あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

「永遠」を守る軍団・兵馬俑をみる

2016-02-22 16:31:40 | その他



今から2200年前、中国で統一王朝をうちたてた最初の皇帝と云う意味で始皇帝を名乗った。
巨大な陵墓の近くに埋められた8千体の陶製の兵士や馬などが出土した「兵馬俑」は、20世紀最大の考古学の発見であり、世界中の驚きであった。
「俑(よう)」とは、遺骸とともに埋葬された副葬品の人形のことである。
今回、東京国立博物館で展示があったので、閉会間際の日に見学した。
展示の前半は秦王朝の軌跡と装飾品などの展示で、後半が期待の始皇帝が夢見た「永遠の世界」兵馬俑と銅馬車(複製)の展示であった。

その展示品
          
将軍俑
約8千体のうちわずかに10体。指揮官の将軍俑は、戦闘指揮用の馬車付近で出土し、高位を示す冠をつけている。
リボン状の飾りをいくつもつけた鎧を着ています。実戦での機能性よりも装飾性を重視した身なりである。
   

軍吏俑
部隊長級の人物。武器を掲げていたと思われる重装備の豪傑。

歩兵俑
軽装備の服装で最前列に位置する。

手前が軽装備びの歩兵でその後ろが鎧姿の兵士


立射俑
弓または弩(ど)を構えたポーズをとっている射撃手

跪射俑(きしゃよう)
鎧(よろい)に身を包み、元々は右側に弩弓(どきゅう)を携えていたと考えられる。
弩弓とは、弦を張ったまま固定できる弓。履物の裏の滑り止めのブツブツまで表現している。


騎兵俑
上半身鎧の兵士。

馬丁俑
正座をする馬飼い。

雑技俑
兵士ではなく何らかの芸を下ではないか、謎の巨漢。

御者俑
指揮官が乗る戦車の操作。

石製鎧兜
およそ600から700枚の加工した厚さ4~5mmの板状の小石に穴をあけて、ひもと銅製の針金でつないでつくっている。重さは合計20kg超。出土品で完全に復元できたのはわずか。

1号・2号銅馬車
4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできている。1号銅車馬は、立車といい、銅御者1体が手綱を引いて立つ。
2号銅車馬は、安車又はおんりょう車と云い、正座した御者1体が手綱を引く。
皇帝の魂が冥土の世界でも巡幸できるように一緒に殉葬したもののようだ。 軍司令部のミニチュアまで自分の墓の副葬品として準備しており、始皇帝は死後も、墓の中から天下に影響力を持つ意思が固かったと思われる。


兵馬俑は灰色或いは茶色の兵士として出土されているが、もともとは色彩鮮やかであったとされる。
顔は肌色で、鎧兜(よろいかぶと)は黒をベースに赤い線を織り込んだデザインで統一されていたと云う。
赤や黒だけでなく茶色や緑、紫などの多彩な色をつかっていて、現に出土した俑のなかにもカラーがあったといわれ、館内でもカラーの兵馬俑の映像が流れていた。それによると髪を纏めているリボン状の紐は赤であった。

始皇帝は兵馬俑や銅馬車が伴う「写された世界」で死後も皇帝として永遠に君臨しようと望んだ。しかし秦国は彼の死後わずか3年で滅んだ。始皇帝は49歳で亡くなった。
「秦始皇帝陵及び兵馬俑坑」はユネスコの世界文化遺産に登録されている。



会期94日間で入場者は48万人余であった(朝日新聞)。


夜景があまりにも綺麗だったので
皇居二重橋側から




桜田門側から


桜田門
          
お上りさんになってしまった。


資料:東京国立博物館
訪れた日 : 2016.2.19


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内蔵のまち増田(秋田県横手市)

2016-02-20 12:46:18 | 観光
昨年の東北旅中に八甲田山で川越から来ていたご夫婦に出会った。そのおふたりはここから内蔵のまち増田を目指すと、内蔵の豪華さを話された。我々は奥入瀬を予定していたので、増田は次回にまわしたので、今回楽しみにしていたまちである。
「蔵のまち」と云うと、小江戸と呼ばれる川越を浮かべるが、川越の蔵は「見世蔵(みせぐら)」と呼ばれ、江戸時代以降に発展した商家建築の様式の一種で、土蔵の一種ではあるものの、店舗兼住宅として用途が異なることから、別格の蔵の扱いで独自の発展を遂げている。

ここ、増田町は横手盆地の一画に位置し、江戸時代では佐竹藩の領地ではあるが、伊達藩の手倉街道と小安街道が交差する要衝であって、物資の集配地として商人が栄えた。寛永20(1643)年からは朝市が始まり人の往来多かった。
明治期には、生糸、繭、葉タバコ、酒造が主力商品として、更に商業活動が活発となった。
当時の繁栄を今に伝えるものとなっているのが、商家の主屋の奥に鞘(さや)と呼ばれる上屋の中に建てられた内蔵(土蔵)である。内蔵は、この地方独特の呼称だが、雪害から保護するためにこのような造りになったともいわれる。
内蔵が残っている家は旧道である中七日町通りに面しており、19軒が公開されている。

