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大御所様の道・中原街道 6日目(最終日)

2011-12-30 00:00:00 | 街道を歩く
中原街道6日目

6日目はJR相模線宮山駅下車し、寒川神社へ向かった。
宮山駅が無人駅なのには驚いた。改札口には切符を入れる箱とICカードの対応機がひとつ設置されていた。
目久尻川を渡って寒川神社に到着する。


寒川さんは中原街道から離れてはいるが、寒川町に来たからには寒川さんを素通りできないと、朝の8時半にお参りをする。

拝殿では巫女さんから清掃の親爺さんまで全員集合で朝のお参りをしている。境内は時間が早いため参拝者もまばらであった。

丸子・中山・茅ヶ崎線に向かう。途中に根岸弁財天があるのでお参りする。

由緒によると、ここの池は500年ほど前より農業用水として利用されており、江戸時代になってここを治めていた旗本が弁財天を祀ったといわれる。1985(昭和60)年に寒川町が公園と整備する機会に弁財天の石像を建立した。

本線を歩き、JR相模線の踏切を渡る。

景観寺の丁字路で丸子・中山・茅ヶ崎線と別れ、田村の渡し方面(県道44号藤沢・平塚線)に向かった。

景観寺の通りは景観寺、明神社、一之宮八幡大神、妙光寺と続く。
 景観寺

神明社には庚申塔、双体道祖神、石祠などが祀られていた。


一之宮八幡大神には関東大震災の大震災紀念碑(紀=記)が建てられていた。寒川地区は震源域が相模湾ということで被害も甚大であったことと思う。
 

その先左手に数台の車を止めた空き地がある。その空き地の前面に浜降祭駐輿記と刻まれた碑が建っていた。

この碑は、寒川神社の浜降祭で、茅ケ崎南湖浜まで近在の神輿がここ一ノ宮で休憩をとる(駐輿)。
神輿が出発する時(御発輿)に、地元の作物(麥蓙?)を神輿に投げ掛ける古事があると記されているようだ。

その碑の奥をカギの手に入ってゆくと伝梶原氏一族郎党七士の墓がある。
1200(文治2)年のことで、
駿河国清見関で討死した梶原景時一族郎党を一宮館で留守をしていた家族、家臣が弔ったものと伝えられるが、また一説には、
景時の夫人を守って信州に逃れていた家臣7人が、世情が変わったことを見て鎌倉に梶原氏の復権を願い出たが叶わずその場で自害した。墓はその七士を祀ったものともいわれる。


ここに出て来る梶原景時とは、何者ぞよ?
ということで、次の梶原景時の館跡に急ぐ。

梶原景時は、源頼朝挙兵で、石橋山の合戦の折りに頼朝の一命を助け、それ以後頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献した武将である。
一宮を所領とし、この地に広大な館を構えたという。
頼朝の死後、多くの家臣からねたまれ鎌倉を追放された。その後再興を期するために上洛の途中で、静岡市清見関で北条方に攻撃を受け、景時以下討死した。
館に残っていた家臣も尾張に移ったといわれる。
そして、この地には梶原氏の風雅を称え、土地の人が天満宮を創設したともいわれる。
 

次は、車地蔵祠に向かう。
本道からそれるので分かりにくいかなと思って歩いていったら簡単に見つかる。
車地蔵は大きなお地蔵様が立派な祠に納められている。何故、車地蔵と呼ばれているのか案内板もなく不明。
 
安楽寺の西側を通っていた旧中原街道は車地蔵の西の道と繋がって行たのではと、定かではないが想像する。

新たな本道・47号線に戻り、南北に走る産業道路を一之宮小前交差点の歩道橋で渡る。昔はこの辺りに寒川神社の門前町である一之宮宿場があったという。藤沢宿から用田を経由してくる大山道と瀬谷から用田を経てくる中原街道の継立場であったといわれる。
一之宮小学校を過ぎると本道・47号線は右に曲がっているが直進して八角広場に向かう。

八角公園は1984(昭和59)年まで相模線の支線(西寒川支線)の西寒川駅があった場所である。支線といっても隣駅は寒川駅でありひと駅の支線である。1923(大正12)相模鉄道東河原という貨物駅として開業した。廃止前までは1日4往復の旅客電車が走っていたという。
一部レールが敷線されており、線路跡の部分は遊歩道として残っている。
 
