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歴史散策まち歩きの記録
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平間街道を歩く(鶴見~多摩川・ガス橋)

2013-09-23 21:59:36 | わがふるさと
わが故郷の名「平間」を冠につける街道があった。
資料が乏しくて詳細が不明ではあるが、わずかばかりの資料を参考にして平間街道を歩く。
ちょっとマイナーな歴史散策かも知れないが懐かしさが現れる散策になると思っている。


スタートは京急鶴見市場から歩いて2分の熊野神社からとした。
熊野神社は平安時代初期に勧請された古い神社である。この神社の前の道は旧東海道である。また、神社の脇には古道も通っている。
         
それが平間街道である。その道を辿ると、塚越を経て多摩川・平間の渡しへと北上する。反対方向は、熊野神社角を曲って西に向かうと金川湊(かながわみなと・神奈川湊)を経て帷子宿(かたびらしゅく・程ヶ谷宿の一部)に通じていたと思われる。
平間街道は古く、1370年ほど前の飛鳥時代、646(大化2)年の政変、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)が発生した頃には既にあったといわれる。相州鎌倉街道の一部とされる。江戸時代の東海道以前の古東海道とか奥州街道の一部と書かれた資料もあるが・・・。
 
           旧東海道、金川湊へ                            正面、旧東海道川崎宿へ

スタートして熊野神社の脇の道を進む。東海道線の踏切に差しかかる。ここもラッシュ時は開かずの踏切なのか。脇の跨線橋で線路をを渡ると元宮一丁目。元宮と云うからお宮がここにあった。熊野神社が以前この辺りにあったが東海道線で分断されると云うので現在地に移転したようだ。
道はすぐにふたつに分かれる。平間街道は右手に進む。左手もまた古道である。
その古道は、横浜市水道局の鶴見配水地前にある鶴見貯水池前交差点(鶴見区馬場三丁目29付近)から別所熊野神社、森永製菓鶴見工場の北を通り先ほどの熊野神社の脇を通って東に折れ、川崎宿に向かうという。文化・文政期(1804~1829年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」という地誌にも掲載されている。
 
            熊野神社脇を入る                                 JR踏切

 
        右、平間街道 左、もうひとつの古道                        直線で続く平間街道
この先しばらく何もなく進む。第二京浜を渡り南武線の尻手駅前の国道を横切り北上して行くと、矢向地区に入る。
 
          最願寺に続く尻手銀座入口                           尻手駅前通り
日枝神社、斜向かいに最願寺、そしてその先には良忠寺がある。
日枝神社は現在神社殿を建設中で不似合いの仮拝殿が置かれている。祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、近郷(矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間村の七ヵ村)の鎮守として1638(寛永15)年に創建したと伝えられる。
 
境内の道に面したところに「水害に注意」の立看板があった。
『この地域は、鶴見川や多摩川が氾濫すると浸水するエリアとなっています。以前に比べ堤防の整備が進み、水害に対する安全性は格段に向上しましたが、近年の異常降雨や大型台風、地球温暖化による影響など水害の危険性がなくなったわけではありません。
ハザードマップを確認し、台風時の情報収集をしっかり行いましょう。』とある。
スタートした熊野神社も鶴見川や多摩川の被害を同様に受けていた。鶴見川の被害は受けるとは思うが多摩川の被害まで受ける地域なのかと驚きである。
先だっての京都・渡月橋付近の水害を思うと今日的なインパクトある立札である。日常の備えが大切だ。
         

最願寺は、真言宗寺院として1308(延慶元)年に創建、慶長年間(1596~1614)に東本願寺に帰依して真宗に改め中興したという。
        
境内には板碑(いたび)が祀られている。鶴見区の解説によると『緑泥片岩の板碑は鎌倉時代後期のもので、高さ165cm、彌陀三尊の種字(佛尊を表す梵字の組み合わせ)と観無量寿経の一節が刻まれている。寺の開山の墓とも云われる』とのことで、新編武蔵風土記稿にもその内容が書かれているという。
良忠寺は1240(弘安元)年の創建と云われ、鎌倉幕府北条執権時代の古い寺である。
境内には近くから移した矢止の地蔵が本堂左に祀られている。
1333(元弘3)年新田義貞が鎌倉北条氏を上州より攻め合戦となった際。義貞の次男義興が多摩川の矢口の渡しから放った矢が唸りをあげてとんでいき、塚越の塚を越え、矢向の老松の幹に突き刺さった。矢には地蔵菩薩の名号が書かれてあったのでこの松の下に地蔵を祀り、「矢止の地蔵」と名付けた。この地はこれまでの夜光村が矢向村と文字が変わったという地名のいわれにもなっている。
         
