あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

東京思いつき散歩

2014-10-29 14:52:11 | 東京散策
家族のものがスカイツリーに行きたいということで、横浜駅から直通電車で押上(東京スカイツリー前)駅に到着。
最近は、各電鉄が相互乗り入れしていて大変便利になった。
東京スカイツリー
東京スカイツリーは、東京タワーに代わる電波塔なのだが、そんなこと忘れていて、一大観光施設が前面になっている印象だ。
東武鉄道が筆頭株主となっていて、総事業費はおよそ650億円。テレビ局からの賃貸料と観光客からの入場料などで収益を得るという。
634(ムサシ)の愛称でもある電波塔の名称は、公募では「大江戸タワー」が一番人気であったとか、なぜその名にならなかったかというと、地元の和菓子屋がその名になるのではと先に商標登録したとかで実現しなかったそうだ。 
       
タワーの展望台へはビルの4階からエレベーターで50秒で到着する。その上の展望回廊(第2展望台)には30秒。展望台の最高は464m。
 
                   高くなると屋外が眺められる。エレベーターは350mで終点。 

 
               浅草方面の景色。この日はもやっていて東京タワーも見つからなかった。

 
            第二展望のエレベーターは445m。フロワーの最高点は451.2m、螺旋状になっている。

                
                  下りのエレベーター内は江戸切子がデザインされている。

 

スカイツリーの次は、京成電車の線路に沿って西へ徒歩分の牛嶋神社に行く。
牛嶋神社
境内は結婚披露宴用の前撮り写真を撮影しているグループがひと組いただけで、参拝客はいなかった。
隅田公園の隣に位置しているのに、桜の季節以外は訪れないのだろうか。
この神社には、「撫牛(なでうし)」が置かれているテレビ番組があり、この春の隅田公園桜見物の際には知らず参詣していないので、機会があったらと思っていた。
撫牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという信仰である。この信仰は、おまじないのひとつという。自らのツミやケガレ、邪気を人形に移して祓い、心身を清めるというもののようだ。
 
860(貞観2)年、須佐之男命を勧請して創祀したというから、とても古い。その後、源頼朝が社殿を造営したり、江戸時代は鬼門守護の社として将軍家の崇敬が篤かった。
 

 

   

隅田川を渡り、浅草に。
 
浅草・浅草寺仲見世
浅草寺は江戸最古の寺院と言われ、平安時代の創建だと。
徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わった。それにつれ、近くの住民に租税とは別に、強制労働である賦役として浅草寺境内の掃除が課せられた。しかし、その見返りもあって、境内や参道に出店営業の特権が与えらる。これが仲見世の始まりといわれ、元禄、享保(1688? 1735)の頃ことである。
伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20軒の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などの店があった。その規模は次第に増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していった、日本で最も古い商店街のひとつ。
浅草には、翌週に予定していた「時代祭」の見物に来る予定をしていたが、不適切は経理が明るみに出て、資金難となり今年は中止となった。25年も続くイベントを中止にするとは情けない。
 

 

仲見世で人形焼を買い求め、地下鉄銀座線で上野駅へ。焼きたての人形焼はうまかった。
上野・アメ横
「アメ横」と称するアメヤ横丁(アメ横商店街連合会)は、JRの上野~御徒町駅の山手線高架下とその西側付近の商店街である。
東京大空襲で焦土化した空き地に戦後闇市が発生し、愚連隊や暴力団の資金源になっていた時代もあった。その後出所の怪しい者を排除して、近藤マーケットが出来、現在の基礎となった。
街並みは、およそ400m。魚介類や乾物などの食品、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中する400軒以上の店舗となっている。
年末には正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返す風景は、年末の風物詩にもなっている。平日は、大きなトランクをガラガラ引いているアジア系の観光客が目立つ。
ここでは、生鮮食量品はやめて、テレビにも登場するチョコレートのたたき売りの店で菓子を求める。
今は、毎日閉店セールの店、1,000円セールの菓子や生鮮食料品店、化粧品やブランド物を売る店がアメ横特徴のようだ。
 

 
                   アメ横のシンボル「賑わいの像」と近くの鈴本演芸場

5分ほど歩いて湯島駅から明治神宮前駅に。
                   
原宿
原宿には、姪の結婚式で前の週も降り立っており、2週続けて来るとは思ってもみなかった。
原宿と言えば竹下通りである。駅から明治通りに向かって緩やかに下る、350mほどの通りである。店舗の多くは、若者向けの派手なファッション・ブティックで小規模な店舗が多い。今や個性的なファッションの街として広く知られ、修学旅行生のほか、外国人観光客の訪問も多い。

