あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

寺家ふるさと村を訪ねて

2013-06-29 07:00:00 | 散策
         

東急田園都市線の青葉台駅で下車。寺家ふるさと村へは[青30]鴨志田団地行きに乗って10分前後で到着する(もう1便、[青30]寺家循環バスのある)。
寺家町の外側から固めてと、先ずは鴨志田町を歩く。

鴨志田の板碑
バスを降りて、鴨志田中学校の敷地沿いに東に向かうと、集合墓地があり、その一角に板碑が小祠の中に置かれている。
この板碑(いたび)は解説によると、材質が秩父産の緑泥片岩で、阿弥陀如来一尊種子板碑である。碑面には阿弥陀如来を現わす種子(しゅじ或いはしゅうじで仏・菩薩の象徴として書き表す梵字(ぼんじ))「キリーク」が大きく薬研彫りされている。紀年銘は寛元(かんげん)と刻まれている。今から930年以上も前の鎌倉時代の造立である。
板碑の分布地域は主に関東であるが、日本全国にも分布している。ただし材質が異なっているようだ。設立時期は、鎌倉時代~室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。

この板碑は「念仏堂跡」に置かれていたものを区画整理のためこの地に移転したという。

板碑に彫られている「弥陀如来」を現わす梵字


甲神社
さらに東へ5分ほど歩いたところに甲神社がある。

創建の年代は不明であるが、戦国時代と伝えられる。御神体が石剣に似ているので祭神・日本武尊、社名・甲神社と称したのも武士の尊崇が篤かったことが推察される。鴨志田町の産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ・生まれた土地の守護神を指す)として尊崇されている、と解説されている。
参道には石像物が祀られている。
     
中央画像はおよそ200年前の1816(文化13)年に造立された不動明王像で、『西 大山みち』と刻まれ、道しるべにもなっている。
右画像の地神塔は1827(文政10)年で『左 大山道、長津田』とこれも道しるべを兼ねている。
    
中央画像は千手観音庚申塔のようだ。右画像は願主平五郎、1861(文久元)年、稲荷大明神と赤山大明神と刻まれている。赤山(せきざん)大明神は聞いたことがなかったので調べると、京都・延暦寺別院赤山禅院に祭られている天台宗の守護神。延命富貴を司り商家の信仰を集めた、とある。

甲神社の横の道を北上すると、いよいよ寺家ふるさと村にはいる。
「寺家」という呼称は「新編武蔵風土記稿」によると、王禅寺末寺である臨水山桂月院東円寺という寺院が1922(大正11)年に柿生の王禅寺に合併するまで、この地にあって、この寺院が寺家の地名と関連があるのではと考えられているが定かではない。
中世・鎌倉時代は「吾妻鏡」には、当地は頼朝に従った鴨志田一族の領地であったが、畠山重忠と共に倒れる。「鴨志田」という名は現在でも町名として残っている。そのあとに入ったのが、大曽根・金子一族の先祖である。
小田原北条時代、北条氏直から大曽根飛騨守あての古文書が残されており、大曽根氏は鴨志田・寺家の小領主として軍役を負う替わりに年貢は免除されている。
下山治久氏著『横浜の戦国武士たち』によると、足軽2人、中間1人を従えて戦場に臨んでおり、その姿の復元模型が横浜市歴史博物館に保管されている。その写真を見ると、飛騨守が着けている、兜の前につける飾りのような「前立」の長さには驚く。実に1m73cm(5尺7寸)の大きな装飾である。乗っている馬にも金箔の馬鎧を被せ、金の家紋を添付してあるという。横浜市歴史博物館に展示してあるのなら一度見てみたい。
徳川初期には金子氏を名乗り、小領主として暫くは年貢を免除されていた。その後一時、鴨志田・寺家は旗本・筧(かけい)小座右衛門の所領となるが、中期には再び大曽根氏に戻っている。
文禄及び元禄の検地帳等の古文書によると、1697(元禄10)年には37戸が農業に従事しその後、1843(天保14)年には28戸に減少しており、農産物は、米およそ3t(98石)の他、大麦、小麦、粟、ヒエ、ソバ、ゴマ、生糸、醤油、桑が記録されている。
1877(明治10)年の改正戸籍では29戸、人口143人、田畑・山林・宅地の総計は75.7ha(76町4反)余となっている。明治から大正時代にかけては養蚕が盛んとなる。
村の水田は天水に依存し、各谷戸の奥には先人達の努力により、用水池が6箇所造られていたといわれるが、現在は、新池・居谷戸池・むじな池・大池・熊の池の5池である。

その5池と「ふるさとの森」を中心に歩いてみた。
案内所の「四季の家」で散策マップを20円で買ってスタートである。

         
「四季の家」前を流れる用水を渡って突き当たった道を西に進む。


郷土文化館というから寺家に因んだ品を展示しているのかと思ったら、食事のスペースもある展示場のようで、その日は神田小川町に住む方の藍染の展示をやっていた。


古い水車小屋が残されているのかと思ったが、「寺家町小川のアメニティ」の一環で造られった水車小屋。、後ろに新池という池があるのでそれを流しているのかと思ったら、小屋のそばにある小さな池の水をポンプで循環しているようだ。小屋を覗いたらポンプの操作盤がみえた。


新池の横の道を居谷戸池に向かう。小いさな山を越えるような感じで道は造られている。殆ど人は通らないようで何度となく蜘蛛の糸に引っ掛かった。竹林の中を進んで行くとかなりの数竹が倒されている。真竹なのか細めなので風の勢いで折られたようにも思える。
竹林を下ると右手に水田、左手に池が見えた。


「いやといけ」と読むのかルビをふっているサイトが見つからなかったし、池に置かれている案内板もルビがふっていないので定かではない。
居谷戸池は一番奥まったところにあるのであまり人は訪れないようだ。池の中には赤い鳥居と小祠が祀られている。弁財天のようだ。

