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湯立神楽が阿久和熊野神社で

2012-09-20 20:58:01 | 神奈川民俗芸能
阿久和熊野神社で今年も奉納「湯立神楽(ゆだてかぐら)」の舞が例大祭に行われた。

阿久和熊野神社は横浜市教育委員会のガイドによると、
南北朝時代の弘和年間(1381~84年)に小さな社を建てたことが始まりと云われ、その後は一時荒れ果てたが、戦国時代の永禄年間(1558~69年)に当時の領主、小田原北条氏家臣増田駿河守満栄が再建したと云われる、600年余りの歴史ある瀬谷区最古の神社である。
        

江戸時代にはいると、この地を幕末まで知行した直参旗本・安藤氏が力を入れ、安藤治右衛門定喬(さだたか)は大坂夏の陣でこの社前から出陣したといわれる。

本殿・拝殿は1873(明治6)年に改築、欅造りで堅牢精巧を極め特に拝殿の彫刻は近隣にその比を見ないほどのものである。
          

          

          

祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)と諺坂姫命(ことさかひめのみこと)である。
        
かつては日本三大地歌舞伎のひとつと云われた相模歌舞伎の市川柿之助一座などの芝居が神楽殿で上演されていたという。
   


境内社は、神明社、諏訪社、山王社、稲荷社、疱瘡神社、天神社、八神社の七祭神の末社がある。
          

           

湯立神楽(ゆだてかぐら)は、湯花神楽(ゆばなかぐら)、鎌倉神楽とも呼ばれ、もともと鶴岡八幡宮に於いて 職掌(しきしょう・神社に仕えた下級の神官)と呼ばれる人達によって奉納されていた日本の伝統的な神楽形式のひとつである。
釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。

神事の準備



湯立神楽奉納神事
(はのう)
はじめの第一座目に舞う神楽で、扇子に米をのせ四方拝の舞の後、米を四方にまく。
四方の神と神楽座の神に米を撒供(さんく)してお鎮まりいただく神楽。
          

                    

お祓い・祝詞(のりと)
特殊な抜串を以て、天地の祓いをする神楽で、神楽座の四方と釜場を祓い清めた後に祓串と御幣を重ね持ち、米を打撒きをして鈴を振りながら神楽の祝詞を奏する。
          

          

          

          

御幣招(ごへいまねき)
御幣を捧げて四方拝の舞の後、御幣を左・右・左と振って四方を舞う。
御幣によって四方より大神などの恩頼(みたまのふゆ・神の恩恵や加護)を招き寄せる神楽。
          
            神官が持っているものを「御幣」という

          

掻湯(かきゆ)
四方拝の舞の後、四方拝の舞の後、御幣の柄で釜の湯をグルグルと掻き回し釜の中央からフツフツと湯花(ゆばな)を立てる。
湯花の立ち具合で、吉凶を占ったともいわれ、これにより湯花神楽(ゆばなかぐら)ともいわれる。
今回、釜の湯を幾度も幾度も掻き回して湯花の立ち具合を診ていたことが印象に残る。吉なのか凶なのか?
          

          

射祓(いはらい)
弓矢を扇面に戴き、四方拝の舞の後、四方天地に矢を射放って厄災を退ける。
          

      

湯座(ゆぐら)
笹の葉の束を持って四方拝の舞の後、釜の熱湯に笹を浸し、これを左右に振ってしぶきを散らす。
それを浴びることによって邪気を祓い、無病息災であるといわれる舞。
          

          

          


剣舞(けんまい)
鼻高(てんぐ)の面を着け、鉾(ほこ)を持って四方を舞う。九字(くじ)を切って呪文を唱え、天地をおさめる。
最後の舞。
          

                   

          
                   

