あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
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平間街道を歩く(ガス橋~池上)

2013-09-28 17:50:57 | 東京散策
平間街道のガス橋を渡る。
東京都に入ると道の両側に建つ高いビルが迎えてくれる。左はキャノンの本社ビル、右は高層マンション群。
キャノン本社にははるか昔にお邪魔した事がある。戦後間もない時代にはナベ、釜を造っていたことがあったと会社案内で話されていた記憶がある。今は当時に比べ敷地に多くのビルがニョキニョキ建っている。
右手は今やマンション群に代わっているが、私の中での記憶の風景は、スレート造りの工場群であった。社名も忘れたがその工場群の1社にお邪魔したのは何時のことだったか。お土産に分厚いシステム手帳を頂いた記憶だけが残っている。
         
マンション群の先にクリーニングの白洋舎がある。古い話であるが、母の用で父のワイシャツのクリーニングに古いガス橋を渡って何回か訪れたことがある。当時は近くにクリーニング店がなく、ましてや現在のような取次店もなかったのではるばるここまで足を運んだのだ。クリーニング屋の八ちゃん(お笑い三人組)がご用聞きに来てくれれば便利だったのだが。
白洋舎は工場と店が当時もあったが、その店の位置ははるか昔と変わっていない。
         
キャノンの角を左に曲ってすぐに右の路地に入る。六所神社と蓮光寺が道を隔てて建っている。
六所神社は1234(文暦元)年に、荏原左衛門義宗が多摩川の下流に六柱の神を祀ったのが始まりと伝えられ、江戸期には下丸子村の鎮守となっていた。
カメラで社殿を撮っていると変なにおいは漂ってきた。地面をよく見ると銀杏が多数落ちている。今年もそんな季節になったのかとにじむ汗を拭きながら思った。
         


真言宗智山派寺院の壽福山蓮光院円満寺は、創建は不明であるが1574(天正2)年に没した僧侶が中興開山と云うから戦国時代終わりころの古刹である。山門は備前池田家の表門であったと伝えられる武家屋敷門が使用されている。この門は、1939(昭和14)年ごろ、この地にに移されたもので、江戸末期の建立と推定されていて、小大名(1~5万石)格の形式を良く伝えている稀少な文化財であると都の教育委員会が解説している。
工事中でシートに覆われていて見ることが出来なかった。本当に残念である。


         

寺の北側の道を歩いて東急多摩川線の下丸子駅に向かう。下丸子駅は上りと下りのホームに改札口がそれぞれ設けている。
         
多摩川堤通りの五差路に出ると正面の歯科クリニックの前に光明寺道標がたっている。1851(嘉永4)年に当地の村民6人によって寄進建立された。高さ142cm、頭の部分が少し欠けていて、欠けた部分は光明寺(こうみょうじ)に保管されているという。光明寺の道標のはずだが大師の文字が読み取れる。「善導大師霊場」と刻まれていたそうだ。
光明寺の入口を示す石標として建てられたものであるが、建っている場所が五辻のため、他の四方向の行き先を示す道標も兼ねている。

ここから環八通りに出る。遠くからサイレンが聞こえてくる。救急車かパトカーかと思っていたら東京ガスの緊急車両が通過していった。むかし、この仕事をしていた中学校の同級生がいたが、彼の話ではサイレンを鳴らして走るのは気持ちの良いものだという。それはそうだろう、公務員でもない民間人がそこのけそこのけ車が通ると優越感の塊で抜き去って行くのだから。
この緊急車両を見ていて光明寺を忘れ次の藤森稲荷に向かってしまった。
藤森稲荷は環八通りを路地を隔てて建っていた。境内はこんもりと高くなっている。
境内には神社のいわれなどが書かれた案内板は見当たらぬが、文化・文政期(1804~29年)に編纂された地誌、新編武蔵風土記稿の光明寺の項に藤森稲荷神社の創建は書かれていないものの「稲荷社。大門前古松の傍にあり。藤森稲荷社と号す」と記載されているという。

一週間後、抜かしてしまった光明寺を訪れた。
天平年間(729~749)に開き、のちに空海が再興した七堂伽藍の大寺だったといわれる。江戸時代になって浄土宗に改宗した。環状8号線道路建設により寺域は縮小したが、山門、本堂などは往時の面影を留めている。
 
寺院の西側に細長い池が地図ではあり、これを見たかったのであるが、高い波型の塀に囲まれていて見ることが出来なかった。
この池は遠い昔に多摩川がこの地を流れていた名残だという。多摩川は勾配が急な川で、そのため古くから洪水が絶えず、「あばれ川」として知られていた。流れは姿を変えている。このことは多摩川の両岸に同じような地名があることでも解ることだ。
         

環八通りに戻ると六郷用水物語のタイトルで六郷用水に関する大きな案内板がたっている。それによると、

歴史物語 下丸子の分水口跡
このあたりが、六郷用水の下丸子方面の分水点で、六郷用水の西岸に石組のトンネルを築いて分流していた。水量は豊富で現在の下丸子一丁目付近一帯の水田を灌漑していたようだ。とある。
その下には、
女堀のみち 六郷用水物語
六郷用水とは、六郷領(現在の太田の平地地域)の灌漑を目的として江戸時代初期に幕府代官・小泉次大夫によって開削された農業用水である。
と書かれている。
六郷用水は稲毛・川崎領の二ヶ領用水路併行して開削した用水なので二ヶ領用水をかじったことがあり、大田区の学芸員の六郷用水についての講演も聞いたことがある。

