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信州・真田氏ゆかりの地を訪ねる その2

2012-11-17 16:48:44 | 信州路&甲斐路

紅葉の秋、真田氏ゆかりの地をふたたび訪れ、戦国時代から幕末までの信州における真田氏一族の歴史の一片にふれてみた。

      

真田幸村像
真田昌幸(1547~1611)の次男であった幸村(信繁・1567~1615)は、1600(慶長5)年の上田城籠城戦(関ヶ原合戦の一環)後、天下を取った家康によって父・昌幸とともに高野山に流され、その山麓の九度山で長く暮した後、豊臣秀頼(1593~1615)に招かれ、大坂冬・夏の両陣において、徳川勢相手に大活躍した。幸村はこの地で討ち死にしたが、「真田、日本一の兵」といわせた程の武勇は、その後永く後世に語り継がれることとなった。
この籠城戦は、中山道を進んで関ヶ原に向かう徳川秀忠(1579~1632)軍3万8千を前にしてのことで、秀忠軍は戦果がなく日数ばかりが経過し、お陰で合戦に遅れてしまう大失態を秀忠はしてしまった戦いでもある。

         

松代城跡
松代城は、戦国時代の1560(永禄3)年、武田信玄(1521~73)によって築かれ、当初「海津城」と呼ばれていた。武田氏北信の要の城で、川中島の合戦は、この城を舞台に繰り広げられた。
その後、明治の廃城まで300年余りにわたって北信濃の拠点的であった。 廃城後は打ち壊され、わずかに石垣が残るのみであったが、1981(昭和56)年に、現存する城郭建築である新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された。
長野市が、1995(平成7)年より発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元をし、現在江戸時代の姿に限りなく近い状態で再現され、一般公開されている。

         

         
                                二の丸南門より太鼓門前橋と太鼓門

         
                                       太鼓門前橋と太鼓門

          

          太鼓門

          北不明門

長國寺
真田家の菩提寺。創建は1547(天文16)年、真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立、1622(元和8)年、上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長國寺と改める。江戸時代は信州一国曹洞宗寺院一千ヶ所を管理統括。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にある。幸村・大助親子の供養塔もある。初代信之(1566~1658)の霊廟は、1660(万治3)年の建立。入母屋造りで金箔に黒漆、極彩色の彫刻のある荘厳な構え。
本堂の棟に六文銭・屋根に海津城から移した二つの鯱が逆立っている.身の丈は1mというが屋根が大きいので目立たない。

                

         

         

         

松代藩鐘楼
1624(寛永元)年、真田信之が設置。昼夜の別なく1刻(2時間)ごとに鐘をつかせ城下の人々に時を知らせた。また出火の際も鐘を鳴らして非常を知らせた。
江戸時代の度重なる大火で初代、二代目の鐘は焼損し、三代目の鐘は太平洋戦争で供出。現在の鐘は、1991(平成3)年に付けられたもの。
また、現在の鐘楼は、1801(享和元)年に再建されたものである。

                  

大輪寺
真田昌幸が高野山の流された後に正室・山手殿(通称京の御前・1549?~1613)が髪をおろし寒松院と改め開基し、この寺で生活した。1611(慶長16)年、昌幸が死ぬと、昌幸の三回忌に当たる日に自害した。
寒松院の墓は墓所の左手とばくちにある。

         

         

         

         

                        

芳泉寺
真田信之(信幸)の正室である小松姫の菩提寺である。
小松姫は、本多忠勝の娘で徳川家康の養女として1587(天正14)年、信之に嫁つぐ。才色兼備といわれ、家康が若い大名を列座させて婿を選ばせたところ、家康を前にして恐れる大名が多かった中に、最も落ちついて堂々とした動作の信之を見て、小松姫自身が心を動かされ進んで信之を選んだという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、幸村(信繁)父子が九度山に追放になった後も、食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
徳川と真田の関係を山門、本堂についている六文銭と三つ葉葵の紋が物語っている。

         

         

         



          小松姫の墓

         小松姫の駕籠 

海禅寺
海禅寺の創建は900年代、真田氏の祖とされる貞元親王(清和天皇の第三皇子)が開いたのが始まりと伝えられている。
当初は開善寺と称し現在の東御市にありましたが、1583(天正11)年に真田昌幸が上田城を築いた際、上田城の鬼門鎮護として城の北東側に移され海禅寺と改称している。以来、真田氏の祈願所として庇護され、1622(元和8)年に真田信之が上田藩から松代藩に移封になると松代城下に開善寺として移る。上田に残された海禅寺は僧徒の学問修行の道場としての談林所が開設され隆盛した。

          冠木門
          三門
         

科野大宮社  上田市常田2-21-31
崇神天皇(紀元前)の時代、建五百建命(たけいおたけ)を科野国(信濃国)の国造(くにのみやつこ・地方官)に任命した。上田に国府を置き、国魂(くにたま)の神である科野大宮社(しなのおおみやしゃ)を創祀して住民の安全を祈願した。信濃国総社でもあったといわれる。
地元の人からは「おおみやさんと」親しまれ、上田地方の名社として信仰を集めた。
上田城を築城した真田氏は、上田城の鎮守として崇敬した。

