富岡山長昌寺(臨済宗建長寺派) 本尊:釈迦如来
小田原北条の家臣の柳下豊後守が亡き妻(法名桂窓長昌大姉)の菩提を弔うために当時の鎌倉禅興寺(現在は明月院)明月院の仙渓和尚を招いて1574(天正2)年長昌庵を創建したことがはじまりとされる。寺号の長昌はその法名に由来。
観音堂には楊柳観音(芋観音)が安置されている。
芋観音はほうそう(天然痘)除けの神で、もともと富岡北の鳥貝塚にあったが、1936(昭和11)年に横浜海軍航空隊が開設された時にこちらに移された。
布袋和尚は900年頃(平安時代中期)、中国の禅僧で福を呼ぶ弥勒菩薩の化身と尊ばれた。
1191(建久2)年、源頼朝が摂津国西宮の蛭子神(恵比寿神)を勧請して創建、安貞年間(1227~29年)に八幡神が合祀されたという。八幡宮の山が応長の大津波から富岡地区を守ったことから「波除八幡」の別名を持つ。
深川の富岡八幡宮はこちらの分霊が祀られている。
江戸時代、関西の商人はおもに千石船で江戸との交易を盛んに行い、海上安全イコール商売繁昌の神様との信仰が盛んとなり、商売繁昌の福の神としても崇敬されるようになった。
此木山寶蔵院(真言宗御室派) 本尊:大日如来 他に阿弥陀三尊、十三仏尊像等
1858(安政5)年に末寺西方寺が火災に遭ったため、創建の由来や由緒を伝える資料は殆ど残されていない。そのため創建や縁起は不詳である。しかし、本尊や寺に残る諸仏が鎌倉時代のものであるため、恐らく開基は鎌倉時代後期であろうといわれている。明治維新まで真言宗宝蔵院が小柴熊野神社の別当寺であった。
伝承によると、鎌倉時代末期、1311(応長元)年、隣村の長浜村で大津波が起こり、長浜千軒と言われた村は一瞬にして海に流されました。
海中に流されて漂う村人達は、この寺の公孫樹の木の麓のかがり火を目安に辿りつき、この土地に住み着き、村の名前をお寺の山号の此の木村とした。その後、柴村になった。
以来現在に至るまで、柴村の人々の信仰によって永きにわたりお寺を守ってきた。そのためか古い形態を残す一村一寺のお寺である。
嗣法山伝心寺(しほうざんでんしんじ)(曹洞宗) 本尊:釈迦如来
創建後、数回の火災により衰運したが、1521(大永元)年、小田原北条氏の玉縄場主・氏繁が養拙宗牧(ようせつしゅぼく)大和尚を招いて開山とされる。 氏繁の墓碑が墓地中央にある。
知足山龍華寺(真言宗御室派) 本尊:大日如来
源頼朝が文治年間(1185~90年)中に六浦山中に建てた浄願寺が始まりとされる。1499(明応8)年、融弁上人によって、光徳寺併合され移築、龍華寺となった。
元来、この地は入海の狭い海峡(瀬戸)で干満時に急流となり、海上交通の難所であったため、5~6世紀の頃から海神を祀っていたようだ。その霊地に源頼朝が挙兵に際して戦勝を祈願して、伊豆三島明神を勧請したのが瀬戸神社の始まり。そのため瀬戸三島明神とも呼ばれる。主祭神は大山祇神( オオヤマツミ)。
妻、政子が日頃崇敬していた弁財天を祀ったのが境内社の琵琶島神社で舟寄弁天や立身弁財天とも呼ばれる立ったままの弁財天が祀られている。
赤井山正法院(あかいさんしょうぼういん)(真言宗御室派) 本尊:阿弥陀如来
今から約1200年程前、弘法大師がこの地に来て井戸を掘り、この井戸水を真言密教で加持し、この水で不動明王像を描き護摩の祈祷を行ったのが、正法院の始まりと伝えられている。
当時の村人は地下水を利用する知識がなく、水不足に苦しみ、疫病がはやり苦難にあえいでいた。
釜利谷が一望できる当院の裏山には、不動堂が祀られており、「赤井の不動様」として親しまれている。また、この赤井の井戸が、山号となり、地名となり、金沢の七井(ななせい)の一つに数えられている。
かつては富岡漁港として入江であったが、埋立後は昔の海岸線の面影を残す入江となっている。
当時の富岡地区の海は、海苔の養殖を始めとする漁業が盛んであった。
金沢地先埋立に際し、主に富岡八幡宮の800年以上の伝統をもつ「祇園舟神事」の水域を残すことを目的として造られた。
金沢山(きんたくさん)称名寺 (真言律宗) 本尊:弥勒菩薩(国指定重要文化財)
金沢北条氏一門の菩提寺。
鎌倉幕府の要人・北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂から起源とされる。
実時の孫・貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えた。
朱塗りの赤門、突き当りには鎌倉時代に造られた高さ4mの仁王像が祀られる仁王門。
阿字ヶ池を中心とした「浄土庭園」が広がり、四季折々の景観が楽しめる。
参拝客が楼門の手前まで行列が伸びていた
初代内閣総理大臣伊藤博文が1898(明治31)年に建てた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築。伊藤博文が風光明媚な金沢の地を好んで建てたといわる。
明治時代、富岡などの金沢近辺は、東京近郊の海浜別荘地として注目され、第4・6代内閣総理大臣の松方正義や大蔵・外務大臣等を務めた井上馨、日本画の大家の川合玉堂などが別荘を設けた。その後、大磯や葉山などが別荘地として栄え、金沢はその役割を終えている。当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構である。
庭園からは海が一望できる。
もしかしたらとわずかながらの期待をしてきたのだが、年末年始の休刊日であった。
1887(明治20)年、伊藤博文を中心とした政府要人らが東屋旅館に集まりで明治憲法の草案づくりをした。
東屋旅館は江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、瀬戸橋近く立ち並ぶ旅館のひとつ。
1935(昭和10)年、東屋の庭に「憲法草創の碑」が建てられるが、東屋の廃業により、一時野島に移され、その後、現在の三叉路ロータリーに移設された。
京浜急行金沢八景駅から称名寺までの道を「歴史の道」と名付けている。途中には中世から現代までの歴史を感じさせる寺社仏閣・遺跡などががある。
♥姫小島水門跡
永島家六代目段右衛門が、金沢入江新田開発の際に海水流入防止の目的で1785(天明5)年に水門を造った。
姫小島の名前は、この地域にある「照手姫と小栗判官」伝承からという。
●八景島シーパラダイス
七福神のスタンプシートには八景島を加えて八カ所回るようになっている。
これまで鎌倉・浅草・日本橋・池上の七福神や瀬谷区の達磨大師を加えた八福神或いは川崎桜本の坂本九さんと福招猫を加えた九福神をめぐった。
今年は大きな自然災害が無いように金澤七福神をめぐった
資料:横浜市金沢観光協会他
訪れた日:2020.1.1