蔵の駅・旧石平金物店【国登録有形文化財】
建築年代 主屋 明治中期  文庫蔵 明治中期
[特徴・見所]
家屋は、間口が狭く、奥行きが極端に長い増田の町割りの姿が残っている。増田町商家の特徴を残しており、
道路に面した正面が店舗で、その奥に神棚のある次の間、座敷、居間、水屋と繋がる部屋割りの基本的な配置となっている。また、覆い屋に包まれた土蔵が主屋の水屋に繋がり、主屋と内蔵が一体となった増田特有の造りとなっている。
主屋の規模は間口5~6間(9.1~10.9m)、奥行30間(54.6m)である。







佐藤又六家【国登録有形文化財】
建築年代 主屋 明治前期  文庫蔵 明治前期
[特徴・見所]
佐藤又六家は江戸時代から続く旧家で、明治28(1895)年、当町で創業された増田銀行(現北都銀行)の設立発起人の一人として創業時の取締役を務めた地域の名士の家柄。
外見上は木造の屋根の妻を張り出した大きな切り妻屋根の商家造りだが、内部は土蔵造り。
土蔵と取り付きとなる水屋の上部は吹き抜けとなっており、豪雪地帯特有の井桁に組まれた太い梁や桁が眺められる。
屋敷の奥行きは50間あり、中ほどに主屋と繋がる明治前期の建造と思われる天井の低い文庫蔵と、当時は、もう一棟土蔵が建っていたとのこと。







通り土間


戦国時代からの水路が街中をながれている


佐藤養助商店漆蔵資料館【国登録有形文化財】
建築年代 座敷蔵 大正10年  旧米蔵 大正後期
[特徴・見所]
増田の大地主であった小泉五兵衛の旧宅。小泉家は材木や味噌・醤油を商っていた。江戸時代より八代続き、戊辰戦争においては350両という増田一の御用金を納めている。
座敷蔵は大正10(1921)年に建設された。土蔵の側廻りは白黒の漆喰塗りを施し、開口部を磨き漆喰で仕上げる贅を尽くした造りとなっている。











蔵内を塗った漆は秋田の春慶塗と岩手の浄法寺塗で、木の表面を砥粉(とのこ)を混ぜた漆を5~6回埋めるように塗る。その上に、漆を2度塗りする。
そのため、80年以上過ぎても艶のある輝きを保つことができる。

旧石田理吉家【市指定文化財】
建築年代 主屋 昭和12年 
[特徴・見所]
道路からも望むことのできる木造総三階建の主屋は、六代・理吉氏によって昭和12年に上棟された戦前の建物。
現在でもこの地域では三階建家屋は珍しいものだが、まだ茅葺や低層家屋が主であった時代には今以上に特異な建物であったと想像される。


増田の朝市

朝市通りの入口に「よぐきてけだんし」、「寛永20年(1643)開始 毎月2・5・9のつく日」の看板が掲げられている。江戸初期から武士の日常生活品調達のために始まったようである。近郊農家や商店から50店余りが出店しているそうだ。

増田の内蔵が注目されるようになったのは、平成17(2005)年に写真集「増田の蔵」の発刊されてからである。
増田というまちは、昔「蛍町」と云われて賑わっていた。通りの面した入口に比べ、奥に豪華な蔵があって、夜になると各家々でその内蔵の灯りが灯った。蛍の尻が光ることになぞらえて、その光景が蛍が舞い飛ぶように見えたと云われていた。





関東圏でも「蔵のまち」と呼ばれているまちが、先ほどの川越以外に、日光例幣使街道の宿場町・栃木宿には「蔵の街大通り」と名づけられたメインストリートがある。
茨城県桜川市、真壁城の城下町・真壁町には、国の登録有形文化財が100棟以上あり、その中に多くの土蔵建築が含まれている。
また、福島県喜多方市には、酒蔵、見世蔵、座敷蔵、土蔵など多彩な蔵が4200棟以上存在し、観光資源となっている。その蔵は、今なお生活の一部に深く溶け込んでおり、活きた蔵の姿を主張しているそうだ。


訪れた日:2015.8.19


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あきたこまちは茨城産?

