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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

小田原城を巡る

2013-03-11 00:00:01 | 東海道宿場町
小田原城

        
小田原城がはじめて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃のことと考えられる。
         
1500年頃に戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張され最大時には、閑八州240万石に達していた。因みに豊臣秀吉が天下統一を達成した頃の禄高は、秀吉222万石、徳川家康250万石である。
また、四公六民の税制は直轄領としては最低で、なおかつ飢饉の際には減税を施すなど善政を行い農民にとってはありがたい領主さまであったようだ。
城はまた、秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、中世の日本最大城郭に発展し、不落の城、無敵の城とまでいわれるようになった。

江戸時代を迎えると徳川家康の家臣、大久保氏が城主となり、城の規模は縮小された。しかし、稲葉氏が城主になってからは大規模な改修工事が行われ、近世城郭として生まれ変わった。その後、再び大久保氏が城主になり、箱根を控えた関東地方の防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。

明治維新を向かえ、小田原城は1870(明治3)年に廃城となり、ほとんどの建物が解体される。残った石垣も1923(大正12)年の関東大震災によってことごとく崩れ落ちた。



その小田原城を歩いてみた。

天守
天守は城の象徴として本丸に構えていた。
三代将軍家光が天守に上って武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。
1703(元禄16)年の大地震で崩壊、1706(宝永3)年再建され、1870(明治3)年に壊された。
1960(昭和35)年、宝永年間時に作成された設計図を参考に鉄筋コンクリートで外観復元した。
因みに天守閣という呼称は明治以降とのこと。
         

本丸
東西約150m(83間)、南北114m(63間)ほどの規模をもち、その西端に天守、中央に本丸御殿が存在した。
本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南に常磐木門と北側には裏門にあたる鉄(くろがね)門が設置されていた。
本丸御殿は、家光が上洛に際して宿泊するために建築されたもので、1703(元禄16)年の地震によって焼失して以来建設されなかった。
            

本丸東堀跡
江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。絵図によると堀は二の丸堀とつながって水堀となっていた。
         
         

本丸の巨(おお)マツ
「御本丸に七本松という老松・・・」と天保年間の雑誌に書かれていた松の生き残りと思われ、樹高30m、樹齢400年以上のクロマツである。
                 

二の丸隅櫓(すみやぐら)
曲輪(くるわ)の隅に配置される櫓。廃城の際にも壊されなかったが、関東大震災で崩落した。現在の櫓は1934(昭和9)年に復元したもので形状は当時と異なる。
         
この堀の中に建てられていた「二の丸御殿」は、藩主在国中の居館として、また藩の行政を行う政庁としての役割を持つ御殿として利用されていた。
「二の丸御殿」は寛永年間(1624~44年)のころが最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであった。しかし、1703(元禄16)年の大震災により小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊炎上した。その後再建、増築されているが、以前のような姿には及ばなかったという。
現在は歴史見聞館の建物と広場となっている。その広場には、かつて城内小学校がおかれていた。

二の丸東堀
本丸、二の丸を護る中で最も大きな堀で最大幅は40mある。
現在の石垣は、1923(大正12)年の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧した。江戸時代の石垣はもっと高く威厳のある姿を見せていた。
         
         

常磐木門
本丸の正面に位置し、城内で最も大きく堅固に造られていた。記録から江戸時代初期から設けられており、1703(元禄16)年の地震で崩壊した後、多門櫓と渡櫓から構成される枡形門形式で再建されている。
常磐木とは常緑樹の意で、小田原城が永久不変に繁栄すること願って名付けられている。
1971(昭和46年)復元。
         

銅門(あかがねもん)
江戸時代の二の丸表門で、江戸時代を通してそびえていたが、1872(明治5)年解体される。
1997(平成9)年、門や土塀は古写真を基に江戸時代工法で復元される。銅門の名前の由来は、大扉などに銅の飾り金具が使用されているからである。
         
         

馬出門(うまだしもん)
二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期から現在の場所に存在し、1672(寛文12)年に枡形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。
2009(平成21)年に総工費5億円余りをかけ復元される。
         
         
         

大手門跡
稲葉氏が城主であった1633(寛永10)年、三代将軍家光が京に上る際に、箱根口付近にあった大手門を江戸に向く現在の位置に移し、大手門前までの道を将軍が入るための御成道として整備、江戸見附もその時に、現在の国道1号線の位置に移された。
この門を入ると三の丸となり、道の両側には家老級の屋敷が建ち並んでいた。
         
鐘楼の石垣は、大手門枡形虎口の石垣である。
                 
         
御用米曲輪
またの名を「御城米曲輪」とも呼ばれた。
小田原城は藩主のものではなく、江戸城の出城として徳川家の所有であった。前記のように、本丸には将軍家専用の本丸御殿があり、そのため藩主は二の丸に居館を置いていた。 このため米蔵も徳川家の兵糧米を格納するものであって、稲葉氏時代には御用米曲輪には五棟の瓦葺の米蔵があり、八千石、俵にして21,600俵余の米を収納していた。
         
この場所、かつては野球場であったり、臨時駐車場でもあったようだ。
現在は発掘現場となっており、北条氏時代では、重要な建物があったといわれいている。
         


         
平成22年度から史跡整備に伴う発掘調査が行われており、北条氏時代の建物跡が新たに発見されたと時折地方版の新聞記事を眼にする。
今後も新たな発見があるのではと、楽しみである。

            
        
                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2012.3.29散策】


旧東海道「小田原宿」を歩く

2013-03-07 00:00:01 | 東海道宿場町
小田原宿

           
江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場が小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。
最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていた。
 
小田原宿は譜代大名・大久保氏11万3千石の城下町でもあって神奈川県最大、東海道でも屈指の宿場として栄えた。
大久保氏以前の戦国時代に小田原を治めていたのは北条氏で、鎌倉幕府執権の北条氏と区別するために後北条氏(ごほうじょうし)、或いは小田原北条氏と後世の歴史家からは呼ばれている。


          
         その北条氏の祖である北条早雲の像が小田原駅西口に建てられている


東海道小田原宿は江戸見附近くの山王神社からスタートする。
         

 
山王神社
山王神社は『新編相模風土記稿』に、1558年頃(川中島合戦があったころ)に村の鎮守として祀られていたと記されている。
         
          
社にある井戸の水面に夜空の星や月が写って見えたことで、別名「星月夜の社」と呼ばれる。
江戸時代初期に活躍した儒教学者の林羅山が山王神社を参拝した折に、箱根山を登る旅人の「百千の籠(たくさんのちょうちん)」が見えたと「星月夜」の詩を詠んだ。
また、徳川家康が小田原攻めの際に、戦の勝利を祈った神社でもある(当時の山王神社はこの場所ではなかった)。

江戸口見附・山王原一里塚
山王神社の先に江戸口見付跡があった。小田原城下に入る東の出入口でここからが小田原宿内である。
見附とは、枡形門に設けられ鍵の手の状態に通行し、昼夜番士が警戒にあたる見張番所もあった。
見附には北条氏時代の小田原城防衛のための土塁が築かれていたので、東海道を通す際にこの土塁を壊して枡形門が作られた。
ここは江戸より丁度20里(およそ80km)にあたり、やや海よりの場所に山王原村一里塚が設けられていた。
          
         

蓮上院土塁
北条氏時代の小田原城の外郭遺構。
北条氏は、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築いた。この辺りは、その総構の最も南部にあたり、小田原合戦時にはこの東側に徳川家康が陣取った。
         

 
新宿町から古い町名が続く
旧東海道は「新宿交差点」で左折して蹴上げ坂を上る。坂とはいえない坂を100mほど進んで右折をする。昔はもっと傾斜があったのだろうか。
万町(よろっちょう)と呼ばれた町である。道の両側に蒲鉾屋が目に着く。
旧東海道はこの先、高梨町(甲州街道の起点、問屋場があった)、宮前町(高札場、本陣:1 脇本陣:1 旅籠:23で本町とともに宿の中心)、本町(本陣:2 脇本陣:2 旅籠:26)、欄干橋町(本陣:1 旅籠:10)、筋違橋町(すじがばしちょう)、山角町(瓦職人が多い)、御組長屋(おくみながや)などの町並みが続く。
小田原市は「歴史的町名保存事業」を実施し、旧町名を調査するとともに、この調査に基づいて町名保存碑を設置している。現在保存碑は77を数えるようだ。

新宿町
江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。
町は藩主帰城の時出迎場であったほか、郷宿(ごうやど・藩役所などへ出向く村人達が泊まる宿屋)や茶屋があり、小田原提灯造りの家などもあった。
                  
万町
町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町内には、七里役所という紀州藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には、旅籠が5軒ほどあり、小田原提灯造りのいえもあった。
         

高梨町
東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央 南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取次所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と10日交代で勤めていた。
         

宮前町
小田原北条氏時代、この町は、上町、下町に分かれていたと伝えられている。江戸時代には、 町の中央に城主専用の出入り口である浜手門と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)が あり、同時代末期、町内には本陣1、脇本陣2に旅籠が23軒ほどあって、隣の本町ととも に小田原宿の中心であった。
         

宮小路
町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。
この横町は神社の門前から東へ延び青物町に至るまでの通りをいう。
         

脇本陣古清水旅館
江戸時代、大清水本陣とその隣の古清水脇本陣は兄弟で経営していた。明治以降、本陣と脇本陣を合併した古清水旅館が脇本陣跡に建てられ平成の時代まで続いた。現在は高齢者専用の賃貸住宅になっている。その2階には「脇本陣古清水旅館資料館」がある。希望すれば見学できるようだが、訪れた日は管理人が不在で残念ながら見学できなかった。
         

明治天皇宮ノ前行在所(あんざいしょ)跡・清水本陣跡
 
明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣跡である。行在所とは天皇が外出した時の仮御所をいう。
清水金左衛門本陣は、小田原宿にあった4軒の本陣のうちの筆頭で、代々町年寄も勤め宿場町全体を掌握していた。
清水本陣は、天保期には間口およそ33m(18間)、屋敷面積1,320平方メートル(400坪)、建坪およそ800平方メートル(242坪)の大本陣で、尾張徳川家61万石をはじめ諸大名や宮家の宿泊にあてられていた。明治天皇も1868(明治元)年から5回ほど宿泊されている。
          

松原神社
旧東海道の青物町交差点を過ぎた辺りから松原神社の前辺りまでが、かつての小田原宿の中心地である。
松原神社は日本武尊を祀るが北条氏綱の時、海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされ、北条氏の庇護も厚かった。
「松原明神」とも呼ばれる。江戸時代、1686(貞享3)年、老中大久保忠朝(忠世から五代目)が佐倉より小田原に転じた折、小田原宿惣町の総鎮守として盛大な祭礼を行うようになった。
1873(明治6)年、足柄県の県社に指定され、以後、現在に至るまで小田原の総鎮守的象徴である。
         

小田原なりあい交流館
「なりわい交流館」の元は、住吉屋吉衛門と呼ばれた江戸時代の旅籠で、その後、大正時代はブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。
この辺は、海(御幸ノ浜)からの恵み(干物、鰹節、蒲鉾、はんぺん等)を活用したなりわい(生業)が盛んな場所であった。現在は、そのなりわいの紹介や観光案内、お休み処として利用されている。
この建物は、関東大震災で被災した建物を再建したもので、江戸時代から続く「出桁(だしげた)造り」という小田原の伝統的な商家の建築方法だという。