この先も次大夫の生家跡や六郷用水碑もあると云うので今回の散策の楽しみのひとつである。
六郷用水の特筆が女堀である。ここから1.5kmほど北北西に行ったところに観蔵院と云う寺があるが、この前の堀の施工にあたって高低差が大きく難工事となった。そこで次大夫は女性を交え開削を進めて難工事を成し遂げ、女堀と云われるようになったという。
中原街道を歩いた際に女堀の訪れたことがある。
  
        
六郷用水の案内板からちょっと裏にはいったところに富士山の文化遺産を祝う絵が書かれている。
         
その先には2020年東京オリンピックの祝いが貼られいいる。
         
東急池上線の踏切を渡る。右に千鳥町駅がある。
         
歩道に六郷用水の案内の道しるべが埋め込まれている。

どうも六郷用水を埋め立てた道を歩いているようだ。
川崎市幸区では二ヶ領用水の道を歩くし、今回の散策は楽しくなってくる。
         
用水の道を歩いてゆくと次大夫の生家の案内板を見かける。
  
その先、千鳥いこい公園入口に六郷用水碑の石柱がある。その先も案内板が続く。
案内板の砂子(ひさご)の里では川崎の砂子に移り住んだことも記されている。
  
第二京浜を渡り、池上警察署の脇を進んでいく。昔はこの辺りを千本松と云ったそうだ。
まだまだ六郷用水の道を進むのだが平間街道とダブりか否かはっきりしない。
彼岸花が今が盛りと咲いている。
         
変則五差路となる。お題目塔とその裏に熊野神社と刻まれた板碑が祀られている。
 

この五差路で六郷用水道は右手を行き、平間街道は直進する。
池上図書館の北側を通る。

          くず餅屋手前の平間街道                  めずらしくアドバルーンが飛んでいたので写す
その次の辻右手に道標が置かれているくず餅屋がある。
道標の造立は1689(元禄9)年、徳川五代将軍綱吉の時代。石柱の正面に「是よりひたり・古川道・かわさき道」と方向が刻まれている。裏側には「是よりみき・こすきみち・新田道」とある。
この道標は、昔からこの位置にたっているという。
『平間街道を歩く』もこの道標に着いたことで、ひとつの区切りとなった。
「平間街道は近郷の農家が野菜を市場に運ぶため、大八車や牛車に積んで運んだ道である。池上本門寺参道入口にある酒屋・萬屋あたりは、商屋が建ち並び、池上警察署あたりまで町並みがあったと云う。」とある書物に書かれていたが、いつの時代なのかこの辺りはかなりの賑わいがあったようだ。
その先の店もくず餅屋で、この2軒と池上駅前にあるくず餅屋で、池上のくず餅屋御三家と呼ばれているそうだ。くず餅といえば川崎大師が有名だが、発祥はこちらだという。
平間街道を隔てて古い家並みが萬屋酒店である。茶屋として1875(明治8)年に建てられ、国登録有形文化財になっている。
平間街道は池上本門寺参道に突き当たる。
左折して参道を池上本門寺総門へと向かう。呑川(のみかわ)に架かる霊山橋手前の大きな『南無妙法蓮華経』のお題目碑は1811(文化8)年の建立。
         

         
案内板に描かれている江戸近郊八景の内 池上晩鐘(広重)

元禄年間(1688~1703)に建てられた池上本門寺の総門を括って参道を上がる。
         
此経難持坂(しきょうなんじざか)と云う96段の石段である。ところどころ補修されているが加藤清正が寄進したという年代物の石段である。右脇には最近造られたおんな坂がジグザグに続いている。
清正は熱心な法華の信者で戦前の大堂(祖師堂)も清正が寄進したといい、大堂の近くに清正の銅像が戦前だが建っていたという。
右手には妙見堂の参道が続いている。

妙見堂は加藤清正の息女・瑶林院殿が夫君の現世安穏後生善処のために室町時代の開運除厄妙見大菩薩を1664(寛文4)年に奉安したお堂である。
現世安穏後生善処(げんせいあんのんごしょうぜんしょ)とは、法華経を信じる人は、現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれるということ。
         
         
本門寺に戻る。
正面に仁王門(三門)が、安置されているはずの力士像は修理中で中は空っぽである。
その左手に鐘楼。今の梵鐘は戦後の鐘であるが、脇に戦災によって亀裂と歪みを生じた梵鐘が置かれている。
1647(正保4)年、加藤清正の息女が寄進した。
         
左の小さな鐘楼に亀裂が入った古い鐘楼が刻まれている

鐘楼の奥の霊寶殿の裏に清正の供養塔がたっている。

向かい側の墓所域には正室の層塔が祀られている。
この層塔は清正の夫人が逆修供養(ぎゃくしゅうくよう・生きている間に自分の死後に対して冥福を祈る法要のこと)のため、自らが1626(寛永3)年に造立した11層の石塔である。時の流れとともに、最上部にある金属製の相輪も失われ、8層を残すのみとなっている。初層に命日の1656(慶安3)年が追刻されている。

右には五重塔が建っている。高さ31.8m、空襲による焼失を免れたむかしの建築物である。徳川二代将軍秀忠の乳母が、秀忠の病気平癒御礼として建立したものである。
                   
仁王門の奥が本堂である。
         
本堂の手前左の経蔵も古い建物だ。
                       
本堂の奥が本殿になる。
         
本殿の前の道を東に進むと紅葉坂がある。
『新編武蔵風土記稿』には「紅葉坂、方丈の左の坂なり、裏門へ通う坂なり」と記されている。坂付近にはモミジの樹が多いことから、この名がついたのであろう。
         