おわりに、湯釜前の御幣に向かって、二礼二拍手一礼の参拝を全員で行った。


湯立神楽は神社によって方法が違い、熊野神社のように玉串に見立てた枝葉を釜に浸して湯を撒いたり(ほかに藤沢市白旗神社)、素手で湯を払うようにして撒くところもある。
また、ご神体を湯につける珍しい神事を行うなど様々である。
なかには水の代わりに米、お神酒や海水などを釜に入れるところもある。いずれも撒かれた湯や飛沫を浴びることによって無病息災になるとされる。
また、釜の湯を飲むことで御利益があると云う神社もあり、湯を持ち帰る習わしもあるという。

江戸時代から守り続けられている熊野神社の湯立て神楽は、毎年9月19日の例祭日に管理元神社の富岡八幡宮の神官によって、笛・太鼓・鼓の鳴り物入りで、古式ゆかしい舞を演じている。
また、管理元の富岡八幡宮でも9月23日午前10時より湯立神楽の奉納が行われる。

所在地:神奈川県横浜市瀬谷区阿久和東4-7-1(管理元神社:金沢区富岡八幡宮)
交通:相鉄線三ツ境駅下車、神奈中バスで宮沢或いはいずみ野行き原店下車、または戸塚駅行き阿久和下車。



                                    参考資料:阿久和熊野神社・富岡八幡宮

生麦事件が起きた村の人々は

2012-09-14 00:00:01 | 横浜歴史散策
生麦事件は、新暦1862年9月14日、150年前の今日、9月14日に発生した。旧暦では幕末の文久2年8月21日のことである。残暑厳しい日であった。

「生麦事件」は武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した、その後の日本が近代国家として歩みを始める起点になった事件である。
                                 詳細は「150年前の8月21日生麦村で」を参照
        

横浜開港から3年後に発生した生麦事件は生麦村の村民の対応は、そして事件によって影響があったのか、村人の目からの生麦事件をみる。
                   

生麦村は、江戸時代の初めから天領(幕府領)であって、幕府代官の支配をうけていた。横浜開港後は、神奈川に神奈川奉行がおかれたため、その預所(あずかりどころ)として、奉行の支配下に入った。
事件当時村の規模は、面積76町歩(約23万坪・76ha)、戸数282軒、人口1637人で80%が漁師であった。このうち、東海道沿いの2km両側には185軒の家が立ち並び、街道筋ということで商業に従事する村人も多かった。
漁業は、将軍家に魚を献上する「幕府の御用」を務めており、その見返りとして、江戸(東京)湾内のどこでも自由に漁ができる権限を与えられていた(御菜八ヶ浦)。

当時の生麦村の名主関口家は事件当日のことを次のように記している。

『島津三郎様御上リ異人四人内女壱人横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処追被欠壱人松原ニ而即死外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当役員一同桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候』

文中の「桐屋」とは十数人の女をかかえていた料理茶屋である。事件が発生後、奉行所の役人がここに宿泊して4日間現場検証を行っている。ところは、京急生麦駅から商店街を通り、国道15号(第一京浜国道)を越して旧東海道にぶつかった左手である。現在は材木商となっている。

この事件の一部始終を見ていた村民がいた。大工徳太郎の女房である。
これを名主が筆に改め、村役人連名で神奈川奉行所に事件を届けた。
『島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た。どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去った。』
この届は奉行所の「御用留」に記載され現在も残っているという。
神奈川奉行所は、JR根岸線桜木町駅を降りて、みなとみらいとは反対側の紅葉坂の急坂を上って小高くなったところの県立青少年センター付近にあった。現在は、神奈川奉行所の石碑と案内板が設置されている。
神奈川奉行所は横浜開港と同年の1859(安政6)年に設置されている。
        

藩士に斬られた騎馬のイギリス人は、700mほど横浜方面に逃げ、現在のキリンビール工場前で落馬し、止めを刺された。遺体は行列の障害になると街道脇の田んぼに退かされた。
これをみていた休み処の女房は哀れに思い、イギリス人の遺体にむしろを2枚かけたという。
開港して3年の当時、顔かたちも違い、服装も違う外国人に対する庶民の感覚はどうであったのだろう。

