あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

玉川上水の桜道を歩く3年目

2016-04-28 12:06:45 | 東京散策
玉川上水を桜の咲く季節に歩いて3年目を迎えた。
旧浅間橋の暗渠までは歩こうと今年も小金井公園の東京たてもの園からスタートする。
今年は桜まつりの当日に来たので昨年とたてもの園前公園の景色がちょっと違う感じがする。たてもの園前に立つと今年は人の多さに圧倒され、桜への感動が昨年ほどはない。
 

          

陣屋橋~新小金井橋~関野橋~梶野橋
小金井公園を出て、五日市街道を渡った先に玉川上水が流れている。
正面に陣屋橋が架かっている。
ここには享保年間に武蔵野の新田開発を推進した幕府の陣屋が置かれていたことで陣屋橋と名がついたようだ。もともとの橋はもう少々下流に架かっていたと立札に書かれている。
 
             陣屋橋
桜は右岸がよさそうなので橋を渡って川沿いを進む。
 
            新小金井橋
                  
新小金井橋からは左岸に移動し五日市街道歩道を進み、真蔵院(しんぞういん)、八幡宮を巡る。
真蔵院
真蔵院には武蔵野新田開発の世話役・川崎兵右衛門の供養塔が建つ。
兵右衛門は、1738(元文3)年の大飢饉に際し、私財を投じて救済にあたり、その功績によって幕府より武蔵野新田の世話役に登用される。供養塔は、入植した農民がその徳をしのんで建てた。
          

 
      兵右衛門の戒名と命日が刻まれた供養塔
その先は小金井公園の入口にあたる。
ほどの桜まつりが開かれているところと同じ公園なのだがこちらは人数も少なく静かである。
          

 
北関野八幡宮
関野新田の鎮守で北関野八幡神社である。
徳川八代・吉宗時代の享保年間創建と云われるが、昭和に入ってこの地に移転したそうだ。
 

              
八幡宮から玉川上水の緑道に戻る。関野橋の先左岸は都内有数の桜の名所と案内されているが、古木の桜が続いている。
          
田無の大名主、下田半兵衛が1851(嘉永4)年に建てた「桜樹接種碑」があり『老木に肥料をやり、枯れた木は植え替え、全部で数百本の桜の木を植えたした。』と記されているそうだ。そして街道側には『さくら折るべからず』とある。桜を見ると現代も半兵衛さんを必要な光景だ。

『さくら折るべからず』の碑


梶野橋~新橋~曙橋~くぬぎ橋
梶野橋は『上水記』に記されている古い橋のひとつで、武蔵野新田開発が盛んだった江戸・享保年間(1716~1736)、上小金井村の名主・梶野藤右衛門が開いた新田に架けられた橋
 
梶野橋                                    新橋




アオサギ                                    曙橋


ふさがれたかつての千川上水分水口の水門が左手に 右手には小橋を見かける  手前が上流

くぬぎ橋~もみじ橋~境橋~うど橋
 
             くぬぎ橋

 
                                              もみじ橋
境橋。
ここは小金井市と西東京市、武蔵野市の3市の境。
 
               境橋
下流に境水衛所跡が残っている。江戸時代、奉行配下の水番所が置かれ、常駐の水番人がいた。水番人は、玉川上水の流量確認や落ち葉等の清掃していた。
明治時代に入って、水番所は水衛所と名を改め、引き続き職員(水衛)が常駐し、同様な業務を昭和55年まで行っていた。
 
     水衛所跡の千川上水との分流点(左が千川上水)                       玉川上水の碑
現在の千川用水は境橋付近で分流している。
千川用水は江戸城の城北地域へ流れていた総延長約22kmの用水路(上水)であり、江戸の六上水のひとつであった。現在は大部分が暗渠となっている。

うど橋~独歩橋~桜橋
 
うど橋                                    独歩橋
うど橋を過ぎると緑道は桜が植わっていることもあって歩行者ひとりが通る程度の道幅になっている。
次の独歩橋は宅地造成に伴い架設されて、下流160mに国木田独歩の文学碑があり、この辺りが武蔵野の面影が残っているので『武蔵野』の作家、国木田独歩に因んで橋の名を独歩橋と命名したと云う。
その独歩の文学碑は、次の桜橋の手前左岸にたっている。桜橋はその『武蔵野』にも登場しているとのこと。
『今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停留所から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある』と第六章の書き出しに著わしている。