北条氏政・氏照の墓
小田原駅から数分のところにこの墓所はある。
北条氏政は五代の領主、氏照は、その弟。豊臣秀吉の小田原攻めで時の城主氏直が高野山に追放され、父である氏政、その弟氏照は責任を負って自刃した。
この墓所は永く放置されていたものを稲葉氏の代になって北条氏追善のためつくり直したという。
         
         
ここは、願掛けの「幸せの鈴」を結ぶ場にもなっている。
「願」をかけ鈴を持ち帰り、願いがかなったらここに結ぶという。たくさんの鈴が結ばれている。
「幸せの鈴」についての解説板が置かれているが何故に北条氏と結びつくのかは理解できない。
         

第二次世界大戦最後の空襲
いくつかの空襲被害のいたいたしい記録を小田原市内の各所で眼にとまった。
・小田原空襲の碑
碑は青物町交差点脇の建物の壁にはめ込まれていた。
これによると、大戦最後の日、1945(昭和20)年8月14日夜半、B29爆撃機に焼夷弾攻撃を受けた。
高梨町、青物町、宮小路、一丁田などが被害を受けた。
8月14日無条件降伏を決定したあとの小田原空襲であった。
         
・8月15日空襲の記録
空襲の記録は「脇本陣古清水旅館」に掲示されている。
1945年8月15日の1時か2時ごろに空襲を受けた。
この空襲は、埼玉県熊谷市、群馬県伊勢崎市の空襲の帰りに行われたもので、アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には記載もなく、計画されていなかった空襲だったようだ。
行き掛けの駄賃というやつか。
         
・太平洋戦争焼夷弾着弾の跡(蓮上院土塁)
太平洋戦争が終わりに近づくにつれ日本各地で空襲がはげしくなり、小田原市内でも1945年4月以降たびたび空襲を受けた。
戦争終結前の8月13日に空襲が蓮上院の土塁に着弾し、大きく土塁を損壊した。
戦国時代の土塁に昭和時代の戦争の傷跡が残る貴重な場所である。
         

小田原城
小田原城は箱根外輪山麓の台地上に築かれた。平安時代末期、相模国の豪族土肥一族の小早川氏による築城が起源で、その後、大森、北条氏が居城とした。
上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落を誇こる。特に北条氏末期には、豊臣軍に対抗するため城下全体を総延長9kmにも及ぶ土塁と空堀で囲んだ。これは、後の豊臣大阪城の惣構(城郭構造)を凌いでいるという。
江戸時代は大久保、阿部、稲葉氏と城主が変わり再び大久保氏の居城で幕末を迎えた。現在の天守閣は1960(昭和35)年に復元されている。
大手門跡の鐘楼、学橋、銅(あかがね)門、常磐木門などの見所もある。
         
         

報徳二宮神社
小田原の生んだ農聖・二宮金次郎を祀るため1894(明治27)年に建てられた。
二宮尊徳(たかのり)、通称は金治郎であるが一般的には金次郎と表記される。江戸時代後期の農政家・思想家。小田原藩家老屋敷で武家奉公し、その時に才をなしたという。
柴刈り縄ない草鞋をつくりの金次郎像や成人の尊徳像が祀られている。
         
         
        
右は小田原駅にも金次郎像が置かれているのでそちらを使用。        

対潮閣跡
対潮閣は山下汽船(現商船三井)の創始者山下亀三郎の別邸である。対潮閣には同郷である海軍中将秋山真之(さねゆき)が古希庵に滞在する明治の元老山縣有朋を訪ねる際にしばしば利用された。
秋山真之は司馬遼太郎原作『坂の上の雲』に登場する日本海海戦時の連合艦隊参謀である。虫垂炎を悪化、腹膜炎を併発させこの地で亡くなっている。49歳。
                   

ういろう本舗
中国の元朝に仕えていた公家が日本に帰化し、中国での官職「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」からとって「ういろう」と名乗ったとのこと。
「ういろう」とは痰(たん)切り、口臭予防の丸薬で、『東海道中膝栗毛』にも出てくるという。
また、歌舞伎役者の二代目団十郎は、持病の咳が外郎によって治ったことに感謝して「外郎売」を演題として歌舞伎にとりあげた。外郎の効能を早口でおこしろおかしくまくしたてる内容のようで、中に出てくる台詞は、新劇の若手俳優も練習に取り入れるようで、亡くなった「ちい散歩」の地井武雄さんもここを訪れた際に話していた。
お菓子のういろうである練羊羹の製法は江戸中期に広まったといわれる。
「ういろう」を販売している「外郎家の建物・八棟造り」は、1523(大永3)年に外郎家が建設した建物を再建したもので、棟の数が多いので八棟と呼ばれる。
『東海道名所図会』には、八棟造りの中国風の住居が描かれているが、関東大地震によって崩壊。当時の八棟造りとは若干趣を異にする建物とのこと。
         

ちん里う
梅干しは、城主北条早雲がその薬効と日もちの良さに目をつけ奨励したという。江戸時時代には宿場の土産物として街道を往返する旅人の疲れを癒した。
街道の南側に梅干しの老舗「ちん里う」がある。明治になっての開業という。
         
小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干・ういろう・小田原提灯などが名物として広く知れ渡るようになった。

西海子(さいかち)小路
その昔は、武家屋敷が集まる風情のある小路。
かつて谷崎潤一郎や三好達治など多くの文学者たちが周辺に居を構え、数々の文学作品を生み出したゆかりの地でもある。
         

           尾崎一雄邸書斎                 白秋童謡館

小田原駅跡碑
1896(明治29)年、熱海方面への陸上輸送道路として豆相(ずそう)人車鉄道が開設の際、現小田原駅から南側の東海道早川口に小田原駅が出来ていた。
人力で車両を押して走る鉄道であり、小田原-熱海間、駕籠で6時間かかるところ、4時間で走ったという。
                   

伝肇寺(でんじょうじ)
浄土宗の寺。北原白秋が寺の竹林に家を建て、創作活動に励んだ。白秋の活動を称え、境内には自筆の「赤い鳥」の記念碑が建立されている。
         
         
         
大久寺(たいきゅうじ)
日蓮宗大久寺は小田原藩主大久保家の菩提寺である。1590(天正18)年、初代大久保忠世が建立した。
         
         
                       大久保家墓所

居神(いかみ)神社
境内には鎌倉時代末期の古墳群がある。城下に残る古碑としては最古のもので、根府川石で作られた。
1317(文保1)年銘の大日、1322(元享2)年銘の阿弥陀の両種子板碑(しゅじいたび)や線刻五輪塔など5基が小田原市の文化財に指定されている。「種子」とは梵字のこと。

         
                   

光円寺
浄土宗光円寺は1633(寛永10)年、三代将軍家光の乳母である春日局が開基したといわれている。
         

上方口見附(板橋口)
光円寺の前の交差点が「板橋見附跡」。
ここが、小田原宿の上方口(板橋口)で、箱根への第一歩を印すことになる。
戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築いた。この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入口が設けられていた場所である。
       

醤油工場
旧東海道は板橋口で国道1号線から分かれる。
しばらく行くと、土蔵と繋がった赴きある家を見かける。
醤油工場の看板がかかっている。
1903(明治36)年創業の内野醤油で、日露戦争の勝利から「武功」と名付けた醤油を製造販売していたが、現在は作業はしていないという。
         

古希庵
明治の元老山縣有朋が1907(明治40)年に古希を記念して営んだ別荘。板橋の南向き丘上に総面積11,630平方メートルに、和風木造平屋建ての本館、木造2階建て洋館、煉瓦平屋建ての洋館が建ち並び、入口には、茅葺き屋根の門がある。山地回遊式庭園は毎週日曜日に一般公開されている。
         

山王神社板橋の地蔵尊
「板橋のお地蔵さん」と地元で親しまれている。1569(永禄12)年香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移奉した。堂右手には直径1.5mほどの一木から彫られた恵比寿様が祀られている。
    
小田原用水取水口
北条氏時代に小田原では古水道が造られ、城下での飲用水として使われていた。その際の早川からの取水口。

取水口からは先をしばらく現在の東海道を歩く。

風祭一里塚跡
箱根登山鉄道・風祭駅から箱根寄りに江戸より21里の風祭一里塚跡がある。道祖神が同じところに祀られている。
         

長興山紹太寺
江戸時代には、東海道に面したこの場所に石造りの門が建っていたという。
紹太寺は、春日の局と、その子で小田原城主となった稲葉氏一族の菩提寺である。
開基当時は東西1.65km(14町70間)、南北1.12km(10町16間)という広大な寺域に七堂伽藍が配置されていたという。
         
         
茅葺きの本堂から550m、石段を360段余上ったところに稲葉家一族と春日局の墓がある。解説によると二代城主正則とその正室の墓以外は春日局をはじめとした墓石は実際には供養塔であるとのこと。
         

箱根登山鉄道
箱根登山鉄道の入生田駅先の踏切を渡る。
小田急線が箱根湯本まで乗り入れていることで、車両の軌間が違うためレールが3本走っている。
         

日本初の有料道路
1875(明治8)年、小田原の板橋から湯本まで、全長4.1km、幅員平均5mの我が国初の有料道路が開通した。
江戸時代の東海道を広げ、急坂も人力車が通れる勾配に付け替えた。
開通してから5年間、道銭(通行料)を取った。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘であったと案内に書かれている。
調べると、「有料の人力車道」という表示もあった。
日本初と案内板には書かれているが、「我こそは日本初の有料道路」という路線が全国各地に乱立しているようだ。
         

三枚橋交差点
「箱根湯本駅」を遠くに眺める三枚橋交差点で旧東海道は分岐して湯本の温泉街に入ってゆく。
         



小田原宿は小田原城を中心とした観光地として残ったことで、これまで歩いた宿場町に比べ案内板が多く置かれて迷うことなく巡ることが出来た。

小田原宿を抜け、神奈川県内の東海道の宿場も8つ巡ったことになる。
残るは「天下の嶮・箱根宿」である。


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2012.3.29散策】

旧東海道「大磯宿」を歩く

2013-02-28 18:29:13 | 東海道宿場町
大磯宿を歩く
                                                    
大磯宿は1601(慶長6)年、東海道に宿駅伝馬制度が制定された時に設置された初期の宿場のひとつで、江戸から八番目の宿場、日本橋からの距離は66m(16里27町)に位置する。
この道は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来の鎌倉と京都を結ぶ上洛道として発展した。これが東海道の始まりと伝えられている。
鎌倉時代、大磯の中心は化粧坂の付近にあったと思われる。

         

「大磯宿を歩く」は化粧坂にある一里塚からスタートする。

化粧坂は、東海道の旧道として残され、松並木に覆われている。
         

化粧坂一里塚跡
化粧坂の中ほどに日本橋より16里の一里塚跡がある。海側には榎、山側にはせんだんが植栽されていた。
         
         

 
大磯八景碑
大磯八景は1907(明治40)年ころ、大磯町町長が、大磯八景を選んで絵葉書にしたことが始まり。
         
                   

JR東海道線のガードを潜ると、いよいよ大磯宿の中心地に入る。
         

江戸見附
宿場の出入り口につくられた構造物で、本来簡易な防御施設として設置されたものである。また、宿場の範囲を示しており、江戸側にあるものを江戸見附と呼ぶ。
         
         



日枝神社の庚申塔群
         
青面(しょうめん)金剛像が庚申塔群の右手に含まれている。
         

神明神社
明治天皇が1868(明治元)年、京都から東京に行幸途中、大磯宿小島本陣に宿泊した際に、内侍所御羽車(賢所 天照大神の御霊代のヤカタノカガミを祭ってある腰輿)を神明神社に奉安されたという記念碑がある。   
 

