あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

皇居・乾通りの桜 (東京の桜2016その1)

2016-03-31 11:50:12 | 東京散策

坂下門






山下通り








道灌濠








来年の桜の開花での公開は樹木の更新工事のためお休み、これらの古木はどうなるのだろう


訪れた翌日の乾通りの桜の開花は三分から五分咲きの報道だったので、当日は二・三分なのか。
この日、東京に出向く予定があったので今回は午後入場。待ち時間全くなし。桜や紅葉は逃げないのでこれでよかった。


2016.3.29       皇居外苑二重橋濠前の同じ桜     2014.4.5
    
右は一昨年2014年の一般公開、最初の年の公開2日目の朝に取った写真であるが、満開を過ぎていた記憶があった。今年はというと、開花日が3月21日で、満開予想が28、29日でちょうど見ごろとなったはずだった。しかし、開花状況は水物で「神頼み」ならぬ「気温頼み」であり、今年は進行が遅かった。これまより2日延長しても満開になる前に乾門の通りぬけは終わってしまうはずであった。
今年は宮内庁の粋な計らいで、期間が3日延長となり、満開の花の下、通り抜け出来ることになった。まだ行っていない人にとってはうれしい限りである。

訪れた日:2016.3.29


開業北海道新幹線の青函隧道

2016-03-26 00:00:00 | 観光
東北新幹線は新青森駅から延長されて、念願の津軽海峡を青函トンネルで一路函館へとつながり、北海道新幹線となった。
青函隧道着工から実に半世紀後の2016年3月のことである。

津軽海峡・・海底に青函トンネルが対岸の北海道に向け走っている


竜飛の"津軽海峡冬景色"やや右手に青函トンネルが走る

思い起こせば東海道新幹線が東京~新大阪間を4時間(現在2時間22分)で結んだ同じ年の1964年に青函トンネルが着工する。新幹線が通るトンネルとして工期10年の目標であったが、その後オイルショックや国鉄の財政難から計画は一時凍結にもなった。
工事の経験はそれまで、関門トンネル(3.6km)きりなく、53.85km(海底部23.3km)のトンネルは難航した。
ようやく24年かかって1988年に世界最長のトンネルは完成した。また、この年は瀬戸大橋の開通もあって、日本がひとつに結ばれ、「にほん列島」が「一本列島」と呼ばれた。
ここで青函トンネルは世界一長い?と疑問視、英仏海峡に設けられたトンネルの方が長いのでは思った。だが、海底部分については、英仏海峡トンネル37.9kmと遥かに長いのだが、全長となると青函トンネルが3kmほど長いようで、トンネルとしてはやはり世界一であった(英仏海峡トンネルは全長50.49km)。
青函トンネル開設の発端は昭和29(1954)年に発生した、死者・行方不明者1,155名(岩波総合年表)の洞爺丸沈没事故である。





延長された新青森~新函館北斗駅間は1時間余り、東京からは最速で4時間2分(平均4時間19分)。これは羽田~函館空港間2時間20分に比べれば比較にならぬが、昔の青函連絡船青森~函館間4時間30分に比べれば早いものだ。因みに青函トンネル内では、並走する在来線の関係で、当面140km/h走行となるため所要時間は24分かかるという。と云っても在来線は電圧が新幹線対応になるため貨物便だけが走るようだ。



新幹線と在来線が共用する線路のため3本レールが敷かれている


青函トンネル記念館・・青函トンネルについて展示 海面下140mの坑道にも行ける




健さん・小百合さんの映画"海峡"・・青函トンネル工事の紆余曲折を男女間のからみを交えて描いている(1982年作品)

新青森駅を出ると38.5km走って奥津軽いまべつ駅で、その後6kmほどで青函隧道に突入する。奥津軽いまべつ駅は、人口2,700人ほどの今別町に新設された駅で、「津軽海峡の四季が体験できる」ということが大まかな駅のキャッチフレーズのようだ。

北海道新幹線奥津軽いまべつ駅・・建物の窓は青函トンネルをデザインしている




駅駐車場には近くの在来線駅の案内も

以前はここに津軽今別という無人駅があったそうだ。その無人駅が新幹線が通るということで一気に昇格し、13往復中7往復が停車する駅となった。町長は10往復が希望だったようだ。

新幹線駅の並びにはいまべつ道の駅がある

この駅の先で北海道新幹線は在来線と並走して青函トンネルを潜る。

"青函隧道"の文字は開通当時の首相・中曽根康弘氏


H5系北海道新幹線(Net画像)

ようやく北海道へ新幹線が走り出した。
新幹線で五稜郭見物と思っていたが、所要4時間は思いのほか時間がかかる。そこには建設費用を安くした整備新幹線・最高時速260kmの壁があるようだ。
しかし、日本技術の新幹線、東海道新幹線が当初より4割時間短縮されたように、いずれは短縮されるだろう。
期待したい。

訪れた日:2015.8.22

八戸義経伝説を訪ねて

2016-03-20 14:22:53 | 観光
                 〈平泉・義経堂 2014.9.28〉
義経は、平泉・高館で自害せず、密かに脱出したと云う伝説が東北各地に広がっている。
その中で今回旅した八戸市を中心に青森の義経伝説を探った。

