あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

ネコヤナギの花芽がふくらむ

2013-01-28 14:55:37 | 生きもの

横浜市の瀬谷区と泉区を流れる境川の支流たる和泉川の川べりに植わるネコヤナギの花芽が膨らみ銀白色の毛が生えへ来た。

                   

和泉川の川辺を歩いていて、春を待つ我々に銀白色の花芽が「春はもう少しでやってくるよ」と、教えてくれているようで、この時期になると楽しみな、春を告げる植物である。

                   

この花芽、3~4月になると細長く延びて猫の尻尾のような花穂(かすい)となる。
この樹の樹液はカブトムシやクワガタムシ、カナブン、スズメバチの好物でもあるそうだ。
         

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今日の富士山By丹沢大倉尾根

2013-01-27 20:02:19 | 丹沢大倉尾根
今日の富士山
久々に丹沢大倉尾根を歩き天気も良かったので富士を撮影。

先ずは、大倉高原小屋に通じる参道で、手前の山をスッポリ包む富士山を見つける。
しかし、樹木が障害となってその位置のアングルは残念ながらとれなかったので、ちょっとずれた位置から移す。これも少々枝がさえぎっている。
          
昨日、TVの富士山特集で前景の大室山を抱くような富士山を「子抱き富士」と呼んでいたが、これは何と呼べるだろうか。
実際のスッポリ富士山が前景の山を包んだ風景は登って見て。

次は、今日の富士山でいつもの大倉高原小屋前での富士山。
         

そして、駒止アングルでの富士山。
         
雲が全くなかったので遠景の富士山も。
         

今年の登り初めで、堀山小屋に足を延ばし、小屋前からの富士山。午後になって左側に雲が出てきた。
         
夏の夜は、ここから登山者の切れ目ない懐中電灯の灯りがいくつもの「く」の字をつくる富士山が見られるという。


この日は登山客が多く、大倉のバスロータリーには、臨時便がいつでも発車できるよう1台バスが待機していた。
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旧東海道「藤沢宿」を歩く 2

2013-01-20 14:02:06 | 東海道宿場町
旧東海道「藤沢宿」を歩く 2
         
後半は義経のはなしからはじまる。

義経が奉られる・・白旗神社、首洗井戸

義経首洗い井戸の伝承
『吾妻鏡』によると、
『兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)で亡くなり、1183(文治5)年に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきた。義経の首は首実験ののち、腰越の浜に捨てられた。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺りに漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めたのがこの井戸だと云う。
義経の首は洗った後、少し北側の「首塚」に埋められ、更にその北にあった象形山に神として祀ったのが白旗神社である。』
         

         
              九郎判官源義經公之首塚」の板碑、「九郎尊神」の石柱          

                    
このガイド標柱は、藤沢橋方向から来ると街路樹の銀杏の陰になり通り過ぎてしまう。

白旗神社
         
               日本初のグラスファイバー製の大鳥居

          
               拝殿を連ねた流権現造りの社殿
白旗神社の由緒によると、
「義経と弁慶の首は首実験がなされた後、夜の間にふたつの首がこの神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として祀るようとのことで、義経を祭神とし、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。
義経を祀る前は、相模一之宮の寒川比古命の分霊を祀って、寒川神社と呼ばれていた。」
         
               源義經公鎮霊碑

              
         
               弁慶の力石

          神輿殿

         
         芭蕉句碑「草臥亭(くたびれて)宿かる比(ころ)や藤の花」【1805(文化2)年建立】

                   
                      1865(慶応元)年建立の大御神灯

   
       20数基の庚申塔群と杉山検校の江ノ島弁財天道標

弁慶の首は八王子社として祀られたと由緒に書かれてあるが、その八王子社は何処にあるのか?
調べたところ、

白旗神社から南東に東海道を越え路地を少々はいったところに常光寺と云うお寺がある。1572(元亀3)年の創建、浄土宗で鎌倉光明寺の末寺、山号を八王山と云う。その常光寺の庫裏西の空き地に以前、八王子権現社あったとのことだ。その一角に弁慶塚と彫られた石塔が残されている。この地で弁慶の霊を祀っていたようだ。八王子社は義経を祀る白旗神社の末社であった。
         
            八王山摂取院常光寺山門

最初に藤沢宿を巡った時は「弁慶塚」がある裏山にたどりつくことが出来なかった。
そこで、日を改めて再挑戦。
今回は、「弁慶塚」までの道筋を細かく説明されているBlogを見つけたので、それを参考にした。
「済美館(藤沢公民館分室)と池田屋の間の道を入る。荘厳寺墓地の裏手に出ると、道の左手に石段が見える。」
細かく書かれているのに荘厳寺墓地の裏手に行っても、そんな石段は見つからなかった。
位置的にはこの辺りというところには軽トラとその奥にユンボ付きの大型トラックが敷地いっぱいに止まっているいた。結果的には2台の車の駐車場と思ったところが石段に通じる道であり、車で石段が隠れていたのである。
トラックの脇を身を細めて進んでいくと石段が見えた。ここだ。
Blogの文章によると、「その石段が八王子権現跡地への石段である。上がった空き地が八王子権現跡地。その左手奥に弁慶塚への石段がある。」

         
            八王子権現社跡地
説明通りに石段を上がって行くと八王子権現社跡地と思われる空き地があり、その上には真新しい小祠に納まった弁慶塚が祀れてているのを見つけることが出来た。
         
            弁慶塚と庚申尊

         
            庚申塔群
ほかに庚申塔や石仏が祀られていた。
数ヶ所蚊に食われながら写真に納めていると、この一角の脇を常光寺の墓地から下って来る小道を見つけた。それは、前回弁慶塚を探すときに歩いた小道であった。あれだけ歩いたのにと見つけてみれば悔やむ。
でも、八王子権現社跡地、弁慶塚を探し当てたことは成果である。


飯盛女とおしゃれ地蔵・・永勝寺・おしゃれ地蔵
          永勝寺山門
江戸幕府は宿駅に遊女を置くことを禁止した。
1717(享保2)年当時、藤沢宿には49軒の旅籠があり、そのうち29軒が飯盛女を抱えていた。飯盛女の数は制限されていたにも拘らず、宿駅の繁栄に必要なものになり制限を越える人数の飯盛女を置くことは当たり前のようになった。「飯盛女」とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕する女として公認されていたが、遊女としての側面を持っていた。その多くは宿内や周辺の農村や他国など貧しい農村から親の借金返済のために働いていたのであろう。
当時病気になれば捨て置かれ顧みられなかった彼女たちのために墓をつくって弔ったことは珍しいことであり、弔った小松屋の主人を顕彰すべきなのか。
飯盛女の墓は1761(宝暦11)年から1801(享和元)年までの40年間に38基、48体(ひとつの墓に複数の法名が刻まれいる)建てられている。これは、余りにも多い数ではないだろうか。しかも平均寿命は21歳3ヶ月と余りにも若すぎる。
これが当然の時代だったのか、封建時代の下で過酷な労務と凄まじい搾取の跡を覗かせる気もする。
これで温情な旅籠の主人であったのあれば、他の旅籠は幾ばかりか、時代が違うということなのか?
旅籠小松屋は江戸時代末期まで旅籠を現在の本町郵便局の近くで営んでいたという。
         