また、この辺りには海軍工廠があったようでその碑が置かれている。この海軍工廠では3千人以上の徴用工、動員学徒、女子挺身隊、朝鮮からの強制労働者が毒ガス製造に従事させられていた。
その毒ガスらしき容器が近くの縦貫道一之宮高架橋工事で発見された報道はまだ記憶に新しい。

線路跡の遊歩道を歩いて本線に戻る。右に大きくカーブした道の角に一之宮不動がある。
お堂を除くとカーテンの隙間から不動明王と2体のお供の童子が写った写真が掲げられていた。
  
案内によるとこの前の道は大山街道と呼ばれ、東海道藤沢宿から田村の渡しを経て大山阿夫利神社に、厚いはお参りの帰りにと観光地江の島へ、或は景勝地鎌倉にと江戸時代に利用された道であった。
不動堂の脇には不動明王が台座に飾られた道標もある。
 

昔の人は、ここから相模川を田村の渡しで舟を利用して渡った。
現代人は縦貫道の工事を見ながらはるか上流の神川橋(かみかわばし)を渡る。
高架橋の向うには富士山が見えた。

神川橋は全長493mと長い橋である。河原には固まって同方向にカメラを向けているカメ○○が30人近くいる。何を撮っているのだろうか、ヤマセミなのか?
 

県道47号線で平塚市に入る。
橋を渡り終えると右手に八坂八幡が見える。

八坂神社の境内には、田村ばやしの碑がある。
 
田村ばやしとは、平塚市の無形重要文化財に指定されている独特なリズムをもつ祭りばやしという。源流は鎌倉時代に田村の館に住んでいた三浦義村が京都から楽人が楽を招いた時の里大子であるとされる。江戸時代には八坂神社祭典の屋台曳行の囃子になっていたといわれる。
境内の隅には3本の道標がたっている。


県道47号線を八坂神社前の信号機を左折し、ひとつ目の交差点を左折すると、相模川の通見の傾斜地に田村の渡し碑がたっている。

田村の渡し場は簡単なつくりで、川の流路によって変わり、川幅は約54m(30間)。大住郡田村と高座郡一之宮・田端村の3ヶ村が渡船場の業務を勤め、船4艘で常時渡河していた。

そのまま直進すると、市営住宅の隅に三浦義村の田村の館跡碑が建っている。


県道44号線に戻り旧田村の辻交差点に行く。この右手には田村宿があって道の両側には、旅館や茶店、立場等が並んでいて大山詣での中継点として、田村の渡しを控えた宿として旅人で大いに賑わったようだ。
交差点手前右手に、大山みちの道標と十王堂跡碑がたっている。十王堂は1537(天文6)年で小田原北条氏と上杉氏が相模川の合戦で多くの戦死者をだした。近くの妙楽寺の住職が戦死者を弔うために十王堂一宇を建てたといわれる。(一宇・いちう=一棟の建物)


旧田村の辻を左折する。
先ずはじめに祥雲山妙楽寺、右手にある。由緒ある臨済宗のお寺で、開基は足利尊氏の子で基氏。戸古川家康より10石の朱印地(朱印状によって与えられた寺社領地)を与えられている。

2階建ての三門がめいつく。

すぐ先に、田村馬返橋(うまかえはし)跡碑がたっている。
 
家康が鷹狩にこの地に来た折、たまたま大雨の跡で道路がひどく悪かった。そこで、田村の人達は畳を出して便宜を図った。家康はその苦労を思って、そこから馬を引き返したという。また、妙楽寺の門で、古くから馬継の場であったため馬返橋の名が発生したとも案内板に書かれている。
碑の脇には庚申供養塔と道祖神が祀られている。

その先二股のところに、中原街道田村の一里塚がある。案内板によるとこの辺りは八王子街道ともダブっているようだ。中原街道はこの二股で右に行くようである。
近くのバス停の名に鹿見堂(ししみどう)と付いているが、この付近には昭和の頃まで箸立森といわれる森があった。昔、家康がこの付近を通ったとき、弁当に使った箸を地面に突き立てた。その後、箸から芽が吹き杉の木となり、森へと成長したという家康の伝承がある。後にこの地に権現堂が立てられ、鹿見堂と呼ばれた。
 

