あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

三溪園9月の花

2015-09-20 16:01:45 | 三溪園
          

          

彼岸花
          
          ウィキペディアで彼岸花を調べたところそこに出てきた花の写真には一緒にアゲハ蝶が写っている。
             この写真パクリではない。偶然とは恐ろしい。




          

          

          
彼岸花は、マンジュシャゲ(曼珠沙華)とも云われるが、他に地獄花、葬式花、死人花、ハッカケババアなど別名が最も多い花だと云う。因みに百恵ちゃんの歌は、曼珠沙華と書いて「マンジューシャカ」と読む。
原産地は中国で、有史前に帰化した植物だそうだ。
根に毒があるためモグラやネズミの侵入防止のためあぜ道に植えられれるそうだ。そういえば、彼岸花の名所、伊勢原の日向薬師付近では田んぼのあぜ道で見事に咲いている彼岸花を見た。
地下茎の一種、鱗茎(りんけい)はでんぷん質なので、毒を水でさらし除去して戦時中の食料がない時代は食したとのことだが、本当なのだろうか?



          

          

          
秋の七草のひとつ。
萩寺と称するお寺が各地に存在しているようだ。地元にも先代の住職が参道に萩を植え萩寺と呼ばれる寺がある。


芙蓉
          

          

アザミ



ミズヒキ草



久々に晴れた土曜日、彼岸花が見ごろと云うので三溪園を訪れる。
この他カラスウリの実やツリガネニンジン、ホトトギス、ナンバンギセルの花なども見られようだが探し出せなかった。
この週は、とても忙しかった。
花を愛で、その後は八聖殿で歴史に浸たり、リフレッシュさせた。
          
八聖殿は「本牧 丘の上の小さな博物館 歴史と花の穴場」をキャッチフレーズにしてこの時期、館長自ら手をかけたヒマワリが見事に咲いているはずなのだが。
今年は7月上旬の長雨にやられ、種をまきなおしているので残念ながら小さな花を入口前に咲かしていた。
ここは、アジサイの花が三溪園より見事な花を咲かしている。


訪れた日:2015.9.19

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梅雨の晴れ間の三溪園2015

2015-06-26 13:16:28 | 三溪園
ほぼ平年並みの梅雨入り、梅雨の晴れ間の土曜日に三溪園に訪れる。桜以来である。
この季節の花は、半化粧、菖蒲、紫陽花それと蓮だろうか。
 
半化粧(半夏生)
ドクダミ科の植物で、日本では、生育に適した土地が減少していることから自生株は近年減少傾向にあり、地域によっては絶滅が懸念されていると云われる。
名前の由来は、花に近い葉っぱの一部が白く変化し、花よりも目立つので、「半化粧」とする説と、七十二候のひとつ、半夏生(太陽の黄経が100°になる日。7月2日頃)の頃に花を咲かせることに由来する説がある。
          
          

菖蒲
          
          
          

font color="green">●紫陽花
          
          
          
          
          
          
          
          
          


          
          

上海横浜友好園
友好都市・上海が、建築寄付のお礼に寄贈された。
六角形の二重屋根の建物は湖心亭。
池中には大理石の灯篭が配置され、白蓮の花が現在咲いている。
背景となっている三溪園の緑と崖が独特の雰囲気を醸し出している。
但し、老朽が激しく入園禁止になっている。
          
          
          


訪れた日:2015.06.20

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三溪園・松風閣

2013-11-21 10:14:54 | 三溪園
三溪園の正門から大池を巡り、茶室・林洞庵の脇通り、その先右手の石段を上って行くと三溪園シンボルの三重塔にあたる。
その先、右手、観音様を過ぎて進んで行くと、かつてはレンガ造りの山の上の別邸・松風閣が建っていた。今や崩れ落ちて見る影もないが、その建物には明治後半から大正期にかけての原三溪の歴史が刻まれている。
今回、平成22年に発掘調査を行った模様の講演を聴講したので、当時の原三溪別邸・松風閣を思い巡らい綴った。

         

原三溪の前身、青木甲太郎は美濃国(岐阜県)に1869(慶応4)年に生まれる。時代は、あと2週間余りで明治に代わる世であった。
青木家は素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにも係っている。
幼少甲太郎は、神童と呼ばれ3、4歳の時は絵柄で百人一首の人名を覚え、5、6歳で寺子屋に通ったと云われる。
16歳で上京し、翌年東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の漢字と歴史を教える助教師を務める。
1892(明治25)年、女学校の教え子である横浜の豪商・原善三郎の孫娘、17歳の屋寿(やす)に見初められ、結婚し、原家に入る。甲太郎23歳。 ふたりのゴールは簡単ではなく、校長である跡見花蹊(あとみかけい)等の仲介があったからと云われる。
     