居谷戸池の通りには、茶釜師のお宅が案内図に茶釜の絵として示されている。それらしき工房が高台にあることを確認したが、現地に何も示されていないとは、それこそ絵に描いた餅である。
寺家にはもう一軒、茶釜師があると案内図に茶釜の絵で示されている。このお宅もやはり解らない。やっと表札をみてそれらしきお宅と判断した。

先ほどの水車小屋のある道に戻る。
途中、ある民家でトケイソウの花を見つけた。わが家にも2株ほどトケイソウが植わっていたが、花の命は短くて、わが家の花は終わっていて一度も見ていなかった。観賞出来てうれしかった。


水車小屋の通りを歩いて行くと水田の石垣が立派に組まれていることに驚く。何時頃組み上げたのか。城壁を組む方法と同じ野面積みである。
水田の脇には赤く熟した木イチゴがなっている。
水田に目を落とすとカラスが3羽えさをついばんでいる。この辺りのカラスは水田にエサを求めてゴミ袋荒らしはしないのだろうか。


「ふるさとの森」の案内杭が置かれているがここからは入らずもう少し先に進む。
オカトラノオが群生している。この先幾度か見かける。


あぜ道にカモが2羽休んでいる。水田の雑草や害虫を食べて農家の手助けをしているようだ。
むじな池に着く。
大池まで行くのだがこちらの水田は町田市である。丁度市界を歩いていることになる。


大池に着く。その名の通り寺家の池の中では一番大きいようだ。
「ふるさとの森」のはずれから入っていく。
前日の雨でぬかるみも多々ある。

森の最高高さと思われる場所に着く。周りは樹木だらけなので、奥深いところに入り込んだと思ったら。スポーツ競技をしている歓声が近くから聞こえてくる。深山の感傷には浸れない。後で地図を見たら日体大のグランドが森の隣にあるようだ。
それにしばらく進むと駐車場が下に見える。やはりここは横浜市だ。


東屋もところどころにあるようだ。
熊の橋。下の歩道が続く。

5つ目の池、熊の池である。
へら釣り専門の池だそうだ。遠くから赤い幟旗が見えていた。
熊の池の下にもこの池の天水を利用した水田が広がっている。


山野草、蘭、茶花の販売をしている千草園を通り過ぎると、赤い鳥居が見える。
2社とも稲荷神社と思われる。藪の中に埋もれているのは個人の小祠であろうか。

熊野神社の由来記には、創建は不明であるが武蔵野風土記稿に、9尺2間の社(熊野社)が寺家村熊野谷にあると記録されている。当地では昔から熊野様と呼ばれている。
もう少し調べると、もともと、この神社は鎌倉の御家人安達氏の一族であった大曽根氏が、港北区師岡にあった熊野神社を、 一族が領有することになった寺家に分社したもので、もとは寺家の入口の東円寺にあったが、 焼けてこちらへ移したものである、とある。



これで寺家ふるさと村の散策は終わりである。
今日、6月29日は地井武男さんの一周忌である。
「ちい散歩」で二度ほど訪れた「寺家ふるさと村」を一度は訪れて見たいと思っていたので、この機会に、地井さんの冥福を祈る意味も兼ねて梅雨の合間に寺家町を歩く。
この日も晴れ男の神通力が未だに通用して、晴れ間も見え腕が日に焼けて黒くなる。


「ちい散歩」に因んだ場所として、3年ぶり2回目に訪れた内の一カ所「木工アパートメント」を今回お邪魔した。

地井さんが訪れた時は、枡を大きくして横にしたような園児用の椅子を造っていた。
今回は階段木琴という木工品を造り直していた。螺旋階段状のところに数台の木琴を、また4本の棒状のところにも木琴を固定して子供達にたたかせる楽器である。
5人の若手が共同で工房を持ち、お互いに刺激し合う仕事場が寺家には相応しいと地井さんは述べていた。
「ちい散歩」でいつも書かれているその日の1枚の絵は、春先に訪れて、コブシが青空に春を告げて咲いている姿に感動を覚え描いている。
寺家ふるさと村は、地井さんが『ここに住むかな。住みたくなったな』と云わしめた町である。


                    関連 : 【追悼】 「ちい散歩」の先取り散歩                     
                          「ちい散歩」最後の谷根千を行く

二十四の瞳の小豆島(瀬戸内を巡る9終)

2013-06-25 19:19:11 | 瀬戸内を巡る
 

二十四の瞳の小豆島
四国・高松港からカーフェリーで1時間。小豆島・土庄港につく。
入港すると、右手に小さな公園があって「平和の群像」というタイトルで、女先生と12人の生徒からなる二十四の瞳のブロンズ像が置かれている。
題字は当時の内閣総理大臣である鳩山一郎さんで、1951(昭和31)年に除幕されている。

土庄港というと、私はこんな歌を思い出す。
             波止場しぐれが 降る夜は
             雨の向こうに 故郷がみえる

             ここは瀬戸内 土庄港(とのしょうみなと)
              一夜泊まりの 重ね着が
              いつかなじんだ ネオン町

石川さゆりさんの演歌「波止場しぐれ」の一節である。
土庄港が瀬戸内のどこかの島の港であることは、この歌で知っていたが、恥ずかしながら今回の旅で、はじめて土庄が小豆島にあることを知る。
港の周辺は演歌のイメージとは裏腹に瀬戸内の明るい町の印象であった。


「平和の群像」が置かれている公園にはほかに、小豆島らしく「オリーブの歌」「オリーブの女神」や「愛」の記念碑がオリーブの木に囲まれて置かれていた。

左は平和のシンボルオリーブ樹に因む「オリーブの歌」製作の記念碑である。
歌は二葉あき子さんが歌っている。
右手「愛」は地元香川県が生んだ当時の内閣総理大臣大平正芳さんの記念碑である。
偶然にも訪れた日が、大平正芳さんの命日であったことを翌日の新聞で知った。ただ、地元といっても出身は対岸の四国のようだ。

土庄港から車で50分ほどの「二十四の瞳映画村」に向かう。これも恥ずかしながら小豆島がこんなに大きな島だとは思ってもみなかった。

昭和三年四月四日、農村漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、わかい女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形をみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へいくには小舟でわたったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてくあるいたりせねばならない。
交通がすごくふべんなので、小学校の生徒は四年までが村の分教場にいき、五年になってはじめて、かた道五キロの本村の小学校へかようのである。
手づくりのわらぞうりは一日できれた。それがみんなはじまんであった。