          
墓石には法名と施主小松屋の名が刻まれている。ふたつの法名が刻まれている墓もある。

「おしゃれ地蔵」は上方見附から歩いて15分ほどのところに祀られている。


藤沢市教育委員会の解説によると「おしゃれ地蔵」は、
『「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉(おしろい)を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
形態的には、「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖地神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。』とある。

「おしゃれ地蔵」と「飯盛女」を結びつけた物語をBlogに載せた方がおり、大変興味深かったので、その文章を勝手に紹介したい。
『(前略)
飯盛り女には深く心を抉る事(えぐること)がありました。
男に抱かれれば、妊娠してしまう事もあります。子供を産んでも育てる事は出来ません。流産してくれればそれは幸いなのですが・・・・・、
「オギャー」声が聞こえたと思うと、次の瞬間には冷たい静寂が漂います。旅籠の男役が間引いてしまったのです。
飯盛り女は子供の泣き声だけが記憶に残りました。自分のお腹の子の顔も知りませんでした。
小松屋の店を出て、上方見附を越すと引地川が流れています。
その先に双体の道祖神が祀られていました。
道祖神ですから、藤沢宿に宿泊した旅人の「旅の安全」を守護する神様でした。
          引地川
でも、この道祖神はこけしの様に小さくて可愛くて・・・・、さらにお地蔵さんの姿をしていました。
飯盛り女はこの道祖神の前に屈んで手を合わせました。
「お地蔵様、私のお腹の子を極楽にお導きください、そして次に生まれ変わる時にはお金持ちの家まれるようにしてください・・・・」
目を開けると、お地蔵さんはニッコリ笑っておいででした。「お前の罪は問わないから・・・・、子供は極楽に届けよう・・・・、しかしお前が泣いてばかりでは叶わい何故なら赤子は閻魔様の前で“お前の母が泣いているのはお前の罪だ”叱責されるから。だから、もう涙を拭きなさい。」
         
飯盛り女は少し元気になりました。
そして、道祖神に何かして差し上げたい・・・思いました。でも、何にもありません。
あるのは化粧道具だけでした。紅と白粉、男に抱かれる時の道具だけでした。
そこで、さらに屈んで、白粉を塗って、紅を差しました。
道祖神は為されるままに笑っておいででした。
「止めてよ、お母さん。そんなに塗ったら恥ずかしいよ!」声が聞こえたような気がしました。
飯盛り女も楽しくなってきました。飯盛り女の悲しみは次第次第に癒えてくるようでした。
(後略)
「おしゃれ地蔵と飯盛り女と結びつける考えは掲載者だけ(?)です」と、「しかし、この双体道祖神だけが化粧されている謂れを考えると、こうした想像に妥当性があると思います。」』
と記述されてる。
          
永勝寺でこれだけ多くの飯盛女の墓を見ると、その心の落とし所としてもこの物語がうなづける。

 
街道筋で見かけた古き家々
         
         
         
         


                             【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.06.15&7.27散策】
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旧東海道「藤沢宿」を歩く 1

2013-01-20 14:00:28 | 東海道宿場町

旧東海道「藤沢宿」を歩く        
          
藤沢宿は東海道五十三次、6番目の宿場。東海道が整備される以前から遊行寺の門前町として栄え、江の島・鎌倉・大山への参詣の拠点としても賑わう街であった。遊行寺の東側に江戸見附が、小田急江ノ島線を過ぎた所に上方見附があり、その間が藤沢宿である。



旧東海道松並木跡
遊行寺坂を上がりきった辺りを「緑が丘」と云う。そこに松並木跡の碑がたっている。『この道は、その昔「東海道」と呼ばれた街道で江戸時代の浮世絵師安藤広重の描いた「東海道五十三次」には、みごとな松並木が見られます。松並木はその後鬱蒼たる大木に成長し、ここ「緑が丘」にふさわしい風情を保っていましたが、(後略)』と案内板に書かれている。
             
今回の「藤沢宿」はこの松並木跡からスタートした。

遊行寺坂一里塚
            
江戸日本橋から12里目の一里塚 藤沢宿には13里の四ツ谷一里塚もある。藤沢宿は松並木跡から西の上方見附の少々先まで歩いた内容を5つのテーマに分けたまとめてみた。  
     1)小栗判官と照手姫の伝説  
     2)古くから門前町として栄えた藤沢宿  
     3)藤沢で最古の稲荷    
     4)義経が奉られる  
     5)飯盛女とおしゃれ地蔵

小栗判官と照手姫の伝説・・長生院  長生院は時宗総本山清浄光寺塔頭であった。
          
長生院(小栗堂)
東海道の遊行寺の坂を下りきる少し手前に、遊行寺の東門が、その東門を入って、すぐ右側の坂道を上ると突当りに長生院小栗堂がある。その小栗堂の中庭と云うべきところに、小栗判官、家来10人の墓と照手姫の墓、そして小栗が乗った鬼鹿毛という馬の墓が祀られている。

             小栗堂                              小栗判官公墓所入口
長生院の解説によると、『小栗堂の庭には、歌舞伎や浄るりなどで有名な小栗判官と照手姫の墓と伝えられる遺跡があります。十勇士の墓と名馬鬼鹿毛(おにかげ)の墓もあります。伝えられる話では、応永30年(1423)小栗満重は、足利持氏に謀反を起こし攻められます。家来10人と落ちのびる途中、横山大膳の館に泊りました。ところが盗賊大膳は照手姫をつかって満重に毒酒を飲ませ財宝を奪おうとしましたが、照手姫の密告によって満重は生命を助けられましたが家来10人は毒殺されてしまいました。満重は、鬼鹿毛で遊行寺にのがれて、上人に助けられ、のちに横山一党を敗ります。照手姫は、満重が亡くなったあと、遊行上人をたよって、満重と家来の霊をとむらい、長生尼となって余生をおくりました。』
    
         長生院小栗堂伝
長生院の解説を補足すると、小栗判官は常陸国(現茨城県)の武将小栗満重・助重親子(兄弟との説も)のストーリーをモデルにした関東各地に残る伝説である。『鎌倉大草子』と云う室町時代の関東地方の歴史書に掲載されているが、近松門左衛門の人形浄瑠璃『当流小倉判官』や説教節『おぐり判官』などに脚色されていて話がさまざまである。また、現代ではスーパー歌舞伎や宝塚の演目にも登場している。長生院は伝承と物語を併記して解説しているようだが、寺院に伝わる『小栗略縁起』では遊行上人が登場して奇跡による蘇生の話や閻魔大王が登場するなど仏教思想がでている。                  

