あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

「湯の花トンネル列車銃撃事件」慰霊碑に参る  終戦70年にあたって-2

2015-05-31 13:08:47 | 東京散策
3月にTBSTVで「戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった」という番組が放送され、太平洋戦争末期のこの事件を知った。
1945(昭和20)年8月5日、新宿発長野行きの電気機関車が牽引する8両編成の下り列車が、3日ぶりの開通ということで、列車は大変な混雑状態で、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れで出発した。この時点で、すでに空襲警報が発令されていた。
列車が湯の花(いのはな・猪の花)トンネル東側入口に差し掛かったとき、飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機)に、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。機銃掃射は、1秒間に70発、フィルムカメラを設置している。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した。機関車を保護するために、3両目以降7両の車両はトンネルから表に晒され、反転した戦闘機の銃撃の的となり、犠牲を大きく出した。乗客中、19名だけが富士演習場に向かう兵士で、殆どが非戦闘員の一般乗客であったという。
 
          
               甲州街道からこの道に入ると 左は中央本線の踏切に 右は慰霊碑に通ずる

          
                    
                           湯の花トンネル
碑は、5周忌を前にして地元消防団が建て、その後八王子ロータリークラブの協力で現在の形に至り、慰霊は現在も行われている。
碑には、52名の確認できた犠牲者の名が刻まれている。その名簿を見ると、20歳代以下が20名で、そのうち20歳未満が11人もいた。人生これからだという方々が、これほど多く犠牲となっている。
この空襲は国内最大の列車銃撃だったともいわれている。
          
          

この道は、旧甲州街道である。右手に「蛇滝口」のバス停があり、その先に碑に入る脇道がある。向かい側には、雨戸が全て閉ざされている蛇滝茶屋が建っている。
          

蛇滝茶屋
高尾山登山口に位置するこの建物は、1903(明治36)年建築で、薬王院参詣の宿泊所・休憩所に利用されていた。また、江戸後期には「ふじや新兵衛」という旅籠でもあった。
軒下には講(参詣するために組織された信仰集団)の名前を彫った参詣札(まねき看板)がずらりと並んでいる。木札を見ると、神田や下谷、浅草、上州伊勢崎など明治末期から昭和初頭にかけての各地の講が趣向を凝らして掛けており、高尾信仰と遊山の結びつきの様を現代に伝えている。
現在では年に一度、湯の花トンネル犠牲者慰霊の集会所として利用されるだけのようで、空襲を受けた当日も、救助の際この家の雨戸を使って、被害者を運んだようだ。
   
 
          
              蛇滝茶屋は川にも面しており、銃撃の際身を隠したとされる川がこれであろうか

          
         甲州街道沿いに小川が流れていてそこに石段が短い間隔で架けられている 何のためなのだろうか

高尾駅北口から平日は1時間に1本の「小仏」行きである。登山客や駒木野病院への通院客などで満杯で、10数人ほど残してバスは発車した。
この「蛇滝口」バス停は7つ目、およそ20分である。
          
                     JR高尾駅北口2番乗り場 バス奥の建物が高尾駅

戻りは駅までの旧甲州街道の見物箇所を巡った。

蛇滝口の水飲み場
湧水と言うようだが水源は何処なのだろう。何の解説もない。
                    

浅川地区の石仏
石地蔵や庚申塔が祀られているが、年代は不明だ。
          

念珠坂の石仏
ここに数体の地蔵と「甲州街道念珠坂碑」がある。今は緩い坂道だが、かつては大変な急坂であったため念仏を唱えながら登ったので念珠坂なのだとか。
  

駒木野宿跡
この駒木野宿は日本橋から丁度12里(48Km)にあたる。
関所東が「駒木野宿」、西が「小仏宿」と呼ばれるようになったとあるが、何故か駒木野宿の碑は小仏関跡碑の西側に建っている。
   

小仏関跡
天正年間(1573~92)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたと言われている。江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所。
関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に当時は間口7間半(13.65m)、奥行3間(5.46m)の番所が設けられていて、概ね4人体制で専従の関守が置かれていた。
この関所は、中里介山の「大菩薩峠」にも出てくる。
          
          
          
                    奥の石に手形を置き 手前の石に手をついて許しを待った

駒木野の石仏
                    

駒木野庭園
建物は、1927(昭和2)年まで小林病院として住居兼用で利用されてきた。大正年間に建造された平屋の母屋と昭和初期の2階屋が組み合わされている。
庭園は枯山水と池泉回遊が組み合わされている。敷地面積は2,900平方メートル(879坪)である。
          
           
          
          
          
          


訪れた日:5月20日


亀戸七福神+αをめぐる

2015-05-28 11:52:52 | 東京散策
フジの花見物で亀戸天神に参ったが、1カ所だけでは往復の時間をかけてもったいないと、七福神が奉られていることを知り「亀戸七福神」を加え、尚且つプラスアルファのコースを設定し亀戸地域を歩いた。

