あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

皇居参観

2011-06-20 15:04:17 | 東京散策
皇居参観
 桔梗門~[1]窓明館(休所)~[2]元枢密院庁舎~[3]富士見櫓~[6]宮内庁庁舎~[7]宮殿東庭・長和殿~[9]正門鉄橋~[10]伏見櫓~[7]宮殿東庭~豊明殿~[11]山下通り~[4]蓮池濠~[3]富士見櫓~桔梗門

         

桔梗門 
皇居参観者は、この桔梗門(ききょうもん)から出入りする。
「内桜田門」と呼ばれているが、昔この門の瓦に太田道灌の桔梗の家紋がついていたことから桔梗門と呼ばれるようになったとも伝えられている。

 
 高麗門と渡櫓門

 
 石垣には普請した大名の家紋(丸に十字・島津藩)が刻まれている【赤丸内】


元枢密院庁舎 
1921(大正10)年に完成、国会議事堂のモデルになった建物と言われている。 当時近世復興式と呼ばれた鉄筋コンクリート2階建ての建物で、広さは約1,740平方mである。

              


富士見櫓
江戸城旧本丸の東南隅に位置する櫓(やぐら)で、当時、品川の海や富士山を眺められたと云われている。この三重櫓の富士見櫓は、1659(万治2)年に再建したもの。天守閣が1657(明暦3)年の大火で焼失した後は復旧されなかったため、富士見櫓が天守閣の代用とされたと伝えられる。
石垣は主に伊豆の自然石で、加藤清正公が主に普請したと云われる。
石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mで、江戸城本丸の遺構として現在貴重な存在となっている。

              



宮内庁庁舎 
1935(昭和10)年に建築された建物で、1968(昭和43)の宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。 昭和の初期にこの宮内庁庁舎で1度だけ一般参賀が行われ、正面玄関上の2階の屋根に昭和天皇皇后両陛下がお立ちになったことがある。
また、今上天皇皇后両陛下がご成婚された時のパレードがここからスタートした。

 
 坂下門と宮内庁庁舎

坂下門
西の丸大手門と桔梗門(内桜田門)との間にあり、現在は宮内庁への出入り口となっている。
この門は西の丸の造営後、新たに造られたと伝えられている。

              
           皇居内からの坂下門 お濠側からでは分らなかったが門をくぐるとすぐに坂となっていた

宮殿 
正殿、豊明殿、長和殿など7つの棟から構成されており、国賓等の接伴(晩餐会など)や国の公の儀式・行事(親任式、歌会始など)に使われている。

長和殿
宮殿で一番長い建物が「長和殿」で長さが160mあり、この場所で、新年1月2日と天皇誕生日・12月23日の年2回、天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央のバルコニーにお出ましになり国民からのお祝いを直接お受けになる。

 
 宮殿東庭と長和殿 


豊明殿
大きな饗宴が催されるときに使われ、宮殿のうちで最も広い部屋で一棟一室となっている。
内閣の組閣が行われるとき、「正殿松の間」で内閣の親任・認定式が終ったあとで、豊明殿玄関前の赤いジュウタンで記念撮影が行われる。

              


宮殿の南庭
長和殿の左奥に「宮殿の南庭」がある。二つの小山のように見える刈り込みは「南庭の大刈り込み」と云っていろいろな樹木が合わさって出来た刈り込みであり、高いところでは大きなもので6mもある。刈り込みはすべて手バサミで職人が刈り込んでいる。大刈り込みの下は小川が流れていると云う。

              


正門鉄橋
この橋は以前は木製であった。堀が大変深いために、江戸時代には橋桁を上下二重に組んで橋の上に橋を作っていたために「二重橋」と呼ばれていた。現在は鉄製となり名称も「正門鉄橋」になっており、今は二重橋とは言わない。但し、正門鉄橋と石橋を合わせて、通称で「二重橋」と言う場合もあると云う。

              

            
             現在の石橋電飾燈(左)と以前使用されていた石橋電飾塔(東御苑)


正門石橋 
江戸時代は土で出来た土橋であったが、現在は石で出来た橋で、「正門石橋」が正式名称となっている。
しかし、案内板には正門石橋を二重橋と誤ってガイドしているようで、皇居を参観した際、係の方が「二重橋とは言わないので、注意してください。」と説明しているとのこと。