小説「二十四の瞳」の書き出しである。
女学校を出て赴任した女性教師と、その年、小学校に入学した12人の生徒のふれあいを軸に、日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていくこの教師と生徒たちの苦難や悲劇を通し、戦争の悲壮さを描いた作品である。
舞台は、「瀬戸内海べりの一寒村」で、昭和の戦前期、終戦、その翌年までの18年間を描いている。

二十四の瞳映画村
映画村の施設は、映画「二十四の瞳」の2作目である、1987(昭和62)年公開映画での小豆島ロケのオープンセットを活用した施設群である。この時のおなご先生は田中裕子さんである。
 
         
      

旧苗羽小学校田浦分校(旧田浦尋常小学校)
「岬の分教場」として映画の主要な舞台になった。
この分教場は、映画村の手前800mに1972(昭和47)年の閉鎖まで70年間、村の小学校として使用された校舎がモデルとなっている。
小説での舞台は、「瀬戸内海べりの一寒村」であったが、映画では、1作目から原作者の壺井栄の故郷「小豆島」となった。
         
      
         
         
         
ギャラリー「松竹座」
1階の映画館では木下惠介監督・高峰秀子主演「二十四の瞳」が上映されている。
         
「せんせ、あそぼ!」の像と奥が「二十四の瞳」上映館

セット施設
         
         
         
この堀には鯛、ボラ、鯖、フグ、ウマヅラハギなど8種の海の魚が泳いでいる。
     

汐江海岸
         

二十四の瞳天満宮
         
その他、壺井栄の愛用品や東京にある旧邸内のいろりの間、応接の間などが再現されている「壺井栄文学館」や1950年代の日本映画黄金期作品の映像や写真などの資料を展示している「キネマの庵」などの施設もある。

岬の分校場
1902(明治35)年、田浦尋常小学校として建築された校舎で、1910(明治43)年からは1971(昭和46)年までは苗羽小学校田浦分校として使われていた。
         
         
         
         
「二十四の瞳」の舞台となり一躍脚光を浴びた。
1954(昭和24)年製作の高峰秀子主演、木下圭介監督の映画「二十四の瞳」では数多くの撮影がここで、行われた。
         
         


         

日本中の国民が涙した映画「二十四の瞳」
         

マルキン醤油記念館
小豆島の盛んな産業は、素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどがあげられる。
壺井栄の父親も関連する醤油樽の職人であったようだ。
二十四の瞳映画村や分教場を見学した帰り、醤の郷(ひしおのさと)にある、マルキン醤油記念館にたちよる。
醤の郷とは、小豆島にある近代以前の醤油蔵建築が集積する、醤油蔵通りと苗羽地区および馬木地区の散策路と地域を指すとのことである。醤油や佃煮の工場が集まっている。
その中のひとつにマルキン醤油(現盛田株式会社小豆島工場)があり、1907(明治40)年創業当時のままの醤油蔵がいくつか今も残っているという。
         
         
          絞り器
   

福田港から姫路に
午後、福田港からカーフェリーで姫路港に向かう。
         
         
姫路港へは所要1時間40分。

4日間の旅は終わった。
計画では6日間の予定であったが、台風3号が四国に上陸または接近か、という天気予報が出されたのであわてて短縮4日の旅となった。
だが、四国に渡ると天気は上々、関東地方は雨だと云うのに晴れ男の神通力が効いたようだ。
とはいっても、双六ではないので振り出しに戻ってスタートなんてできないので、フルスピードの「瀬戸内を巡る」となってしまった。何せ、2,700km未を4日間で走行したのだから。
機会があったら次は、『日本を今一度せんたくいたし申候』の竜馬の故郷にでもお邪魔したい。



                 関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
                       閑谷学校(瀬戸内を巡る2)
                       備前焼で飾られた天津神社(瀬戸内を巡る3)
                       白壁の町並み倉敷を歩く(瀬戸内を巡る4)
                       しまなみ海道とタコ飯(瀬戸内を巡る5)
                       三大水城のひとつ・伊予国今治城(瀬戸内を巡る6)
                       祖谷のかずら橋と大歩危峡(瀬戸内を巡る7)
                       回遊式日本庭園・栗林公園(瀬戸内を巡る8)


回遊式日本庭園・栗林公園(瀬戸内を巡る8)

2013-06-24 13:52:21 | 瀬戸内を巡る
回遊式日本庭園・栗林公園

         
栗林公園は、室町末から戦国初期の元亀〜天正年間(1570~92)、生駒氏の家臣・ 佐藤志摩介道益が別邸を築いたのが起源で、のちに生駒家の下屋敷 となってから整備された。
江戸期になって、寛永年間(1624~45)、高松藩初代藩主・松平頼重が この地に江戸城内の吹上庭園(現在の皇居内吹上御苑)を模した庭園として本格的に築造を開始し、100年の歳月にわたり、歴代藩主が手塩にかけ、五代藩主・頼恭の時代に完成させた。
建築当時、庭内、特に北側には凶作の備えとする備荒林として、多くの栗が植えられていたことから「栗林」 と愛称され、この頃から「栗林荘」または「御林」と呼ばれたようだ。
それから約200年たち、鴨狩りを趣味とする十代藩主・松平頼胤の時代に、栗林がある北側一帯を鴨場とした。そして1850(嘉永3)年、鴨猟に支障をきたすとして北庭に大掛かりな伐採を行い、栗の木は3株を残すのみとなった。
         
上の画像は、鴨引き堀と小覗(このぞき)で、この奥に群鴨池(ぐんおうち)と呼ばれる池を中心とした鴨場がある。鴨猟は、弓や鉄砲を使うのではなく、野生の鴨を網で生け捕りにしていたそうで、その網は昆虫採集の網を大きくした網のようであった。

