あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

京都の紅葉を愛でる2013 下鴨神社~曼殊院

2013-11-30 14:21:10 | 京都
下鴨神社・糺の森(ただすのもり)
糺の森とともに「世界遺産」に登録されている京都屈指の古社。




糺の森は下鴨神社の境内に広がる原生林である。かつて京都に平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの広さがあったが、応仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在はその40分の1で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積となった。
1470(文明2)年に応仁の乱の兵火を被った際には、総面積の7割を焼失している。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については諸説あって、「偽りを糺す」の意とするほか、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)、通称蚕の社(かいこのやしろ)にある「元糺の池」、およびその周辺の「元糺の森」から遷された名前であるという意見もある。
下の写真はその蚕の社である。


本殿左側の一段低くなった所に、繁茂した樹木に囲まれた池がある。それが糺の森の謂れとなった「元糺(もとただす)の池」と呼ばれる神池である。四季を通じて清らかな水が湧き出ていたが、数年前から水が湧き出さなくなったという。
上の写真は、今は空池となった池の中にある三柱鳥居である。柱が三本で三方が正面、上から見ると三角形になっている珍しい鳥居で京都三鳥居のひとつとされている。これの鳥居は1831(天保2)年に再興されたもの。現存は石造りであるが、その前は木製で葛飾北斎が描いている。
この神社に参詣したのはその名に『蚕』がついていたからである。それが糺の森と縁があるとは驚きである。これも「私が歩くと偶然に当たる」なのだろう。

詩仙堂(しせんどう)
徳川家康の家臣であった石川丈山が隠棲した山荘跡で、現在は曹洞宗の寺院。










曼殊院万跡(まんしゅいんもんぜき)
天台宗五門跡寺院のひとつ、785(延暦4)年最澄が鎮護国家の道場として一宇を建立したのが始まり。
枯山水庭園は国の名勝。








真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)
通称、真如堂(しんにょどう)。
984(永観2)年、比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母の離宮に安置したのが始まり。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の数カ所を移り変わり、1693(元禄6)年、現在の場所に再建される。








西雲院・会津藩墓所
西雲院(さいうんいん)は、金戒光明寺の塔頭である。
幕末、京都守護職会津藩松平容保(かたもり)は金戒光明寺を本陣したことで、1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦いで犠牲となった会津藩士352名の墓所がある。


NHK大河ドラマ「八重の桜」で会津藩が取り上げられているのに訪れる人は少ない。

百万遍交差点


11月26日に訪れる



                    関連 : 京都の紅葉を愛でる2013 嵐山~嵯峨野
                         京都の紅葉を愛でる2013 東福寺~正伝永源院

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真っ赤だね・丹沢大山寺紅葉2013

2013-11-24 15:14:06 | 丹沢
真っ赤だね!

祭日の11月23日、大山に紅葉狩りに出かける。大山の紅葉詣では久々のことだ。


スタートのバスロータリー 中央やや左に大山を望む

大山寺
















今日から大山寺はライトアップされ、幻想的は世界にと導かれることだろう。

雨降神社










参道で

寒桜と山茶花

黄色もいいね

アド街ック天国
何故か、またまたTV番組と偶然が重なった。



「うるわし」の女将がこの番組に出演していたが、気さくな人で、いつぞや「みかん持って行く」って、甘夏を数個いただき頂上で食べた記憶がある。
ここの柿ゼリーはいつもお土産。   
あとは金子屋の大山独楽2個、それにわらび餅に次郎柿を求めた。


家族連れということで、休日の紅葉狩りとなってしまったが、平日でさえシーズン中は混雑するのに、この日の人出はその比ではなかった。臨時駐車場は歩道にまで車がはみ出し、遠く東名高速の近くの駐車場さえ満杯で、市営の駐車場付近は空き待ちの車が長蛇の列。
ケーブルもピストン輸送をして1回に100人を運んでも長い行列か続いていた。