現在の駅舎は1924(大正13)年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古い。建物は二階建てで、尖塔(せんとう)付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザインとなっている。
改札口は、表参道口と竹下口、それに正月には明治神宮敷地内「臨時ホーム」(3番線ホーム)と臨時改札口がある。それに、代々木駅寄りの駅手前には「お召列車」が発着する皇室専用ホームがあるという。
                 
原宿では、ポップコーンを求める。人気の店で平日の夕方だったが、50分待ちであった。
5種類のポップコーンをガロン単位の缶入りで売るのが特徴で、テレビでも紹介されているようだ。
       
ここからは恵比寿に出て、湘南新宿ライン電車で横浜に戻る。
湘南から池袋・新宿駅を走る系統は、2001年から開始され、初めは本数が少なかったが今は増えて便利となった。

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義経終焉の地・平泉

2014-10-14 18:04:56 | 歴史散策
北上川を望む高館(たかだち)には奥州藤原氏の居館である衣川館(ころもがわたち)が建っていた。
少年期を過ごし、再び平泉へ義兄・頼朝に追われ、落ち延びた義経の住いに与えられ、人生の終幕を過ごした場所と言われている。(近年では、奥州市の接待館遺跡が衣川館であると言う説がある。)
          

義経(通称・九郎)は源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。父が平治の乱で敗死したことで鞍馬寺に預けられた。
京都鞍馬寺
牛若丸は鞍馬寺に6歳から遮那王と名のって過ごした。その間には武芸を習った鞍馬天狗が登場する。また、平泉に下る際に名残を惜しんで背を比べた、「義経公背比べ石」が残されている。
お供には、弁慶と金売吉次という奥州商人がいた。当時藤原氏は平氏軍に匹敵する10万騎の勢力があった。この時16歳であった。
鞍馬寺では、遮那王として義経堂に祀られている。
 
          (左)囲内に「義経公背比べ石」                         (右)義経堂

                    
          
頼朝が平氏打倒の兵をあげる(治承・寿永の乱)と馳せ参じる。義経25歳。
その後、一ノ谷、屋島、壇ノ浦合戦で平氏を破り進軍していった。
四国屋島寺
屋島の合戦では、有名な那須与一の「扇の的」や義経の「弓流し」の武勇がある。





屋島の合戦跡


平氏を討ち破り、鎌倉に凱旋していった。しかし、義経が官位を受けたことや平氏との戦いに於いで独断専行を行ったことに頼朝は怒り、鎌倉には招き入れなかった。義経27歳。
満福寺腰越状
完全に敵視した頼朝宛に、嘆願状(腰越状)を頼朝の信望が篤かった家臣宛てに差しだし、申し開きをしたが、鎌倉に入ることは許されなかった。
          

          

仕方がなく吉野等を巡り、一旦京(比叡山)に戻るが、再び藤原氏を頼って奥州平泉に旅立つ。義経29歳。
             

高館義経堂
四代泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。義経31歳。
殺害された妻・北の方と子・女児は金鶏山の麓にある千手堂の境内に祀られている。
北の方は頼朝の乳母の次女で、頼朝の命によって義経に嫁ぎ、義経の逃避行にも従った正室。伝承では郷御前と呼ばれていた。平泉では貴人の妻のことを北の方と呼ぶ。
千手堂には郷御前の守り本尊・不動明王と義経夫婦の位牌が祀られていた。
それから500年の後、義経が自害した地に仙台四代藩主・伊達綱村が、義経を偲んで義経堂(ぎけいどう)を建てた。中には義経の木造が安置されている。
          
 
             (左)義経木像                                (右)供養塔  

義経堂が出来て6年後に、松尾芭蕉が曾良を従えて「おくのほそ道」の道中にこの場を訪れた。実に、江戸を旅立ち44日目のことだった。
そして、有名な句である『夏草や 兵どもが 夢の跡』を詠んだ。 
          

高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(たばしねやま・別名東山)が眺められる。昔は桜の名所とされたが、現在はツツジだと言う。
8月16日には観光協会主催の「平泉大文字送り火」が催されている。今年は50回目となり先祖、戦没者並びに東日本大震災の犠牲者の霊を供養した。
また、西にめを転じると、前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流している。
          

 
       北上川の左手上あたりが衣川古戦場                      中央やや左に束稲山   

     

