あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鎌倉龍口寺輪番八ヶ寺

2014-04-25 12:08:50 | 鎌倉巡り
日蓮の龍ノ口法難の地に建つ龍口寺は、1886(明治19)年まで住職をもたず、輪番制で、近隣(片瀬・津・腰越)8つの寺が順番で日蓮の霊場である龍口寺を守ってきた。
このことを知ったのは、腰越の満福寺を訪ねようとした際、万福寺の狭い地域に寺院が多く点在していたので何故なのか調べる中で「輪番制」が出てきた。

龍口寺のはじまりは、日蓮の弟子が「龍ノ口法難霊蹟」として、敷皮堂という堂を1337(延元2・建武4)年建立したという。敷皮とは、日蓮が処刑される際に石の上に敷いた皮のことだという。
本格的な寺としての格式を整えたのは、それから300年余りの1601(慶長6)年、江戸に幕府が誕生する頃であった。
日蓮宗徒からは龍口刑場の地は、龍口寺建立以前から神聖視され、護持のために腰越の六寺が順次建立された。その後、片瀬の寺院が日蓮宗に改宗され、輪番に追加され八ヶ寺となった。龍口寺は聖地ということで敢えて住職は置かずに輪番寺が管理していたようだ。
8つの寺はすべてが山号を「龍口山」といい、「龍口寺八ヶ寺」「片瀬龍口寺八ヶ寺」「片瀬八ヶ寺」「腰越龍口寺八ヶ寺」などともいわれている。
龍口寺といえば日蓮が処刑されそうになった龍ノ口の処刑場跡に建てられた寺院で、歴史的にも古いお寺であって、まさか住職が明治の世まで住職がいない寺院だとは思ってもみなかったが、こういうことのようだ。
住職を置くことも、1886(明治19)年当時の明治政府最高行政機関・太政官布告によってである。


龍口寺輪番八ヵ寺
龍口山常立寺(元身延山久遠寺末、潮師法縁、1532年改宗)、藤沢市片瀬3-14-3
龍ノ口で処刑された罪人を弔うために建てられた真言宗の寺で、第一の元寇である文永の役の翌年、1275(建治元)年、長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸し、高麗等の各国と同様に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名も処刑されこの地に葬られた。
モンゴル出身の朝青龍や白鵬ら力士らは藤沢に巡業で訪れる際には、元使塚を参拝している。
         

         

          
          元使塚の五輪塔には英雄を意味する青色の布が巻かれている 力士参拝からはじまったという

龍口山本蓮寺(元大光山本圀寺末、潮師法縁、嘉元年間(1303~1306)頃改宗)
藤沢市片瀬3-4-41
『かまくら子ども風土記』によると、595年に高句麗から来た僧で、聖徳太子の師である恵慈の弟子の義玄が開山と伝えている。1184(元暦元)年に源頼朝が再興したと伝えられており、当時は真言宗の寺院で「弥陀山大御堂源立寿寺」と号していたが、1304(嘉元2)年日秀が日蓮宗に改宗させ本蓮寺となった。
         

         

         
                     マンサクの生け垣 広い範囲に植えられていた

龍口山法源寺(元正中山法華経寺末、1319年建立)、鎌倉市腰越(旧津村)5-1-17 
通称ぼたもち寺。
日蓮龍ノ口法難の際、龍ノ口刑場に引かれて日蓮に鎌倉大町にある常栄寺の桟敷尼(比企能員(よしかず)夫人の妹)がぼた餅を捧げた。その桟敷尼の実家の菩提寺だったことで、この寺も「ぼたもち寺」いわれている。
         

         

龍口山本成寺(ほんじょうじ)(元妙厳山本覚寺末、1309年建立)、鎌倉市腰越2-19-9
                   

         

龍口山勧行寺(元経王山妙法華寺末、1203年建立)、鎌倉市腰越2-19-15
土橋八貫町に住む漁師の若者が一体の仏像を釣上げ、家に持ち帰って安置していたところ、家の者が毎夜うなされるようになった。若者は恐ろしくなり、仏像を勧行寺に勧請したといわる。それが本堂に祀られている、文殊菩薩の胎内仏である海中出現文殊菩薩といわれている。本尊は三宝祖師。
         