         

         

         

上田城
上田城は、真田昌幸によって1585(天正13)年に築城された平城であった。
地方の小城であり、石垣も少なく一見したところ要害堅固な城とは見えないが、徳川方の二度にわたる攻撃を受けても落城しなかった堅固な城であった。
それは、周囲の河川や城下町を含めた全体が極めてすぐれた構造であったということが評価されている。
徳川の時代になり、上田城は原形を留めぬほど壊されたが、代わって入場した仙石氏によって復興された。

         

         

ケヤキ並木は、二の丸堀跡である。二の丸をカギの手に囲んで、その延長は、およそ1,136m(646間)あり、上田城の固い守りに役立っていた。
その後、上田温電東北線(1928~72)がこの堀跡を走っていた。

         

         

         
                              左手手前が温電東北線プラットホーム跡

         
                       二の丸橋の下、電車の電線に使用していた碍子が残っている

この春に続き、秋の信州・真田氏ゆかりの地をめぐった。当日、時間が余ったので予定外の寺社を周ったが、そこも真田家ゆかりの寺社であった。
300年余り、上田、松代とその周辺を真田氏が統治していたのだから「ゆかりの地」はまだまだあるだろう。




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信州の鎌倉「塩田平」をめぐる

2012-11-15 18:09:06 | 信州路&甲斐路
信州の鎌倉

塩田平は、別所温泉地区と独鈷(とっこ)地区とを合わせた総称で、長野県上田市の南西に位置する東西5km、南北2km四方の盆地を指し、「信州の鎌倉」と呼ばれている。
江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。
古くから重要な地であった塩田は、平安時代には後白河法皇の后である建春門院(平清盛の妻の妹)の庄園があり、鎌倉幕府でも頼朝の信頼厚い腹心の家臣が地頭の任に就いていた。
その後、北条執権の時代になって、要衝の地という認識が尚高まり、信濃国の守護職に二代執権である義時自らが就任したこともある。
その後、義時の三男・重時の三男(龍光寺沿革には第三子と書かれている)である義政が1278(弘安元)年、突然、職を辞しこの地に隠遁(隠居)し、塩田城を構え、その子の国時、孫の俊時と三代、56年間にわたり塩田の地を繁栄させた。
このことで、塩田に中世(鎌倉・室町時代)文化が育ち、「信州の鎌倉」といわれるようになった。

 

前山寺  上田市前山300
前山寺(ぜんさんじ)は、真言宗智山派の寺院。山号は獨股山(とっこざん)又は独鈷山。本尊は大日如来。独鈷山(1,266m)の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。
812(弘仁3)年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる。当初は法相宗と三論宗を兼ねていたが、1331(元徳3)年、現在の地に移し規模を拡大させたとされる。のちに真言宗智山派に改宗された。また「未完成の完成の塔」と呼ばれる和様・禅宗様の折衷様式の三重塔(国の重要文化財)がある。建立年代は不明だが、様式から室町時代と推定されている。三間三重で高さ19.5m、屋根は杮葺きである。また窓や扉、廻縁、勾欄はないが、長い胴貫が四方に突き出し調和させていることから、「未完成の完成の塔」と呼ばれる。

         
                                              山門(冠木門・かぶきもん)

          参道から

                三重塔

          本堂

塩田北条氏の城・塩田城跡  上田市前山309
塩田城は、北条義政がこの地に移り館を構えた。
国時、俊時三代にわたり塩田北条氏を称し、信濃の一大勢力としてこの地方を統括し、また幕府内でも活躍した。
1333(元弘3)年、鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族あげて支援にかけつけたが、奮戦空しく幕府とともに滅亡した。
その後、信濃の雄・村上氏、甲斐武田氏がこの地に城を築き、真田氏が上田城を築くまでは軍政両面の拠点であった。

                  



龍光寺  上田市前山553
1282(弘安5)年、塩田北条二代・国時によって父の義政の菩提を弔うために建立した。
塩田北条氏滅亡後衰退するが、1601(慶長6)年、萬照寺六世瑞応が中興開山し当初の寺号だった仙乗寺を龍光院と改め曹洞宗の禅寺とした。
塩田城を挟んでその祈願寺と伝えられる前山寺と相対する。

                  

          黒門

          参道

         
                                       三門を中央に左観世音堂、右羅漢堂

          本堂

塩野神社  上田市前山1681
塩野川の水源である独鈷山(とっこざん)の鷲ヶ峰に祭ったことが始まりとされ、奥社が祭られている。
『延喜式』という書物に「式内社」として載せられている信濃の名社。上田・小県(ちいさがた)地方における式内社五社のひとつ。
社殿は江戸時代の建築物で、拝殿は1743(寛保3)年、本殿は1750(寛延3)年。拝殿は間口、奥行共に同じ長さで、楼門造りといって二階建てになっている。二階建ての拝殿は長野県内では珍らしく諏訪大社下社と2社だけで、建築の形式上貴重な建物である。
本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、特に彫刻の美しさが目を引く。小脇の壁にある、上り竜、下り竜の透(すか)し彫り、向拝住や虹梁に刻まれた象、また建物の正面、側面の梁や虹梁にある雲形などすべて彩色がほどこされた彫刻で、18世紀中頃の様式をよく備えた建物として、当地方に残る代表的建築物である。
戦国時代には、武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せた。

