銭的な援助は、私に彼女の心遣いの暖かさを与え、基本的な必需品にも役立ちました。これは、私が労働改造所で自由を持っていたというわけではありません。私はお金を持っていた時、どんなに必要としても食べ物を買いに行くことは出来ませんでした。幸い、私の同僚である林シスターは、食べ物を買うのを手伝うことが出来ました。彼女は私と同じ診療所で働いていた修道女でしたが、共産党支持者である「改心」した囚人でした。この政権との関係は、彼女が他人に食べ物を買いに行く手段を与えたものの、それには代償がありました。共産党員は私を見張るために彼女を最大限に活用しました。私はいつも修道女のために高い敬意を払っていましたので、彼女が買うのを手伝った食べ物は何でも分かち合うために、私は彼女に非常に喜んで半分を与えました。

後に共産党の幹部は、私たちが脱走するのを阻止するための新しい規則を作りました。「現金は囚人の手に持たされるべきではない。すべてのお金は当局に提出されるべきである」囚人が何かを購入したい場合、当局は個人のために口座を保持し、囚人は単にリストを作成するのみでした。当局は囚人のためにそれを購入し、代金がその口座から差し引かれました。これにより、お金は私にとって役に立ちませんでした。何でも私が持っていたものは、当局に渡さなければならなかったからです。それに、食べ物を買うためにお金を使うことは禁じられていました。新しい規則について聞くと、テレサは私にお菓子や魚の干物の小包を送りました。私が以前に行っていたように、私が小包を得るとすぐに中身の半分は林シスターに行きました。ある時、林シスターは飴の包みを開けた後、私を残して急いで出ていきました。私は彼女に何が起こったのか不思議に思いました。ちょうどいい時に共産党幹部が入ってきて、私のところに来ました。「誰がおまえに小包を送り、その中身は何か?」私は知らないと答えました。もし、林シスターが何をしたかを知っていたら、私は彼女に飴をあげなかったでしょう。私は言いました。「私は米を買うためにお金が要ります。たとえ、私は何らかの食品を購入した場合でも、私は林シスターに毎回その半分をあげました」

実際のところ、私は6年間林シスターと働いていました。贈り物や支援がこれまで彼女自身の家族から来たことはありませんでしたが、私が何かを得る度に半分を彼女にあげました。共産党幹部はこのことに気が付いており、林シスターの性格を知っていまし。「おまえはもう少し注意する必要がある。ある人はおまえの食べ物を食べても、ハサミでおまえの背中の刺したいと思っている。両方の刃は鋭い」(そのイメージは私には通じませんでした)彼女が飴の中に見付けたお金を報告したので、私は問い合わせなければなりませんでした。

それは不可解でした。林シスターと私の両方は同じ病院で働いていました。ええ、友人は私に、「もし、彼女は熱心な修道女だったなら、どうして幹部が2人のカトリック教徒が一緒に働くように認めることが有り得るでしょう?」と何度も警告していました。そしてそれとは別に、彼女は私を好きではありませんでした。私が頑固であり、共産党員の指示に正しく従わないのは間違っていたと彼女は思っていました。彼女自身は従順な囚人であり、毎年、「模範囚」であることで表彰されました。その一方で、私は矯正不可能な「反革命分子」として批判されました。このようなニュースは羽を持っています。どういうわけか、キャンディの中に見つかった現金の話は遠い距離を飛び、私はテレサに説明しなければなりませんでした。テレサは自ら私に会いに行くよう決心しました。何年か前に彼女は私に言いました。もし、彼女は私のところに来て確認する必要があるのならば、私が深刻な困難の内にあるでしょうと。今、彼女は約束を果たすつもりでした。テレサは、私の労働改造所から遠く離れた所にある白湖農場にいました。共産党当局はカトリック教徒が互いに訪問することを厳禁していたので、あらゆる点でそれは不可能な事でした。最初、彼女は共産党員の刑務官である叢氏から休暇を取得しなければなりませんでした。奇蹟的にも、叢氏は刑務官の間で例外でした。彼は実際私をよく知っており、こう言いました。「胡美玉は純朴な女性です。15年間彼女を刑務所に入っているのは、全く政治的な力によるものです。彼女はここで懸命に働き、今あなたは出かけて彼女に会いたいと思っています。よろしい。私はあなたを支持します。行って彼女を助け、彼女に頑張るように励ましなさい」テレサの次のステップは、彼女の上司である張看護師長から再度休暇を取得することでした。ここで二つ目の奇跡が来ました。親切なこの男の人も私を知っていました。「私は何日かかろうとも、あなたが行って胡に会うことを許可します」テレサはそれほど苦労せずに、全ての旅行の手続きを完了しました。実際は、それは臆病な人には向いていない私の労働改造所への長い道のりでした。まず、彼女は自分の労働改造所から駅まで長距離バスに乗り、次に駅から碭山の街までおよそ一日かけて列車に乗りました。列車を降りてから、彼女は私の労働改造所まで三時間(10マイル、16キロ )歩かなくてはなりませんでした。友情のために、何と重い負担だったことでしょう!

