あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

瀬谷の桜をめぐる 1

2022-04-05 16:37:03 | 我がまち
ここ数年桜のシーズンには都内、川崎市及び横浜市内の桜の名所を巡っていたが、今年は地元を歩いた。
と、云ってもこの計画は2年前にたてたもので、コロナの影響で延び延びとなった。
その年のよこはま広報・瀬谷区版 3月号に「瀬谷の桜めぐり」が載っていたので、これを参考に計画から2年たってようやく瀬谷区内の桜巡りが実現した。
現在も桜のシーズンだけかも知れぬが瀬谷区の広報で紹介されているので確認ください。



徳善寺










海軍道路









瀬谷市民の森







瀬谷中学校







瀬谷駅北口公園








野境道路及びその周辺











相沢川ウオーク











東山・関ヶ原の水辺











宮沢遊水地








『桜』という名前の由来は、諸説ある。
そのひとつには、「さ」は 田んぼの神様、「くら」は 神様の宿る場所という意味で、そんなところから【稲の神様が宿る木】とされていた説である。                                                

訪れた日:2022.4.1
     2020.4.2



瀬谷の桜をめぐる 2

2022-04-05 16:19:44 | 我がまち
ここ数年桜のシーズンには都内、川崎市及び横浜市内の桜の名所を巡っていたが、今年は地元を歩いた。
よこはま広報・瀬谷区版 3月号に「瀬谷の桜めぐり」が載っていたので、これを参考に瀬谷区内をめぐった。現在も桜のシーズンだけかも知れぬが瀬谷区の広報で紹介されているので確認ください。



瀬谷中央公園








瀬谷本郷公園








本郷公園は9種類の桜の木が植えられており花の最盛期は4月中旬から下旬である。と云うことでこの公園はこれからが期待である。


東野第一公園







瀬谷第一公園







瀬谷第二公園
割愛する

瀬谷第三公園





南台こどものもり公園






南台公園







三ツ境第二公園






阿久和小金第一公園









阿久和大久保原公園




桜の起源は、数千年前にネパールの丘陵地帯で生まれた山桜であった。その遊馬桜の種が鳥によってビルマの山岳地帯に運ばれ、中国を経て温帯ベルトを伝わって日本へときた。それは人類発生よりもはるか以前のこと。桜の種類は基本的には10種類ほどだが、変種を合わせると100種類とも200種類ともいわれる。そして一重、八重、枝垂れと品種によって多様な咲き姿や色合いが楽しめられる。
わが国で最も親しめられているソメイヨシノは江戸末期から明治初期にかけて江戸の祖型村の造園師によってオオシマザクラとエドヒガンザクラの降灰によって誕生した。そして昭和の高度経済成長期にかけて各地に植えられ、各都度府県に開花を判断する「標本木」までができた。

訪れた日:2020.3.26
     2020.3.27



祝 瀬谷区制50周年

2019-10-05 20:27:19 | 我がまち


令和元年10月1日、区政50周年を迎え5日に式典が瀬谷公会堂で模様された。
記念式典は事前申込者や招待客らで立ち見者が出るほどの参加者の中、勧められた。








区長挨拶


個人の感謝状授与はこの方、瀬谷の名士ひとりであった。何せ額が企業の十数倍の寄付だとか。
午後は緑区50周年の式典に呼ばれているとか。本当に名士だ。











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                 伊藤かずえさん                   近藤真彦さん
                    (女優・タレント・歌手)            (会社役員・歌手・タレント・俳優他)
                    (瀬谷小・中学校卒)



May Jさん








平成元年3月に行った区制20周年記念事業で、「瀬谷区の未来(現在)」をテーマに、区内の小中学校から募集した絵画と文集・560点をカプセルに収納し、30年後の区制50周年の今年開封された。
中には今はなくなった日向山小学校、下瀬谷小学校の生徒作品もある。
また、御夫婦でカプセルに作品を入れた、今は家族になった方が壇上に出場した。








田代講師は6年間瀬谷西高校の地理の教師をされており、瀬谷には詳しい方で、瀬谷の地理的特徴を様々な地図を用いて紹介。瀬谷の歴史まで踏み込んだ内容となった。
また、自ら「富士山遠望鑑定士」を名乗り、各地からの富士山を紹介した。
瀬谷は富士山の前面に丹沢山系等を望むのでその山並みついても紹介された。その中でも金峰山の五丈岩がここから確認できることには驚きであった。
地図センターが発行する月刊誌「地図中心」に横浜・瀬谷地図くらぶの記事が載せられたと地元サービスも忘れていない。
その他様々な内容を織り込んだ講演であった。