弁慶の墓
中尊寺月見坂の入口に弁慶松の下に弁慶の墓と言われる五輪塔が祀られている。
 

今年は、計画的ではなかったが、義経のゆかりの地・片瀬万福寺、京都鞍馬寺、そして平泉を訪れた。昨年も瀬戸内旅行で屋島を訪ねた縁もあり、義経のストーリーをまとめてみた。
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早い復興を願いつつ大津波被災地を巡る

2014-10-12 17:03:46 | 散策
東北旅行・2日目、3日目は海側を走った。
東日本大地震の生傷は沿道からも確認できた。
大津波で流された建物の復興は3年半たった今も進んでいるとは感じられなかった。
早い復興を願いながら、国道45号線を北上する。

観音寺
気仙沼の市街地を足下に望む丘陵にあり、この地域きっての天台宗の名刹。創建は709年。
          
義経は、陰陽師(伝説上の人物)が大事にしていた兵法書をその娘である、皆鶴姫と盗み平泉に旅出ってしまう。姫は陰陽師である父から怒りをかい、海に流されてしまう。  
姫は骸(むくろ)となってこの近くの浜に漂着する。手には観音像が握られていた。
一方義経は霊夢によって姫の漂着を知り、その霊を慰めるため堂を建て観音像を安置した。
観音堂には姫を乗せて漂着した舟板の残骸、義経が使ったという笈や弁慶が衣をかけたという石が残っていると言う。
          

早馬神社・大津波の碑
早馬(はやま)神社は1217(建保5)年に鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の宮司・梶原景實により創建され、古くから「早馬さん」「権現様」と称された。
東日本大震災では、大津波により、海抜12mの高台に位置する神社にも15mの大津波が襲い、拝殿、社務所などが2.5mほど浸水し全ての道具を粉砕されたが、建物の流失は避けられた。気仙沼市のこの地区ではこの神社だけが残ったすさまじい惨状であった。当時を写した写真が碑としてたてられていた。
         

     

 

普門寺・犠牲者悼む五百羅漢
1241(仁治2)年創建の曹洞宗の名刹。
  
被災者の追悼と心の傷をいやす目的で、五百羅漢を造る活動を昨年より行っている。今年もお盆明けの1週間で羅漢を制作した。岩手は、昔から飢餓が多く、五百羅漢を造る歴史がある。
         
青銅の大仏は1718(享保3)年の作、東北ではこの大きさは稀有。三重塔は1809(文化6)年製作、高さ12.5m、県指定有形文化財。
境内に、石仏展覧会入賞作品・地蔵菩薩像が祀られている。
    

気仙大工左官伝承館・希望の灯
気仙大工は、気仙地方の大工の集団で、その足跡は江戸時代にまでさかのぼり、農民が生活を支えるために建設関係の仕事に従事し、次第に独自の技能集団が形成された。
その技量は、家大工でありながら神社仏閣も手がけ、建具や彫刻までもこなし、全国的にも高い評価を得ている。
この建物は 明治初期の気仙地方の民家を想定し、当時の建築様式により、材料は全て地元材を使用し、気仙大工左官の優れた建築技法を後世に伝えるために建設された。
          

震災から7か月後の12月、神戸から「1.17希望の灯り」が運ばれてきた。
 

      

陸前高田・奇跡の一本松
奇跡の一本松は、陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ松の木のモニュメントである。
太平洋に面した高田松原には、350年にわたって植林されてきたおよそ7万本の松の木が茂り、陸中海岸国立公園(現三陸復興国立公園)や日本百景に指定されていた景勝地であった。
その松原も先の大震災よる大津波の直撃を受け、ほとんどがなぎ倒されて壊滅しが、その中で、一本の木が津波に耐えて、立ったままの状態で残った。そこで、震災からの復興への希望を象徴するものとしてとらえられるようになり、「奇跡の一本松」や「希望の松」などと呼ばれるようになった。その後、残念ながら枯れてしまい、復興を象徴するモニュメントとして残すことになった。
          
右手の建物は、陸前高田ユースホステルである。この建物も壊滅状態となってしまった。幸いにも地震発生の2ヵ月前より休館していたため、人的被害は免れたという。

陸前高田・追悼施設
追悼施設
施設は海の近くにあり、津波で流失した高田松原の松を使った建物。なかに慰霊碑や献花台が設られている。
          

          

 

道の駅・高田松原
先の大震災によって被災し、現在は休館中となっている。営業が再開されることを願う。
           

陸前高田の巨大コンベア
山を削って発生する土砂を別の盛土に利用するために陸前高田市は総延長3kmとうい巨大なコンベアを今年の3月から稼働している。膨大な土砂をトラックで運ぶことは現実的ではない、安全性も考えこの手法を執ったという。コンベアが運ぶ土砂の量は、1日2万立方メートルで、この量は10tトラック4千台分の相当するという。工事は来年2015年5月に終了とのこと。
 

