玉川上水を桜の咲く季節に歩いて3年目を迎えた。
旧浅間橋の暗渠までは歩こうと今年も小金井公園の東京たてもの園からスタートする。
今年は桜まつりの当日に来たので昨年とたてもの園前公園の景色がちょっと違う感じがする。たてもの園前に立つと今年は人の多さに圧倒され、桜への感動が昨年ほどはない。
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《陣屋橋~新小金井橋~関野橋~梶野橋》
小金井公園を出て、五日市街道を渡った先に玉川上水が流れている。
正面に陣屋橋が架かっている。
ここには享保年間に武蔵野の新田開発を推進した幕府の陣屋が置かれていたことで陣屋橋と名がついたようだ。もともとの橋はもう少々下流に架かっていたと立札に書かれている。
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陣屋橋
桜は右岸がよさそうなので橋を渡って川沿いを進む。
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新小金井橋
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新小金井橋からは左岸に移動し五日市街道歩道を進み、真蔵院(しんぞういん)、八幡宮を巡る。
◆真蔵院
真蔵院には武蔵野新田開発の世話役・川崎兵右衛門の供養塔が建つ。
兵右衛門は、1738(元文3)年の大飢饉に際し、私財を投じて救済にあたり、その功績によって幕府より武蔵野新田の世話役に登用される。供養塔は、入植した農民がその徳をしのんで建てた。
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兵右衛門の戒名と命日が刻まれた供養塔
その先は小金井公園の入口にあたる。
ほどの桜まつりが開かれているところと同じ公園なのだがこちらは人数も少なく静かである。
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◆北関野八幡宮
関野新田の鎮守で北関野八幡神社である。
徳川八代・吉宗時代の享保年間創建と云われるが、昭和に入ってこの地に移転したそうだ。
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八幡宮から玉川上水の緑道に戻る。関野橋の先左岸は都内有数の桜の名所と案内されているが、古木の桜が続いている。
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田無の大名主、下田半兵衛が1851(嘉永4)年に建てた「桜樹接種碑」があり『老木に肥料をやり、枯れた木は植え替え、全部で数百本の桜の木を植えたした。』と記されているそうだ。そして街道側には『さくら折るべからず』とある。桜を見ると現代も半兵衛さんを必要な光景だ。
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『さくら折るべからず』の碑
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《梶野橋~新橋~曙橋~くぬぎ橋》
梶野橋は『上水記』に記されている古い橋のひとつで、武蔵野新田開発が盛んだった江戸・享保年間(1716~1736)、上小金井村の名主・梶野藤右衛門が開いた新田に架けられた橋
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ふさがれたかつての千川上水分水口の水門が左手に 右手には小橋を見かける 手前が上流
《くぬぎ橋~もみじ橋~境橋~うど橋》
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くぬぎ橋
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もみじ橋
境橋。
ここは小金井市と西東京市、武蔵野市の3市の境。
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境橋
下流に境水衛所跡が残っている。江戸時代、奉行配下の水番所が置かれ、常駐の水番人がいた。水番人は、玉川上水の流量確認や落ち葉等の清掃していた。
明治時代に入って、水番所は水衛所と名を改め、引き続き職員(水衛)が常駐し、同様な業務を昭和55年まで行っていた。
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水衛所跡の千川上水との分流点(左が千川上水) 玉川上水の碑
現在の千川用水は境橋付近で分流している。
千川用水は江戸城の城北地域へ流れていた総延長約22kmの用水路(上水)であり、江戸の六上水のひとつであった。現在は大部分が暗渠となっている。
《うど橋~独歩橋~桜橋》
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次の独歩橋は宅地造成に伴い架設されて、下流160mに国木田独歩の文学碑があり、この辺りが武蔵野の面影が残っているので『武蔵野』の作家、国木田独歩に因んで橋の名を独歩橋と命名したと云う。
その独歩の文学碑は、次の桜橋の手前左岸にたっている。桜橋はその『武蔵野』にも登場しているとのこと。
『今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停留所から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある』と第六章の書き出しに著わしている。