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三溪園・松風閣

2013-11-21 10:14:54 | 三溪園
三溪園の正門から大池を巡り、茶室・林洞庵の脇通り、その先右手の石段を上って行くと三溪園シンボルの三重塔にあたる。
その先、右手、観音様を過ぎて進んで行くと、かつてはレンガ造りの山の上の別邸・松風閣が建っていた。今や崩れ落ちて見る影もないが、その建物には明治後半から大正期にかけての原三溪の歴史が刻まれている。
今回、平成22年に発掘調査を行った模様の講演を聴講したので、当時の原三溪別邸・松風閣を思い巡らい綴った。

         

原三溪の前身、青木甲太郎は美濃国(岐阜県)に1869(慶応4)年に生まれる。時代は、あと2週間余りで明治に代わる世であった。
青木家は素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにも係っている。
幼少甲太郎は、神童と呼ばれ3、4歳の時は絵柄で百人一首の人名を覚え、5、6歳で寺子屋に通ったと云われる。
16歳で上京し、翌年東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の漢字と歴史を教える助教師を務める。
1892(明治25)年、女学校の教え子である横浜の豪商・原善三郎の孫娘、17歳の屋寿(やす)に見初められ、結婚し、原家に入る。甲太郎23歳。 ふたりのゴールは簡単ではなく、校長である跡見花蹊(あとみかけい)等の仲介があったからと云われる。
     
ふたりの結婚から少々前の1887(明治20)年ごろにレンガ造りの山荘・松風閣は養祖父の原善三郎によって建つ。野毛の本宅もレンガ造りの洋館であった。
本牧に移った後、その洋館は代々横浜市長の庁舎として貸し出され、関東大震災で破壊される。その住居跡は現在、野毛山公園の一部になっている。
善三郎の跡を継いだ甲太郎は本宅である「鶴翔閣」を完成。上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることからその名がついたと云う。
この頃から、富太郎は、この地、三之谷の地名から三溪と号するようになった。
三溪は母方の祖父が画家であったDNAを受け継ぎ古美術のコレクションにも力を入れ、松風閣で展示し、その蔵に保管していたようだ。
そして、1906(明治39)年、現在の外苑部分を無料で開園すると、松風閣は芸術家、文化人をもてなすゲストハウスとなった。
大正期に入り、三溪の強い要望で、下村観山は十二天海岸の仮宅で「金銀四季草花図」を描き、松風閣の襖絵となった。三溪はこの部屋を「観山の間」と呼んだ。
          
観山はその後、三溪園の梅の木をモデルとして「弱法師」を描く。また、横山大観も松風閣に滞在し、「柳蔭」を描いている。
1916(大正5)年、アジアで初のノーベル賞を受賞したインドの詩聖タゴールが大観の紹介で来園し、松風閣に2か月半滞在する。
その際に、松風閣の窓を開けた途端に一羽の鳥が飛び込んできて、即興で「さまよえる鳥」の詩が生まれたと云うエピソードがある。
              さまよう夏の小鳥は
                  窓辺に来鳴きて 飛び去り行く
              うたわぬ秋のわくら葉は 
                  風のそよぎに
              はらはらと 窓のほとりに 散りかかる


松風閣に滞在中のタゴール

    
三溪が美術品を収集する力の入れ方が、並はずれた熱意をもって入手した例として、絵画「孔雀明王」の購入がある。
日露戦争が始まる1年前のこと。明治の元勲・井上馨所有のこの絵を見て、三溪は感動でその場を一歩も動けなくなった。
縦1.49m、横0.99mの平安時代後期のこの絵を三溪は大枚をはたいて入手した。
のちに、この絵を蔵から出して松風閣の床の間に掛けることは、原家にとって一大事であったようだ。
「孔雀明王」がかかると、下の家「鶴翔閣」に知らせが来て、家族は大急ぎで松風閣に駆け上がったという。
 