       小栗判官と十勇士の墓                           照手姫の墓
またまた補足であるが、横山大膳が物語の中では悪党・強盗にさせられているが、実は東俣野(横浜市戸塚区)の郷士であり、住居があった辺りに「戸の久保」と云う小字名の地名が残されている。「トクノボ」とは「殿窪」の訛りで、「殿」と呼ばれ、地名として残る人物であったと想像できる。(新編相模風土記稿では「殿久保」と表示)

       照手姫建立厄除地蔵尊                           小栗判官眼洗之池 
        
                     小栗堂中庭全景
小栗判官の伝承は多く残っており、それぞれ内容にかなりの相違があると聞く。また、墓があると云うのはここ藤沢・長生院だけのようだ。

古くから門前町として栄えた藤沢宿・・遊行寺
正式名は藤沢山無量光院清浄光寺。時宗の総本山である。
         
もともとは、遊行を旨として「時に応じて集まる」という趣旨で、「時衆」と書かれたが、後に他の宗派と同じように「時宗」と書かれるようになったとか。歴代の祖師は念仏を人々に勧めるために全国を回った。これを遊行といい、そのために遊行宗とも呼ばれる。開祖は一遍上人(1239~1298)で、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)といって、愚かな凡夫(仏語では、仏教の教えを理解していない人を指す)が救われるという喜びを踊りに表現した。これが踊り念仏、または念仏踊りといわれ、現在の盆踊りの源流であるとされるとか。遊行寺が出来たのは、俣野(現横浜市戸塚区東俣野と藤沢市西俣野の地域)の地頭・俣野景平の弟・呑海上人(1265~1327)のときである。
敵御方供養塔
         
遊行寺の東門を入ってすぐ左に国指定史跡の「敵御方供養塔」と呼ばれる、「南無阿弥陀仏」の石塔がある。室町時代、足利幕府確立の過程で起きた「上杉禅秀の乱」にあたり、敵味方を問わず、犬畜生に至るまで丁重に葬った供養塔である。「上杉禅秀の乱」では小栗判官も足利氏に打ち滅ぼされ相模へ逃げてきた。当時の時宗は戦乱や大規模災害の際、死体の収容や怪我人の手当てに活躍したという。なお、昭和初年の恐慌時、職を失い、無一文になった女工たちが東海道を故郷に帰る際、ここでねぎらったという。
黒門
         
遊行寺の総門で、一般には黒門として親しまれている。
延文の鐘
          
1356(延文元)年に造られたもの。戦国時代、遊行寺が廃寺同然であった頃、小田原城に持ち去られ、陣鐘として使用されたが、江戸時代になって、再建された遊行寺に戻ってきた。銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものと云う。
中雀門
          
紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、1859(安政6)年に建設され、遊行寺境内では一番古い建物である。関東大震災で倒壊したが、その後以前の姿そのままに再建された。屋根の下には徳川家の葵の御門が刻まれている。
宇賀神

開運招福弁財天の宇賀神。徳川家の祖先、得川有親公(とくがわ ありちか・ 或いは世良田有親、南北朝時代から室町時代初期の武将)の守り本尊といわれている。祠の裏手の岩壁の前には琵琶を弾く姿の弁財天が座っている。
清浄光寺塔頭
         
          塔頭真徳寺(通称「赤門」)
         
                  塔頭真浄院
明治天皇御膳水
         
明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになられ、その際に使われた井戸である。
いろは坂
         
黒門を入るといろは坂がある。この坂の石段が48段あることから名付けられている。
菖蒲園
         
小書院(手前)へ通じる渡り廊下の両側に植えられている。この菖蒲は、明治神宮と鎌倉光明寺から移植されたものという。

この日は、訪れる拝観者も少なく菖蒲園はひとり占めのひとときであった。

「巫女舞」の開催
         
                        
                 8月13日(土)に「巫女舞」が開催される。
                 小田急藤沢本町の駅前に立て看板があった。
                 舞人募集とある。
         
ゆぎょうじはし
   
境川に架かる橋で、旧東海道から清浄光寺へ通じる。
藤沢宿最古の稲荷・・藤稲荷大明神
船玉神社の境内に、「この道10m先を右折階段を登り山の上にあります。藤稲荷は大鋸(だいぎり)の御幣山(おんべやま)の西のはずれにある。藤沢宿最古の稲荷だそうです。」と書かれた立て札があった。最古と聞いて早速向かった。
山の上ということで、階段はかなりの上りがありそうだ。    
         
         
                
『我がすむ里・小川泰二著』〔1830(文政13)年〕、『鶏肋温故(けいろくおんこ)・平野道治著』〔1842(天保13年)という幕末の藤沢宿場の様子を表した書物がある。平野道治という人物は旅籠「ひらのや」の主人だそうで、2誌とも幕府の手による『文政七年書上』(『新編相模国風土記稿』の草稿)に啓発され地元の人の手によって編纂された地誌で、意義深いものであると云われている。その2誌に藤稲荷社として解説されている。それによると、『勧請は古代で、年歴は不明である。藤沢宿で初めてで特定の社(燭頭)であったとのこと。そして文章は続き現在は廃寺となった虚空蔵堂の寺説で、『むかし、社の後ろに藤の古株があって、この辺りの木々を這広がり、弥生の末には花が咲いて、一面紫の雲がたなびくようだと書かれ、藤沢という名もこれより起ったと結んでいる。』藤沢の起源はここから来ているのかと藤沢市の広報で裏付けをとってみたが、藤沢市の見解は、『「藤沢」の地名の起源については、巷間(こうかん)に諸説があります。
     ア.藤の多い水辺の地、
     イ.藤沢次郎清親(鎌倉時代)の居住地、
     ウ.淵(ふち)や沢の多い土地、などが代表的なものです。
しかし、藤沢がとくに植物の「ふじ」に関係が深いア.とは考えられませんし、イ.の人名と地名との関係については、むしろ地名が先で、人名が後だとする見方が強く、従って、淵沢(ふちさわ)が藤沢に転化したとする説ウ.が最も妥当と考えられています。』
とのことで、江戸時代末期に書かれた書物の説には関心を示してはいないようだ。それなのに、歩道に施行されているマンホールの図柄はふじの花である。如何に? 
              