JR総武線・錦糸町駅北口に降り立つ。横浜から乗り換えなしで来れるから便利。
はじめて降り立つ駅であるが、錦糸町と言うと、藤圭子さんの「♪昔恋しい下町の 夢が花咲く錦糸町 よってらっしゃい よってらっしゃい お兄さん♪」と歌う、『はしご酒』のイメージになってしまうのだが、駅を出てもそんな雰囲気はなかった。
          

駅前の広い公園の一角に神社が奉られていたので、一日の安全祈願をした。
千種神社(錦糸公園)  墨田区錦糸4-15-1
千種(ちぐさ)稲荷神社の創建年代は不詳、徳川四代将軍・家綱の時代(1651~81)に治水工事が行われその後、このあたり柳島村の守護神として祀られたと伝えられる。
明治時代に入り、当地が旧陸軍兵器廠錦糸堀倉庫となった際にも、火除けの守護神として残された。
             
奥の手水舎(ちょうずや)には4体の変わったポーズをした狐が鎮座している。奉納者の気持なのか。
          

          

 
横十間川を渡ると、江東区に入る。

銭座跡モニュメント(亀戸2丁目団地)  江東区亀戸2-6亀戸2丁目団地
1663(寛文3)年から1683(天和3)年まで、亀戸2丁目の住宅・都市整備公団団地の付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称した。寛永通宝の裏面は無印のものが多いのだが、造られた場所の文字などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれている。
このモニュメントは、1668(寛文8)年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルにしたもので、1636(寛永13)から幕末までに造られた銅銭の「寛永通宝」の文字が打ち出されている。
          
          
                   銅貨製造工程の表面を磨く作業・平研(ひらとぎ)をしている図

ここから5分のところに亀戸天神社が奉られている。
亀戸天神社  亀戸3-6-1
亀戸天神社は、「亀戸天神の藤見物」にまとめたので省略。
                    

普門院 亀戸3-43-1
亀戸七福神の毘沙門天が祀られている。
真言宗の名刹で、1522(大永2)年、三股(現足立区千住)に創建され、1616(元和2)年、当地に移った。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になった。
 
       
                  毘沙門堂                      持経観音(じきょうかんのん)
          
                       絵本江戸土産・普門院境内御腰掛の松

光明寺  亀戸3-42-1
創建は、1555(弘治元)年の天台宗の寺院。
境内には、区内でも古い年号1628(寛永5)年をもつ宝篋印塔、1676(延宝4)年の庚申塔などが建つ。また、浮世絵の一人者、二世・歌川豊国(国貞・1786~1864)の墓がある。
          
  

入神明宮跡  亀戸3-41
昔、この一帯は海で、海上を往来する船の安全のため、小高く盛り上がった塚の上に、神明社が建てられた。
明治に天祖神社と改称し、昭和の末に香取神社に合祀された。
          
                      
                        江戸名所に描かれている入神明宮

龍眼寺  亀戸3-34-2
亀戸七福神のひとつ、布袋尊が祀られている。
1395(応永2)年創建の天台宗の寺院。
萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている。
また、1659(万治2)年造立の庚申塔は区内最古とされる。
 
         
                      布袋堂と布袋尊                               三猿庚申塔
          
                          江戸名所図会・萩寺

天租神社  亀戸3-38-35
社伝によれば、推古天皇の治世(593~628)の創建で、その後、衰退したが1403(応永10)年に復興する。
天正年間(1573~91)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病が治まったと言われる。今日では、毎年秋に子供歩射が行われている。
 
 
                     境内には多くの双体道祖神が祀られている
 
   染色手ぬぐいが地場産業なのか境内におおくの手ぬぐいが飾られている

祐天堂・木下川道標  亀戸3-39先
元禄年間に祐天上人が千葉方面に向かう際に、この付近の川や岸に多くの水死体を見つけて、霊を回向された。その際に石にそれらの仏に戒名を刻んだ。のちに祐天堂を奉った。
それ以来、この辺りでは水死者がなくなったといい伝えがある。
1761(寶暦11)年建造の道標には、この境橋から、木下薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下薬師道(現、仲堀通り)を示している。
刻銘が正面と左右側面の3面で、左側面には現存していない吾妻神社である「あつまもり」が刻まれている。
 
ここ境橋は逆さスカイツリーが映る北十間川に架かっている。北十間川は本所の北で、かつ横十間川の北に位置することから名付けられた。

梅屋敷跡  亀戸3-40、50~55
江戸時代は、江戸の東はずれで、亀戸天神と田畑ばかりであった。そこに伊勢屋の別荘があり、臥龍梅(がりゅうばい)が植えられていた。臥龍梅の名称は当時評判を聞き付け訪れた水戸光圀が名付けたという。また、徳川八代将軍・吉宗は、一旦土に入った枝が再び地上にはい上がる梅の姿を見て、「世継ぎの梅」と命名したとか。
そして臥龍梅は数百にも増え、別荘は梅屋敷となった。屋敷の広さは2町(218m)四方だと云う。
          