この階段を駆け上がると松風閣に

下の地図は茶会を催した時に描かれたものを松風閣付近をアップした。それをみると、松風閣は複雑な形をしていて現在露出している部分に比べもっと大きかった構造であったと想像できる。
         
当時、松風閣の崖下は海となっていて海水浴や潮干狩りが楽しめたと云う。
昭和30年代(1955~64)に埋立てが開始され、その海は本牧市民公園となっている。



展望台・松風閣が木々の合間から望まれる

 
コレクションの美術品は、晩年の夫妻の住いとなった「白雲邸」の蔵に1920(大正9)年に移された。
そして、1923(大正12)年の関東大震災で松風閣は崩壊した。

手前の松風閣跡と奥の展望台・松風閣

一昨年行った人力による発掘調査結果をここに追記すると、対象の20平方メートルの発掘範囲内には、トイレはあったが、生活臭を感じさせる什器などは発見されなかった。
そして、レンガの製造会社の創立から考えると、養祖父の没後に美術品収蔵用として増築した建物と結論されている。

伊藤博文が名付け親と云う山之上別荘・松風閣






アーチ状のレンガ積み


外壁は堅強に焼かれた耐火レンガで、角は丸みを帯びている


刻印によって製造メーカーが判明し、建てた時代も解った
 

これが美術品を保管していた建物だとしたら、晴れた日には遠く房総までが見渡せたと云う、養祖父が建てた松風閣は跡形もないのだろうか、それとも埋もれて発見されていないのだろうか。


                資料:八聖殿歴史特別講座             
                    原三溪物語 神奈川新聞社刊
                     マイウェイNo.77 はまぎん産業文化振興財団刊



海側から取ったと思われる松風閣


                    前回の三溪園 : 三溪園11月の花

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三溪園11月の花

2013-11-19 17:55:14 | 三溪園

三溪園 南門


ツワブキ


ツワブキ


ホトトギス

      
  サザンカ                                 ムラサキシキブ
















紅葉は








紅葉はまだ浅いので


                    前回の三溪園 : 三溪園8月の花

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紀尾井町・清水谷

2013-11-13 18:07:42 | 東京散策
赤坂迎賓館から外堀通りの坂を下ってゆくと、迎賓館の建物とはガラッと変わって古風な門に出会う。
赤坂迎賓館東門である。マスコミ関係者が出入りする門と聞く。
坂は「紀伊国坂」、赤坂見附に下る坂道で、九段坂と並ぶ江戸の代表的な坂。紀国坂とも書く。
別称は赤坂・茜坂(あかねざか)。赤坂の地名もこれに起因する。

赤坂迎賓館東門
もともとは紀州藩徳川家中屋敷の建物の一部で、明治末期に移築改修され、迎賓館の東門として使われるようになった。中屋敷にあった表門を移築したものとも云われる。
         

紀伊国坂信号を右折し、紀尾井町に入る。
そこは、喰違見附跡である。


喰違見附
喰違見附は、外堀にある見附門の中では異色の存在である。他の門は、全て石垣が組まれた枡形の構造をした門が築かれていたが、喰違見附だけは、土塁を前後に延ばし、堀を隔てた道に角材を3本組み合わせただけの冠木門(かぶきもん)が設けられた、戦国期以来の虎口(こぐち)構造の見張り所であった。
1874年にはここで右大臣岩倉具視が襲われる暗殺未遂事件が起きた。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などと呼ばれる。
         
喰違外 「絵本江戸土産」 歌川広重作


紀尾井町
江戸時代初期から、この界隈は大名屋敷が置かれていた。紀州和歌山藩徳川家上屋敷、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、近江彦根藩井伊家中屋敷があった。
その三家より、それぞれ一字ずつとって紀尾井町と名付けられた。
これらの大名屋敷は、1872(明治5)年、新たに麹町紀尾井町に生まれ変わり、1878(明治11)年に麹区に所属する。
明治以降、紀尾井町は政府用地、北白川宮邸(現・赤坂プリンスホテル)や伏見宮邸(現・ホテルニューオオタニ)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになった。
1911(明治44)年、町名変更により紀尾井町となった。