船玉神社
         
神社の前は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉に入ったようだ。昔は江ノ島からこの付近まで船が出入りしていたと云われ、鎌倉三代将軍・源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられている。ここは大鋸(だいぎり)という地名だが「大鋸(おおが)引き」という職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれる。
山王神社
                  
         
由来は、別名を別地(わけち)山王社といい、祭神は五穀豊穣・縁結びの神様である大黒様こと大己貴尊(おおなむちのみこと)である。元は藤沢御殿が建設される前の地域の氏神、撥塚(ばちづか)山王権現社である。御殿が建設されることで八王山常光寺の裏に遷座することとなった。その際に現在の山王神社がある地域の住民が参詣するに遠いと云う声が多く出たので、別社を勧請し、別地山王社が造営した。遷座した撥塚山王権現社というのは「鶏肋温故」をみると弁慶塚がある権現社のようだ。
車田白旗稲荷
         
         
車田といわれる町内(現在は本6町)は白旗神社の直轄田(神田・しんでん)で、例祭の時に行われる神輿渡御(みこしとぎょ)がこの車田から出発、収穫された稲穂がお神輿に供えられていたようだ。ただ、稲荷が祀られたのはもっと後になってからとのこといわれる。
 
 境内には、三猿だけの1689(元禄2)年銘の庚申供養塔(右写真の左)と二十三夜塔(右)が祀られている。前半はここで終わる、残りは旧東海道「藤沢宿」を歩く 2に続く。 
   
                 
                           【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.06.15&7.27散策】

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「横浜柳家小満んの会」の初笑い

2013-01-19 11:26:54 | その他
                      「横浜柳家小満んの会」の初笑い

         
                

           「横浜柳家小満んの会」の初笑いが、昨日1月18日に関内ホールで開かれた。
           今回で114回を迎えた。
           そして今年は20周年を迎えるということで、おめでたい年の初笑いとなった。
           お祝い申し上げます。
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鎌倉荏柄天神左義長2013

2013-01-16 10:44:27 | 鎌倉巡り
                    鎌倉荏柄天神左義長2013


         

         
勧請は1104(長冶元)年。祭神は菅原道真である。
1180(治承4)年、鎌倉大蔵の地に鎌倉幕府を開いた源頼朝は荏柄天神を鬼門の守護神と仰ぎ、改めて社殿を造立した。以降歴代将軍は鎌倉幕府の尊社とした。
盛時には日本三大天神の一つとして福岡の大宰府や京都の北野天満宮に匹敵する天神社で、古来の名社である。



準備
         

         

         

左義長神事
左義長は1月15日10時に始まった。
         

         



         


点火
         



         

         

         

         


雪は降ったが春が 紅梅咲く
                  

         
  
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鶴岡八幡宮左義長2013

2013-01-15 16:22:09 | 鎌倉巡り
                      鶴岡八幡宮左義長2013

         

         
            源氏池は全面結氷と思えるほどであった


                   1月15日 朝7時 左義長の神事が始まる
左義長神事は、1年の始めに当たり、けがれをはらい清め、暖かい春の到来と今年の豊かな収穫を祈る火祭りである。
一般に「どんど焼」、「さいと焼」、「ダンゴ焼き」などと呼ばれる行事で、鶴岡八幡宮では、1月15日、午前7時から源氏池北側のほとりで正月の注連飾りや門松などを積み上げ、浄火で焚きあげる。
         

         

         

      

         

         

         

         
             国大付属の小・中学校の生徒の通学時刻となって眺めながら通って行く

         
             紅白のダンゴを持参して左義長の火で焼いている方も見かける

         

         
             片づけをしている(10時半過ぎ)

雪の影響を心配したが、神社では、2~3日前に納められた注連飾りや門松など円錐状に積み上げてシートかけて準備をしているので全く影響はなかったとのこと。
影響があったのは参詣者だけのようだ。
左義長(さぎちょう)の由来を知ったのは、神奈川の東海道宿場町を回っている中で、大磯町を巡った時である。
大磯町の紹介では、左義長の名は、中国の仏教と道教の故事に基づいたものであるが、大磯では明治時代後期(1890~1912頃)に大磯に居を構えた初代内閣総理大臣伊藤博文の側近によって使われ始めたという伝承がある。
1978(昭和53)年に「大磯の左義長」として、神奈川県無形民俗文化財に指定されたために、左義長の名称が一般に普及したと思われる。1997(平成9)年には、国の重要無形民俗文化財に指定されたという。
元々は各地で行われているような道祖神を祭る行事であったようで、毎年1月14日早朝、相模湾に面した大磯北浜海岸に十基ほどの「サイト」と呼ばれる、高さは10mほどのワラの山が作られ、旧年中の神棚の飾り物やダルマなどがくくり 付けられる。
そして、14日の夜、点火される行事のようだ。


                    静かな八幡様にお参りする
         

         

 

         
            本殿内で2人の巫女さんが舞の練習をしていた まだ8時前だというのに

         
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旧東海道「戸塚宿」を歩く

2013-01-09 00:00:01 | 東海道宿場町
戸塚宿

「お江戸日本橋七つたち」 夜明け前の午前4時に江戸をたち10里目の戸塚宿が最初の宿であった。
このため、宿場は大変なにぎわいで神奈川では、小田原宿に次ぐ宿の数であった。
  

『戸塚宿を歩く』は不動坂の近く大山前不動堂・大山道道標からスタートする。

1)旧大山道分岐 
ここは、江戸時代、東海道より大山詣での大山道入口にあたる。
         

2)大山前不動堂
不動坂の語源にもなった不動堂。
明治まではここに大山雨降神社の一の鳥居がたっていたと云う。 

                                                  大山道の道標

3)五処橋供養碑 
以前、五太夫橋(ブリジストン工場前)にあったという。
5つの橋すなわち鎌倉小町の夷川橋、八瀬(長谷)の観音橋、長野間(長沼)の倉田橋、柏尾・名瀬の綿(渡)戸橋、名瀬・谷(矢)部の猿橋を供養したもの。
1670(寛文10)年、柏尾村の人達によって建てられた。
                   

4)王子神社

建武の中興といわれた時代、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は自ら征夷大将軍となり、足利尊氏を排除しようとしたが失敗、鎌倉宮)に幽閉された。
北条時行のよる乱(20日天下とも云う)で鎌倉を一時的に占領する直前、反足利派による政治利用を恐れた足利氏の手の者によって親王は暗殺される。親王の側女は敵の目をかすめ首を抱いてここ柏尾の斉藤氏((鎌倉ハム創始者の祖)を頼って逃れてきて、井戸(首洗井戸)で首を洗い、この地、王子神社に埋めて厚く弔ったという。本殿横には「御首お鎮め松の根」という松の巨木の根が残されている(下写真)。
         

5)益田家のモチの木
不動坂交差点からやや江戸寄りに鎌倉ハム創立者のひとり、益田家がある。この家の庭にそびえる『益田家のモチ』は天然記念物。
         

6)護良親王首洗井戸
『護良親王首洗井戸』の碑と『四つ杭』(地名)の由来の碑がたっている。それによると、四つ杭とは親王の首をこの井戸で清め、その際、井戸に4本の杭を打ち祀壇としたことが地名となったと云う。
         