洞雲寺・明治の大海嘯(津波)碑
山門は竜宮門と呼ばれる2階造りの山門・楼門で、文化年間(1804~18)に気仙大工が建てたとされる。本堂も同様に、気仙大工が棟梁となって天保年間(1830~44)に建てられた。本堂には明治29年に発生した明治三陸地震の津波で犠牲となった5,678人の名前が刻まれた大位牌が奉納されているという。
 
駐車場付近には、明治三陸地震石碑「大海嘯紀念碑」が建てられている。昭和初期まで津波のことを海嘯(かいしょう)と言っていた(左下)。
近くには先の大震災によって犠牲となった方々を慰霊する観音菩薩像が祀られている。高さは、当時の津波とほぼ同じ、8mという。
 

長安寺
真宗大谷派の寺院、開創は平安時代末期頃と伝えられている。東北随一といわれる壮麗な山門は総ケヤキ造りで、1798(寛政10)年の竣工。実はケヤキが当時禁制の材木であったため、藩主の伊達氏から工事途中で中止を命じられ、以後の造作が許されず「袖なしの門」と言われている。
江戸時代には幕府に迫害されていた蘭学者・高野長英がこの寺に隠れ住み、密かに蘭学を教えていたとも伝えられている。
          

釜石大観音
釜石港を見下ろすところに、高さ48.5mの白亜の観音像が建立されている。胎内には聖観音や七福神等が安置され、胸元は展望台になっている。
 

浄土ヶ浜・チリ津波記念碑
三陸沿岸は明治以降、被害が大きかった津波だけでも4回ある。1896(明治29)年の三陸地震津波、1933(昭和8)年の三陸沖地震、1960(昭和35)年のチリ地震津波、そして2011(平成23)年の東日本大地震である。
明治以降からの地震の発生はおよそ40年に1回の割合の被害である。これは、ほかの地域に比べて非常に多い数ではないだろうか。
この浜には、1933(昭和8)年発生に「三陸沖地震の津波碑」(右手の大きい碑)と1960(昭和35)年の「チリ地震の津波碑」が建てられ、それぞれに教訓が刻まれている。
『大地震の後には津浪が来る 大地震があったら高い所へ集れ 津浪に追はれたら何處でも高い所へ 遠くへ逃げれば津浪に追いつかれる 常に逃げ場を用意しておけ 家を建てるなら津浪の来ぬ安全地帯へ』
『地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ』
火の周辺に咲く白い花は、宮古市の花でもある「ハマギク」である。
 
青の洞門観光のさっぱ船(小型船)乗り場に小百合さんの写真が飾られていたので写す。偶然にもその日のNHKニュースに小百合さんが出演されていて、東日本大地震の感想や被災者への思いを語られていた。
 

頻繁に行きかう工事トラック
海岸線を南北に走る国道45号線を北上したが、工事エリアを表示した横断幕を掲げたトラックがひっきりなしに走っている。
 
津波表示
「過去の津波浸水区間 ここまで」という表示板が道路を走っているとたくさん見かける。こんなに高い場所まで津波が襲ったのかと改めて驚く。
 
架設住宅・商店
仮設住宅を至るところで見かける。神戸地震の経験から小規模な住宅をたくさん建てたのか。陸前高田では4500人が仮設住宅に住んでおり、ここから出られるのは3~4年先だという。気分が滅入ってしまうだろう。最優先の案件のはずだが、被災から6~7年も待つなんて・・・。
 

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奥州藤原氏の華麗なる世界

2014-10-08 17:06:48 | 散策
今から800年余り昔のこと、東北に奥州藤原氏によって燦然(さんぜん)と輝く人口十数万の一大都市・平泉が存在した。
戦いのない平和な世界・浄土思想を理想として、東北全土に100年間、戦のない平和な世界がもたらせられた。しかし、中央や西国に於いては源氏と平氏が死闘を繰り返した時期であり、公家社会から武家社会に時代は大きく変わろうとする転換期であった。
 
藤原氏
奥州藤原氏は、南は現在の福島県にある白河の関から、北は青森県にある外ヶ浜までを制圧しており、それは、現在の東北地方をすっぽり治めていたことになる。
                    
基礎をつくった初代・清衡は、幼いころに父を失い、その後の戦いで弟を失った。
(後三年の役において、敵味方に分かれて戦い、結果的に殺してしまった。)
その経験から、中尊寺を建立。建立の際の法要で、
『鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える・・・』
と、読み上げた。
これは「みちのく」といわれた辺境の地・東北に、仏の教えによる平和な理想社会である「仏国土」を建設する願文である。
                    
