3月にTBSTVで「戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった」という番組が放送され、太平洋戦争末期のこの事件を知った。
1945(昭和20)年8月5日、新宿発長野行きの電気機関車が牽引する8両編成の下り列車が、3日ぶりの開通ということで、列車は大変な混雑状態で、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れで出発した。この時点で、すでに空襲警報が発令されていた。
列車が湯の花(いのはな・猪の花)トンネル東側入口に差し掛かったとき、飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機)に、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。機銃掃射は、1秒間に70発、フィルムカメラを設置している。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した。機関車を保護するために、3両目以降7両の車両はトンネルから表に晒され、反転した戦闘機の銃撃の的となり、犠牲を大きく出した。乗客中、19名だけが富士演習場に向かう兵士で、殆どが非戦闘員の一般乗客であったという。
甲州街道からこの道に入ると 左は中央本線の踏切に 右は慰霊碑に通ずる
湯の花トンネル
碑は、5周忌を前にして地元消防団が建て、その後八王子ロータリークラブの協力で現在の形に至り、慰霊は現在も行われている。
碑には、52名の確認できた犠牲者の名が刻まれている。その名簿を見ると、20歳代以下が20名で、そのうち20歳未満が11人もいた。人生これからだという方々が、これほど多く犠牲となっている。
この空襲は国内最大の列車銃撃だったともいわれている。
この道は、旧甲州街道である。右手に「蛇滝口」のバス停があり、その先に碑に入る脇道がある。向かい側には、雨戸が全て閉ざされている蛇滝茶屋が建っている。
●蛇滝茶屋
高尾山登山口に位置するこの建物は、1903(明治36)年建築で、薬王院参詣の宿泊所・休憩所に利用されていた。また、江戸後期には「ふじや新兵衛」という旅籠でもあった。
軒下には講(参詣するために組織された信仰集団)の名前を彫った参詣札(まねき看板)がずらりと並んでいる。木札を見ると、神田や下谷、浅草、上州伊勢崎など明治末期から昭和初頭にかけての各地の講が趣向を凝らして掛けており、高尾信仰と遊山の結びつきの様を現代に伝えている。
現在では年に一度、湯の花トンネル犠牲者慰霊の集会所として利用されるだけのようで、空襲を受けた当日も、救助の際この家の雨戸を使って、被害者を運んだようだ。
蛇滝茶屋は川にも面しており、銃撃の際身を隠したとされる川がこれであろうか
甲州街道沿いに小川が流れていてそこに石段が短い間隔で架けられている 何のためなのだろうか
高尾駅北口から平日は1時間に1本の「小仏」行きである。登山客や駒木野病院への通院客などで満杯で、10数人ほど残してバスは発車した。
この「蛇滝口」バス停は7つ目、およそ20分である。
JR高尾駅北口2番乗り場 バス奥の建物が高尾駅
戻りは駅までの旧甲州街道の見物箇所を巡った。
●蛇滝口の水飲み場
湧水と言うようだが水源は何処なのだろう。何の解説もない。
●浅川地区の石仏
石地蔵や庚申塔が祀られているが、年代は不明だ。
●念珠坂の石仏
ここに数体の地蔵と「甲州街道念珠坂碑」がある。今は緩い坂道だが、かつては大変な急坂であったため念仏を唱えながら登ったので念珠坂なのだとか。
●駒木野宿跡
この駒木野宿は日本橋から丁度12里(48Km)にあたる。
関所東が「駒木野宿」、西が「小仏宿」と呼ばれるようになったとあるが、何故か駒木野宿の碑は小仏関跡碑の西側に建っている。
●小仏関跡
天正年間(1573~92)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたと言われている。江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所。
関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に当時は間口7間半(13.65m)、奥行3間(5.46m)の番所が設けられていて、概ね4人体制で専従の関守が置かれていた。
この関所は、中里介山の「大菩薩峠」にも出てくる。
奥の石に手形を置き 手前の石に手をついて許しを待った
●駒木野の石仏
●駒木野庭園
建物は、1927(昭和2)年まで小林病院として住居兼用で利用されてきた。大正年間に建造された平屋の母屋と昭和初期の2階屋が組み合わされている。