独歩の文学碑                                    桜橋
桜橋の左手には境浄水場の敷地が広がっている。桜がきれいに咲いている。
羽村の取水口から村山・山口貯水池に送られた水は、ここで浄化され、世田谷区和田堀給水所を経て都内へ給水されている。
 
境浄水場
玉川上水と並行して通る武蔵野街道はこの境橋で左折する。
ここからしばらく玉川上水と別れ、武蔵野街道沿いに遺跡を訪ねて、武蔵野大学へと向かう。

しばらく武蔵野街道を歩く
文字庚申塔(道標兼)
武蔵野大学校門前にたっている。
この供養塔は市の教育委員会の説明によると、建立は天明4(1784)年で、天明と云えば大飢饉を思い浮かべるが、丁度建立前年の3年には浅間の噴火、洪水、冷害が発生している。
(徳川十代家治の時代)
このため、ほかに例を見ない『五穀成就』の文字が刻まれ、「願主新田中」となっており、村をあげて庚申に祈ったことを示している。
それは、飢饉が村の入口から侵入しないよう、防いでもらうために庚申の強い霊力に祈願したのだろう。
 
「鈴木街道」と、聞きなれない街道名が表示されていたので満開の桜と一緒に写したのだが、徳川八代吉宗の時代に盛んに新田開発が行われており、その中のひとつ、鈴木利左兵衛が開発した新田に通じる街道のようだ。起点が丁度この辺り。終点は小平市の鈴木町交差点で、たいした距離ではないようだ。 
石橋供養塔
この地に架かっていた井口橋を1841(天保12)年に、石橋に架け替えた際に完成記念と共に、悪霊侵入防止等の願を込めた供養塔である。
   
                石橋供養塔                             井口家御門訴事件記念碑
武蔵野街道は武蔵野大学校門前で右折するので、沿って五差路を曲がる。
井口家御門訴事件記念碑
御門訴事件とは、社倉制度(飢饉に備えて農民から穀物を取り立て備蓄する制度)に反対に、今の武蔵野市から西東京市、小金井市、東久留米市、国分寺市の武蔵野新田12カ村の農民数百名が品川県庁へ門訴を決行。
武力を伴わない訴え(門訴)であったが、県知事はこれを武力で鎮圧し、多くの人が逮捕されたうえ、拷問などで井口忠左衛門はじめ8名が獄死した。
(資料によっては51人が捕らえられ首謀者として15人が処刑あるいは獄死した等)
品川県とは、1869(明治2)年に設置された県。
おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部と広範囲を管轄した。
翌年には品川県は廃止され、 多摩郡全域は神奈川県が占め、残りの多くは東京府になった。
関前八幡神社
創建は、この辺りが開村した1678(寛文12)年とされる。
 

延命寺
開山は、関前村開村当時の1670(寛文10)年とされる。神仏習合のもと鎮守八幡神社が造立された。
入口には亜形、吽形の二体の金剛力士像が睨み、境内には毘沙門天、寿老人の石造や平和観音像などが祀られている。
 

        
源正寺
 
          源正寺西通りのケヤキ並木
西窪稲荷神社
1657(明暦3)年、明暦の大火後、西久保城山町(現、港区)の町民が当地の新田開拓を命じられ移転した際に、西久保村の鎮守社として建立したと云う。
神楽殿には1852(嘉永5)年から大正末期ごろまでの絵馬35枚が奉納されている。所沢や調布の絵馬屋職人によって描いたものと思われ、家内安全や夫婦和合の絵柄が多いという(非公開)。
 
                                           絵馬は右側の神楽殿
西窪稲荷神社前から露地を南下して玉川上水へと向かう。一方通行の道が驚くほどに長く真っ直ぐと玉川上水まで延びている。あまりにも長い直線なので家に帰って距離を測るとなんと1km余あった。
 