         

7)旧東海道と鎌倉ハムの蔵(斉藤商会ハム工場跡)
柏尾の地で英国人が1874(明治7)年、ハムの製造を開始した。その後日本人がその技術を習得し、国産ハムの製造販売を開始する。鎌倉郡で造られたハムと云うことで「鎌倉ハム」のブランド名となった。斉藤商会のレンガ製のこの蔵は1918(大正7)年建てられた。
この通りは旧東海道で古い建物が存在する。
           

8)五太夫橋
ブリジストン工場前の国道(東海道)には「五太夫橋」という名の橋が舞岡川に架けられている。ここは中田に住んでいた石巻(五太夫)康敬が徳川家康を息せきけって迎え平伏した場所で、彼の名に因んで五太夫橋と名付けられたという。康敬は小田原の北条氏康、氏政、氏直の三代にわたって仕えた小田原城の重鎮である。豊臣秀吉による天下統一目前の1590(天正18)年、北条氏直の代理で石巻康敬が降伏のため上洛した。その席で秀吉は氏尚が上洛しないことを敵対行為だと康敬を攻め康敬は死罪となるべきところ家康に助けられ中田に蟄居した。康敬はその後、中田の地頭となり、子々孫々、代々その職を継いでいる。
        

9)寶蔵院
         

       
         馬頭観世音文字塔1844(天保15)年】   木食観正塔【1818(文政元)年】

10)江戸方見附
宿場の出入り口には、見附と呼ばれる構造物が存在していた。一般に江戸側の出入り口にあたるところを江戸方見附(江戸見附)、京側を上方見附と呼んだ。この間がいわば宿場の範囲、宿内となるわけである。
その江戸見附跡名が信号機の表示に残っている。


11)八幡大神(東峯八幡社)
東海道の分岐に「八幡社参道」の石柱が埋もれていた。
八幡太郎義家が東征の折、境内の椎の木に馬をつなぎ休息をしたと云う伝説が残っている。
六手青面金剛や庚申塔など石像仏が多い神社でもある。


          
12)妙秀寺
日蓮宗のお寺。境内に「かまくらみち」の道標があり、これが安藤広重が描いた矢部大橋の絵にある道標ではないかと云われるが、浮世絵は「かまくら『道』」ではないか?


                    

13)一里塚
江戸、日本橋から丁度10里目の一里塚。
節目の一里塚なので案内板だけではなくモニュメントが欲しい気がする。
          
    
14)吉田大橋
吉田町と矢部町の境の柏尾川に架かる吉田大橋。
 

広重が描いた『こめや』の看板がのっている「東海道五十三次 戸塚」の浮世絵はこの地を描いたもの。
橋には広重の浮世絵などの浮世絵が飾られている。



15)とつか宿 お休み処
ここは戸塚宿まちづくり拠点「とつか宿 お休み処」。
      
事務局長さんに歓迎され、お茶とお菓子を御馳走になった。
戸塚宿のDVDを観たり、宿の情報をうかがった。
東海道宿場町のつながりがあって、東海道宿場サミットなるものが毎年開かれているという。
戸塚駅周辺再開発が2015(平成27)年に完了するので、その年に戸塚宿でサミットを開きたい計画をしているという。また、廉価なゲストハウスをつくってたくさんのお客を呼びたいと云う構想もあるようだ。
戸塚宿の活性化に努力している事務局長さんに応援のエールをおくりたい。
戸塚宿を散策される方は是非立ち寄ってください。歓待されると思います。
保土ヶ谷宿にも金沢横町に「程ヶ谷帷子番所」と云う案内処があり、同じように宿場の情報が得られる。この番所に詰めている方も立ち寄る人が少ないと嘆いていたので、程ヶ谷帷子番所も是非に立ち寄って頂きたい。
また、神奈川、保土ヶ谷、戸塚宿の連合体のようなつながりもあると云う。宿場それぞれ活性化に努力しているようである。

16)開かずの踏切
ラッシュ時には1時間以上この踏切は開かない。開いたと思ったら3分ほどで再び閉まるのが現状のようだ。
かの有名な吉田茂元首相を怒らして、戸塚有料道路(通称ワンマン道路)が出来た元凶の場所。
それも、再開発「戸塚駅前地区中央土地区画整理事業」の一環でようやく立体交差となる。


17)淡島大明神道標
大善寺門前(上矢部町、柏尾川右岸)にある淡島神社の道標。
淡島神社は和歌山県和歌山市にある加太淡嶋神社が総本社で全国に淡島神社系の神社は千社余りと云われ、人形供養、針供養で有名である。
         

18)清源院
浄土宗・南向山清源院。開基は「於万の方」。この人は岡津の人で、岡津の彦坂小刑部の推挙により大奥に仕えた。40歳のころ辞任した後に清源院尼と称して今の西林寺(泉区岡津町)のところに住んでいたが、やがて戸塚に移って清源院を開いた。
山頂には於万の方の火葬跡と伝えられている碑があると云うので墓地内を巡ったが見つけることが出来なかった。墓に上がる参道の左手に「朝日堂」と書かれた石塔や青面金剛(元禄)がある。その右隣に「心中句碑(住職・崇准の句」(写真上段右)。)戸塚宿内の大島屋の倅(19歳)と伊勢屋の抱え女郎ヤマ(16歳))が、この寺の井戸に飛び込み心中をしたことを詠んだもの。


                   
                     参道右には芭蕉の句碑

19)高松寺
境内には戸塚の文化人たちの墓や石碑がある。山門の上が鐘楼となっている。
臨済宗、潤岳山高松寺。
         

20)内田本陣
中宿・内田七郎右衛門の本陣。間口18間(32.8m)、奥行14間(25.5m)、畳数152枚あった本陣である。
      

21)脇本陣跡
本陣とは異なり大名などの宿泊がない時には一般客が宿泊できた。規模は本陣に比べ小さいが、諸式は全て準ずる。戸塚宿には、脇本陣が3軒あった。
      


22)澤邊本陣
澤邊本陣の初祖である澤邊宗三は、戸塚宿設置の功労者。妹は岡津の代官、彦坂小刑部元正の妻になる。
   

23)羽黒神社
戸塚宿の鎮守のひとつ。澤邊河内守信友が羽黒薹権現を勧請したことが始まりと云われる。
羽黒山神社はもと澤邊家の屋敷神だったと思われる。境内には稲荷社があり、ほかに青面金剛(元禄)や三猿付き阿弥陀立像(延宝)があり、常夜灯(天保)、手水鉢(享保)などの古い品がある。
         

         

24)海蔵院
山門の上部に掘られている竜の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。二列に並んだ六地蔵も珍しい。