龍口山妙典寺(元長興山妙本寺末、1300年建立)、鎌倉市腰越2-20-5
岩山を切り開いて創建されたことから、かつては「腰越の谷戸寺」とも呼ばれていた。
本堂右側に真っ黒な大黒天像が安置されている。
         

         

                 

龍口山東漸寺(元正中山法華経寺末、1325年建立)、鎌倉市腰越(旧津村)2-22-13
この薬医門(三門)は、龍口寺の門前で饅頭屋を商う店の主人が早逝した妻の菩提を弔うために寄進したもの。
江戸時代には、宝善院の僧が龍口明神社の別当に任じられ、それ以来、村の御嶽大権現社、春日社、第六天社、観音堂など多くの神社や寺の仕事を引き受け宝善院は地元の信仰を集めて栄えていた。
         

         

龍口山本龍寺(元長興山妙本寺末、1302年建立)、鎌倉市腰越(旧津村)2-26-2
境内にはその昔、鎌倉幕府の重臣比企能員の末子・比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)の一族とも、能本本人ともいわれる比企大学三郎高家の屋敷があったといわれている。
         

         


寂光山龍口寺(日蓮宗の本山(霊蹟寺院))片瀬3-13-37
         

         

                   
                           欅造り瓦屋葺大書院 
        明治初年信州松代で蚕糸業で財をなした窪田家が造った蚕糸御殿 1935(昭和10年)移築(龍口寺公式HP)
        旧松代藩藩邸と書かれていることもあるが


                   
          全国的にも数少ない明治期の五重塔 木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一

         
         御霊窟 龍ノ口法難の際に日蓮が入れられていたとされる土牢 中に祖師像が安置されている

         
                             龍ノ口刑場跡

江ノ島弁財天道標
江ノ島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校(けんぎょう・1610?~94)が、江ノ島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにとの配慮から寄進したものと伝えられている。
もとは48基あったといわれているが、現在は11基が残っている。
道筋で見つけた。
片瀬市民センター前
         
湘南モノレール「江の島駅」近く三差路
         

                  杉山検校・江ノ島神社関連 : 江の島を歩く

義経腰越状の満福寺

2014-04-23 16:40:55 | 鎌倉巡り
1185(元暦(げんりゃく)2)年、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経主従は、平宗盛親子を捕虜として鎌倉に凱旋しようとしたが、腰越の満福寺で止められた。
(1185年は平家方の元号としては寿永4年でもあり、資料によっては元暦と寿永が使われている。)
義経は、頼朝の側近で幕府創設に貢献した公文所別当・大江広元に書状を送り義兄・頼朝に許しを得ようとした。この書状が、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」、「平家物語」や「義経記」にも記載されている、義経の「腰越状」である。
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。・・・」ではじまる和様漢文体の長文で、当時の切々たる義経の心情をよく表したものと言われる。
義経主従は満福寺に5月15日から6月9日まで滞在した。しかし思いは届かず京に戻った。
それから4年後、義経は逃亡の果てに奥州藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ自刃した(1189(文治5)年4月30日享年31)。
その後、腰越の海岸で首実験が行われ、死んでも義経は鎌倉に入ることが出来なかった。
首実験のあと義経の首は腰越の海岸に晒され、海に打ち捨てられた。ところが、義経の首は潮に乗って境川を遡り白旗神社近くまで辿り着いた。その首を里人がすくい上げ、井戸の水で首を清め、近くに塚を設け葬った。
義経は死して伝説を残し、頼朝は死して歴史を遺したとどなたかが言ったとか。その井戸は「義経首洗井戸」と呼ばれている。
その後、鎌倉御所は義経の怨霊に悩まされ、頼朝の命により現在の小田急・藤沢本町駅付近にある、白旗神社に義経は祀らる。一緒に戻った弁慶の首は、白幡神社近くの八王子社に祀られたと、神社の伝承にある。
          関連の義経首洗井戸・八王子社・白旗神社旧東海道「藤沢宿」を歩く 2(クリック)に掲載