                  

          杉並木参道


                                                        神橋

         

          本殿

         
                              拝殿の彫刻、高い位置と逆光で3枚撮ったがこの様

               流鏑馬
800年ほど前の平安から鎌倉時代にかけてこの神社の一の鳥居から2町(およそ218m)離れた二の鳥居までの間で流鏑馬の神事が行われていた。
馬を走らせ菱型の3つの的を射落とすのだが、成功するのは余ほどの名人であった。この名人の中に地元というべき上田市手塚地区の出身の金刺盛澄(かなさしもりずみ・生没年未詳)が居り、この地で力をつけ鎌倉八幡宮で妙技を見せたのであろうと神社の解説に記されている。なお、金刺盛澄は諏訪大社の流鏑馬でも披露している。

中禅寺・薬師堂  上田市前山1721
中禅寺薬師堂は、中部・関東地方で最古の木造建築である。その様式は「方三間(ほうさんげん)の阿弥陀堂」という形式で建てられ、平安末から鎌倉初期のものと推測されおり、国重文に指定さる貴重な建物である。
方三間とは東西南北のどの方向から見ても柱が4本立っていて、間が三つあることをいう(柱と柱の間を間と呼ぶ)。茅葺屋根のてっぺんに、少し先のとがった丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(路盤)をのせて、真上から見ると、真四角な屋根に見える。これを「宝形造(ほうぎょうづくり)」という。扉は正面に三か所、残りの三方に一か所ずつあり、あとはみな板を横に張った板壁になっています。このような建て方は、平安時代の終わりごろに行われた形式で国宝の奥州平泉中尊寺金色堂(1224年)などが、その代表的な例である。また、薬師堂の中ほどに、4本の丸い柱(四天柱)を立て、その中に本尊の薬師如来が安置されていて、この様式も中尊寺金色堂と同じである。 

         

          仁王門



          薬師堂

          本堂

野倉の夫婦道祖神  上田市野倉538
女神岳南麓標高約700mの高地にある野倉の夫婦道祖神は自然石の前面を円形に彫り、その中に男神女神の姿を刻み、男神に衣冠束帯、女神には十二単衣の服装で、互いに肩に手をかけあい、笑みをたたえているところがほほえましい。
家庭円満・子宝の神として信仰され、また縁結びの神として信仰厚く遠方から訪れる人も多いという。
夫婦道祖神に行く道筋に一口で命が3年延びるといわれる延命水がわいている。

         

                  

安楽寺・八角三重塔  上田市別所温泉2361
曹洞宗に属する寺。崇福山護国院と号する。本尊は釈迦如来。平安時代に安楽、常楽、長楽の三楽寺の一つとして創建されたと伝え、現在は安楽寺と常楽寺が残る。鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て臨済宗の寺院として栄えたが、室町時代、再興され、以後曹洞宗寺院となった。

            

          黒門

          参道

          三門

                     鐘楼

          本堂

         

八角三重塔は純粋な禅宗様式で、国宝に指定。
本堂の左手の道を上っていくと、山腹に八角塔のすばらしい姿を見ることが出来る。
この木造八角三重塔は、国宝に指定されており、木造の八角塔としては全国でひとつしかないという貴重な建物で、鎌倉時代に中国から渡って来た禅宗様という様式を、忠実に守って建てられている。
一見、四重塔ではないかと思えるのだが、一番下の屋根は裳階(もこし・ひさしのこと)というこで、建築学上は「裳階付き木造八角三重塔」と呼ばれるようであるが、略して「八角三重塔」といっている。

                     八角三重塔

北向観音  上田市別所温泉1656
825(天長2)年、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらした。それを見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷したところ、紫雲が立ち金色の光と共に観世音菩薩(北向観音)が現れ大地を清浄化した。大師はこの観世音菩薩をかたどった木像を自ら彫り込み、小堂に祀ったのが北向観音の創建と伝えられている。南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音はり「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。鎌倉時代は北条義政をはじめ塩田北条氏、歴代上田藩主から寺領の寄進など庇護された。現在の北向観音堂は1713(正徳3)年に火災で焼失後の1721(享保6)年に再建されたもので入母屋、妻入、銅板葺、母屋のまわりに庇が付き正面には唐破風の向拝があるなど外観が善光寺本堂のように見える。

         

          観音堂

          絵馬
  
観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれ、1809(文化6)年に再建された建物。入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来を祀っている。

           