鹿見堂で道が分かれ、右側が旧道とういことだ。


この後、四之宮の渡し跡、前鳥(さきとり)神社へ向かう。相模川に出る道が分からず、渡し跡は断念、神社に向かうがこれもネットからの拡大地図片手に探したがなかなか神社が見つからず、木が生い茂った場所を目当てに歩き、やっと神社の脇道に巡り合った。様々な場所の散策を始めてから、脇から入って正面から出て来るパターンが多くこの神社もかといった気持で脇から入いる。

前鳥神社。想像以上に大きな神社で、幼稚園も経営しているようで、神社の脇の建物から、園児の声がする。

奈良時代以前からの歴史があり、1000年以上と、平塚市最古の神社である。
参道を出ると湘南銀河大橋の通りに出る。こんなに大きな目標があったのだと反省。


中原街道からは外れているので、鹿見堂の二股で別れた道は、古くは諏訪神社前に通じていたというので、四之宮西町交差点を通り、諏訪神社に向かう。

四之宮西町交差点には石仏が狭い場所に押し込められていた。


諏訪神社は、ブランコが置かれているあまり大きくない神社である。


この神社の手前南西に伸びる道が中原街道と平塚市が発行した中原街道抄に書かれており、平塚市内の中原街道は耕地整理で殆ど無くなっているので、旧道があるところは忠実にと、解説の道を行く。
 中原街道旧道
ところが、目標の庚申供養塔が見つからず、手持ちのネットのコピー地図では縮尺が分からず、挙句には今の位置まで分からなくなってしまった。仕方がなく、コンパクト地図を開いて位置の確認。
結局、次の真土神社には南下しすぎたようで、真土神社の北側に残る中原街道は辿れず、逆の南西からの道からようやくたどり着く。勉強不足である。

真土神社は真土地域内にあった7社を明治時代にひとつにして祀った神社とのこと。
 

その後も旧道と思われる道を辿り、大野中学校の南の道を進み日枝神社に辿り着く。
日枝神社の東側を県道・平塚―伊勢原線が走っているので参道もその道に面していると思ったが間違えで神社の西側が中原街道なので参道はそちら側に面していた。
この神社も脇から境内に入る入口があり、この神社も残念ながら脇から入って正面の参道から出る形になってしまった。神様が、この罰あたりもんと怒っているかも知れない。

日枝神社。中原上・下の両宿の鎮守として祀られ、1640(寛永17)年中原御殿改修の際、御殿の鬼門の位置に村内から完成し、明治初年山王社から現在の日枝神社に改名した。

1909(明治42)年には東照宮を合祀する。4月の東照権現祭は盛大に行われている。
  

鷹狩りが描かれている奉納額

参道入口に江戸時代建立の笠付きの庚申塔が祀られている。


いよいよ、中原御殿が近づいてきた。

中原街道一里塚跡。脇往還である中原街道も東海道にならい大磯宿の化粧坂一里塚を起点として中原に一里塚を築いた。


 バス停「中原御殿」

交番の丁字路を右折すると右手に中原宿高札場跡がある。

高札場とは、幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のこと。当時の画を見ると高札は土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられている部分には屋根がついていたという。
また、交番の丁字路から正面の市立中原小学校にぶつかる僅か150mの道のりを古くは御縁場、或いは、大手道と呼んでいた。江戸時代、中原宿はひとつの城下町として縄張りされており、大手道から御殿跡である中原小学校への道は鍵状になっており、防備の工夫がなされていた。

横浜市の歴史講座の講師曰く、当時の世情を考えると、御殿と聞くときらびやかなイメージがするが、決してそうではなく、出城的な存在であったと力説している。
しかし、面白い記述が創業記という書物に書かれているのだが、1607(慶長12)年1月、家康が御殿に宿泊していた際、番衆が夜、辻相撲の見物に出払っていた時に、空き巣が入り茶器を盗まれる出来事があった。空き巣で良かったが防備に強かったのかなと思う。