              
               正門鉄橋から眺めた正門石橋

              
           お濠側からの正門石橋 左手に皇居正門(西の丸大手門) 奥に伏見櫓と十四間多聞


伏見櫓 
江戸城築城第二期(三代将軍家光の頃)の1628(寛永5)年に京都伏見城から移築したと伝えられる。当時の西の丸殿舎の西南隅に建てられたもので、左右には大きな多聞(たもん・城の石垣の上に築いた長屋造りの建物、兵器庫と防壁を兼ね多聞長屋と呼ばれていた)も残っている。別名「月見櫓」とも呼ばれており、皇居で最も美しい櫓と云われる。

 


蓮池濠 毎年7~8月には人の顔ほどになる大きな花が咲くと云う。

              

およそ1時間15分の参観で、あっと云う間に終わってしまった感がある。緑や花が多くあるので四季折々の楽しみ方が出来ると思う。

皇居の参観は事前に電話・Faxやインターネットなどでの申込が必要となっている。
              
                                                    (参考資料:宮内庁HP)
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江戸城内濠の御門

2011-06-12 18:08:59 | 東京散策
江戸城内濠には、現在は公園となっている北の丸地区を除くと9つの御門がある。皇居一周のマラソンコースにもなっている内濠の御門を巡ってみた。

先ずは江戸城の正門である大手門からぐるっとひと回り。

大手門
旧江戸城の正門で、1607(慶長12)年に完成。その後、1620(元和6)年の江戸城修復で、伊達政宗等によって現在のような桝形(ますがた)様式の城門になったと謂われている。枡形様式とは2つの門からなり、第一の門(高麗門)を通ると枡形の空地がある。右折すると第二の門(渡櫓門)となる城郭門である。
明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失して1967(昭和42)に復元された。
鉄砲30、弓10などの武具により譜代10万石以上の大名が大手門の警備を勤めたと云う。


                                    
           大手門渡櫓門
この門から三百諸侯が威儀を正して登城して、大手下乗門(大手三の門)、大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至った。
渡櫓門の外壁が剥がれている、東日本大震災の影響がここまで及んでいた。改めて地震の凄さを知る。

              
               大手門高麗門


平川門
江戸城の裏門、大奥に最も近いことで、大奥女中達の出入りする通用門でもあり、別名御局門とも呼ばれたようだ。
また、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようである。
太田道灌(1432~1486)のころからここに門が作られていて、当時は門の前が上平川村や下平川村があったことから、平川門と名付けられた。


 平川門渡櫓門(左)と高麗門
平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう平川濠に伸びた細長い城郭(=帯曲輪)を持つのが特徴。
城内の糞尿、死体、それに罪人を城外に出す門を不浄門と呼ぶが、江戸城の不浄門を平川門そのものと云う説や平川門から竹橋門に通じた通路を指す説、平川門の脇にある帯曲輪門(おびくるわもん)が不浄門とする説などがあるが、赤穂藩藩主浅野内匠頭(1667~1701)は、何処を通ったのだろうか。

    
                          帯曲輪門

              
               江戸時代の擬宝珠(ぎぼし)付きの欄干のある木造の平川橋


北桔橋門
天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてあった。
また、橋ははね上がる仕掛けにして、通常は上げられ有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていた。
 近くの乾濠と蓮池の間に架かる西桔橋もはね上がる構造の西桔橋門がかつてあった。

              


乾門
明治になってから建てられた京風の門。現在は主に皇族方の通用門である。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、この名がついたと云う。
現在は東日本大震災の影響なのか工事用シートで前面覆われている(左)。




半蔵門
明治になってから建てられた京風の門。現在は主に皇族方の通用門である。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、この名がついたと云う。

              


桜田門
元々この門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていたが、1636(寛永13)年に、それまでの門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになる。古くこの辺りを桜田郷と呼んだことに由来する。
桜田門は江戸見附様式で枡形形式の城郭門であり、江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在し、桔梗門の内桜田門に対し、この桜田門は外桜田門と呼ばれる。
この桜田門の桝形は、西の丸防備のため、現存している城郭門の中では最も広い規模である。1961(昭和36)年、国の重要文化財に指定された。
1860(安政7)年、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼(いいなおすけ)が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件があった。【桜田門外の変】