二代・基衡は、清衡の教えである浄土思想を守り、一層の普及を尽くした。
毛越寺を建立し、浄土庭園を造り、仏教都市づくりに着手した。
                              
三代・秀衡は、基衡が手掛けた毛越寺を完成させ、当時の都であった平安京をしのぐ無量光院などをつくり上げた。
この時代が、藤原氏が最高を栄華を誇った時代とされる。しかし、平家追放の依頼を断ったり、義経をかばったりしたことなどで、平泉の栄華に影を落とし始めた。          
          
秀衡が建立した無量光院は、毛越寺より一回り大きい規模で、宇治平等院をまねて、平泉の猫間が淵を宇治川、束稲山(たばしねやま)を宇治の朝日山に見立てた背景とし、中央の池には金鶏山を映し中島に本堂を建てた絢爛豪華な新院であったたと言われる。
                    
四代・泰衡は代をついで直ぐに、鎌倉幕府による奥州征伐によって滅ぼされた。
          

藤原氏の金
奥州の黄金は、藤原氏が治める以前から、豪族によって利用されてきたが、後三年の役で権力を手中にした清衡によって、一括管理、利用された。
この時代は、金の鉱山を掘って、金を精錬する技術はなく、川から採る砂金であった。
当時、砂金が採れるのは、奥州で、特に気仙郡(今の岩手県)や本吉郡(宮城県)といった北上川流域であった。宮城県北東部の太平洋沿岸、石巻、気仙沼・本吉地方は、産金を行った坑道の跡地がたくさん残っていることもあって、「黄金海道」と呼ばれている。
どれだけの量の黄金が採取されたであろうか、藤原氏三代、100年でおよそ10tと言う。コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時のヨーロッパ全体で20tに満たない量であったというから、その量は一地方都市としては膨大な量と言えよう。
                    
一番黄金文化が栄えたとされる三代秀衡の時代は、当時の都を凌ぐほど、平泉は金に溢れていたと言われている。
                    
マルコポーロが、東方見聞録で日本を紹介した『ジパング』に登場する「黄金で作られた建物」は、中尊寺がモデルとされる。
                   
また、黄金は海外からの貴重な品を買う代価となり、その品を献上品に使い、政治的に安定した、戦のない平和な世界を築く資金にもなった。
                    
清衡は、中国の宋から仏教経典一切経5千数百巻をおよそ4tの金で購入している。この経典は、千人の僧侶が8年をかけて金文字と銀文字で書き上げたものだという。
また、金は朝廷への献上され、鎌倉幕府が黄金5千両に対し、藤原氏は倍の1万両であったという。献上の多さによって奥州の平和を確保していたようだ。
          
平泉の黄金文化を象徴は中尊寺金色堂であるが、極楽浄土を表現するために使用されている莫大な黄金の多さもさることながら、木材のほとんどが南洋産の貴重な伽羅木(きゃらぼく)で占め、遥か南洋の海からシルクロードを渡ってもたされた夜光貝の螺鈿細工(らでんざいく)もある。建築家や工人までを海を渡って招き入れる独自の海運ルートをも確立した資金にも黄金が使用されたであろう。
最近になって、金色堂内や邸宅跡から小石状の高純度の金塊が発見されていう。当時は砂金きりなかったと思われていたので、藤原氏はほかにも高純度の金塊を案出する隠し金山があったのではないだろうかと想像をめぐらす研究家もいるようだ。
          
このように、藤原氏の戦いのない平和な世界・浄土思想である「仏国土」を建設するにあたって、裏には潤沢な黄金という資金があって、その黄金が惜しみなく使われたことによる。
                 

浄土思想
藤原氏の保護のもと、平泉に開花した仏教文化。盛時の中尊寺には、寺塔60余宇、禅坊300余宇と言われる。
贅を尽くした荘厳のありさまは、中央の平安京に比肩するもので、まさに地上に極楽浄土を再現したごとくであったと言う。
清衡は、白河の関から青森の外の浜までの道1町ごとに、卒塔婆を立て並べ、中尊寺が中心であることを周知させた。村人は中尊寺に年貢や薪を届けており、また、中尊寺の僧が主体的に村の小さなお祭りにも参加し、思想の普及、啓蒙活動も盛んに実践されていたようだ。
          