ふたりの結婚から少々前の1887(明治20)年ごろにレンガ造りの山荘・松風閣は養祖父の原善三郎によって建つ。野毛の本宅もレンガ造りの洋館であった。
本牧に移った後、その洋館は代々横浜市長の庁舎として貸し出され、関東大震災で破壊される。その住居跡は現在、野毛山公園の一部になっている。
善三郎の跡を継いだ甲太郎は本宅である「鶴翔閣」を完成。上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることからその名がついたと云う。
この頃から、富太郎は、この地、三之谷の地名から三溪と号するようになった。
三溪は母方の祖父が画家であったDNAを受け継ぎ古美術のコレクションにも力を入れ、松風閣で展示し、その蔵に保管していたようだ。
そして、1906(明治39)年、現在の外苑部分を無料で開園すると、松風閣は芸術家、文化人をもてなすゲストハウスとなった。
大正期に入り、三溪の強い要望で、下村観山は十二天海岸の仮宅で「金銀四季草花図」を描き、松風閣の襖絵となった。三溪はこの部屋を「観山の間」と呼んだ。
          
観山はその後、三溪園の梅の木をモデルとして「弱法師」を描く。また、横山大観も松風閣に滞在し、「柳蔭」を描いている。
1916(大正5)年、アジアで初のノーベル賞を受賞したインドの詩聖タゴールが大観の紹介で来園し、松風閣に2か月半滞在する。
その際に、松風閣の窓を開けた途端に一羽の鳥が飛び込んできて、即興で「さまよえる鳥」の詩が生まれたと云うエピソードがある。
              さまよう夏の小鳥は
                  窓辺に来鳴きて 飛び去り行く
              うたわぬ秋のわくら葉は 
                  風のそよぎに
              はらはらと 窓のほとりに 散りかかる


松風閣に滞在中のタゴール

    
三溪が美術品を収集する力の入れ方が、並はずれた熱意をもって入手した例として、絵画「孔雀明王」の購入がある。
日露戦争が始まる1年前のこと。明治の元勲・井上馨所有のこの絵を見て、三溪は感動でその場を一歩も動けなくなった。
縦1.49m、横0.99mの平安時代後期のこの絵を三溪は大枚をはたいて入手した。
のちに、この絵を蔵から出して松風閣の床の間に掛けることは、原家にとって一大事であったようだ。
「孔雀明王」がかかると、下の家「鶴翔閣」に知らせが来て、家族は大急ぎで松風閣に駆け上がったという。
 
この階段を駆け上がると松風閣に

下の地図は茶会を催した時に描かれたものを松風閣付近をアップした。それをみると、松風閣は複雑な形をしていて現在露出している部分に比べもっと大きかった構造であったと想像できる。
         
当時、松風閣の崖下は海となっていて海水浴や潮干狩りが楽しめたと云う。
昭和30年代(1955~64)に埋立てが開始され、その海は本牧市民公園となっている。



展望台・松風閣が木々の合間から望まれる

 
コレクションの美術品は、晩年の夫妻の住いとなった「白雲邸」の蔵に1920(大正9)年に移された。
そして、1923(大正12)年の関東大震災で松風閣は崩壊した。

手前の松風閣跡と奥の展望台・松風閣

一昨年行った人力による発掘調査結果をここに追記すると、対象の20平方メートルの発掘範囲内には、トイレはあったが、生活臭を感じさせる什器などは発見されなかった。
そして、レンガの製造会社の創立から考えると、養祖父の没後に美術品収蔵用として増築した建物と結論されている。

伊藤博文が名付け親と云う山之上別荘・松風閣






アーチ状のレンガ積み


外壁は堅強に焼かれた耐火レンガで、角は丸みを帯びている


刻印によって製造メーカーが判明し、建てた時代も解った
 

これが美術品を保管していた建物だとしたら、晴れた日には遠く房総までが見渡せたと云う、養祖父が建てた松風閣は跡形もないのだろうか、それとも埋もれて発見されていないのだろうか。


                資料:八聖殿歴史特別講座             
                    原三溪物語 神奈川新聞社刊
                     マイウェイNo.77 はまぎん産業文化振興財団刊



海側から取ったと思われる松風閣


                    前回の三溪園 : 三溪園11月の花

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三溪園11月の花

2013-11-19 17:55:14 | 三溪園

三溪園 南門


ツワブキ


ツワブキ


ホトトギス

      
  サザンカ                                 ムラサキシキブ
















紅葉は








紅葉はまだ浅いので


                    前回の三溪園 : 三溪園8月の花

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三溪園8月の花

2013-08-04 16:19:20 | 三溪園
















朝顔展は最終日だったので花も疲れていた




三溪園7月の花でも蓮の花を撮ったが殆どが閉じていたので早起きして再挑戦










泥の中から清らかな花を咲かせることから、俗世間から現れたすぐれた人材にも例えられる蓮は、創設者原三溪がとりわけ好んだ花である。
現在では、三溪園を入って正面右側の蓮池に咲いているが、三溪在世中は大池一面に植えられていた。
蓮の花が美しく池を彩るころになると、三溪は親しい人を招いて、舟遊びの趣向で蓮見の茶会を催したそうである。
また、三溪が亡くなった時も、最後を飾った花は園内から切り取った数本の蓮の花であったそうだ。
(三溪園資料より)