あとで知ったのだが、江戸時代に建っていた別荘・梅屋敷をモチーフにして、亀戸梅屋敷(亀戸4-18-8)が2年前に地域交流の拠点として建設されていた。事前に知っていれば寄ったのに、調査不足であった。
           

香取神社  亀戸3-57-22
亀戸七福神の恵比寿と大黒神が祀られている。
社伝によると、天智天皇の時代665年の創建で、藤原鎌足(614~669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し、旅の安全を願ったことがはじまりとされる。
 
      
亀の島は亀の形をしており、そこから亀村が出来た。また、先ほどの臥竜梅の庭には、「亀井戸」があって、このふたつが混同して「亀井戸」と呼ばれるようになり、いつしか「井」がなくなって「亀戸」となったというようだ。
      
香取神社付近では、文久年間(1861~64)から明治時代にかけて、大根づくりが盛んに行われていた。長さが30cm程度の短いもので、明治のころは「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれ、大正初期になって産地名の「亀戸大根」と呼ばれた。収穫時期が野菜の少ない早春のため、重宝がられ、江戸ッ子に喜ばれた。

東覚寺
亀戸七福神の恵比寿と弁財天が祀られている。
1531(享禄)4年の創建と伝えられる。
この寺の不動明王は、大山寺(神奈川県)の本尊と同木でつくられていることから江戸時代より亀戸不動として信仰を集めてきた。
 
     
         

石井神社  亀戸4-37-13
この神社は石器時代の石棒をご神体として祭り、「しゃくじん(=石神)」と呼び、それが「しゃくし」となり、俗に「おしゃもじ稲荷」と呼ばれる。また、石神が「せきじん」となって、咳の病をなおす神としても信仰されている。
神社からおしゃもじ(飯杓子)1本を借りて、自宅でこれを神体と祭る。病が治ると新しい飯杓子と共に返却する習わしがある。
元禄時代には、「石神社」と江戸の地誌・江戸鹿子に紹介されている。江戸鹿子は、江戸の名所ガイドと買い物ガイドの性格を合わせ持つもので、大ベストセラーとなった。このため同類のものが刊行されている。
     
             
                      封筒の中には持って帰るおしゃもじがはいっている

常光寺  亀戸4-48-3
亀戸七福神のひとつ、寿老人が祀られている。
常光寺は、江戸六阿弥陀巡礼のうち、第六番目の霊場として、彼岸詣でには庶民の信仰と行楽として賑わった。
                 
縁起によると、聖武天皇(724~749)の頃、武蔵国足立郡に沼田の長者がおり、熊野権現に詣でて授った一女を隣の郡に住む領主に嫁がせた。この娘は足立姫と呼ばれる程に美しく、仏を尊び生まれつき聡明であったが、領主の姑が辛くあたり悲しみ嘆いていた。里帰りの折りに思い余って沼田川(今の隅田川)に身を投げ、5人の侍女が姫のあとを追って川に身を投じた。
後日、諸国巡礼の旅に出た長者が熊野権現に詣でたところ、夢に権現が立ち、一女を授けたのは仏道に導く方便で、熊野山中にある霊木に6体の阿弥陀仏を彫み、人々を苦境から救いだせ言われた。夢の通りに山中で光り輝く霊木を得た長者は念を込めて霊木を海に流し、帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いていた。
そして間もなくこれも夢のお告げの通りに諸国巡行の途でこの地に立寄られた行基菩薩に乞うて6体の阿弥陀仏を彫り、6女ゆかりの地にそれぞれの堂を建て、敬った。江戸時代に入り、この六阿弥陀巡礼が信仰と行楽で大いに賑わい江戸名所図会にも描かれている。
       
 
          
上の「江戸名所図会」は、常光寺と江戸六阿弥陀詣で賑わっている淨光寺前の通り・六阿弥陀道も描かれている。
江戸六阿弥陀詣とは、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は、亀戸という地域的な限られた信仰であった。

水神社  亀戸4-11-18
創建年代は不詳だが、室町幕府十二代将軍足利義晴の享禄年間(1528-1532)で、新田開墾にあたって堤上に水神を勧請し水害を逃れるため祈願したことが創建とされる。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神。
 
                    

浄心寺・亀戸事件碑  亀戸4-17-11
『新編武蔵風土記稿』よれば、1615(元和元)年の創建で、寺誌によれば、江戸初期(1603(慶長8)年と推測)に正二位権大納言烏丸光広卿が江戸に下り、鷹狩りの折に、宝燈庵と称していたころの浄心寺に立ち寄り、和尚の法話、その姿に心服し朱塗りの門と、自家の菊花紋を寺に与え、それから赤門寺と呼ばれるようになった。
境内には、亀戸事件碑が建てられている。
1923(大正12)年、関東大震災の混乱のさなか、デマにとって在日朝鮮人や中国人を虐殺する事件があったが、一方では亀戸の労働組合員らが警察に不法検束され、数日後軍隊によって殺害された事件もあった。これを亀戸事件という。
            