又、北向観音境内にある愛染桂(上田市指定天然記念物)は樹高22m、幹周5.5mの大木である。
825(天長2)年の大惨事では観世音菩薩がこの木に登り住民達を救ったとの伝説が残っている(川口松太郎の著書「愛染桂」はこの木をモデルにしたとの説がある)。 
 
                     

前記の「片詣り」だが、善光寺には今年春に参拝し、秋にこの北向観音にお参りしたのでご利益があるだろう。
その善光寺であるが、三門の扁額に書かれている「善光寺」の文字には5羽の鳩が描かれており「鳩の額」と呼ばれているそうで、また「善」の文字は牛にひかれて善光寺詣りの、正面からの牛の顔になっているといわれる。


常楽寺・多宝塔  上田市別所温泉2347
常楽寺の創建は天平年間(729~49)、長楽の三楽寺のひとつと伝えられている古寺で北向観音の本坊である。現在の常楽寺本堂は1739(享保17)年に建てられた寄棟、茅葺、唐破風向拝付きの建物で、桁行10間は江戸時代中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持ち当時の寺院本堂建築の特色を色濃く残す貴重なものとして上田市指定有形文化財に指定されている。

          本堂


                                                       御舟の松         
          七色もみじ

本堂背後にある常楽寺石造多宝塔は1262(弘長2)年に建立されたもので総高さ274cm、安山岩、銘文にはこの地が北向観音の出現した地で建立した経緯が刻まれていることで、歴史的価値や鎌倉時代の石造多宝塔の典型として、数少ない石造多宝塔として貴重なもので国指定重要文化財に指定されている。
         

         




当初、信州の鎌倉の称号は、小京都とか小江戸と同じ類と思っていた。でも、何故鎌倉なのかと「?」をつけて勉強不足のままここを訪れたのであった。
急ぎ足の塩田平めぐりではあったが、ここ信州塩田には、鎌倉時代の匂いが色濃く残っていた。

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信濃国・真田家松代藩武家屋敷を訪ねる

2012-11-12 14:45:55 | 信州路&甲斐路
旧横田家武家住宅

旧横田家は、禄高150石の中級武士で、郡奉行や表御用人(幕末期)を勤めた家柄である。
この建物は、他の藩士宅と同様、一種の公舎で敷地3,340.82平方メートル(およそ1,012坪)に、長屋門・一部2階建て主屋・隠居屋・土蔵(2棟)の5棟が建っている。18世紀末から19世紀中頃にかけて建設されたもので、松代城下の典型的な武家住宅の特徴があらわれている。
また、遠くの山を借景とした庭園、池に流れ込む泉水路や広い菜園も続いている。
1984(昭和59)年、敷地の北半分と建物が長野市に譲渡され、1986(昭和61)年に国の重要文化財に指定された。このため旧横田家武家住宅と名前の前に「旧」がつくという。
1991(平成3)年には大規模な改修工事が行われている。

表門(長屋門)
 構造:切妻造、桟瓦葺(さんがわらぶき)屋根
 建造:1842(天保13)年

         

         

主屋
 構造:寄棟造、茅(かや)葺屋根
 建造:1794(寛政6)年

         

         

         

          式台付玄関

         

         

          勝手

隠居屋
 構造:寄棟造、茅葺屋根
 建造:1820(文政3)年

         

         

         

         

土蔵2棟
 構造:切妻造、桟瓦葺屋根
 建造:不明(江戸後期)



庭園

         

      

          泉水路

横田家は、幕末から明治・大正・昭和期にかけて、多くの人材を輩出している。
姉の英(和田英・1857~1929)は、群馬県・官営富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、日本初の民間器械製糸場である西条村製糸場(後の六工(ろっく)社・長野市松代町)の創立・経営に携わった。富岡製糸場での体験を「富岡日記」に記している。
また、富岡製糸場の工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現富岡市イメージキャラクター「お富ちゃん」)のモデルにもなっている。

                   横田英

          富岡製糸場

          作業風景

          全景模型

          
英の弟にあたる横田秀雄(1862~1938)は慶応大学法学部教授を経て大審院長、その子・正俊も最高裁判所長官を務め、二代続けて裁判所の最高地位に就いている。 退官後は明治大学の総長に就く。
また、秀雄の弟・謙次郎(1864~1932)は小松家に養子にはいり、逓信省勤務時代には国内の電信・電話事業の基礎を築き、日露戦争時には韓国に派遣され電信電話の普及に努める。退官後は貴族院議員に選出され、鉄道大臣となっている。


旧前島家住宅

前島家は、上田、松代を通して真田家に仕えた家臣で、一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して和歌山県の九度山に移った者もいたと伝えられる。禄高は江戸中期300石、幕末には200石であった。
この屋敷は、真田家の松代入封(にゅうほう・大名などが封ぜられた領地にはじめてはいること)の際に拝領したと伝えられる。
現在の敷地は、幕末の屋敷地(763坪・2,500平方メートル余)の約半分であるが、敷地内に主屋、土蔵、三社、庭園が現存している。
江戸時代の中級武家屋敷の様子を良好に伝えている。

         

         

         

                   

                 
         

旧前島家住宅では、ボランティアのご婦人2人に漬物とお茶で歓待され、しばしば茶のみ談義となった。こんな経験は初めてのことである。

このほか、松代城下の武家住宅は、旧樋口家(禄高230石)住宅、20mの長屋門を移築した白井家(100石)表門、22mもの松代藩最大級といわれる長屋門がある山寺常山(160石)邸、そして筆頭家老格無役席の矢沢家(1,400石)表門などが現存している。
今回は、ぶらり旅ではなかったので残念ではあるが見学はカットとなった。「いずれまた。」となるだろうか?