 

良忠寺からマンションと矢向幼稚園の間の道を進んでいくと、道沿いに二ヶ領用水跡碑がたてられている。
 
          二ヶ領用水跡碑                               用水を埋め立てた道
二ヶ領用水は橘樹(たちばな)郡稲毛中野島及び宿河原の2ヵ所に取水口を設け、多摩川より引水して橘樹郡に灌漑する全長32kmの用水路で、生活用水、農業用水に利用された。
1597(慶長2)年、小泉次大夫が用水堀総奉行となって開削した。次大夫の功績をたたえ別名「次大夫堀」とも云われる。この通りは二ヶ領用水を1972(昭和47)年に埋めたと云う。
この先も二ヶ領用水や小泉次大夫の話題が出てくる。
              関連 : 400年記念の二ヶ領用水を下る
                    400年の二ヶ領用水

貨物線の線路を渡り鋭角に右折、すぐに左折するとキャノンの事業所ビルが建っている。この辺りから塚越地区になる。
もと塚越村であるが、ここは昔古い塚があったため塚越という地名の由来と云われる。また、矢向地区で説明した新田義興が多摩川の矢口の渡しから放った矢が塚越の塚を越えて行ったことから塚越となったともいわれる。
 
             貨物線路                        キャノン事業所前の真っ直ぐに伸びる平間街道
南武線の変則六叉路と複雑な踏切を渡る。踏切を渡ると塚越地蔵が祀られている。年齢不詳で云われが分らない。
 
          変則五差路の南武線踏切                           年齢不詳の塚越地蔵
一週間後、ここを訪れた際、お彼岸で供養をされた様で、小さな塔婆に南武線事故被害者の供養と書かれていた。

旧道らしく寺社が道に面して並ぶ。
まず摂取山浄土院東明寺。東明寺は、1589(天正17)年、浄土真宗の僧侶が当地に住み浄円坊と称していたが、入寂。後に増上寺の僧侶が住み始めた。1613(慶長18)年、徳川家康が鷹狩りのため小杉の中原街道沿いの西明寺に泊まった際、給仕にあたったこの僧侶が家康から身分を問われ、東にある小庵の主と答えたところ、家康より東明寺と号すよう拝命、その僧侶が開山となる一寺となった。
この、寺のいわれは新編武蔵風土記稿にも書かれている。
         
またこの寺には、江戸末期の作といわれる酒造りの過程を描写した絵馬が残っている、と参道にたつ案内板に書いてある。
         
                         酒造り絵馬コピーの一部

東明寺の向かい側に塚越御嶽神社が祀られている。
創建時期は新編武蔵風土記稿の中でも「勧請の年代詳ならず。」と書かれており、不詳である。
また、この付近に塚越の地名の由来にもなった円墳があり、御嶽神社創建時にこの円墳を崩して神社のために築土したと川崎市歴史ガイドには書かれている。また、その際に刀剣と南北朝時代の板碑が出土されたとある。
小田原提灯のような桶型提灯をたくさん飾った万灯神輿の祭礼が催されている。
         
この散策の後で知ったのだが境内には近くから移された三方向を記す道標がたっているようだ。ひとつに南:かながわみち、右:いけがみみちと刻まれているとのことだ。池上道=平間街道と云うことがここで納得できた。後ほど記するが、品川宿から帷子宿辺りまでの街道の名称が池上道或いは平間街道と呼ばれていたようだ。
一週間後、再び御嶽神社を訪れた。道標を探すためである。その道標はすぐに解った。円柱という珍しい形で、市のガイド板の脇にたっていた。前回何故気にしなかったのだろう。
この円柱の道標に何故にエネルギーを費やしたかと云うと、鶴見の熊野神社から平間の渡しまで歩いて平間街道の証となるものがひとつもなかったからで、この道標が唯一の証と思いBlogに載せるため足を運んだのである。
平間街道とは書かれていないが、平間街道=池上道でも、道があったことが解った。