          
亀戸には「亀戸あさくさ古道」という散策ルートがあったようで、この案内に沿って歩くことも、また違った歴史散策になったであろう。
帰りは、JR錦糸町駅のとなり、JR亀戸駅から錦糸町駅で快速に乗り換え帰宅する。

訪れた日:2015.04.24


緑萌える大倉尾根を歩く

2015-05-24 13:11:01 | 丹沢大倉尾根
山開きから1ヶ月、
緑萌える大倉尾根を登る。
          
見晴茶屋上のもみじ道


 
1輪草になったり、4輪草であったりのニリンソウ。下がまともなニリンソウ
          

駒止茶屋の傾斜地に群生して咲いていたので。

ジジバリ・・・日当りを好む、崩壊地では一番先に生えると云う典型的な雑草 (「丹沢に咲く花」より)


登山道から離れた崖に咲いていたミツバツツジ。




登山客からは見られない場所に咲き、真っ赤に自己主張する。

久々に「今日の富士山」を写せた。
          
空の色に同化して富士山と分るかなと心配した画像。
高原の家の下でも撮ったのだが、それは失敗。バカチョンカメラでは無理なのか。


駒止下


駒止下

本年、第29回丹沢ボッカ駅伝からお目見えのショッキングピンク色の「スッタフジャンパー」。
大会2週間前にしてお披露目。胸には「BOKKA」と記されている。
大会は6月7日、120チームのフルエントリー。
雨でも晴れても、天候が心配。

木々の緑が美しい季節になり、登山には最高である。
週末には西丹沢の山開き。

雑司ヶ谷続きを音羽まで歩く

2015-05-15 15:24:03 | 東京散策
ひと月ほど前に雑司ヶ谷界隈を白山駅から歩いたが、計画を誤り目的の半分ほどでタイムオーバーとなった。
そこで日を改め続きを歩く。
JR大塚駅から都電荒川線で前回辿った風景の中を本日の出発点である学習院下へと向かった。
 
          

金乗院   豊島区高田2-12-39
金乗院(こんじょういん)は、真言宗豊山派の寺院で、江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っている。
開基僧が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を造ったのが始まりとされる。創建は天正年間(1573~92年)ではないかと推定されている。
目白不動尊は、江戸五色不動のひとつで、目白の地名の由来でもある。元々は当寺院のものではなく、1kmほど離れた関口駒井町(現在の文京区関口)にあった新長谷寺という寺院にあったもの。
目の色の黒白赤黄青の五色不動の起こりは、八代将軍徳川吉宗が、江戸庶民の娯楽として5か所に不動堂を建てたと伝えられている。  
 
        
倶利伽羅不動など7基の庚申塔をはじめ、儒者・青柳文蔵の墓や由井正雪らと江戸幕府転覆を謀り鈴が森で処刑された丸橋忠弥の墓などがある。
      

宿坂
金乗院の裏門あたりのわずかな平地に関所があったとされる「立丁場」があった。その関所の名が「宿坂関」といわれたため、坂の名が「宿坂」といわれているようだ。
江戸時代後期の天保年間(1730~44)に刊行された「江戸名所図会」には金乗院とともに宿坂関旧址が描かれている。
          

南蔵院   豊島区高田1-19-16
室町時代の開山と伝えられ、もと大塚護国寺末、高田氷川神社の別当であった。
本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、開山僧が諸国遊化(ゆけ)のとき、とある農家で入手し、当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。
1716(正徳6)年の「高田村絵図」には、境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物、および樹木三本が描かれている。
また、江戸時代の地誌にも紹介され、「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。
境内には、この近くで死に絶えた上野彰義隊の隊士9人の首を埋めて葬られた首塚や庚申塔、六地蔵などの石造物がある。奥の墓地は見学不可だが、江戸時代の有名力士の墓がある。
また、三遊亭円朝が南蔵院旧本堂天井の龍の絵を見て創作した講談「怪談乳房榎」のゆかりの地としても有名。
ほかに、太田道灌の「山吹の里」の伝説を伝えた「山吹の里弁財天の供養碑」があるというのだが、探し方が悪いのか見つからなかった。首塚でさえ案内がないのでやっと見つけたほどである。
     
      

高田氷川神社   豊島区高田2-2-18
創建年代は不詳だが「江戸名所図会」などの地誌によれば、当神社は、江戸時代には氷川大明神と呼ばれ、下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。
江戸時代には下高田村の鎮守、氷川大明神として崇敬を集めていた。また、主神が素盞嗚命(すさのおのみこと)であることから、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)を主神とする下落合氷川神社と対にして夫婦の宮のうちの「男体の宮」とも呼ばれていた。
毎年正月には、弓矢で的を射って災難除けを祈願、鬼と書かれた的に弓を射る「御奉射祭(おびしゃさい)」が江戸時代より行われている。
 
            

