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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

【追悼】 「ちい散歩」の先取り散歩

2012-06-29 20:41:33 | その他
地井武雄さんの訃報を聞き、驚きでいっぱいである。
健康を回復して「皆さ~ん! 最近、歩いていますか~!?」とすぐにでも「ちい散歩」に再登場すると思っていたのに残念でならない。

地井さんが体調不良で1月末に検査入院して「ちい散歩」の番組も5月4日に終了してしまった。
地井さんが出演した「ちい散歩」は2006年4月に始まって6年間放送した番組である。

番組が終わる1年ほど前からこの番組と私の散策とがおかしな偶然でつながっていることに気づいた。
それは、「ちい散歩」の番組より数日前に私が先に散歩しているのである。
「人生は偶然の積み重ね」というが、この言葉がこれにあてはまるかは分らぬが、偶然地井さんの放送の先取り散歩をしていた。

その幾つかの「先取り散歩」を紹介して地井武雄さんへの追悼としたい。


始まりは、2011年4月12日放送の「鹿島田」である。
この日、私は二ヶ領用水完成400年を記念して「二ヶ領用水を歩く」2日目で、二ヶ領用水を川崎市の高津から鹿島田まで歩いた。
出がけに偶然TV欄をみて「ちい散歩」で川崎市の鹿島田が紹介されることを知り何処を案内するのか楽しみに録画をセットして家を出たのである。
番組では地井さんも二ヶ領用水を紹介されていて、同じ日に放送と同じ場所に行ったことに驚いた。
    
      鹿島田の二ヶ領用水

二ヶ領用水に関連している中野島(2011.12.6放送)、稲田堤(2011.6.21放送)、宿河原(2011.8.8放送)の散策もあった。
              
               中野島駅 
              
               稲田堤
              
               宿河原堰


ふたつ目の偶然
「鹿島田」の放送から偶然がスタートし、そのあと9月24日に「弘明寺」の放送があったが横浜市南区の弘明寺は放送の10日ほど前の9月13日に訪れていた。 
              
               弘明寺の三門


3つ目と4つ目の偶然
それから、御嶽山(2011.10.21放送、訪れた日8.29)もあるが、11月末から今年にかけて偶然が度重なった。

 奥多摩・御岳山のケーブル駅と御嶽神社 参道のみやげ店には地井さんのスナップもあった

11月25日放送「特選ちい散歩、方南町・環七通りの住宅街」に建築業のお店の屋上に石膏でつくられた龍が出てきたのだが、その龍を偶然散策中に見つけたのである。それは放送の5日後、11月30日であった。
その日は「赤穂浪士のゆかりの地散策」で数カ所の街を歩いたのだが、最初の目的地である通称「釜寺」に向かった途中にこの石膏龍を見つけたのである。テレビを見ていた時には街の名すら気に留めず、コテでつくられた見事な龍の姿だけが印象に残っていたのであるが、まさか赤穂浪士のゆかりの地に行く前に見つけるなんて驚きで、「なんじゃ、こりゃ」と叫びたい心境だった。
              
その偶然のお陰でか、この日は目的地すべてがスムーズに行くことが出来た。


5つ目の偶然
その次が大磯町(2011.12.12放送)である。私も「東海道の宿場を歩く」で平塚宿まで巡りBlogに掲載している。大磯宿も近々にと下調べも終え、コースを決定し、あとは天候と相談して日程を決めるだけの状態であった時に放送があった。そこで、残念ながら今回は後追いになったが3日後の12月15日に大磯宿を探訪した。
   
    大磯宿の鴫立庵と今日の一枚の絵で描いた大ケヤキ


6つ目の偶然
その次は、ひと駅散歩「雪谷大塚駅――石川台駅」(2011.12.16)の放送である。放送が始まって、石川台駅って何処かで聞いた駅名だなと思った。それはその時にまとめていたBlog、「大御所様の道・中原街道を行く」に出てくる駅名だと思い出す。
池上線は池上・鎌田間を15駅で結ぶ住宅地の中を走る電車であるが池上・雪谷大塚間は中原街道と並行して走っている。
池上線といえば西島三枝子が歌って大ヒットした曲があるので、是非とも中原街道のBlogに池上線を書き添えたいと考えていた。ただ今回、「東急池上線・石川台駅」をBlogに載せたのは偶然出会った駅であったし、池上線の駅だったら戸越銀座駅もカメラに収めてあったが、何故に名の知れていない石川台駅を選んだのかは神のみぞ知るである。
              


7つ目の偶然
つぎは、「京都散歩(2011.12.25)」。
「ちい散歩」初の全国放送だそうである。萬田久子と合流した「哲学の道」を2ヶ月ほど前の10月31日の雨の中を歩いた。私の京都旅行は目的地変更の旅であった。本来は宮城・岩手の海岸線を歩く予定だったが大震災のために目的地を変更したことで、京都の旅自体が偶然の産物であった。
              
               哲学の道と疏水

8つ目の偶然
年が明けて2012年1月6日、ひと駅散歩「北品川駅――新馬場駅」の放送。
20日ほど前の2011年12年13日に「東海七福神散策」ということで新馬場駅に団体で降り、この駅から京急大森海岸駅までの旧品川宿を歩いた。
              