判別できにくいが『右いけがみみち』と刻まれている


その先下平間小学校の交差点を渡ると下平間地区となり、赤穂浪士ゆかりの寺、平間山称名寺が左手にある。
室町時代の創建で、赤穂浪士ゆかりの品々を所蔵しており、討ち入りの12月14日には公開されている。当日は住職の赤穂浪士の解説もある。
         
 

称名寺の斜向かいに軽部五兵衛の敷地内にある赤穂浪士寓居があった。軽部五兵衛は鉄砲洲にある赤穂藩上屋敷に出入りしていた百姓で、刃傷松の廊下事件以前から藩士とつながりがあった。
         
                           赤穂浪士寓居跡 
元赤穂藩家老大石内蔵助は主君の仇打ちをするため京都を同志9人と立ち、鎌倉鶴岡八幡宮に参拝、川崎宿に1泊した後、下平間村の浪士寓居に着く。
下平間村には10日ほど逗留し、江戸日本橋の宿に向かう。この先内蔵助ら一行は幕府の目がとどき難い東海道の裏道である平間街道を進んでいったのではあるまいか。
ここからは大石内蔵助の気分になって平間の渡しへと進む。では、「各々方、お江戸に向けて出立しよう。」
その先の信号機の道は南武線鹿島田駅に通じる道で商店街である。近くには鹿島田東映(元富士館)や昭和館という3本立ての映画館があって、50円玉1個を親からもらってよく観に行った。駅近くには日活系の映画館もあった。
その先ちょっと道から外れると下平間天満神社がある。菅原道真の七世孫がこの地に定住、道真公を祀り一社を創建したと云う。
         
府中街道を直進する。右手は古市場地区、左手が上平間地区となる。旧上平間村は現在の上平間、北谷町、田尻町で、村名の由来は、「ヒラ」は平坦、「マ」は処を表す語で、たいらなところと云うことのようだ。沖積低地の平坦なところに立地する村と思われる。「カミ」は「シモ」に対するもので、古い平間郷が近世初頭の村切の際に上・下2村に分けられてからの呼称と思われる。県下には伊勢原市南部に上平間、下平間がある。

左手、二車線の道は通称新道と呼ぶ新しい道である。この道を造る際、障害となる数軒の市営住宅をジャッキーアップして移動する作業を学校帰りに見に行ったこともある。今は昔のこと。
 
        手前左右に走る府中県道 奥が新道                     左、新道 右、平間街道
市バスの営業所に着く。建物の位置が知っている時代と変わっている。前の交差点を右に行くと古市場に通じ、左に行くと母校、平間小学校に。
 
          市バス上平間営業所、古市場に                         平間小学校へ

上平間バス停の次は「天神台」。この名は、この辺り本村と呼ばれていた地域からガス橋通りまでの字名である。これから行く上平間八幡大神の斜向かい(上平間306番地)にかつて天神社という束帯姿の木造が祀られている小詞があったことからついたといわれる。バス停名に古い地名が残っていて歴史を大切にしていることがうれしい。
   
      天神台バス停前の変則四差路 直進が平間街道ガス橋へ 中が上平間八幡大神 左が西福寺・平間銀座へ
天神台地域をふたつに分けた道を進んで上平間八幡大神に向かう。この道はかつて川であった。田んぼの用水となる川であって、おそらく南武線の西を流れる二ヶ領用水から分れた川だと思っている。昭和30年代前半に田んぼは埋めたてられ、川は生活排水で汚れ、そのうち暗渠となり上に道が出来た。
 
            西福寺・平間銀座へ                           上平間八幡大神へ
 
上平間八幡大神に着く。
創立年月は不詳であるが、古くからの言い伝えによると多摩川大洪水の際、東京府下府中の上石原八幡宮の社殿が流失し、安置していた御霊が当村に漂着した。そこで住民が1祠を建立してを祀ったと云うことだ。
         