事件発生後、生麦村に変なうわさが起ち、ひと騒動あった。それは、この事件によってイギリス軍が攻めてくるというのである。
当時、イギリス軍の第3連隊100人が横浜に駐留はしていた。
このうわさによって、女、子供を親戚、知り合いに預け。オヤジだけが村に残り、家は釘を打ちつけ、イギリス軍が攻めてきたらすぐに逃げろという騒動にまで発展した。
しかし、それも根拠のないものだと10日から2週間たつと平常に戻ったという。
村人にとって生麦事件は街道での異国人と大名の接触事故だけではなかったようで、村民の生活の中にも大きな影響を及ぼしていた。

前記した名主関口家の日記であるが、『関口日記』といわれ、5代140年間(1762(宝暦12)年~1901(明治34)年)ほとんど毎日書き続けた記録が残されている。当主が不在の時は奥方がぎこちないカナ文字で代筆している日も少ないがあるようだ。
この日記は、関口家の記録であると同時に、生麦村の人々が多数登場し当時の暮らしぶりを今日に伝えている。また、その日の天候は欠かさず書かれており、米価の変動や当主が寺子屋をしている時はその内容が、明治になると質屋や金貸しの経営内容も書かれている。

その日記に、娘が行儀見習いのために武家に上っている話が出てくる。
二代籐右衛門には、娘がおしげ、おちえ、おみつの 3人がいて、10~19歳頃まで小大名或いは旗本屋敷に嫁入り前の行儀見習いで奉公に出ている記載がある。奉公回数はひとり3~6か所で、長く同じ場所には留まってはいなかったようだ。これは、あくまでも行儀見習いということで特定の作法が身につくことを避けたと思われる。
奉公に上る際には蒲団から履物まで身の回りの品一切を用意して送っている。ある江戸時代の書物によると娘を武家奉公に出すと年間200両の費用が必要と書かれている。200両は誇張としてもかなりの費用が必要であったに違いない。それまでして何故なのだろうか。娘にとっては良縁をつかむため、家にとってはステータスであったのだろう。江戸近郊の豪農や役人の娘の中には当時ブームであったようだ。それは現代でいうと女子大・短大に入学するかのようであったのかも知れない。そんな気持ちで奉公している屋敷女中はそれこそ「お里が知れる」程度であったのか、それともスパルタ教育で何処に出ても恥ずかしく女中になったのだろうか。江戸の一時代こんなことがあったようだ。この武家奉公も3人の娘の子供の世代になると、奉公前に諸稽古の時間を費やして武家奉公は短縮されたようだ。

ちょっと横道にそれてしまったが、『関口日記』を調べていてこのような記述があり興味をひいたので記載した。
『関口日記』に再び戻る。娘が奉公に上る際の日記には、
次女のおちえの時に奉公に上る着物は江戸日本橋の「越後屋(現在の三越)」で買って帰りに「にんべん」で鰹節を買ったと書かれている。ノリとお茶は「山本山」で、これも江戸銀座で求めていたようだ。生麦村には商店が多かったのに日用品でさえ江戸で買い求めたようで、名主の生活が伺える。反面使用人は、小作人や小守はいたが下女はいなかったようで日記には登場していないという。

生麦村の商人のことも書かれている。
横浜がわずかの漁村から横浜港として開港、発展する過程で生麦村の商人が横浜に進出したという。
開港前の横浜は『むかし思えば とま屋の煙 ちらほらりと立てりしところ』と横浜市歌にも歌われているように100軒たらずの寒村であった。
生麦村商人は今思うに先見の明があったようだ。


             関連 : 生麦村で150年前の8月21日に


神楽坂界隈を歩く

2012-09-12 16:27:50 | 東京散策
朝8時半、飯田橋駅西口改札口を出る。
日曜日の早朝と云っても既にいい時間帯なのだが、通行人はまだまばらであった。
今日も暑くなる予報の下、神楽坂の街散策をスタートする。

