あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

大名庭園「六義園」に行く

2012-10-30 17:24:32 | 東京散策
                      江戸の名園を今に残す

六義園(りくぎえん)は1695(元禄8)年に加賀藩の旧下屋敷跡地を五代将軍・綱吉から拝領した柳沢吉保が、自らの設計、指揮により、平坦な武蔵野の大地に土を盛って丘を築き、千川上水(せんかわじょうすい)を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園で、自らの下屋敷として造営した繊細で温和な大名庭園である。
千川上水とは、玉川上水を水源とし、現在の東京都西東京市から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路(上水)であり、江戸の六上水のひとつであった(現在は暗渠)。

庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義(むくさ)」、すなわち六つの基調を表す語、風・ 賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来するといわれている。
  風(ふう)・・・・民間で行われる歌謡
  賦(ふ)・・・・・・感想をそのまま述べたもの
  比(ひ)・・・・・・例をとって感想を述べたもの
  興(きょう)・・外的に触れて感想を述べたもの
  雅(が)・・・・・・朝廷でうたわれる雅正(がせい)の詞藻(しそう)
  頌(しょう)・・宋廟頌徳(そうびょうしょうとく)の詞藻(しそう)

築造当時は「むくさのその」と呼んでいた。
庭園は中之島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されている。
明治時代に入り、、維新後荒れたままになっていた庭園が整備された。このときに現在見られるような赤煉瓦の塀で周囲を囲った。但し、岩崎弥太郎氏が所有した岩崎邸屋敷範囲は現在の六義園の敷地よりも東西南北に広かったといわれる。江戸の柳沢下屋敷も然りとのこと。
岩崎弥太郎は六義園を1878(明治11)年に入手しており、同じ頃に清澄(きよすみ)庭園(江東区)も手に入れている。その後はさらに六義園に隣接する藤堂・安藤・前田諸家の邸地、併せて約12万坪(396,000㎡)を入手し別邸を建てた。
その後1938(昭和13)年に東京市に寄付され一般公開されることになり、1953(昭和28)年に国の特別名勝に指定されている。
と案内されている。

染井門
JR山手線駒込駅を降り、本郷通りを歩いてすぐにある六義園の裏門。
通常は閉鎖されているが、桜や紅葉のライトアップで賑わう期間中は開門される。
         

         

六義園正門
         

六義園碑と東京市石碑
1938(昭和13)年に、六義園は岩崎久弥(弥太郎の長男)によって東京市に寄附された。その時の記念として「東京市石碑」が建てられた。六義園の成り立ちも記されている。
花見の時期には「六義園碑」の脇にヒモウセンが敷かれた縁台や和傘が雰囲気を高めているという。



内庭大門
正門を入り、左へ折れ、そこから庭園の中心に入るための門でその先の広場にはシダレザクラの大木が植えられている。
「内庭大門」は岩崎家所有当時の雰囲気を残している。現在の門は東京市に移管されてから再建されている。
         

しだれ桜
しだれ桜は、戦後に植栽されて50年以上経過しており、高さ約15m、幅20mにも及んでいる。開花は3月下旬で、満開の時期には枝いっぱいに薄紅色の花を咲かせている。
開花期の2週間ほど21時までライトアップされている。
         

新脩六義園碑(しんしゅうりくぎえんひ)
六義園は作られた当時から評判が高く、当時の霊元上皇が、公家たちの和歌を添えて吉保に下賜(かし)していて、上皇が一幕臣の庭園に和歌を贈るというのは極めて異例のことであった。
これほど評判が高かった六義園であったが、一時はその利用がなく、荒廃してしまった。そこで、庭園が完成してからほぼ100年後の江戸時代中期・1809(文化6)年、四代柳沢保光は、家臣に命じて復旧工事を行った。この時に建てられたのが、この「新脩六義園碑」である。石碑の後面にはこの復旧工事の経緯が、また前面には「六義園八景」の名称が記されている。
記された八景は、若浦春曙・軒端山月・筑波陰霧・蘆辺水禽・吟花夕照・紀川涼風・東叡幽鐘・士峯晴雪である。
         

