あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

山形の旅 4/4

2010-10-12 18:33:42 | なつかしい友
         


日和山公園

酒田のシンボルとして親しまれており かつて船頭や漁師が日和を見た丘から名付けられたと云う
酒田港や最上川が一望できる砂丘の高台にあり夕日が旅情を掻き立てる場所でもあると聞く




はなから余談だが
トラベルミステリーの名探偵浅見光彦もこの高台に立ち酒田の港を眺めているシーンがある
また近くの日枝神社もスト―リーに出てくる
1994年 内田康夫が発表した「沃野の伝説」上・下巻の長編ストーリーの上卷の後ろのほうである
主なる舞台は長野のようで"信濃のコロンボ"こと竹村警部も登場
と云っても内田康夫作品の登場人物浅見光彦や竹村岩男を知らない人は興味ない話か


日和丸(縮尺1/2 千石船) 幕府米を酒田港から江戸へ10数人の船乗りで回漕した  常夜灯 1813(文化10)年 日和山の高台に建つ
船の奥に立つ白い灯台は1895(明治28)年 最上川左岸に竣工 木造六角洋式灯台
当初は石油ランプであったが大正期にアセチレンガスそして電化へと移行


日和山眺望


本間家旧本邸
          本間様には及びもせぬが せめてなりたやお殿様

本間氏は鎌倉時代 佐渡国守護代からその歴史がはじまり戦国時代まで佐渡を支配していた
本間の名は「相模国愛甲郡依知郷本間」から由来すると云うから現代で云うと「神奈川県出身」と云うことになる 神奈川の者にとっては「驚きや」である
戦国時代 豊臣秀吉の命により上杉が佐渡本間家を討伐 その時分裂し上杉側についた本間家が上杉と一緒に移動し酒田本間家となった 戦後の農地解放までは日本最大の地主と云われていた


本間家の屋敷は2千石格式の長屋門構え桟瓦葺平屋書院造りの武家屋敷と商家造りが混在


2千石の格式を持つ長屋門


通常使用していた門


端正な庭

本間家旧本邸別館「お店」


本間家が代々商いをここで営んでいた




帳場                                         消火道具


旧鐙屋
旧鐙屋(あぶみや)は酒田を代表とする廻船問屋で 現在の建物は1845(弘化2)年に火災後再建されたもので 板の上に杉の皮を敷き石を重石として置いた石置杉皮葺屋根となっていて当時の町家の一般的な屋根であるがこの形態の屋根は酒田で現存するのは旧鐙屋のみとなっている


石置杉皮葺屋根の模型 前日見学した松ヶ岡の新徴屋敷の屋根もこんな感じであった 


鐙屋

酒田では鐙屋を始め本間家など豪商36人による合議制で町政を司り酒田三十六人衆などと呼ばれていた
三十六人衆の原点は 奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされた際に藤原秀衡の妻を護って酒田に逃れた三十六名の侍が廻船問屋を営むようになったと云われているが定かではないようだ
江戸時代になると三十六人衆も株で売買されるようになり廻船問屋は儲けも大きかったがリスクも大きく相当の入れ替わりがあったと見られている


鐙屋の帳場


茶の間の長火鉢前の主人席から見た景色                   端正な庭 敷地は当時の1/4の広さと云う


山居倉庫
1893(明治26)年に酒田米穀取引所の倉庫として建てら旧庄内藩酒井家が管理運営していた12棟からなる土蔵の倉庫群である
穀物取引所は米穀配給統制法によって廃止されたが倉庫は引き続きJA全農庄内が現在も運用している



米を保管するという事で 特に湿気と温度管理に注意が措かれ屋根は二重に組む事で太陽が直接屋根に当たらず尚且つ屋根と土蔵の間に空間があることでそこに風が吹き込み温度の上昇を防いでいる構造になっている
また倉庫の背後にケヤキを植え日本海からの強風や西日の直射日光を遮る役目を果し現在でも40本程度残っている


山居倉庫の表通り  屋根が二重になったいることが分かる


倉庫裏手のケヤキ並木
宿泊したホテルに「大人の休日」の小百合さんの三居倉庫で撮影したポスターが掲示してあった  時空を超えて「写っている位置はこのあたりかな」なんて