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独歩の文学碑 桜橋桜橋の左手には境浄水場の敷地が広がっている。桜がきれいに咲いている。
羽村の取水口から村山・山口貯水池に送られた水は、ここで浄化され、世田谷区和田堀給水所を経て都内へ給水されている。
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ここからしばらく玉川上水と別れ、武蔵野街道沿いに遺跡を訪ねて、武蔵野大学へと向かう。
《しばらく武蔵野街道を歩く》
◆文字庚申塔(道標兼)
武蔵野大学校門前にたっている。
この供養塔は市の教育委員会の説明によると、建立は天明4(1784)年で、天明と云えば大飢饉を思い浮かべるが、丁度建立前年の3年には浅間の噴火、洪水、冷害が発生している。
それは、飢饉が村の入口から侵入しないよう、防いでもらうために庚申の強い霊力に祈願したのだろう。
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「鈴木街道」と、聞きなれない街道名が表示されていたので満開の桜と一緒に写したのだが、徳川八代吉宗の時代に盛んに新田開発が行われており、その中のひとつ、鈴木利左兵衛が開発した新田に通じる街道のようだ。起点が丁度この辺り。終点は小平市の鈴木町交差点で、たいした距離ではないようだ。
◆石橋供養塔
この地に架かっていた井口橋を1841(天保12)年に、石橋に架け替えた際に完成記念と共に、悪霊侵入防止等の願を込めた供養塔である。
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石橋供養塔 井口家御門訴事件記念碑
武蔵野街道は武蔵野大学校門前で右折するので、沿って五差路を曲がる。
◆井口家御門訴事件記念碑
御門訴事件とは、社倉制度(飢饉に備えて農民から穀物を取り立て備蓄する制度)に反対に、今の武蔵野市から西東京市、小金井市、東久留米市、国分寺市の武蔵野新田12カ村の農民数百名が品川県庁へ門訴を決行。
武力を伴わない訴え(門訴)であったが、県知事はこれを武力で鎮圧し、多くの人が逮捕されたうえ、拷問などで井口忠左衛門はじめ8名が獄死した。
おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部と広範囲を管轄した。
翌年には品川県は廃止され、 多摩郡全域は神奈川県が占め、残りの多くは東京府になった。
◆関前八幡神社
創建は、この辺りが開村した1678(寛文12)年とされる。
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◆延命寺
開山は、関前村開村当時の1670(寛文10)年とされる。神仏習合のもと鎮守八幡神社が造立された。
入口には亜形、吽形の二体の金剛力士像が睨み、境内には毘沙門天、寿老人の石造や平和観音像などが祀られている。
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◆源正寺
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源正寺西通りのケヤキ並木
◆西窪稲荷神社
1657(明暦3)年、明暦の大火後、西久保城山町(現、港区)の町民が当地の新田開拓を命じられ移転した際に、西久保村の鎮守社として建立したと云う。
神楽殿には1852(嘉永5)年から大正末期ごろまでの絵馬35枚が奉納されている。所沢や調布の絵馬屋職人によって描いたものと思われ、家内安全や夫婦和合の絵柄が多いという(非公開)。
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絵馬は右側の神楽殿
西窪稲荷神社前から露地を南下して玉川上水へと向かう。一方通行の道が驚くほどに長く真っ直ぐと玉川上水まで延びている。あまりにも長い直線なので家に帰って距離を測るとなんと1km余あった。
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緑道に戻る。桜橋から橋は、松見橋→大橋→いちょう橋→ぎんなん橋をパスしている。
けやき橋手前で玉川上水は一旦暗渠になる。
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三鷹市上連雀に入って沿道が賑わってきた。
歩道わきに1729(享保14)年造立の庚申供養塔が祀られている。「農村が安定した時期で、人々の生活が反映しているかのように塔型も整っている。」と解説されている。
当時の農民の暮らしぶりを調べて見ると、新田開発や技術改良によって、実収石高は増加している。一方で野菜、綿、菜種、藍、養蚕など換金できる産物をつくり、農民の収入も増加していたようだ。
この時代は、暴れん坊将軍が治めていた。
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《欅橋~三鷹橋~むらさき橋~万助橋》
欅橋は、安政年間(1854~1859)にけやきの丸太橋が架けられていたので、その名がついたと云われる。現在は暗渠になってしまったので、その存在が分るよう歩道にけやきの材質を活かした、高欄(橋の両側に付けた欄干)を設け工夫をしていると橋の近くに解説が置かれている。