近江彦根藩井伊家屋敷跡
この地は、近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していたので、ここは中屋敷として使われた。
十六代にわたって明治維新まで続き、石高はほぼ35万石であった。井伊家は譜代大名の筆頭であり、大老職に任ぜられる名家でもあって、幕末に幕政を動かした直弼は特に有名である。
         
         
ホテルニューオオタニ  碑は敷地内にたっている
 

尾張名古屋藩屋敷跡
この一帯には江戸時代に、尾張名古屋藩徳川家の麹町邸があった。1637(寛永14)年に拝領してから、藩主や世嗣(せいし・世継ぎ)が一時的に居住するなど様々な使われ方をした。
尾張徳川家は、家康の九男にはじまる家系で、紀伊家(十男)、水戸家(十一男)と共に御三家と称され、年長で知行高(61万9,500石)も高かったため御三家筆頭となり、大名の最高位に位置し、十六代にわたって明治維新まで続いた。
         
         
紀伊和歌山藩屋敷跡
この一帯には江戸時代に、紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸があった。1657(明暦3)年の大火でこの地を拝領した。紀伊徳川家は、家康の十男にはじまる徳川御三家で、十四代にわたって明治維新まで続き、その中で八代将軍吉宗と十四代将軍家茂は藩主から将軍の座に着いた。石高はほぼ55万5,000石。
         
碑の奥はプリンスホテル工事用の白いフェンス

      
紀尾井坂
喰違見附から東に下って清水谷(清水谷公園)に至る全長200mほどの区間で、「清水坂」とも呼ばれる。
江戸時代に坂の北側には尾張徳川家、南側に紀州徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったことから、町名と同様一字ずつ取って紀尾井坂と呼ばれるようになる。
1878(明治11)年に内務卿大久保利通が旧加賀藩士島田一郎らに暗殺された。この事件を「紀尾井坂の変」と呼ぶ。
        

清水公園
清水公園の辺りは、江戸時代紀伊家と井伊家の屋敷境の谷であったことや、紀伊家の屋敷に霊水(清水)が湧きだしていたことで紀尾井坂下交差点から弁慶橋辺りまでを清水谷と呼ばれていた。公園もここから名付けられている。
公園の中央には紀尾井坂で暗殺された、内務卿大久保利通の遭難記念敷地が占めている。大久保の同僚であった政府の官僚たちが、彼の遺徳をしのび功績を讃える「哀悼碑」がたてている。
また、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石枡が展示されている。
         
清水谷の標柱
         

         

         
大久保利通哀悼碑


         
玉川上水石枡

         
                  


弁慶堀・弁慶橋
弁慶堀は寛永年間(1624~43)に、江戸城を普請した大工の棟梁・弁慶小左衛門がこの掘を掘ったこと由来するという。
江戸時代、ここには橋が架かっていなかったため迂回して堀を超えていたと云う。
話は変わって、神田紺屋町付近を流れる人工水路に弁慶橋が架かっていた。
その水路は、付近の紺屋から流れる排水によっていつも藍色に染まっていたため、藍染川と名付けられていた。
明治に入り、藍染川は埋めたてられ橋は廃止となった。
そこで弁慶堀にその橋の廃材を用いて、1889(明治22)年に橋が架けられた。橋の名もそのまま受け継がれ弁慶橋と名付けられた。
藍染川に架かっていた弁慶橋も弁慶堀を掘った弁慶小左衛門が造ったものだと云う。その橋、堀がかぎ型に曲がっていたため、三方向から渡れる名橋であったといわれる。
         
         

赤坂見附交差点
弁慶橋を渡ると五差路の赤坂見附交差点につきあたる。右手には地下鉄への通路が口を開けている。
         

         
紀尾井町方面を望む 1960(昭和35)年


                      関連 : 赤坂見附を歩く 

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まちの受け継ぐ財産「玉川上水」を歩く

2013-11-04 12:55:14 | 東京散策

新宿区は「まちの記憶」として、新宿御苑脇の旧新宿門から大木戸までの540mに「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」を整備した。
このまちに玉川上水が流れたいたことを形として記憶する作業である。