新馬場駅近くの品川神社にある地井さんも上った「富士塚」と頂上から眺める「ひと駅散歩」の京浜急行線

今年2月2日放送の、ひと駅散歩「青物横丁駅――鮫洲駅」に地井さんが回った千骵荒神がある海雲寺もその時参拝している。
    
     「青物横丁駅」への道標と地井さんが参詣した海運寺


「ちい散歩」の番組で地井さんは独特のキャラクター相まって「散歩の達人」として有名になり、地井さんのライフワークともなっていたようだ。謹んで冥福をお祈りします。

          

  「皆さ~ん! 最近、歩いていますか~!? 散歩っていいですよ! さぁ、散歩に出かけましょう!!」


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松本城

2012-06-23 14:35:32 | 信州路&甲斐路
松本城

          

松本城は安土桃山時代末期から江戸時代初期に建てられた。
五重六階建ての天守閣は、文禄年間(1593~94)に建てられ、日本最古である。

松本城は、戦国時代の永正(えいしょう)年間(1504~20)に小笠原氏が建てた深志城が始まりとされる。
その後武田信玄が小笠原氏を追いだし、信濃支配の拠点とした。しかし、その武田氏も織田・徳川連合軍に敗れ、織田信長も本能寺の変で失脚すると、その動乱に乗じて再び小笠原氏が深志城を奪還し、松本城と名を改めた。
別名烏城と呼ばれているが、これは天守閣を築城した小笠原氏が主である豊臣秀吉に忠義のしるしという意味から大阪城と同じ黒色にしたともいわれる。現存する天守で唯一の黒である。
そして、関ヶ原以降の天守は白の天守が建てられている。

天守閣
本格的な五重以上の天守閣を最初に建てたのは、織田信長が1579(天正7)年、安土城の天守であるといわれる。しかし、天守のようなものはそれ以前にも様々建てられている。
城の象徴というべき天守を流行させたのは秀吉で、大阪城、伏見城と豪華な天守を建造した。諸藩の大名たちもそれに習って建造していった。
徳川時代になっても、今も残る名古屋城、姫路城をはじめとして諸大名が大規模な天守を建設していく。
しかし、それも徳川三代将軍家光が発布した「武家諸法度」によって高層の天守建設が禁止され、御殿や二の丸、三の丸といった城の拡充へと移っていく。

1873(明治6)年、明治政府によって廃城令が公布され、多くの城が失われた。また、第二次世界大戦に依っても失われ、江戸時代以前からの現存している天守は現在、12に数える。そして、松本城をはじめ姫路城、彦根城、犬山城の4城が国宝になっている。

          

            

 


                    嵐にゆらぐ  戦国の
                    幾多城主は  変われども
                    夜陰に月の  光淡く
                    古城よ哀れ  夢哀れ
                    女鳥羽の流れ  今なお
                    乱世を偲ぶ  松本城
                    嗚呼  松本城


          



    
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屋代線 松代駅

2012-06-20 14:44:11 | 信州路&甲斐路
           

勤め帰りの客が、学校帰りの客が、買い物帰りの客が降りてくるような駅舎である。
長野電鉄屋代線の松代駅である。
残念ながら今年の4月に廃線となってしまっている。



屋代、須坂間の24km余を13駅で結んでいた。日中は90分おきに2両編成の車両が走っていた。
利用客400人余の松代駅は数少ない有人駅であった。

今は、代替のバスが運行されているという。

           

先だって「廃線を歩く」というTV番組が放送されていて、意外な鉄道が廃線となっていて驚いた。

高千穂駅がある高千穂線(2008年廃線)、恋路駅があるのと鉄道能登線(2005年廃線)。

個人の手ではどうにもならないけれど廃線は残念である。
古くは愛の国から幸福への北海道・広尾線がある。なつかしい名前である。
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信州・真田氏ゆかりの地を訪ねる  その1

2012-06-17 11:07:17 | 信州路&甲斐路
真田氏ゆかりの地を訪ねる

真田氏といえば、真田幸村(信繁)、大助(幸正)親子の名が浮かぶ。
私の子供時代は、真田十勇士も登場するマンガや映画が数多くあって、それを観ては楽しんだ。
入梅前の2日間信州を旅し、真田氏ゆかりの地を訪れ、戦国時代から幕末までの信州における真田氏一族の歴史の一片にふれてみた。

           
 
          
真田氏本城跡  上田市真田町長十林寺
真田氏本城は、長野県小県郡(ちいさがたぐん)真田町にあった山城であり、戦国期に活躍する真田一族発祥の地である真田の郷にあった。別名「松尾城」という。
築城は天文年間(1532-55)に真田幸隆の手によると伝えられるが、発掘調査によると真田氏以前にもこの地には、山城が存在していたと考えられている。
1551(天文20)年に、武田信玄の命を受けて小県の所領を回復した後、幸隆・信綱・昌幸の三代にわたって真田本城およびその支城群が整備され、上田城に移るまでの真田氏本城であったと考えられている。
当時の真田氏本城については資料が残されておらず、不明な点が多いという。
      