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その先、せせらぎ公園を過ぎる。
三鷹駅北口に独歩の筆による「山林に自由存す」と刻まれた詩碑がたっている。独歩は自由主義の先駆者と評価されているようだ。
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三鷹駅を過ぎる。玉川上水は再び開渠となる。古い三鷹橋残っている。
井の頭公園近くの万助橋まではこれまでと景色が変わる。
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むらさき橋を過ぎた辺りに『路傍の石』などの作家、山本有三記念館が右手にある。この記念館は有三が家族とともに1936(昭和11)年から10年間住んでいた家である。建物は大正末期に建てられた本格的様式建築で、ここで「路傍の石」を執筆した。
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むらさき橋
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山本有三記念館
玉川上水の右岸を歩いていたので万助橋を渡り、池がある左手前方の井の頭恩賜公園に立ち寄る。
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《井の頭公園》
公園は土曜日とあって家族、職場、カップルと人でごった返していた。時間は午後3時半をまわっていた。
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公園からは途中で抜け出て住宅街の道を玉川上水に向かった。
上水の緑道から井の頭公園はとなり合わせだったのだが、公園から上水緑道へ向かうとなると、道は遠かった。
途中大きな桜の樹が門構えとなっている家を見かける。
この辺りの玉川上水の緑道は、土手状に高く上がっていた。
万助橋から橋は、ほたる橋→幸橋→新橋をパスした。
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《松影橋~井の頭橋~若草橋~宮下橋》
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松影橋
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井の頭橋 若草橋
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宮下橋
《宮下橋~東橋~長兵衛橋》
宮下橋から右岸を歩く。東橋手前の川の淵には長く竹林が続いた。
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東(あずま)橋
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長兵衛橋
《長兵衛橋~どんどん橋~牟礼橋~兵庫橋~岩崎橋~浅間橋》
どんどん橋と変わった名の橋がある。レンガ造りの旧牟礼橋のことで、かつて府中街道(旧鎌倉街道)の旧久我山村と旧牟礼村を結ぶ交通の要であった。「どんどん橋」とも呼ばれたのは、急な水の勢いを表す擬音、ドンドンから主に子どもたちの間の呼び名であったようだ。
旧牟礼橋はもうひとつ別名があって、村の東端にかかっている橋で、東橋とも呼ばれていた。今は、上流に新しい東橋が架かっている。
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どんどん橋 現在の牟礼橋 奥に大ケヤキ
牟礼橋の先、左岸に大ケヤキあり、根元の小祠には庚申塔が祀られている。1700(元禄13)年建立とのこと。
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ここから岩崎橋まで長く下流まで工事が行われている。玉川上水沿いに放射5号線を工事で、玉川上水を挟んで両側に道路を延ばすと云う。
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兵庫橋
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岩崎橋
前方右手に中央高速道が見えてくる。左手に富士見ヶ丘運動場も見えてくる。
旧浅間橋で玉川上水は暗渠となる。
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奥の架橋が中央高速道路 暗渠の先の森林
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富士見ヶ丘運動場の桜
玉川上水は、ここで暗渠になった後、京王井の頭線田代橋駅付近で一旦開渠なるが、その後は玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点まで暗渠が続く。
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旧浅間橋の暗渠までは歩こうと今年も小金井公園の東京たてもの園からスタートする。
今年は桜まつりの当日に来たので昨年とたてもの園前公園の景色がちょっと違う感じがする。たてもの園前に立つと今年は人の多さに圧倒され、桜への感動が昨年ほどはない。
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《陣屋橋~新小金井橋~関野橋~梶野橋》