妹山・背山(いものやま・せのやま)
中の島にある築山を妹山、背山と呼ぶ。古くは女性のことを妹(いも)、男性のことを背(せ)と呼び、この中の島は男女の間柄を表現している。
    

         

出汐湊(でしおのみなと)
正門側の内門くぐってすぐの岸。
渓流から大河川、それが最終的に海へと流れていく河口の湊をイメージしている。
         

田鶴橋
中の島に通じる橋である。
         

渡月橋
園内に架かっている6ヵ所のうちのひとつの橋で、2枚の大岩の重量感があたりの雰囲気を引き締めている石橋である。
         

藤代峠から
藤代峠から中の島(妹山・背山)方面を望む。
藤代峠は、園内で一番高い築山で標高35m。頂は「富士見山」と呼ばれ、素晴らしい展望が開けている。紀州(和歌山)にある同名の峠から名付けられた。
         

蛛道(さゝがにのみち)
さゝがにとはクモの古い呼び名で、老が峰の北側を通る樹幹の小道はクモの糸のように細いところから、そう名付けられた。
         

山陰橋
園内4ヵ所ある土橋のひとつ。千鳥・白鴎・山陰・藤浪と名の付いている。土留めの瓦の隙間に生える夏草が、そこはかとない風情とかもしだしている。
          

つつじ茶屋
明治年間、つつじの古木材を用いて建てられた。戦災を免れ、現代にその希少な姿を伝えている。残念ながら震災の影響で近くに行けない。
         

臥龍石(がりゅうせき)
園内の中央の泉水に浮かぶ龍の背のような姿を見せる石の島。妹背山(中の島)のすぐ脇にある。左手の土橋は「白鳳橋」である。

吹上茶屋と蓬莱島(ほうらいじま)
蓬莱島は神仙思想を主題とした石組の一種で、典型的な洞窟石組(アーチ形)の島。蓬莱島とは、不老不死の仙人が住んでいると言われる島のこと。
この石組は柳沢吉保時代にはなかった。
         

吹上浜・吹上松
「吹上浜」は和歌山の「吹上」にちなんで名付けられている。和歌山の吹上にはかつて砂丘と松林があり『根上がり松』がある。それに模して「吹上松」の変わった形の松が見られる。
六義園がつくられた時の絵図面には園内に多くの松が描かれており、松が庭園の主要な樹木出会ったことが分かる。現在、そのほとんどが失われたが、この「吹上松」の老木のみが絵図面と同じ位置にある。
         

滝見の茶屋と千鳥橋
あずまや「滝見の茶屋」の横を渓流が走る。あずまやからは、滝や水分石(みずわけいし)の石組などの景観がみられる。奥の土橋が千鳥橋である。
         

心泉亭
松・つつじ・もみじの間の3つの和室があり、集会所として貸し出されている。
         

六義館跡
「六義園」を吉保自身「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」とかいて「むくさのたち」と読ませていた。
         

レンガ塀
このレンガ塀は第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、構築された塀であって、岩崎家所有当時の外周塀ではない。しかし、岩崎家が所有していた湯島や本所の邸外周にレンガ塀が採り入れられていることで六義園外周をレンガ塀を施したという。
         