西に進むと大坊坂(だいぼうざか)があって、この坂を下りた中段に宝塔に続く階段がある。
『新編武蔵風土記稿』に「大坊坂方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり。」と記されている。本門坂下まで下ると大坊と呼ばれる本行寺がある。

宝塔は、日蓮の荼毘所と伝えられる。
         
本殿奥には非公開の松濤園があり、小堀遠州作の庭園がある。松濤園は幕末の西郷隆盛と勝海舟の会見した場所で、碑がたっているという。外観だけでもと探したが不明である。
墓所は大名墓が複数ヵ所あり、また、多くの有名人も眠っている。地図を頼りに探したが見つからなかった。お彼岸の前日に訪れたので業者が墓所を水圧をかけて掃除している光景を見た。
 
細川家墓所                              松平家墓所


プロレスラー力道山の墓所 亡くなって今年は50年の節目の年 1963.12.15没(39歳)

池上本門寺は、鎌倉時代初期に当地を支配していた豪族・池上氏が日蓮を深く帰依し、屋敷跡に建立されたものだ。その後日蓮はこの地で死去したことから、池上本門寺は日蓮宗の大本山となった。
池上家はその後、池上本門寺周辺の土地を寄進して川崎に移り、海を埋め立てて新田の海中開発を行ったり、氷砂糖製造に必要な甘蔗(かんしょ)の栽培や魚の養殖など様々な事業を起こして当時の川崎の振興に努めた。開発した新田は池上新田と呼ばれ、現在も字名として残っている。
池上本門寺と川崎の関連について加筆しておく。

ここからは、池上線に乗って帰宅する。呑川には赤とんぼが数匹飛んでいる。明日はお彼岸の入り、熱くても秋である。
 

池上線と云えば、西嶋三重子さんが同名の歌を歌っている。40年ほど前の曲で、彼女の代表作になった。
哀愁を帯びた歌で、好きな一曲である。
それもあって、東急池上線は一度は乗ってみたかった電車である。

    古い電車のドアのそば 二人は黙って 立っていた・・・
     話す言葉をさがしながら すきま風にふるえて
     じっと私を見つめながら ごめんねなんて言ったわ
     泣いてはだめだと胸にきかせて 白いハンカチ握りしめたの  
     池上線が走る街に あなたは二度と来ないのね
     池上線に揺られながら 今日も帰る私なの
 

乗ってしまえば、何んの変哲もない東急電鉄の電車なのだが・・・。
「古い電車」なんて歌われた東急側から古い電車なんて走らせていません、なんて注意が来たとか。
西嶋さんは昨年(2012年)、『池上線』のアンサーソング『池上線ふたたび』をリリースしている。
この曲は、同年の池上線開業90周年まつりで初お披露目したそうだ。

    池上線にゆられながら 私はあの日に帰ってゆく
     あなたとなら死んでもいい そんな時代もあった
 

『池上線』より少々テンポが速い曲で、想い出の池上線に乗った主人公(女性)が若い日に伝えられなかった恋心を想い出し歌っている。
  


池上本門寺から先、平間街道(旧池上道)は現在の池上通りをなぞったり、離れたりして品川宿に通じていた。
平間街道=旧池上道と云われているようだが、この先の道は平間街道と呼ばれていたのだろうか。江戸から池上本門寺に向かう道は池上道と呼ぶことが自然ではあるまいか。
この道、江戸時代になって東海道が発達してからも、鈴ヶ森の処刑場をさけて裏道の池上道(平間街道)を利用した人も多くいたと書かれてある。特にご婦人はこちらを選んだようである。
池上道は「平間街道・旧池上道・奥州街道・相州街道」などと呼ばれたりする。

この先の散策は「池上道を歩く(池上~品川宿)」に続く。

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平間街道を歩く(鶴見~多摩川・ガス橋)

2013-09-23 21:59:36 | わがふるさと
わが故郷の名「平間」を冠につける街道があった。
資料が乏しくて詳細が不明ではあるが、わずかばかりの資料を参考にして平間街道を歩く。
ちょっとマイナーな歴史散策かも知れないが懐かしさが現れる散策になると思っている。


スタートは京急鶴見市場から歩いて2分の熊野神社からとした。
熊野神社は平安時代初期に勧請された古い神社である。この神社の前の道は旧東海道である。また、神社の脇には古道も通っている。
         
それが平間街道である。その道を辿ると、塚越を経て多摩川・平間の渡しへと北上する。反対方向は、熊野神社角を曲って西に向かうと金川湊(かながわみなと・神奈川湊)を経て帷子宿(かたびらしゅく・程ヶ谷宿の一部)に通じていたと思われる。
平間街道は古く、1370年ほど前の飛鳥時代、646(大化2)年の政変、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)が発生した頃には既にあったといわれる。相州鎌倉街道の一部とされる。江戸時代の東海道以前の古東海道とか奥州街道の一部と書かれた資料もあるが・・・。
 
           旧東海道、金川湊へ                            正面、旧東海道川崎宿へ

スタートして熊野神社の脇の道を進む。東海道線の踏切に差しかかる。ここもラッシュ時は開かずの踏切なのか。脇の跨線橋で線路をを渡ると元宮一丁目。元宮と云うからお宮がここにあった。熊野神社が以前この辺りにあったが東海道線で分断されると云うので現在地に移転したようだ。
道はすぐにふたつに分かれる。平間街道は右手に進む。左手もまた古道である。
その古道は、横浜市水道局の鶴見配水地前にある鶴見貯水池前交差点(鶴見区馬場三丁目29付近)から別所熊野神社、森永製菓鶴見工場の北を通り先ほどの熊野神社の脇を通って東に折れ、川崎宿に向かうという。文化・文政期(1804~1829年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」という地誌にも掲載されている。
 