  
かつての山居倉庫とケヤキ並木


山居倉庫の裏手にある倉庫の鎮守社である三居稲荷神社
 

月山
        雲の峯 いくつ崩れて 月の山 芭蕉


月山


最上川
        さみだれを 集めて早し 最上川

この句は大石田(山形県北村山郡大石田町)の高野平右衛門宅で詠まれた いかにも大河を思わせるが最初は「集めて涼し」との句であった 高野家は船宿で詠まれた時の最上川は穏やかな流れのようであったようだ
それを後日実際に芭蕉が船に乗って体感し「集めて早し」になった とのこと



最上川(走行中の車窓から)

 
川下りの遊覧舟(走行中の車窓から)


舟乗り場(走行中の車窓から)


終わりに

山形はそばどころでそば街道なるものが3本もある
今回はその街道はかすりもしなかった
しかし量が多く安価で美味しいそばを頂いた
板そばなるものである
初日の米沢のそば屋さんの箸袋に昔の米沢の蕎麦屋さんの興味あることが書かれていた
それを読んでみると

古文書を開いてみると 米沢ではそばを商うことは誰でも簡単にできるものではなく「うどん株」(そば うどんの権利)を貰い受けなければできなかった 1853(嘉永6)年当時20名がうどん株を持っていた そして株の所有者は無役と云って役(金銭か品物を貢ぐか さもなければ労働で果たす現在の税金)を免除されていた しかし万一の時には兵糧係として課せられていた

                          と云うことで米沢の昔のそば屋は特殊な商いのようだった



そばの花(走行中の車窓から)


今回の3日間の山形の旅で1,120枚(2.5G)もの画像をカメラに収めた
一日400枚弱である
カメラに自信がないので「下手な鉄砲でも・・・」と云うことなのだが
何事にも例外があるようだ




山形の旅 3/4

2010-10-10 16:45:27 | なつかしい友
          

待望の出羽三山神社への参詣であるが・・・その前に


出羽三山供養塔


これは横浜市を流れる和泉川沿いに立ち並んでいる石像群である 中央一番大きな石像の右隣が「出羽三山供養塔」である
少々見にくいだろうが供養塔の塔身には「湯殿山・月山・羽黒山・三宝大荒神」の文字を刻み上部には瑞雲を配している
この供養塔がいつ頃のものかは確認していないが、一般的には三山に詣出た人々が江戸中期から後期にかけて建てられたと云われているのでこの供養塔もその頃のものかと思われる

その当時 参詣者は三山講を組織し白装束で三山参りをして天下泰平 国土安穏 五穀豊穣 家内安全 無病息災などを願った(参詣者を行者またはお行様と呼んだ)
出羽三山に向かう六十里街道(山形城下から月山を越え鶴岡城下に至る内陸と海岸を結ぶ信仰の道)沿いの志津村の記録では年間二万人を超える宿泊客がいたと云う
また 河北町の史料によると湯殿山神社の縁年に当たる丑年の享保18年に16万人弱の参詣客の記録がある
一軒の宿に200~300人となることもありピーク時には八畳間に15~16人が宿泊したと云う
「西の熊野 東の湯殿」と並び称されたこともうなずける


そこで 出羽三山神社への旅

湯殿山
出羽三山の民間信仰における中心は湯殿山である。巨岩より湧き出す霊湯に神威を感じたものか あるいは五穀豊穣に特にご利益があるのか三山のうちで最も庶民が崇敬している山である

 
朱塗りの両部大鳥居                                これより先は 神域・霊場・霊域ということで撮影禁止

 
出羽三山と牛とのかかわりはさまざまな伝説や歴史と結びついており 
              開山が丑年の丑月の丑の日 
              三山の全容が牛のうずくまった姿に似て臥牛山(がぎゅうざん)と呼ばれるよばれる
                                  (湯殿山が頭部 月山が背中 羽黒山が臀部)
              農作業の時期に月山の残雪が牛のまだら模様に見えるため
                                                 等 多岐にわたっている

今回 1名が代表で湯殿山の祭神を参拝した
禊所前で靴を脱ぎ祈祷を受け人型の紙で身を清める
そして門をくぐり境内に入って行った
その先は「語るなかれ」「聞くなかれ」