           
                    本城跡から真田郷をのぞむ


真田氏館跡  上田市真田町本原
真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、地元では現在でも、「御屋敷」と呼んで親しまれている。
築造は永禄年間(1558~70)の頃と推定され、幸隆、信綱、昌幸の三代にわたっての居館であったが、1583(天正11)年、昌幸の上田築城によって当主の居館としての使命は終わっっている。
この地は、北東に真田氏本城、東に天白城、北に神川を隔てて横尾城と尾曲城、西に戸石城と矢沢城と近い距離に真田氏の城群を望むことのできる真田郷の要衝の地である。
また、中世豪族の居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の貴重な遺跡として1967(昭和42)年に長野県史跡の指定を受ける。
現在は「御屋敷公園」として整備され、真田氏歴史館も隣接して建っている。 
本城跡には、真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太(こうたい)神社が今も祀られている。

                       館跡の地図と真田氏歴史館


                             皇太神社


上田城  上田市二の丸
上田城は真田昌幸が、1583(天正11)年、千曲川沿いに築いた。
昌幸は旧主である武田信玄にならって領民に善政を敷き、上田はこの地域における中核的な城下町として成長していった。
幸村(信繁)の父・昌幸は、武田氏家臣に始まり、織田・北条・徳川氏や上杉氏など主家を転々と変え、最終的に豊臣秀吉の家臣となる。
1585(天正12)年と1600(慶長5)年の二度にわたる徳川軍との「上田合戦」では、昌幸が勝利している。
第二次上田合戦では、西軍(関ヶ原の戦)に加わり、徳川二代将軍・秀忠率いる3万8千人を3千5百人の兵力で撃退した。
しかし、西軍が敗れたため、昌幸・幸村父子は紀州九度山に幽閉され、上田城は破壊される。
代わって東軍に与した長男の真田信之が父の領地を継承、信之は1616(元和2)年上田に移り、徳川体制下における真田氏の上田藩9万5千石が成立した。1622(元和8)年、幕命によって信濃松代藩へ移封される。
真田氏移封後の上田城は、仙石氏が入城し、破却された上田城を再建した。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園になって市営球場、市民会館、市立博物館などが置かれている。本丸跡には、明治時代に歴代城主を祀った松平神社が建立され、現在では真田神社と呼ばれている。
境内には古井戸があり、「城外への抜け穴になっていた」との伝説がある。

上田城三櫓

         南櫓                  北櫓                  西櫓

           
                           東虎口櫓門

           
            松代への移封の際昌之が父の形見として持って行こうとした「真田石」

           
               城外への抜け穴と思われる井戸 奥は真田神社の神殿


松代城  長野市松代町松代
1622(元和8)年、真田信之が上田藩より移封されて以降、明治の廃城まで約250年間、譜代待遇の外様大名松代藩真田家十代10万石の居城となった。
譜代待遇とは、八代幸貫(ゆきつら)が、徳川八代将軍吉宗の孫である松平定信の子にあたるためである。
幕末では、比較的早くから討幕で藩内が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参戦している。
松代城は、武田信玄が、越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、山本勘助に命じて武田方の前進基地として築かれた海津城が始まりといわれる。当時この城は、北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていた。
          

          


真田邸(御殿跡)  長野市松代町松代
真田邸は、1864(元治元)年、九代藩主幸教(ゆきのり)によって建てられた。当初は義母・貞松院(ていしょういん)の住居として建てられたが、僅か100日間使われただけで、その後は幸教の隠居所となった。明治以降は真田家の別邸として使用されていた。
邸内には、小堀遠州作の流れをくむという心字池を中心とした庭がある。




       

           




真田山長谷寺  上田市真田町長
長谷寺(ちょうこくじ)は、真田氏の祖となった幸隆が妻の菩提のために、1547(天文15)年に開いた寺院である。その後三男・昌幸によって真田家の菩提寺となった。1622(元和8)年、真田家は松代に移封となったため、菩提寺は信之によって松代の長国寺になり、長谷寺はその末寺となっている。境内には、幸隆夫妻と昌幸の墓がある。
真田家は家系図によると幸隆から先の先祖が示されているが、家系図は大名となった江戸時代に示されたもので信憑性には疑問があるといわれる。はっきりしていることは、戦国時代の初めのころ、信州小県の山間にある真田郷に真田幸隆と名乗る小豪族がいたということだけのようだ。
寺院の参道には、六文銭が陽刻されたアーチ型石門がある。これは、創建当時のものといわれる。

                  長谷寺参道 中央に六文銭が刻まれた石門

           
                            長谷寺本堂



               
                         真田幸隆夫妻と昌幸の墓所

文武学校  長野市松代町松代
松代藩・八代藩主幸貫(ゆきつら)は、文武の奨励を目的として、1851(嘉永4)年に水戸の弘道館に習った文武学校(藩校)の建設準備をし、九代藩主・幸教が幸貫の遺志をついで建設に着手した。
建物は1853(嘉永6)年に完成したが、藩主の居宅の火災などで開校は1855(安政2)年まで遅れた。
本校の特徴は他藩と違い儒教の教えを排除した点にある。
学校の授業は、文学(漢学)・躾方・医学・軍学のほか、西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸と文武両道を目指すものであった。
明治に入って兵制士官学校を併設し1871(明治4)年の廃藩による閉鎖まで多くの人材を輩出し、近代日本の発展に大きく寄与した。
建物は、現在も開校当時の姿を留めている。
          