玉川上水は、江戸の飲料水を確保するために玉川兄弟の手によって1654(承応3)年に開設された。取水口である多摩川の羽村堰から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの43kmの区間は土を掘りぬいただけの開渠で造られた。

               
 
今回、玉川上水散策の一環としてこの散歩道を歩く。

玉川上水・内藤新宿分水散歩道









ツワブキ


ホトトギス



四谷大木戸水番所
四谷大木戸は玉川上水開渠(かいきょ)の終点地。
ここから市内へは石や木で造られた水道管を通じて水を供給し、1898(明治31)年に淀橋浄水場が完成するまで、江戸・東京の人々にとって貴重な水資源であった。
水番屋を設置、番人ひとりが置かれ、水質・上水内のゴミや異物の監視等を行って管理した。
また、雨などによって満水になった場合、渋谷川に水を流す「吐水門」や江戸市中へとり入れる水門もあった。

水道碑記(すいどういしぶみのき)と四谷大木戸跡(右)


「四つ谷大木戸構天図」 吐水門、芥留や石水門などが描かれている


「江戸木桶史図」 大木戸から先は水道管で供給


近代的な東京水道の発祥


内藤新宿
1590(天正18)年、徳川家康が江戸に入府した時に、家臣である三河の内藤清成(きよなり)は、家康から「馬で一息に乗り回した土地をすべて与える」と告げられ、白い愛馬に乗って、南は現在の千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を駆け、20万余坪の広大な土地を拝領した言い伝えがある。
内藤家の屋敷地は、江戸の中でも非常の大規模であったことから、地名が「内藤町」と命名される。1698(元禄11)年、甲州街道に宿場が設けられた後は、一帯が「内藤新宿」と呼ばれるようになった。
家康の家臣が馬でひと周りをして広大な土地を拝領した話、どこかにもあったなと調べたら。渋谷区の青山一帯を拝領した青山家宗家初代の青山忠成がそうであった。「大名屋敷が並ぶ青山を歩く」で知ったことだ。


この後は、寺町・四谷に向かう。
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寺町・四谷界隈を歩く

2013-11-03 20:47:00 | 東京散策
四谷界隈には、寺院が集中しているが、これは寛永年間(1624~45)に、江戸城外堀工事のため、強制的に麹町から四谷に移転させられたからだと云う。
今回の散策は、「内藤新宿分水散歩道」の散策を終えて、内藤新宿の記念碑がある四谷区民ホール前からである。


                    
内藤新宿開設300年記念碑
1698(元禄11)年、浅草阿部川町の名主らの願により、四谷四丁目交差点から新宿三丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。
宿場は、一時廃止された時代もあったが復活し、以降甲州街道と青梅街道が交差する交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄を続け、現在に至る。
なお、甲州街道の開設や各宿の起立時期は明確ではなく、甲州街道は東海道のように一時に整備されたのではなく、戦国期から段階的に整備された思われる。
記念碑は区民センター西側の笹の中にたてられている。
         
笹寺(長善寺) 四谷4-4
1575(天正3)年起源とする曹洞宗の寺院。二代徳川将軍秀忠が立ち寄った際に笹が繁っていたことから、笹寺と呼ばれるようになったと伝えられる。
      
北西約500mのところに、同じ長善寺という浄土宗のお寺(四谷4-33)があり、誤ってこちらを訪れてしまった。
新宿通りに戻って、たまたま通りの反対側に笹寺の石柱を見つけ、長善寺2寺を参拝した。
あとで知ったのだがこちらの冠木門がある笹寺が目的の長善寺であった。