              
               桜田門渡櫓門

      
       桔梗門高麗門と地震発生時の注意書


坂下門
西の丸大手門と桔梗門(内桜田門)との間にあり、宮内庁への出入り口となっている。
西の丸の造営後に新たに造られたと伝えられている。
 坂下門も元々は枡形城郭門の様式で、門前には橋があったが、明治になり、橋や高麗門は撤去され、奥にあった渡櫓門の向きも変えて、現在の場所に移築されている。
公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、1862(文久2)年、水戸浪士を中心とする
尊王攘夷派の志士に坂下門外で襲われた事件があったところ。【坂下門外の変】

              


桔梗門
桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれているが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋(桔梗)がついていたことから桔梗門と 呼ばれるようになったとも伝えられている。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれている。


桔梗門高麗門(左)と渡櫓門


渡櫓門の石垣に丸に十字が刻まれている この辺りを薩摩藩が普請した


桔梗濠
現在、濠の石垣を大がかりに補修している。
外した石垣は現状回復できるようひとつ一つ整理、富士見櫓下に保管されている。




皇居正門と二重橋
皇居正門の元の名称は西の丸大手門だった。元々はこの門の前に第一の門、高麗門があって枡形の空き地があり、空き地を曲がると第二の門(高麗門)のある枡形城郭門の様式であったが、1888(明治21)年の 明治宮殿造営のときに高麗門を撤去し、名称も皇居正門と改めた。 建造は3代将軍徳川家光公の時代(1623~1651年)と推定される。
天皇誕生日と新年2日の皇居一般参賀にはこの正門から入場する。

              
               皇居正門

本来なら近くまで行けるのだが危険と云うことでロープが張られていた。警備の警察官に尋ねると、陛下のお気持ちは被災地の復興を先にとおっしゃっているのではないだろうかとのことで、近くまで行けるのは当分先ではなかろうかと話していた。桜田門も最近まで通行止めだったとのこと。

         
          皇居正門石橋(手前)と皇居正門鉄橋 現在はこの二つを称して二重橋
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天城山隧道

2011-06-09 17:02:49 | 散策
         

「天城トンネル」の名で親しまれている「天城山隧道」は1905(明治38)年に天城湯ヶ島町と河津町を結ぶトンネルとして開通した。
              
              

長さ446m、幅3.5m、高さ3.5mの隧道(トンネル)である。

              

1970(昭和45)年に新しい天城トンネルが開通したため、現在では旧隧道に関心がある車のみの往来のため、車を気使うことなく安全に歩いて通ることができる。トンネル内部は灯りが点いている。

              

天城トンネルと云えば川端康成作の「伊豆の踊り子」をはじめとする多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。

           

踊子歩道として浄蓮の滝と河津七滝を結ぶ16.2kmの文学散策コースにもなっている。
 
    
     伊豆の踊り子文学碑               

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。・・・

伊豆の旅に出た一高生の私は、天城峠で出会った踊り子の清純な姿にひかれ、その旅芸人の一行と下田まで道づれとなった。

        

                 瞳の美しい薫と云う名の踊り子は14歳



          
           初景滝の踊り子と私像

2001(平成13)年、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治後期を代表する隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。
また、日本の道100選にもなっている。

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江戸城二の丸庭園

2011-06-08 13:22:21 | 東京散策
二の丸庭園

          

江戸時代、二の丸には、小堀遠州が造り、三代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園があったが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していた。

現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当り、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られた回遊式庭園。

              
              

              






二の丸雑木林

この雑木林は、昭和天皇のご発案により、武蔵野の面影を持つ樹林として、1982(昭和57)年から1985(昭和60)年にかけて整備したもの。

          
           ここが都心なのかととまどう。


                                   関連 : 皇居参観
                                         江戸城内濠の御門
                                         
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丹沢ボッカ駅伝競争大会 お疲れさま

2011-06-06 15:21:49 | 丹沢大倉尾根
                

             第25回丹沢ボッカ駅伝競争大会が2011年6月5日行われた。




大会は大倉バス停前をスタート。
各クラス毎の荷重をかけたザックなどを背負い大倉尾根を駆け上がる。





4区間をリレーし花立山荘前でゴールする。




第2中継点は見晴茶屋前。
撮影した朝6時、準備万端整い小屋の前で競技役員45名(届出)が打合せを行っていた。
スタート時刻の3時間前のこと。




第3中継点は駒止茶屋前、我ポジション、競技役員38名(届出)。




受付風景
選手は健康等のメディカルカードを記入しゼッケンを受け取る。




参加チーム90。
青のゼッケンは負荷20kgのB1クラス。参加数が一番多く今回66チーム。男女混成が4チーム。
赤のゼッケンは負荷10kgのCクラス。12チーム。
緑のゼッケンは負荷40kgのAクラス。一番重いクラスで6チーム。
黄のゼッケンは負荷10kgのB3クラス。高校生のチームで6チーム、それぞれ参加している。
外国人チームがひとつ参加していた。




