あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

旧東海道「大磯宿」を歩く

2013-02-28 18:29:13 | 東海道宿場町
大磯宿を歩く
                                                    
大磯宿は1601(慶長6)年、東海道に宿駅伝馬制度が制定された時に設置された初期の宿場のひとつで、江戸から八番目の宿場、日本橋からの距離は66m(16里27町)に位置する。
この道は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来の鎌倉と京都を結ぶ上洛道として発展した。これが東海道の始まりと伝えられている。
鎌倉時代、大磯の中心は化粧坂の付近にあったと思われる。

         

「大磯宿を歩く」は化粧坂にある一里塚からスタートする。

化粧坂は、東海道の旧道として残され、松並木に覆われている。
         

化粧坂一里塚跡
化粧坂の中ほどに日本橋より16里の一里塚跡がある。海側には榎、山側にはせんだんが植栽されていた。
         
         

 
大磯八景碑
大磯八景は1907(明治40)年ころ、大磯町町長が、大磯八景を選んで絵葉書にしたことが始まり。
         
                   

JR東海道線のガードを潜ると、いよいよ大磯宿の中心地に入る。
         

江戸見附
宿場の出入り口につくられた構造物で、本来簡易な防御施設として設置されたものである。また、宿場の範囲を示しており、江戸側にあるものを江戸見附と呼ぶ。
         
         



日枝神社の庚申塔群
         
青面(しょうめん)金剛像が庚申塔群の右手に含まれている。
         

神明神社
明治天皇が1868(明治元)年、京都から東京に行幸途中、大磯宿小島本陣に宿泊した際に、内侍所御羽車(賢所 天照大神の御霊代のヤカタノカガミを祭ってある腰輿)を神明神社に奉安されたという記念碑がある。   
 

火除土手跡
江戸時代、大磯宿はたびたび大きな火災に見舞われている。
なかでも宿内450軒が消失した1836(天保7)年9月の大火や1853(嘉永6)年8月の漁師町家数380軒余のうち、312軒を焼きつくした大火などがある。そのために火除土手が1855(安政2)年に築かれる。
火除土手の場所が分からず大磯駅前の観光案内所で教えていただく。現在は土手といえるほどの高低差はなく、道として利用されている。
         

延台寺
日本三大仇討ちのひとつ、曽我兄弟の仇討ちにゆかりの深い鎌倉時代の舞の名手、伝説の美女虎御前(虎女)が兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられる(延台寺案内)。
曽我十郎身代わり石と称する「虎御石」がある。
虎御前のもとに通う曽我十郎が工藤祐経に矢を射かけられた時、この石が防いだとされ、長さ二尺一寸(約60cm)幅一尺(約30cm)重さ三十六貫(約135kg)ほどの大きさがある。
         
         
狭い境内の中には大磯遊女の墓、虎御前供養塔などの史跡がある。
                   
         

秋葉神社
1762(宝暦12)1月年の大火で宿場の大半が焼き尽くされた。そこで遠州秋葉山から秋葉大権現を勧請し、祀った。
            

北組問屋場跡
大磯宿の問屋場は北本町、南本町に一カ所ずつあり、地福寺の門前通りを境として北組と南組に分かれていた。それぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ交互に役を勤めていた。
北組問屋場は間口6m余(3間半)であった。
 

小島本陣跡
東海道五十三次のうち、日本橋から8番目にあたる大磯宿の本陣跡。
大磯宿には、小島家、尾上家、石井家の3軒の本陣があった。小島本陣跡には、1870(明治3)年創業の蕎麦屋「古伊勢屋」が建つ。
       

地福寺・島崎藤村の墓
837(承和4)年創建という古義真言宗京都東寺末の古刹で、かつて家康が利用した「御茶屋」があったところといわれる。境内には梅が立ち並び、名所として知られる。
         
境内に島崎藤村夫妻の墓がある(下画像)。島崎藤村は、代々中山道馬籠宿の本陣、庄屋を務めた家に生まれ、のちに郷里において牢死した国学者の父をモデルに『夜明け前』を執筆した。
         

尾上本陣跡
小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣がありその建坪は夫々 246、238、235坪であった。本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる床の間と違い棚のある書院造りの御上段の間がある。
南本町東側にあった石井本陣は早く幕を下ろすが、尾上、小島本陣は幕末まで続いた。
         