背高泡立草(セイタカアワダチソウ)
背高泡立草の黄色い花が咲いている。この植物は北アメリカ原産の外来種である。
明治時代末期に萩の代用切り花として持ち込まれ「代萩」とも呼ばれている。河川の土手や線路脇の空き地にもこの時期、今が盛りと咲いている。
昭和の初めには既に帰化が確認されていたようだが、その存在が目立つようになったのはアメリカ軍の輸送物資によって種が運ばれてきた頃のようだ。
ここで泡立草を取り上げたのは外来種で日本庭園にはふさわしくないことも然りであるが、今や沖縄から北海道の一部にも自生し、さらに北限が上昇しているという。
現在、外来生物法により要注意外来生物に指定されているほか、日本生態学会によって日本の侵略的外来種ワースト100にも選ばれている植物でもある。
この草の繁殖は種はもとより根によっても広がる多年草である。そして悩ましいのは、根から化学物質を出すして周囲の植物の成長を抑制することである。
花が咲いている季節は綺麗で見た目は良いのだが、そのうち日本中の植物が駆逐してしまうのではと花が咲くこの季節になると危惧する。
日本タンポポが西洋タンポポにその座を奪われているよりももっと心配せねばならないかも知れない。
        


 
紅葉の季節となった。六義園の紅葉はライトアップされてこのような美しい色彩になるようだ。
今年は11月22日から12月9日まで毎日21時までライトアップされる。

         

                                 「駒込界隈を歩く」
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和洋の庭「旧古河庭園」をたずねる

2012-10-28 10:57:16 | 東京散策
                       大正の息吹に触れる

武蔵野台地の斜面を巧みに利用し、北側の小高い丘に洋館を、傾斜地に洋風庭園、低地には日本庭園が配置されている旧古河庭園をたずねる。

           

明治期のこの地は陸奥宗光の邸宅であったが、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったため、所有が古河家に移った。
大正期にはいり、西洋館と庭園が造られ現在の形となり、末期では古川家が転居し、その後古河家の迎賓館として使用されていた。
昭和にはいり、第二次世界大戦中は陸軍に、戦後は連合軍に接収され、イギリス大使館付駐日武官の宿舎などにも利用されていた。その後、財産税納税の折、物納し国有財産になる。
後に東京都に無償で貸し出され、1956(昭和31)年都立公園として開園した。その後も洋館は半ば放置された状態で荒廃が進んだが、修復工事がおこなわれ現在の状態にまで復元された。総面積9,300坪余(30,780平方m)の古河庭園は、2006(平成18)年に、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。
と、いう。


石造りの洋館

          

          

                     

          

          

洋館は往復はがきで事前(10日ほど前に到着)に申し込めば見学できる。見学はガイドによる1時間ほどのツアー方式で1日3回おこなわれている。
見学者に余裕があれば当日順番待ちで見学できるようである。

日本庭園

          

          

          

           大滝

              

          
         害虫被害を防ぐため松に「こも巻き」の作業を丁度行っていた。断って写す。
         「こも巻き」作業は季節の風物詩として今時期の話題にも取り上げられる。



洋風庭園
テラス式の庭園に植えられたバラは、春と秋に大輪の花を咲かせ、洋館の風情と相まって異国情緒を感じさせる。秋バラは500種あり、訪れる人を堪能させている。

          


          

                   



                   




アクセス
 JR京浜東北線「上中里」駅下車7分
 JR山手線「駒込」駅下車12分
 東京メトロ南北線「西ヶ原」駅7分
 駐車場はなく観光バスが本郷通りに路駐をしていた。
 近くには平塚神社、少々足を延ばすが特別名勝「六義園」もあり、庭園の梯子も可能。またまた、六義園からはバスで岩崎邸庭園にも行けるという。

       
        
          


旧古河庭園は秋のバラフェスティバル開催中であって、バラの見ごろの立札の出ていて丁度良い時に訪れたと思った。
洋館入口付近にはテーブル付きのベンチも置かれており、お昼時であったので食事をとった。


                                   「駒込界隈を歩く」

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わが家のガチョウ羽化騒動

2012-10-13 16:51:09 | 生きもの
鉢植えのレモンの木にサナギがついているのを9月の中旬に気がついた。
それからひと月たった今日、サナギから成虫が抜け出たのを早朝に見つける。

                