小金井公園を出て、五日市街道を渡った先に玉川上水が流れている。
正面に陣屋橋が架かっている。
ここには享保年間に武蔵野の新田開発を推進した幕府の陣屋が置かれていたことで陣屋橋と名がついたようだ。もともとの橋はもう少々下流に架かっていたと立札に書かれている。
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陣屋橋
桜は右岸がよさそうなので橋を渡って川沿いを進む。
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新小金井橋
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新小金井橋からは左岸に移動し五日市街道歩道を進み、真蔵院(しんぞういん)、八幡宮を巡る。
◆真蔵院
真蔵院には武蔵野新田開発の世話役・川崎兵右衛門の供養塔が建つ。
兵右衛門は、1738(元文3)年の大飢饉に際し、私財を投じて救済にあたり、その功績によって幕府より武蔵野新田の世話役に登用される。供養塔は、入植した農民がその徳をしのんで建てた。
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兵右衛門の戒名と命日が刻まれた供養塔
その先は小金井公園の入口にあたる。
ほどの桜まつりが開かれているところと同じ公園なのだがこちらは人数も少なく静かである。
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◆北関野八幡宮
関野新田の鎮守で北関野八幡神社である。
徳川八代・吉宗時代の享保年間創建と云われるが、昭和に入ってこの地に移転したそうだ。
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八幡宮から玉川上水の緑道に戻る。関野橋の先左岸は都内有数の桜の名所と案内されているが、古木の桜が続いている。
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田無の大名主、下田半兵衛が1851(嘉永4)年に建てた「桜樹接種碑」があり『老木に肥料をやり、枯れた木は植え替え、全部で数百本の桜の木を植えたした。』と記されているそうだ。そして街道側には『さくら折るべからず』とある。桜を見ると現代も半兵衛さんを必要な光景だ。
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『さくら折るべからず』の碑
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《梶野橋~新橋~曙橋~くぬぎ橋》
梶野橋は『上水記』に記されている古い橋のひとつで、武蔵野新田開発が盛んだった江戸・享保年間(1716~1736)、上小金井村の名主・梶野藤右衛門が開いた新田に架けられた橋
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梶野橋 新橋
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アオサギ 曙橋
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アオサギ 曙橋
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ふさがれたかつての千川上水分水口の水門が左手に 右手には小橋を見かける 手前が上流
《くぬぎ橋~もみじ橋~境橋~うど橋》
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くぬぎ橋
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もみじ橋
境橋。
ここは小金井市と西東京市、武蔵野市の3市の境。
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境橋
下流に境水衛所跡が残っている。江戸時代、奉行配下の水番所が置かれ、常駐の水番人がいた。水番人は、玉川上水の流量確認や落ち葉等の清掃していた。
明治時代に入って、水番所は水衛所と名を改め、引き続き職員(水衛)が常駐し、同様な業務を昭和55年まで行っていた。
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水衛所跡の千川上水との分流点(左が千川上水) 玉川上水の碑
現在の千川用水は境橋付近で分流している。
千川用水は江戸城の城北地域へ流れていた総延長約22kmの用水路(上水)であり、江戸の六上水のひとつであった。現在は大部分が暗渠となっている。
《うど橋~独歩橋~桜橋》
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うど橋 独歩橋
うど橋を過ぎると緑道は桜が植わっていることもあって歩行者ひとりが通る程度の道幅になっている。次の独歩橋は宅地造成に伴い架設されて、下流160mに国木田独歩の文学碑があり、この辺りが武蔵野の面影が残っているので『武蔵野』の作家、国木田独歩に因んで橋の名を独歩橋と命名したと云う。
その独歩の文学碑は、次の桜橋の手前左岸にたっている。桜橋はその『武蔵野』にも登場しているとのこと。