緑道に戻る。桜橋から橋は、松見橋→大橋→いちょう橋→ぎんなん橋をパスしている。
けやき橋手前で玉川上水は一旦暗渠になる。
 
三鷹市上連雀に入って沿道が賑わってきた。
歩道わきに1729(享保14)年造立の庚申供養塔が祀られている。「農村が安定した時期で、人々の生活が反映しているかのように塔型も整っている。」と解説されている。
当時の農民の暮らしぶりを調べて見ると、新田開発や技術改良によって、実収石高は増加している。一方で野菜、綿、菜種、藍、養蚕など換金できる産物をつくり、農民の収入も増加していたようだ。
この時代は、暴れん坊将軍が治めていた。
 
欅橋~三鷹橋~むらさき橋~万助橋
欅橋は、安政年間(1854~1859)にけやきの丸太橋が架けられていたので、その名がついたと云われる。現在は暗渠になってしまったので、その存在が分るよう歩道にけやきの材質を活かした、高欄(橋の両側に付けた欄干)を設け工夫をしていると橋の近くに解説が置かれている。
 
その先、せせらぎ公園を過ぎる。
三鷹駅北口に独歩の筆による「山林に自由存す」と刻まれた詩碑がたっている。独歩は自由主義の先駆者と評価されているようだ。
 
三鷹駅を過ぎる。玉川上水は再び開渠となる。古い三鷹橋残っている。
井の頭公園近くの万助橋まではこれまでと景色が変わる。
 
むらさき橋を過ぎた辺りに『路傍の石』などの作家、山本有三記念館が右手にある。この記念館は有三が家族とともに1936(昭和11)年から10年間住んでいた家である。建物は大正末期に建てられた本格的様式建築で、ここで「路傍の石」を執筆した。
 
                                              むらさき橋
 
                                             山本有三記念館
玉川上水の右岸を歩いていたので万助橋を渡り、池がある左手前方の井の頭恩賜公園に立ち寄る。
 
井の頭公園
公園は土曜日とあって家族、職場、カップルと人でごった返していた。時間は午後3時半をまわっていた。
 
公園からは途中で抜け出て住宅街の道を玉川上水に向かった。
上水の緑道から井の頭公園はとなり合わせだったのだが、公園から上水緑道へ向かうとなると、道は遠かった。
途中大きな桜の樹が門構えとなっている家を見かける。
この辺りの玉川上水の緑道は、土手状に高く上がっていた。
万助橋から橋は、ほたる橋→幸橋→新橋をパスした。
 
松影橋~井の頭橋~若草橋~宮下橋
 
               松影橋
 
              井の頭橋                                    若草橋
 
              宮下橋
宮下橋~東橋~長兵衛橋
宮下橋から右岸を歩く。東橋手前の川の淵には長く竹林が続いた。
 
                                            東(あずま)橋
     
                                          長兵衛橋
長兵衛橋~どんどん橋~牟礼橋~兵庫橋~岩崎橋~浅間橋
どんどん橋と変わった名の橋がある。レンガ造りの旧牟礼橋のことで、かつて府中街道(旧鎌倉街道)の旧久我山村と旧牟礼村を結ぶ交通の要であった。「どんどん橋」とも呼ばれたのは、急な水の勢いを表す擬音、ドンドンから主に子どもたちの間の呼び名であったようだ。
旧牟礼橋はもうひとつ別名があって、村の東端にかかっている橋で、東橋とも呼ばれていた。今は、上流に新しい東橋が架かっている。
 
              どんどん橋                           現在の牟礼橋 奥に大ケヤキ
牟礼橋の先、左岸に大ケヤキあり、根元の小祠には庚申塔が祀られている。1700(元禄13)年建立とのこと。
 
ここから岩崎橋まで長く下流まで工事が行われている。玉川上水沿いに放射5号線を工事で、玉川上水を挟んで両側に道路を延ばすと云う。
       
                                        兵庫橋

 
                                               岩崎橋
前方右手に中央高速道が見えてくる。左手に富士見ヶ丘運動場も見えてくる。
旧浅間橋で玉川上水は暗渠となる。
 
          奥の架橋が中央高速道路                           暗渠の先の森林
        
                            富士見ヶ丘運動場の桜

玉川上水は、ここで暗渠になった後、京王井の頭線田代橋駅付近で一旦開渠なるが、その後は玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点まで暗渠が続く。