鐘楼には弁天様と天女が描かれている。
         



25)八坂神社
神社の「お札まき」は指定無形文化財。


26)「かまくら道」の道標
日立正門の傍らに「これよりかまくら道」と刻まれた道標がある。  
江戸の時代にはここから東海道線を越え、大橋・東口前から来た道と上倉田で合流して鎌倉へと向かっていたようだ。
            

27)富塚八幡
「戸塚」の地名の起源。
昔、ある武士が十人の盗賊を退治し、ここに十人を埋めた塚があり十塚が戸塚となった説と、境内の前方後円墳は富属彦命の古墳でこの名をとって富塚が戸塚となった説がある。
         

28)諏訪社
社前には菅原道真公の石像座像(文化4年)がある。
                   

29)親縁寺
冨士塚山・親縁寺(しんねんじ)
         

        
          門前の阿弥陀立像(寛文) 青面金剛庚申塔(三猿・元禄)

茅葺の鐘楼の天井には龍が描かれている。


30)上方見附跡
江戸見附から、約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入り口にあたる。
ここから長大な大阪の上りが続く。
 

31)第六天神社
第六天社はとくに神奈川県を中心に分布する珍しい神社。神道では国生みの神の6代目のオモダル・カシコネの夫婦神のことを云い、仏教では第六天魔王(他化自在天)のことを云う。
第六天魔王とは仏道を邪魔する悪魔で、人の欲を利用して自分の望みをかなえるという欲望の頂点にいる神である。これらが習合して古くは寺であったが、明治の廃仏棄釈で神社となった。この神を信仰した人物は坂田金時と織田信長である。また、豊臣秀吉は信長が信仰したこの神の神力を恐れて、信仰禁止令を出した。
当時、相模国は秀吉と対峙する小田原北条氏の支配地であったためこの相模国中心に信仰が残ったと思われる。
         

32)大坂の庚申塔群
         

     

33)大坂松並木
大坂では、天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。
                


                    昔の松並木と現代の松並木

34)お軽勘平の碑
「仮名手本忠臣蔵」の一場面として有名なお軽勘平の道行の碑。
    

35)原宿の一里塚
江戸寄り11番目の一里塚で、吹上の一里塚とも云われた。
当時は松の木が植えられていた。
        

江戸から5番目の宿場町・戸塚の散策は原宿の一里塚をゴールとした。
スタートの大山道道標から5km少々を歩いたが、その道筋には案内看板があるのみで戸塚駅周辺の再開発を代表するように昔の面影は見られない。
しかし、一歩神社や寺院の境内に入ると古い石仏像を数多く見ることが出来た。古きものが残されていた。
       
              

         

     
                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.06散策】
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旧東海道「保土ヶ谷宿」を歩く

2013-01-06 00:00:01 | 東海道宿場町
保土ヶ谷宿

           難所「権太坂」を目前に、旅人たちがひと息入れた宿。
        また、幕末の時代になると開港した横浜港への交通の要となった。


           

保土ヶ谷宿は、東海道4つ目の宿場である。
宿場町としての町並み(宿内)は、現在の松原商店街入口付近(江戸方見附)から外川神社付近(上方見附)までの約2kmであった。


1)橘樹神社
創建は鎌倉時代初期。江戸時代は牛頭(ごず)天王社といい天王町の由来でもある。
大正時代に現在の橘樹神社となった。
         
本殿の裏手には横浜市内最古といわれる青面(しょうめん)金剛庚申塔がある。



2)旧帷子橋

江戸時代、東海道が帷子川(かたびらがわ)を渡る地点(今の天王町駅前公園)に架けられていた。絵画、歌や俳句に取り上げられ保土ヶ谷宿の代表的な風景となっている(広重の浮世絵には「新甼橋(しんまちばし)」とある)。
         

3)庚申塔
古東海道と相州道が交差するところに建っている。
         

                

4)神明社
平安時代末、当地は伊勢神宮の御領地として寄進され「榛谷御厨(はんがやのみくりや)」と呼ばれ、その鎮守として神明社が建立された。
         

         

5)天徳禅院
開山は安土桃山時代。本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像。土地の豪族、小野筑後守が帰依して建立した。
         

6)遍照寺
本尊の薬師如来像は横浜市指定文化財。念仏百万遍の供養塔がある。
         

7)金沢横町・其爪の句碑
金沢や鎌倉への分岐点。角に道案内の石碑が4基並んでいる。その中、右から3番目に保土ヶ谷の俳人・其爪(きそう)の句で「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と杉田梅林への道を示す碑がある。
         

8)帷子番所
ボランティアで行っている保土ヶ谷宿の案内所「帷子番所」。トイレの利用もできる。
         

9)立体模型と町並み図
保土ケ谷の建築家が作成した図面をもとに復元したもので、縮尺は180分の1。地元の市民倶楽部の指導のもと、小学校2校の6年生が分担。本陣を中心とした保土ケ谷宿の姿を復元している。


10)大仙寺
開山は平安時代中期といわれ区内で最も古い寺のひとつ。本陣をつとめた軽部家の菩提寺であり、旧東海道からは山門をくぐり参道が続いていた。
         

         

11)本陣・脇本陣跡
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣・脇本陣である。その格式と引き換えに制約や出費も多く経営は必ずしも楽ではなかった。また、休息のみに利用された茶屋本陣もあった。
本陣は、代々苅部家がつとめた。現在は当時を偲ばせる門や土蔵が残っている。1870(明治3)年に軽部に改姓し、現在も在住。

                        苅部本陣の建物と門
脇本陣は藤屋、水屋、大金子屋の3軒があった。写真は脇本陣の一つ水屋跡である。
         
                          脇本陣跡

12)旅籠金子屋跡
格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。
旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった。
         

13)上方見附跡と一里塚
保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口。一方で江戸見附もある。見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造で「土塁」とも呼ばれる。
         

         

松並木と同時期に街道の距離の目安として日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれた。保土ヶ谷宿は八番目に位置する。
         

14)復興の松並
江戸幕府は、諸国の街道に松並を植えるよう命じた。以来、夏は木陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、旅人の休息の場となった。
         

15)八幡神社
 

16)戸川神社
保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達が、出羽三山の霊場を参拝し、(明治2)年この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもの。
         

   
       高い塔が「出羽三山」供養塔        石像物の台座だろうか「駕籠屋中」と刻まれてい
                                 る。街道筋らしい文字だ。

17)権太坂
昔は今より急坂で江戸からの旅人がはじめて出会う難所であった。一番坂と二番坂があり松並木が続き景色も良く富士が眺められ多くの浮世絵に描かれている。
       

                                        