小島本陣は北本町に、尾上本陣は南本町地福寺入り口付近一帯にあり、石井本陣は東海道を挟んで、尾上本陣の斜向かいにあった。
         

南組問屋場跡
         
         

アロエの花
「海水浴場発祥の地碑」に向かう道筋に咲いていた。その後も時折みごとに咲くアロエの花を見かける。
                 

海水浴場発祥の地碑
1885(明治18)年、当時の軍医総監・松本順が国民の健康増進と体力向上をはかるため海水浴が良いと説き、有名歌舞伎役者を大磯照ヶ浜海岸に大勢連れて来て海水浴をさせ、大磯町を日本で最初の海水浴場として日本中に広めた。
         
         

新島襄終焉の地(旅館百足屋の跡地)
早稲田大学の大隈重信、慶応の福沢諭吉とともに明治時代の三代教育者である、後の同志社大学創始者・新島襄が療養先の大磯の旅館百足屋で47歳の生涯を閉じた。かつての百足屋跡地に石碑がたてられている。
         
         

新杵

         

湘南発祥の地碑
「湘南」は、もともと現在の中国湖南省を流れる湘江の南部のことで、大磯がこの地に似ているとことから江戸期に湘南の発祥の地と命名された。
         

鴫立庵(しぎたつあん)
鎌倉時代の有名な歌人・西行法師が、「こころなき身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」という和歌をこの地で詠んだ。
江戸時代初期に、崇雪という俳人が、西行を慕って大磯・鴫立沢のほとりに草庵を建て、その後これが鴫立庵と呼ばれた。崇雪は鴫立庵の脇に「著盡湘南清絶地」という標柱(1664年建立)を建てたことから、この付近を湘南と呼ぶ様になったとの説もある。庵はなかなか瀟洒な作りで、風情にあふれている。歴代俳諧重鎮が江戸時代より現在に到るまで、この庵に在住してここを守ってきている。
         
 

法虎堂(鴫立庵)
鴫立庵庭内の沢を背にして法虎堂がある。堂内には有髪僧体の虎御前19歳の姿を写した木造が安置されている。堂の前には1701(元禄14)年に建立した虎御前碑(東鑑碑)がある。
         
         
         

高札場跡
通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたという。現在、民家の庭の中となっている。
          

島崎藤村旧宅~静の草屋~
藤村邸は大正後期から昭和初期にかけて建築された町屋園と呼ばれる貸別荘の1軒。
 萬事閑居簡不自由なし
藤村が最晩年の2年余りを過ごした邸宅。1941(昭和16)年2月、東京市麹町区(現千代田区)より大磯町に疎開した藤村は、1943(昭和18)年8月21日、「東方の門」の朗読中に倒れ、翌未明に亡くなった。享年71歳。
                    
         
         
               ガラス戸の板ガラスは大正製

東海道松並木
松並木は、今から400年前に諸街道の改修時に植えられたもので、幕府や領主に保護され、150年前ころから厳しい管理の下、たち枯れした樹は村ごとに植え継がれて大切に育てられた。
         
         

蹌踉(そうろう)閣(伊藤博文邸跡)
1890(明治23)年に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県 小田原市)に建てられた、政治家・伊藤博文の別邸。
1897(明治30)年に中郡大磯町に 同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となった。
また、邸内に、明治の元勲である三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允を祀った四賢堂を造り、日々の戒めとしたとされる(伊藤の死後、夫人が伊藤博文を加えて五賢堂となった)。滄浪閣は、長年大磯プリンスホテル別館となっていたが、2007年3月末をもって終了した。いずれは老人ホームとなる計画があるようだ。
また、この辺一帯は、山形、陸奥、西園寺等の明治の元老旧邸が点在している。
         

上方見附跡
「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近に案内板がたっている。この見附は平和な江戸時代になっては、防御施設としての役目はなくなり旅人に宿場の出人口を示す目印となった。
         

大磯城山(じょうやま)公園・旧三井財閥別邸
         
元は三井財閥総本家の別荘地で、三井家は小磯別邸城山荘と呼んでいた。
1933(昭和8)年、三井家の当主・三井八郎右衛門高棟は第一線を退き隠居し、大磯に城山荘新館を新築。
         
         
公園となった現在、ここからの眺望は「関東の富士見百景」(国土交通省)に選定されているが、訪れた時はカメラに収めたものの残念ながらぼやけていた。なんとか露出調整をして富士を眺められた。
         