「山吹の里」の碑・姿見橋(面影橋)   豊島区高田1-18-1

歌のタイトルにも使われている面影橋。面影橋は、高田と西早稲田を結ぶ神田川にかかる橋で、この一帯は、明治の末まで山吹の咲き乱れる野原であり、通称「山吹の里」といわれている。
面影橋のたもとには、右手を頬にあてた観音像の石碑がある。「山吹の里」の碑である。
橋の名前の由来には、悲しい物語が語り継がれている。
                               
山吹の里伝説
文明年間(1469~86)、太田道灌がこの付近に鷹狩りに来た時、急雨に降られて近くの農家で蓑を借りようとした。家の中から出てきた娘は、庭に咲く山吹の花を手折って道灌に捧げた。道灌はその意味が理解できずに帰り、近臣に事の次第を話したところ、そのうちの一人が、中務卿兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」の歌を借りて、家に蓑がないから貸すことができないとの意を表したのだろうと話した。自分に歌心のないことを恥じた道灌は、その後、和歌の道に励んだという。この娘は紅皿(べにざら)といい、その墓と称される板碑が新宿6丁目の大聖院にある。 
なお、紅皿には妹があって、美人の姉、紅皿に対して、妹は村人から「欠け皿」と呼ばれていたという残酷な話も伝わっている。         
          
面影橋伝説
戦国時代に、この地に来たという和田靱負(ゆきえ)という武士の娘於戸姫(おとひめ)の伝説である。結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、やがて近所の小川左衛門に嫁いだ於戸姫は、夫をその友人に殺され、仇はとったものの、自分の身に相次いで起こる不幸から、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げて自害した。里人は於戸姫の心情を思いやり、面影橋・姿見橋と名付けたという(面影橋と姿見橋は別の橋との説もある)。  

腰掛稲荷神社   文京区目白台3-26-1
徳川三代将軍家光が鷹狩りに訪れ、この地でご休息した。大木の切株に腰を掛け、「絶景なり」と辺りの風景を楽しんだのち、傍の小祠を拝して立ち去られた。当時は、武蔵野の眺望が極めて勝っていたという。
後年、その切株が朽ち果てると、その伝承を世に伝えるため社殿を建立し、「腰掛稲荷」と称し、さらに篤く崇敬したことに始まる。創建は不明。
今はその面影もなく高速道路が見渡せる。  
境内には、割った切面に美しい菊花状の模様が現れる「菊花石」という石が崇敬者より奉納されている。
 

熊本藩細川家抱屋敷跡(永青文庫・新江戸川公園)   文京区目白台1-1
新江戸川公園は、江戸時代中期以来旗本の屋敷であったが、その後二、三転し肥後・細川家の下屋敷(抱屋敷)となった。邸内には目白台の地形を巧みに利用した廻遊式泉水庭園がある。
 
 
新江戸川公園の高台には永青文庫が続いている。永青文庫は1950(昭和25)年、16代当主細川護立(もりたつ・1883~1970年)によって設立された。護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。
文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である正伝永源院(建仁寺塔頭)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
散策を計画している最中にはここで織田信長からの手紙の公開がされていて、TV番組でも取り上げられていた。貴重な国文学の古書籍が所蔵さている。
周囲は目白台の閑静な住宅街である。
 
              

水神社   文京区目白台1-1-9
言い伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという。
   
     
胸突坂   文京区目白台1-関口2
目白通りから、椿山荘と和敬塾の間を神田川に向かって下る急な坂。愛称はムナツキ。
坂下の古くは江戸川と呼ばれた神田川に架かる駒塚橋から見ると、左手の水神社、右手に関口芭蕉庵の塀とに挟まれた細い坂道である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないほどの急な坂で、江戸の人がつけた名前である。現在は階段とスロープによって成り立っていて、途中に休憩所が設けられている。坂下西の水神社にちなんで、別名「水神坂」ともいわれる。
               

関口芭蕉庵   文京区関口2-11-3
かつて松尾芭蕉が神田上水の改修工事に携わった際に住んでいた住居跡が元になっている。
敷地内は芭蕉堂や庭園、池などからなっている。
芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に1677(延宝5)年から1680(延宝8)年までの4年間、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりである。後に1726(享保11)年の芭蕉33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれ、松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。
「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
 
   

久留里藩黒田家下屋敷跡(椿山荘)   文京区関口2-10-8
武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は上総国久留里藩黒田家の下屋敷だった。
1878(明治11)年、明治の元勲・山縣有朋は前年に発生した、西南戦争の功による年金で購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。山縣は椿山荘において趣味である作庭を行っている。
1918(大正7)年、大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、1948(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、結婚式場やホテル業務が行われている。庭園は一般公開され、椿や桜など植物、史跡等を鑑賞できる。
庭園の頂上に建つ三重塔は、広島県加茂郡入野(現東広島市)の竹林寺にあったものを藤田平太郎が1925(大正14)年に譲り受け、椿山荘に移築したもので、繰形の特徴などから室町時代末期のものと推定されており、国の登録有形文化財に登録されている。 
また、七福神が園内には祀られている。
 