庭園は枯山水と池泉回遊が組み合わされている。敷地面積は2,900平方メートル(879坪)である。
1945(昭和20)年8月5日、新宿発長野行きの電気機関車が牽引する8両編成の下り列車が、3日ぶりの開通ということで、列車は大変な混雑状態で、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れで出発した。この時点で、すでに空襲警報が発令されていた。
列車が湯の花(いのはな・猪の花)トンネル東側入口に差し掛かったとき、飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機)に、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。機銃掃射は、1秒間に70発、フィルムカメラを設置している。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した。機関車を保護するために、3両目以降7両の車両はトンネルから表に晒され、反転した戦闘機の銃撃の的となり、犠牲を大きく出した。乗客中、19名だけが富士演習場に向かう兵士で、殆どが非戦闘員の一般乗客であったという。
甲州街道からこの道に入ると 左は中央本線の踏切に 右は慰霊碑に通ずる
湯の花トンネル
碑は、5周忌を前にして地元消防団が建て、その後八王子ロータリークラブの協力で現在の形に至り、慰霊は現在も行われている。
碑には、52名の確認できた犠牲者の名が刻まれている。その名簿を見ると、20歳代以下が20名で、そのうち20歳未満が11人もいた。人生これからだという方々が、これほど多く犠牲となっている。
この空襲は国内最大の列車銃撃だったともいわれている。
この道は、旧甲州街道である。右手に「蛇滝口」のバス停があり、その先に碑に入る脇道がある。向かい側には、雨戸が全て閉ざされている蛇滝茶屋が建っている。
●蛇滝茶屋
高尾山登山口に位置するこの建物は、1903(明治36)年建築で、薬王院参詣の宿泊所・休憩所に利用されていた。また、江戸後期には「ふじや新兵衛」という旅籠でもあった。
軒下には講(参詣するために組織された信仰集団)の名前を彫った参詣札(まねき看板)がずらりと並んでいる。木札を見ると、神田や下谷、浅草、上州伊勢崎など明治末期から昭和初頭にかけての各地の講が趣向を凝らして掛けており、高尾信仰と遊山の結びつきの様を現代に伝えている。
現在では年に一度、湯の花トンネル犠牲者慰霊の集会所として利用されるだけのようで、空襲を受けた当日も、救助の際この家の雨戸を使って、被害者を運んだようだ。
蛇滝茶屋は川にも面しており、銃撃の際身を隠したとされる川がこれであろうか
甲州街道沿いに小川が流れていてそこに石段が短い間隔で架けられている 何のためなのだろうか
高尾駅北口から平日は1時間に1本の「小仏」行きである。登山客や駒木野病院への通院客などで満杯で、10数人ほど残してバスは発車した。
この「蛇滝口」バス停は7つ目、およそ20分である。
JR高尾駅北口2番乗り場 バス奥の建物が高尾駅
戻りは駅までの旧甲州街道の見物箇所を巡った。
●蛇滝口の水飲み場
湧水と言うようだが水源は何処なのだろう。何の解説もない。
●浅川地区の石仏
石地蔵や庚申塔が祀られているが、年代は不明だ。
●念珠坂の石仏
ここに数体の地蔵と「甲州街道念珠坂碑」がある。今は緩い坂道だが、かつては大変な急坂であったため念仏を唱えながら登ったので念珠坂なのだとか。
●駒木野宿跡
この駒木野宿は日本橋から丁度12里(48Km)にあたる。
関所東が「駒木野宿」、西が「小仏宿」と呼ばれるようになったとあるが、何故か駒木野宿の碑は小仏関跡碑の西側に建っている。
●小仏関跡
天正年間(1573~92)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたと言われている。江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所。
関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に当時は間口7間半(13.65m)、奥行3間(5.46m)の番所が設けられていて、概ね4人体制で専従の関守が置かれていた。
この関所は、中里介山の「大菩薩峠」にも出てくる。
奥の石に手形を置き 手前の石に手をついて許しを待った
●駒木野の石仏
●駒木野庭園
建物は、1927(昭和2)年まで小林病院として住居兼用で利用されてきた。大正年間に建造された平屋の母屋と昭和初期の2階屋が組み合わされている。
庭園は枯山水と池泉回遊が組み合わされている。敷地面積は2,900平方メートル(879坪)である。
訪れた日:5月20日