成虫は枯葉の文様をした羽をつぼめている。
        

カメラを3台用意して成虫が舞う時を待つ。
昼食も近くで、舞い上がりを待ち続ける。
              

全長は55mm、大きい。
        

動き始めたのは、気付いてから7時間後。
羽が広がり、どうも蝶ではなくて蛾なんだなと、少々落胆。
        

        

        

        

        


枯葉に擬態した蛾。名前は調べたが不明である。
               

        


秋に羽化した蛾のひと騒動であった。
画像はカメラ3台で500枚弱。

園まりさんの歌に『蛾』とうい曲がある。1979年の作品だそうだ。
たまたま騒動の前日にYouTubeでこの曲を聞いた。彼女の曲としては異質の感じがする歌である。
あとで思うと、それを聞いたことがわが家の騒動の始まりだったようだ。

コメント (2)
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500年を迎える北条玉縄城とその周辺を歩く

2012-10-05 13:24:53 | 歴史散策
玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった平野部にある丘陵を利用して本丸を築き、周囲に外郭を設けた平山城である。別名甘縄城ともいう。  
戦国時代の1512(永正9)年、三浦氏攻略の為に北条早雲によって現在の清泉女学院がある玉縄の小高い山の上に築かれていた。
難攻不落の堅固な山城で、1526(大永6)年、里見八犬伝で知られている安房の里見実堯(さとみさねたか)の攻撃も、1561(永禄4)年の長尾影虎(かげとら)の攻撃も撃退した。
影虎の小田原攻めは1カ月にも及ぶ包囲にもかかわらず陥落せず、のち、影虎は鎌倉に兵を引いた。この時に鶴岡八幡宮で関東官領職就任式を行い名前を上杉政虎(まさとら)と上杉姓を名乗る(謙信の名は法名である)。
余談ではあるが小田原攻めで多摩川を渡るにあたり現在の川崎市中原区上平間のガス橋付近を渡ったと川崎市が発行した歴史刊行物に書かれているのを最近読んだ。歴史に名だたる上杉謙信がわが故郷「上平間」ガス橋付近を通ったなんて450年前のはなしではあるが嬉しい限りである。
玉縄城は小田原北条氏が関東を支配する際の重要な拠点であったが、豊臣・徳川連合軍の小田原攻めの際に無血開城した後は徳川家康の重臣、本多正信が城主となる。その後も松平家三代が城主となって玉縄藩なるものが一時存在したが、1619年に廃城となった。
新編相模風土記稿によると、
『(前略)ここは山を背面に置き、さらに海に出ることも容易にでき、しかも幹線道路である東海道からも半里(2km)の距離に位置する場所で、四方の道をふさぐことができる。まさに絶好の要害の地である。』と書かれている。
         


今回の玉縄城めぐりは、横浜市教育委員会がバックの郷土資料館が歴史講座の一環で「玉縄城本丸跡とその周辺を歩く」と称し募集したので参加した。

    

大船
スタートは大船駅からである。
大船といえば駅前の「大船観音(白衣観音像)」が有名である。
大船観音は曹洞宗の大船観音寺に所在し、地元の有志によって1929(昭和4)年に築造が開始されたが戦局の悪化により一時中断され、その後しばらく放置されていたものが、1960(昭和35)年にようやく完成した。
現在、大船のシンボルとなり夜間にはライトアップされている。
「大船」の語源は大きな船が入ったため「大船」、また粟を積んだ船が出入りしたため「粟船」から転じたといわれる。大船五丁目には粟舟山(ぞくせんざん)常楽寺があり、その裏の丘が「あわふねやま」と呼ばれているところもある。
         