飯田橋駅西口改札口を出て右手の外堀通りに下ったところが神楽坂下。
そこから正面の「神楽坂通り」を上り、毘沙門天善国寺を過ぎ、大久保通りを越えて地下鉄神楽坂駅あたりまでの一帯が、いわゆる「神楽坂」と呼ばれる界隈といわれる。
坂の名前の由来については、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説ある。

神楽坂に向かう前に牛込見附跡と甲武鉄道牛込駅跡に立ち寄るため駅を降りて左に行く。
甲武鉄道牛込駅跡は、NHK-TV「ブラタモリ・江戸城外堀編」でも紹介されたが飯田橋駅西口改札口の西側に位置する。

甲武鉄道牛込駅跡
甲武鉄道は、1889(明治22)年東京の新宿―八王子間を走り始めたのに続き、1904年には御茶ノ水までの市街線を完成した。1906(明治39)年公布の鉄道国有法により中央本線の一部となり、この区間は国鉄(現JR)最初の電化区間となった。
その後、1923 (大正 12)年の関東大震災の復興により客貨分離を目的に飯田町~新宿間が複々線化された際に、飯田町駅と牛込駅が統合され中間地点に現在の飯田橋駅が 1928(昭和 3)年に開業した。
牛込駅跡前には現在、ピザ屋と薬局が建っている。
          

牛込見附跡
JR飯田橋駅西口からすぐのところにある、牛込御門跡(牛込見附門)は江戸城内郭外郭の城門で、1639(寛永16)年に外堀と一緒に完成。
江戸36見附門のひとつで当時の面影を最も残しているといわれる。敵の侵入を防ぐ2つの門を直角に配置したいわゆる枡形門(高麗門、渡櫓門) であった。1902(明治35)年に撤去されたが、現在でも道路をはさんだ両側の石垣や橋台の石垣が残されている。 別名「楓の御門」とよばれ、市谷は「桜の御門」のふたつを春秋一対の景観をなす門といわれた。
石垣の積み方で最も美しいといわれた切り込み萩の石積形式である。
切り込みはぎの石積石垣 とは、城郭の代表的な石積形式で、 石を削り、きれいに整形して積む形式で、寛永以降さかんに用いられた。そのほかに野面(のづら)積み石垣、打ち込みはぎの石垣がある。
飯田橋駅西口前交差点のはす向かいに牛込見附の説明パネルがある。
牛込門は上州道へ通じる北の関門であった。
          
          
                  

牛込橋
この橋は牛込見附門とともに1636(寛永13)年、阿波徳島藩主蜂須賀忠英(はちすかただてる)によって建設された橋で、当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、たくさんの武家屋敷が建ち並び、その間は深い谷だったところを水を引いて濠とした。現在は中央線をまたぐ橋となっている。
   

牛込橋を渡り外堀通りに出ると、ここからが神楽坂界隈となる。

神楽坂通り
神楽坂は、江戸時代初期、酒井若狭守の下屋敷と牛込御門結ぶおよそ1kmの通りをいう。真っ直ぐ進んだ先は早稲田である。
今はたくさんの数の店舗が軒を並べている。
          
                  

不二屋  新宿区神楽坂1-12
ペコちゃんの名前の由来は仔牛を表す東北方言「ベコ」からきている。ペコちゃん焼きは、不二家の全国1000店の中でも神楽坂のみで限定販売される商品である。
開店前だったのでペコちゃん人形も当然出ていない。
          

神楽坂小路
神楽坂小路は神楽坂下を神楽坂上方面に上って右手、最初の路地で、神楽坂通りと軽子坂(通り)を結ぶ小路。神楽小路の立派な標識が神楽坂通りにある。
          

みちくさ横丁
みちくさ横丁の入り口は、神楽小路に面し、袋小路となった味わいのある短い横丁。位置的には神楽坂通りと平行する。看板に「神楽小路・みちくさ横丁」とあるように、あくまでも神楽小路の一部。
昼間はそば屋がメインで、夜はスナックやバーなどが営業、突き当たりにジャズバー「コーナー・ポケット」がある。この店は名を知られているそうだ。
      