火除土手跡
江戸時代、大磯宿はたびたび大きな火災に見舞われている。
なかでも宿内450軒が消失した1836(天保7)年9月の大火や1853(嘉永6)年8月の漁師町家数380軒余のうち、312軒を焼きつくした大火などがある。そのために火除土手が1855(安政2)年に築かれる。
火除土手の場所が分からず大磯駅前の観光案内所で教えていただく。現在は土手といえるほどの高低差はなく、道として利用されている。
         

延台寺
日本三大仇討ちのひとつ、曽我兄弟の仇討ちにゆかりの深い鎌倉時代の舞の名手、伝説の美女虎御前(虎女)が兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられる(延台寺案内)。
曽我十郎身代わり石と称する「虎御石」がある。
虎御前のもとに通う曽我十郎が工藤祐経に矢を射かけられた時、この石が防いだとされ、長さ二尺一寸(約60cm)幅一尺(約30cm)重さ三十六貫(約135kg)ほどの大きさがある。
         
         
狭い境内の中には大磯遊女の墓、虎御前供養塔などの史跡がある。
                   
         

秋葉神社
1762(宝暦12)1月年の大火で宿場の大半が焼き尽くされた。そこで遠州秋葉山から秋葉大権現を勧請し、祀った。
            

北組問屋場跡
大磯宿の問屋場は北本町、南本町に一カ所ずつあり、地福寺の門前通りを境として北組と南組に分かれていた。それぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ交互に役を勤めていた。
北組問屋場は間口6m余(3間半)であった。
 

小島本陣跡
東海道五十三次のうち、日本橋から8番目にあたる大磯宿の本陣跡。
大磯宿には、小島家、尾上家、石井家の3軒の本陣があった。小島本陣跡には、1870(明治3)年創業の蕎麦屋「古伊勢屋」が建つ。
       

地福寺・島崎藤村の墓
837(承和4)年創建という古義真言宗京都東寺末の古刹で、かつて家康が利用した「御茶屋」があったところといわれる。境内には梅が立ち並び、名所として知られる。
         
境内に島崎藤村夫妻の墓がある(下画像)。島崎藤村は、代々中山道馬籠宿の本陣、庄屋を務めた家に生まれ、のちに郷里において牢死した国学者の父をモデルに『夜明け前』を執筆した。
         

尾上本陣跡
小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣がありその建坪は夫々 246、238、235坪であった。本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる床の間と違い棚のある書院造りの御上段の間がある。
南本町東側にあった石井本陣は早く幕を下ろすが、尾上、小島本陣は幕末まで続いた。
         
小島本陣は北本町に、尾上本陣は南本町地福寺入り口付近一帯にあり、石井本陣は東海道を挟んで、尾上本陣の斜向かいにあった。
         

南組問屋場跡
         
         

アロエの花
「海水浴場発祥の地碑」に向かう道筋に咲いていた。その後も時折みごとに咲くアロエの花を見かける。
                 

海水浴場発祥の地碑
1885(明治18)年、当時の軍医総監・松本順が国民の健康増進と体力向上をはかるため海水浴が良いと説き、有名歌舞伎役者を大磯照ヶ浜海岸に大勢連れて来て海水浴をさせ、大磯町を日本で最初の海水浴場として日本中に広めた。
         
         

新島襄終焉の地(旅館百足屋の跡地)
早稲田大学の大隈重信、慶応の福沢諭吉とともに明治時代の三代教育者である、後の同志社大学創始者・新島襄が療養先の大磯の旅館百足屋で47歳の生涯を閉じた。かつての百足屋跡地に石碑がたてられている。
         
         

新杵

         

湘南発祥の地碑
「湘南」は、もともと現在の中国湖南省を流れる湘江の南部のことで、大磯がこの地に似ているとことから江戸期に湘南の発祥の地と命名された。
         

鴫立庵(しぎたつあん)
鎌倉時代の有名な歌人・西行法師が、「こころなき身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」という和歌をこの地で詠んだ。
江戸時代初期に、崇雪という俳人が、西行を慕って大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建て、その後これが鴫立庵と呼ばれた。崇雪は鴫立庵の脇に「著盡湘南清絶地」という標柱(1664年建立)を建てたことから、この付近を湘南と呼ぶ様になったとの説もある。庵はなかなか瀟洒な作りで、風情にあふれている。歴代俳諧重鎮が江戸時代より現在に到るまで、この庵に在住してここを守ってきている。
         
 

法虎堂(鴫立庵)
鴫立庵庭内の沢を背にして法虎堂がある。堂内には有髪僧体の虎御前19歳の姿を写した木造が安置されている。堂の前には1701(元禄14)年に建立した虎御前碑(東鑑碑)がある。
         
         
         

高札場跡
通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたという。現在、民家の庭の中となっている。
          

島崎藤村旧宅~静の草屋~
藤村邸は大正後期から昭和初期にかけて建築された町屋園と呼ばれる貸別荘の1軒。
 萬事閑居簡不自由なし
藤村が最晩年の2年余りを過ごした邸宅。1941(昭和16)年2月、東京市麹町区(現千代田区)より大磯町に疎開した藤村は、1943(昭和18)年8月21日、「東方の門」の朗読中に倒れ、翌未明に亡くなった。享年71歳。
                    
         
         
               ガラス戸の板ガラスは大正製

東海道松並木
松並木は、今から400年前に諸街道の改修時に植えられたもので、幕府や領主に保護され、150年前ころから厳しい管理の下、たち枯れした樹は村ごとに植え継がれて大切に育てられた。
         
         

蹌踉(そうろう)閣(伊藤博文邸跡)
1890(明治23)年に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県 小田原市)に建てられた、政治家・伊藤博文の別邸。
1897(明治30)年に中郡大磯町に 同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となった。
また、邸内に、明治の元勲である三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允を祀った四賢堂を造り、日々の戒めとしたとされる(伊藤の死後、夫人が伊藤博文を加えて五賢堂となった)。滄浪閣は、長年大磯プリンスホテル別館となっていたが、2007年3月末をもって終了した。いずれは老人ホームとなる計画があるようだ。
また、この辺一帯は、山形、陸奥、西園寺等の明治の元老旧邸が点在している。
         

上方見附跡
「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近に案内板がたっている。この見附は平和な江戸時代になっては、防御施設としての役目はなくなり旅人に宿場の出人口を示す目印となった。
         

大磯城山(じょうやま)公園・旧三井財閥別邸
         
元は三井財閥総本家の別荘地で、三井家は小磯別邸城山荘と呼んでいた。
1933(昭和8)年、三井家の当主・三井八郎右衛門高棟は第一線を退き隠居し、大磯に城山荘新館を新築。
         
         
公園となった現在、ここからの眺望は「関東の富士見百景」(国土交通省)に選定されているが、訪れた時はカメラに収めたものの残念ながらぼやけていた。なんとか露出調整をして富士を眺められた。
         

国府本郷・一里塚
大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿地内に、そして国府本郷村地内に17番目の一里塚があった。国府本郷の一里塚は実際にはここより200mほど江戸よりに位置していた。塚の規模は不明だが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようである。
         
         

東海道の道祖神
         
 

六所神社
1192(建久3)年、北条政子の安産祈願として神馬が奉納された。
                 
         
         

宝積院
741(天平13)年、創建された真言宗の寺。
宝積院(ほうしゃくいん)入口付近には1631(寛永8)年の銘がある梵鐘があり、大磯に現存する鐘としては、最古のもの。
                 
         


宿内の家並みは、長さ11町52間(1.3km)、江戸方より街道に沿って、山王町・神明町・北本町・南本町・茶屋町(石船町)・南台町の6町で構成されていた。江戸後期の人口は3,056人、家数は676軒で、三つの本陣と66軒の旅龍は北本町・南本町・茶屋町に集中し、問屋場は北本町と南本町の2ヵ所にあった
江戸寄りの平塚宿との間はわずか27町(2.9km)と短く、一方、小田原宿との間は、4里(15.7km)で比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川がある。南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで、宿場としてはどちらかといえば、寂れた宿場のひとつであったようである。その主な理由は、江戸からの旅人は翌日の箱根越えに備え小田原にまで足を伸ばしてしまい、又、箱根を下ってきた人は、酒匂川の渡しを前に、その疲れを休めるために小田原に宿泊してしまうことが多かったからと思われる。




大磯と小田原との間宿(あいのしゅく)二宮

二宮駅前ガラスのうさぎ
「ガラスのうさぎ」は、児童文学作家・高木敏子によるノンフィクション文学である。作者自身の経験をもとに執筆され、戦争で家族を失った少女を描いている。
三度の映画化、NHKでのドラマ化、アニメ化と多彩に作品化されている。
         
二度と戦争があってはならないと、永遠の平和を願う人々の浄財によって1981(昭和56)年、二宮駅前に建てられた。
                 


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2011.12.15散策】

「平塚宿」伝説の女性たち

2013-02-19 15:00:00 | 東海道宿場町
平塚の伝説的な4人の女性たち
平塚で語られている女性は、古い順に、平政子・大磯の虎・お菊・お初の4名が挙げられる。

平塚の地名となった女性・平政子
         

                  
                     平塚4丁目の要法寺の西に「平塚の碑」

『新編相模国風土記稿』にも収録されており、「平塚の塚」の云い伝えである。
それは、857(平安元)年、東国に下向していた桓武天皇3代の孫、高見王の娘・政子(真砂子)がこの地で没し、その棺を埋めて塚を作った。
それが幾星霜を経てその塚の上が平らになったことから、「平らの塚」が「平塚」となったことが「平塚」の地名の起源とも云われている。
しかし、これはあくまでも云い伝え・伝説であり、「平塚」の起源ではないと云うことが有力なようだ。
が、政子の系図や位牌をつくったり、おまけには政子没年千百年忌をも催したそうで、政子が実在したかの真偽に関係者の間では喧々諤々の熱い戦いがあるようだ。
なお、平塚市のHPには、地名の起源については何も触れていないようであり、現在も謎のようだ。
                
                   東国に下向する政子

大磯の虎
大磯の虎は『曽我物語』に登場するヒロインで、お虎さん、虎女(とらじょ)、虎御前とも云われる。
                      
『曽我物語』は曽我十郎・五郎の兄弟が、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討つ日本三大仇討ちとして知られる物語であるが、そこに、虎は曽我十郎の恋人として登場し、『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。
『曽我物語』によると、虎は平塚宿の遊女夜叉王と宮内判官家長の間に生まれた娘であり、父没後は、母と一緒に暮らし、平塚宿で遊んでいたが、容姿が良いので大磯の菊鶴という遊女に乞われて養女になったという。
と云うことで、大磯の虎は平塚生まれ(1175年)の平塚育ちの女性である。
虎が17歳の時、20歳の曽我十郎と出会い、恋仲になるが、その後、十郎は敵討ちを果たした後に討死してしまう。そのため、虎は19歳で出家し、諸国を廻る修行を行い、64歳(1238年)で亡くなったとされる。
歌川広重が描いた大磯宿の浮世絵 「大磯虎ケ雨」は、 虎御前が流した涙が雨となったという故事からで、梅雨時のしとしと雨を「虎ヶ雨」と云い、俳句の季語にもなっている。
なお、日本三大仇討ちは、あとは「赤穂浪士の討ち入り」、荒木又衛門が登場する「鍵屋の辻の決闘」がある。
             