リーレー風景
荷重をかけたザックなどを受け取り第4中継点のある「堀山の家」めがけて駆け上がる。
ここは距離が短く標高差も小さいためスピードが出るコースである。
そのためチーム力によって差が開くコースでもある。
また、混成チームはこの区間に女性が出場する。
昨年、セイラー服をユニフォームにした奇抜なチームは今回出場していないが、オリジナルのTシャツを着て出場したチームが増えている。




出場を待つ選手たち。




発砲スチロールを重ね重心を高い位置にして背負いやすいように工夫をしたチーム。



今回は25回と云う節目の記念大会であった。
大会は1987(昭和62)年32チームの参加で開始した。
それ以降、第5回から第13回までは出場100チームを超える盛況ぶりであった。
が、50から60チーム台がしばらく続く変遷がある。
NHKTVには数回取り上げられ、ここ第3区中継点にも女性の記者がカメラを持って登ってきたこともある。
また、数回前には芸人が出場したTV番組もあった。

3月11日と云う未曽有の出来事があったが、スポーツの持つ力を信じ、ひとりでも多くの人々に生きる喜びを蘇らせることを願う大会として開催した。
Tシャツに描かれた「がんばろう日本」の文字が映える。


ヘルスチェック表のチェック欄に「負荷をかけた練習をしていない」と云う回答項目があり、数チームが「はい」と答えていた。
練習をしないなんて無謀だなと思ったが、たまたまその無謀と思うチームと接触があった。
驚くことなかれ、40kg出場の若者のチームであり下見のしなかったという。制限時間の11時半には間に合わなかったが完走はした。「山を甘く見ず、次回は20kgから。」、「40kgを再挑戦。」と意見は分かれていたが、十分に練習を積んで来年も出場してもらいたい。
さわやかな印象を受けた若者たちだったのでそう願いたい。来年もまた!

                 関連 : 前年のボッカ駅伝競争大会



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河津七滝

2011-06-01 14:37:08 | 散策
          

河津七滝は古い岩層の上に溶岩が流れ込み、その末端に出来た滝である。
河津では滝のことを「タル」と呼ぶが、この言葉は平安時代から呼ばれている貴重な民族語で、水が垂れると云う意味の「垂水(たるみ)」がルーツとも云われている。

               
大滝遊歩道の案内板の脇を下りてゆく。この遊歩道は「大滝天城荘」の敷地内であり、幾つかの浴室の脇を通って行く。川辺にある露天風呂も眼下に見える。

大滝(おおたる)

旅館の敷地内にある大滝は高さ30mの落差があり、水が流れる勢いや、規模の大きさは七滝中最大である。

出合滝

名前が示すように河津本流と萩の入川が合流してひとつになるところにできた滝である。

かに滝

滝の白さと周囲の木々の緑のコントラストが美しい。






 ハイ、パチリッ! パネルが絵ではなく画像なので実物により近いかな

初景滝

昔、この滝の洞に住んで修行をしていた行者が、持っていた小金を目当てに襲われて殺され、滝つぼに投げ込まれた。その行者の名前が「初景」だった所から名付けられた。

蛇滝

玄武岩が蛇の鱗のように見えることから名付けられた。

えび滝

白く流れる滝がエビの尾ひれのように見えることからきている。

釜滝

覆い被さるような玄武岩の上から流れ落ちる。かつては地獄谷として恐れられていた。

柱状節理

河津七滝の周辺には岩が柱状に規則正しい割れ方をしているのを見ることができる。これを節理と云う。溶岩がゆっくりと流れながら冷えていくときにできるもので、その割れ方によって、方状、板状、柱状節理などがある。
河津七滝の場合は、玄武岩の溶岩からできた節理で、なかでも釜滝では、はっきりとその露頭を見せている。

ユキノシタの群生

花がきれいに咲いていた。


ガイドブックによると七滝全てを巡ると110分かかるようで、今まで全てを巡ったことはなかったのではと思って、今回は時間もあったのでのんびりと七滝巡りをした。
コメント (1)
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