            熊野神社脇を入る                                 JR踏切

 
        右、平間街道 左、もうひとつの古道                        直線で続く平間街道
この先しばらく何もなく進む。第二京浜を渡り南武線の尻手駅前の国道を横切り北上して行くと、矢向地区に入る。
 
          最願寺に続く尻手銀座入口                           尻手駅前通り
日枝神社、斜向かいに最願寺、そしてその先には良忠寺がある。
日枝神社は現在神社殿を建設中で不似合いの仮拝殿が置かれている。祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、近郷(矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間村の七ヵ村)の鎮守として1638(寛永15)年に創建したと伝えられる。
 
境内の道に面したところに「水害に注意」の立看板があった。
『この地域は、鶴見川や多摩川が氾濫すると浸水するエリアとなっています。以前に比べ堤防の整備が進み、水害に対する安全性は格段に向上しましたが、近年の異常降雨や大型台風、地球温暖化による影響など水害の危険性がなくなったわけではありません。
ハザードマップを確認し、台風時の情報収集をしっかり行いましょう。』とある。
スタートした熊野神社も鶴見川や多摩川の被害を同様に受けていた。鶴見川の被害は受けるとは思うが多摩川の被害まで受ける地域なのかと驚きである。
先だっての京都・渡月橋付近の水害を思うと今日的なインパクトある立札である。日常の備えが大切だ。
         

最願寺は、真言宗寺院として1308(延慶元)年に創建、慶長年間(1596~1614)に東本願寺に帰依して真宗に改め中興したという。
        
境内には板碑(いたび)が祀られている。鶴見区の解説によると『緑泥片岩の板碑は鎌倉時代後期のもので、高さ165cm、彌陀三尊の種字(佛尊を表す梵字の組み合わせ)と観無量寿経の一節が刻まれている。寺の開山の墓とも云われる』とのことで、新編武蔵風土記稿にもその内容が書かれているという。
良忠寺は1240(弘安元)年の創建と云われ、鎌倉幕府北条執権時代の古い寺である。
境内には近くから移した矢止の地蔵が本堂左に祀られている。
1333(元弘3)年新田義貞が鎌倉北条氏を上州より攻め合戦となった際。義貞の次男義興が多摩川の矢口の渡しから放った矢が唸りをあげてとんでいき、塚越の塚を越え、矢向の老松の幹に突き刺さった。矢には地蔵菩薩の名号が書かれてあったのでこの松の下に地蔵を祀り、「矢止の地蔵」と名付けた。この地はこれまでの夜光村が矢向村と文字が変わったという地名のいわれにもなっている。
         
 

良忠寺からマンションと矢向幼稚園の間の道を進んでいくと、道沿いに二ヶ領用水跡碑がたてられている。
 
          二ヶ領用水跡碑                               用水を埋め立てた道
二ヶ領用水は橘樹(たちばな)郡稲毛中野島及び宿河原の2ヵ所に取水口を設け、多摩川より引水して橘樹郡に灌漑する全長32kmの用水路で、生活用水、農業用水に利用された。
1597(慶長2)年、小泉次大夫が用水堀総奉行となって開削した。次大夫の功績をたたえ別名「次大夫堀」とも云われる。この通りは二ヶ領用水を1972(昭和47)年に埋めたと云う。
この先も二ヶ領用水や小泉次大夫の話題が出てくる。
              関連 : 400年記念の二ヶ領用水を下る
                    400年の二ヶ領用水

貨物線の線路を渡り鋭角に右折、すぐに左折するとキャノンの事業所ビルが建っている。この辺りから塚越地区になる。
もと塚越村であるが、ここは昔古い塚があったため塚越という地名の由来と云われる。また、矢向地区で説明した新田義興が多摩川の矢口の渡しから放った矢が塚越の塚を越えて行ったことから塚越となったともいわれる。
 
             貨物線路                        キャノン事業所前の真っ直ぐに伸びる平間街道
南武線の変則六叉路と複雑な踏切を渡る。踏切を渡ると塚越地蔵が祀られている。年齢不詳で云われが分らない。
 
          変則五差路の南武線踏切                           年齢不詳の塚越地蔵
一週間後、ここを訪れた際、お彼岸で供養をされた様で、小さな塔婆に南武線事故被害者の供養と書かれていた。

旧道らしく寺社が道に面して並ぶ。
まず摂取山浄土院東明寺。東明寺は、1589(天正17)年、浄土真宗の僧侶が当地に住み浄円坊と称していたが、入寂。後に増上寺の僧侶が住み始めた。1613(慶長18)年、徳川家康が鷹狩りのため小杉の中原街道沿いの西明寺に泊まった際、給仕にあたったこの僧侶が家康から身分を問われ、東にある小庵の主と答えたところ、家康より東明寺と号すよう拝命、その僧侶が開山となる一寺となった。
この、寺のいわれは新編武蔵風土記稿にも書かれている。
         
またこの寺には、江戸末期の作といわれる酒造りの過程を描写した絵馬が残っている、と参道にたつ案内板に書いてある。
         
                         酒造り絵馬コピーの一部

東明寺の向かい側に塚越御嶽神社が祀られている。
創建時期は新編武蔵風土記稿の中でも「勧請の年代詳ならず。」と書かれており、不詳である。
また、この付近に塚越の地名の由来にもなった円墳があり、御嶽神社創建時にこの円墳を崩して神社のために築土したと川崎市歴史ガイドには書かれている。また、その際に刀剣と南北朝時代の板碑が出土されたとある。
小田原提灯のような桶型提灯をたくさん飾った万灯神輿の祭礼が催されている。
         