出羽神社(三神合祭殿) いではじんじゃ(さんじんごうさいでん)
山形県庄内地方にひろがる月山・羽黒山・湯殿山の総称であるそれぞれの山頂に神社があるが これらを総称する神社が出羽三山神社である その三社の神を併せて祀る社が三神合祭殿と云い羽黒町に置かれている
三神合祭殿には中央に月山神社 右に出羽神社 左に湯殿山神社を祀っている


1818(文政元)年に再建 萱葺屋根の権現造 内部は総漆塗 厚さ2.1mの萱葺は圧巻だ      杉並木の参道


三神合祭殿の大額    


随神 矢大臣 左大臣    明治の神仏分離までは仁王像が代わりに守っていた


羽黒山五重塔
創建は承平年間(931~938)に平将門が建立したと伝えられており 応安年間(1368~1375)に再建された 
高さ約29m、三間五層柿葺素木造で東北地方最古の層塔と云われている
四方の額は小野道風が書いたものとされ「南:応身、東:法身、西:報身、北:化身」の額が揚げられていると云われるが気付かなかった
この辺りは多くの出羽三山系寺院の建物が立ち並んでいたが明治初頭に発令された神仏分離令により破壊されたがこの五重塔だけは難を免れ昭和41年(1966)に国宝に指定される






出羽三山神社を参拝して何か変だなと云う気持ちがあった
旅から帰って記録をまとめている際に気がついた
それは 白装束の信者の参詣者がいないことだ 
わずかに 一人の白装束の信者が社殿に向かって 私は何の何兵衛で何のために参拝に来たか口上を述べている姿を見かけた
あるwebサイトに多くの参拝者を集め賑わっている出羽三山ではあるが 参拝者の多くは信者ではなく観光客であり 出羽三山の数十年後の未来を担う若い世代の信者は少なくなっており信仰の継承が未来への課題であると述べていることが印象深い・・・
そう云うおまえは何だとは「聞くことなかれ」


まんず 松ヶ岡さ ござへん   松ヶ岡開墾場
                 庄内藩士たちが拓いた緑豊かな大地

松ヶ岡開墾場は みちのく戊辰戦争に敗れ 廃藩置県・藩兵解体等の混乱と困窮の中 旧庄内藩士3000人が1872(明治5)年勤労の精神を振い起して開墾し1874(明治7)年までに311ha(94万坪)の桑園を造成 1877(明治10)年までに大蚕室10棟を建設して養蚕事業を開始した
現在は、瓦葺上州島村式三階建の大蚕室が五棟現存している(国指定史跡)
松ヶ岡は養蚕だけだが鶴岡には製糸工場 絹織物工場を創設している


①蚕業稲荷神社  ②松ヶ岡本陣  ③松ヶ岡開墾記念館  ⑤庄内映画村(株)  ⑥庄内農具館  ⑧庄内映画村資料館  ⑨新徴屋敷


往時の姿を偲ぶ大蚕室

蚕業稲荷神社
東京の旧庄内藩酒井家藩邸に鎮座していた稲荷を開墾場に遷座し松ヶ岡稲荷と称し その後この地に移設蚕業稲荷神社と称する


松ヶ岡本陣
松ヶ岡本陣は1622(元和8)年に酒井家が鶴ヶ岡城が完成するまでの仮殿として建てられた その後一部の建物を藤島宿へ移築し参勤交代の際の休息所とした
1872(明治5)年から松ヶ岡開墾が始まると集会所兼事務所として現在地に再度移築され本陣と称される 建物は木造平屋建て 寄棟妻入茅葺造り 玄関屋根だけが切妻で懸魚や式台などに当時の格式を感じる 周りの旧蚕室と共に国指定史跡に指定


松ヶ岡開墾記念館
1番大蚕室を使用して1階に開墾、農業、蚕糸関係資料を展示 2階は開墾士の末裔が収集した全国の郷土玩具コレクションを展示



新徴屋敷
幕末に庄内藩が江戸取締りの任にあたっていた時の配下の浪士組織「新徴組」が庄内に移住した時に鶴岡等に建てた137棟の住宅を新徴屋敷と称する 松ヶ岡開墾でそのうちの約30棟を移設住宅となった 石置屋根平屋建て (現在 東京飯田橋商店街内(旧庄内藩邸内)に「新徴組屯所跡」の標柱がある)