戸部橋
柏尾川に架かる橋で小田原・藤沢から鎌倉方向に向かう場所、"鎌倉の玄関口"にあたる。
小田原に本拠を定めた北条氏は、三浦半島にまで勢力を延ばした。玉縄城はそのための拠点でもあった。
その進行は対岸安房で勢力を延ばしていた里見氏にも脅威であった。
1526(大永6)年、里見氏は由比ヶ浜から上陸し、鎌倉を襲撃し北条軍と戦いとなった。この際、鶴岡八幡宮が消失した(鶴岡八幡宮の戦い)。消失した鶴岡八幡宮は14年後に北条氏綱(北条家二代)が再建している。
鶴岡八幡宮の炎上により里見軍は鎌倉から玉縄城に向かった。だが、玉縄城を守る北条氏は城の手前、戸部川(柏尾川)の"鎌倉の玄関口"にあたる戸部橋付近で進撃する里見軍を迎え撃ち、これを撃退したといいこのあたりは古戦場であった。
         

首塚
戸部橋の道から少々引っ込んだ戸部会館(鎌倉市岡本2-2-20付近)前に首塚はある。近くには鯵の押し寿司弁当の大船軒社長の住まいもあると聞く。
         
新編相模風土記稿には、首塚のことを次の様に記載している。
『(岡本村)首塚:戸部橋の近くにあり、その高さ六尺(約182cm)程度である。伝承によると、1526(大永6)年12月に里見義弘が鎌倉に攻撃したとき、玉縄城主の北条氏時は、戸部川付近まで出撃して防戦するが、わが軍の兵隊35人が戦死した。氏時は、敵軍の首級と彼らの遺体を交換してここに埋めて、塚を築いた。(後略)』
中央の五輪塔が首塚とされ、隣に「怨親平等(おんしんびょうどう)」碑(1968(昭和43)年建立)が建っている。
                        
                            五輪塔

                   
                          怨親平等碑 

毎年8月19日には、首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が開催され、玉縄地区6寺院の僧侶が導師となって法要が行われている。 首塚前には奉納提灯やぼんぼりが飾られ点灯し、柏尾川での灯籠流しも行われる。
この8月19日という日は意味がなく、ただ単にお盆明けで住民が暇というか、ゆとりがある期日ということのようだ。

陣屋坂
何故に陣屋坂と名付けられているかは不明。玉縄城の始まりである。
   

大手口
陣屋坂を登り切った右手が「大手口」がある。
                   
                       大手口付近の案内表示板

その手前右手の小高いところに1956(昭和31)年に建てられた玉縄城碑と1675(延宝3)年の庚申塔などが置かれている。
       

大手門
玉縄城で唯一昔が残されている諏訪壇跡に進む入口がここである。当時は大手門があったところのようで「大手門址」の立札がたっている。
         

通常は入れない場所であるが今回はご厚意によって見学できた。
細い路地を進むと右に折れる上り坂となる。鎌倉側の景色が開けている。
坂を登り切ると清泉女学院のテニスコートが見えてくる。何故か女子生徒が2人練習をしていた。
右手が土塁で高くなっている。諏訪壇に進むコンクリート製の階段がある。
                   

奥には石垣が組まれている。何時頃組まれたものなのだろうか。
         


諏訪壇
1549(天文18)年、玉縄三代城主北条綱成が城の鎮守として信濃諏訪大社を勧請(かんじょう)した。諏訪大社は鶴岡八幡宮と並んで武勇の神様といわれている。この地は本丸東側の土塁の一番高い場所にある。『壇』とは土を盛り上げてつくった、祭りその他の儀式を行う場所とあるので、戦の際にはこの諏訪壇に祀った諏訪社に戦勝祈願をして出陣をしたのではないだろうか。新編相模風土記稿によると、この諏訪壇は岡本村の諏訪神社の旧地であるとも書かれている。尚、綱成は今川家から北条家に養子に来て「玉縄衆」という住民をを引き連れた武将である。
諏訪壇の奥に入って行くと三角点の杭があった。国土地理院のHPで調べると「城山四等三角点」であるようだ。
四等三角点は2kmに一点定められており、せまい日本でも6万9千点あるという。
    