この散策の後で知ったのだが境内には近くから移された三方向を記す道標がたっているようだ。ひとつに南:かながわみち、右:いけがみみちと刻まれているとのことだ。池上道=平間街道と云うことがここで納得できた。後ほど記するが、品川宿から帷子宿辺りまでの街道の名称が池上道或いは平間街道と呼ばれていたようだ。
一週間後、再び御嶽神社を訪れた。道標を探すためである。その道標はすぐに解った。円柱という珍しい形で、市のガイド板の脇にたっていた。前回何故気にしなかったのだろう。
この円柱の道標に何故にエネルギーを費やしたかと云うと、鶴見の熊野神社から平間の渡しまで歩いて平間街道の証となるものがひとつもなかったからで、この道標が唯一の証と思いBlogに載せるため足を運んだのである。
平間街道とは書かれていないが、平間街道=池上道でも、道があったことが解った。

判別できにくいが『右いけがみみち』と刻まれている


その先下平間小学校の交差点を渡ると下平間地区となり、赤穂浪士ゆかりの寺、平間山称名寺が左手にある。
室町時代の創建で、赤穂浪士ゆかりの品々を所蔵しており、討ち入りの12月14日には公開されている。当日は住職の赤穂浪士の解説もある。
         
 

称名寺の斜向かいに軽部五兵衛の敷地内にある赤穂浪士寓居があった。軽部五兵衛は鉄砲洲にある赤穂藩上屋敷に出入りしていた百姓で、刃傷松の廊下事件以前から藩士とつながりがあった。
         
                           赤穂浪士寓居跡 
元赤穂藩家老大石内蔵助は主君の仇打ちをするため京都を同志9人と立ち、鎌倉鶴岡八幡宮に参拝、川崎宿に1泊した後、下平間村の浪士寓居に着く。
下平間村には10日ほど逗留し、江戸日本橋の宿に向かう。この先内蔵助ら一行は幕府の目がとどき難い東海道の裏道である平間街道を進んでいったのではあるまいか。
ここからは大石内蔵助の気分になって平間の渡しへと進む。では、「各々方、お江戸に向けて出立しよう。」
その先の信号機の道は南武線鹿島田駅に通じる道で商店街である。近くには鹿島田東映(元富士館)や昭和館という3本立ての映画館があって、50円玉1個を親からもらってよく観に行った。駅近くには日活系の映画館もあった。
その先ちょっと道から外れると下平間天満神社がある。菅原道真の七世孫がこの地に定住、道真公を祀り一社を創建したと云う。
         
府中街道を直進する。右手は古市場地区、左手が上平間地区となる。旧上平間村は現在の上平間、北谷町、田尻町で、村名の由来は、「ヒラ」は平坦、「マ」は処を表す語で、たいらなところと云うことのようだ。沖積低地の平坦なところに立地する村と思われる。「カミ」は「シモ」に対するもので、古い平間郷が近世初頭の村切の際に上・下2村に分けられてからの呼称と思われる。県下には伊勢原市南部に上平間、下平間がある。

左手、二車線の道は通称新道と呼ぶ新しい道である。この道を造る際、障害となる数軒の市営住宅をジャッキーアップして移動する作業を学校帰りに見に行ったこともある。今は昔のこと。
 
        手前左右に走る府中県道 奥が新道                     左、新道 右、平間街道
市バスの営業所に着く。建物の位置が知っている時代と変わっている。前の交差点を右に行くと古市場に通じ、左に行くと母校、平間小学校に。
 
          市バス上平間営業所、古市場に                         平間小学校へ

上平間バス停の次は「天神台」。この名は、この辺り本村と呼ばれていた地域からガス橋通りまでの字名である。これから行く上平間八幡大神の斜向かい(上平間306番地)にかつて天神社という束帯姿の木造が祀られている小詞があったことからついたといわれる。バス停名に古い地名が残っていて歴史を大切にしていることがうれしい。
   
      天神台バス停前の変則四差路 直進が平間街道ガス橋へ 中が上平間八幡大神 左が西福寺・平間銀座へ
天神台地域をふたつに分けた道を進んで上平間八幡大神に向かう。この道はかつて川であった。田んぼの用水となる川であって、おそらく南武線の西を流れる二ヶ領用水から分れた川だと思っている。昭和30年代前半に田んぼは埋めたてられ、川は生活排水で汚れ、そのうち暗渠となり上に道が出来た。
 
            西福寺・平間銀座へ                           上平間八幡大神へ
 
上平間八幡大神に着く。
創立年月は不詳であるが、古くからの言い伝えによると多摩川大洪水の際、東京府下府中の上石原八幡宮の社殿が流失し、安置していた御霊が当村に漂着した。そこで住民が1祠を建立してを祀ったと云うことだ。
         
上平間八幡大神前にはかつてテレビ界を賑わした整体師が共同で店を開いていた。人気が出た後都内に移転したようだ。数日前死んだのではと噂が流れ、ツィターに私は生きてますとでて話題となった。
この店の場所には、はるか昔アイスキャンデーを製造販売する店があって、キャンデーやボンボンの製造が眺められて、時の忘れるほど見ていたこともあった。