18)投込み塚
昔の権田坂のきつさは半端なものではなく、行き倒れた人や牛馬を葬った場所があった。供養のために碑が建てられた。
         

19)境木地蔵
境木は、保土ヶ谷宿からも戸塚宿からも難所の坂を上り詰めたところにあり、疲れを休める数件の茶屋があって大変賑わった。境木の名を有名にしたものは境木地蔵で、江戸からの講中や道中の安全を祈る多くの旅人が参拝した。
         

         

20)萩原代官屋敷・萩原道場跡
萩原家は平戸の領主で代々旗本杉浦越前守の代官をつとめ、幕末の頃にはこの場所に道場を開いた。後に新選組局長になった近藤勇も他流試合に訪れたという。今は武家屋敷門と蔵が残る。
         

21)品濃一里塚
左右一対の原型を残している一里塚は県内ではここだけである。
 

一里塚(平戸側)の上は公園となっていて、片隅に庚申塔が祀られていた。
                        

             ----これより品濃坂を経て戸塚宿の江戸方見附まで約4km----
  


                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2011.02.06散策】

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旧東海道「神奈川宿」を歩く

2013-01-03 00:00:01 | 東海道宿場町
        神奈川湊に近く海・陸をつなぐ要所として発達した宿場町 “神奈川宿
    
川崎宿まで約10km、保土ケ谷宿まで約5km。人口5793人(県内9宿中第1位)、総軒数1341軒(県内9宿中第2位)、旅籠数58軒(茶屋は除く)という神奈川町・青木町の2町でつくられた神奈川宿。

 
今回 京浜急行「神奈川新町」からスタート

神奈川通東公園(枡形土居、長延寺跡)
現在、神奈川通東公園となっている場所に1965(昭和40)年まで長延寺があった。この寺は1631(寛永8)年の創設した浄土真宗長延寺があり、横浜開港当時にオランダ領事館にあてられていた。
  

         

              土居
この長延寺は神奈川宿江戸方の入口に当たり、門前周辺に「江戸見附」が存在していた。それは、東海道の両側には土居を互い違いに突出した桝形が築かれ、その上には棚(竹矢来)が組まれていた。土居の断面は台形で、その基底部の幅は4.2m(2間2尺)、頂部の幅は60cm(2尺)、高さ2.5m(8尺5寸)となっていた。さらに土居の上には高さ75cm(2尺5寸)の柵が設置されていた。

良泉寺
開港当時、諸外国の領事館にと命ぜられたがこの寺の住職は、快よしとせず本堂の屋根をはがし、修理中を口実に幕府の命令を断ったといわれる。
         

         

笠のぎ稲荷神社
平安時代の創建で、当初は稲荷山の中腹にあったが江戸時代に山麓へ移り、1869(明治2)年現在の地に遷座。社前を通行する人の笠が不思議に脱げ落ちたそうで、そのため笠脱稲荷と呼ばれるようになり、のちに笠のぎに改められた。
         

能満寺
鎌倉時代に創設とされる。その由来はこの地の漁師が海中から虚空菩薩を拾い上げこれを祠ったと伝えられている。
         

神明宮
鎌倉時代に創建。江戸時代は能満寺に所属し、明治の初めの神仏分離令により独立した。旧村社。
         

         

金蔵院
平安末期に創られた古刹である。「金川砂子」の図絵には江戸後期の様子が描かれ、参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれていると云うもの。
         

         
  
熊野神社
平安末期に紀伊の熊野権現を祀り、「権現様」として親しまれている。もとは権現山にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、明治の初め神仏分離令により金蔵院から別れた。
         

         
境内には大火に再生した樹齢400年の公孫樹(いちょう)のご神木がある。
                   

高札場
幕府の法や規則などを庶民に知らせるための掲示板で宿場町には必要不可欠なものだった。間口、約5m、奥行1.5m、高さ3.5mと大きなものであった。文字には「にかわ」を混ぜており、古くなると見字が浮かび上がると云う。
高札場は資料をもとに当時の寸法通りに復元、街道を往来する際の荷物の大きさや運賃を記している。
 

慶運寺
横浜開港当時、フランス領事館として使用された。また、浦島寺とも呼ばれた浦島丘にあった観福寿寺が大火によって焼失した浦島太郎伝説まつわる記念物が、この慶運寺に移された。
 

浦島伝説:浦島太郎は竜宮から丹後の地に戻ったが、親の御霊を訪ねるため東方をさまよい、箱根の山で玉手箱を開けたために老翁となる。さらに東に進み、この地で親の廟所に辿りつき親の菩提を弔った。竜宮から持ち帰ったという観音像が寺の浦島観世音霊廟に祀られている。
    

神奈川御殿
「新編武蔵風土記稿」には1610(慶長15)年に造営とある。「金川砂子」に御殿跡の絵があり、それによると東海道神奈川宿の往来から少し奥まったところ(熊野神社の近く)に9千坪の広さで造営されていたようだ。
神奈川御殿は将軍が上洛の時に最初の宿泊地として使用した。しかし、三代将軍家光を最後に将軍が上洛することもなくなり、御殿は使われなくなり17世紀半ばごろ廃止された。昭和の時代にはこの辺りを御殿町と呼んでいたという。京浜急行「仲木戸駅」名は、付近に御殿の木戸があったことからつけられたようだ。
             
御殿の存在目的として単なる将軍の鷹や鹿狩りの休息場であったのだろうか、豊臣から徳川に変わったばかりの時代に将軍権力を象徴する砦や城郭と同類の位置づけではなかったかという見方もある。それを実証するように、御殿の周辺には土塁や空掘を設けて要塞化し、家臣屋敷などが立ち並んでいたと思われる。その後幕府の街道支配が強化される過程で消滅したのでなかろうか。神奈川県に存在した、小杉御殿、藤沢御殿、中原御殿、然りである。
埼玉県越谷市の一条寺には神奈川御殿の解体材である建具、欄間が本堂の建具として使われ、現在、本堂脇の部屋に保存されていると越谷市広報が伝えている。

成仏寺
横浜開港当時、ヘボンやブラウンらのアメリカ人宣教師の宿舎にあてられた。宣教師はアメリカでも有能な人達が選ばれて来日した。ヘボン(アメリカ名:ヘップバーン)は本堂に住んでいたといわれる。「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を作るなど日本のために幾多の貢献を行い、攘夷の浪士でさえ「耶蘇の君子」として特別扱いをした。3年後に居留地(現在の横浜地方合同庁舎)に移転、後に明治学院を創設した。
またブラウン博士は夫婦で来日は聖書や賛美歌の翻訳に貢献した。妻のエリザベスはミシンを持参、広く技術を教えた。やがて横浜は洋服縫製技術発祥の地となる。
         

         