          





六文銭
六連銭或いは六文連銭というようで、信濃国・小県の氏族・滋野氏が使用していた紋でその流れをくむ諸族が使用していたという。真田氏も滋野氏族の流れなので使用してはいたが、戦時の旗に入れる旗紋など定紋の替りの替紋として用いられていたようだ。
真田氏が六連銭を用いたのは真田氏の祖ともいうべき幸隆が武田氏に臣従した際だとの逸話が残されている。
だが、我々にとっての六文銭は真田幸村であろう。
           

真田氏の歴史にふれてみたとかっこ良く始めたが、「信州・真田氏ゆかりの地」を辿るのはまだ序の口に過ぎないことを行き先々で感じた。
そこで、今回は「その1」ということにして、再度「信州の真田氏ゆかりの地」を旅してみたい。


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鎌倉七口を辿る その4(完)

2012-06-12 00:00:00 | 鎌倉巡り
鎌倉七口めぐり最終日の4日目、今回は極楽寺坂切通と大仏切通を辿る。

極楽寺坂切通(ごくらくじさかきりどおし)は、鎌倉七口の中で最も西南に位置し、鎌倉市極楽寺方面から由比ヶ浜に抜ける道である。現在は舗装された生活道路として使用されている。
鎌倉時代初期は海岸沿いの稲村路が使用されていて、後半になって極楽寺坂が開削され主要道路となったようである。
極楽寺坂切通といえば、1333(元弘3)年の新田義貞による鎌倉攻めの舞台になったことで有名となった。
義貞は、巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂の各切通に軍を配したが、鎌倉幕府の抵抗は大きく稲村ケ崎に転じ、剣を投じて干潮を祈願し、願いかなって鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府の終焉を迎えたのである。
               


大仏切通(だいぶつきりどおし)は、鎌倉市長谷と常盤台・深沢地区を結ぶ道である。現在は並行して車道とトンネルが走っている。
正確な開削時期は不明であるが、朝夷奈や巨福呂切通の開削から想像すると1241(仁治2)年から1250(建長2)年ごろの間であろうということだ。
               



本日の出発はJR鎌倉駅から江ノ電(江ノ島電鉄)に乗り極楽寺に向かう。鎌倉駅のホームには車両事業が110年、バス事業が85年を迎える旗が下がっていた。今年は江ノ電にとっては歴史の節目のようだ。
4両編成の藤沢行きに乗る。車内は小・中学校の遠足(社会見学)の生徒で一杯であったが、その生徒が長谷駅で降りると空席が出来るほどとなる。

次の極楽寺駅で下車する。降りた客はひとりだけである。
            
この駅は、「関東駅百選」にかつて選ばれたことがある。他に江ノ電駅では鎌倉高校前駅が選ばれている。極楽寺駅から3つ目の駅である。
鎌倉高校前駅は七里ガ浜が目の前に広がりドラマやCMに駅の周辺が度々登場している。極楽寺駅も「俺たちの朝」という古い青春ドラマに登場した。

駅前に極楽寺川が流れている。役目を終えたのか朽ちかけた水門の一部が残っている。駅の反対側は真言律宗(しんごんりっしゅう・真言密教)の極楽寺がある。
              

極楽寺
極楽寺は、中世には49箇院の子院を有する大寺院であった。境内は撮影禁止なので画像はないが、参道のなかほど左手にかつて「極楽寺の井」があったそうで、三門前を掘り起こした時に発見したという。その規模は、鎌倉石を8段積み上げた大きなもののようだ。
              


江ノ電の長谷駅と極楽寺駅の間に極楽寺洞というトンネルがある。それと並行して海側を通っている道が極楽寺坂切通である。そのまたさらに海側には成就院がある。
極楽寺坂切通は、はじめにも記述したが、現在は生活道路として車が往来している。
     

真言宗・成就院
平安時代初期、弘法大師が護摩供養をした跡地に鎌倉幕府三代執権・北条泰時が京都より高僧を招き、1219(承久元)年に建立した。本尊は縁結び不動として信仰されている。
1333(元弘3)年の鎌倉攻めで戦火にあい焼失し、江戸時代の元禄期(1688~170年)に再興した。
              
               
              

              

明月院と並ぶアジサイの寺であるが、花の最盛期にはまだ早く、ちらちらと参道脇に咲いていた。参道からは由比ヶ浜も眺められる。
              

極楽寺坂切通下の左手には「虚空蔵堂」と鎌倉十井の「星ノ井」がある。

星ノ井
「星ノ井」は、別名「星月夜ノ井」又は「星月ノ井」と呼ばれる。
むかし、この井戸を覗くと星が輝いて見えたという伝説からこの名がついた。
「星ノ井」は、極楽寺坂切通の下にあることで、明治時代には、井戸付近に茶店ができ賑わったという。大正時代には、茶店がなくなったものの、通行人に水を売っていたようである。
              