ここから多摩川土手のガス橋に進む。
このガス橋通りも一方の平間街道である。江戸からの平間街道は多摩川を渡ってガス橋前あたりでふたつに分かれた。
ひとつはこれまで歩いてきた道である。あとひとつはガス橋通りを上平間八幡大神前を通り南武線を平間駅脇で越え、加瀬を通って綱島に至るルートである。

ガス橋に着く。
                  
ガス橋から100mほど下流に多摩川の渡しはあった。その辺りを萩原渕と名付けていたという。
『村の北、多摩川の中に渡船場あり江戸より往来の渡しにて平間の渡しといえり』とある。渡しは1766(明和3)年にはじまった。徳川十代将軍時代のころである。但し10月から3月の乾季は仮橋を架設した。大正期で舟の大きさは6mくらい、10~15人乗りであった。渡し賃は人が2銭、荷車4銭、馬6銭だったという。
         
橋の欄干の左手には銘板、右手には橋史が掛けられている。
橋史によると1929(昭和4)年、東京瓦斯が輸送管を架する際に、地元の要望を容れ、巡視用を兼ねて人道橋を併設した。瓦斯橋の名はこれによる。橋は木造幅員1m半であるが橋脚は広年の拡充を予想して鉄骨鉄筋造りで施工した。
これが初代のガス橋であるが、補足すると架橋2年後に荷車が通れる工事をおこなったとされる。私が記憶するガス橋は木造の床で、数か所幅が広くなっていて、荷車が通行する際の避難スペースが設けられていた。戦後間も間もない当時のことで、床が欠けていて多摩川の水面が覗けるようなところもあり子供心に怖さを感じた。
1960(昭和35)年、現在の形の橋となる。全長387m。こんなに長かったかなと思いながら進む。


ガス橋開通の当日、二眼レフにて撮影。三代夫婦の渡り初めも行われた


多摩川を写す。この写真の中間あたりに夏になると飛び込み台が組まれたこともかつてあった。貧しさの中で遠くに行けない庶民のために娯楽として飛び込み台が出来たのか。川向うの川崎側から眺めた光景が思い出す。
         

平間の渡しは、大石内蔵助一行が渡った以外、赤穂藩お家断絶の際には軽部五兵衛もここを渡り鉄砲洲の屋敷に馳せ参じたという。
また、戦国時代の1569(永禄12)年、武田信玄の武田軍が小田原北条氏攻めの際に矢口の渡しから舟で稲毛・平間に渡った記述が川崎市が発行する歴史本にある。
甲斐の武田軍がこんな遠回りをしたのかと疑問もあった。
たまたま来月10月に横浜市のある歴史資料館が行う歴史散策で南区の蒔田周辺を歩く予定で、その予備知識で調べた中に関連の文章を見つけた。
永禄12年9月武田信玄が北条領に侵攻し、 本体は相模川沿いに南下して小田原城を直撃し、支隊は多摩川沿いに川崎方面から横浜市港北区方面に進撃してきた。とある。
当時、小田原北条氏の出城、蒔田城があって、この城を攻めるときに平間の渡しを武田氏の支隊が利用したようだ。
蒔田城についは改めて。

平間街道も東京都に入った。左手にはキャノン本社のビル群、右手は高層マンション群が建っている。多摩川をはさんで東京都大田区と神奈川県川崎市の風景がこんなにも違うのかと景色の違いに驚く。
         
         
上段が東京都大田区、下段が川崎市中原区の風景


この先の散策は「平間街道を歩く(ガス橋~池上)」に続く。

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関東大震災90年・横浜を歩く

2013-09-01 00:00:01 | 横浜歴史散策
1923(大正12)年9月1日土曜日。
朝6時ごろより急に俄か雨が強く降りだし、そのうち風も出てきて一時は荒れ模様となった。
ところが9時ごろには雨はすっかり止んだ。
そして、午前中には日も出て、真夏の暑さはまだ優勢であった。午前11時には気温は30度近くまで上がり、雨上がりの街に強い日ざしが照りつけていた。風もまた、微風になっていた。
そんな空模様の9月1日午前11時58分、横浜をマグニチュード7.9の大地震が襲った。関東大地震である。
昼食時であったため、地震後に200ヶ所以上から発生した火災によって、被害は一層拡大した。
旧横浜市の当時の人口は44.1万人、そのうち被災した人は3万人で、死者は24.6千人であった。また、宅地面積の84%が焼失・倒壊の被害にあった。(詳細データは末尾)
現在の横浜市は当時、中区と西区が合わさった旧横浜市と4郡31町村に分れていた。旧横浜市以外の地域の殆どは、農地で建物も木造であったため建物の倒壊はあったが、大きな被害にはならなかった。

今年は関東大震災が発生して丁度90年の節目の年となったので、横浜都市発展記念館や開港資料館の関東大震災に係わる展示物の見学を兼ねて横浜市街を中心に記念碑・慰霊碑を巡った。


横浜地方裁判所・慰霊碑
当時の横浜地方裁判所は1890(明治23)年、3,000坪(1ha)の敷地に西洋風のレンガ造り2階建ての建物であったが、震災でもろくも崩れ落ちた。但し木造部分の倒壊はなかった。
発生直後に付近一帯から出火した猛火に襲われ、所長をはじめとして、判検事、弁護士、新聞記者、起訴関係者等合計94人の命が失われるという惨事となった。
関東大地震の32年前の明治24(1891)年、日本でこれまで起こった最大の内陸型地震といわれる濃尾地震が発生し、7,000人以上の犠牲者を出した。この地震によって、レンガ造りの紡績工場や公共の建物が数多く倒壊し、レンガ造りの建物が地震に弱いことがわかった。
それに係わらず第二の惨劇が発生してしまった。耐震補修工事は当時でも容易に進まなかったようだ。