 
古香井(ここうせい)・・・古くから東京の名水に数えられた湧水が自噴する井戸。秩父山系からの地下水が湧き出ているもので、ミネラル・カルシウムを豊富に含んだ弱アルカリ性の水。1923(大正12)年の関東大震災時には、被災者に開放され、その渇きを癒したと言われている。
           
庚申塔(左)・・・1669(寛文9)年に造られたと伝えられる、道教の庚申信仰に由来する石塔。青面金剛像が彫刻されている。江戸初期、早稲田から関口台に抜ける野道がこの辺りにあり、その名残を今に伝えている。
羅漢石(らかんせき・右)・・・江戸中期の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)の下絵による五百羅漢のうちの約20体で、京都南郊伏見の石峰寺に置かれていたものと伝えられている(像高約50センチ)。
 

           
三重塔「圓通閣(えんつうかく)」・・・平安期の歌人・小野篁(おののたかむら)ゆかりの寺院、広島県賀茂郡の篁山(たかむらさん)竹林寺に創建をその起源とする三重塔。2010(平成22)年の大改修の折、本尊として聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を奉安、「圓通閣」と名乗る。圓通とは、観世音菩薩の異称で、圓通閣は観音堂を意味している。(国登録有形文化財)
 
白玉稲荷神社(左)・・・1924(大正13)年、藤田平太郎男爵が京都下鴨神社にあった一間四方の社殿を移築し、翌年伏見稲荷明神から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神とした。
椿山荘の碑(右)・・・1877(明治10)年、西南の役に凱旋した山縣有朋公爵が、翌1年「つばきやま」の名を「椿山荘」と命名した際の記念碑。


椿山荘八福神
 
               大黒                                    毘沙門天
     
            恵比寿                  寿老人                    弁天
 
              福禄寿                                   布袋
                 
                             庭の福
椿山荘は八福神で、八番目の福の神「庭の神」には次のように解説があった。
『ニワトリの形をしたこのカタマリは、2009年からこの庭園の七福神に仲間入りしました。
いつの日からニワトリは、その翼で飛ぶことをやめ、庭の中の安心や幸せを守る神として崇められています。今日もチョコチョコ歩き回り、この庭を守ってくれています。』 
                      
                            樹齢500年 御神木

大洗堰    
1590(天正18)年、徳川家康の命により日本最古の神田上水が大久保藤五郎によって開かれた。井の頭池を水源とし、水神社の前を流れ、すぐ下流の大滝橋あたりに大洗堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋(とい)で地下を神田や日本橋方面に流した。 
藤五郎はこの功績により家康より主水(もんと)の名を与えられた。古代日本の役所に飲み水などをつかさどる主水司(しゅすいつかさ)があり、ここからとったと思われる。
のちに1677(延宝5)年、伊賀上野の藤堂家が改修工事を請け負った際、松尾芭蕉が藤堂家から禄を受け工事に関与した。[↑関口芭蕉庵の項参照]
また、このあたりは田園地帯で、清らかなかんだ上水が流れ、前には早稲田の田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
 
碑は神田川に沿って細長く延びた江戸川公園の一画にあった。川沿いには桜の大木が植わっており、半月前の花のシーズンには見事に咲き揃っていただろうと想像する。残念ながら、今はわずかに八重桜が咲いていた。
 
音羽御殿(鳩山会館)   文京区音羽1-7-1
音羽の丘に鳩山邸の洋館が姿を現わしたのは、関東大震災の翌年1924(大正13)年のことである。
内閣総理大臣を務めた鳩山一郎が建てた邸を記念館として一般に公開している。文京区音羽にあることから「音羽御殿」の通称で知られ、戦後政治史の舞台のひとつに数えられている。
音羽一帯は、音羽通りの両側に関口台と小日向台 のふたつの高台に挟まれた音羽谷という谷戸地形に沿って護国寺山門へ至る独特の景色を見せている。音羽は門前町として古くから栄えた。
 

 

今宮神社   文京区音羽1-4-4
1697(元禄10)年、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院殿の発願により、護国寺御建立の時、同所に京都柴野今宮神社より分霊を迎えて鎮座した。
1868(明治元)年の神仏分離により1873(明治6)現在地に遷座した。
五社今宮とは、伊勢神宮・今宮神社・春日大社・岩清水八幡神社・熊野大社を示している。
狛犬は1754(宝暦4)年、八丁堀の石工小右エ門作である。
 

音羽の坂
鷺坂(↓左)
坂の上の高台に徳川幕府の老中を務めた関宿藩久世家の下屋敷があった。そのため地元では「久世山」と呼び、今もなじんでいる。
大正以降住宅地となり、詩人・仏文学者の堀口大学や詩人・三好達治、佐藤春夫らが周辺に住み、山城国の久世にある鷺坂と結びつけ、坂の名を「鷺坂」と呼んだ。
 