虚空蔵堂(明鏡山円満院星の井寺)
天平年間(729~49年)、行基が、「星ノ井」を覗くと虚空蔵菩薩が現れ、行基はその姿を仏像に彫りこの地にお堂を建立、安置したという。


「虚空蔵堂」左手先の力餅屋の角を曲がると、江ノ電の踏切の先に御霊神社がある。

御霊神社
鎌倉市には御霊神社が2つあるが、本社は通称鎌倉権五郎神社(かまくらごんごろうじんじゃ)と称されている。極楽寺坂切通から来る道路から神社に入る角には「御霊神社鎌倉権五郎景政」と書かれた標石柱が置かれている。
神社の創建は、詳しくは知られていないが、千年近く前の平安時代後期と思われる。もとは関東平氏五家、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の始祖5氏の霊を祀った神社とされ、五霊転じて御霊神社と称されたが、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政一柱だけを祀るようになった。
影政は、桓武天皇の末裔で、鎌倉党武士団を率いる一方、相模の国(戸塚・鎌倉・鵠沼・藤沢・茅ヶ崎)一帯を開拓した領主でもある。
源頼朝が鎌倉に入る前の相模の国は鎌倉党が支配していた。
              

              

次に長谷寺に向かう。江ノ電長谷駅から長谷寺や大仏に向かう沿道は、小中学校の生徒の列が連なり混雑している。時期的に悪い時に来たと2寺とも三門前で引き上げた。

長谷寺
736(天平8)年創建といわれ、鎌倉時代以前からの古刹である。
浄土宗系統の寺院で、通称長谷観音と呼ばれている。本尊は十一面観音菩薩像(長谷観音)である。
眺望散策路には、40種2,500株のアジサイが群生していて、梅雨の季節には参拝客を楽しませている。また、境内には大黒堂が建てられ鎌倉江ノ島七福神のひとつ大黒天が祀られている。
   

長谷寺から大仏に向かう途中左手に日蓮宗・光則寺がある。

光則寺
光則寺は、もとは鎌倉幕府五代執権・北条時頼の近臣、宿谷行時・光則父子の邸があった。
日蓮は、1260(文応元)年、この邸を訪れ立正安国論を行時の手を経て、時頼に差し出したといわれる。
立正安国論とは、当時の天変地異は法華経を背いた結果発生しているので、法華経を信じなければ安国にはならないと論じた書。
              

              

また、光則邸裏には日蓮の弟子日朗が幽閉された土の籠(牢)がある。
              
光則はその後日蓮に帰依し、この地に光則寺を創建した。
境内には、法華経の信者、宮沢賢治の詩碑『雨ニモマケズ』がたっている。
    
また、多種の鉢植えアジサイが境内に置かれている。楊貴妃という品種のアジサイが眼についた。 
               

鎌倉大仏
本尊の鎌倉大仏(阿弥陀如来像)が安置している高徳院は長谷にある浄土宗の寺院である。
詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基、開山共に不詳で、鎌倉大仏のシンボルである大仏造像の経緯も不詳とのことだ。
大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であったため、鎌倉大仏に限っては大仏と書いて「おさらぎ」と読む場合があるという。


高徳院三門前に石仏像群が祀られている。だが、大きな大仏の前では小さな石仏には眼もくれられない。観光客が大勢来て混雑しているのに可哀そうである。
               
               
次は、鎌倉七口最後の「大仏切通」にむかう。
大仏からもそんな時間はかからない。大仏前の駐車場を過ぎると道は直線となり遥かに大仏隧道が見える。 

大仏切通
大仏隧道の右手に「大仏切通」に行く階段がある。この階段は「裏大仏ハイキングコース」或いは「葛原岡・大仏ハイキングコース」と呼ばれるハイキングコースになっていて銭洗弁天や源氏山公園に通じる道である。階段はかなりの勾配で細い道である。遠足の小学校高学年の生徒が下りてくる。
            
上り階段の途中で「大仏切通」に分かれる。その先の道は全く人の気配がない。そのお陰というべきか苔むした切通をゆっくりと歩くことができた。
            

              

              

              

    
コースは、やぐら群を経て大仏隧道前の入口から30分ほどで出入口の「火の見下」バス停に着く。

 
こちらの出入口は案内板も見当たらないので切通へは入りづらい気がする。この切通も人っ子ひとり会わず終了した。
これで鎌倉七口全てを巡った。
時間も早いので住友常磐住宅の出入口に向かう。この出入口も案内板はないようだ。
そこから鎌倉駅に徒歩で向かい本日の鎌倉散策も無事終了である。

鎌倉七口全てを巡り終えて
頼朝が鎌倉に幕府を開いた最大の理由は一方を海に臨み、三方は山に囲まれる自然の要塞であったからであると聞く。しかし、逆に外部に出るには不便であった。
そこで、軍事的な機能は失わせずに人や物資の往来のための最小限の道を切り開いた。それが「切通」であった。
その切通しも現在では、舗装されて生活道路として人や物資が往来する切通(亀ヶ谷、化粧坂、極楽寺坂)もあれば、巨福呂坂のようにその役目を終え行き止まりとなったものもある。
            