                    前回の三溪園 : 三溪園7月の花

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三溪園7月の花

2013-07-22 17:04:33 | 三溪園



新聞に三溪園の「早朝観蓮会」の記事が報道されていた。
それによると、
通常は午前9時開園だが、8月11日までの土、日曜日は朝6時から入園、観賞できる。
薄ピンク色の大きな花が特徴の原始蓮が、約500平方メートルの蓮池に広がる。見頃は午前7時ごろで、9時すぎには花びらは閉じてしまう。ひとつの花の寿命は4日間。2日目が最も美しい。

という。




原始蓮は花径が27cm、花弁の数25枚で、大阪府に自生し、府の天然記念物に指定されている。蓮根が太いことから食用にもされていた。原始的な蓮であることから大賀博士によって命名された。古事記の中に詠まれていて、5世紀ごろに咲き誇っていたという。




大賀博士といえば大賀蓮が知られているが、こちらは千葉県で発見された古代蓮を指すようだ。古代蓮は約1400年~3000年前に生息した蓮で、花の大きさは原始蓮と同じくらいであるが花弁の数が17~18枚と少ない。花の色は濃いピンクというようだ。



この画像は、残念ながら陽が南天に上がっている時なので花が閉じてしまっている。綺麗に開花している蓮を鑑賞するのなら8月11日までの土、日曜日の早朝にどうぞ。
              ひらいたと 思ったら
              いつの間にか つぼんだ

わらべ唄にあるように蓮(レンゲ)の開花時間は短いようだ。

 

今三溪園の見ごろの花は、案内によると9種ほどのようで、その中で神奈川の県花であるヤマユリが南門付近に咲いていると云うので探したが、花の咲いていないヤマユリの株がひとつあっただけで開花した株は見つからなかった。


三溪園をその南門から出る。
そこは本牧市民公園で上海横浜友好園という庭園がある。


六角形の二重屋根が特徴的な湖心亭




水連


上海横浜友好園は、横浜と上海が友好都市となって15周年を記念して、資材を上海から運んで1989(平成元)年造られたという。
現在は老朽のため庭園内には入れない。
ここは海を埋め立てた地で、池の部分は海だったという。


1970年廃車のD51




旧国鉄横浜機関区高島車庫で使用


公園内にはD51や転車台も置かれている。


                      関連  :  三溪園6月の花
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三溪園6月の花

2013-06-16 16:35:47 | 三溪園


三溪園 6月の花  

花菖蒲






            


今月は、小石川後楽園に始まり、岡山後楽園、高松の栗林公園そして今回と公園めぐりをして花菖蒲を愛でたが、これまでは盛りを過ぎた花ばかりであった。
それが三溪園の花菖蒲は今が盛りの花ばかりであった。
思わず笑っちゃってラッキーと言葉が出た。

アジサイ
 

 

 

 
アジサイは庭園の様々な場所に咲いていた。

スイレン
 
園の花暦の案内でスイレンは5月中旬から咲くと書かれているので、咲いているだろうと思いきやまだまだの状態だった。
園内で配布している「早朝観蓮会」も7月中旬からであった、残念。

金糸梅(きんしばい)

南門に続く道にひと株咲いていた。
中国原産で、江戸時代中期の1760(宝暦10)年に渡来したといわれる。
花の形が梅に似ており、色が黄色であることが名前の由来である。

ホタルブクロ
 
子どもが袋のような花にホタルを入れて遊んだことに名前は由来するという。

半夏生(はんげしょう)
 
ドクダミ科の多年草。
花期が季節を表す七十二候の半夏生(7月2日ころ)のころであるからとも、或いは葉の下半分が白色なので半化粧の意であるともいわれる。
花期に葉が白くなるのは、虫媒花(ちゅうばいか)であるために虫を誘う必要から、このように進化したのではないかといわれている(白くて目立つ)。


花に誘われて、案内の逆コースを歩いて行くと、いつもは開いていない建物の戸が開いていることに気がつく。
財団設立60周年記念ということで公開しているそうで、ここでもラッキーと思った。

旧燈明寺本堂(きゅうとうみょうじほんどう)
 
                 
京都府木津川市の燈明寺(廃寺)から移築。室町時代1457(康正3)年建築。

旧東慶寺仏殿
 
                 


旧燈明寺三重塔
               



 
本堂と同様。関東地方にある木造の塔としては最古。
普段眺められぬ景色もたっぷりと。

旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)
 

 
豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を納めるための建物。桃山時代1591(天正19)年建築。

臨春閣
 
 
 

 



 
紀州徳川家初代藩主・頼宣(よりのぶ)が紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築。江戸時代前期1649(慶安2)年建築。

聴秋閣
 
 
京都・二条城内にあったといわれる。徳川家光、春日局よかりの楼閣建築。江戸時代前期1623(元和9)年建築。

次の予定があって、昼食も執らずに回って、出入口近くに行くとこんな案内があった。

案内によると10棟公開だと、全ては回り切れなかった。
重要文化財の見学は終了したが、8月には市指定有形文化財の公開がある。


                 関連 : 梅の便りを三溪園から 
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