75万平方メートル(およそ23万坪)の広大な園内には、およそ1,400本の松が植わっている。他の庭園でも、金沢の兼六園で約600本、岡山後楽園は約300本に比べと多い。
何故に日本庭園には松なのかであるが、平安時代から江戸時代に至るまで日本庭園の特徴は、「縮景」という技法を使っている。それは、自然の風景を模した庭園を造ることである。
そこに松を植えることで、手入れによって樹木の高さを抑え、島や築山とのバランスを崩すこととなく何時までもその庭の風景を変えることなく保てるということだ。そのために松が使用される、それは納得である。

一方、こんな考えで松は植えてもいるようだ。
日本人は、常に緑色を変えない意味の常盤の松や散る桜に、日本人の心情と美学の根底を見出すことができるといわれるが、8世紀末ころなって、和歌などにも松が詠まれ始め、松に対しての心情が日本人に備わったものと思われる。その後、武士の時代となると、松の常緑の葉はその品位が儒教思想と結びつき、鎌倉時代から「忠」を尊ぶ武士道を象徴するものとされてきた。そして松は、庭木の中でも年中緑を絶やさず、枝ぶりも王者の風格をもつ樹種であることから、松が園内一面に植えられていったようだとある。
だが、庭園の王者の松も1年である一時期には、その主役の座を譲らなければならない。春の桜と秋の紅葉である。だが、その時期に於いても、ピンクや赤・黄の色を松の深い緑がしっかりと引き締めている役目をする。
栗林公園もその季節にはライトアップをするようだ。

庭園の完成された美しさは水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園をしのぐと評価され、特別名勝の指定を受けている。
また、日本に関する旅行ガイド・ブック「ミシュラン」では三つ星に格付けされる。
米国の庭園専門誌の「2011年日本庭園ランキング」で、足立美術館(島根県)、桂離宮(京都府)に次ぐ3位を獲得するなど、大名庭園として栗林公園は国内外からも高い評価を得ている。


園内を1時間コースで歩いてみた。
花しょうぶ園
         
花しょうぶは、日本に自生するノハナショウブから改良された園芸種で、江戸時代中期より、江戸系、肥後系、伊勢系など育成地ごとに多くの品種改良がなされた。         

舟蔵跡
藩主が舟遊びをした時の舟を係留していた場所で東隈(とうわい)とよばれている(左)。右は現在の船着き場。

         
和船に乗って30分ほど、庭園の歴史や四季折々の風景を解説する。昨年から開始したようで、文化財指定の庭園で定期的に舟を運航するのは全国で初めてという。

掬月亭
         
江戸時代初期(1640年)ころに建てられた回遊式大名庭園の中心的建物。歴代藩主が大茶屋と呼び、最も愛用した。中国の詩の一部「水を掬すれば月手にあり」から掬月亭(きくげつてい)と命名。

恋つつじ
         
南湖の杜鵑嶼(とけんしょ:杜鵑とはサツキのこと)という島にあるハート形をしたツツジは、剪定作業で偶然にできたもの。カップルや結婚式の前写しの背景などとして人気の撮影スポットになっている。

楓岸(ふうがん)
         
一面に広がる苔や楓の姿など、変化に富んだ光景を鑑賞できる。とりわけ優美に枝を張っている楓は四季折々にその装いを変える。


         
         
                紫雲山を背景とした庭園

                 関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
                       閑谷学校(瀬戸内を巡る2)
                       備前焼で飾られた天津神社(瀬戸内を巡る3)
                       白壁の町並み倉敷を歩く(瀬戸内を巡る4)
                       しまなみ海道とタコ飯(瀬戸内を巡る5)
                       三大水城のひとつ・伊予国今治城(瀬戸内を巡る6)
                       祖谷のかずら橋と大歩危峡(瀬戸内を巡る7)


がんばれ!わが家の根性ツバメ

2013-06-23 13:52:11 | 生きもの
4月11日付けで『再びわが家にツバメが飛来』とツバメがわが家で今年も巣づくりを始めたことを書いた。
         
それから20日ほどたち雛の声が聞こえるようになった。
数日たった午後、学校から帰ってきた家族の者が、わが家に入るとたん、ツバメの雛が玄関口に落ちていることを告げた。
見ると、産毛のツバメが1匹死んで床に落ちていた。可哀そうなことだ。カラスの仕業であろう。
昨年もカラスと思われる鳥が玄関ドアに当たる音を耳にしたことがある。それでも昨年は2羽であるが巣立った。
今年は何たることか。その翌日、今度は巣が前回に近い状態に壊された。「悲しい」というしかあるまい。

         
         

これで、今年の子づくりは終わりだろと家族の中にも暗い空気が流れた。
しかし、ツバメは強かった。
10日後にはさらに強固な巣をつくり上げていた。
うれしさえあった。

         

だがその喜びもつかの間。
10日ほどたった日である。
再び、学校から帰ってきた家族の者が、ツバメの巣が落ちていることを告げた。
あわてて外に出て見ると巣は壊滅状態となっていた。欠けた卵もひとつ落ちていた。

         
         
完全壊された巣

         
親と思われるツバメが遠くから眺めている

軒下を貸している大家として、何か保護することは出来ぬだろうか。
出来ることなら、玄関口に箒をもって立っていたい気持である。
今度こそ今年は終わりだなと思った。


でも、ツバメは強かった。
泥と枯草を唾液で固めて短期間で3度目の巣をつくり上げたのである。

         
3度目の子づくりが始まった。
産卵期は7月までのようなので雛の巣立ちには十分間に合う。
だが、2度も味をしめたカラスが気ががりである。大家は、傍観きり出来ないのか。

がんばれ!わが家の根性ツバメ。
そして昨年のように、ツバメが巣立った明るい話が出来ることを望みたい。


                 関連 : 再びわが家にツバメが飛来
                       わが家にツバメが飛来そして巣立つ

祖谷のかずら橋と大歩危峡(瀬戸内を巡る7)

