彼女はジャパニーズ・ダンサー。
神々の前で「雨乞いの舞」を踊る舞姫というから、今で言う巫女というべきなのだろうか。
義経の愛妾となった彼女は、兄の頼朝により京を追われる彼とともに各地を転々とする。
義経は正妻の重頼女を離縁。
しかし、この静も吉野で義経と別離。11月17日に吉野山の僧に捕えられ、鎌倉の頼朝のもとへ移送される。
翌年の3月22日に彼女の妊娠が発覚、4月8日に鶴岡八幡宮で命により舞を舞う。
そして、閏7月29日に男子を出産。生を受けた子が男子であったため、由比ヶ浜に捨てられる。
閏7月29日は8月29日のこと。逆算すると、静が妊娠したのは12月中旬。義経と別れた1ヶ月以上もあとのことだ。
状況からすると、吉野山の僧の子ということもありえる。
4月8日、静は御台所北条政子の希望により鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。
が、静は拒絶。
<もう、舞は舞わないと誓った。それでも義経の妻として舞台に出るのは恥辱>・・・と。
だが、鶴岡八幡宮に奉納する神事となれば、彼女も断ることはできない。
彼女は、虜囚の身でありながら、頼朝の前で、
<吉野山で雪を踏み分けて行った義経の足跡が愛しくてたまらない。義経に今一度会いたい>
と歌い舞を披露する。舞を見た人々は、彼女の舞いに深く心を動かされた。
一方、頼朝はこの歌を聞いて激怒したらしい。怒ったのは神事にもかかわらず、静が私情を歌ったからだろうか。
静の歌を聴いた神様のバチが自分に下るとでも考えたのだろうか。
あるいは、世間に向けて義経との諍いはささいなものとアッピールするつもりが、あてがはずれたからだろうか。
そうだとすると、静は世論をうまく誘導したことになる。
義経に離縁を申し渡された正妻の重頼女の方は、武蔵国に戻ることなく、義経を追って奥州にいた。
頼朝に決められた縁組みで夫婦となった重頼女と義経であったが、2人の中には愛が育っていたのであろうか。
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