藤原氏栄華の軌跡
平泉文化遺産センターでは藤原氏が奥州平泉で繰り広げられていた栄華の軌跡の一端が、模型で表現されている。それは公家文化と武家文化が混在した華麗なる文化である。
17万騎を抱えていた藤原氏が、頼朝の奥州征伐で、裏切りにより20日という短期間あっけなく敗れてしまった。頼朝の軍勢は、28万4千騎であった。
同時に宮中をもしのぐ雅な奥州藤原文化が消滅した。


先の東日本大震災の大津波によって、岩手県内の博物館をはじめとする文化施設が多く被災した。とりわけ陸前高田市立博物館は、施設が頬水没し、多くの展示・収蔵資料が流失した。それを免れた資料も全て海水に浸かってしまった。その中に藤原氏に関する金鉱の資料も含まれていたことを加筆しておく。
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東北ドライブ2千キロの旅

2014-10-07 14:56:28 | その他
今回の旅は、岩手・青森両県がメインで、一部宮城と秋田が入る旅であった。
9月末から10月の初頭にかけて、紅葉前の観光客が多く訪れる合間にと旅立った。

我が家を6時前に出立、高速を乗り継ぎ、一路平泉に。
厳美渓
栗駒山を源流とする磐井川沿いに、甌穴(おうけつ)などの特色ある岩が並ぶ渓谷美と、紅葉が見事な観光地として、国の天然記念物に指定されている。
 

西光寺・達谷窟毘沙門堂
「平泉の世界文化遺産」の関連資産のひとつ。
801(延暦20)年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷を討伐した記念として祀った窟(いわや)の毘沙門堂。
北上川の支流、太田川の谷を分岐する丘陵に、達谷西光寺があり、境内の西側に、東西約150メートルの岸壁があり、その下方の岩屋に窟毘沙門堂がある。
また、その西側壁面には、大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる岩面大佛が刻まれている。
 

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺産群
「平泉の世界文化遺産」は、2011(平成23)年に登録され、構成資産は、次の5施設である。
中尊寺
寺伝では、859(貞観元)年、円仁の開山とされるが、実質的な開基は、12世紀の初頭、藤原氏初代・清衡(きよひら)が多宝寺を建立したことが創建と見られる。
藤原氏三代ゆかりの寺として知られるが、平安時代の美術工芸、建築の粋を集めた金色堂は、「平泉の世界文化遺産」を代表する文化財だけあって、日曜日に参拝したこともあり、観光客が多かった。それも意外と若者が沢山参詣しているのには驚く。駐輪場の係員に話を聞くと、富岡の世界遺産に奪われて観光客が減っているという。やはり日本人は新しもん好きなのだろう。
幾つかの伽藍を参詣しながら金色堂に向かう。途中の本堂では小学校女生徒のコーラスが唱歌を歌っていた。
中尊寺は、高校2年の団体旅行で訪れて以来である。
 
観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
藤原氏二代当主・基衡の妻が建設した、毛越寺に隣接している寺院跡。
南北に延びる寺域の北部に2つの阿弥陀堂があり、中央部に池があり、数少ない平安時代の庭園遺構として評価されている。
 
無量光院跡(むりょうこういんあと)
藤原氏三代当主・秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院であった。当時は平等院の規模をも上回るきらびやかな寺院であったが、度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみである。
敷地の西には金鶏山が位置していて、配置的に夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように庭園から見え、浄土思想を現わしていた。
近くには、藤原氏の政庁・平泉館(現在の柳之御所遺跡)があったされる。
   
毛越寺(もうつうじ)
夕方の毛越寺で、観光客は幾人もおらず、静かな庭園であった。受付の女性とこのことを話すと、認識としては差があることは承知していて、特に若者は平泉の世界遺産=中尊寺金色堂と思っているようだと話していた。
 