庄内映画村(株)と庄内映画村資料館
映画村資料館は5番大蚕室を利用して映画「蝉しぐれ」「おくりびと」などの資料を展示




松ヶ岡開墾場を見学場所に選んだのは「蚕糸・織物関係の資料館・博物館」一覧がwebサイトの載っていたので山形に訪れる際だからと見学候補に入れた
養蚕室の大きさは「大」がつくほど大きいそれも10室もあったなんて これだけの規模は比類ないものだろう
希望とすれば養蚕の資料がもう少し多ければと思う



旅先で出会った花たち

 コスモス 大文字草

 彼岸花


羽黒を後に我々は今夜の宿 酒田に向かう

山形の旅 2/4

2010-10-08 00:27:15 | なつかしい友
            


雛とべに花の里 かほく


          紅花資料館
                  

紅花資料館は、富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡で、敷地3,100坪余に かつては土蔵が6棟、板倉が7棟もあったが老朽化が甚だしく母屋をはじめ多くの建物が整理解体されて現在は住時の姿を留める武者蔵・御朱印蔵・長屋門などの建物や武器・生活用品および古文書など5,000点を保存していると云う
この地方は江戸時代から明治初期にかけて 最上川舟運によってもたらされた京文化を色濃く花開かせ 米と紅花で栄えた
堀米家は文政年間(1804~1818)から明治期まで名主や戸長を勤めた家柄であり その間 米や紅花などによって財をなした 特に紅花は 文化年間より精力的に取扱い指折りの豪商となった


                      紅花
                       古名を末摘花(すえつむばな)と呼ばれるキク科の一年草
                       原産はエジプトナイル川流域 中国よりシルクロードを伝い6~7世紀ごろに日本に伝来   
                       最盛期 この地域には36軒の紅花商家があったそうだ
                       そして 紅花の価格は米の100倍と途方もない価格で売買したと当時の資料が伝えている

資料館案内図

①長屋門 ②武者蔵 ⑤御朱印蔵 ⑥母屋


長屋門
 江戸末期に建てられた格子片番所付長屋門 簓子(ささらこ)塀の上壁は紅殻を加え加工してある  
塀の上壁が紅殻によって紅色になっている


座敷蔵(一番蔵)・母屋
 




御朱印蔵

御朱印蔵とは朱印状の収蔵庫で御朱印状を納めるために1863(文久3)年に建立した唐破風向拝付入母屋造の土蔵である 建築もそこに施した堀物も名のある手による建物である
御朱印蔵は幕府の権威を誇示した建築なので明治政府の代になるとすべて取り壊す命令が出されたがこの地は辺地であったほか朱印状の宛名がよその名であったこともあり難を逃れ残った
御朱印蔵としては県内唯一のものであり全国的にも珍しい建物とされる


武者蔵(二番蔵)農兵隊武器庫
 1853(嘉永6)年に建てられ1866(文久3)年以後農兵隊の武器庫として活用

                     農兵隊
                       江戸末期から百姓一揆を鎮圧し農村の秩序を守る目的で167名の地主 富農層の組織
                       県内でも最強の組織の水準まで高めた 大砲7挺をはじめ多くの武器・具足を所有
                       戊辰戦争では庄内酒井藩や官軍に接収され農兵隊は解散させられた
    

湯殿
 当時は湯を母屋で沸かし運び入れた

入浴の際 脱いだ衣類を包むために敷いた布のことを「風呂敷」と呼ぶようになった                     風呂桶は漆塗り
 

水車・釜





屋敷周りに堀を巡らすとは大名貸ししていたと云う堀米家の力を窺い知る


紅花の豪商でもうひとり名を残した人物がいる それは尾花沢の鈴木清風(別名島田屋八右衛門)と云う豪商である
彼は俳人でもあり芭蕉と旧知の友で奥の細道を辿った時も芭蕉は清風宅に長逗留している
また清風は江戸吉原の逸話もあり「紅花大尽」と呼ばれるほどの豪商であった
今回は回れなかったが尾花沢には「芭蕉・清風歴史資料館」なるものがあるそうだ

紅花資料館の余談であるが
内田康夫が1990年に描いた浅見光彦が登場する「紅藍の人」に紅花資料館が登場していると云う どのように描かれているかは本を読むべし


山形の旅2日目の午後は旅の一番の目的である「出羽三山神社」を訪れた
それは『山形の旅 3/4』へお楽しみ
                                              (『山形の旅 3/4』へ続く)