桜の玉川上水散策は終わった。

訪れた日:2016.4.2


小机城址まつり

2016-04-15 11:52:56 | 横浜歴史散策

「小机城址まつり」は、小田原北條氏の支城として笠原越前守信為時代を再現した武者行列から始まる祭である。時は1516(永正13)から1557(弘治3)年のことである。

パレード


武者行列は、三會寺(さんねじ)をスタート、城址へ2kmたらずのパレード。
 
          
三會寺の創建年代は不詳だが、源頼朝が大檀那となり佐々木高綱が奉行して建立とされて、屋根には源氏寺の紋章「笹竜丹」が記されている。(大檀那とは有力な檀家のこと)
            

一行は横浜上麻生道路を小机辻で分れ会場の麓に差し掛かった。
 

 

          
本来は、小机駅前で武者のパレードを見る予定であったが、通過予定時刻まで30分以上もあったのでスルーして城址の入口で待っていたら、行列が見物人と一緒に歩いてきたのでこんなアングルになってしまった。  
            
冠木門を入ると会場の本丸広場である。

武者等の入場
 

 

 

 

 

 



          
                      殿さまは港北区長 姫君は中学の数学教師





小机城址太鼓
 
           
三献の儀
出陣に当たって、必勝祈願の「三献の儀(さんこんのぎ)」のゲン担ぎを行う。
「三献の儀」の肴には、一杯目は打ち鮑(あわび)、二杯目は勝栗、三杯目は昆布を食す。「打って勝って喜ぶ」という縁起をかついでのもので、この儀式は結婚式の「三三九度」に残っている。この順序はけして間違えてはならない。
 
その後、総大将は配下の者の介添えで兜や鎧を着る。
 



総大将は兵達の前に立ち、鬨(とき)の声を挙げる。
「えい、えい」と掛け声をかけると、兵たちは威勢が良く「おう!」と応える。これを3回繰り返す。


出陣でのゲン担ぎは、日取り、方角、場所にもこだわりがあったようだ。命がかかっているので当然かも知れぬ。
因みにゲン担ぎは現代にも生きていて、受験生、スポーツ選手、商人そして議員や首相までも、様々な人が様々なことを行っているようだ。

          





小机城については別途投稿の予定。

訪れた日:2016.4.10
三会寺:2016.3.24


井の頭公園の桜 (東京の桜2016 その5)

2016-04-15 11:52:05 | 東京散策
井の頭公園

井の頭公園には、「玉川上水を巡る」コースの中継点として立ち寄った。
南東端からは井の頭池を源とする神田川となっている
神田川は、江戸にひかれた水道、神田上水であり1898(明治31)年に水道ができるまで、重要な役割を果たしていた。

















桜の名所として有名な公園。
池の周囲には約250本の桜が雄大に枝を広げて池にせり出して咲くさまはまさに圧巻である。
公園全体で約500本の桜が植えられている。
井の頭公園のボートを乗ったカップルは別れると云うジンクスを知ってか、知らずかボートの順番待ちのカップルが長蛇の列をつくっていた。
土曜日とあってはシートの花見客はもとより、通路も大行列になっていて、公園中、人、ひとが一杯で、歩くことも大変であった。これでは時間がかかってしまうため公園の途中でパス、玉川上水の緑道に戻った。

この公園は、個人としては2013年12月に「井の頭公園の歌姫」と親しまれる、あさみ ちゆきさんのストリートライブを聞きに来て以来である。
ちゆきさんは今も月一のライブをこの公園で続けており、演歌だけではなく歌謡曲、フォーク、Jポップスと幅広く歌っている。昭和を感じさせる歌を聴かせるという評価もあり、もっと多くの人に聞いてもらいたい歌手である。

訪れた日:2016.4.2


後楽園《さくら》青山霊園 (東京の桜2016 その5)

2016-04-14 11:11:39 | 東京散策

小石川後楽園

今から380年ほど前の江戸初期、1629(寛永6)年に水戸徳川家の祖である頼房が、中屋敷(後に上屋敷)の庭として造ったもので、二代光圀が完成した。
中国の教えである「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から光圀が「後楽園」と名づけた。
庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、桜も「大泉水」「内庭」の池周辺に植わっている。神田上水を引き込んでいた。