脱出後、義経一行は岩手県久慈市の侍浜(さむらいはま)から海路で北に向かった。
義経一行の青森での第一歩は、この神社の近くである現在の種差海岸上陸したと伝えられる。
1.熊野神社
同神社は、種差海岸から数百メートル山手にはいったところである。
 

種差海岸上陸後、義経が一時かくまわれていた場所が大字白銀町字源治囲内(げんじかこいない)という地名で残っている。
そこから一行は新井田川を遡り現在館越山と呼ばれている地に移動する。そこに館を建て1年余住んだ後、高館に移動する。
高館に引っ越したことで、住んでいたところの地名は「高越」と呼ばれ、次の「高館」の地名は、先の館越山より高くて見晴らしがよい場所であった意味でそう呼ばれている。
2.小田(こだ)八幡宮
この神社は高館山の麓に位置する。
義経が写経したと云われている大般若経が保存されており、京都から持参していた毘沙門天を安置する毘沙門堂を建てたと云われている。毘沙門天は北方を守護する軍神である。
入り口の楼門には義経ゆかりの笹竜胆と源氏車の紋がはめ込まれている。
また、義経がこの周辺に田んぼを段々に開いたことから、「小田(こだ)」と命名されたといわれている。
 

          

 

 
高館付近に義経が暮らしたのは、4年ほどと推測される。

3.おがみ神社
義経は正妻・北の方(京都の公家、久我(こが)大臣の娘)を伴ってここまで逃げ延びて来たのだが、元久2年(1205)にその正妻が亡くなった。亡骸を当時京ケ崎と呼ばれていた地に葬ったと云われていて、その地が現在はおがみ神社になっている。同社にはその正妻・北の方が使用したと云われている手鏡が保管されている。また、義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝えられている。
          

 

 

4.長者山新羅神社
義経が藤原秀衡死後、脱出先を探るため、家臣の板橋長治を八戸に派遣したと云われている。その板橋は、市中心部の小高い丘に居を構えたと云われており、当時は長治山と呼ばれていた。そこに、長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)が建立されている。
周辺には、板橋長治にちなんだ「板橋」という地名や、米の糠を捨てた場所ということから名づけられた「糠塚(ぬかづか)」という地名が残されている。
 

 

5.藤ヶ森稲荷神社
京都の稲荷神社を日頃信心していた義経は、家来の常陸坊を京都へ派遣し、藤ヶ森稲荷神社を勧請し、自ら神事を執り行ったと云われる。
 

八戸市にはそのほか多くの義経伝説が残っている。
6.三八城神社の弁慶石
三八城(みやぎ)神社には力自慢の弁慶の足跡が刻まれていると云われいる「弁慶石」が現存している。また、現在は行方不明であるが、「義経石」と云われる石もあったと。
「弁慶石」とは、一目惚れしたオナツという娘と巡って弁慶が、村の若者と力比べをした時に放り投げた岩と云われている。

7.帽子屋敷
義経が、藤ヶ森稲荷神社に来た際に、烏帽子を掛けたといわれたことから、その一帯が帽子屋敷と命名されている(現在の類家2丁目付近)。なお、現在は芭蕉堂公園になっている。

8.矢止めの清水
義経が、高館からどこまで遠くへ矢を放つことができるか弁慶に命じたところ、4km先の馬淵川を越えて刺さり、その矢を抜くと水が湧き出たことから、そこを矢止めの清水と云われている。

9.ほたる崎
高館に住んでいた義経が、蛍が飛び交う姿に興味を持ち、現在の八太郎山の東端を「ほたる崎」と名付けたと云われている。

義経主従一行八戸から蝦夷地に向かうため県内を点々ととしており、義経伝説は続いてゆく。
その後の義経一行は各地に残る言伝えから、現在の国道4号線沿いを北上したようで、青森市では貴船神社、善知鳥神社に立ち寄ったと云われている。
10.貴船神社
大同2年(807)、坂上田村麿の勧請と云われるが、義経伝説では、義経が蝦夷地へ渡海する時に、家来の鷲尾経春が京都鞍馬の貴船明神を勧請し、その無事を祈ったとも伝える。また、義経を慕って河内の国から追いかけてきた浄瑠璃姫は、この地・野内で義経と再会する。しかし、長旅の疲れから病に倒れたため義経は家臣の鷲尾三郎経春に看病を命じ、この地を後にしたと伝えられる。
この伝説が刻まれた石碑が、以前は山頂の公園に建っていたという。



義経は貴船神社に渡海の安全祈願をした後、善知鳥村(うとうむら)に向かう。善知鳥村は青森市の古名。
11.善知鳥神社
善知鳥村附近一帯は広々とした原野だったので、義経は七戸通平沼(現在の六ヶ所村平沼)から供をしていた橋本与兵衛に、この地に留まって開拓するよう告げた。与兵衛はその通りここに留まり、荒野を開拓してその地を支配し、この地を橋本と名付けた(青森市の中心部)。義経が隠れ住んだ土蔵も以前はあったと云われる。
善知鳥神社は、貴船神社同様、大同2年(807)、坂上田村麿の勧請。義経はこの神社にも参拝したと云う。