ついに中原御殿に辿り着いた。江戸城桜田門外を出発して6日目、延べ42時間。
校庭内に大きな「相州中原御殿之碑」建っている。

中原御殿は1596(文禄5)年家康の命により、江戸と駿府間の往復や鷹狩の際に宿舎として中原の密蔵院跡に建築された旅館が前身である。中原御殿は相模川を控えていて川の出水の際は減水するまで幾日かの逗留を否応なしに余儀なくされるので旅館としても意義深い。「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいった。規模は資料によって様々なので平塚観光協会の資料によると、東西約190m、南北110mで、東を正面にし、四方には幅約12mの空壕をめぐらしていた。完成は1615(慶長19)年。この資料で敷地面積を計算すると20,900平方m、約6,300坪となる。
碑の前にてセルフで記念写真を撮る。
 消防団の車庫に描かれた中原御殿

中原街道の第一の目的は終了したが、江戸時代後期の終点は大磯の化粧坂一里塚になったということで、最終目的を化粧坂一里塚としている。

次は徳善寺である。中原小学校の南側の道を西に進む。途中に船地蔵がある。案内板もなかったが、お地蔵さまが舟に乗っているので間違いはないだろう

地元では南原の舟地蔵と呼ばれており、幾つかの曰くがあるようだ。市内にはこれだけではなく、全部で3基の舟地蔵が造立しているそうだ。

善徳寺はその先にある。茅葺きの三門を見て、はるばるここまで歩いて来てよかったと思う。三門に風格を感じた。この三門は中原御殿の裏門に使用されていたものを移築している。


大磯の化粧坂一里塚まで旧道(中原街道)を歩こうと、少々今来た道を戻り、その後右折し古花水橋に向けて南下した。

暫く歩いて大久保公園に着く。

三角の形をした大久保公園を含む諏訪町一帯は、旧小田原藩主大久保家が所有していた。その三角形の頂点にブロックの祠に納まった道祖神が祀られている。祠の中央に新しい代の道祖神が、その左脇に隠退した道祖神が納まっている。

町会の神社部の解説がそばに貼ってあった。
それによると、道祖神とは、
道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では『さえのかみ(障の神・塞の神)』と習合されてきた。くなと (苦難止)の神、たむけの神ともいわれる。
公園の北側には諏訪部神社と平塚水天宮が祀られている。

諏訪部神社には大久保家発祥の地の愛知県所在の糟目犬頭(かすめけんとう)神社の分霊も併せて祀っているそうだ。また、水天宮では今も豆撒きの行事が行われているという。


神社の西側の道が中原街道で、近くの中学校の生徒が先生を交えてゴミ拾いの作業を行っていた。
再び南下し、休日診療所前の丁字路を右折する。
右手に県立平塚農業高校の校舎が見えて来る。

高校の前の丁字路の左先に八雲神社がある。


この一帯は平塚城があった。平安時代末期の三浦半島一帯に勢力を保持していた三浦氏一族のひとり、三浦大介の弟の孫にあたる武将が館を建てたことが始まりとされ、室町時代中期ごろまで代替わりしたが、城があったようだが、資料がなく、武蔵国平塚城(東京都北区)との混同もあって不明という。
八雲神社で撮影していると、地元の歴史愛好家の方が話しかけてきた。平塚城について研究している方が地元にいるそうだが、細かなことは不明のようだ。

県立平塚商業高校を右に見ながら南下。

前方に太い樹が見えて来る。五霊社のタブの古木である。

樹齢350年、幹周り4.3m、樹高13.5mの市保全樹木指定の巨木である。五霊社の社はというと巨木の影に隠れるように石祠がある。

また、南下し柳町の京方見附に到着。

花水川を渡り、東海道を西に進む。高麗山を右に見て、化粧坂の旧道との分岐まで辿りついた。終点はもうすぐである。


旧道を進んでゆく。緩やかな登りになっている。化粧坂(けわいざか)である。鎌倉時代には大磯宿の中心であり、遊女屋が並んでいて、遊女の化粧に因んで坂の名となった。

虎御前化粧井戸が左手にある。曽我十郎の妾、虎御前がこの近くに住み、この水を使って化粧をしたという。


その先、右手に化粧坂一里塚の案内板がたっている。
江戸より16里の一里塚。3mほどの塚を築き、そこに海側に榎を、山側にせんだんを植え里程(りてい=みちのり)の目印にした。


  化粧坂一里塚付近の化粧坂

「中原街道・大御所様の道」の散策もついに終わった。散策時間44時間。参考ではあるが手元の距離計では110km余であった。中原街道だけを歩けば、桜田門外からおよそ65kmなので4割ほどは寄り道に費やしたようだ。
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