台場
開港当時港を警備するために大砲が置かれた。この工事は、勝海舟が設計し、権現山を切り崩して海を約8千坪埋め立てたものである。
工事を急ぎ過酷な労働を強いられたので、駆り出された労働者は「死ぬがましかへ土かつぎ」と歌った。
台場には14門の大砲が備えられ(計画では25門)、礼砲用として使われた後に1899(明治32)年に廃止されている。
大正期に入って台場周辺も埋め立てられ、現在は石垣の一部を残すのみで、往時の面影はない。
                  

神奈川宿絵図
江戸時代後期、幕府の道中奉行所が作った「東海道分間延絵図」のうち神奈川宿の部分である。
図の中央には滝ノ橋が描かれて、橋の東側に神奈川本陣、にしがわに青木本陣が見えている。右端は江戸側からの入口で、長延寺が描かれている。左端の街道が折れまがったあたりが台町であり、崖下には神奈川湊が広がっている。


滝の川
神奈川宿は,滝の川をはさんで東側が神奈川町、西側が青木町となっていて、それぞれに本陣があった。
江戸方には神奈川(石井)本陣、上方には青木(鈴木)本陣があったが今はその面影はない。
         

         

浄瀧寺(じょうりゅうじ)
もとは街道筋にあったが、境内が道を狭めていたので、家康が江戸入国の時に移転を命じ、鈴木家(青木本陣主)の寄付によりこの地に移転した。横浜開港期当初にはイギリス領事館が置かれた寺でもある。
神奈川宿商人の墓が多く、これらの人々の墓には屋号が入っている。
         

         

大井戸
「神奈川の大井戸」と呼ばれる古井戸で、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられた。神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に使われたと伝えられる。開港後は、宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸の水を利用した。この水を売り歩く「水屋」もいたといわれる。
また、この井戸の水量の増減によって、翌日の天気を知ることが出来ると「お天気井戸」とも呼ばれた。
                   

宗興寺
横浜港開港時に、アメリカ人宣教師で医師でもあったヘボン博士がここで診療所を開設して無料で庶民の診療を行っていた。わずかの期間に3500人の患者を診たという。
         

    

洲崎大神(すさきおおかみ)
1191(建久2)年、源頼朝による創建、古くから宿場や近隣に住む住民の信仰を集めていた。洲崎大神の参道をわずかに南に行くとそこは、神奈川湊として栄えた土地にぶつかる。今は埋め立てられてその面影がないが横浜港が開港されると神奈川宿とを結ぶ船着き場となり栄えたという。
むかし、この神社の境内にあったご神木のアハキがなまり、青木町の町名になったと云われる。
         

         

普門寺
1187(文治3)年創建、洲崎大神・大綱金毘羅神社の元別当で、山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことに起因しており、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味から普門とされたと伝えられている。また、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられていた。
         

                  

甚行寺
1656(明暦2)年創建。開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えフランス公使館に充てられたといわれる。
         

本覚寺
1226(嘉禄2)年に臨済宗の寺として創建、その後、戦国時代初期の1510(永正7)年、権現山の合戦のため荒廃、1500年代になって曹洞宗の寺として再興されたもの。
横浜開港期当初にアメリカ領事館として使われたが、領事館を置く場所として本覚寺を選んだのはアメリカ総領事ハリス自身であったという。横浜開港の頃には袖ヶ浦と呼ばれる入江とその向こうの開港場が一望できたようで、その立地が理由であったと言われる。アメリカ領事館として使われていた時期には、境内の松の木に星条旗が掲げられ、山門は白いペンキを塗られ日本人の立ち入りを禁じたと云われている。また、この寺は生麦事件の際に負傷したふたりのイギリス人が逃げ込み、治療を受けた寺でもある。治療に当たったのはヘボン博士であったという。
         

         
         

台町の茶屋でにぎわった宿“神奈川宿”
                        
青木橋の袂から延びてくる旧東海道は緩やかな坂道で上っている。いわゆる「台の坂」で、このあたりが町名の「台町」の由来ともなった「神奈川の台」だ。横浜開港の以前、ここからは袖ヶ浦の入江を眼下に横浜の砂州や遠く野毛山や本牧の岬などが見え、沿道の松なども美しく、東海道でも屈指の景勝地だったという。街道沿いには全盛期に58の茶屋が軒を並べ、旅人を招いて賑わった。その様子は十返舎一九による「東海道中膝栗毛」の中にも描かれている。現在では道沿いにはビルが建ち並び、袖ヶ浦の景勝も無いが、坂道と料亭「田中屋」だけが名残を止めている。
          

田中屋
江戸時代後期の1863(文久3)年、前身「さくらや」として創業。安藤(歌川)広重の「神奈川宿台之景」に2階建ての旅篭(はたご)として描写されており、客が舟で乗り付けた記録もあると云う。 現在では神奈川宿ゆかりの店舗として唯一の存在となってしまった。
      
明治に入ると文化人や、政財界の著名人、西洋の客人が訪れるようになり、店内では外国語が飛び交っていた。
この頃、お龍(1841~1906)が仲居として働いていた時期(明治7年頃)でもあった。
         

大綱金毘羅神社
平安末期の創建という古社で、もともとは後方の山上にあり、飯綱権現、飯綱社などと呼ばれていたという。後に現在地に移り、琴平社を合祀して大綱金刀比羅神社となったという。海際にあったことで、かつては船乗りたちの崇敬を集めた神社という。
 

一里塚跡
大綱金毘羅神社の鳥居の横あたりに1604(慶長9)年築造の日本橋から七つ目に当たる一里塚があった。
江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、八王子代官の大久保長安や戸塚宿成立に力を入れた彦坂元正の指揮の元に行われ、1里を36町(約3.9km)、1町を60間、1間を6尺と尺貫法の制度を整え10年ほどで完了した。
         

神奈川台の関門跡
横浜開港直後には外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府はその対策のために横浜周辺各所に関門や番所を設け警備を強めたのだが、このうちの神奈川宿の西側の関門があった場所がこのあたりだった。当時の関門はここよりやや西側だったという。関門は1859(安政6)年に設置され、1871(明治4)年には廃止されている。 
         

          

今回、区のセンター主催の歴史講座「歴史街道を歩く」で神奈川宿を散策した。

かつての神奈川宿として栄えた町は、今ではすっかりビルの建ち並ぶ市街地に変貌してしまったが、ところどころに神奈川宿の面影や横浜開港期の歴史のひとこまを伝える場所が残っている。それらの史跡などを繋いで「神奈川宿歴史の道」という散策コースが整備されている。

「神奈川宿歴史の道」は約4kmの道を安全に散策できるようこげ茶色のレンガタイルが敷かれており、この道に沿って歩いてゆくと自然に神奈川宿歴史散策が出来と云うことが他の宿場町散策路にない親切さである。また、歩道に設置された車止めのポールの先端には浦島伝説に因んで亀のデザインが施されているのもこの町らしさが現れていた。

                    


                                 【別ブログを閉鎖し編集掲載:2010.11.16散策】                                   
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