         
腰越状の寺・満福寺は、744(天平16)年、行基が開山した京都大覚寺派真言宗の寺院である。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ・668~749)は、朝廷が仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池、溝と堀、架橋や困窮者のための布施屋(ふせや=旅行者の一時救護・宿泊 施設)の設立など数々の社会事業を各地で行った。しかし、朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、聖武天皇により奈良の東大寺大仏造立のため勧進活動を行い、日本で最初の大僧正に任じられ、また、東大寺の「四聖」のひとりに数えられている。 



行基加持瑠璃光水



義経・弁慶に因む数々

日本最大級の「寿老人」・「腰越状の下書き」をベースにしてに作った版木(1820(文政3)年)から刷ったもの


「腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだ硯の池


義経の手洗い井戸


義経供養碑(左)と弁慶手玉石


弁慶腰掛石


義経公屋島大合戦勝軍御帰陣之図(歌川芳藤)


京五条橋の牛若丸 右に弁慶もいるが人形の影になっている


義経 静御前 吉野の別れ


義経 弁慶


静御前は義経と別れた後捕らわれ鎌倉に送られる 静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられる
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


腰越は、中世の鎌倉―京間を結ぶ街道の宿駅で、鎌倉からの西の門戸(もんこ=出入口)であった。
腰越という地名の由来は、「天女と五頭龍」伝説がある。それは、
昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていた。津村の港に来ては子どもを食べてしまうため、人々は泣く泣くこの地を離れたことから この辺りを「子死越」「子死恋」と云うようになったと。
また、その五頭竜の難を逃れるために人々が腰まで水に浸りながら避難したことによるという説などもあるようだ。
このはなし、2月に江ノ島を周った際に、恋人の丘「龍恋の鐘」の案内板に書かれていた。『かまくら子ども風土記』にも載っているようだ。
このはなしの続きは、子死越前方の海上に密雲が何日もわたってたてこめたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島ができていた。これが現在の江の島とか。
この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天と云われ、五頭龍は腰越の瀧口明神社に祀られている。




丹沢山開き2014

2014-04-21 15:41:11 | 丹沢大倉尾根
         
2014年の丹沢表尾根山開きのこの日、大倉尾根を登った。
前夜は花立山荘より上はみぞれが降ったという。当日もどんより曇がたれこめ、午前中はガスが流れていた日であった。
                   

         
山開きの式典会場の県立秦野戸川公園は、八重桜が咲いており、あとで気づいたのだが、チューリップが咲きみでれる大きな花壇もあった。
         
会場はバス停からかなり離れたところなので、パスして式典が始まる前から登りはじめた。
登山道で、会場からの山開きの扉をあける山伏の法螺貝やブラスバンドのドラム音が聞こえてきた。
         

         
見晴山荘上、一本松下の桜(上)と一本松付近(下)の桜である。
         
              
駒止茶屋で山開きのキーと一緒になった。このキーは、大倉尾根を登りつめた尊仏頂上で、やびつ峠から表尾根を歩いていたキーと交換し、登山の安全祈願する式典がある。
いつもは、山岳会のメンバーがキーと一緒に登ってくるのだが、今回はもうひとり、女性がついていただけであった。

駒止茶屋の先、通称富士見辺りから堀山の家手前あたりまでのわずかな距離だが、「さくらロード」と呼んでも良いのではと思うほど桜の木があって、散り際の美しさを表現していた。
         

         

         

         

         

         
堀山の家の近くにも桜の花が咲いていた。
堀山の家で昨年の「山開きは雨だった」という話が出ていたが、「雨の記憶はなかったが」と思っていたのだが、調べてみた。
昨年は、雨が予報されていたので、前日登山であった。その前日でも、今年の山開き当日のように寒い曇天の日であった。
                    