国府本郷・一里塚
大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿地内に、そして国府本郷村地内に17番目の一里塚があった。国府本郷の一里塚は実際にはここより200mほど江戸よりに位置していた。塚の規模は不明だが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようである。
         
         

東海道の道祖神
         
 

六所神社
1192(建久3)年、北条政子の安産祈願として神馬が奉納された。
                 
         
         

宝積院
741(天平13)年、創建された真言宗の寺。
宝積院(ほうしゃくいん)入口付近には1631(寛永8)年の銘がある梵鐘があり、大磯に現存する鐘としては、最古のもの。
                 
         


宿内の家並みは、長さ11町52間(1.3km)、江戸方より街道に沿って、山王町・神明町・北本町・南本町・茶屋町(石船町)・南台町の6町で構成されていた。江戸後期の人口は3,056人、家数は676軒で、三つの本陣と66軒の旅龍は北本町・南本町・茶屋町に集中し、問屋場は北本町と南本町の2ヵ所にあった
江戸寄りの平塚宿との間はわずか27町(2.9km)と短く、一方、小田原宿との間は、4里(15.7km)で比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川がある。南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで、宿場としてはどちらかといえば、寂れた宿場のひとつであったようである。その主な理由は、江戸からの旅人は翌日の箱根越えに備え小田原にまで足を伸ばしてしまい、又、箱根を下ってきた人は、酒匂川の渡しを前に、その疲れを休めるために小田原に宿泊してしまうことが多かったからと思われる。




大磯と小田原との間宿(あいのしゅく)二宮

二宮駅前ガラスのうさぎ
「ガラスのうさぎ」は、児童文学作家・高木敏子によるノンフィクション文学である。作者自身の経験をもとに執筆され、戦争で家族を失った少女を描いている。
三度の映画化、NHKでのドラマ化、アニメ化と多彩に作品化されている。
         
二度と戦争があってはならないと、永遠の平和を願う人々の浄財によって1981(昭和56)年、二宮駅前に建てられた。
                 


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2011.12.15散策】
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空に浮かぶ あれなアに

2013-02-25 18:46:54 | その他
 
一点の雲もない大空に不可思議な細長い物体が浮かんでいた

それは、お昼前のことだった
距離感がないので 大きさはといっても 高さはといっても わからない
不可思議の物体はさまざまな形になって風下の南西へと流れてゆく

 
 

 

  

 

それは それは優雅な舞であった
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「平塚宿」伝説の女性たち

2013-02-19 15:00:00 | 東海道宿場町
平塚の伝説的な4人の女性たち
平塚で語られている女性は、古い順に、平政子・大磯の虎・お菊・お初の4名が挙げられる。

平塚の地名となった女性・平政子
         

                  
                     平塚4丁目の要法寺の西に「平塚の碑」

『新編相模国風土記稿』にも収録されており、「平塚の塚」の云い伝えである。
それは、857(平安元)年、東国に下向していた桓武天皇3代の孫、高見王の娘・政子(真砂子)がこの地で没し、その棺を埋めて塚を作った。
それが幾星霜を経てその塚の上が平らになったことから、「平らの塚」が「平塚」となったことが「平塚」の地名の起源とも云われている。
しかし、これはあくまでも云い伝え・伝説であり、「平塚」の起源ではないと云うことが有力なようだ。
が、政子の系図や位牌をつくったり、おまけには政子没年千百年忌をも催したそうで、政子が実在したかの真偽に関係者の間では喧々諤々の熱い戦いがあるようだ。
なお、平塚市のHPには、地名の起源については何も触れていないようであり、現在も謎のようだ。
                
                   東国に下向する政子

大磯の虎
大磯の虎は『曽我物語』に登場するヒロインで、お虎さん、虎女(とらじょ)、虎御前とも云われる。
                      
『曽我物語』は曽我十郎・五郎の兄弟が、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討つ日本三大仇討ちとして知られる物語であるが、そこに、虎は曽我十郎の恋人として登場し、『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。
『曽我物語』によると、虎は平塚宿の遊女夜叉王と宮内判官家長の間に生まれた娘であり、父没後は、母と一緒に暮らし、平塚宿で遊んでいたが、容姿が良いので大磯の菊鶴という遊女に乞われて養女になったという。
と云うことで、大磯の虎は平塚生まれ(1175年)の平塚育ちの女性である。
虎が17歳の時、20歳の曽我十郎と出会い、恋仲になるが、その後、十郎は敵討ちを果たした後に討死してしまう。そのため、虎は19歳で出家し、諸国を廻る修行を行い、64歳(1238年)で亡くなったとされる。
歌川広重が描いた大磯宿の浮世絵 「大磯虎ケ雨」は、 虎御前が流した涙が雨となったという故事からで、梅雨時のしとしと雨を「虎ヶ雨」と云い、俳句の季語にもなっている。
なお、日本三大仇討ちは、あとは「赤穂浪士の討ち入り」、荒木又衛門が登場する「鍵屋の辻の決闘」がある。
             