2013-06-22 13:14:18 | 瀬戸内を巡る
祖谷のかずら橋

         
祖谷(いや)のかずら橋は日本三大奇橋のひとつ。日本三大奇橋は、ほかに岩国の錦帯橋と甲斐の猿橋が挙げられる。
かずら橋は山のシラクチカズラを利用したつり橋である。長さ45m、幅2m、谷からの高さ14m。国の重要有形民族文化財となっている。
         
      
                  
その昔、平家の落人がこの地に潜み、追手が迫ってもすぐに切り落とせるように葛を使って架設したとの伝説があるが定かではないという。ほかの説としては、弘法大師が祖谷に来たとき困っている村民のために架けたというのだが、弘法大師の話は日本全国にあるので平家の落人が、すぐに切り落とせるような橋を架けたという伝説がロマンがあって楽しい。
古文書によると、むかしは、7ないし13の橋が存在したとされる。
このかずら橋とは別に、奥祖谷二重かずら橋と呼ばれる橋もある。車でここから20km余離れたところにある。そのかずら橋は、通称「男橋女橋(おばしめばし)」とも「夫婦橋(みょうとばし)」などとも呼ばれている。男橋は、長さ42m、女橋は20mが並んで架かっていて、女橋の横にはロープをたぐり寄せて川を渡る人力ロープウェイ・野猿(やえん)もある。この橋も平家伝説で、平家の馬場での訓練に通うため架設したといわれている(下の画像は奥祖谷二重かずら橋)。
         
かずら橋が知れわったのは、1970(昭和45)年に国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンで登場したことからのようだ。
下の画像は昭和30年代のかずら橋、床の横木の間隔が今より広いと思われる。当時の祭りの風景も残されている。


かずら橋はもっと長いようなイメージだったが45mと比較的短い。だが、渡る人にとっては床木の隙間から14m下の川を真下に見て渡ることで、長いのか短いのか。
あとでわかったのだが、この橋、安全のためにワイヤーが使われていてそのワイヤーをかずらで包み込んでいるという。これ、当然かもしれないが、あとから知って良かったかも。

かずら橋から上流に数分歩いたところに琵琶の滝が流れ落ちている。
平家の落人たちが昔日(せきじつ)の古都の生活をしのびながら滝の下で琵琶をかなでつれづれを慰め合ったというと書かれてある。

「祖谷の粉ひき節」の碑が、かずら橋が眺められる下流の永久橋にたてられている。
『祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣の如く風も吹かんのに ゆらゆらと吹かんのに 吹かんのに 風も風も吹かんのに ゆらゆらと・・・・・』と、かずら橋のことを歌っている。
         
どんな節まわしなのか、聞いたことあるのかな。と知らべて行くと。
この歌詞は、「祖谷の粉ひき節」とも「祖谷の粉ひき唄」とも言われているようで、「祖谷の粉ひき節」の保存会のウェブサイトには「祖谷の粉ひき節(いやのこひきうた)」と書かれている。多くの歌手が「祖谷の粉ひき唄」として歌っているようだ。
調べていくうちに、東祖谷地区に、「東祖谷の粉ひき節」という東が付く粉ひき節があることを知った。
『うすよ はよまえ(回れ) はよもうてしまえ 門に立つ殿 待ちかねるよ さあヨイトヨイヨ』
祖谷地方のそばの実を石臼で挽きながら歌った労働歌が「祖谷の粉ひき節」であった。恋や冗談を交えて亭主が出稼ぎに出た後を守る祖谷の女たちのたくましさをあらわした即興でつくる歌だという。こちらはローカル色強い素朴な歌である。
むかし、NHK「新日本紀行」という番組があったが、1970(昭和45)年「山里に生きた女たち 祖谷 粉ひき節」というテーマで紹介したようだ。そばすべしやそば米雑炊というそば粉を使った郷土料理も紹介している。

祖谷渓の旅館とかずら橋の間の観光ルートをかずら橋タクシーが、1965(昭和40)年前後のバス2台で運行している。この車は、ヘッドライトが4灯なので、1966(昭和41)年製のバス。
         
         

今回の旅、瀬戸内巡りであって、かずら橋にはかなりの距離入るのだが、私の達ての希望で訪れる。


大歩危峡

地名のいわれは、漢字から来ると「大股で歩くと危険」からのようだが、「ほき」とか「ほけ」は断崖を意味する古語であり、「おおぼけ」となったとも。
地元の阿波史では「大嶂」の字を充てているが、明治の地租改正では、「大歩怪」の字を充てている。その際、「こぼけ」には「小歩危」の字を充てていて、のちに「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになったとある。
なお、広辞苑には「大崩壊」という漢字もあった。
小学校の日本地理名で大歩危・小歩危が必ずでてくる地名である。。
                  


                 関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
                       閑谷学校(瀬戸内を巡る2)
                       備前焼で飾られた天津神社(瀬戸内を巡る3)
                       白壁の町並み倉敷を歩く(瀬戸内を巡る4)
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                       三大水城のひとつ・伊予国今治城(瀬戸内を巡る6)




三大水城のひとつ・伊予国今治城(瀬戸内を巡る6)

2013-06-21 10:56:11 | 瀬戸内を巡る
今治城


今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(四国・愛媛県今治市通町)にあった城である。
1602(慶長7)年、藤堂高虎によって築城開始され、1604(慶長9)年に完成した(慶長13年完成の説も)。
構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異なもので、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所、今治らしい広大な掘や港(舟入)などを備え、海を最大限に活用した城となっている。このため日本三大水城の一つに数えられている。
三大水城とは今治城の他、高松城(香川県高松市)、中津城(大分県中津市)を指す。
また、日本ではじめての層塔式天守が造られるなど、織田・豊臣期の城郭とは異なる革新的な建造物で、高虎が築城の名手といわれる所以でもある。
現在では遺跡として石垣と内堀が残るが、5重6階の天守(鉄筋コンクリート)・鉄御門(くろがねごもん)や櫓(やぐら)などともに可能な限り江戸時代の史実に基づき復元されている。
但し天守にあっては、往時の天守は亀山城に移築されたと伝えられ、亀山城の明治初年に撮影された古写真や平面図を参考にして再建したようだが、外観が違っているとか、建つ位置も違っているとの批評があるようだ。
日本100名城(79番)に選定される。