桜の花に混ざって、ミヤマツツジも咲いていた。
桜が終わった丹沢は、ミヤマツツジとシロヤシオの季節となる。
そして、6月1日には第28回丹沢ボッカ駅伝競争大会が開催される。昨年同様の120チーム近くの参加が予定されている。
この日も、40Kgクラスの常連出場チームの「金杯」が優勝めざして練習している姿を見かけた。監督がストップウォッチ片手に伴奏していた。当日と同じスタート位置を確認して駒止茶屋から堀山の家に向かっていった。
一度も練習をせずに本番を迎える出場チームいるようだが、コース確認程度でもいいから大会本部が用意した小石の袋を担いで登って頂きたい。昨年は途中棄権のチームもいたのでそう願う。

大倉バス停に戻ると臨時のバスがロータリーに待機していたが、天候の影響で今年の山開きの登山者は何時もより少なめといった感じであった。



                        

鎌倉義経まつり 2014

2014-04-19 22:00:55 | 鎌倉巡り
「義経まつり」は、4月の第2日曜日から第3日曜日にかけての「鎌倉まつり」に併せて、第3土曜日である19日に開催された。
平家を滅ぼした主人公であったにもかかわらず、兄源頼朝の怒りをかい、奥州平泉で不遇の死を遂げた源義経の偉業を偲ぶ祭。
源義経ゆかりの満福寺で慰霊法要が13時に行われた。
         
                         満福寺義経慰霊法要

               

14時からは、龍口寺前から小動神社までパレードが行われた。
スタートは龍口寺前 お分かりのようにパレードのコースは江ノ電が走っている右手遠くには江ノ電が写っている。電車が来たら端に避けなければならない。
 

定刻14時、パレードはスタートした。トップは県立鎌倉高校吹奏楽部
         

         
ミス鎌倉を乗せた日産のオープンカーが後に続く。
         

         

                 
3番手は、武者姿で集うとんぼの会の甲冑(かっちゅう)隊。
         

         
4番手は、県立七里ヶ浜高校吹奏楽部。
         

         
その次は実行委員会。おエラさんのグループ。
         
6番手は市立腰越中学吹奏楽部
         

         
ラストは、市立腰越小学校よさこいキッズ。
         

         

         

                   


パレード中に電車が来たヨー
         

         

         

         

         

 

スタート前のひと時 
 

 

                          

鎌倉の桜を観る

2014-04-13 13:30:41 | 鎌倉巡り
北鎌倉駅から県道21号・横浜鎌倉線から県道204・金沢鎌倉線を歩き杉本寺までの桜をながめる。

 
円覚寺

 
建長寺

 
鶴岡八幡宮・源平池

 
鶴岡八幡宮・静桜

 
横浜国大付属小学校

 
頼朝の墓参道

 
荏柄天神参道


春爛漫ほかの花も














鎌倉 花御堂 2014

2014-04-13 13:29:15 | 鎌倉巡り
釈迦の誕生を祝う花まつり(灌仏会(かんぶつえ))の日、鎌倉を歩く。

成就院
山門前からは、由比ヶ浜、材木座海岸が一望でき、参道の石段の両側には、「般若心経」の文字数と同じ262株のアジサイが植えられ、アジサイの名所として知られている。



これからひと月ほど鎌倉の各所のお寺でシャガな花を観ることが出来る(右)

おだやかな海が見渡せる この日多くの学校で入学式が行われ両親に連れられた新入生を見かる


極楽寺
花まつりに合わせて、本尊・木造釈迦如来像の開扉(かいひ)と開山である忍性(にんしょう・1217~1303)の墓の公開がある。






光則寺
長谷寺通りの一歩北の道 いつもは人通りはないのだがこの日は多かった。
四季折々の花を咲かせている寺院だが、本堂前にみごとに咲き誇っているハナカイドウ(花海棠)がここのメインの花といわれる。樹齢200年以上だとか。





参道脇の長谷幼稚園にも花御堂が飾られている


本覚寺
 
鎌倉えびすで知られている本覚寺は、現在本堂も夷堂も工事中である。昨年は三門が工事をしており、工事続きである。
               

妙本寺
鎌倉の桜の名所のひとつとなっており、境内も日ごろの静けさとは一味違う華やかな雰囲気につつまれている。
身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ750年余の歴史を有する日蓮宗最古の寺院のひとつ。
 