                       歌川広重 「大磯虎ケ雨」 

「番町皿屋敷」のモデルお菊
お菊は平塚宿役人間壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳方に行儀見習い奉公に出ていた。ある日、お菊は自らの不注意で主人愛玩の南京絵皿10枚組のうち1枚を割ってしまい手討ちにされ井戸に投げ込まれた。遺骸は引き揚げられ平塚に戻されたが、お菊が投げ込まれた井戸にはお菊のれ霊魂が留まり幽霊となって夜な夜な現れた所謂、怪談「番町皿屋敷」のモデルである。
それは、1740(元文5)年のこと。
遺骸は平塚宿内の晴雲寺に葬られたが、1952(昭和27)の区画整理で現在の立野町に移転することとなった。その際、お菊の墓を移動しようとすると不吉なことが度々起こった。そこで、工事関係者がお菊の墓があった場所にお菊塚を新たに建立し弔ったところ工事がスムーズに進むようになったという。
それが紅谷町公園の「お菊塚」である。紅谷町公園は平塚駅のすぐ近くにある。
しかし、この事件を伝える当時の資料は残されておらず、これに類似した話は北は岩手県、南は鹿児島県まで全国に存在すると云う。
  
   紅谷公園の「お菊塚」

          晴雲寺

 

歌舞伎「鏡山お初」のモデル
お初は平塚宿の百姓松田久兵衛の娘で、荻野山中藩の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう:将軍・御台所の身辺世話役、この中から側室が選ばれていた)岡本みつの下に奉公中、主人みつが同輩の沢野から侮辱を受け自害したので、直ちに沢野を訪ね、刺殺して仇を討った烈女とされている。そして、この事件が後に歌舞伎「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」のモデルになったと云う。
要法寺西側の廃寺となった広蔵寺の墓地にある「安室貞心信女、明和六年(1769)十月九日」の刻銘のある墓がお初の墓と云われている。また、主人の岡本みつも平塚宿出身であったと云われる。
荻野山中藩とは小田原藩大久保氏の支藩であり、相模国愛甲郡・足柄上郡・高座郡のほかに駿河国駿東郡・富士郡、伊豆国君沢郡・田方郡などに1万3000石を領した。
                             


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旧東海道「平塚宿」を歩く

2013-02-12 15:51:24 | 東海道宿場町
旧東海道「平塚宿」を歩く

    
平塚は小田原北条氏が城郭を築いたところから発達した町で、最盛期には、2千人の人口と75軒の旅籠屋を抱えた宿である。
平塚宿と隣宿の大磯宿との距離は約3km(27町)で、東海道の宿場のなかでも愛知県の御油から赤坂間に次ぐ短い距離とされるが、平塚宿は、中原御殿・陣屋との連絡基地としての必要性からの設置と思われる。
(東海道五十三次の宿場間の平均距離9.3km)

相模川・馬入の渡し
川の巾は約120m(70間)あり、渡し舟3艘のほか、平田船2艘、お召船1艘があり、1690(元禄3)年当時の渡し賃はひとり10文と云われている。船で往来する「馬入の渡し」は現在の馬入橋とほぼ同じ所にあったと云われている。

現在の馬入橋は1980(昭和55)年(1980)完成で、全長563mある。
1923(大正12)年に発生した関東大震災で馬入橋が崩壊したが、当時の軍隊が僅か16日で修復したと記されている記念碑が橋の下にたっている。
         

馬入一里塚
『新編相模国風土記稿』の馬入村の項には「東海道往還 村南を東西に貫く、道幅3間余、ここに一里塚あり・・・」とある。今は国道1号と旧東海道の分岐に一里塚が置かれているが、本来はもう少々川寄りにあったようだ。
この辺り北側を榎木町と云うが、この一里塚上にあった榎樹に由来しているようだ。 
         

平塚八幡宮
国道1号沿いに鳥居が立っている。かつての平塚新宿・八幡村・馬入村三カ村の鎮守であった。
伝承では仁徳天皇の世に応神天皇を祀って創建されたといわれ、相模国第5の宮である。


江戸方見付跡
平塚市民センターバス脇に江戸方見付跡の碑が立っている。
かつて平塚新宿の西端から平塚宿との間には、長さ約270m(2町32間)ほどの松並木があり、これを過ぎて平塚宿の宿内に入ったと云う。
東海道の左右には民家が並び、道幅約7~11m(4間1尺~6間)、その長さは約1km(9町5間)延びていたとされる。
         
平塚宿の西のはずれには、上方(京方)見附がある。
平塚市博物館には、1862(文久2)年の「宿内軒別畳数坪数書上帳(宿並帳)」を基に作られた平塚宿の街並みの模型が展示されている(入館無料)。
       明治当時の見附

江戸城の井戸枠
1957(昭和32)年、平塚市の市制施行25周年記念に東京都より寄贈された。平塚市民センターの中庭に置かれてる。


東組問屋場跡
平塚宿には、人足や馬を常備した引継所が東組・西組の2ヵ所に設けてあって、毎月10日交代で勤めていた。
東組は1651(慶安4)年二十四軒町に、西組は西仲町に1601(慶長5)年、それぞれ置かれた。
   

         西組問屋場跡
本陣旧跡・脇本陣跡
本陣・脇本陣は江戸時代を通じて同じ家で勤めたわけではないようだ。
当時の資料によると、脇本陣は寛政年間(1789~1801年)から1835(天保)6年までは原田家が、六郎兵衛が勤め、1844(天保14)年以降は山本家が勤めたようだ。そして、その交代の要因は原田脇本陣の「手狭困窮」のこと。
   
また、本陣は1843(天保14)年の資料では建坪163坪であったが、1862(文久2)年には111坪と変化している。但し、通説では、平塚宿の本陣は代々加藤七郎兵衛と称し、現在の神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた。建坪163坪と他宿の本陣より小規模であったことから、主として宿泊より小休のために利用されたと考えられる。
と云うことで、徳川十四代将軍家茂は、1863(文久3)年と、1865(元治2)年の2回休憩している。また、1868(明治元)年と翌年の2度、明治天皇が東京行幸と遷都に際してはここで小休息されている。
       

高札場跡
幕府の法度や掟が書かれた札を掲げた場所。
     

八王子神社
徳川家康が鷹狩の折この地で休息した由縁をもって、鷹匠の子孫が報恩のために「東照宮(東照大権現)」を祀ったのが始まりといわれ、1830(天保初)年に何故か「八王子権現」と改められたという。昔から通称「ごんげんさん」と呼ばれている。平塚宿から八王子宿に向かう大道を「八王寺((子))道」と云ったが、その道の起点がこの神社近くにあったことから「八王子神社」というようになったとも云われる。
         

春日神社
平塚宿の鎮守。
古くは黒部宮といって1192(建久3)年、頼朝が北条政子安産祈願に神馬を奉納した宮で、その社地は東海道より6~7町(650~760m)海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝える。


上方見附
平塚宿の京口見附は、大磯町境の古花水橋の所に置かれていた。見附は道の両側に、縦2m、横2.5m、高さ1.5mほどの石垣を積み、上に土を盛ったものであった。
            
平塚の一里塚  
高麗山(こまやま: 標高168m)をバックに眼下に花水川が流れる景色のよい平塚の一里塚は、旅人の疲れを癒す格好の休憩場所であっただろう。
特に桜の季節には、桜の花びらがその名の通り川一面に流れ、情緒ある雰囲気を醸し出していたことだろう。
         

         
また、平塚宿の旅籠の客引きは高麗山を指して「あの山を越えないと大磯宿にはいけないよ」と嘘を云って、引きこんだそうで、高麗山をペテン山といわれた。
現在、この地は、「平成の一里塚」として再建されている。
          高麗山     

高來神社
668年(天智天皇7年)、朝鮮半島の高句麗(こうくり:紀元前37年~668年)が滅亡した時、その王族の一部が相模湾から大磯海岸に上陸し、この山麓に住んだという。丸い山の形は渡来人たちの海からの目印でもあった。
山の麓には高來(たかく)神社がある。昔は高麗(こま)神社と云われていたが1897(明治30)年に現在の名前になった。

高來上宮神社
下宮から歩いて30分ほどの山頂に祀られている。
かつてはこの中に神輿が納められていたという。 現在は、改築されて小祠となっている。
          かつての上宮

東海道沿いの茅葺古民家 
         

震災遭難者供養碑
碑の解説によれば、
『大正12年9月1日の正午頃、突如として起こったM7.9の大地震は、平塚町とその周辺に大きな被害を与え、家屋は全壊または半壊したものが多かった。当時の平塚町は戸数3,384戸、人口18,518人で、死者は275人を数えた。このうち、焼死者は1人で他は圧死であった。
馬入鉄橋は川中に落ち、国道の馬入橋も全壊し、道路は各所で亀裂を生じあるいは陥没して寸断された。病院は負傷者を収容しきれず、火葬場では死体の処理が間に合わない状態だった。圧死者を多く出した平塚駅、紡績工場の惨状は云うに及ばず、たまたま当時全国殖産博覧会が平塚第一小学校(現崇善小学校の前身)で開催中だったので、ここでも圧死者を出した。   平塚市観光協会』と、ある。
                   
『震災遭難者之霊』と刻まれた碑は平塚二丁目の大鳥公園内にたてられている。傍らには道祖神などの石像物が祀られていた。
東日本大震災と二重写しとなったので紹介した。
            

                                           主な参考資料:平塚市
                                                    平塚市博物館
                                                    平塚市観光協会



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旧東海道「藤沢宿」を歩く 2

2013-01-20 14:02:06 | 東海道宿場町
旧東海道「藤沢宿」を歩く 2
         
後半は義経のはなしからはじまる。

義経が奉られる・・白旗神社、首洗井戸

義経首洗い井戸の伝承
『吾妻鏡』によると、
『兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)で亡くなり、1183(文治5)年に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきた。義経の首は首実験ののち、腰越の浜に捨てられた。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺りに漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めたのがこの井戸だと云う。
義経の首は洗った後、少し北側の「首塚」に埋められ、更にその北にあった象形山に神として祀ったのが白旗神社である。』
         

         
              九郎判官源義經公之首塚」の板碑、「九郎尊神」の石柱          

                    
このガイド標柱は、藤沢橋方向から来ると街路樹の銀杏の陰になり通り過ぎてしまう。

白旗神社
         
               日本初のグラスファイバー製の大鳥居

          
               拝殿を連ねた流権現造りの社殿
白旗神社の由緒によると、
「義経と弁慶の首は首実験がなされた後、夜の間にふたつの首がこの神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として祀るようとのことで、義経を祭神とし、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。
義経を祀る前は、相模一之宮の寒川比古命の分霊を祀って、寒川神社と呼ばれていた。」
         
               源義經公鎮霊碑

              
         
               弁慶の力石

          神輿殿

         
         芭蕉句碑「草臥亭(くたびれて)宿かる比(ころ)や藤の花」【1805(文化2)年建立】

                   
                      1865(慶応元)年建立の大御神灯

   
       20数基の庚申塔群と杉山検校の江ノ島弁財天道標

弁慶の首は八王子社として祀られたと由緒に書かれてあるが、その八王子社は何処にあるのか?
調べたところ、

白旗神社から南東に東海道を越え路地を少々はいったところに常光寺と云うお寺がある。1572(元亀3)年の創建、浄土宗で鎌倉光明寺の末寺、山号を八王山と云う。その常光寺の庫裏西の空き地に以前、八王子権現社あったとのことだ。その一角に弁慶塚と彫られた石塔が残されている。この地で弁慶の霊を祀っていたようだ。八王子社は義経を祀る白旗神社の末社であった。
         