1泊目はこの近くに宿をとる。建物は古かったが、値段の割に料理が最高で、突立てのあんころ餅、具だくさんのお吸いものがどんぶりほどの器で出たり、牛肉は当然、エビやウナギの蒲焼までがテーブルをにぎわせた。メロンとグレープフルーツのデザートも当然。おかげで友人が持ってきたブドウを食べることができなかった。
金鶏山(きんけいさん)
2日目の最初は、すぐ近くの金鶏山に向かう。
中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する都市平泉の空間設計の基準となった信仰の山という。藤原氏三代秀衡が、無量光院の西側に一晩で築かせたという伝説が残る。
山頂に雄雌の金の鶏を埋めたことにちなにで呼ばれたと伝わる。しかし、発掘では金の鶏は見つからず、カメや壺が沢山発見されたという。この山は、お経を埋めた経塚山だったようである。
金鶏山登山道入口に千手堂と、義経妻子の墓である五輪塔が建てられている。
義経は頼朝の命を受けた藤原泰衡に襲撃され、自らの手で22歳の正室・郷御前と4歳の女の子を殺害したのち自害したと伝わる。
金鶏山は、100m足らずの標高で、登山道入口付近には栗の木が多く植えられており、少々粒が小さい実が沢山落ちていた。
途中で熊よけのベルを鳴らしながら下りてくる、地元の年輩者に出会う。本当に熊が出るのか尋ねると、「昨年は出なかったね。」と返ってきた。前日も近くの道で東北自然歩道「新奥の細道」について地元の方に尋ねると、今は熊が出る可能性もあるので閉鎖しているという物騒な話も聞いていた。
    

東日本大震災被災地を進む
黄金色の畑の中を海岸線へ
平泉をあとに、海寄りへ進む。「絆―ふるさとはまけない!」の看板が読める。
 
奇跡の一本松(陸前高田)
大津波に被災したユースホステルをバックに一本松がたっていた。
時刻は、丁度夕刻の5時。スピーカーから時報を教える音楽が流れた。
「ふるさと」である。
憎い演出に思わず目頭が熱くなり、一本松に向かい黙とうをする。
 
土地のかさ上げ
住いを流された場所に再び住むのであろう。地面をかさ上げしている工事を至るところで目にする。典型的なのは陸前高田の町である。長いベルトコンベアが四方に上空を走っている。
これから、土を固めて安定させるのだから、この上に家が建つのは何時なのだろう。
 
被災
5階建の建物が4階まで被害にあっている。基礎だけ残っている住居跡もたくさん見かける。
国道45号線を北上すると、津波が押し寄せた位置の標識を至るところで見かける。こんな高いところまで来たなんてと、改めて大津波の恐ろしさを知る。
写真は撮れなかったのであるが、被災した店舗をそのままにして、その2階で営業をしている理髪店を見かけた。そこも高い場所だった。
 
復興の土音
宮城県気仙沼、陸前高田へ進み、2日目の宿は、越前高田。
津波で宿は流され、2年間仮設住宅で生活し、昨年新しく今の場所に旅館を再建したという。以前は湾の延長線上にあり、大津波をもろにかぶったと想像する。陸前高田市の旅館では、最初の再建で、そのあとが続かないという。資金という壁に阻まれているのか。
3日目は大船渡、石巻、宮古と東日本大震災の被災地の町を、早く復興して欲しいと願いながら車を進める。
 

リアス式海岸を北上
小学校の社会科の授業で、連続して鋸の歯のようにギザギザに連なっているような地形を「リアス式海岸」というと習ったギザギザの断崖。今は「リアス海岸」と教えているようだ。
3日目は、その海岸の幾つかを回りながら、北上した。台風17号の影響で荒波がたち、写真を撮るにはもってこいのシチュエーションであった。
巨釜・半造
 
碁石岬・穴通磯
 
浄土ヶ浜・青の洞門
 
北山崎・黒崎
 
4日目の早朝、ここ北山崎を訪れた。前日は北山崎より少々北に上がった黒崎の国民宿舎に泊まる。
村営と公営の宿だけあって、復興に携わっている土木工事関係者が観光客の数倍宿泊していた。1年間仕事をして一旦帰り再び来たのだが、人手が足らないため、人数を増やしてまた戻ってくるという職人に出会った。
北山崎は、冷害の原因ともなる、冷たく湿った北東風または東風(こち)である「やませ」が吹き付ける場所としても有名である。
東北人は働き者なのか、早い時間から観光客相手の店が開いている。軽の車で野宿をしていた一人旅の男性も見かけた。
この高さ200mの大海食が連なる崖の景色が、JTBの「自然資源・海岸の部」で唯一、「特A」に格付けられているという。

八甲田山
八甲田山といえば、明治の陸軍雪中行軍遭難事故である。ロープウェイ山頂駅にも映画撮影時の写真が展示されている。
日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した日本陸軍は、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、冬季軍事訓練を準備していた。その冬季訓練を八甲田山中で行い、参加者210名中199名が死亡する遭難事故である。それは、ロシア戦争勃発2年前のことだった。
 