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信濃国・修那羅山安宮神社の石仏像群を訪ねて

2012-11-11 11:39:05 | 信州路&甲斐路
石仏群を訪ねて

長野県東筑摩郡麻績村(ひがしちくまぐんおみむら)をはしる長野自動車道の麻績インターチェンジから別所温泉に通じる「県道12号・丸子信州新線」道すじの舟窪山に標高1,037mの修那羅(しょなら)峠がある。
そこは、長野県のほぼ中央に位置的する。
修那羅峠って、名前からイメージすると、平家の落人の亡霊が出るとか、光彦さん(内田康夫作品の浅見光彦)や金田一耕助(横溝正史作品)に出てくる峠の名前のようにも思えるが、
この峠、古くから小県郡(ちいさがたぐん)と麻績地方を結ぶ「安坂(あさか)峠」と呼ばれていて、近くに大国主命を祀る祠があった。

         



幕末期の1855(安政2)年、修験者としてこの地に修那羅大天武(望月留次郎)が住み着いた。
修那羅大天武は、1795(寛政7)年に新潟県頚城(くびき)郡妙高村大鹿に生まれた。1803(享和11)年、9歳で天狗に従って家を出て、妙義山、秩父三峯山、相州大山、鳳来寺山、豊前彦山神社、加賀白山、越中立山、佐渡金鳳山など、各地の名山、神社仏閣を巡って修行を重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられて、霊験を身に付けたという。
そして修那羅大天武はこの地で、弟子や信者たちと修行を行い定住した。
1855(安政2)年、この地方が旱魃(かんばつ)に襲われた際に、雨乞いの修法を乞うため、近隣の村人たちが峠に登ってきた。修那羅大天武はこれを受けて修法を行うと雨が降ったという。
やがて霊験あらかたな加持祈祷ということで、信濃国の各地から人々が集まることとなった。
いつしか峠に行く道を「ショナラさん」へ行く道と、安坂峠は修那羅峠と呼ばれるようになった。
村人たちは、願いをかなえてもらったお礼に手づくりの石仏・石神を奉納した。
その熱い信仰と感謝の気持ちが積もり積もって800余体となり、神社の摂末社として祀られている。中には平成の年号が刻まれた石仏も見当たる。
         
1872(明治5)年に、修那羅大天武は旅先で死去するが、その遺言により、門弟信徒の手で、「舟窪社」に大国主命と共に「修那羅大天武命」として合祀された。
「舟窪社」とは、社の縁起によれば、戦国時代の頃から大国主命を祀る小祠としてはじまったが、修那羅大天武がここに定住して社殿を造ってから、舟窪山にあることから舟窪社と名付けられ、さらに1902(明治35)年から修那羅山安宮社(しょならさんやすみやしゃ)に改められたという。
    
         

         

         

社の裏山と呼ぶべき境内に祀られている病気平癒、安産、農事豊作などを祈る石仏・石神群は、徳川時代末期から明治前期にかけての神仏混合時代の典型的形態を呈しており、祭神賀美観音、木妻大明神、金神、天神、道祖神、唐猫大明神、八幡宮、千手観音、鬼神催促金神、水天宮、弁天宮、子育宮等をはじめとする石仏や神像が鎮座している大小の石詞もある。後で知ったが、松代藩士佐久間象山(1811~1864)が奉献した千手観音像も祀られているという。

         

         

      

         

         

      

         

         

      

         

         

      

地元筑北村の広報では、『この末社のほとんどが作者不明ではありますが、素朴な感を呈し、且つ力強い表現は全国に比類なく、更に自然に相溶けあった美しさは、参拝客の心を和ませてくれます。』と書かれている。

         

         

長野自動車道麻績ICから修那羅山安宮神社へのアクセスは、
県道12号「丸子信州新線」を南へ6km。 県道沿いの修那羅峠に駐車場がある。そこから800m、徒歩15~20分。
或いは手前の坂井村氷室、バス停「桂石」を右折して道なりにくねくねと登り「修那羅森林公園キャンプ場」を越えて行くと神社へ歩いて数分という駐車場もある。
この駐車場からは下図のように鳥居をくぐって思索の森の「修那羅遊歩道」を歩むか、右手の舗装された道を安宮神社まで進んでいく。
「修那羅遊歩道」を選ぶと、早くから石仏像群と対面もできる。
                                         