            八王山摂取院常光寺山門

最初に藤沢宿を巡った時は「弁慶塚」がある裏山にたどりつくことが出来なかった。
そこで、日を改めて再挑戦。
今回は、「弁慶塚」までの道筋を細かく説明されているBlogを見つけたので、それを参考にした。
「済美館(藤沢公民館分室)と池田屋の間の道を入る。荘厳寺墓地の裏手に出ると、道の左手に石段が見える。」
細かく書かれているのに荘厳寺墓地の裏手に行っても、そんな石段は見つからなかった。
位置的にはこの辺りというところには軽トラとその奥にユンボ付きの大型トラックが敷地いっぱいに止まっているいた。結果的には2台の車の駐車場と思ったところが石段に通じる道であり、車で石段が隠れていたのである。
トラックの脇を身を細めて進んでいくと石段が見えた。ここだ。
Blogの文章によると、「その石段が八王子権現跡地への石段である。上がった空き地が八王子権現跡地。その左手奥に弁慶塚への石段がある。」

         
            八王子権現社跡地
説明通りに石段を上がって行くと八王子権現社跡地と思われる空き地があり、その上には真新しい小祠に納まった弁慶塚が祀れてているのを見つけることが出来た。
         
            弁慶塚と庚申尊

         
            庚申塔群
ほかに庚申塔や石仏が祀られていた。
数ヶ所蚊に食われながら写真に納めていると、この一角の脇を常光寺の墓地から下って来る小道を見つけた。それは、前回弁慶塚を探すときに歩いた小道であった。あれだけ歩いたのにと見つけてみれば悔やむ。
でも、八王子権現社跡地、弁慶塚を探し当てたことは成果である。


飯盛女とおしゃれ地蔵・・永勝寺・おしゃれ地蔵
          永勝寺山門
江戸幕府は宿駅に遊女を置くことを禁止した。
1717(享保2)年当時、藤沢宿には49軒の旅籠があり、そのうち29軒が飯盛女を抱えていた。飯盛女の数は制限されていたにも拘らず、宿駅の繁栄に必要なものになり制限を越える人数の飯盛女を置くことは当たり前のようになった。「飯盛女」とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕する女として公認されていたが、遊女としての側面を持っていた。その多くは宿内や周辺の農村や他国など貧しい農村から親の借金返済のために働いていたのであろう。
当時病気になれば捨て置かれ顧みられなかった彼女たちのために墓をつくって弔ったことは珍しいことであり、弔った小松屋の主人を顕彰すべきなのか。
飯盛女の墓は1761(宝暦11)年から1801(享和元)年までの40年間に38基、48体(ひとつの墓に複数の法名が刻まれいる)建てられている。これは、余りにも多い数ではないだろうか。しかも平均寿命は21歳3ヶ月と余りにも若すぎる。
これが当然の時代だったのか、封建時代の下で過酷な労務と凄まじい搾取の跡を覗かせる気もする。
これで温情な旅籠の主人であったのあれば、他の旅籠は幾ばかりか、時代が違うということなのか?
旅籠小松屋は江戸時代末期まで旅籠を現在の本町郵便局の近くで営んでいたという。
         
          
墓石には法名と施主小松屋の名が刻まれている。ふたつの法名が刻まれている墓もある。

「おしゃれ地蔵」は上方見附から歩いて15分ほどのところに祀られている。


藤沢市教育委員会の解説によると「おしゃれ地蔵」は、
『「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
形態的には、「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖地神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。』とある。

「おしゃれ地蔵」と「飯盛女」を結びつけた物語をBlogに載せた方がおり、大変興味深かったので、その文章を勝手に紹介したい。
『(前略)
飯盛り女には深く心を抉る事(えぐること)がありました。
男に抱かれれば、妊娠してしまう事もあります。子供を産んでも育てる事は出来ません。流産してくれればそれは幸いなのですが・・・・・、
「オギャー」声が聞こえたと思うと、次の瞬間には冷たい静寂が漂います。旅籠の男役が間引いてしまったのです。
飯盛り女は子供の泣き声だけが記憶に残りました。自分のお腹の子の顔も知りませんでした。
小松屋の店を出て、上方見附を越すと引地川が流れています。
その先に双体の道祖神が祀られていました。
道祖神ですから、藤沢宿に宿泊した旅人の「旅の安全」を守護する神様でした。
          引地川
でも、この道祖神はこけしの様に小さくて可愛くて・・・・、さらにお地蔵さんの姿をしていました。
飯盛り女はこの道祖神の前に屈んで手を合わせました。
「お地蔵様、私のお腹の子を極楽にお導きください、そして次に生まれ変わる時にはお金持ちの家まれるようにしてください・・・・」
目を開けると、お地蔵さんはニッコリ笑っておいででした。「お前の罪は問わないから・・・・、子供は極楽に届けよう・・・・、しかしお前が泣いてばかりでは叶わい何故なら赤子は閻魔様の前で“お前の母が泣いているのはお前の罪だ”叱責されるから。だから、もう涙を拭きなさい。」
         
飯盛り女は少し元気になりました。
そして、道祖神に何かして差し上げたい・・・思いました。でも、何にもありません。
あるのは化粧道具だけでした。紅と白粉、男に抱かれる時の道具だけでした。
そこで、さらに屈んで、白粉を塗って、紅を差しました。
道祖神は為されるままに笑っておいででした。
「止めてよ、お母さん。そんなに塗ったら恥ずかしいよ!」声が聞こえたような気がしました。
飯盛り女も楽しくなってきました。飯盛り女の悲しみは次第次第に癒えてくるようでした。
(後略)
「おしゃれ地蔵と飯盛り女と結びつける考えは掲載者だけ(?)です」と、「しかし、この双体道祖神だけが化粧されている謂れを考えると、こうした想像に妥当性があると思います。」』
と記述されてる。
          
永勝寺でこれだけ多くの飯盛女の墓を見ると、その心の落とし所としてもこの物語がうなづける。

 
街道筋で見かけた古き家々
         
         
         
         


                             【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.06.15&7.27散策】

旧東海道「藤沢宿」を歩く 1

2013-01-20 14:00:28 | 東海道宿場町

旧東海道「藤沢宿」を歩く        
          
藤沢宿は東海道五十三次、6番目の宿場。東海道が整備される以前から遊行寺の門前町として栄え、江の島・鎌倉・大山への参詣の拠点としても賑わう街であった。遊行寺の東側に江戸見附が、小田急江ノ島線を過ぎた所に上方見附があり、その間が藤沢宿である。



旧東海道松並木跡
遊行寺坂を上がりきった辺りを「緑が丘」と云う。そこに松並木跡の碑がたっている。『この道は、その昔「東海道」と呼ばれた街道で江戸時代の浮世絵師安藤広重の描いた「東海道五十三次」には、みごとな松並木が見られます。松並木はその後鬱蒼たる大木に成長し、ここ「緑が丘」にふさわしい風情を保っていましたが、(後略)』と案内板に書かれている。
             
今回の「藤沢宿」はこの松並木跡からスタートした。

遊行寺坂一里塚
            
江戸日本橋から12里目の一里塚 藤沢宿には13里の四ツ谷一里塚もある。藤沢宿は松並木跡から西の上方見附の少々先まで歩いた内容を5つのテーマに分けたまとめてみた。  
     1)小栗判官と照手姫の伝説  
     2)古くから門前町として栄えた藤沢宿  
     3)藤沢で最古の稲荷    
     4)義経が奉られる  
     5)飯盛女とおしゃれ地蔵

小栗判官と照手姫の伝説・・長生院  長生院は時宗総本山清浄光寺塔頭であった。
          
長生院(小栗堂)
東海道の遊行寺の坂を下りきる少し手前に、遊行寺の東門が、その東門を入って、すぐ右側の坂道を上ると突当りに長生院小栗堂がある。その小栗堂の中庭と云うべきところに、小栗判官、家来10人の墓と照手姫の墓、そして小栗が乗った鬼鹿毛という馬の墓が祀られている。

             小栗堂                              小栗判官公墓所入口
長生院の解説によると、『小栗堂の庭には、歌舞伎や浄るりなどで有名な小栗判官と照手姫の墓と伝えられる遺跡があります。十勇士の墓と名馬鬼鹿毛(おにかげ)の墓もあります。伝えられる話では、応永30年(1423)小栗満重は、足利持氏に謀反を起こし攻められます。家来10人と落ちのびる途中、横山大膳の館に泊りました。ところが盗賊大膳は照手姫をつかって満重に毒酒を飲ませ財宝を奪おうとしましたが、照手姫の密告によって満重は生命を助けられましたが家来10人は毒殺されてしまいました。満重は、鬼鹿毛で遊行寺にのがれて、上人に助けられ、のちに横山一党を敗ります。照手姫は、満重が亡くなったあと、遊行上人をたよって、満重と家来の霊をとむらい、長生尼となって余生をおくりました。』
    
         長生院小栗堂伝
長生院の解説を補足すると、小栗判官は常陸国(現茨城県)の武将小栗満重・助重親子(兄弟との説も)のストーリーをモデルにした関東各地に残る伝説である。『鎌倉大草子』と云う室町時代の関東地方の歴史書に掲載されているが、近松門左衛門の人形浄瑠璃『当流小倉判官』や説教節『おぐり判官』などに脚色されていて話がさまざまである。また、現代ではスーパー歌舞伎や宝塚の演目にも登場している。長生院は伝承と物語を併記して解説しているようだが、寺院に伝わる『小栗略縁起』では遊行上人が登場して奇跡による蘇生の話や閻魔大王が登場するなど仏教思想がでている。                  

       小栗判官と十勇士の墓                           照手姫の墓
またまた補足であるが、横山大膳が物語の中では悪党・強盗にさせられているが、実は東俣野(横浜市戸塚区)の郷士であり、住居があった辺りに「戸の久保」と云う小字名の地名が残されている。「トクノボ」とは「殿窪」の訛りで、「殿」と呼ばれ、地名として残る人物であったと想像できる。(新編相模風土記稿では「殿久保」と表示)

       照手姫建立厄除地蔵尊                           小栗判官眼洗之池 
        
                     小栗堂中庭全景
小栗判官の伝承は多く残っており、それぞれ内容にかなりの相違があると聞く。また、墓があると云うのはここ藤沢・長生院だけのようだ。

古くから門前町として栄えた藤沢宿・・遊行寺
正式名は藤沢山無量光院清浄光寺。時宗の総本山である。
         
もともとは、遊行を旨として「時に応じて集まる」という趣旨で、「時衆」と書かれたが、後に他の宗派と同じように「時宗」と書かれるようになったとか。歴代の祖師は念仏を人々に勧めるために全国を回った。これを遊行といい、そのために遊行宗とも呼ばれる。開祖は一遍上人(1239~1298)で、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)といって、愚かな凡夫(仏語では、仏教の教えを理解していない人を指す)が救われるという喜びを踊りに表現した。これが踊り念仏、または念仏踊りといわれ、現在の盆踊りの源流であるとされるとか。遊行寺が出来たのは、俣野(現横浜市戸塚区東俣野と藤沢市西俣野の地域)の地頭・俣野景平の弟・呑海上人(1265~1327)のときである。
敵御方供養塔
         