                       歌川広重 「大磯虎ケ雨」 

「番町皿屋敷」のモデルお菊
お菊は平塚宿役人間壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳方に行儀見習い奉公に出ていた。ある日、お菊は自らの不注意で主人愛玩の南京絵皿10枚組のうち1枚を割ってしまい手討ちにされ井戸に投げ込まれた。遺骸は引き揚げられ平塚に戻されたが、お菊が投げ込まれた井戸にはお菊のれ霊魂が留まり幽霊となって夜な夜な現れた所謂、怪談「番町皿屋敷」のモデルである。
それは、1740(元文5)年のこと。
遺骸は平塚宿内の晴雲寺に葬られたが、1952(昭和27)の区画整理で現在の立野町に移転することとなった。その際、お菊の墓を移動しようとすると不吉なことが度々起こった。そこで、工事関係者がお菊の墓があった場所にお菊塚を新たに建立し弔ったところ工事がスムーズに進むようになったという。
それが紅谷町公園の「お菊塚」である。紅谷町公園は平塚駅のすぐ近くにある。
しかし、この事件を伝える当時の資料は残されておらず、これに類似した話は北は岩手県、南は鹿児島県まで全国に存在すると云う。
  
   紅谷公園の「お菊塚」

          晴雲寺

 

歌舞伎「鏡山お初」のモデル
お初は平塚宿の百姓松田久兵衛の娘で、荻野山中藩の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう:将軍・御台所の身辺世話役、この中から側室が選ばれていた)岡本みつの下に奉公中、主人みつが同輩の沢野から侮辱を受け自害したので、直ちに沢野を訪ね、刺殺して仇を討った烈女とされている。そして、この事件が後に歌舞伎「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」のモデルになったと云う。
要法寺西側の廃寺となった広蔵寺の墓地にある「安室貞心信女、明和六年(1769)十月九日」の刻銘のある墓がお初の墓と云われている。また、主人の岡本みつも平塚宿出身であったと云われる。
荻野山中藩とは小田原藩大久保氏の支藩であり、相模国愛甲郡・足柄上郡・高座郡のほかに駿河国駿東郡・富士郡、伊豆国君沢郡・田方郡などに1万3000石を領した。
                             


                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2011.09.06散策】

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梅の便りを三溪園から

2013-02-17 17:04:17 | 横浜歴史散策
鎌倉の左義長神事が行われた荏柄天神から梅の開花便りをしてひと月。
今回は横浜・本牧の三溪園からの梅の便りを・・・。


 
  三溪園のランドマーク・三重の塔下の池の近くに早咲きの梅の花が咲いている

 
  その早咲きの梅の木の花はみごとだが
 

 

 
  ガクが緑色をした緑萼梅(りょくがくばい) 

        
          臨春閣の前の梅はちらほら状態

 
  月華殿前の梅花

              

 
  竜が地を這うような枝振りの臥竜梅(がりょうばい)なまだまだ

 
 
  梅林の手前はスイセン群が咲きほころんでいる


三溪園は、古くから梅の名所としても有名で、 2月から3月にかけて、およそ600本の白梅・紅梅などが見事に花を咲かせるが、盆栽の品評会も行われている。 
 
 


では、そもそも三渓園とはどんな施設なのか。
 
三溪園は明治末から大正期にかけて製糸・生糸貿易により財を成した実業家・原三溪によって、東京湾に面した本牧三之谷と呼ばれている谷合の地につくりあげた175,000m2(53,000坪)に及ぶ施設である。
園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されている(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)。戦後、原家から横浜市に譲渡・寄贈された。
                    


臨春閣
1948(慶安2)年建築。紀州徳川家初代藩主が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造の別荘 。 
 

旧東慶寺仏殿
1634(寛永11)年建築。縁切寺で知れれる鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏堂。
 