         
         

 
鉄御門(くろがめごもん)
         

天守
         

御金櫓
         

武具櫓
         

山里櫓
         

藤堂高虎
藤堂高虎(とうどうたかとら)は、1556(弘治2)年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県)で生まれる。
1570(元亀元)年、15歳で浅井氏に仕え姉川の戦いで初陣する。その後豊臣秀吉の弟・秀長に仕え各地を転戦する。更に、秀吉の下で2度の朝鮮出兵に加わり、伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)7万石を与えられ、秀吉直属の大名となる。
しかし、早くから徳川家康の力量を見抜いていた高虎は、秀吉の死後は家康と親しくし、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、東軍の先方として戦功をたてた。以降、家康に忠実に仕え、伊予国今治(愛媛県今治市)20万石のこの領地の大名になる。そして、53才の時、転封(国替え・幕府の命令で、大名の領地を他に移すこと)となり、伊勢安濃津と伊賀上野に領主移転する。
家康からの信頼は厚く、家康が臨終の際、「われ来世において、権現となろう。天海と藤堂高虎は長くわれの左右にあって徳川家の守護となれ」と語る。
家康の遺言により、1627(寛永4)年に、高虎と天海僧正が上野東照宮を造営する。東照宮内には、高虎像と天海像も置かれているという。
現在の東京・上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京・上野の地名は、高虎の拝領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
1630(寛永7)年、高虎は江戸の藤堂藩邸でその生涯を終える。享年75歳。その霊は三重県津市にある津藩藤堂家の菩提寺・寒松院に奉られているが、上野動物園内のも墓がある。その墓は動物慰霊碑の近くにあり、はじめは動物の墓と思ったが、余りにも立派で古めかしいのでいろいろ調べ藤堂家の墓と知る。以前家族と動物園に行った際に移した写真があったはずなので、探したが見つからなかった。


吹揚神社
吹揚神社は、往古より今治市内各所に御奉祀されていた神明宮、座王八幡宮、蛭子宮、厳島明神の四社を廃藩の際、城内本丸に合祀鎮座したもの。吹揚城の城名をとり「吹揚神社」とし、郷社、県社となった。
のちに藤堂高虎も奉った。
         
         

ここを訪れた時刻は既に閉館の17時を過ぎていた。
お堀の外から外観だけでも、と来たのだが、正面の鉄門が開いていた。どこまで進めるのかいけるとこまで進もうと天守前の広場まで来れた。
当然、天守の入口は閉ざされていた。時間で閉まるのは天守、鉄御門や櫓など建物内のようだ。
館内は観ることが出来ないが、観光客がいない静かな雰囲気の中で天守を眺めることも一興である。



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                       しまなみ海道とタコ飯(瀬戸内を巡る5)


しまなみ海道とタコ飯(瀬戸内を巡る5)

2013-06-20 11:20:44 | 瀬戸内を巡る
         
「瀬戸内しまなみ海道」或いは単に「しまなみ海道」は西瀬戸自動車道の愛称で、本州・広島県尾道市と四国・愛媛県今治市間、全長おおよそ60kmを結ぶ架橋ルートを指している。
このルート間には、かつて瀬戸内海最強の「村上水軍」が勇壮な海のロマンを繰り広げた島々が点在している。
大きな島でも、向島(むかいしま)・因島(いんのしま)・生口島(いくちじま)・大三島(おおみしま)・伯方島(はかたじま)・大島の6つがあり、それぞれの島々に形の異なった架橋を結んでいて「橋の美術館」とも呼ばれている。
また、「しまなみ海道」は、徒歩や自転車でも渡ることができ、本州と四国を結ぶ連絡道路としての役割はもちろん、島々に住む人々にとっての生活道路としても大きな役割を果たしている。
島々を結ぶ橋梁は、新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めて11本と区分することもある)がある。

「しまなみ海道」を尾道から今治へと車で渡る。

新尾道大橋
         


因島村上水軍
村上水軍は、中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。
その勢力拠点は現在の広島県と愛媛県の間に位置する芸予諸島を中心とした海域であり、のちに大まかには能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれる。
戦国期には因島村上氏は毛利氏に臣従している。
主な活動は航行船の破壊、略奪、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断である。
         
         

生口橋
         

生口島のタコ飯
出発の前夜、テレビ東京で歩いて「しまなみ海道」を渡る番組を放送していた。昔NHKの朝ドラでデビューした女優さんと女性の二人旅である。
その二人が、因島でのれんを下ろした閉店間際の鮨屋に入りタコ飯を食べるシーンがあった。
食にこだわる方ではないが、今回の旅では是非にタコ飯を食したいと旅立ったのである。
         
            "漁師の店"の看板が気にいってはいる。
         
            タコ飯もうまかったが、生ダコの刺身がうまかった。
         
            店によってはこんな看板も掛かっていた。
            瀬戸内はタコが名物なのだろう。

多々羅大橋
         
         

大山祇神社(大三島)
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、瀬戸内海に浮かぶ大三島の西岸に西麓に鎮座する。
山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。全国に700社余りある三島神社・山祇神社の総本社とされる。
源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。
また境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。境内には指定樹38本の他、大小200本余りの楠木が群生している。

         
         

大三島橋
ここから四国         

伯方・大島大橋
              

来島海峡大橋
来島海峡大橋は、大島~武志島間の来島海峡第一大橋、武志島~馬島間の来島海峡第二大橋、馬島~今治間の来島海峡第三大橋の3橋が連なっている。
         
         
 


 
今治のホテルから早朝の来島海峡大橋

「しまなみ街道」には、大きな島はだいたいインター(インター・チェンジの料金所)が2カ所あるのだが、それが一方通行がほとんどのようだ。それは、本州から渡ると北のインターで降りて観光見物をして、その先四国方向に向かうには南のインターを上がるルートである。北のインターから上がると再び本州に戻ってしまう。
それを知らなくて観光地の近くのインターで降りようと南のインターに回ると降りる道がないではないか。車はそのまま海を渡り次のインターに、それでなくとも料金が日本一高いのだからたまったものではない。
タイミング良く地元の知事が国土交通省の大臣に陳情に行ったニュースがその日の夜に放送していた。 このニュースをみていて千葉県知事の顔が浮かんできて、この道は知事ではどうにもならないのだと感ずる。