その駐車場は丁度ドウダンツツジが紅葉の盛りであった。
余談であるが、ドウダンツツジは、灯台ツツジとも呼ばれ、枝分かれしている様子が、昔夜間の明りに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その”トウダイ”から転じたものといわれる。
結び灯台とは、三本の棒を途中で結わえて開いたものの上に油盞(あぶらつき・油皿と同じ)を載せただけのもので、宮中行事で使用された。

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松本城

2012-06-23 14:35:32 | 信州路&甲斐路
松本城

          

松本城は安土桃山時代末期から江戸時代初期に建てられた。
五重六階建ての天守閣は、文禄年間(1593~94)に建てられ、日本最古である。

松本城は、戦国時代の永正(えいしょう)年間(1504~20)に小笠原氏が建てた深志城が始まりとされる。
その後武田信玄が小笠原氏を追いだし、信濃支配の拠点とした。しかし、その武田氏も織田・徳川連合軍に敗れ、織田信長も本能寺の変で失脚すると、その動乱に乗じて再び小笠原氏が深志城を奪還し、松本城と名を改めた。
別名烏城と呼ばれているが、これは天守閣を築城した小笠原氏が主である豊臣秀吉に忠義のしるしという意味から大阪城と同じ黒色にしたともいわれる。現存する天守で唯一の黒である。
そして、関ヶ原以降の天守は白の天守が建てられている。

天守閣
本格的な五重以上の天守閣を最初に建てたのは、織田信長が1579(天正7)年、安土城の天守であるといわれる。しかし、天守のようなものはそれ以前にも様々建てられている。
城の象徴というべき天守を流行させたのは秀吉で、大阪城、伏見城と豪華な天守を建造した。諸藩の大名たちもそれに習って建造していった。
徳川時代になっても、今も残る名古屋城、姫路城をはじめとして諸大名が大規模な天守を建設していく。
しかし、それも徳川三代将軍家光が発布した「武家諸法度」によって高層の天守建設が禁止され、御殿や二の丸、三の丸といった城の拡充へと移っていく。

1873(明治6)年、明治政府によって廃城令が公布され、多くの城が失われた。また、第二次世界大戦に依っても失われ、江戸時代以前からの現存している天守は現在、12に数える。そして、松本城をはじめ姫路城、彦根城、犬山城の4城が国宝になっている。

          

            

 


                    嵐にゆらぐ  戦国の
                    幾多城主は  変われども
                    夜陰に月の  光淡く
                    古城よ哀れ  夢哀れ
                    女鳥羽の流れ  今なお
                    乱世を偲ぶ  松本城
                    嗚呼  松本城


          



    
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屋代線 松代駅

2012-06-20 14:44:11 | 信州路&甲斐路
           

勤め帰りの客が、学校帰りの客が、買い物帰りの客が降りてくるような駅舎である。
長野電鉄屋代線の松代駅である。
残念ながら今年の4月に廃線となってしまっている。



屋代、須坂間の24km余を13駅で結んでいた。日中は90分おきに2両編成の車両が走っていた。
利用客400人余の松代駅は数少ない有人駅であった。

今は、代替のバスが運行されているという。

           

先だって「廃線を歩く」というTV番組が放送されていて、意外な鉄道が廃線となっていて驚いた。

高千穂駅がある高千穂線(2008年廃線)、恋路駅があるのと鉄道能登線(2005年廃線)。

個人の手ではどうにもならないけれど廃線は残念である。
古くは愛の国から幸福への北海道・広尾線がある。なつかしい名前である。
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信州・真田氏ゆかりの地を訪ねる  その1

2012-06-17 11:07:17 | 信州路&甲斐路
真田氏ゆかりの地を訪ねる

真田氏といえば、真田幸村(信繁)、大助(幸正)親子の名が浮かぶ。
私の子供時代は、真田十勇士も登場するマンガや映画が数多くあって、それを観ては楽しんだ。
入梅前の2日間信州を旅し、真田氏ゆかりの地を訪れ、戦国時代から幕末までの信州における真田氏一族の歴史の一片にふれてみた。

           
 
          
真田氏本城跡  上田市真田町長十林寺
真田氏本城は、長野県小県郡(ちいさがたぐん)真田町にあった山城であり、戦国期に活躍する真田一族発祥の地である真田の郷にあった。別名「松尾城」という。
築城は天文年間(1532-55)に真田幸隆の手によると伝えられるが、発掘調査によると真田氏以前にもこの地には、山城が存在していたと考えられている。
1551(天文20)年に、武田信玄の命を受けて小県の所領を回復した後、幸隆・信綱・昌幸の三代にわたって真田本城およびその支城群が整備され、上田城に移るまでの真田氏本城であったと考えられている。
当時の真田氏本城については資料が残されておらず、不明な点が多いという。
      