新田次郎の原作を映画化する撮影も、ここで行われたのだが、過酷なロケだったと、当時売れない時代の大竹まことさんが、撮影の模様をEテレのある番組で話されていた。過酷さは半端ではなく、俳優や助監督までが逃げ出したという。撮影を待つまでのエキストラ人は、雪に穴を掘って暖を執り、自分の身は守ったという。主演、北大路欣也さんの「天は我々を見放した」の台詞は、あまりにも有名で当時の流行語にもなった。
山頂で埼玉県の深谷から来たという御夫婦に出会った。おふたりは、日本海を走って、津軽半島から南下して来たという。我々は、太平洋側を通って北上して八甲田に来た。面白い巡り合わせだと思った。宿を決めない旅だという。それに比較して、5泊全て宿を予約して旅する我々。
その4日目の宿泊は、十和田湖畔。温泉宿は15軒ほど点在するという。
泊まった宿は、料金の割には予想外に大きなホテルで、部屋も格子戸を構え、ほかの部屋より高級な感じ。バス・トイレ付の12畳。予約は電話でカニ+牛肉の部屋はおまかせコースとしていた。旅館に露天風呂があったことで宿を決めたのである。浴室入口には、2階から地下1階まで流れ落ちる豪快な人工滝もあった

奥入瀬渓流
今回の目玉のひとつ。
十和田八幡平国立公園に属し、十和田湖から流れを発する奥入瀬川の14kmの渓流である。
当初、電動自転車を借りて渓流を回る予定であったが、前日八甲田山から湖畔の宿に向かう際にこの渓流沿いを車で走ってみると、狭いものの駐車スペースが、たくさん点在していることが分かった。その上、紅葉時期には早いので通行する車両も少ないので、車移動でも十分可能なことがわかった。
そこで、8時過ぎに宿を起ち、流れに沿ってコースの中間の石ヶ戸までの渓流を堪能した。この道は、滝も多く存在し、「瀑布街道」とも呼ばれている。
 

十和田湖
青森県と秋田県にまたがる湖で、十和田八幡平国立公園内に位置した、十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖と言われている。大きさとしては国内12番目。
 
十和田神社
恐山と並び東北二大霊場と言われる。湖畔の乙女の像の奥に神社は祀られている。
祭神は日本武尊であるが、明治の神仏分離までは東北地方に色濃く残る水神信仰の象徴であったと言われており、奥の院には青龍大権現が祀られている。
また、神社から山中奥には占場であり、吉凶を占う場として信仰を集めている。現在は占場へ下る梯子が通行禁止となっている。それでなくとも参拝した時は、うす暗い時刻であったので本殿までとした。
拝殿は、細かな彫刻が施され、重厚で、かつ荘厳さを感じる。
 
乙女の像
十和田湖を世に出した功労者3人を讃える目的で像を建立したという。「智恵子抄」で知られる高村光太郎、1953(昭和28)年の作品である。
今や十和田湖のシンボルとなっているが、像を見ると現在の女性と比べて、ウェストが太くてごっつい感じがする。当時の女性の体型なのだろう。
     

八幡平
5日目の宿は、平泉の入口である東北自動車道の一関インター近くのホテルに予約していた。予定は全て終えたが、ホテルに向かうには時間が早いので、計画から外した八幡平に向かった。
向かって追加したことが正解であり、きれいな紅葉がみられた。
 
深田久弥の日本百名山に挙げられている山であるが、地形がゆるやかで、沼や湿原が多い。
伝説によると、奥州蝦夷征伐に訪れた坂上田村麻呂が、山賊の残党を追う途中に八幡平にたどり着き、その極楽浄土のような景色に感激した。そこで、戦の神である八幡神宮を奉り戦勝を祈願。残党を討伐後に再び訪れ、戦勝の報告を行うとともに、この地を「八幡平」と名付けたとされる。が、これは史実ではないようだ。

八幡平を堪能して、高速に入る。5泊の宿は一関である。宿に入るには時間は早い。それでは1日短縮し一路帰途にと、740キロをばく走する。
今回の東北旅行、遡ると4年前の山形の旅で、越境して岩手まで足を延ばす計画をしたが、その時は一寸時間がかかりすぎということで、岩手は翌年に持ち越したのである。
だが、翌年不幸な地震が発生。それからのびのびとなってしまった。計画を膨らませ、やっと実現した東北旅行は、連日向天気の走行2千キロの旅であった。
昨年の瀬戸内の旅同様、「運転手は君だ」で、助手席に座っていれば目的地に着いてしまうドライブであった。
頼もしい50年来の友である。感謝、感謝。

 
赤い十文字草とコケモモ。4日目、八甲田山に向かう途中に買い求めた。赤い十文字草は珍しい。車の旅ならでのおみやげ。
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