2016-02-16 17:59:15 | 観光
東北旅行第2弾は、日本海周りとして最初の訪問地は小野小町ゆかりの地である湯沢市小野地区である。


 

小町は、公には生没年不詳されているが、この地元の伝説では、大同4(809)年に出羽郡の長である郡司小野氏の娘として生まれた。(古今和歌集にも出羽郡司娘と書かれている)
小野氏は遣隋使で有名な小野妹子(おののいもこ)を祖先とする貴族である。また、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという小野篁(たかむら)の孫娘ともいわれる。そして歌人の小野道風とはいとことも云われるのだが。
生母は地主の娘とも言われ、小町を生んだ後体調をくずし早くして亡くなっている。
13歳の折り、父が都に戻るので、随行する。16歳で宮中に上がり、時の帝に更衣として仕える。更衣とは、帝の妻のうちで、皇后、中宮、妃、女御、更衣という順位の中で、小町は一番下の更衣の位であった。更衣は御殿は与えられず、建物内を屏風や几帳(きちょう)で間仕切りをした簡素な部屋で生活をしていた。その部屋を“町(まち)”と言われていたことから、小町と呼ばれるようになったのではないかと云われている。
仁明(にんみょう)天皇の更衣に、“小野吉子(おのの きちこ)”という女性がいたことが、「続日本後記」に記されており、この吉子こそが、小野小町だったのではという説がある。

36歳で小町は小野郷へ帰って来る。京では小町が居なくなったことで嘆き悲しむ者たちがいた。深草少将(ふかくさのしょうしょう)もそのひとりで、小町に思いを寄せ、遂に小町を追って身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝える。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬(しゃくやく)を植えてほしいという内容であった。
ここに少将の百夜通いがはじまるが、99本植えた後、満願の百日目は、暴風雨で川が氾濫し、橋ごと少将は流され、死んでしまった。
深草少将は、山城深草(京都市伏見区)に住んでいた少将という意味で本名は良峰宗貞(よしみねのむねさだ・姓は良岑とも)。出家して遍照(へんじょう。遍昭とも)といった。有名な六歌仙の一角に位置する男である。
彼の父は、平安京造営者・桓武天皇の皇子で、大納言まで昇進したエリート官僚である良峰(良岑)安世(やすよ)といった。

小町は少将の亡骸を二つ森に埋葬し、晩年は岩屋堂に篭もり自像を彫ったと云われており、昌泰3(900)年、享年92歳で亡くなる。
小町の伝承は、全国28都道府県に100箇所以上が伝わっており、其のほとんど確証がないので小野地区の話を中心にまとめた。

小野小町と深草少将が眠る場所とされる二ッ森

小町は平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
歌に関して秀でた人物で、特に百人一首で歌われた「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」はあまりにも有名。
歌の意味は、「桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に」とある。


百人一首のかるたなどで描かれる小野小町は、十二単を着て長い髪の姿の美人画で知られているが、これは鎌倉時代(13世紀)に描かれた佐竹本36歌仙の絵姿による影響によるもので、実際の小野小町は天女のような服装で宮仕えをしていたと思われている。そのために、その美しさは着物をとおしてして輝いていたといわれる。芍薬の花香る6月の第二日曜日に小町まつりが開催される。会場は小町の郷公園である。市内から選ばれた7人の小町娘が市女笠姿で登場し、小野小町が詠んだ七首の和歌を朗読し奉納する。
   
  

小町の郷公園












「秋田音頭」の歌詞にも『コラ、秋田の女ご何どしてきれ(い)だと聞くだけ野暮だんす (アーソレソレ) 小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげ』とあって、小町を秋田美人のルーツとして歌っている。
それだけではなく、姿かたちの美しさと心の美しさがひとつになって、はじめて秋田美人と云えるとのことだが、なるほど小町の母親は土地の人なのでその時代にも美人がいたかも知れぬ。だが、テーマの『秋田こまちは茨城産?』は、小町の時代からおよそ800年流れた徳川幕府が誕生したころの話となる。

関ヶ原の合戦の結果、徳川家康の天下となり、諸大名の国替えが行われた。
常陸国(現在の茨城県)の54万8000石の大名佐竹氏も20万5千石に減ぜられ秋田への国替え命じられた。その際佐竹の殿様は、腹いせとして旧領内・常陸国の美人全員を秋田に連れて行ってしまい、その後水戸に入府した殿様が佐竹氏へ抗議したところ、秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきたという。そこで、秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地のひとつ(ほかは仙台と名古屋)になったというお話し。
つい最近、ある歴史のTV番組で佐竹氏の末裔が登場、その際に美人の秋田へのこの話が出たが、否定はしなかった。但し積極的な肯定もなかった。

こうして?、色白で目がぱっちりとして鼻筋が通った秋田美人が生まれたとしたら面白いのだが。
下の写真、秋田県内に「ユタカな国へ あきたびじょん」のポスターとして使われているのだが、ここ、小町の郷「おがち」道の駅にも貼ってあった。


     

この美人の撮影は、昭和28(1953)年のことで、モデルは当時19歳、高校生三年生と云われる。
モデルの女性は、作品が発表されたのち、モデルの依頼が数多くあったのを断り、古典バレエの道を歩む。その後代議士秘書を務めたあと、日系二世の実業家と結婚し、ロスアンゼルスに住んでいる。いつも故郷を想い、たびたび桜の季節にはほぼ毎年、秋田へ里帰りしていていたとのこと。平成22(2010)年に亡くなられた。
この写真は、平成25(2013)年に秋田県広報室が作成した英文パンフレットの表紙にもなっている。

次の増田の内蔵見物に向かう。
訪れた日:2015年8月19日


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