                  亀ヶ谷                   化粧坂

              
                 極楽寺坂                 巨福呂坂
現代においても昔のにおいを嗅ぐことができる切通はやはり朝比奈(朝夷奈)切通であろう。この切通は人気もあるようで若いカップルや数組の行き交う人に出会った。1時間ほどの道程でやぐらや石像物に出合い、熊野神社のあることで1番のおすすめである。
その次は、名越(なごえ)切通である。今回は30分の散策コースとなったが、「まんだら堂やぐら群」が公開されている期間に鎌倉側から入って逗子駅までの1時間半コースがあるようで、そのコースを辿ればバラエティある切通巡りになるのではなかろうか。
3つ目は今回の「大仏切通」である。これも「火の見下」バス停から入って「大仏切通」を通り、ハイキングコースに入って、銭洗弁天や源氏山公園に向かうと面白いのかも知れぬ。

        朝比奈                 名越                  大仏

また、鎌倉五山や鎌倉十井を併せて巡ったが、記憶に残ったのは、竹藪と苔の「報国寺」と、十一面観音菩薩像を薄明かりの中でお会いした「杉本寺」である。
3回目の切通巡りの時に「鎌倉検定」の本を持って電車から降りた人生の先輩を見かけた。この方が勧める鎌倉散策はまた違ったコースになるのだろう。
そういえば、私の身近にも鎌倉を知っている先輩がいたことを忘れていた。その先輩の「お薦め鎌倉散策」を一度今度伺ってみよう。


                関 連 : 鎌倉七口を辿る その1
                     : 鎌倉七口を辿る その2          
                     : 鎌倉七口を辿る その3

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信州・戸隠神社に参拝

2012-06-10 10:52:42 | 信州路&甲斐路
戸隠神社

「この先には、あの天岩戸を開けた、怪力の神様がいるそうです」
アマポーラ♪の音楽にのせ、小百合さんのナレーションで始まるJR大人の休日クラブ「戸隠神社」編


その戸隠神社を参拝する。
     

太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になってしまった「岩戸隠れの伝説」の舞台である。
戸隠神社の祭神は、天の岩戸開きの神事に功績のあった神々である。
太陽神の岩戸隠れは、現代でいうと皆既日食にあたるのであろう。

遠い神世の昔、天の岩戸が飛来して化成したといわれる戸隠山の麓に鎮座する戸隠神社は、奥社・九頭龍社・中社・火之御子社・宝光社の五社 からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史がある。

          


宝光社(ほうこうしゃ)
麓から上ってくると最初の戸隠神社のひとつ。
学問や技芸、裁縫、安産や婦女子の神である天表春命(あめのうわはるのみこと)が祭神。旧宝光院。
権現造の拝殿周りは、みごとな龍、鳳凰、麒麟、唐獅子牡丹、象の木鼻、十二支などの彫物が飾られている。残念ながら今は修理で全景を見ることが出来ない。
          

          

          

火之御子社(ひのみこしゃ・日之御子社とも)
宝光社の上1.5kmほどの場所にある。
祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。他に高皇産霊命(たかむすびのみこと)、その娘である栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、栲幡千々姫命の夫である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀る。天鈿女命は天照大神が隠れた天岩戸の前で面白おかしく踊って天照大神を誘い出すきっかけをつくったとされる女神。舞楽や芸能、また火防の神とされる。
他の4社が神仏混淆であった時代も当社だけは一貫して神社であった。
          

          

                    

中社(ちゅうしゃ)
火之御子社の上1.5kmほど。
祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったとされる神。知恵の神ともされる。
境内周辺には樹齢約900年の三本杉があり天然記念物に指定されている。
旧中院。
          

          

                    

          

戸隠神社参道入口
    
ここから1kmのところに随神門が建っている。

随神門
参道入口からm進むと赤い随神門がある。
戸隠神社は平安時代後期以降より、天台密教や真言密教と神道が習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光であって、随神門はそれまでは、金剛力士が安置される仁王門であった。
明治初期に神仏分離令や修験宗廃止令が明治政府によって次々と出された。神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまい、影響は大きかった。戸隠山顕光寺は寺を分離して戸隠神社と名を変え、宗僧は還俗して神官となった。 当時の寺院に奉られていた仏像などは、戸隠近隣の村の寺院などに現在も祀られているという。
          
          

戸隠神社の九頭龍社、奥社に続く参道には、17世紀に植えられたとされるクマスギが右側に150本、左側に130本の並木が500m続く。あと1kmの道のりだ。
神仏分離以前は随神門より奥の参道左右に子坊が立ち並んでいたという。
                  

参道右手に祠のように穴が開い杉の木がある。これがCMで、小百合さんが中に入った杉の木か。
                  
                   