           
                    本城跡から真田郷をのぞむ


真田氏館跡  上田市真田町本原
真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、地元では現在でも、「御屋敷」と呼んで親しまれている。
築造は永禄年間(1558~70)の頃と推定され、幸隆、信綱、昌幸の三代にわたっての居館であったが、1583(天正11)年、昌幸の上田築城によって当主の居館としての使命は終わっっている。
この地は、北東に真田氏本城、東に天白城、北に神川を隔てて横尾城と尾曲城、西に戸石城と矢沢城と近い距離に真田氏の城群を望むことのできる真田郷の要衝の地である。
また、中世豪族の居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の貴重な遺跡として1967(昭和42)年に長野県史跡の指定を受ける。
現在は「御屋敷公園」として整備され、真田氏歴史館も隣接して建っている。 
本城跡には、真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太(こうたい)神社が今も祀られている。

                       館跡の地図と真田氏歴史館


                             皇太神社


上田城  上田市二の丸
上田城は真田昌幸が、1583(天正11)年、千曲川沿いに築いた。
昌幸は旧主である武田信玄にならって領民に善政を敷き、上田はこの地域における中核的な城下町として成長していった。
幸村(信繁)の父・昌幸は、武田氏家臣に始まり、織田・北条・徳川氏や上杉氏など主家を転々と変え、最終的に豊臣秀吉の家臣となる。
1585(天正12)年と1600(慶長5)年の二度にわたる徳川軍との「上田合戦」では、昌幸が勝利している。
第二次上田合戦では、西軍(関ヶ原の戦)に加わり、徳川二代将軍・秀忠率いる3万8千人を3千5百人の兵力で撃退した。
しかし、西軍が敗れたため、昌幸・幸村父子は紀州九度山に幽閉され、上田城は破壊される。
代わって東軍に与した長男の真田信之が父の領地を継承、信之は1616(元和2)年上田に移り、徳川体制下における真田氏の上田藩9万5千石が成立した。1622(元和8)年、幕命によって信濃松代藩へ移封される。
真田氏移封後の上田城は、仙石氏が入城し、破却された上田城を再建した。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園になって市営球場、市民会館、市立博物館などが置かれている。本丸跡には、明治時代に歴代城主を祀った松平神社が建立され、現在では真田神社と呼ばれている。
境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。

上田城三櫓

         南櫓                  北櫓                  西櫓

           
                           東虎口櫓門

           
            松代への移封の際昌之が父の形見として持って行こうとした「真田石」

           
               城外への抜け穴と思われる井戸 奥は真田神社の神殿


松代城  長野市松代町松代
1622(元和8)年、真田信之が上田藩より移封されて以降、明治の廃城まで約250年間、譜代待遇の外様大名松代藩真田家十代10万石の居城となった。
譜代待遇とは、八代幸貫(ゆきつら)が、徳川八代将軍吉宗の孫である松平定信の子にあたるためである。
幕末では、比較的早くから討幕で藩内が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参戦している。
松代城は、武田信玄が、越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、山本勘助に命じて武田方の前進基地として築かれた海津城が始まりといわれる。当時この城は、北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていた。
          

          


真田邸(御殿跡)  長野市松代町松代
真田邸は、1864(元治元)年、九代藩主幸教(ゆきのり)によって建てられた。当初は義母・貞松院(ていしょういん)の住居として建てられたが、僅か100日間使われただけで、その後は幸教の隠居所となった。明治以降は真田家の別邸として使用されていた。
邸内には、小堀遠州作の流れをくむという心字池を中心とした庭がある。




       

           




真田山長谷寺  上田市真田町長
長谷寺(ちょうこくじ)は、真田氏の祖となった幸隆が妻の菩提のために、1547(天文15)年に開いた寺院である。その後三男・昌幸によって真田家の菩提寺となった。1622(元和8)年、真田家は松代に移封となったため、菩提寺は信之によって松代の長国寺になり、長谷寺はその末寺となっている。境内には、幸隆夫妻と昌幸の墓がある。
真田家は家系図によると幸隆から先の先祖が示されているが、家系図は大名となった江戸時代に示されたもので信憑性には疑問があるといわれる。はっきりしていることは、戦国時代の初めのころ、信州小県の山間にある真田郷に真田幸隆と名乗る小豪族がいたということだけのようだ。
寺院の参道には、六文銭が陽刻されたアーチ型石門がある。これは、創建当時のものといわれる。

                  長谷寺参道 中央に六文銭が刻まれた石門

           
                            長谷寺本堂



               
                         真田幸隆夫妻と昌幸の墓所

文武学校  長野市松代町松代
松代藩・八代藩主幸貫(ゆきつら)は、文武の奨励を目的として、1851(嘉永4)年に水戸の弘道館に習った文武学校(藩校)の建設準備をし、九代藩主・幸教が幸貫の遺志をついで建設に着手した。
建物は1853(嘉永6)年に完成したが、藩主の居宅の火災などで開校は1855(安政2)年まで遅れた。
本校の特徴は他藩と違い儒教の教えを排除した点にある。
学校の授業は、文学(漢学)・躾方・医学・軍学のほか、西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸と文武両道を目指すものであった。
明治に入って兵制士官学校を併設し1871(明治4)年の廃藩による閉鎖まで多くの人材を輩出し、近代日本の発展に大きく寄与した。
建物は、現在も開校当時の姿を留めている。
          