遊行寺の東門を入ってすぐ左に国指定史跡の「敵御方供養塔」と呼ばれる、「南無阿弥陀仏」の石塔がある。室町時代、足利幕府確立の過程で起きた「上杉禅秀の乱」にあたり、敵味方を問わず、犬畜生に至るまで丁重に葬った供養塔である。「上杉禅秀の乱」では小栗判官も足利氏に打ち滅ぼされ相模へ逃げてきた。当時の時宗は戦乱や大規模災害の際、死体の収容や怪我人の手当てに活躍したという。なお、昭和初年の恐慌時、職を失い、無一文になった女工たちが東海道を故郷に帰る際、ここでねぎらったという。
黒門
         
遊行寺の総門で、一般には黒門として親しまれている。
延文の鐘
          
1356(延文元)年に造られたもの。戦国時代、遊行寺が廃寺同然であった頃、小田原城に持ち去られ、陣鐘として使用されたが、江戸時代になって、再建された遊行寺に戻ってきた。銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものと云う。
中雀門
          
紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、1859(安政6)年に建設され、遊行寺境内では一番古い建物である。関東大震災で倒壊したが、その後以前の姿そのままに再建された。屋根の下には徳川家の葵の御門が刻まれている。
宇賀神

開運招福弁財天の宇賀神。徳川家の祖先、得川有親公(とくがわ ありちか・ 或いは世良田有親、南北朝時代から室町時代初期の武将)の守り本尊といわれている。祠の裏手の岩壁の前には琵琶を弾く姿の弁財天が座っている。
清浄光寺塔頭
         
          塔頭真徳寺(通称「赤門」)
         
                  塔頭真浄院
明治天皇御膳水
         
明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになられ、その際に使われた井戸である。
いろは坂
         
黒門を入るといろは坂がある。この坂の石段が48段あることから名付けられている。
菖蒲園
         
小書院(手前)へ通じる渡り廊下の両側に植えられている。この菖蒲は、明治神宮と鎌倉光明寺から移植されたものという。

この日は、訪れる拝観者も少なく菖蒲園はひとり占めのひとときであった。

「巫女舞」の開催
         
                        
                 8月13日(土)に「巫女舞」が開催される。
                 小田急藤沢本町の駅前に立て看板があった。
                 舞人募集とある。
         
ゆぎょうじはし
   
境川に架かる橋で、旧東海道から清浄光寺へ通じる。
藤沢宿最古の稲荷・・藤稲荷大明神
船玉神社の境内に、「この道10m先を右折階段を登り山の上にあります。藤稲荷は大鋸(だいぎり)の御幣山(おんべやま)の西のはずれにある。藤沢宿最古の稲荷だそうです。」と書かれた立て札があった。最古と聞いて早速向かった。
山の上ということで、階段はかなりの上りがありそうだ。    
         
         
                
『我がすむ里・小川泰二著』〔1830(文政13)年〕、『鶏肋温故(けいろくおんこ)・平野道治著』〔1842(天保13年)という幕末の藤沢宿場の様子を表した書物がある。平野道治という人物は旅籠「ひらのや」の主人だそうで、2誌とも幕府の手による『文政七年書上』(『新編相模国風土記稿』の草稿)に啓発され地元の人の手によって編纂された地誌で、意義深いものであると云われている。その2誌に藤稲荷社として解説されている。それによると、『勧請は古代で、年歴は不明である。藤沢宿で初めてで特定の社(燭頭)であったとのこと。そして文章は続き現在は廃寺となった虚空蔵堂の寺説で、『むかし、社の後ろに藤の古株があって、この辺りの木々を這広がり、弥生の末には花が咲いて、一面紫の雲がたなびくようだと書かれ、藤沢という名もこれより起ったと結んでいる。』藤沢の起源はここから来ているのかと藤沢市の広報で裏付けをとってみたが、藤沢市の見解は、『「藤沢」の地名の起源については、巷間(こうかん)に諸説があります。
     ア.藤の多い水辺の地、
     イ.藤沢次郎清親(鎌倉時代)の居住地、
     ウ.淵(ふち)や沢の多い土地、などが代表的なものです。
しかし、藤沢がとくに植物の「ふじ」に関係が深いア.とは考えられませんし、イ.の人名と地名との関係については、むしろ地名が先で、人名が後だとする見方が強く、従って、淵沢(ふちさわ)が藤沢に転化したとする説ウ.が最も妥当と考えられています。』
とのことで、江戸時代末期に書かれた書物の説には関心を示してはいないようだ。それなのに、歩道に施行されているマンホールの図柄はふじの花である。如何に? 
              
船玉神社
         
神社の前は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉に入ったようだ。昔は江ノ島からこの付近まで船が出入りしていたと云われ、鎌倉三代将軍・源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられている。ここは大鋸(だいぎり)という地名だが「大鋸(おおが)引き」という職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれる。
山王神社
                  
         
由来は、別名を別地(わけち)山王社といい、祭神は五穀豊穣・縁結びの神様である大黒様こと大己貴尊(おおなむちのみこと)である。元は藤沢御殿が建設される前の地域の氏神、撥塚(ばちづか)山王権現社である。御殿が建設されることで八王山常光寺の裏に遷座することとなった。その際に現在の山王神社がある地域の住民が参詣するに遠いと云う声が多く出たので、別社を勧請し、別地山王社が造営した。遷座した撥塚山王権現社というのは「鶏肋温故」をみると弁慶塚がある権現社のようだ。
車田白旗稲荷
         
         
車田といわれる町内(現在は本6町)は白旗神社の直轄田(神田・しんでん)で、例祭の時に行われる神輿渡御(みこしとぎょ)がこの車田から出発、収穫された稲穂がお神輿に供えられていたようだ。ただ、稲荷が祀られたのはもっと後になってからとのこといわれる。
 
 境内には、三猿だけの1689(元禄2)年銘の庚申供養塔(右写真の左)と二十三夜塔(右)が祀られている。前半はここで終わる、残りは旧東海道「藤沢宿」を歩く 2に続く。 
   
                 
                           【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.06.15&7.27散策】


旧東海道「戸塚宿」を歩く

2013-01-09 00:00:01 | 東海道宿場町
戸塚宿

「お江戸日本橋七つたち」 夜明け前の午前4時に江戸をたち10里目の戸塚宿が最初の宿であった。
このため、宿場は大変なにぎわいで神奈川では、小田原宿に次ぐ宿の数であった。
  

『戸塚宿を歩く』は不動坂の近く大山前不動堂・大山道道標からスタートする。

1)旧大山道分岐 
ここは、江戸時代、東海道より大山詣での大山道入口にあたる。
         

2)大山前不動堂
不動坂の語源にもなった不動堂。
明治まではここに大山雨降神社の一の鳥居がたっていたと云う。 

                                                  大山道の道標

3)五処橋供養碑 
以前、五太夫橋(ブリジストン工場前)にあったという。
5つの橋すなわち鎌倉小町の夷川橋、八瀬(長谷)の観音橋、長野間(長沼)の倉田橋、柏尾・名瀬の綿(渡)戸橋、名瀬・谷(矢)部の猿橋を供養したもの。
1670(寛文10)年、柏尾村の人達によって建てられた。
                   

4)王子神社

建武の中興といわれた時代、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は自ら征夷大将軍となり、足利尊氏を排除しようとしたが失敗、鎌倉宮)に幽閉された。
北条時行のよる乱(20日天下とも云う)で鎌倉を一時的に占領する直前、反足利派による政治利用を恐れた足利氏の手の者によって親王は暗殺される。親王の側女は敵の目をかすめ首を抱いてここ柏尾の斉藤氏((鎌倉ハム創始者の祖)を頼って逃れてきて、井戸(首洗井戸)で首を洗い、この地、王子神社に埋めて厚く弔ったという。本殿横には「御首お鎮め松の根」という松の巨木の根が残されている(下写真)。
         

5)益田家のモチの木
不動坂交差点からやや江戸寄りに鎌倉ハム創立者のひとり、益田家がある。この家の庭にそびえる『益田家のモチ』は天然記念物。
         

6)護良親王首洗井戸
『護良親王首洗井戸』の碑と『四つ杭』(地名)の由来の碑がたっている。それによると、四つ杭とは親王の首をこの井戸で清め、その際、井戸に4本の杭を打ち祀壇としたことが地名となったと云う。
         

         

7)旧東海道と鎌倉ハムの蔵(斉藤商会ハム工場跡)
柏尾の地で英国人が1874(明治7)年、ハムの製造を開始した。その後日本人がその技術を習得し、国産ハムの製造販売を開始する。鎌倉郡で造られたハムと云うことで「鎌倉ハム」のブランド名となった。斉藤商会のレンガ製のこの蔵は1918(大正7)年建てられた。
この通りは旧東海道で古い建物が存在する。
           

8)五太夫橋
ブリジストン工場前の国道(東海道)には「五太夫橋」という名の橋が舞岡川に架けられている。ここは中田に住んでいた石巻(五太夫)康敬が徳川家康を息せきけって迎え平伏した場所で、彼の名に因んで五太夫橋と名付けられたという。康敬は小田原の北条氏康、氏政、氏直の三代にわたって仕えた小田原城の重鎮である。豊臣秀吉による天下統一目前の1590(天正18)年、北条氏直の代理で石巻康敬が降伏のため上洛した。その席で秀吉は氏尚が上洛しないことを敵対行為だと康敬を攻め康敬は死罪となるべきところ家康に助けられ中田に蟄居した。康敬はその後、中田の地頭となり、子々孫々、代々その職を継いでいる。
        

9)寶蔵院
         

       
         馬頭観世音文字塔1844(天保15)年】   木食観正塔【1818(文政元)年】

10)江戸方見附
宿場の出入り口には、見附と呼ばれる構造物が存在していた。一般に江戸側の出入り口にあたるところを江戸方見附(江戸見附)、京側を上方見附と呼んだ。この間がいわば宿場の範囲、宿内となるわけである。
その江戸見附跡名が信号機の表示に残っている。


11)八幡大神(東峯八幡社)
東海道の分岐に「八幡社参道」の石柱が埋もれていた。
八幡太郎義家が東征の折、境内の椎の木に馬をつなぎ休息をしたと云う伝説が残っている。
六手青面金剛や庚申塔など石像仏が多い神社でもある。


          
12)妙秀寺
日蓮宗のお寺。境内に「かまくらみち」の道標があり、これが安藤広重が描いた矢部大橋の絵にある道標ではないかと云われるが、浮世絵は「かまくら『道』」ではないか?