旧矢箆原(やのはら)家住宅(合掌造り)
江戸時代後期の建築。園内にある歴史建造物で唯一内覧出来る建物。
飛騨・白川郷にあった建物で、現存する合掌造りで最大級の民家である。
 
 
 
 

数年前から歴史講座を聞くために三溪園の近くには来ていたのだが、一度も足を向けなかった。
三溪園が梅の名所と聞き横浜市民の特権を利用して訪れた。
この日は雲が多めながら日差しがあったのだが横浜の最高温度は6.2℃であった。平年温度が10℃なので気温ははるかに低かった。おまけに北風が時間がつれるに従って強く吹くようになり、春は名のみの風の寒さよなんて言ってる場合ではないほどの体感温度であった。
三溪園の梅花も2月9日から「春の息吹を感じる観梅会」がはじまっていて、見ごろは中旬からと案内されてはいるものの、梅花の見頃なシーズンはこれからのようだ。



                 関連 : 三溪園6月の花
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旧東海道「平塚宿」を歩く

2013-02-12 15:51:24 | 東海道宿場町
旧東海道「平塚宿」を歩く

    
平塚は小田原北条氏が城郭を築いたところから発達した町で、最盛期には、2千人の人口と75軒の旅籠屋を抱えた宿である。
平塚宿と隣宿の大磯宿との距離は約3km(27町)で、東海道の宿場のなかでも愛知県の御油から赤坂間に次ぐ短い距離とされるが、平塚宿は、中原御殿・陣屋との連絡基地としての必要性からの設置と思われる。
(東海道五十三次の宿場間の平均距離9.3km)

相模川・馬入の渡し
川の巾は約120m(70間)あり、渡し舟3艘のほか、平田船2艘、お召船1艘があり、1690(元禄3)年当時の渡し賃はひとり10文と云われている。船で往来する「馬入の渡し」は現在の馬入橋とほぼ同じ所にあったと云われている。

現在の馬入橋は1980(昭和55)年(1980)完成で、全長563mある。
1923(大正12)年に発生した関東大震災で馬入橋が崩壊したが、当時の軍隊が僅か16日で修復したと記されている記念碑が橋の下にたっている。
         

馬入一里塚
『新編相模国風土記稿』の馬入村の項には「東海道往還 村南を東西に貫く、道幅3間余、ここに一里塚あり・・・」とある。今は国道1号と旧東海道の分岐に一里塚が置かれているが、本来はもう少々川寄りにあったようだ。
この辺り北側を榎木町と云うが、この一里塚上にあった榎樹に由来しているようだ。 
         

平塚八幡宮
国道1号沿いに鳥居が立っている。かつての平塚新宿・八幡村・馬入村三カ村の鎮守であった。
伝承では仁徳天皇の世に応神天皇を祀って創建されたといわれ、相模国第5の宮である。


江戸方見付跡
平塚市民センターバス脇に江戸方見付跡の碑が立っている。
かつて平塚新宿の西端から平塚宿との間には、長さ約270m(2町32間)ほどの松並木があり、これを過ぎて平塚宿の宿内に入ったと云う。
東海道の左右には民家が並び、道幅約7~11m(4間1尺~6間)、その長さは約1km(9町5間)延びていたとされる。
         
平塚宿の西のはずれには、上方(京方)見附がある。
平塚市博物館には、1862(文久2)年の「宿内軒別畳数坪数書上帳(宿並帳)」を基に作られた平塚宿の街並みの模型が展示されている(入館無料)。
       明治当時の見附

江戸城の井戸枠
1957(昭和32)年、平塚市の市制施行25周年記念に東京都より寄贈された。平塚市民センターの中庭に置かれてる。


東組問屋場跡
平塚宿には、人足や馬を常備した引継所が東組・西組の2ヵ所に設けてあって、毎月10日交代で勤めていた。
東組は1651(慶安4)年二十四軒町に、西組は西仲町に1601(慶長5)年、それぞれ置かれた。
   

         西組問屋場跡
本陣旧跡・脇本陣跡
本陣・脇本陣は江戸時代を通じて同じ家で勤めたわけではないようだ。
当時の資料によると、脇本陣は寛政年間(1789~1801年)から1835(天保)6年までは原田家が、六郎兵衛が勤め、1844(天保14)年以降は山本家が勤めたようだ。そして、その交代の要因は原田脇本陣の「手狭困窮」のこと。
   