牛込揚場と神楽河岸
江戸時代、物資輸送は海路・水路が主で、江戸湾に集結した物資を隅田川、神田川を通って飯田橋東口辺りに通じ、そこからこの坂下まで水路をつくり、神楽河岸に舟着き場を設けた。江戸城の上納米もここから運び込まれたという。そのほか味噌、醤油、木材など全国各地からの品が荷揚げされている。
今も地名として揚場町、神楽河岸が残っている。
幕末から明治時代にかけて浅草に通じる船があり、この船に乗って芝居見物に通ったと夏目漱石が書いている。
飯田橋駅脇にある東京都飯田橋庁舎前に「牛込揚場」の碑がたっている。
          
神楽河岸の町名板を撮りたかったのだが、辺りは大きなビルとなり道路には電柱がひとつもなく結局見つからなかった。
          

軽子坂
軽子とは、軽籠(かるこ・モッコのこと)を担いだ人足をと呼び、その人足がこの地に多く住み行き交っていた。坂の名はそれに由来する。軽子坂の右手が揚場町である。
          
落語家柳家小満ん著「江戸東京落語散歩」には、軽子坂の紹介で『軽子坂の両側はびっしり武家屋敷で、「怪談牡丹灯籠」のお露さんの実家、旗本の飯島平左衛門の屋敷もこの辺りの設定になっている。』とある。

かくれんぼ横丁
最も「神楽坂らしい」雰囲気を保っている路地のひとつという。
石畳や黒塀、さりげないけれど趣向を凝らした建築などは江戸の佇まいを今に伝えており、花柳界の雰囲気を残していて神楽坂ならでの味わいがある横丁である。今にも粋な芸者さんが通りそうな、花街の雰囲気が漂う路地だが昼間じゃダメかな。
名の由来は、前を行く人が横丁に入って急に見えなくなってしまったことから年寄りの方が名付けた。
 
明治の尾崎紅葉、泉鏡花など文豪たちが利用した料亭「うを徳」。泉鏡花も利用して芸者「桃太郎」と恋仲となった。女系図の舞台になった料亭である。
          

三年坂(三念坂)
神楽坂通りから軽子坂の延長線の道と交差するまでが本多横丁で、その先大久保通りまでのなだらかな坂道が三年坂である。
京都清水寺の三年坂と同じ言い伝えがあってここで転ぶと3年以内に死ぬといわれている。それがいやなら転んだところを強く3遍なめろといわれている。
本当かどうか、赤穂浪士の堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かう際にこの坂を駆け抜けたといわれる。
          

本多横丁
この横丁の東側にあった大名格1万500石、本多修理(しゅり)屋敷に由来する。この本多家の屋敷は江戸中期からあったということで「本多修理屋敷横丁通り」と呼ばれ、戦後の一時期「すずらん通り」と呼ばれたが、1975(昭和50)年ごろに再び「ホンダ横丁」となった。
神楽坂の中では最も大きい横丁で、「芸者新道」「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな路である。
 

芸者新道
以前、花柳界に「ろくはち」という言葉があった。宴席が開始される6時、8時のことで、その時間帯にお座敷にでるお姐さんたちが一刻を争って近道を利用した。
この道は、神楽坂に待合や置屋、料亭が集まっていた頃の花柳界の名残を残す神楽坂仲通りから本多横丁に抜ける路地で、まっすぐで緩やかな坂になっている。
           

毘沙門天(善国寺)
山の手七福神のひとつで日蓮宗の寺。創建は1595(文禄5)年、火事で焼失して一旦麹町に移転している。
毘沙門天は別名多聞天といい仏法守護の四天王のひとつ、北の方角を守り、民に幸福をもたらすといわれる。
                    