                    

13)一里塚
江戸、日本橋から丁度10里目の一里塚。
節目の一里塚なので案内板だけではなくモニュメントが欲しい気がする。
          
    
14)吉田大橋
吉田町と矢部町の境の柏尾川に架かる吉田大橋。
 

広重が描いた『こめや』の看板がのっている「東海道五十三次 戸塚」の浮世絵はこの地を描いたもの。
橋には広重の浮世絵などの浮世絵が飾られている。



15)とつか宿 お休み処
ここは戸塚宿まちづくり拠点「とつか宿 お休み処」。
      
事務局長さんに歓迎され、お茶とお菓子を御馳走になった。
戸塚宿のDVDを観たり、宿の情報をうかがった。
東海道宿場町のつながりがあって、東海道宿場サミットなるものが毎年開かれているという。
戸塚駅周辺再開発が2015(平成27)年に完了するので、その年に戸塚宿でサミットを開きたい計画をしているという。また、廉価なゲストハウスをつくってたくさんのお客を呼びたいと云う構想もあるようだ。
戸塚宿の活性化に努力している事務局長さんに応援のエールをおくりたい。
戸塚宿を散策される方は是非立ち寄ってください。歓待されると思います。
保土ヶ谷宿にも金沢横町に「程ヶ谷帷子番所」と云う案内処があり、同じように宿場の情報が得られる。この番所に詰めている方も立ち寄る人が少ないと嘆いていたので、程ヶ谷帷子番所も是非に立ち寄って頂きたい。
また、神奈川、保土ヶ谷、戸塚宿の連合体のようなつながりもあると云う。宿場それぞれ活性化に努力しているようである。

16)開かずの踏切
ラッシュ時には1時間以上この踏切は開かない。開いたと思ったら3分ほどで再び閉まるのが現状のようだ。
かの有名な吉田茂元首相を怒らして、戸塚有料道路(通称ワンマン道路)が出来た元凶の場所。
それも、再開発「戸塚駅前地区中央土地区画整理事業」の一環でようやく立体交差となる。


17)淡島大明神道標
大善寺門前(上矢部町、柏尾川右岸)にある淡島神社の道標。
淡島神社は和歌山県和歌山市にある加太淡嶋神社が総本社で全国に淡島神社系の神社は千社余りと云われ、人形供養、針供養で有名である。
         

18)清源院
浄土宗・南向山清源院。開基は「於万の方」。この人は岡津の人で、岡津の彦坂小刑部の推挙により大奥に仕えた。40歳のころ辞任した後に清源院尼と称して今の西林寺(泉区岡津町)のところに住んでいたが、やがて戸塚に移って清源院を開いた。
山頂には於万の方の火葬跡と伝えられている碑があると云うので墓地内を巡ったが見つけることが出来なかった。墓に上がる参道の左手に「朝日堂」と書かれた石塔や青面金剛(元禄)がある。その右隣に「心中句碑(住職・崇准の句」(写真上段右)。)戸塚宿内の大島屋の倅(19歳)と伊勢屋の抱え女郎ヤマ(16歳))が、この寺の井戸に飛び込み心中をしたことを詠んだもの。


                   
                     参道右には芭蕉の句碑

19)高松寺
境内には戸塚の文化人たちの墓や石碑がある。山門の上が鐘楼となっている。
臨済宗、潤岳山高松寺。
         

20)内田本陣
中宿・内田七郎右衛門の本陣。間口18間(32.8m)、奥行14間(25.5m)、畳数152枚あった本陣である。
      

21)脇本陣跡
本陣とは異なり大名などの宿泊がない時には一般客が宿泊できた。規模は本陣に比べ小さいが、諸式は全て準ずる。戸塚宿には、脇本陣が3軒あった。
      


22)澤邊本陣
澤邊本陣の初祖である澤邊宗三は、戸塚宿設置の功労者。妹は岡津の代官、彦坂小刑部元正の妻になる。
   

23)羽黒神社
戸塚宿の鎮守のひとつ。澤邊河内守信友が羽黒薹権現を勧請したことが始まりと云われる。
羽黒山神社はもと澤邊家の屋敷神だったと思われる。境内には稲荷社があり、ほかに青面金剛(元禄)や三猿付き阿弥陀立像(延宝)があり、常夜灯(天保)、手水鉢(享保)などの古い品がある。
         

         

24)海蔵院
山門の上部に掘られている竜の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。二列に並んだ六地蔵も珍しい。

鐘楼には弁天様と天女が描かれている。
         



25)八坂神社
神社の「お札まき」は指定無形文化財。


26)「かまくら道」の道標
日立正門の傍らに「これよりかまくら道」と刻まれた道標がある。  
江戸の時代にはここから東海道線を越え、大橋・東口前から来た道と上倉田で合流して鎌倉へと向かっていたようだ。
            

27)富塚八幡
「戸塚」の地名の起源。
昔、ある武士が十人の盗賊を退治し、ここに十人を埋めた塚があり十塚が戸塚となった説と、境内の前方後円墳は富属彦命の古墳でこの名をとって富塚が戸塚となった説がある。
         

28)諏訪社
社前には菅原道真公の石像座像(文化4年)がある。
                   

29)親縁寺
冨士塚山・親縁寺(しんねんじ)
         

        
          門前の阿弥陀立像(寛文) 青面金剛庚申塔(三猿・元禄)

茅葺の鐘楼の天井には龍が描かれている。


30)上方見附跡
江戸見附から、約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入り口にあたる。
ここから長大な大阪の上りが続く。
 

31)第六天神社
第六天社はとくに神奈川県を中心に分布する珍しい神社。神道では国生みの神の6代目のオモダル・カシコネの夫婦神のことを云い、仏教では第六天魔王(他化自在天)のことを云う。
第六天魔王とは仏道を邪魔する悪魔で、人の欲を利用して自分の望みをかなえるという欲望の頂点にいる神である。これらが習合して古くは寺であったが、明治の廃仏棄釈で神社となった。この神を信仰した人物は坂田金時と織田信長である。また、豊臣秀吉は信長が信仰したこの神の神力を恐れて、信仰禁止令を出した。
当時、相模国は秀吉と対峙する小田原北条氏の支配地であったためこの相模国中心に信仰が残ったと思われる。
         

32)大坂の庚申塔群
         

     

33)大坂松並木
大坂では、天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。
                


                    昔の松並木と現代の松並木

34)お軽勘平の碑
「仮名手本忠臣蔵」の一場面として有名なお軽勘平の道行の碑。
    

35)原宿の一里塚
江戸寄り11番目の一里塚で、吹上の一里塚とも云われた。
当時は松の木が植えられていた。
        

江戸から5番目の宿場町・戸塚の散策は原宿の一里塚をゴールとした。
スタートの大山道道標から5km少々を歩いたが、その道筋には案内看板があるのみで戸塚駅周辺の再開発を代表するように昔の面影は見られない。
しかし、一歩神社や寺院の境内に入ると古い石仏像を数多く見ることが出来た。古きものが残されていた。
       
              

         

     
                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.06散策】

旧東海道「保土ヶ谷宿」を歩く

2013-01-06 00:00:01 | 東海道宿場町
保土ヶ谷宿

           難所「権太坂」を目前に、旅人たちがひと息入れた宿。
        また、幕末の時代になると開港した横浜港への交通の要となった。


           

保土ヶ谷宿は、東海道4つ目の宿場である。
宿場町としての町並み(宿内)は、現在の松原商店街入口付近(江戸方見附)から外川神社付近(上方見附)までの約2kmであった。


1)橘樹神社
創建は鎌倉時代初期。江戸時代は牛頭(ごず)天王社といい天王町の由来でもある。
大正時代に現在の橘樹神社となった。
         
本殿の裏手には横浜市内最古といわれる青面(しょうめん)金剛庚申塔がある。



2)旧帷子橋

江戸時代、東海道が帷子川(かたびらがわ)を渡る地点(今の天王町駅前公園)に架けられていた。絵画、歌や俳句に取り上げられ保土ヶ谷宿の代表的な風景となっている(広重の浮世絵には「新甼橋(しんまちばし)」とある)。
         

3)庚申塔
古東海道と相州道が交差するところに建っている。
         

                

4)神明社
平安時代末、当地は伊勢神宮の御領地として寄進され「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」と呼ばれ、その鎮守として神明社が建立された。
         

         

5)天徳禅院
開山は安土桃山時代。本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像。土地の豪族、小野筑後守が帰依して建立した。
         

6)遍照寺
本尊の薬師如来像は横浜市指定文化財。念仏百万遍の供養塔がある。
         

7)金沢横町・其爪の句碑
金沢や鎌倉への分岐点。角に道案内の石碑が4基並んでいる。その中、右から3番目に保土ヶ谷の俳人・其爪(きそう)の句で「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と杉田梅林への道を示す碑がある。
         

8)帷子番所
ボランティアで行っている保土ヶ谷宿の案内所「帷子番所」。トイレの利用もできる。
         

9)立体模型と町並み図
保土ケ谷の建築家が作成した図面をもとに復元したもので、縮尺は180分の1。地元の市民倶楽部の指導のもと、小学校2校の6年生が分担。本陣を中心とした保土ケ谷宿の姿を復元している。


10)大仙寺
開山は平安時代中期といわれ区内で最も古い寺のひとつ。本陣をつとめた軽部家の菩提寺であり、旧東海道からは山門をくぐり参道が続いていた。
         

         

11)本陣・脇本陣跡
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣・脇本陣である。その格式と引き換えに制約や出費も多く経営は必ずしも楽ではなかった。また、休息のみに利用された茶屋本陣もあった。
本陣は、代々苅部家がつとめた。現在は当時を偲ばせる門や土蔵が残っている。1870(明治3)年に軽部に改姓し、現在も在住。

                        苅部本陣の建物と門
脇本陣は藤屋、水屋、大金子屋の3軒があった。写真は脇本陣の一つ水屋跡である。
         
                          脇本陣跡

12)旅籠金子屋跡
格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。
旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった。
         

13)上方見附跡と一里塚
保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口。一方で江戸見附もある。見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造で「土塁」とも呼ばれる。
         

         

松並木と同時期に街道の距離の目安として日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれた。保土ヶ谷宿は八番目に位置する。
         

14)復興の松並
江戸幕府は、諸国の街道に松並を植えるよう命じた。以来、夏は木陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、旅人の休息の場となった。
         

15)八幡神社
 

16)戸川神社
保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達が、出羽三山の霊場を参拝し、(明治2)年この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもの。
         

   
       高い塔が「出羽三山」供養塔        石像物の台座だろうか「駕籠屋中」と刻まれてい
                                 る。街道筋らしい文字だ。

17)権太坂
昔は今より急坂で江戸からの旅人がはじめて出会う難所であった。一番坂と二番坂があり松並木が続き景色も良く富士が眺められ多くの浮世絵に描かれている。
       

                                        

18)投込み塚
昔の権田坂のきつさは半端なものではなく、行き倒れた人や牛馬を葬った場所があった。供養のために碑が建てられた。
         

19)境木地蔵
境木は、保土ヶ谷宿からも戸塚宿からも難所の坂を上り詰めたところにあり、疲れを休める数件の茶屋があって大変賑わった。境木の名を有名にしたものは境木地蔵で、江戸からの講中や道中の安全を祈る多くの旅人が参拝した。
         

         

20)萩原代官屋敷・萩原道場跡
萩原家は平戸の領主で代々旗本杉浦越前守の代官をつとめ、幕末の頃にはこの場所に道場を開いた。後に新選組局長になった近藤勇も他流試合に訪れたという。今は武家屋敷門と蔵が残る。
         

21)品濃一里塚
左右一対の原型を残している一里塚は県内ではここだけである。
 

一里塚(平戸側)の上は公園となっていて、片隅に庚申塔が祀られていた。
                        

             ----これより品濃坂を経て戸塚宿の江戸方見附まで約4km----
  


                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.06散策】


旧東海道「神奈川宿」を歩く

2013-01-03 00:00:01 | 東海道宿場町
        神奈川湊に近く海・陸をつなぐ要所として発達した宿場町 “神奈川宿
    
川崎宿まで約10km、保土ケ谷宿まで約5km。人口5793人(県内9宿中第1位)、総軒数1341軒(県内9宿中第2位)、旅籠数58軒(茶屋は除く)という神奈川町・青木町の2町でつくられた神奈川宿。

 
今回 京浜急行「神奈川新町」からスタート

神奈川通東公園(枡形土居、長延寺跡)
現在、神奈川通東公園となっている場所に1965(昭和40)年まで長延寺があった。この寺は1631(寛永8)年の創設した浄土真宗長延寺があり、横浜開港当時にオランダ領事館にあてられていた。
  

         