また、本陣は1843(天保14)年の資料では建坪163坪であったが、1862(文久2)年には111坪と変化している。但し、通説では、平塚宿の本陣は代々加藤七郎兵衛と称し、現在の神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた。建坪163坪と他宿の本陣より小規模であったことから、主として宿泊より小休のために利用されたと考えられる。
と云うことで、徳川十四代将軍家茂は、1863(文久3)年と、1865(元治2)年の2回休憩している。また、1868(明治元)年と翌年の2度、明治天皇が東京行幸と遷都に際してはここで小休息されている。
       

高札場跡
幕府の法度や掟が書かれた札を掲げた場所。
     

八王子神社
徳川家康が鷹狩の折この地で休息した由縁をもって、鷹匠の子孫が報恩のために「東照宮(東照大権現)」を祀ったのが始まりといわれ、1830(天保初)年に何故か「八王子権現」と改められたという。昔から通称「ごんげんさん」と呼ばれている。平塚宿から八王子宿に向かう大道を「八王寺((子))道」と云ったが、その道の起点がこの神社近くにあったことから「八王子神社」というようになったとも云われる。
         

春日神社
平塚宿の鎮守。
古くは黒部宮といって1192(建久3)年、頼朝が北条政子安産祈願に神馬を奉納した宮で、その社地は東海道より6~7町(650~760m)海岸の方にあったが津波により破損し、現在の地に移転したと伝える。


上方見附
平塚宿の京口見附は、大磯町境の古花水橋の所に置かれていた。見附は道の両側に、縦2m、横2.5m、高さ1.5mほどの石垣を積み、上に土を盛ったものであった。
            
平塚の一里塚  
高麗山(こまやま: 標高168m)をバックに眼下に花水川が流れる景色のよい平塚の一里塚は、旅人の疲れを癒す格好の休憩場所であっただろう。
特に桜の季節には、桜の花びらがその名の通り川一面に流れ、情緒ある雰囲気を醸し出していたことだろう。
         

         
また、平塚宿の旅籠の客引きは高麗山を指して「あの山を越えないと大磯宿にはいけないよ」と嘘を云って、引きこんだそうで、高麗山をペテン山といわれた。
現在、この地は、「平成の一里塚」として再建されている。
          高麗山     

高來神社
668年(天智天皇7年)、朝鮮半島の高句麗(こうくり:紀元前37年~668年)が滅亡した時、その王族の一部が相模湾から大磯海岸に上陸し、この山麓に住んだという。丸い山の形は渡来人たちの海からの目印でもあった。
山の麓には高來(たかく)神社がある。昔は高麗(こま)神社と云われていたが1897(明治30)年に現在の名前になった。

高來上宮神社
下宮から歩いて30分ほどの山頂に祀られている。
かつてはこの中に神輿が納められていたという。 現在は、改築されて小祠となっている。
          かつての上宮

東海道沿いの茅葺古民家 
         

震災遭難者供養碑
碑の解説によれば、
『大正12年9月1日の正午頃、突如として起こったM7.9の大地震は、平塚町とその周辺に大きな被害を与え、家屋は全壊または半壊したものが多かった。当時の平塚町は戸数3,384戸、人口18,518人で、死者は275人を数えた。このうち、焼死者は1人で他は圧死であった。
馬入鉄橋は川中に落ち、国道の馬入橋も全壊し、道路は各所で亀裂を生じあるいは陥没して寸断された。病院は負傷者を収容しきれず、火葬場では死体の処理が間に合わない状態だった。圧死者を多く出した平塚駅、紡績工場の惨状は云うに及ばず、たまたま当時全国殖産博覧会が平塚第一小学校(現崇善小学校の前身)で開催中だったので、ここでも圧死者を出した。   平塚市観光協会』と、ある。
                   
『震災遭難者之霊』と刻まれた碑は平塚二丁目の大鳥公園内にたてられている。傍らには道祖神などの石像物が祀られていた。
東日本大震災と二重写しとなったので紹介した。
            

                                           主な参考資料:平塚市
                                                    平塚市博物館
                                                    平塚市観光協会



                                 【別ブログを閉鎖・編集し掲載:2011.09.06散策】

                 
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今日は初午 2013

2013-02-09 17:48:48 | 散策
今日、2月9日は初午祭である。
たまたま藤沢宿を歩いて、白幡神社近隣の稲荷神社を写す。

森脇稲荷と領家稲荷
                   
白幡神社の境内に氏子の森脇町と領家町の稲荷神社を祀っている。

       
                   