山形の旅 1/4

2010-10-06 16:18:52 | なつかしい友
                9月末 40年来の友と3人で山形を巡る
                山形新幹線を米沢で下り レンタカーを借り新庄で乗り捨てる
                2泊3日のぐるっと小回り山形の旅をした
           
           大雨警報が出ていた神奈川を出発 山形は日中小雨が時折降る天候だった


上杉家の城下町 米沢
上杉家と云えば上杉謙信 直江兼続と上杉應山の3人が歴史上では知られているだろう
                                   (大河ドラマの影響も一部にはあるだろうが)

上杉謙信                        直江兼続                       上杉應山

上杉神社
戦国時代の名将で、米沢藩の藩祖ととして崇敬されている上杉謙信を祀る神社
                      (一時期上杉應山を合祀していたこともある)
この神社は米沢城の本丸跡に建てられている
          

 
檜造りの本殿・拝殿                                 唐門


松岬神社(まつがみねじんじゃ)
名君 上杉應山を祀った神社 のちに直江景続なども合祀されている
 
この神社の鳥居などが小学生や街の人々の寄付によって建てられたとガイドさんが話してくれた
後世の人にも慕われた應山は街の誇りにもなっているのだろう

上杉鷹山は17歳の若さで第9代米沢藩主になった 当時は長年の藩財政破綻状態での船出であったが自助 互助 扶助の精神を説き卓抜な発想と大胆な政策によって藩財政の危機を乗り越えた
天明の飢饉では当時300あった藩のうち、餓死者を出さずに乗り切ったのは米沢藩を含む4つの藩しかなかったと云う 
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は家臣や藩民に示した和歌だが万事についてその可能性を教える遺訓である

上杉家廟所
上杉家12代の藩主の墓所
藩祖信玄を中央にしてその両側に12代の藩主の廟が並んでいる
2代から8代まではケヤキの社造り 9代以降は應山の考案により宝形造りでスギやヒノキ材で簡素となっている
        
      歴代の廟                                              中央 謙信の廟                    

伊達正宗生誕の地
正宗は米沢城で生まれ 18歳で家督を相続
検地・刀狩などの不満による一揆に関与したと疑われ豊臣秀吉によって岩出山城(宮城県北西部)に写されるまでの25年間この地に居を持つ

    
                                         伊達正宗


歴史と文学の香り漂う城下町 上山
上山藩武家屋敷
上山温泉街からの散歩道に4軒の武家屋敷が並んでいる
茅葺屋根 釣形の曲り家 玄関と通用口を別にする武家中門造りの建築様式

武家屋敷は現在の公務員宿舎や住宅のように藩が建てた官営住宅である
この屋敷は中~上級の武家屋敷で身分や禄高の変動により引っ越している


屋敷内を公開している三輪家

200年前に建てられ 20年前まで使用されていた
建坪44坪 敷地400坪
間取りは 8畳3間 6畳3間 10畳の使用部屋 台所 土間
屋敷の裏に中間小屋があり主人とは身分が違うので別に生活をしていた

     
                           客用玄関に置かれている衝立  悪い気(鬼)の侵入を防ぐ目的もある

武家屋敷は武士の住居とともに城の防御施設でもあったため城を囲む配置になっている
「曲り家造り」は馬を飼う農家に見られる様式であるが武家屋敷の「曲り家造り」は敵を迎え撃つための造りである
この通りは向かい合って屋敷が並んでおり攻めてくる敵を二軒が一組となって座敷から弓や銃で迎え撃つ形をとっている
隣家との境には屋の材料となる竹(矢竹)も植えられている
城と同様 武家屋敷も戦うための建物として造られている

           
            城を中心とした地図  カラーの部分が現存している武家屋敷


将棋駒といで湯とフルーツの里 天童

   
   宿泊したホテルの玄関

紅をさす 唇かたる 恋ごころ                     
                   
                    ポスターのフレーズがよかったので写す 
                    ベストリップ賞受賞者にはこれまでは20万円の賞金が贈られている

山形の旅1日目は天童温泉に宿泊 6階建てホテルの屋上の露天風呂で夕闇まえの市街を眺める
夕食は山形牛

                                            (『山形の旅 2/4』へ続く)