内庭
江戸時代は「うちの庭」と呼ばれる書院式庭園であり、純日本式庭園の様式を留めていると云われる。
          


青山霊園
霊園中央を南北1.7kmにわたって貫く道路の両側には樹齢70年クラスの古木がそこかしこに立ち並び、大アーチを形づくる。
開設以来、環境にほとんど手を加えることなく保ってきたため、400本以上というソメイヨシノをはじめ、ヤマザクラ、オオシマザクラ、ヤエザクラと多彩な樹種が順を追って咲き続け、楽しめる。












文京区 播磨坂さくら並木
江戸時代、この辺りは常陸府中藩(現茨城県石岡市)松平播磨守の上屋敷であったことで、「播磨坂」とこの坂道が呼ばれる。
拡幅された坂道には、1960(昭和35)年に「全区を花でうずめる運動」により桜の若木が植えられ、現在では樹齢50年以上のさくら並木となった。通りの中央部は遊歩道として整備され、人々の憩いの場となっている。
ソメイヨシノや淡い黄緑色で八重咲きの鬱金(うこん)桜などのめずらしい桜も含め、およそ120本が、460mほどの播磨坂の両側と中央の遊歩道に植えられている。





          

訪れた日:2016.4.1


神田川 さくら 桜 サクラ (東京の桜2016 その4)

2016-04-11 12:29:43 | 東京散策
都電荒川線を学習院下で下車、神田川に向かう。
この停留場には昨年5月、「雑司ヶ谷から音羽まで歩く」で神田川沿いを歩いて以来である。
その時に桜並木が続くのを見て桜が咲くシーズンにはさぞかし美しいだろうと、今年の桜巡りの第一候補にあげ、高戸橋から江戸川橋の区間を歩いた。

高戸橋付近
 


          

曙橋付近



今日は4月1日 企業の入社式の記念写真を桜をバックに写していた

面影橋付近
          
情緒的な橋の名で、ここをテーマにしたかは分らぬが歌の題名にもなっている。
ここは太田道灌の山吹の里とされていて、江戸・明治時代には名所のひとつになっていた。左岸の橋のたもとに石碑がたっていたのだが、建物工事で囲われており不明である。
          

三島橋付近
     


早稲田川柳 「来る春に のって我が身も 咲かせたい」「三本じゃ 矢が足りません 安倍総理」etc


仲之橋付近







豊橋付近





駒塚橋付近







大滝橋付近





一休橋付近





江戸川橋付近




椿山荘



裏見の滝から桜をながめる

椿山荘は神田川の駒塚橋から大滝橋の間、左岸に位置する。

神田川の両岸は満開のさくら、桜、サクラで最高だった。

訪れた日:2016.4.1


江戸時代からの桜の名所・飛鳥山公園 (東京の桜2016 その4)

2016-04-05 14:57:37 | 東京散策

東京のお花見、昨年の人気ランキング6位がJR王子駅の西側の飛鳥山公園。
駅から近いことと夜桜が楽しめることで人気があるようだ。
かつて暴れん坊将軍こと徳川八代将軍吉宗は、鷹狩でこの地をたびたび訪れ、紀伊国飛鳥明神と縁深い飛鳥山に愛着を持った。そこでこの地に桜の苗木約1,000本余、ツツジ、赤松、楓などの樹木を植え行楽地として整備し、江戸庶民に開放した。日本橋からおよそ2里(8km)の距離で、飛鳥山は江戸郊外の桜の名所として多くの人々で賑わうようになった。解放時には吉宗自ら宴席を設けたと云う。その宴席はというと、城内の
茶坊主を引き連れて、佳肴(酒の美味い肴)を重箱に詰め、酒樽を担がせて行き、花見の良い場所をとり、誰彼なしに人を呼び入れ酒杯のやり取りをしたという。それこそTVの暴れん坊将軍そのままであるが、しかし江戸っ子は、漆で盛り上がった高蒔絵の葵の紋をみて尻込みした。しかし、年々続くと平気で頂戴するようになったとか。
現在73,000㎡(22,000余坪)におよそ600本を超える桜が植わっている。
この地にむかし、飛鳥明神を祀った祠があったことが地名の由来とされる。