参道は、ここから10分ほど上り坂は続きやがて石段になる。
      

飯綱大権現
杉並木の途切れた辺りから参道は急な坂道や石段となり、飯綱大権現の社は奥社の左手前に建てられている。
変幻自在の天狗・飯縄大明神は不動明王の化身ともされ、戦国武将から守護神として崇敬されていた。上杉謙信は兜の前立てに飯縄明神像を、武田信玄も甲州に勧請、持仏として身に付けていたという。
   

九頭龍社(くずりゅうしゃ)
奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。
祭神は九頭龍大神。古くは雨乞い、縁結びの他、虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。
          

奥社(おくしゃ)
中社から2.5kmほど車道を登った後、真っ直ぐ続く約2kmの参道を徒歩で1時間ほど登りきった場所にある。
祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。
          

          

社務所の前には八重の桜が今盛りと咲いている。街中と季節が大きく違っている。
          

信州に梅雨入り宣言が出される前日に参拝に訪れた。天気はピーカンとまではいかないが晴れていた。
でも、天の岩戸開きの神事に功績のあった神々宿るところとしては、曇天か、霧雨が降る天候が神秘的な雰囲気をかもし出しよく似合うと思う。
近頃はパワースポットの場として雑誌などに取り上げられている。パワースポットとは、「聖地」とか「霊場」と呼ばれる。その場所に行くことによって、それまでに感じなかった不思議な力を感じ、その力によって元気になったり、健康になったりする気がするという。

今回ここに参ってその御利益は・・・。

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ミニミニ品川宿散策

2012-06-06 15:33:42 | 街道を歩く
ミニミニ品川宿を歩く

       
江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場がはじめて設置されたのは1601(慶長6)年のこと。
全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものであった。
既に戦国時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設置したのである。のちに、品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、1722(享保7)年には歩行新宿(かちしんじゅく)の成立を見るに至り、この三宿を品川宿といった。
日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったという。

八つ山橋から旧東海道を入る
訪れたのは、品川神社、荏原神社の祭礼日の数日前のこと。アジサイが綺麗に咲いていた。
   

問答河岸跡碑
1640(寛永17)年、徳川家光が付近の「東海寺」を訪れた際に、ここで沢庵和尚と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして、東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
               

品川浦舟だまり
江戸湾には、漁を専業とする人々の集落がいくつかあり、漁師町または浦といった。品川周辺には「品川浦の品川漁師」と「御林浦の大井御林漁師町」があり、「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」のひとつとして、収穫した魚介を江戸城に献上していた。御菜肴八ヶ浦とは、品川・御林・羽田・生麦・神奈川などの浦々で、力レイ・あいなめ・車海老などをはじめ、様々な魚介類をとること。   
現在は、つり舟や屋形舟の発着場として賑わっており、「品川浦とつり舟」で"しながわ百景"に制定されている。


御殿山下台場(砲台)跡
この地、台場小学校の敷地は幕末、江戸の防衛のために築かれた「品川台場」のひとつである砲台跡地であった。
また、レプリカの灯台は1870(明治3)年から1957(昭和32)年まで使用されていた品川灯台(国の重要文化財に指定)であり、周りの石垣は旧目黒川に架かっていた品海橋(今の台場交番前)を築いた石であるという。
                  

利田神社
旧目黒川の河口に弁天堂が祀られていた。1626(寛永3)年、沢庵和尚が弁財天を祀ったことに始まるとされる。洲崎弁天として歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」のひとつに描かれている。明治の神仏分離で「利田神社」となった。
この辺りは、南品川宿名主・利田(かがた)吉左衛門が開墾して「利田新地」と呼ばれていた。


鯨塚
1798(寛政10)年、品川沖に迷い込んだ鯨を漁師たちが捕えた供養碑ある。体長は16.5m(9間1尺)の大鯨で、江戸中の評判となり、浜離宮沖まで運び十一代将軍家斉(いえなり)に見せたという。
              

              

土蔵相模跡
旅籠屋「相模屋」の外壁がなまこ壁の土蔵造りであったため通称「土蔵相模」と呼ばれていた。
1862(文久2)年、高杉晋作や志道聞多(のちの井上馨)らが外国人襲撃の謀議をしたり、1860(安政7)年の発生したの桜田門外の変の水戸浪士が宴を催したところでもある。
ひとつおいた建物に「旅籠 品川宿 一期一会」の看板があったのでこの地に因み一枚撮す。



善福寺


入江長八(1815~1889)の漆喰こて絵の龍が本堂に描かれている。


横丁
旧東海道のそれぞれの横町に歴史を感じさせる名前が残る。
              
              

街道文庫
今回の品川宿の主目的はここに来ることであった。
先だって、テレ朝の番組「人生の楽園」で紹介され興味を覚えた古本専門書店である。品海公園の向かい側にあり、「品川宿 お休み処」を使用している。
「思ったほど大きくないですネ。」とひとこと余計な言葉を発すると、「テレビはうまく撮りますよネ。」と気さくに返ってきた。
鎌倉街道の本を探しているというと相談にのってくれて数冊紹介された。鎌倉街道を歩く参考となり、地図も備えた本は少ないという。特に神奈川エリアはほとんどないとのことだった。
1冊面白そうな「鎌倉街道伝説」を買い求めた。
               