はじめての四国に入る。

                 関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
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                       白壁の町並み倉敷を歩く(瀬戸内を巡る4)



白壁の町並み倉敷を歩く(瀬戸内を巡る4)

2013-06-19 10:19:21 | 瀬戸内を巡る
白壁の町並み倉敷

1642(寛永19)年、幕府の直轄地である天領となってからこのような町が形成されていった。
直轄地として、代官支配を受けてからは、新田開発による農地の増加、綿花の栽培による商工業の発展によって、周辺から多くの人々が流入するようになった。
備中、美作、讃岐の米、綿、油などが陸路、水路を通じて集荷、搬出されるようになり、一大商業地として繁栄。川沿いには綿花問屋、米穀・肥料問屋などの倉庫が次々と建てられた。
往事の倉敷川周辺では、物資を積んだ船から集荷をおろす人々や、それを運ぶ大八車の往来で大変賑わったといわれる。
倉敷美観地区は、江戸時代から平成の今日までの建物群を、限られた範囲で町並みとして圧縮して見ることのできる町となっている。ここがその入口である。
         

倉敷民芸館
江戸時代後期の米倉を再生活用し、各地の民芸品が寄贈されて開館した。建物は白壁と黒の貼瓦が美しく、それ自体が一つの民芸品として評価されており、倉敷美観地区の風光明媚な景観を形成している。倉敷における古民家利用の第一号である。
館内には日本をはじめとした世界の民芸品が約15,000点収蔵されており、そのうち約800点ほどが展示されている。
         

大原家住宅
江戸後期には「新禄」と呼ばれる新興勢力が台頭し、それまでの「古禄」と呼ばれる世襲の勢力に代って次第に富を蓄え、社会的地位を確立していった。
大原家住宅は現存の町屋として、往時の面影を最もよく留めている。
内部は公開されていないが、1795(寛政7)年に主屋が建てられ、その後増築されている。広い庭も続いており、主屋のうしろには土蔵が立ち並び、防火の役目も果たしている。
外壁は腰に瓦を張りつけ、目地を白漆喰で盛りあげるなまこ壁で仕上げ、そのコントラストは倉敷の町並みの景観を特徴づけている。
         

倉敷物語館
倉敷物語館は、倉敷美観地区の入り口に位置している。江戸中期の建築とされる東大橋家住宅を整備し、長屋門、土蔵などが江戸期の風情を現代に伝えている。
          

有隣荘
大原家の別邸。独特の製法で焼かれた瓦は、見る角度によって緑色に光り、地元では「緑御殿」とも呼ばれている。 特別公開日には内部の見学が可能。
         

倉敷館
1917(大正6)年に倉敷町役場として建てられた洋風木造建築。
現在は観光案内所として観光ガイドや宿泊施設の紹介を行うほか、無料休憩所として自動販売機やコインロッカー、トイレを備えています。
         

日本郷土玩具館
古い米蔵を利用して、1967(昭和42)年に開館した日本郷土玩具館は、江戸期から現代までの全国各地の郷土色豊かな玩具、約5千点が常時展示されている。また、日本のみならず世界の特色ある玩具も多数展示されているユニークな玩具館である。 
         

古き町並み
         
         
         

倉敷格子の家
この倉敷格子は大正の頃の形式のものである。
主として主屋1階正面の柱間の敷居から内法(うちのり)の間にはめ込まれる格子で、親格子の間に細く短い子が2~4本入る。形式的には親付切子格子と称され、京都では糸や格子と呼ばれている。


倉敷銀行
江戸時代、天領の町・倉敷は、豊の米の生産に支えられ、倉敷川の舟運を中心にその河畔が大いに栄えた。
倉敷銀行はその金融を一手に賄い倉敷紡績の発展や大原美術館設立にも寄与し、やがて現代の中国銀行の源流となる。
美しいステンドグラスをもつこの建物は今、中国銀行の一支店として使われているが、大正11年、ルネッサンスの様式を備え、当時としては珍しく、いかにも大原孫三郎の気宇を窺うに足るものと思われる。
                  

阿智神社
美観地区の一角にある鶴形山の山頂に鎮座する創祀1700年を超える古社。
古くは島で、神功皇后の西征の際、海の守護神として鎮り、東漢氏の祖、阿知使主(あちのおみ)が祀ったと伝えられる。
         
この一対の石灯篭には物語があった。
倉敷で小間物やを経営しょうとした御船綱手という人物が、商売資金を京都の万屋正兵衛へ借りに行き商売を始めた。 不景気な時代だったが、蓄えができたので京都へ返済に行ったが、不景気が続いたためか万屋正兵衛は行方不明で御船綱手は借金を返済できなかった。
そこで氏神様である阿智神社へ石灯篭を寄進したのだが、自分の名は書かないで、金を貸してくれた人の名を刻んだという話である。 奉納は1811(文化8)年。
         

倉敷も閑谷学校と同じ20歳代に一度訪れている。その時の古き倉敷の町並みは倉敷川の河畔だけであったと記憶する。
その後、倉敷のジグソーパズルを組んでは町並みを懐かしんだ。


                 関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
                       閑谷学校(瀬戸内を巡る2)
                       備前焼で飾られた天津神社(瀬戸内を巡る3)
       
                       

備前焼で飾られた天津神社(瀬戸内を巡る3)

2013-06-18 10:54:58 | 瀬戸内を巡る
天津神社

天津(あまつ)神社は「天津神の社」という意味であり、天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称である。
この神社は当初、少彦名命(すくなひこのみこと)を祀り、後にこの辺り伊部、浦伊部は菅原氏の荘園であった関係により菅原道真公を配祀(主祭神のほかに、他の神を祭る)した。
江戸時代は領主池田家から除地社領一反八畝を賜り、現在はこの地域の産土神(うぶまがみ)である。
氏子の中に備前焼関係者も多く、境内には様々な備前焼が置かれている。