毘沙門天は寅に縁があり、ここに狛犬ならぬ狛寅がある。当時の絵師、彫像師はトラなど見たことがないのでちょっと変わった寅となっている。
      
東京ではじめて夜店が出たところでもある。この日はお祭で子供みこしや山車が並べられている。午後から巡行という。 
 

大手門通り
戦国時代に築かれた牛込城の大手門(正門)に通じている通り。
牛込城の大胡(おおご)は三代にわたって居城としたが、かつては赤城山麓の上野国勢多郡大胡の領主であった。天文年間(1532~55)に南関東に進出、小田原北条が旗揚げした際に北条方につき江戸城上杉を打ち破り牛込城を築いた。二代になって姓を牛込と名乗った。その後小田原北条氏が敗れ1590(天正18)年、徳川の臣下になる。
明治時代には神楽坂で一番大きな料亭「松が枝」ができ、昭和時代には大物政治家の出入りも頻繁であった(現在はマンションになっている)。
駅前の案内板にはこの通りは毘沙門横丁と書かれていた。


伏見火防稲荷神社(ふしみひぶせいなりじんじゃ)  新宿区神楽坂3-6
総本社は京都の伏見稲荷大社。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ・古事記)/倉稲魂命(うがのみたまのみこと・日本書紀)で、生産の神、五穀豊穣の神として、御利益は商売繁盛、五穀豊穣ということ。小さな神社のためか細かな案内は見つからないので、それ以上のことは分からない。
見番が近くにあることで芸者さんが稽古の行き帰りにお参りをしたのではと想像する。
                

見番横丁  
最近新宿区が設定した通りの名前。
見番横丁の云われは、芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。 稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくるようだが、この日は日曜日午前とあってそんな雰囲気はなかった。
          

見番(東京神楽坂組合)
建物の1階が事務所、2階が稽古場。
1937~1963(昭和12~38)年頃が栄えており、650人を越える芸妓がいたが、現在は30数名だという。
          

小栗横丁
小栗という姓の武家屋敷が、この通りの両端にあったことから小栗横丁と呼ばれた。かつては片側(北側)に幅30cm(一尺)ほどの小川が流れていて、湧水がこの地に豊かであった。
通りの中程に銭湯・熱海湯があることから「熱海湯通り」とも呼ばれる。また、家泉鏡花が在住したことから泉鏡花通りの別称を持つ。
  
          

神楽坂若宮八幡神社
1189(文治5)年、源頼朝が奥州藤原氏・源義経討伐の際にこの地で下馬し祈願、平定後に鎌倉若宮八幡宮のご神体を勧請した。仁徳天皇、応神天皇を祭神とする社で、かつては周辺の高台すべてが境内であった。
神楽坂の名の由来は神楽が聞こえる坂ということで、どこの神社のお神楽なのかということだが、この神社のお神楽ということが定説となっている。
しかし神楽坂周辺には多くの神社があり、昔はさまざまな場所のお神楽が神楽坂では聞こえたであろう。
          
                    
この通りを歩いていると和服を着た女性が高級外車を乗って走り去って行った。が、車を置いて神社前まで戻って来たので神楽坂らしさのアングルということで1枚シャッターを切る。和服を着た女性は、本来なら夕方にならなければ出てこないのだろうね。
          

ゆれい坂
江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所「大ゆ嶺」に因み命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。行人とは行者のこと。
          

逢坂
奈良時代の頃に小野美佐吾という人物が、武蔵守となり赴任してきたが、ここに「さねかづら」という絶世の美女がいた。ふたりは恋仲になったが、美佐吾は任期を終えて都へ帰り病に倒れる。
一方「さねかづら」も美佐吾を忘れられず、この坂で逢う夢をみる。夢枕でしか会えない美佐吾を思って坂下の池に身を投げて、死んでしまう。後に村人はこの坂を逢坂と呼ぶようになったといわれている。
別名「大坂」、「美男坂」ともいわれている。「美男坂」は植物の「サネカズラ」が、別名「ビナンカズラ」呼ばれることからきているようだ。
         