田安鎮護稲荷神社
もともとこの地域は田安家の下屋敷があったところだ。
徳川八代将軍吉宗が、御三卿(田安・一橋・清水)を設け、そのひとつ、吉宗の次男宗武が1729(享保14)年、田安徳川家の家祖となり、17568(宝暦6)年、四谷大木戸御門内に下屋敷を構えた。その折に屋敷神として田安稲荷神社をお祀りし、代々の当主の崇敬した。明治維新後、稲荷社だけが残り、屋敷跡地に四谷永住町という町が生まれ、代々この地の住人が護っている。
       
誤った長善寺に向かう際に稲荷神社の案内が目に止まり、「田安」の名にひかれたお参りした。御三卿の屋敷稲荷だとは思いがけない収穫である。

金丸稲荷 荒木町10  
この辺一帯は美濃国高須藩松平家上屋敷があったところで、金丸稲荷は藩主・松平摂津守の守護神として建立し祀られた屋敷内神社である。
高須藩は御三家筆頭である尾張藩の支藩である。
幕末期・1835には、NHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場する松平容保(かたもり)が高須4兄弟のひとりとしてこの屋敷で生まれている。奇しくも同じ年に坂本竜馬が生まれている。
容保は、1852年、合津藩に養子として迎えられ、京都守護職に任じられ、新撰組が登場することは、数々のTVドラマでおなじみである。1868年、戊辰戦争、合津鶴ヶ城落城後は鳥取藩で謹慎生活を送り、その後は日光東照宮宮司に任じられ、1893年、幕末・明治初期の波乱な人生の幕を閉じた。享年59歳。
                   

                        
                   この辺りが上屋敷だったことに因んでトイレの構造が屋敷風

         
         

策(むち)の池
金丸稲荷神社の鳥居の前の細い道、地元では「荒木町奥の細道」と呼んでいるそうだが、その道なりに50mほど進み石段を下りると、「津の守(つのかみ)弁財天」が池のほとりに鎮座している。社の後ろには小さな池があるが、かつては長さ130m、幅も20〜40mある大きな池だったと云う。
池の名前の由来には諸説あるが、いずれも「乗馬用の策(ムチ)」を池もしくは池の水源で洗ったことが由来とされている。その後、1683(天和3)年にこの一帯は美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷となり、湧水をせき止めた滝のある大きな池を中心とする庭園になった。明治に入り庶民に開放され、茶屋が出来、観光名所となった。滝は落差4mほどあったというが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていたという。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となった。現在、滝はない。
 
                
         
新宿通りから金丸稲荷、策の池に来るには「車力門通り」を歩くのだが、むかしの歓楽街の名残があるような軒を連ねていた。
策の池周辺はどんな町に変化したか楽しみだったのだが、歓楽街の名残りは全くない何処にでもある住宅街になっていた。それが当然なのか?

津の守坂 
「津の守坂(つのかみざか)」は、三栄町交差点から合羽坂下交差点にかけて緩やかに下る坂である。
江戸時代、この坂の西側に美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことに由来する。
別名を小栗坂とも云う。
坂を下る途中を入ると新宿歴史博物館がある。
       
 

策の池から津の守坂に来る途中には「仲坂」という石段もある。石段の脇には仲坂と刻んだ石柱が半ば埋もれていた。謂れは解らなかった。
        

文学座アトリエ 信濃町10
1950(昭和25)年竣工。座席数は約160席
建物は15世紀末から約1世紀続いたイギリスの建築様式であるチューダー様式が採用されている木造建築である。 文学座の稽古場であり、前衛的実験的な作品を上演する、1950年より現在に至る「アトリエの会」の拠点である。

建物の脇の通路でカメラを構えていると奥に入ってもいいですよと、タバコを吸いに休憩に出てきた劇団員の方が話しかけてきた。
その中の年長の方が簡単な説明をされて、
建物の壁面には、シェイクスピアの名言である「世界は全て劇場である」がラテン語で描かれていると云う。
説明が聞けるとは思いがけないラッキーなことだ。
文学座と云えば、杉本春子さんの「女の一生」を観たことがある。相手役には北村和男さん。
他の女優さんとしては、魅力的な太地喜和子さん。それから藤田弓子さん。映画「ひとりっ子」での彼女はとても可愛かった。
 