『今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停留所から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある』と第六章の書き出しに著わしている。
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独歩の文学碑 桜橋
羽村の取水口から村山・山口貯水池に送られた水は、ここで浄化され、世田谷区和田堀給水所を経て都内へ給水されている。
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境浄水場
玉川上水と並行して通る武蔵野街道はこの境橋で左折する。ここからしばらく玉川上水と別れ、武蔵野街道沿いに遺跡を訪ねて、武蔵野大学へと向かう。
《しばらく武蔵野街道を歩く》
◆文字庚申塔(道標兼)
武蔵野大学校門前にたっている。
この供養塔は市の教育委員会の説明によると、建立は天明4(1784)年で、天明と云えば大飢饉を思い浮かべるが、丁度建立前年の3年には浅間の噴火、洪水、冷害が発生している。
(徳川十代家治の時代)
このため、ほかに例を見ない『五穀成就』の文字が刻まれ、「願主新田中」となっており、村をあげて庚申に祈ったことを示している。それは、飢饉が村の入口から侵入しないよう、防いでもらうために庚申の強い霊力に祈願したのだろう。
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「鈴木街道」と、聞きなれない街道名が表示されていたので満開の桜と一緒に写したのだが、徳川八代吉宗の時代に盛んに新田開発が行われており、その中のひとつ、鈴木利左兵衛が開発した新田に通じる街道のようだ。起点が丁度この辺り。終点は小平市の鈴木町交差点で、たいした距離ではないようだ。
◆石橋供養塔
この地に架かっていた井口橋を1841(天保12)年に、石橋に架け替えた際に完成記念と共に、悪霊侵入防止等の願を込めた供養塔である。
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石橋供養塔 井口家御門訴事件記念碑
武蔵野街道は武蔵野大学校門前で右折するので、沿って五差路を曲がる。
◆井口家御門訴事件記念碑
御門訴事件とは、社倉制度(飢饉に備えて農民から穀物を取り立て備蓄する制度)に反対に、今の武蔵野市から西東京市、小金井市、東久留米市、国分寺市の武蔵野新田12カ村の農民数百名が品川県庁へ門訴を決行。
武力を伴わない訴え(門訴)であったが、県知事はこれを武力で鎮圧し、多くの人が逮捕されたうえ、拷問などで井口忠左衛門はじめ8名が獄死した。
(資料によっては51人が捕らえられ首謀者として15人が処刑あるいは獄死した等)
品川県とは、1869(明治2)年に設置された県。おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部と広範囲を管轄した。
翌年には品川県は廃止され、 多摩郡全域は神奈川県が占め、残りの多くは東京府になった。
◆関前八幡神社
創建は、この辺りが開村した1678(寛文12)年とされる。
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◆延命寺
開山は、関前村開村当時の1670(寛文10)年とされる。神仏習合のもと鎮守八幡神社が造立された。
入口には亜形、吽形の二体の金剛力士像が睨み、境内には毘沙門天、寿老人の石造や平和観音像などが祀られている。
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◆源正寺
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源正寺西通りのケヤキ並木
◆西窪稲荷神社
1657(明暦3)年、明暦の大火後、西久保城山町(現、港区)の町民が当地の新田開拓を命じられ移転した際に、西久保村の鎮守社として建立したと云う。
神楽殿には1852(嘉永5)年から大正末期ごろまでの絵馬35枚が奉納されている。所沢や調布の絵馬屋職人によって描いたものと思われ、家内安全や夫婦和合の絵柄が多いという(非公開)。
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絵馬は右側の神楽殿
西窪稲荷神社前から露地を南下して玉川上水へと向かう。一方通行の道が驚くほどに長く真っ直ぐと玉川上水まで延びている。あまりにも長い直線なので家に帰って距離を測るとなんと1km余あった。
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緑道に戻る。桜橋から橋は、松見橋→大橋→いちょう橋→ぎんなん橋をパスしている。
けやき橋手前で玉川上水は一旦暗渠になる。
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三鷹市上連雀に入って沿道が賑わってきた。
歩道わきに1729(享保14)年造立の庚申供養塔が祀られている。「農村が安定した時期で、人々の生活が反映しているかのように塔型も整っている。」と解説されている。
当時の農民の暮らしぶりを調べて見ると、新田開発や技術改良によって、実収石高は増加している。一方で野菜、綿、菜種、藍、養蚕など換金できる産物をつくり、農民の収入も増加していたようだ。
この時代は、暴れん坊将軍が治めていた。
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《欅橋~三鷹橋~むらさき橋~万助橋》