逢坂を上りきると高級住宅街のようで大きな家々が続いている。

光照寺(牛込城跡)
浄土宗の寺、大胡氏三代の牛込城本丸があった場所。
この場所は高地であるため、見晴らしがよく江戸湾の航行する船はもとより、江戸城全域までが見下ろすことができたということで取り壊された。
          
          
現在の光照寺は1645(正保2)年に、神田から移転したものである。
境内に入って左手に出羽国松山藩主酒井一族の大名墓がある。
          

諸国旅人供養碑(1825年)
光照寺墓地の右手奥突き当たりに「諸国旅人供養碑」がある。
神田松永町の旅籠屋の主人・紀伊國屋利八が、自分の旅籠に逗留中に亡くなった旅人を弔った。生国と没年が書かれている。
当時、旅人は往来切手、関所手形と一緒に、生国、旅の目的、亡くなった時にその地で葬ってもらいたいなど書かれていた手紙をもっており、それに従って葬った。
          

地蔵坂(わらだな横丁)
坂上の左側に光照寺あって、近江国(滋賀県)三井寺から移された子安地蔵があって、江戸時代に信仰を集めたことから名付けられた。この子安地蔵は鎌倉時代を代表する快慶(生没年不詳)の名作とされる。
また、寺に住みついた狸が夜な夜な地蔵に化けて人をだましたという話も残っている。
別名わらだな横丁といわれ、藁を商った商家が多かったことから名付けられたという。
          

寺内公園(行元寺跡)
超高層マンションが建つ寺内(じない)公園がある一帯は、鎌倉時代から明治40年の土地区画整理で移転するまで天台宗の行元(ぎょうげん)寺という広大な寺があった。
江戸後期には寺の境内を町屋として年季貸しするようになり、家が立ち並ぶにつれて迷路のような路地ができた。
また、ここは花柳界神楽坂発祥の地といわれている。
幕府は公娼遊廓(ゆうかく)制を敷いたが、それとは別に幕府が認めぬ私娼屋が集まった歓楽街である岡場所が境内の一部にでき、それが花柳界神楽坂となったといわれる。
寺内には柳家金五郎(1902~72)、その息子の山下敬次郎(1939~2011)、芸者ワルツの神楽坂はん子(1931~95)、花柳小菊(2021~2011)、若山富三郎(1929~92)・勝新太郎(1931~97)の父長唄の杵屋勝東治(きねやかつとうじ・1909~96)など沢山の芸能人が住んでいた。
          

筑土八幡神社
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)は、東京都新宿区筑土八幡町にある神社。江戸時代までは筑土八幡宮と呼ばれていた。
当神社は嵯峨天皇の時代(809~823)に、付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれている。その後、慈覚大師が東国へ来た際に祠を立て(850年前後)、伝教大師の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。その後、文明年間(1469~1487)に当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。
1616(元和2)年にそれまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦災で全焼。明神社の方は千代田区九段北に移転し、築土神社として現在に至る。八幡神社の方は現在でも当地に鎮座している。
          
          
                    

庚申塔
筑土八幡神社境内に、1664(寛文4)年に奉納された舟形(光背型)庚申塔が祀られている。         
三猿でなく二猿であり、牡猿・牝猿がどちらも桃の枝を持った姿で表現されている点が、きわめて珍しいという。
              

江戸城外堀・牛込濠と飯田濠
東京都飯田橋庁舎前に「飯田濠」についてハゲた案内板がたっている。これによると、
ここから飯田橋まで、現在ビルが建っている一体全部が、以前は深い濠になっており、飯田濠と呼ばれていた。
飯田濠は市ヶ谷濠、牛込濠から神田川にかけて続いている江戸城外壕のひとつである。
1972(昭和47)年に都が市街地再開発事業としてビル建設が決定され、飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存して欲しいという都民の強い要望から飯田濠を復元した。
この道路脇の石垣は、江戸時代のものである。
とある。
          