12.十三湊
当時は奥州藤原氏三代目秀衡の弟である秀栄が、十三湊の有力豪族安東氏の養子となって治めており、義経はそこに立ち寄った。
十三湊は奥州平泉の北の玄関港だったとも云われる。

               十三湖を望む・・この辺りに中世から近世にかけて天然の良港・十三湊があった

一行は津軽半島の突端、竜飛岬に向かう。
13.義経寺
津軽半島の突端までやって来た義経一行は、ここから渡海しようとしたが海は荒れ狂い、不可能であった。そこで海を静めるために義経は、母の常盤御前から授けられた正観音像を三日三晩祈り続けると、満願の朝、白髪の翁が現れ3頭の白い竜馬を授けると話す。そして一行は、その竜のごとき馬に乗って北海道へ飛び渡ったという。3頭の馬が、3つの岩の馬屋(厩)につながれていたことから、この地を三厩(みんまや)と呼ぶようになり、津軽半島の突端から義経一行が北海道目指して飛んでいったので、その地を竜飛岬と名がつけられた。





義経関連の碑と村名の記念碑


地名の起源ともなる伝説の三頭の龍馬がつながれていた厩岩(まやいし)

蝦夷へ渡った義経一行はその後、大陸へ渡り、チンギス・ハーンになったという伝説へとつながっていく。
その蝦夷地では、日高地方の平取(びらとり)町の小高い丘に、義経神社が建立されている。
御神体は「ハンガンカムイ」、つまりは義経である。その設立は江戸時代にさかのぼるようだ。
義経がこの地を訪れ、アイヌ民族に農耕や舟の作り方、海上の操法、機織りの技術を指導したと伝えられている。
義経伝説は一本の線で平泉から蝦夷地までつながっている。しかも地名まで残っている。
そうなると平泉で亡くなったのは、影武者だったのかと思いたくもなる。

訪れた日:2015.8.22、24


宮沢山王稲荷社例祭2016

2016-03-17 11:31:40 | その他
遡ること360年、徳川四代将軍家綱の時代。 旗本石川六左衛門が石高を補うため瀬野(現在の瀬谷)と和泉間の荒れ地に上矢部村(現在の戸塚区上矢部町)の名主・佐藤家の郎党数名(佐藤、上杉)を第一陣として入植させ宮沢の南、和泉境より開墾を開始させた。
開墾にあたり現在の地に山王稲荷社の祠を建て工事の安全と早期の完成、五穀豊穣、家内安全を祈念したことが始まりとされ、宮沢最古の社である。そこで、この地は宮沢の原点とも云える。




山王稲荷社の名からとった「山王橋」 社は正面の竹藪の中に奉られている


神官によって神事が執り行われる


山王社                                     稲荷社

例祭には昭和初期までは湯花神楽が奉納されており、開墾と湯花神楽の話は「瀬谷の民話」と昔話に残されている。
   
                                            【参考】阿久和・熊野神社の湯花神楽

その後、旗本石川家の領地より石井、広瀬、山中の一族が、また上矢部の付近から岩崎、小川家が入植した。耕地が出来上がったのがおよそ30年後の徳川五代将軍綱吉の元禄年間(1680年頃)だと思われる。
そこで、宮沢村の村社として山王稲荷社からおよそ300m北に神明社を鎮座した。
《開墾の年代は山王稲荷社の解説を参考にしたが区の解説ではこれより20年余早いとされる》

神明社

先ほどの山王橋の下流には地名を冠たる宮沢橋が架かっていて、先代の橋は木製で趣があった。
 
          
橋を渡るとすぐに分岐となり、左手はかながわ道で藤沢方面に向かう。
 
坂を上がりきると畑が広がる。瀬谷区の農地専用地域である。江戸時代に開墾された農地だと思う。
          
ほしのや道は六道の辻へと続く。

一方開墾された和泉川縁の水田は、今は遊水地となった。 








つくしも芽を出し、もう春ですネ


高尾山火渡り祭ふたたび 2016

2016-03-15 17:55:20 | 東京散策
 



真言密教の秘法・火の荒行を一般信者に
火渡りによって、火焔で煩悩を焼き尽くし、公には国家安穏、五穀豊穣などの祈願。個人では厄払い、無病息災を祈願する。





大導師招待

修験者の頭につけているのは「頭襟(ときん)」と云って悪い「気」を払うため
襟から下げているのは結袈裟(ゆいげさ)で位によって色が違う、宗派でも違う

神斧(しんぷ)


寶剣(ほうけん)


寶弓(ほうきゅう)
 
 

閼伽・点火(あか・てんか)
 





          


散崋・梵天祓い(さんげ・ぼんてんはらい)
 

湯加持
 

火生三昧(かしょうさんまい)
 



信徒火渡り




消防
 

不動院に戻る
 

昨年に比べ天候が良かったので参詣者は多いと感じたのだが、火渡りまでの待ちは20分早く1時間であった。
それと、外国人が昨年より多く、報道のクルーもカメラをかまえていた。


そば屋にはいる