現在の横浜地方裁判所


裁判所の建物脇にたつ慰霊碑


赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫街は、今や文化施設や商業施設となり、赤レンガパークとして整備され、今や横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。
赤レンガ2号倉庫は1911(明治44)年、1号倉庫は1913(大正2)年に竣工。保税倉庫として綿花、綿織物、羊毛、毛織物、砂糖、武器等の輸入品が保管された外、一部は民間に貸与されて生糸、葉タバコ、羊毛、洋酒、食料品、光学機械等の保管にも使わ、1989(平成元)年まで担っていた。
3階建て、150メートルほどの長さの倉庫は富士瓦斯紡績のレンガ造りと違い、当時の最新技術を導入しレンガの間に鉄骨で補強された工法であった。
それでも震災の被害は1号倉庫は中央部が崩壊焼失し、2号倉庫も大きな被害を受けた。
昭和初期に復旧したが、現在残る倉庫は当初のものより小規模のものになってしまっている。
横浜港全体が壊滅的な被害を与え、以後貿易取扱高の首位の座を神戸港に明け渡すことなった。


紡績工場のレンガ造り建物の被害

地方裁判所、保税倉庫とレンガ造り建物の被害を列記したが、上の表は工場被害のワーストである。
ワーストの上位は全てレンガ造りの建物であった。
ワースト1の富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場は、5万坪(16.7ha)の敷地にレンガ造り平屋建ての工場15棟が建つ大工場である。。勤務は2交代制で、地震発生時はその2組が食事をとる入れ替えの時間帯であって、防火のために高くしたレンガ壁が倒壊した。防火が逆に仇となって職工453名と社員1名もが圧死した。
多くの職工(女工)は東北地方をはじめ沖縄など遠方の農家の出身。それに日本へ併合された朝鮮半島からの女工さんもいたという。貧しい農家の出身者が多く遺骨を引き取るための交通費さえ工面できずに、引き取り手のない遺骨も少なからずあったという。
そこで、工場から2.5km北東に離れた東光寺の先々代住職が引き取って葬ったという。
表中の富士瓦斯紡績小山工場だけが建物倒壊後救助できずに火災の依った唯一の被害だという。また、海軍工廠の被害には崖崩れの死亡者も含んでいる。
鉄筋コンクリートの建物は比較的地震に強かったようであるが、地震が殆ど発生しないアメリカ式の建物を模した建物は、同じ敷地内にモルタル造りの建物が持ちこたえているのに崩壊しているケースもある。

女工が葬られているという東光寺


山手80番館遺跡・元町公園
これは、外国人が建てたレンガ造り住宅が崩壊したケースである。
明治末期から大正初期頃に建てられた、建築面積180㎡(およそ54坪)、鉄筋補強レンガ造りの3階建の住宅であったが、震災により今は地下室の床だけが残っている。
このレンガ造りの建物は、鉄筋の補強がなされていたがそれでも倒壊してしまったという。地震の凄まじさを語っている。見た目には補強の鉄筋は解らない。
ここで発見された牛乳配達用の小ビンが横浜都市発展記念館で会期中展示されている。




たまくすの木・横浜市開港記念資料館
たまくす(玉楠)の木は、江戸時代、横浜が小さな農漁村であったころからこの地にあり、1854(嘉永7)年のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」や、「水神の祠」などに描かれていると云われる。
その後、関内地区に大きな被害をもたらした1866(慶応2)年の大火によって、たまくすの木は樹形が変わるほど焼失してしまった。
関東大震災でも再び大きな被害をうけるが、その生命は絶えることはなかった。
その後、横浜大空襲の被害もくぐり抜けたたまくすの木は、枯れることなく大きく育っている。

横浜開港資料館


中庭にたつ「たまくす」の木


山下公園
山下公園は関東大震災の瓦礫処理によって造られた公園と云われているが、公園整備計画は震災前からあったものだが、なかなか実施されず延び延びにされていた。
そこに震災が発生、瓦礫の処理とこれまでの公園整備計画を促進させる一石二鳥の事業として山下公園が誕生した。
造成を進めるうちに横浜市は山下公園を震災復興のシンボルにしようと考えた。開園5年後の1935(昭和10)年3月26日~5月24日の2ヶ月間、復興記念横浜大博覧会が開かれた。
生け簀(いけす)にクジラを入れたり、プールにボートを浮かべて遊んだりと、かなり派手な博覧会だったようだ。公園の中央辺りにある沈床花壇がクジラを入れた生け簀の跡のようだと聞く。


外国商人救済の返礼として「インド水塔」が寄贈される


公園前の海に複数個のレンガが沈んでいた、瓦礫のレンガではあるまいに何だろう


震災復興記念碑・横浜公園
震災時は鬱蒼と茂った樹木と破裂した水道管が、公園に避難した市民を救ったと云われる。
1876(明治9)年、日本で最初の洋式庭園として造られた。
この公園も震災復興事業のひとつで再生し、新たに音楽堂が建てられた。





ニューグランドホテル
1873(明治6)年、居留地二十番(現在の人形の家あたり)に横浜での本格的なホテルとしてグランドホテルがオープンした。そのころの横浜居留地には幾つか名の通ったホテルがあったが、規模もあまり大きくなく名ばかりのひどいものが多かった。
その中で、グランドホテルは横浜だけではなく日本を代表するホテルとなってゆき、1889年には居留地18番、19番のウインザーハウスの跡地に新館を増設し、さらに増築を図り客室360を数える大ホテルとなっていった。
そして東京の帝国ホテルとならんで日本有数のホテルとなるが、震災によって50年の歴史に幕を閉じた。
         