大日坂(↑右) 
坂の途中に大日堂があったからだとされる。堂のある寺は覚王山妙足院と号し、堂廟の創設は1662(寛文2)年といわれ、その後数度の火災で現在なくなっている。
坂の別名は「八幡坂(やはたざか)」といわれる。由来は以前に「田中神社」があったからとされる。
坂に名に神と仏が絡んでくるとは、不思議な坂である。
          

今回、2回に分け白山から雑司ヶ谷をまわり音羽まで歩いたが、江戸時代この地は多くの大名の屋敷があった。だが、その面影どころか、説明の立杭すらないことは残念である。
歩いた道すがらには名の知れた学校が多く並んでおり、区名通りここは「ぶんきょう」の街であった。
その反面、村内にある鬼子母神の参詣で賑わい、沿道には町屋がつくられた。
この錦絵には鬼子母神門前の料理屋や、境内で売られていた玩具の「すすきみみずく」を持つ人物が描かれており、庶民の信仰の場であり、娯楽の場であったように伺える。

訪れた日:2015.04.16
関連:白山から雑司ヶ谷を歩く


5. 3 Yokohama Bay Area

2015-05-06 15:34:23 | その他
GWの真っただ中、初夏の陽射しを浴びて、ひと、ひと、ひとのベイエリアを歩く。

神奈川県庁
GW中は公開しているというので見学した。定期的には毎月第3日曜日に公開しているという。
県庁の建物は、関東大震災で焼けた本庁舎に代わる4代目で、1928(昭和3)年に建てられ、庁舎としては、大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いもの。
横浜三塔の横浜市開港記念会館・ジャックの塔、横浜税関本庁舎・クイーンの塔と相並び、県庁はキングの塔と呼ばれている。3月10日は、ゴロ合わせで「三塔の日」となっている。
          
県旗は神奈川の「神」の字を図案化したもので、公募によって1948(昭和23)年に制定された。
          

知事室
       
知事室が一番人気か、長蛇の列待ちであった。
          
知事室・知事応接室の表札にはなっているが、配置表を見ると入ったところは秘書室で、右手奥に副知事室が、左手が知事室になっているようだ。
          

          
窓にはめ込まれている鉄の飾りが建物の古さを物語っている。
          
まだ現役で、知事が毎日執務しているという(↓↑)。
ほぼ中央に3つの旗が置かれている。左から日章旗、県旗、シンボルカラー旗。
シンボルカラー旗は県の気候・風土・県民性を象徴した「かながわブルー」だとのこと。
          
壁にかかっている時計は本庁舎創建当時から使用されている。

旧貴賓室(第3応接室)
          
歴代知事の写真が飾られている。椅子のひじ掛けに重厚さを感じる。
          

          
絵画の下はマントルピースが設置されているのだが見学者が多くて上手く写真には収められなかった。
          
旧知事公舎で使用されていたと思われる食器類。県のマークが印されている。

旧議場(大会議場)
          

          
シャンデリアが見事。赤絨毯が気になる。
この議場では結婚式も挙げられるという。

屋上
          
大桟橋が一望。
          

          
仮装行列「ザよこはまパレード」も上から眺められる。
確か屋上は平日ならば、いつでも上がれたと記憶している。それで、屋上は初めてではない。

階段

装飾灯や階段等に模様に極楽に咲く幻の花といわれる宝相華のモチーフがあしらわれている。

マスコットキャラクター
県下各地の27キャラクターが集合するようだ。
  
けんけつちゃんとよいしょの金太郎

大桟橋
本日は豪華客船「コスタ・ビクトリア(イタリア)」が停泊している(17時出港)。
1996年に就航年で、全長が253m、 総トン数は75,116トン、1,928名が乗船できるという。
今回のクルーズは、「東洋のハワイ」 と呼ばれる温暖な韓国最大の島・済州島→長崎県佐世保→東洋のガラパコスとも呼ばれる奄美大島→横浜港の7日間の旅だという。
因みに先月浪でベイブリッジが通過できず寄港できなかった「クインエリザベス」は 全長が294m、総トン数は90,400トン、乗客2,092名とのことだ。
「コスタ・ビクトリア」は2012年から通年アジアに配船されており、11~3月は東南アジア、4~10月は日本、中国、韓国を中心として運航している。
          

          

 

          

                     

開港記念港祭り・仮装行列「ザよこはまパレード」
今回で63回目。マーチングバンドやバトンなどの68団体、3,900人が山下公園から伊勢佐木町までをパレードした。沿道の見物人は35万人だという。
          

          

          

          

          

          

赤レンガ倉庫街
1899(明治32)年、東洋初の接岸式ふ頭として新港ふ頭の建設が始まり、その一環で赤レンガ倉庫が保税倉庫(当時は横浜税関新港埠頭倉庫と呼ばれていた)としてつくられた。
2号倉庫は1911(明治44)年に竣工した。
現在、1号館(南側)はホールや展示スペースを備えた文化施設、2号館はレストランやショップなどが揃った商業施設として使用されている。
          

          

          

          