欅橋は、安政年間(1854~1859)にけやきの丸太橋が架けられていたので、その名がついたと云われる。現在は暗渠になってしまったので、その存在が分るよう歩道にけやきの材質を活かした、高欄(橋の両側に付けた欄干)を設け工夫をしていると橋の近くに解説が置かれている。
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その先、せせらぎ公園を過ぎる。
三鷹駅北口に独歩の筆による「山林に自由存す」と刻まれた詩碑がたっている。独歩は自由主義の先駆者と評価されているようだ。
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三鷹駅を過ぎる。玉川上水は再び開渠となる。古い三鷹橋残っている。
井の頭公園近くの万助橋まではこれまでと景色が変わる。
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むらさき橋を過ぎた辺りに『路傍の石』などの作家、山本有三記念館が右手にある。この記念館は有三が家族とともに1936(昭和11)年から10年間住んでいた家である。建物は大正末期に建てられた本格的様式建築で、ここで「路傍の石」を執筆した。
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むらさき橋
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山本有三記念館
玉川上水の右岸を歩いていたので万助橋を渡り、池がある左手前方の井の頭恩賜公園に立ち寄る。
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《井の頭公園》
公園は土曜日とあって家族、職場、カップルと人でごった返していた。時間は午後3時半をまわっていた。
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公園からは途中で抜け出て住宅街の道を玉川上水に向かった。
上水の緑道から井の頭公園はとなり合わせだったのだが、公園から上水緑道へ向かうとなると、道は遠かった。
途中大きな桜の樹が門構えとなっている家を見かける。
この辺りの玉川上水の緑道は、土手状に高く上がっていた。
万助橋から橋は、ほたる橋→幸橋→新橋をパスした。
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《松影橋~井の頭橋~若草橋~宮下橋》
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松影橋
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井の頭橋 若草橋
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宮下橋
《宮下橋~東橋~長兵衛橋》
宮下橋から右岸を歩く。東橋手前の川の淵には長く竹林が続いた。
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東(あずま)橋
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長兵衛橋
《長兵衛橋~どんどん橋~牟礼橋~兵庫橋~岩崎橋~浅間橋》
どんどん橋と変わった名の橋がある。レンガ造りの旧牟礼橋のことで、かつて府中街道(旧鎌倉街道)の旧久我山村と旧牟礼村を結ぶ交通の要であった。「どんどん橋」とも呼ばれたのは、急な水の勢いを表す擬音、ドンドンから主に子どもたちの間の呼び名であったようだ。
旧牟礼橋はもうひとつ別名があって、村の東端にかかっている橋で、東橋とも呼ばれていた。今は、上流に新しい東橋が架かっている。
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どんどん橋 現在の牟礼橋 奥に大ケヤキ
牟礼橋の先、左岸に大ケヤキあり、根元の小祠には庚申塔が祀られている。1700(元禄13)年建立とのこと。
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ここから岩崎橋まで長く下流まで工事が行われている。玉川上水沿いに放射5号線を工事で、玉川上水を挟んで両側に道路を延ばすと云う。
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兵庫橋
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岩崎橋
前方右手に中央高速道が見えてくる。左手に富士見ヶ丘運動場も見えてくる。
旧浅間橋で玉川上水は暗渠となる。
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奥の架橋が中央高速道路 暗渠の先の森林
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富士見ヶ丘運動場の桜
玉川上水は、ここで暗渠になった後、京王井の頭線田代橋駅付近で一旦開渠なるが、その後は玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点まで暗渠が続く。
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桜の玉川上水散策は終わった。
訪れた日:2016.4.2