グランドホテルの残骸
震災後、横浜市長の提案により「横浜市復興会」が結成、そこで「外人ホテル建設の件」が決議された。それがホテルニューグランド建設のはじまりである。
官民一体となって建設が進められ1927年に創業した。名称は公募されたが、思うような名が見当たらず、震災前の横浜を代表したグランドホテルの名を蘇らせようとの思いからニューグランドに決まった。
         
現在のホテルニューグランド
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリン、ジョージ・ハーマン・ルースなど著名人も多数来訪している。
1945(昭和20)年、連合国軍最高司令官(SCAP)として来日したダグラス・マッカーサーはホテルを執務室として使用したが、1937年に新婚旅行の帰路にも滞在している。このホテルを気にいっていたようだ。
作家・大仏次郎さんは、このホテルの318号室で「鞍馬天狗」などの作品を書き上げており、歌手・淡谷のり子さんはホテル内のレインボールームで歌っていた一時代もある。
         
レインボールーム
我らの裕ちゃん・石原裕次郎さん行付けのスタンドバーもある。
また、ホテルの厨房からはドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理が誕生したことも承知であろう。
こうした歴史を積み重ねているホテルニューグランドも誕生して今年で86年目を迎える。
         
80周年記念コースター
開設当初の式典の写真やパンフレットが横浜都市発展記念館で会期中展示されている。


大震災殃死者慰霊碑・増徳院元町薬師堂 
古くから「元町薬師」と呼ばれて住民の信仰を集めていた薬師堂である。山下公園から来ると元町商店街のとばくちに建っている。
山手の外国人墓地を境内墓地としていた増徳院が以前あったが、関東大震災後に横浜市南区に移転、その後薬師堂がこの地に再建された。現在の薬師堂は1982(昭和47)年に再建されたものである。今は「増徳院元町薬師堂」と呼称されている。



大震災殃死者慰霊碑(左)と戦災者供養塔


横浜大震火災死者合葬の墓・久保山墓地
横浜市西区の市営久保山墓地の一角に関東大震災の合祀霊場がある。
関東大震火災により死亡した無縁者を合祀し「横浜市大震火災横死者合葬之墓」が建てられた。3,300人が氏名が解らないまま火葬したと刻まれている。
また、同じ一角には「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」も建っている。この碑は「横浜市大震火災横死者合葬之墓」の手前左手のたっている。
関東大震災の直後に流言飛語により発生した日本人による朝鮮人への虐殺という悲しい事件の犠牲者を慰霊するもので、少年の日に目撃した一市民が建立したとある。
「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」とか「朝鮮人が集団で襲って来る」などのデマが流れて、各地に青年団、在郷軍人会、消防組織を中心とする自警団が結成された。
朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとされる。そのデマの発生場所のひとつとして横浜市のある一角があげられていて、横浜でも多くの犠牲者が発生した模様である。
日本人にも誤解されて犠牲者が多数いたという。劇団・俳優座の千田是也(1904~94)さんも朝鮮人と間違えられ、危うく殺されかけた経験があって、(「鮮(朝鮮人)だ、これは」という自警団の言葉から取られているとも「千駄ヶ谷のコリアン」を自称したためとも言う)から芸名をつけているとも云われる。但し、他の資料からは「これや」ではなく「これなり」だということも添えておく。
また、暴挙に及んだ日本人だけではなく、鶴見警察署長や横須賀鎮守府など朝鮮人を保護した個人や組織もあった。

合葬之墓に続く広い参道


横浜市大震火災横死者合葬之墓(左)と関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑


関東大震災90周年に関する催し
関東大震災と横浜・横浜都市発展記念館
開催期間:7月13日~10月14日
地震発生後の20分間の生々しい被害映像は必見である。

被害者が語る関東大震災・横浜開港資料館
開催期間:7月13日~10月14日

レンズがとらえた震災復興 1923~1929・横浜市資料室(中央図書館内)
開催期間:7月13日~10月14日

横浜港と関東大震災 震災からの復興・横浜みなと博物館
開催期間:9月28日~10月15日 
山下公園に埋もれた瓦礫を採取し展示する。

藤沢の関東大震災・藤沢市文書館
開催期間:8月5日~9月27日


「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉がある。
自然科学者でもあり、随筆家でもある戦前活躍した寺田寅彦の居住跡に建てられた碑に刻まれている言葉である。
この言葉、昔はよく使われたが、今や死語になってしまったと思われる。
何故って、今や災害は次から次へとやって来るからだ。
そして、いやというほどその被害の恐ろしさは脳裡に刻まれてはいる。だが、何事も普段から油断せずに用心して備えておかなければいけない、といういましめは忘れがちではないだろうか。
今は記録的大雨によるスポット的な地域に大きな被害を及ぼす災害も多く発生している。



陸軍被服厰跡に造られた横網町公園内の東京都慰霊堂



                      関連 : 震災記念日に寄せて

横浜市役所調査の関東大震災被害状況
       横浜市総人口 445,048人
       焼死者     24,646  
     住宅破壊死者  1,977
     計       26,623

     住宅全壊    15,537棟  うち非焼失 5,332棟
         半壊    12,542         4,380
         焼失    25,324

     官公庁の被害 43のうち33焼失
       各国領事館  26すべて焼失
       公立小学校  36のうち34が焼失  児童900人犠牲
       会社・銀行  326のうち309が焼失
       工場     約3,000のうち2,700が焼失


 

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