それは1965年の秋で、私が一日の配給として何個かの腐ったヤマイモを受け取るように並んでいた時、私は女性の訪問者が私のために大きな袋を持って来たと告げられました。彼女は共産党員の看守の家で待っていました。私は看守の家に急ぎ、テレサを見つけました。私は彼女が白湖農場からやって来たことも知りませんでした。彼女はバスと列車で36時間旅をし、さらに3時間も13キロの米とビスケットとパンの入った袋をもって歩いたのです!なんと誠実な友人でしょう!そして、そこには驚きと暖かさがいっぱいでした。私はとても感動し、目が涙でいっぱいになりました。最初、看守はとても愛想が悪く、私たちが話したり、またテレサの食べ物を受け取ることを認めませんでした。私は、彼女がとても遠くから来て、しかも彼女は彼女の監督者である張看護長から全ての公式の許可を持っていたことを、看守に出来るだけ簡単に説明しました。「書かれた文書を見てください。彼女の上司である張氏は、彼女の訪問に責任を持っています」私は続けました。「私は彼女が私に持ってきたお米が必要ですが、それを私に与えるか与えないかはあなたの権利です。たとえ、あなたがそれを受け入れることを認めなくても、私の友人の無私の行為と誠実さは、私の心を暖かくしました。それは最も崇高な行為であり、私はそれで十分です。私は満足しています」

看守は明らかに、私が言ったことに少し心を動かされました。彼は数分考えてから、「おまえは10分間話してよい」と宣告しました。テレサは、白湖農場の人々は私がいないのをさびしく思い、私によろしくと伝えたことを私に語りました。彼らは、私が必要なものは何でも郵便で送るようにあらゆる努力をしました。彼女はまた、シスターに寛大になるように私に求めました。「彼女に友好的でありなさい。いつも彼女と食品を分け与えるように。結局のところ、私たちは同じ教会に属しているのです」 10分はあっというまに過ぎ去りました。共産党員の看守は、私がビスケットやパンを受け入れるのを許可しましたが、私たちの懇願にもかかわらず、お米は認められませんでした。テレサにとって、それは大変な失望でした。肩の上の米という重い負担と共に、彼女が白湖農場に戻ることを意味したからです。彼女の愛情と友情の痛みは、彼女がその後に書いた手紙の中で読みとれました。私に会いに行く途中よりも、戻る時のほうが米ははるかに重かったと。私の苦しみの十字架を分かち合うことが出来ないのはあまりにも残念だ、と彼女は言いました。

多くの年月の後、私たちは2人とも一九八〇年代に釈放され、私は故郷の都市である上海でテレサに会いました。私たちは試練を生き延びたのでうれしく思いました。私たちは、今日まで生きていようとは殆ど想像出来ませんでした。私は、テレサと白湖農場でも病院で働いていた崇高な女性の黄博士という2人の友人の親切な援助が無ければ、生き伸びることはなかったでしょう。困難の時の友は真の友です。私の人生で最も貴重な持ち物はお金ではありません。それはキリストの愛を反映する友人の愛です。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】