                   
                     

福壽稲荷
       
白幡横町町内会の会館の建物を利用して祀られている。稲荷神社は古来より藤沢宿坂戸町字御殿辺に鎮座するとある。
         


笠森稲荷
                   

         
藤沢市藤沢1-6付近に祀られている。通常は社の扉は閉じられているは本日はお祝いとあって開かれている。
         

正宗稲荷
                   

         
鎌倉妙本末寺である妙善寺の境内に祀られている。
「正宗」の名のいわれは諸説あるようだが、鎌倉時代後期の刀匠新藤五国光の弟子である、五郎正宗は日蓮の信者で、法華経により魂入して刀を鍛えたといわれ、この正宗稲荷堂にお参りをしてご利益を得ていたという一説がある。
鎌倉の正宗の屋敷跡にも「刃(やいば)稲荷」が祀られている。
          正宗殿

         
初午祭は今では二月最初の午の日とされるが、古来は、立春以降の最初の午の日に行われていた。
その年の豊作を祈った農村のお祭が原型であって、それに、稲荷信仰が結びついたものといわれている。
初午詣でをすると農家は五穀豊穣、商家は商売繁盛のご利益があるとされている。その後、子孫繁栄、商売繁盛、長寿、無病息災などあらゆる祈願の対象となった。

初午を取り上げたのは、家の近くの稲荷社の幟が一昨年まで上がっていたのが、昨年は上がらなかったので気になり、今年はと、2月に入って初午の日が気になっていた。
カレンダーを見れば初午の日は分るのだが、たまたま今日藤沢を歩いていて今日が初午の日であることを知った。
家の近くの稲荷社の幟は今年も上がらなかった。歴史ある稲荷社なのだが。
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三ツ境駅周辺の”きのう”を歩く

2013-02-05 16:57:33 | 歴史散策
相模鉄道(略称相鉄)の横浜駅から各駅電車で11番目の駅が三ツ境駅である。
「三ツ境」の由来は、明治中期から昭和初期にかけて存在していた都筑郡二俣川村と都岡村、そして鎌倉郡中川村(大字阿久和)の三つの境であることから名付けられる。
その駅周辺のそれほど古くない歴史の場所、つまり”きのう”を歩いた。


二ツ橋停車場
相鉄線の三ツ境駅と瀬谷駅の間に二ツ橋停留所という無人駅がかつてあった。
それは、相鉄線の前身、神中(じんちゅう)鉄道が二俣川←→厚木間を走っていた時代にさかのぼり、1943(昭和18)年に相模鉄道に吸収された翌年まで利用されていた。そして、駅舎は1962(昭和37)年まであったという。
ホームは南側にひとつあったという(写真の手前の草地部分がホームの跡)。
         

神中鉄道は、「瀬谷歴史かるた」にも表わされている。
       
1926~46(大正15~昭和21)年に走っていた汽車がかしわ台駅近くの車両センターに展示されている(見学には事前申し込みが必要という)。
ボディには神中鉄道の「神」のマークが描かれている。
 

         

 

         
相鉄の説明によると、この蒸気機関車は「神中鉄道3号機関車」と呼ばれ、1926(大正15)年に神中鉄道が開業した年に製造され、主に旅客用としてけん引していたが電化が進み、1943(昭和18)年に貨物輸送に代わり、(昭和24)年に降板した。
客車も同年代に活躍した車両で、めずらしい展望車両となっている。

鎌取池
              
この地図は、1960(昭和35)年、今から50年以上前の三ツ境駅南側の住宅地図と聞いている。現在の町名は「三ツ境」になっているがこの当時は「阿久和町」で、この地図の右中段やや上に阿久和町の「阿」の文字が読み取れる。阿久和町から三ツ境になったのは、1962(昭和37)年という(1952(昭和27)年という資料もある)。
この地図のほぼ中央、三ツ境駅近くに鎌取池が描かれている。この池、三段の堰で仕切られた灌漑用水用の溜池であり、当時は阿久和川の源流ともなっていた。現在は長屋門公園が阿久和川の源流とされる。
    