          
濠が残っている牛込濠は、桜の名所として親しまれている。
江戸城外堀は矢が届かない距離で堀の巾を決めた。およそ80mある。
          


以前、「神楽坂で飲もうよ」と云った神田川沿いに住んでいた山ガールがいたっけ。当時、彼女はどんな店を紹介するつもりだったのかなと昼間の神楽坂を歩きながら思った。
この日、神楽坂の神社はお祭で神社、通り、料亭や民家の家々に提灯が飾れ、様々な印のハッピを着た人たちが行き交っていた。

                                            参考:新宿区観光協会ほか

引っ越しました「市谷駒止茶屋別館」

2012-09-10 10:24:44 | 山友
このほど、市谷駒止茶屋別館「HASE」はひと駅となりの飯田橋に引越し、名前も新たに「守門」として開店しました。(前の店については上記「HASE」をクリック)
                 

守門」は「すもん」と読みマスターの出身地新潟県の「守門岳(すもんだけ)」からとったという。
守門岳から流れ出る水で産湯につかり育ったからで、守門岳には思い入れが強く店の名前にもなったという。

        
        

          


守門岳は、標高1537m越後山脈に属し、最高峰の袴(はかま)岳とその西側の青雲岳、大岳と、3つのピークよりなっている。長岡・栃尾方面からは、なだらかな山容を眺められるが、新潟・三条方面からは、火山の名残の噴火口壁が屏風状に望まれ、両極端な眺めになっている。残雪が豊富で山スキーでも有名である。
登山道は4コース有り、おすすめコースは4時間半の行程である。
                                      (山と溪谷社刊・甲信越百名山より)

        


                  山に向いて言うことなし
                       ふるさとの山はありがたきかな


        

震災記念日に寄せて

2012-09-01 00:00:01 | 東京散策
横網公園(東京都墨田区横網二丁目3-25)

両国駅から10分ほど歩いたところにこの公園はある。
この横網公園は、陸軍被服厰跡地である。
陸軍被服厰跡地と知ると直ぐに思い浮かぶ人も多いと思う。
90年ほど前に発生した関東大震災の時に、多くの罹災者が空き地となった公園予定地のこの地に避難してきた。一緒に多くの家財道具が持ち込まれていて立錐の余地もなかったという。
そこに周囲からの火災が家財道具に引火し、逃げ場を失った多くの人々が亡くなった。その数は、東京都全体の関東大震災で亡くなられた方の半数以上を占めるという。


東京都慰霊堂
震災後、死者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないよう建てられた。
今日も秋季慰霊大法要が行われ多くの方々が参拝されていると思う。
慰霊堂奥に三重塔が納骨堂となっている(右手奥の塔)。この納骨堂には東京大空襲で犠牲となった10万余人の無名の方の遺骨も納められている。 
        


復興記念館と罹災物
復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝えるため、1、2階のフロアーに震災被害の資料を展示している。また、東京大空襲による戦災資料も併せて展示されている。
建物周辺にも震災被害の資料が展示されている。  
        


震災遭難児弔魂像
関東大震災で亡くなった5千人もの小学校児童の霊を慰めるため当時の小学校校長等が中心となって建立した。戦時中金属不足の煽りを受け一時期撤去されていた。この像は再建されたものである。
        


関東大震災は、1923(大正12)年9月1日11時58分、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。
神奈川県を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲、1府(東京府)9県に及ぶ甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。
190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(2004までは14万人とされていた)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。
      
        寒川町と平塚市で散策中に見つけた関東大震災の「紀念碑」と「遭難之霊」碑


関東大震災記念日はその教訓を忘れぬために「防災の日」なった。
震災記念日なんていうものは好まない記念日だが1月17日、3月11日と残念であるが増えてしまった。プレート上にある日本国は地震から逃げることはできないかも知れないが、過大過ぎる教訓から「備えあれば憂いなし」の心構えで、日々生活をしなくては!