瀬谷の花まつり2018

2018-04-08 20:00:08 | 我がまち

瀬谷の花まつり

4月8日は釈迦の誕生日。八福神巡りではなく「花まつり」として瀬谷の寺院を回った。
慈光山 善昌寺



  宗派:浄土宗
  開山:弘治年間(1555~1557)
  瀬谷八福神:恵比寿神
  住所:竹村町1-14

相澤山 長天寺







  宗派:臨済宗建長寺派
  開山:応永元年(1394)
  瀬谷八福神:だるま大師
  住所:相澤4-4ー1

瀬谷山 徳善寺







  宗派:曹洞宗
  開山:弘治元年(1555)
  瀬谷八福神:毘沙門天
  住所:竹村町1-14

猿王山 西福寺


 




  宗派:浄土宗
  開山:弘治年間(1555~1557)
  瀬谷八福神:恵比寿神
  住所:竹村町1-14

白東山 宗川寺







  宗派:日蓮宗
  開山:寛永2年(1625)
  瀬谷八福神:福禄寿
  住所:北新26-13

悟良山 最勝寺





  宗派:真言宗大谷派
  開山:弘治年間(1555~1557)
  住所:二ツ橋町337

昭和51年(1976)に発行された『瀬谷区の歴史』(瀬谷区の歴史を知る会)によると3寺が瀬谷での花まつりを開いていると書かれていた。その寺は何処なのかは親切ではなかったので以下の寺を含めて9寺を巡った。
蓮昌山 妙光寺

  宗派:日蓮宗
  開山:白雉3年(652)
  瀬谷八福神:大黒天
  住所:上瀬谷町8-3

瀬谷山 不動院 宝蔵寺

  宗派:高野山真言宗
  開山:治暦2年(1066)
  瀬谷八福神:弁財天
  住所:瀬谷5-36-14

瀬谷山 全通院 勢至堂

  宗派:曹洞宗(徳善寺境外仏堂)
  開山:不詳
  瀬谷八福神:寿老人
  住所:下瀬谷1-27

運上山 観正寺
未確認
  宗派:曹洞宗(阿久和山観音寺別院)
  開山:
  住所:阿久和西1-3-7


瀬谷にも昔はあった田園地帯を歩く

2018-03-07 17:56:40 | 我がまち
横浜市の西に位置する瀬谷区は南北に長く、南西方向になだらかに下る相模原台地の上に境川とその支流が刻む谷戸に位置している。
その川の両岸に昭和30年代では水田が広がっていた。現在では消えてしまった境川に面した水田地帯を昭和30年代の地図を片手に歩いた。


先ずは、本郷の田圃を潤したであろう大門川を目指す。
神奈中バスを降りて、海軍道路の上瀬谷小東の交差点まで歩いたが川は見えず少々海軍道路を瀬谷駅方向に歩いてゆくと道路下に川を見つけた。
   
奥に上瀬谷農業振興地域が広がる 手前の窪地が大門川

川沿いを歩きたいので消防署前から蛇行する川を目指し脇道に入る。
大門川には栗、粟、麦、男、女と名の付く橋があって興味があった。どなたが、どのようにしてこの名を付けたのだろか。お堅い役人ではないような気もする。









本郷2丁目。
川はこの先、鍵の手に曲がって流れるのだが、そこは昔製糸場があった住所と一致する。この川は製糸の生産用の水としても使われたのか、でも水量が足らないかな?
この先にはもうひとつの川口製絲(本郷館製絲場)が存在したが、そこでは井戸を掘って製糸製造用に利用したと関係者の話をある講演で伺っている。

さらに川を下ると、かつて水田が広がっていた瀬谷本郷公園に至る。

境川の深瀬橋付近の公園の一角に「農地改革の記念碑」が建っている。

それによると、
『1982(昭和57)年の台風18号(静岡県御前崎付近に上陸)により、相模鉄道線の上下流沿岸で約2.2kmにわたり、852戸の床上、床下浸水の被害が発生した。』
昔、東映映画で「米」という映画があったが、農家の人々は、水害と日照りとの戦いで米を生産していたことを思い出す。

日照りの戦いは、近くの神社で昭和の初めまで、行われていた儀式があった。
瀬谷の民話にもなっている「雨乞い」である。
明治の始めに書かれた瀬谷村々誌によると、瀬谷の土地は土の質で言ったら「中の下」と記されていた。このため水対策は農民にとっては重要な問題であった。
夏になって日照りが続くと、村の百姓は丹沢や大山の峰に出る雨雲を朝に夕に待ち、やがては雨乞いに至った。
橋戸の雨乞いは、『選び抜かれた若者二人が竹筒を持って、雨降山とも云われる大山の阿夫利神社にお水を頂きに参ることから始まる。そして村中の大人が総出でワラで作った龍を持って、境川の橋戸堰(相鉄線の上)に向かう。橋戸の堰では水の中に四方に青竹を立て、しめ縄を飾り、ワラの龍を祀る。そのあと、西福寺から借りた半鐘にお水をかけ、「六根清浄」のかけ声で雨が降るよう祈った。そのあと鎮守に出かけ再び祈った』とされる。