         ちょっと見にくいが中央の白い杭が「城山四等三角点」である  

本丸跡
諏訪壇の先は下りとなって清泉女学院の校舎が見え始める。
         

コンクリート製の階段を下りて行くと左手に1926(大正15)年に建てられた「玉縄城址碑」がある。      
                 

ここは清泉女学院の正門の前にあたる。このあたりに玉縄城の本丸があったようだ。こちらからも事前に申し込みをすれば立ち入りできるようなことがあるブロブに書かれていた。
                 
七曲坂
七曲は新編相模風土記稿に『城廻村の小名で、玉縄城址の麓のことである。』と書かれており四代城主氏繁の夫人の屋敷が七曲坂の中ほどにあったという。
七曲とは坂などが幾重にも折れ曲がっているところの意。
         

この道は大手門への登城路のひとつとされていたが、近年一部の地域住民にしか利用されておらずカミヤツデなどが生い茂っていた。
このほど整備が終了し、500年祭の期間中は「玉縄城を偲ぶコース」の舞台として手造りの二本の柱の上部に横木を貫き渡し、屋根のない冠木門(かぶきもん)を坂の下に設け、坂途中の広場には陣営を演出した柵などを配置し往時の玉縄城を偲ぶという。
         


龍寶寺(りゅうほうじ)  鎌倉市植木128
1503(文亀3)年、北条綱成の開基の曹洞宗の寺院で、玉縄城主の墓所がある。三門は元禄年間(17世紀末)の建築とされる。
         

         

「玉縄北条氏供養塔」は元和年間から寛永5年ごろに現在の栄光学園の敷地内に建てられたものをこの地に移設した。玉縄城主の墓はこの奥にあるようだ。
 

龍寶寺敷地内には国指定重要文化財「旧石井家住宅」や「新井白石碑」が建っている。
「新井白石碑」がなぜあるかというとこのあたりに白石の所領地があったようで、近くの玉縄小学校の校歌には石碑のことが『庭面に高くたてられし しるしの石はその昔 文の教えをいや深く 究めし人のかたみなり』と歌いこまれている。
    
       見るも無残な立札であるが「新井白石碑」と書かれていたようだ

「旧石井家住宅」は、元禄期に建てられた農家を移築したものである。石井家はもともと北条氏に属した地侍で、北条氏滅亡後帰農し、関谷村の名主を代々務めたと伝わる。
         

諏訪神社
玉縄北条氏の守護神。
1512(永正9年)、北条早雲が玉縄城築城の際に信濃諏訪大社より城内(諏訪壇)に勧請したとされたが、1619(元和5年)、玉縄城が廃止となると、村人によって現在地に移された。
その際に関谷の御霊神社と合祀されたため、扁額には「御霊・諏訪両大神」と記されている。
         

         

                     
                     御霊・諏訪両大神と記された扁額



玉縄城について検索していると以下のような記事が載っており頷ける面があるので紹介したい。
『玉縄城は戦国北条氏、関東全体の歴史の中でも特異な位置を占める重要な城であったはずで、航空写真によれば昭和30年代まではかなり良好な残存度を誇っていたはず。しかし今や、その中心部には女学院が建っている。(中略)現在の学校関係者には何の罪も無い話です。一自治体、一教育施設の問題ではなく、要するにここが開発された昭和の時代の日本人にとって、「史跡」というものの価値を認める、などという心の余裕などどこにもなかったことを象徴する場所と言えるでしょう。土地利用も開発も時の流れとはいえ、経済性と効率のみが重視される時代にあって、失ってはいけないものが失われてしまった、その典型的な例と言えるのではないでしょうか。』と、ある。
高度成長まっしぐら時代の我々が反省すべき一面なのであろう。


            


玉縄城は今年築城して500年になる。そこで、それを記念して地元では10月下旬から11月上旬にかけて様々な行事を計画されている。

     

           

    

    

    

   

                


鎌倉が「」として世界遺産に申請しているが、この玉縄城も鎌倉である。500年を記念してひと羽ばたきするのか
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