鎌倉散歩・平家の赤旗とフジの花

2015-05-01 14:34:04 | 鎌倉巡り
GW突入の週にJR鎌倉駅に降り立つ、改札口前は中高生の待ち合わせで溢れ返っていた。
本日の主目的は補陀落寺「平家の赤旗」を見ることだが、それだけではもったいないのでフジの花を鑑賞することにした。

補陀落寺 材木座6-7-31
源頼朝の祈願所として1181(養和元)年に創建されたと伝えられる。門前にも「源頼朝公御祈願所 補陀落寺」と刻まれた石柱がたっている。別名「竜巻寺」とも言われ、竜巻で大きな被害を受けたようだ。
玄関を入って左手に畳敷きの本堂と脇部屋がある。参拝客は訪れておらず、ひとり占めであった。
須弥壇には本尊の十一面観音像と数体の仏像。案内によると日光・月光菩薩像(運慶作)、釈迦如来像(行基作)、不動明王(平家打倒を祈願したと言われている)、頼朝像(四十二歳の自作と言われている)、頼朝位牌(征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり文覚の書と言われている)となる。
左手の和机の上に5つの額が置かれ、目的の赤旗は中央にあった。
もっと大きなものかと思っていたが、意外と小さい。平家の総大将宗盛が持っていた旗と説明が記されている。
源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で敗れ捕虜となった平宗盛は義経によって鎌倉に護送された。但し、義経は頼朝の怒りをかい鎌倉には足を入れることが出来なかった。そこで「腰越状」とか「万福寺」が登場する。
赤旗は色あせて茶色となっており、「九萬八千軍神」と書かれている。清盛直筆とのことだが、文字の意味は?
余談であるが、水戸光圀が諸国漫遊ではないが、1674(延宝2)年5月に鎌倉の名所・旧跡を巡った際、家臣の者に記録させた「鎌倉日記」に、
『幅二布二尺アリ。長サマチマデ三尺五分、其下ハ切レテシレズ。地ハ赤布ニ、九萬八千軍神ト亭付アリ。』とこの赤旗が載っているようだ。
平家の旗の公開は、鎌倉市の案内でも「非公開」とされているが、鎌倉まつり~GWだけ公開されている様だ。その公開も年によっても期間が延びることもあるようだ。
また、本堂内の拝観は声をかけてくれればいつでも可能とのことだ。
 
          


         フジをながめる
先週末、フジの花の名所・亀戸天神に参ったが、神奈川にもフジの名所はなかろうかと調べると、鎌倉がヒットした。それではと「平家の赤旗」に引き続いてフジの花観賞で鎌倉を巡った。

別願寺 大町1-11-14
鎌倉における時宗の中心となった別願寺は、室町時代には足利一族が深く信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた。天正19年(1591)には徳川家康からも寺領を寄進され寺勢を誇ったが、次第に衰えていった。
境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした四代鎌倉公方・足利持氏のものとされる供養塔(宝塔)がある。供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。
立木仕立てのフジが有名。
          

          

          

          

安国論寺 大町4-4-11
日蓮宗の寺院、創建は1253(建長5)年。鎌倉時代の初期には、北条時政の屋敷・浜御所があった所。1253(建長5)年、安房から鎌倉に入った日蓮上人が松葉が谷に来て、初めて草庵を結んだ所のひとつで、北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩屋がある。
          

          

          

          

       
                             付近の山フジ


今回の鎌倉散歩も全てスマホのナビ頼りに歩いたのだが、安国論寺から浄明寺へと北上する際に、東日本大地震以来通行止めの釈迦堂切通を案内された。以前鎌倉七口で切通巡りをしてここは通行止めなことを承知しており、案内は釈迦堂切通方向に向かっているが、きっと手前で迂回してくれるだろうと思って進んで行った。しかし結局は迂回せずに通行止めの切通に突き当たった。御蔭で40分近く無駄に歩くことになる。4年も前に通行止めになった道を未だに案内するとはなんと不親切だ。近くの方は不便ではないのかな。

浄妙寺 浄明寺3-8-31
鎌倉五山第五位の禅宗の寺で、室町時代は境内に23の塔頭を持つ大寺院であった。
          

          

          

          

          
                             付近の山フジ

光触寺 十二所793
時宗の開祖・一遍上人が開基と伝えられる。
          

藤棚は光触寺奥の道路わき。
          

                   

          

              

浄明寺四丁目付近の山フジ
          

          

瑞泉寺 二階堂710
鎌倉公方の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ格式ある寺院。
開山の夢想国師は作庭にも才を発揮し、仏殿背後の庭園は国の名勝と指定されている。
 

 

          

          

          
                             付近の山フジ 

鎌倉宮カントリーテニスクラブ付近 二階堂148
                   

鶴岡八幡宮 雪ノ下2-1-31
八幡宮の源氏池の畔に藤棚がある。
跡で知ったのだが、白フジの棚も旗上弁財天にあったのだ。すぐそばを歩いていたのに気がつかなかった。残念。
          

          

          

          


          
段葛は来年3月まで改修中で、囲いのボードにはプリント写真が貼られている。


訪れた日:2015.04.28