雨乞いの様子


龍は水や川の使い


本郷の日枝社の境内でも雨乞いの神事が行われていた

境川には大和市と瀬谷の交互の堰がいくつか設けられ「あげ堀」と呼ばれる用水が田圃を潤していた。

堰は30×180の木製の板を組み合わせていて人が通ることもできる堰もあった

堰は大和市と横浜市瀬谷区で交互に幾つか設けられていた。
瀬谷本郷公園と日枝社の間には南北に走る道路があるが、それが昔はあげ堀であった。

直線に延びたあげ堀のなごり

その道を進むと大門川にぶつかる。この辺りの字名が大門と呼ばれ、そこから川の名がついた。およそ4kmの川筋である。



大門の字名の由来は、隣町、大和市にある相模13座のひとつ深見神社の大門があったからだと云われる。また、神田もあったとも伝えられる。
現代の川筋はこの辺りから直進して境川に直進しているが、水田があったころは一旦南に曲がって合流していた。その名残なのか、住宅地のはずれに小さな堀が今も存在する。

ここからは境川に沿って歩く。境川は全長52km余の2級河川である。
入村橋となる。以前はこの辺りに大和市側に流れる堰があった。
その名残が、相鉄線の堤に残っている。今はふさがれているがあげ堀のトンネルである。
線路をくくりぬけると、あげ堀の名残のような堀があって、田圃も住宅地の隅に残っている。



相鉄線の上流と下流での流れ

境川は相鉄線の手前で大きく曲がる。このカーブが抵抗となって洪水の原因になっているので、それを解消するためここに直線のトンネルを施設する計画が出てきた。

相鉄線の上流側に瀬谷側に流れ込む堰が設けられていて、相鉄線をくぐり橋戸側の田圃に流れていた。今はそのあげ堀が道路に変わっている。

この先の下流の川筋は昔は九十九曲がりなどと呼ばれるほど大きく蛇行していて、梅雨時や台風期には、大雨が降るたびに氾濫し、水田は冠水し川沿いの低地を湖底のようにしていたという。その曲がりも住宅開発と共に直線の川に変化した。



かつては田圃であった


田圃を潤すあげ堀であった

中原街道に至った。

この先下瀬谷にも少々水田が続いていたが、今回はここで終了。

境川の水田地帯を歩いたが、瀬谷区には境川等の支流の流れが他に相沢川、和泉川と阿久和川という川があり、相沢川と和泉川には沿岸に細長く水田が耕作地があった。
それぞれの地域は、川が小さいだけに日照りとの戦いは境川以上に一層厳しかったと思われる。


                                       資料:横浜・瀬谷地図くらぶ講座
第7回瀬谷の埋もれた歴史を探る 

訪れた日:2018.1.10
        1.31
2.03
2.27


この樹何の樹 ブドウの房状の赤い実が

2017-11-21 18:29:31 | 我がまち
和泉川の側道いつもの様に歩いていると、三脚を立てって写真を撮っている御仁に出会った。
カメラの先を見ていると、対岸の段丘に、赤い実がブドウの房状にたわわに生っている樹を見つけた。こんな房状に実が生っている光景は珍しいとスマホで写した。
そして後日改めて望遠カメラで撮り直す。











何の木か、山と渓谷社発行の「日本の樹木」で調べた。1,446種類の樹木が収録されている本で、この赤い実の樹も掲載されており、「イイギリ(飯桐)」と分かった。
由来は、昔、この葉で飯を包んだためだと云われる。果実がナンテンに似ていることから、ナンテンギリ(南天桐)とも云われる。

このイイギリは中橋とその下流でカルガモが瀬谷区を走る和泉川では一番多くのグループが集まるところの中間あたりに植生してる。

普段は10羽余りが集まっているのだが、ある日には、和泉川カルガモ会談が開かれたのではと思うほどの20羽余りが集まっていた。
このグループの主力は、今年おとなり橋で生まれた11羽も含まれていると想像している。今年は3組32羽の雛が生まれたことを確認しており、おとなり橋の家族は全員成長したようだ。


カルガモは水上ばかりの生活と思いきや、陸に上がって草の実をついばんでいる。雑食の様だ。




初冬となり、沿道のドウタンツツジも赤く色づいている。
また、白や黄の花が赤く変化している菊も見かける。







一週間後の変化である。この先どこまで赤く変化するのかな?
こんな色の変化菊もあるのだ。







そして、メガネ橋の黄昏。


付近の森が伐採され、遊水地から富士が眺められる。



訪れた日:2017.11中旬