 
   ラテン語で「世界は全て劇場である」                       文学座のマーク

於岩稲荷田宮神社 左門町17
於岩稲荷田宮神社は、「東海道四谷怪談」の主人公お岩を祀るため、芝居小屋に近いこの地に、明治のはじめ創建したという。
1872(明治5)年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時中央区新川に移転したが、戦後再びここに移転。
         

須賀神社 須賀町5
江戸時代には稲荷神社と牛頭(ごず)天王社を併せた、稲荷天王合社と呼ばれていて四谷鎮守の天王様として信仰を集めていて、明治維新までは四谷天王社と呼ばれていた。
1868(明治元年)神仏分離により須賀神社と改称された。旧社格は郷社。
神社には新宿区指定有形文化財に指定されている三十六歌仙絵がある。
         
              
                       今年も酉の市が開かれる季節になってしまった

        
                    大国主命                        天白稲荷神社

妙行寺(三銭学校) 若葉2-4
須賀神社女坂の右側にある門のある寺で身延山久遠寺の末、日蓮宗の寺院。長禄年間(1457~60)の創立。創立当初は真言宗であった。
江戸中期、十代将軍家治の時、檀徒の娘が側室として仕え、その縁により一族が大奥の中(ちゅうろう)等の役職に就くものも多く輩出され、赤門建立を許されたという。故に四谷麹町界隈では「赤門寺」として名を馳せた。
本堂には鬼子母神あり、別に草分稲荷という麹町時代の稲荷なのか(今は福徳稲荷)祀られている。
境内墓地左手崖下に立派な五輪塔の代々住職の墓がある。
明治時代、四谷区内の50余りの寺院共同で鮫河橋(さめがはし)に住む貧民の子供に教育を施そうと、この妙行寺などの敷地を使い「三銭学校」という学校を開き、授業を受ける生徒達に3銭ずつの寄付を募って運営資金にした。
         

戒行寺 須賀町9-3
戒行寺は長谷川家の菩提寺と言うことで、池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公、火付盗賊改方長官である長谷川平蔵が眠る。但し墓はないようで、境内に供養碑が建っている。
元は麹町8丁目に唱題修行の戒行庵としてあったものが、寛永11年にこの地に移る。宗派は日蓮宗。
ここには義理母(テレビでは波津)が葬られている。
平蔵自身は菊川の屋敷にて1796(寛政8)年に亡くなり代々の菩提寺であるここに葬られた。
往時は塔頭に、円立院、本寿院、観行院、覚行院があったが、覚行院は江戸時代既に廃され、他の寺院も維新頃本寺へ合併されたかなくなってしまった。
         
         

西念寺 若葉2-9
浄土宗寺院の西念寺は、専称山安養院と号し、1593(文禄2)年麹町清水谷に、徳川家康の譜代家臣で徳川十六神将に数えられる服部半蔵正成により開山、1634(寛永11)年に当地へ移転する浄土宗の寺院。専称山安養院西念寺。
服部氏菩提寺であり、正成をはじめ服部一族の墳墓が存在する。また、正成が守役を務めた徳川家康の長男・信康のために彼が建てたとされる供養塔が現存している。
寺院周辺一帯は閑静な住宅街であるが、江戸時代には伊賀町と呼ばれ徳川家に仕えた伊賀衆の組屋敷があった。開基の正成はこの伊賀同心200人・与力30騎からなる伊賀衆の組頭であったとされる。また、同寺から新宿通りを逆に都心方向に東に移動すると服部正成にちなみ命名されたという、旧江戸城(現皇居)半蔵門に達すると云う。
 
         