         
         

備前焼神門
         

   
神門には次のような木札が掛かっている

屋根瓦、陶板、十二支、七福神
備前焼です  鑑賞ください

備前焼七不思議
金彩の瓦
胡麻焼、棧切焼、火襷焼、青備前
金彩、銀彩、牡丹餅


当方は花より団子で、備前焼には全く知識がないので、神門掛かっている木札がどんな意味なのか解らぬ。
そこで、若干市調べると、
「備前焼七不思議」とは、その製法の特徴で、投げても割れぬ、新鮮でうまい料理が食せる、花瓶の花が長もち
するや使うことで、落ち着いた肌ざわりなど7つの不思議が現れるという。
「金彩の瓦」は、神門の屋根瓦に金色の瓦が何枚か積まれているようだ。
胡麻焼から牡丹餅までは、備前焼は平均10日間、約1230度で陶磁器を焼くことで、炎の性質などで予期しない窯変が現れる。また、変化を求めて作為的にも行われるといい、その作品を分類した呼称ということのようで、これ以外にも呼び名はあるようだ。

         
         

七福神
         
         

十二支
         
         
         
      
               

境内社・稲荷神社
「稲荷」は「稲成り」から変化したもので、もともとは稲のなる農業の神様として信仰されてきたが、現代では結びの信仰から諸産業の神様とされ、特に商売繁盛の神様として信仰されている。
お稲荷さんといえば「狐」というのも、田の神・山の神の信仰との結びつきと考えられ、稲が実るころに山から人里近くに現れる狐を人々は神様の使いと考えたと思われる、と説明書きが備えられていた。
         
      

神社の周りは備前焼の工房や店がずらりと立ち並んでいる。まさしく備前焼の里の氏神様として職人さんたちに篤く信仰されている天津神社であることを感じた。
この辺り一帯・伊部地区で盛んであることから備前焼を「伊部焼(いんべやき)」ともいわれる。

神社の前を走る細い道は山陽道である。



                 関連 : 岡山後楽園のお田植祭(瀬戸内を巡る1)
                       閑谷学校(瀬戸内を巡る2)
                       

閑谷学校(瀬戸内を巡る2)

2013-06-17 17:15:23 | 瀬戸内を巡る
閑谷学校
 
閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。建築には32年の月日を費やしており、他に例をみない手間をかけた質とスケールを誇る。今から330余年前のことだ。
地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。
就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には徳川幕府の軍人である大鳥圭介も少年時代にここで学んだ。
 

校門
聖廟の正門として建てられたもので、閑谷学校の校門である。
中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門とも呼ばれる。
両脇に花頭窓(火灯窓)のある付属屋をつけるなど中国の建築様式を模しており、1688(貞享3)年の造営である。
 

講堂
1701(元禄14)年の完成で、内部は10本の楠木の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁(ひろえん・幅の広い縁側)でとりまいている。入側(いるがわ・いりかわ)とは、 書院造りで、濡れ縁と座敷の間にある1間幅の通路のこと。
屋根はしころ葺きと呼ばれている二段葺きで、備前焼の瓦を使った本瓦葺きとなっている。
四面とも中央に桟唐戸(さんからど)の出入り口を設け、その左右には火灯窓を配して明障子(あかりしょうじ)を入れている。
材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一部のくるいもみられない。
 
 
 
火灯窓

 

小斎
1677(延宝5)年に建造されたもので、藩主臨学の際の御成の間である。
質素な財を用いた数寄屋造りで2室からなり、納戸、浴室、雪隠(せついん・せっちん)が付属している。
 

聖廟
儒教の始祖・孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。
本殿にあたる大成殿は、1684(貞享元)年の完成で、内部の厨子には1701(元禄14)年鋳造の孔子像が安置されている。
 
閑谷神社
閑谷学校の創設者である岡山藩主・池田光政を祀るために1686(貞享3)年に建てられたもので、もとは光政の諡(おくりな)に因んで芳裂祠または西側に建つ聖廟(西御堂)に対して東御堂と呼ばれた。
1875(明治8)年神社格付けされ閑谷神社と改称した。
殿内には1704(宝永元)年に鋳造された光政の金銅製座像が安置されている。
 
 

石塀
校地の周辺には総延長およそ765mの石塀が巡らされている。そのうち505mはおよそ2m、幅およそ1.8mのかまぼこ型の石塀が築かれており、鶴鳴門(校門)、公門、飲室門、校厨門が設けられている。
 
右側のこんもりとした山を火除山といい、これより奥にある学舎や学房(寄宿舎)からの出火が講堂などに及ばぬよう防火の目的で造られた人工の山である。
 
 


1915(大正4)年は中華人民共和国山東省曲阜(きょくふ)市の孔子墓の櫂の実を持ち帰り育苗したのが日本における最初のもの。
そのうちの2本が1925(大正14)年に閑谷学校に寄贈された。
 
うしろは聖廟


資料館
この建物は、1905(明治38)年、私立中学閑谷學の校舎として建設されたもので、明治の中学校の建物の建物様式をよく留められている。
 
 

黄葉亭
来客の応接、教職員や生徒の憩いの場とするため、1813(文化10)年に建てられた茶室で、学校の東方450mのところにある。
 
 
 

石門
この石門は1697(元禄10)年に建てられたものである。
門柱の高さは3.8m、直径0.63mあり、建設当初は幅員2m余の道をはさんでそびえたっていたが、その後数次にわたって埋めたてられ、現在はおよそ、その3分の2が地中に埋もれている。
江戸時代はここから北が閑谷学校の校地であって、門の両側には柴垣が設けられていた。
この石門は現在の道のりで学校から1km余離れたところにあり、当時の学校は広大な敷地を所有していたようだ。
 


20歳代にここを訪れたことがある。
今回、ここにたってその頃のことは思い浮かばないが、閑谷学校の全景をカメラで写そうと雑木林の傾斜地に入った。身体を支えようと幹につかまったら、手に油絵の具がたっぷりついたいやな思い出がある。



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