日本橋から2里
日本橋から2里の案内板があった。と云うことは「一里塚」があったのだろうか?調べると、初期にはあったようだが江戸時代中期にはなくなっていたようである。
今は、五代目の品川宿の松が植えられている。現代の品川宿東海道沿道には様々な宿場の松が植えられている。ここは地元の品川の松のようである。
              

法禅寺


法禅寺板碑(下左)
板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけてつくられた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布している。
この寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含め121基ある。古いものは1308(徳治3)年の銘がある。
 
流民叢塚(るみんそうづか)碑(下右)
天保の大飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔である。
品川宿は農村などから流浪してくる人が多く、病や飢餓で倒れた人が891人を数え、法禅寺と海蔵寺で葬っている。


杉森稲荷
五穀豊穣の稲荷神が法禅寺の境内に祀られている。
1690(元禄3)年銘の「武州品川稲荷大明神」の石柱が置かれている。
     

正徳寺
レンガ造りの塀がある真宗大谷派の寺院


              

祭礼
荏原神社
品川神社の天王祭と合わせて「品川天王祭」と称される。
祭礼最終日には「御神面神輿海中御渡(ごしめんみこしかいちゅうとぎょ)」という神事があり、天王洲沖で神面を着けた神輿が海に入る。これは、1751(宝暦元)年、品川沖の海から牛頭天王(ごずてんのう)の面が発見されたことに因み、「天王洲」の地名もここからきている。
江戸のころから、若衆が神輿を荒々しく担ぐ際に元結が濡れて切れ、ざんばら髪になった様を観て、「かっぱ祭り」と呼ばれるようになった。
神輿の渡御で演奏される品川拍子は、大拍子と呼ばれる太鼓と篠笛で演奏される。
                

                    
品川神社
品川神社は「北の天王社」と称される。
徳川三代將軍家光が寄附された神輿を、勝海舟が「葵の神輿」と名付け、今は二代目である。品川神社の神輿には、家康の奉納した通称「天下一なめの面」を屋根につけ、〆太鼓と笛の品川拍子でかつぐのか特長である。面を取付けるようになったのは、ある年のこと凶作がつゞき疫病がはやり人々が苦しんいた時に、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救う」と神のお告があり、以来神輿にお面を付け練り歩き、家々の幸福を祈願するようになった。又品川拍子とは、家光公が神輿を奉納された当時から、品川神社太々神楽の拍子と江戸囃子の拍子から独特の品川拍子をつくったといわれる。

       
         



提灯が飾られた街並み
              
              
 

品川宿には本来一週間前に行く予定だったのだが、天候が危ぶまれ延ばしたのである。
そうしたら、テレ朝の「若大将ゆうゆう散歩」でその日、北品川を周っていた。「ちい散歩」も偶然が多々あったが、加山散歩でも縁があるとは・・・・。


本日のスタート地点・旧大名屋敷
とある都内のホテルから出発。
400年余りの歴史を有する東京名園のひとつに数えられている。

                  
湧水山水風の池の中に、江戸時代からの大木の化石がある。木の根がそのまま化石になった珍しい石で、庭園内には4個の化石がある。
              

              
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113チームが疾走 丹沢ボッカ駅伝

2012-06-04 12:24:44 | 丹沢大倉尾根





第26回丹沢ボッカ駅伝競争大会が開催される

開催前のスタート地点の空は雨雲がたれこめていた天気が心配
          
          


第3区中継点駒止茶屋前では万全な準備を行う
記録がかかる選手リレー地点のライン引き
              


選手の荷物預かり
大会この道何年というベテラン役員による毎年手作りの荷物預かりカード
                    

絶対に使ってほしくないAED(自動体外式除細動器)
              

8時近くに選手の受付が始まる
              


選手の交換風景
9時にスタートして40~50分 選手が続々と中継点に駈け込んでくる。
        

最終チームも無事にリレー
記録役員の手からはチームの記録を印字したペーパーが長く伸びている
        


参加賞のTシャツ
スイスの登山、アウトドアー製品メーカー「MAMMUT(マムート)」製である
速乾性の材質でこれまでになく人気が高かい
Tシャツのデザインは今回も見晴茶屋の方のようだ
                    
                    

開催はニリンソウやミツバツツジが咲く季節である
       


最大の参加チーム
26回大会は120チームという大会始まって以来最大の申込者数となった
ボッカ駅伝競争大会は背負った荷物をバトン代わりにして4区間を走り競う四半世紀も丹沢大倉尾根で行われている大会である
残念ながら7チームの欠場があって113チームとなった
4つのクラスに分かれ 
         40Kg部門・・・8(チーム)
         20Kg部門・・・80
         女子10Kg部門・・・14
         高校20Kg部門・・・11
                であった

第3区中継点での各部門トップ通過チームは
         40Kg部門・・・金杯登山クラブ(総合90位)
20Kg部門・・・ハンサム団 A(総合1位)
         女子10Kg部門・・・T-GIRL(総合12位)
         高校20Kg部門・・・鎌倉学園 A(総合3位)
                         であった 





                 関連 : 前年のボッカ駅伝競争大会
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