寺町・四谷界隈
 
            本性寺 須賀町13-3                         東福院 若葉2-2-6

 
            愛染院 若葉2-8-3                             勝興寺 須賀町8-7

 
西応寺 須賀町11-4                       宗福寺 須賀町10-2  


坂の町・四谷

東福院坂


戒行寺坂


観音坂

たい焼き老舗わかば 若葉1-10    
柳家、浪花屋総本舗、わかばの東京三大たい焼きのひとつ。
1953(昭和28)年創業の「わかば」は住宅街の中に佇んでいる。店内では職人さん2人が一本焼きの型で焼き上げては前面のトレーに流している。
流れてきたたい焼きを女将さんがハサミで形を整えてゆく。それからご主人がお客と対応しながら包んでゆく。一匹140円。尻尾まであんこはたっぷり詰まっている。
         
順番待ちの間、サラリーマン3人組のひとりが米倉涼子が出ている番組にこの店が出ていたことを話していた。今はやりの街をうろうろする食べ歩きの番組だろうと思った、家人に話すと前日放送した「ドクターX」の中で、若葉の店前で彼女と男優がたい焼きを食べるシーンがあったと云う。
今回もまたまた、TV番組との偶然の出会いがあった。

 

四谷見附跡 
四谷見附跡は、江戸城の西の守りを固める枡形門(警備のための城門)が設置されていた。そこには警備のために見張りの番兵を置いていた。その番兵の居場所を見附と呼んだ。赤坂見附、日比谷見附、牛込見附、市谷見附、四谷見附などで外濠沿いに数多く存在したため、36見附と呼ばれていたようだ。門は明治5年に撤去され、現在はわずかにその石垣の一部を残している。

 

四谷見附橋
枡形門が撤去されたあとの街道は、防御上の配慮によってコの字型に残り、これが明治になると交通の障害になった。そこで東京市は、1911(明治44)年、外堀に架橋して街道を直進させる工事を行ない、1913(大正2)年に完成。これが「四谷見附橋」である。
迎賓館および付近の風景との調和をはかるよう、フランス風クラシック調のデザインに設計されてる。1991(平成3)年に架け替えられている。
        
   

この後、赤坂迎賓館に向かう。


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赤坂迎賓館前庭公開2013

2013-11-01 20:48:55 | 東京散策
迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、10年有余の歳月をかけて1909(明治42)年に東宮御所(後に赤坂離宮)として日本人の手による、日本最初の洋風建築物として建設されたもので、地下1階地上2階の日本における唯一のネオ・バロック様式の建築物である。
この建物は戦後、国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会などの機関に使用されていた。その後、外国の来賓を迎えることが多くなり、国の迎賓施設として「旧赤坂離宮」を5年有余の歳月をかけ改修し、1974(昭和49)年に現在の迎賓館が完成した(迎賓館・赤坂離宮より)。







正門の菊花御紋章



正門哨舎(しょうしゃ) 創建当初のものは犬山市明治村に展示




通路の両側には日本的風格を印象付ける144本の黒松




本館前庭 参観者が少ないことが解る


屋根の青、外壁の白、各種の装飾が調和がとれている


東側出入口の庇


玄関前車寄せのスロープは花崗岩が敷き詰められている


正面玄関左手


正面玄関中央


玄関前4基の石燈のひとつ


甲冑


霊鳥と天穹(てんきゅう・天空のこと)


ペジメントの菊花御紋章


空には飛行船も


外壁は最大1.8mの花崗岩

上の写真は3年前の6月にいつかはこの庭を歩きたいと云う願望を込めて正門越しに写したものだ。
そして、この夏の内部参観は見事に外れてしまった。倍率2.35倍、その競争率は昨年の2倍近くだと云う。
そこで、来年こそはこの中にと建物をカメラに捕えてきた写真だったのだが・・・。
公開期間中の11月1~3日間、初日の午後に訪れた。午後だったからか、思ったほどの混雑はなかった。
この迎賓館が国会図書館時代、館長を叔父さんに持つ知り合いがいて、昼食を建物中で食べたことがあると聞いたことがある。羨ましい限りだ。

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