              土居
この長延寺は神奈川宿江戸方の入口に当たり、門前周辺に「江戸見附」が存在していた。それは、東海道の両側には土居を互い違いに突出した桝形が築かれ、その上には棚(竹矢来)が組まれていた。土居の断面は台形で、その基底部の幅は4.2m(2間2尺)、頂部の幅は60cm(2尺)、高さ2.5m(8尺5寸)となっていた。さらに土居の上には高さ75cm(2尺5寸)の柵が設置されていた。

良泉寺
開港当時、諸外国の領事館にと命ぜられたがこの寺の住職は、快よしとせず本堂の屋根をはがし、修理中を口実に幕府の命令を断ったといわれる。
         

         

笠のぎ稲荷神社
平安時代の創建で、当初は稲荷山の中腹にあったが江戸時代に山麓へ移り、1869(明治2)年現在の地に遷座。社前を通行する人の笠が不思議に脱げ落ちたそうで、そのため笠脱稲荷と呼ばれるようになり、のちに笠のぎに改められた。
         

能満寺
鎌倉時代に創設とされる。その由来はこの地の漁師が海中から虚空菩薩を拾い上げこれを祠ったと伝えられている。
         

神明宮
鎌倉時代に創建。江戸時代は能満寺に所属し、明治の初めの神仏分離令により独立した。旧村社。
         

         

金蔵院
平安末期に創られた古刹である。「金川砂子」の図絵には江戸後期の様子が描かれ、参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれていると云うもの。
         

         
  
熊野神社
平安末期に紀伊の熊野権現を祀り、「権現様」として親しまれている。もとは権現山にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、明治の初め神仏分離令により金蔵院から別れた。
         

         
境内には大火に再生した樹齢400年の公孫樹(いちょう)のご神木がある。
                   

高札場
幕府の法や規則などを庶民に知らせるための掲示板で宿場町には必要不可欠なものだった。間口、約5m、奥行1.5m、高さ3.5mと大きなものであった。文字には「にかわ」を混ぜており、古くなると見字が浮かび上がると云う。
高札場は資料をもとに当時の寸法通りに復元、街道を往来する際の荷物の大きさや運賃を記している。
 

慶運寺
横浜開港当時、フランス領事館として使用された。また、浦島寺とも呼ばれた浦島丘にあった観福寿寺が大火によって焼失した浦島太郎伝説まつわる記念物が、この慶運寺に移された。
 

浦島伝説:浦島太郎は竜宮から丹後の地に戻ったが、親の御霊を訪ねるため東方をさまよい、箱根の山で玉手箱を開けたために老翁となる。さらに東に進み、この地で親の廟所に辿りつき親の菩提を弔った。竜宮から持ち帰ったという観音像が寺の浦島観世音霊廟に祀られている。
    

神奈川御殿
「新編武蔵風土記稿」には1610(慶長15)年に造営とある。「金川砂子」に御殿跡の絵があり、それによると東海道神奈川宿の往来から少し奥まったところ(熊野神社の近く)に9千坪の広さで造営されていたようだ。
神奈川御殿は将軍が上洛の時に最初の宿泊地として使用した。しかし、三代将軍家光を最後に将軍が上洛することもなくなり、御殿は使われなくなり17世紀半ばごろ廃止された。昭和の時代にはこの辺りを御殿町と呼んでいたという。京浜急行「仲木戸駅」名は、付近に御殿の木戸があったことからつけられたようだ。
             
御殿の存在目的として単なる将軍の鷹や鹿狩りの休息場であったのだろうか、豊臣から徳川に変わったばかりの時代に将軍権力を象徴する砦や城郭と同類の位置づけではなかったかという見方もある。それを実証するように、御殿の周辺には土塁や空掘を設けて要塞化し、家臣屋敷などが立ち並んでいたと思われる。その後幕府の街道支配が強化される過程で消滅したのでなかろうか。神奈川県に存在した、小杉御殿、藤沢御殿、中原御殿、然りである。
埼玉県越谷市の一条寺には神奈川御殿の解体材である建具、欄間が本堂の建具として使われ、現在、本堂脇の部屋に保存されていると越谷市広報が伝えている。

成仏寺
横浜開港当時、ヘボンやブラウンらのアメリカ人宣教師の宿舎にあてられた。宣教師はアメリカでも有能な人達が選ばれて来日した。ヘボン(アメリカ名:ヘップバーン)は本堂に住んでいたといわれる。「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を作るなど日本のために幾多の貢献を行い、攘夷の浪士でさえ「耶蘇の君子」として特別扱いをした。3年後に居留地(現在の横浜地方合同庁舎)に移転、後に明治学院を創設した。
またブラウン博士は夫婦で来日は聖書や賛美歌の翻訳に貢献した。妻のエリザベスはミシンを持参、広く技術を教えた。やがて横浜は洋服縫製技術発祥の地となる。
         

         

台場
開港当時港を警備するために大砲が置かれた。この工事は、勝海舟が設計し、権現山を切り崩して海を約8千坪埋め立てたものである。
工事を急ぎ過酷な労働を強いられたので、駆り出された労働者は「死ぬがましかへ土かつぎ」と歌った。
台場には14門の大砲が備えられ(計画では25門)、礼砲用として使われた後に1899(明治32)年に廃止されている。
大正期に入って台場周辺も埋め立てられ、現在は石垣の一部を残すのみで、往時の面影はない。
                  

神奈川宿絵図
江戸時代後期、幕府の道中奉行所が作った「東海道分間延絵図」のうち神奈川宿の部分である。
図の中央には滝ノ橋が描かれて、橋の東側に神奈川本陣、にしがわに青木本陣が見えている。右端は江戸側からの入口で、長延寺が描かれている。左端の街道が折れまがったあたりが台町であり、崖下には神奈川湊が広がっている。


滝の川
神奈川宿は,滝の川をはさんで東側が神奈川町、西側が青木町となっていて、それぞれに本陣があった。
江戸方には神奈川(石井)本陣、上方には青木(鈴木)本陣があったが今はその面影はない。
         

         

浄瀧寺(じょうりゅうじ)
もとは街道筋にあったが、境内が道を狭めていたので、家康が江戸入国の時に移転を命じ、鈴木家(青木本陣主)の寄付によりこの地に移転した。横浜開港期当初にはイギリス領事館が置かれた寺でもある。
神奈川宿商人の墓が多く、これらの人々の墓には屋号が入っている。
         

         

大井戸
「神奈川の大井戸」と呼ばれる古井戸で、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられた。神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に使われたと伝えられる。開港後は、宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸の水を利用した。この水を売り歩く「水屋」もいたといわれる。
また、この井戸の水量の増減によって、翌日の天気を知ることが出来ると「お天気井戸」とも呼ばれた。
                   

宗興寺
横浜港開港時に、アメリカ人宣教師で医師でもあったヘボン博士がここで診療所を開設して無料で庶民の診療を行っていた。わずかの期間に3500人の患者を診たという。
         

    

洲崎大神(すさきおおかみ)
1191(建久2)年、源頼朝による創建、古くから宿場や近隣に住む住民の信仰を集めていた。洲崎大神の参道をわずかに南に行くとそこは、神奈川湊として栄えた土地にぶつかる。今は埋め立てられてその面影がないが横浜港が開港されると神奈川宿とを結ぶ船着き場となり栄えたという。
むかし、この神社の境内にあったご神木のアハキがなまり、青木町の町名になったと云われる。
         

         

普門寺
1187(文治3)年創建、洲崎大神・大綱金毘羅神社の元別当で、山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことに起因しており、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味から普門とされたと伝えられている。また、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられていた。
         

                  

甚行寺
1656(明暦2)年創建。開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えフランス公使館に充てられたといわれる。
         

本覚寺
1226(嘉禄2)年に臨済宗の寺として創建、その後、戦国時代初期の1510(永正7)年、権現山の合戦のため荒廃、1500年代になって曹洞宗の寺として再興されたもの。
横浜開港期当初にアメリカ領事館として使われたが、領事館を置く場所として本覚寺を選んだのはアメリカ総領事ハリス自身であったという。横浜開港の頃には袖ヶ浦と呼ばれる入江とその向こうの開港場が一望できたようで、その立地が理由であったと言われる。アメリカ領事館として使われていた時期には、境内の松の木に星条旗が掲げられ、山門は白いペンキを塗られ日本人の立ち入りを禁じたと云われている。また、この寺は生麦事件の際に負傷したふたりのイギリス人が逃げ込み、治療を受けた寺でもある。治療に当たったのはヘボン博士であったという。
         

         
         

台町の茶屋でにぎわった宿“神奈川宿”
                        
青木橋の袂から延びてくる旧東海道は緩やかな坂道で上っている。いわゆる「台の坂」で、このあたりが町名の「台町」の由来ともなった「神奈川の台」だ。横浜開港の以前、ここからは袖ヶ浦の入江を眼下に横浜の砂州や遠く野毛山や本牧の岬などが見え、沿道の松なども美しく、東海道でも屈指の景勝地だったという。街道沿いには全盛期に58の茶屋が軒を並べ、旅人を招いて賑わった。その様子は十返舎一九による「東海道中膝栗毛」の中にも描かれている。現在では道沿いにはビルが建ち並び、袖ヶ浦の景勝も無いが、坂道と料亭「田中屋」だけが名残を止めている。
          

田中屋
江戸時代後期の1863(文久3)年、前身「さくらや」として創業。安藤(歌川)広重の「神奈川宿台之景」に2階建ての旅篭(はたご)として描写されており、客が舟で乗り付けた記録もあると云う。 現在では神奈川宿ゆかりの店舗として唯一の存在となってしまった。
      
明治に入ると文化人や、政財界の著名人、西洋の客人が訪れるようになり、店内では外国語が飛び交っていた。
この頃、お龍(1841~1906)が仲居として働いていた時期(明治7年頃)でもあった。
         

大綱金毘羅神社
平安末期の創建という古社で、もともとは後方の山上にあり、飯綱権現、飯綱社などと呼ばれていたという。後に現在地に移り、琴平社を合祀して大綱金刀比羅神社となったという。海際にあったことで、かつては船乗りたちの崇敬を集めた神社という。
 

一里塚跡
大綱金毘羅神社の鳥居の横あたりに1604(慶長9)年築造の日本橋から七つ目に当たる一里塚があった。
江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、八王子代官の大久保長安や戸塚宿成立に力を入れた彦坂元正の指揮の元に行われ、1里を36町(約3.9km)、1町を60間、1間を6尺と尺貫法の制度を整え10年ほどで完了した。
         

神奈川台の関門跡
横浜開港直後には外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府はその対策のために横浜周辺各所に関門や番所を設け警備を強めたのだが、このうちの神奈川宿の西側の関門があった場所がこのあたりだった。当時の関門はここよりやや西側だったという。関門は1859(安政6)年に設置され、1871(明治4)年には廃止されている。 
         

          

今回、区のセンター主催の歴史講座「歴史街道を歩く」で神奈川宿を散策した。

かつての神奈川宿として栄えた町は、今ではすっかりビルの建ち並ぶ市街地に変貌してしまったが、ところどころに神奈川宿の面影や横浜開港期の歴史のひとこまを伝える場所が残っている。それらの史跡などを繋いで「神奈川宿歴史の道」という散策コースが整備されている。

「神奈川宿歴史の道」は約4kmの道を安全に散策できるようこげ茶色のレンガタイルが敷かれており、この道に沿って歩いてゆくと自然に神奈川宿歴史散策が出来と云うことが他の宿場町散策路にない親切さである。また、歩道に設置された車止めのポールの先端には浦島伝説に因んで亀のデザインが施されているのもこの町らしさが現れていた。

                    


                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2010.11.16散策】