        王子駅に隣接の公園入口                  斜行型モノレール「アスカルゴ」 2分で山頂に



 

佐久間象山の書いた「桜賦」の碑
          
幕末に国のゆく末を嘆き、その気持ちを桜に託して美辞麗句を並べ立てて書いた文。開国論を唱えた象山は、1864(元治元)年、京都で攘夷派の刺客によって暗殺されたが、明治になって勝海舟らの手によってこの石碑が立てられた。碑の下には血染めの遺品が収められている。

飛鳥山の碑
          
1737年(元文2年)建立。飛鳥山の由来を記したもの。あまりに難解な漢文であるため、江戸時代は読めない碑として知られた。

 

 
     1943年製造国鉄D51形蒸気機関車853号機          1949年製造東京都交通局6000形電車6080号機










《音無親水公園》
音無親水公園は、石神井川の旧流路に整備された公園で、この辺りでは音無川と呼ばれ、 古くから景勝の地として親しまれてきた。
江戸時代の「江戸名所図会」や、安藤広重による錦絵などにこの地が描かれている。地誌「新編武蔵風土記稿」にもこのあたりの高台からの眺めは、飛鳥山が手にとるように見え、 眼下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事等と記されている。



公園は旧流路の地形をそのまま利用した細長い窪地と、河岸の散策路などから構成されている。窪地にはせせらぎが流れ、かつての「王子七滝」のひとつ「権現の滝」を再現した小さな滝も配置されている。そして、その周辺には桜を中心とした木々が枝を広げている。



《王子神社》
飛鳥山の北、音無川の左岸の高台に位置する王子神社は、旧称王子権現。「王子」の地名はここから由来する。創建は古く平安時代後期とされ、紀州の熊野権現を勧請し、熊野信仰の拠点となっていた神社である。
徳川の代、初代将軍家康は将軍家祈願所と定める。その後代々将軍の崇拝を受け、八代将軍吉宗は紀州熊野権現の勧請であることで崇敬し、飛鳥山を寄進する。






訪れた日:2016.4.1


標準木靖国神社の桜 (東京の桜2016その3)

2016-04-03 17:31:47 | 東京散策

















旭日旗をデザインした燈籠の灯り

南門・・勅使が利用するのだろうか


神池庭園・・回遊式庭園は明治のはじめに造られた


参道脇は千代田区桜まつりの会場になっている



境内周辺は1870(明治3)年から1891(明治31)年まで日本人による初の競馬が靖国神社の例大祭に行われていたと云う


東京の桜をシリーズで巡っていて4年目を迎えた。
それなのに皇居の桜を見てても未だに標準木が植えられている靖国神社には足を運んでいないと失礼にあたるので今年は予定に含めた。
《靖国神社標準木》

この木に5~6輪が開くと東京の桜が開花


標準木は神門を入って右手に植えてある

靖国神社の桜は木戸孝允が1870(明治3)年に植えたことが始まりだとされる。現在は7種、600本ほどの桜が植えられていると云う。

訪れた日;2016.3.29


皇居・東御苑と周辺の桜 (東京の桜2016その2)

2016-04-03 17:30:10 | 東京散策
《皇居東御苑》
皇居を乾門から出て右手に行き、東御苑を北桔橋門から入るとすぐ右手にソメイヨシノが咲いている。乾通りの桜の花より見事だと思えた。



       
            
                 

                                        

    

     



          


こちらが皇居・乾通りの桜より開花が進んでいた。
今回巡った中では見ごたえがあった。

《北の丸公園》
皇居周辺の桜は「みごと」という光景は少なかったが、北の丸公園を入る田安門前の千鳥ヶ淵濠に咲く桜は良かった。










《皇居周辺通り》
 
平川濠


北の丸公園南通り



《千鳥ヶ淵公園・半蔵濠》
宴会で出来る千鳥ヶ淵の桜はまだまだであった。それでも暗い照明の下、多くの会社関係のグリープが酒宴を開いていた。遠く国会前のスピーカー音が聞こえてきた。

半蔵濠を望む桜はほんの数輪なので盛りの菜の花を写す



この近く桜の名所はこんなにも


2年前に訪れた乾通り通り抜けの時はこんなであった。

2014.4.5


訪れた日:2016.3.29