          





六文銭
六連銭或いは六文連銭というようで、信濃国・小県の氏族・滋野氏が使用していた紋でその流れをくむ諸族が使用していたという。真田氏も滋野氏族の流れなので使用してはいたが、戦時の旗に入れる旗紋など定紋の替りの替紋として用いられていたようだ。
真田氏が六連銭を用いたのは真田氏の祖ともいうべき幸隆が武田氏に臣従した際だとの逸話が残されている。
だが、我々にとっての六文銭は真田幸村であろう。
           

真田氏の歴史にふれてみたとかっこ良く始めたが、「信州・真田氏ゆかりの地」を辿るのはまだ序の口に過ぎないことを行き先々で感じた。
そこで、今回は「その1」ということにして、再度「信州の真田氏ゆかりの地」を旅してみたい。


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信州・戸隠神社に参拝

2012-06-10 10:52:42 | 信州路&甲斐路
戸隠神社

「この先には、あの天岩戸を開けた、怪力の神様がいるそうです」
アマポーラ♪の音楽にのせ、小百合さんのナレーションで始まるJR大人の休日クラブ「戸隠神社」編


その戸隠神社を参拝する。
     

太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になってしまった「岩戸隠れの伝説」の舞台である。
戸隠神社の祭神は、天の岩戸開きの神事に功績のあった神々である。
太陽神の岩戸隠れは、現代でいうと皆既日食にあたるのであろう。

遠い神世の昔、天の岩戸が飛来して化成したといわれる戸隠山の麓に鎮座する戸隠神社は、奥社・九頭龍社・中社・火之御子社・宝光社の五社 からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史がある。

          


宝光社(ほうこうしゃ)
麓から上ってくると最初の戸隠神社のひとつ。
学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神である天表春命(あめのうわはるのみこと)が祭神。旧宝光院。
権現造の拝殿周りは、みごとな龍、鳳凰、麒麟、唐獅子牡丹、象の木鼻、十二支などの彫物が飾られている。残念ながら今は修理で全景を見ることが出来ない。
          

          

          

火之御子社(ひのみこしゃ・日之御子社とも)
宝光社の上1.5kmほどの場所にある。
祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。他に高皇産霊命(たかむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。舞楽や芸能、また火防の神とされる。
他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であった。
          

          

                    

中社(ちゅうしゃ)
火之御子社の上1.5kmほど。
祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神。知恵の神ともされる。
境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されている。
旧中院。
          

          

                    

          

戸隠神社参道入口
    
ここから1kmのところに随神門が建っている。

随神門
参道入口からm進むと赤い随神門がある。
戸隠神社は平安時代後期以降より、天台密教や真言密教と神道が習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光であって、随神門はそれまでは、金剛力士が安置される仁王門であった。
明治初期に神仏分離令や修験宗廃止令が明治政府によって次々と出された。神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまい、影響は大きかった。戸隠山顕光寺は寺を分離して戸隠神社と名を変え、宗僧は還俗して神官となった。 当時の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに現在も祀られているという。
          
          

戸隠神社の九頭龍社、奥社に続く参道には、17世紀に植えられたとされるクマスギが右側に150本、左側に130本の並木が500m続く。あと1kmの道のりだ。
神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいたという。
                  

参道右手に祠のように穴が開い杉の木がある。これがCMで、小百合さんが中に入った杉の木か。
                  
                   

参道は、ここから10分ほど上り坂は続きやがて石段になる。
      

飯綱大権現
杉並木の途切れた辺りから参道は急な坂道や石段となり、飯綱大権現の社は奥社の左手前に建てられている。
変幻自在の天狗・飯縄大明神は不動明王の化身ともされ、戦国武将から守護神として崇敬されていた。上杉謙信は兜の前立てに飯縄明神像を、武田信玄も甲州に勧請、持仏として身に付けていたという。
   

九頭龍社(くずりゅうしゃ)
奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。
祭神は九頭龍大神。古くは雨乞い、縁結びの他、虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。
          

奥社(おくしゃ)
中社から2.5kmほど車道を登った後、真っ直ぐ続く約2kmの参道を徒歩で1時間ほど登りきった場所にある。
祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。
          

          

社務所の前には八重の桜が今盛りと咲いている。街中と季節が大きく違っている。
          

信州に梅雨入り宣言が出される前日に参拝に訪れた。天気はピーカンとまではいかないが晴れていた。
でも、天の岩戸開きの神事に功績のあった神々宿るところとしては、曇天か、霧雨が降る天候が神秘的な雰囲気をかもし出しよく似合うと思う。
近頃はパワースポットの場として雑誌などに取り上げられている。パワースポットとは、「聖地」とか「霊場」と呼ばれる。その場所に行くことによって、それまでに感じなかった不思議な力を感じ、その力によって元気になったり、健康になったりする気がするという。

今回ここに参ってその御利益は・・・。

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