明治の資料によると池の面積は、東西23間(40m余)、南北2町40間(300m弱)で、面積は12千平方メートル余(3,600坪余)であった。池の深さは平均で6尺(1.8m)とあり、林の中の淋しい池であったそうだ。
第二次大戦後は住宅ブームの波に押され埋めたてられ、池の大きさはは東西20m、南北30mの釣り堀に変わったと云い、埋めたてられた場所にはプールが出来ていた時代もあった。
鎌取池の標柱がたっている場所は、鎌取池中段堰辺りだという。
この鎌取池は、瀬谷歴史かるたにも取り上げており、瀬谷区のむかし話にも出ている。
       

さくら湯
鎌取池近くには、「さくら湯」なる銭湯があった。1953(昭和28)年創業という。現在は「ファミリーアイランドさくらゆ」と名前を変えて存続しているようだ。

映画劇場スバル座
池の近くには1954(昭和29)年開業の映画劇場があった時代もある。
この劇場、映画の上映だけではなく、歌謡歌手のショーや、近くの小学校の学芸会を催したこともあるそうだ。

三ツ境幼稚園
鎌取池跡周辺には瀬谷区で最初の幼稚園が1954(昭和29)年に開園している。三ツ境幼稚園である。現在は二代目の園長先生が経営しているという。
          

共同井戸跡
鎌取池に象徴するようにこの地域は湧水に恵まれており、6~7軒で共同使用する井戸が掘られ、現在も痕跡を残している(黄色のラインの部分が井戸の石組の跡)。
           

白姫神社
養蚕業が盛んだった明治42年、阿久和町の養蚕の守り神として白姫神社は養蚕家で祀られていたが、昭和32年、養蚕業の衰退により、三ツ境へ遷座された。現在の三ツ境バスターミナルの近くである。
地元の人たちには衣の神として今でも親しまれている。
   

三ツ境駅周辺の”きのう”を歩くは「横浜・瀬谷地図くらぶ」の皆さんの案内で30人ほどの中のひとりとして2時間半ほどの散策の一部を取り上げた。
「横浜・瀬谷地図くらぶ」とは横浜市瀬谷区の南瀬谷小コミスクを拠点として活動しているグループである。
私どもが住む町、「瀬谷」の移り変わりを地図で辿り、調べながら会員相互の親睦を深め楽しく集いあえる会が目的で、新規会員を募集中とのこと。
2004年に「地図で辿る瀬谷の移り変わり」を発行。第2巻目を近々に発行したいという。



                                        参考資料:横浜・瀬谷地図くらぶ
                                               瀬谷歴史かるた

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近くの町の節分祭

2013-02-03 21:37:12 | 散策
2月4日は節分。各地で豆まきが行われた。
成田山新勝寺や総持寺などの有名な寺社だけが豆まきじゃない、近くで豆まきの行事が行われないだろうか。
それで探してみた。
         
裃、袴こそつけてはいないが、町に根付いた神社の氏子たちが行う豆まきである。
         
        
節分とは、「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日(せちにち・季節の変わり目にあたって祝事をする日)を指し、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日にあたる。そこで年に4回あったものだが、日本では立春は1年のはじまりとして、特に尊ばれるため、節分といえば春季の節分のみを指すようになっていったようだ。
                            
節分には豆をまくが、これは中国の習俗が伝わったものとされている。豆は魔を滅する(退治する)「魔滅(まめ)」に通じ、無病息災を祈る意味があるといわれる。
自分の数え年の数だけ豆を食べると病気にならず健康でいられると言われている。
              
              
また、最近では恵方巻を家庭で食べる風習がある。
これは、諸説あるが、江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとされた説がある。
戦後廃れていたが、大阪の大阪鮓商組合や大阪海苔問屋協同組合が販売促進の為に大々的に宣伝をし、これにスーパーやコンビニが便乗して広がったようだ。
恵方巻というから方角も関係していて、今年は南南東に向かって願い事を浮かべながらかぶりつくと叶うとされる。
                           

この神社、瀬谷区二ツ橋にある天照大神と素戔鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする二ツ橋神明社である。
         
         

創建は、この辺りの瀬谷野新田が検地された年である1725(享保10)年といわれる。
明確ではないがと注釈が入る慶安から元禄の頃(1648~1703)という説もある。
1873(明治6)年に二ツ橋字広町にあった津島牛頭天王社を合祀した。理由はお祭り費用の関係というが。

豆まきで福を呼ぶと共に春を呼び込みたい。久々の寒い冬となったので特にそう願いたい。
さっ、ご一緒に「福は内、福は内!春もうち」。
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