上平間八幡大神前にはかつてテレビ界を賑わした整体師が共同で店を開いていた。人気が出た後都内に移転したようだ。数日前死んだのではと噂が流れ、ツィターに私は生きてますとでて話題となった。
この店の場所には、はるか昔アイスキャンデーを製造販売する店があって、キャンデーやボンボンの製造が眺められて、時の忘れるほど見ていたこともあった。

ここから多摩川土手のガス橋に進む。
このガス橋通りも一方の平間街道である。江戸からの平間街道は多摩川を渡ってガス橋前あたりでふたつに分かれた。
ひとつはこれまで歩いてきた道である。あとひとつはガス橋通りを上平間八幡大神前を通り南武線を平間駅脇で越え、加瀬を通って綱島に至るルートである。

ガス橋に着く。
                  
ガス橋から100mほど下流に多摩川の渡しはあった。その辺りを萩原渕と名付けていたという。
『村の北、多摩川の中に渡船場あり江戸より往来の渡しにて平間の渡しといえり』とある。渡しは1766(明和3)年にはじまった。徳川十代将軍時代のころである。但し10月から3月の乾季は仮橋を架設した。大正期で舟の大きさは6mくらい、10~15人乗りであった。渡し賃は人が2銭、荷車4銭、馬6銭だったという。
         
橋の欄干の左手には銘板、右手には橋史が掛けられている。
橋史によると1929(昭和4)年、東京瓦斯が輸送管を架する際に、地元の要望を容れ、巡視用を兼ねて人道橋を併設した。瓦斯橋の名はこれによる。橋は木造幅員1m半であるが橋脚は広年の拡充を予想して鉄骨鉄筋造りで施工した。
これが初代のガス橋であるが、補足すると架橋2年後に荷車が通れる工事をおこなったとされる。私が記憶するガス橋は木造の床で、数か所幅が広くなっていて、荷車が通行する際の避難スペースが設けられていた。戦後間も間もない当時のことで、床が欠けていて多摩川の水面が覗けるようなところもあり子供心に怖さを感じた。
1960(昭和35)年、現在の形の橋となる。全長387m。こんなに長かったかなと思いながら進む。


ガス橋開通の当日、二眼レフにて撮影。三代夫婦の渡り初めも行われた


多摩川を写す。この写真の中間あたりに夏になると飛び込み台が組まれたこともかつてあった。貧しさの中で遠くに行けない庶民のために娯楽として飛び込み台が出来たのか。川向うの川崎側から眺めた光景が思い出す。
         

平間の渡しは、大石内蔵助一行が渡った以外、赤穂藩お家断絶の際には軽部五兵衛もここを渡り鉄砲洲の屋敷に馳せ参じたという。
また、戦国時代の1569(永禄12)年、武田信玄の武田軍が小田原北条氏攻めの際に矢口の渡しから舟で稲毛・平間に渡った記述が川崎市が発行する歴史本にある。
甲斐の武田軍がこんな遠回りをしたのかと疑問もあった。
たまたま来月10月に横浜市のある歴史資料館が行う歴史散策で南区の蒔田周辺を歩く予定で、その予備知識で調べた中に関連の文章を見つけた。
永禄12年9月武田信玄が北条領に侵攻し、 本体は相模川沿いに南下して小田原城を直撃し、支隊は多摩川沿いに川崎方面から横浜市港北区方面に進撃してきた。とある。
当時、小田原北条氏の出城、蒔田城があって、この城を攻めるときに平間の渡しを武田氏の支隊が利用したようだ。
蒔田城についは改めて。

平間街道も東京都に入った。左手にはキャノン本社のビル群、右手は高層マンション群が建っている。多摩川をはさんで東京都大田区と神奈川県川崎市の風景がこんなにも違うのかと景色の違いに驚く。
         
         
上段が東京都大田区、下段が川崎市中原区の風景


この先の散策は「平間街道を歩く(ガス橋~池上)」に続く。


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