                
 
建長寺
鎌倉の桜の名所で、三門前の桜は幾多のポスターや表紙を飾った景色である。優美な桜が今年も建長寺を飾っている。
 

                  

杉本寺
              
杉本寺は、三体の十一面観音像を本尊とした鎌倉最古の寺院である。また、運慶作と伝えられている仁王が安置されている茅葺の三門がある。
本堂に花御堂が飾られていたが、残念ながら本堂は撮影禁止である。
本堂屋根茅葺き替え工事が行われており、苔の階段も観ることができない。
 

花御堂(はなみどう)とは、釈迦の母が、咲き誇る無憂樹(むゆうじゅ)の花の下で釈迦を産んだという花園をなぞられた。
無憂樹は、インドでは乙女の恋心をかなえる木、また、出産、誕生・結婚にかかわる「幸福の木」として愛好されている。
甘茶を注ぐことは、釈迦が生まれたときに八大竜王のうちの九頭竜王が天から香ばしい水を吐いて、釈迦に産湯を使わせたという言い伝えに基づいている。昔は五香水とか五色水という香水を使っていたが、江戸時代になって甘茶を甘露になぞらえて使うようになったといわれている。
日本ではお盆とともに仏教伝来からの歴史があり、推古天皇時代、聖徳太子の提唱で元興寺で行われたのが最初とされるというが。




この日に巡った鎌倉の桜
 
   円覚寺                    鶴岡八幡宮・源平池              横浜国大付属小学校
拡大の画像はここをクリック(残念ながら画像をクリックしても拡大しない)
       
建長寺             鶴岡八幡宮・静桜          頼朝の墓参道            荏柄神社参道


関 連 : 鎌倉花まつり2013


隅田公園の桜を観る

2014-04-12 14:17:19 | 東京散策
春は桜の名所となり、夏は花火大会が開かれる隅田公園は墨田区と、台東区の隅田川沿いにそれずれ開設されている。
墨田区の公園は、元水戸藩の敷地を利用して造られている。
公園内には200本余の桜(ソメイヨシノ、シダレザクラ、サトザクラ)が植えられている。










墨堤には120本余の桜が咲いている



花見の宴会たけなわで、アルコールの匂いがする空気が漂っていた。
吾妻橋を渡って、台東区の隅田公園に行く。
こちらの公園では、およそ640本の桜の下、隅田公園桜祭りが開催されていた。夜はライトアップされる。
このほか、初夏のアジサイ、秋のヒガンバナ、冬の梅など、四季折々の花が楽しめるという。











今日は桜見物なので、浅草寺には寄らずに、深川に回る。


北の丸公園&千鳥ヶ淵の桜

2014-04-11 11:54:21 | 東京散策
皇居の一般公開された乾通りを乾門から出ると、正面は北の丸公園である。
北の丸公園は、昭和30年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去し、ソメイヨシノなど約330本植えられ、森林公園として造成され、都心でも有数のお花見の名所なっている。




近衛師団碑












牛ヶ淵



北の丸公園を西にお濠を回って行くと、桜の名所として代表される、千鳥ヶ淵である。
千鳥ヶ淵は江戸開府後、江戸城拡張の際に局沢川と呼ばれていた川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて(せきとめて)造られたお濠である。


















英国大使館の桜


英国大使館の脇を抜け、地下鉄半蔵門駅より隅田公園に向かう。

目黒川の桜

2014-04-10 10:44:32 | 東京散策
目黒川の桜見物は、東急田園都市線・池尻大橋駅から東急東横線・中目黒駅間を歩いた。
川沿いにはたくさんの提灯が飾りつけられている。
目黒川は、世田谷区から目黒区~品川区を通って、天王洲アイル駅付近で東京湾に注ぐ延長7.8kmの二級河川である。














桜並木はこの先も続いているようで、およそ3.8kmの川の両岸に800本の桜が咲き競っている。