あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

将軍様のお鷹場だった浜離宮

2014-03-30 10:40:22 | 東京散策
菜の花は、畑の道に咲く花で、ローカル的なイメージなのだが、都会の公園に30万本の菜の花が植えられていることは不思議な感じがする。
だが、一面に広がる菜の花畑を観ると、壮観であって、今や春の代表的な風物詩となっているようだ。
         

         
林立するビルが借景になっている。

現在の浜離宮恩賜公園は、1654(承応3)年に甲府藩主の徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てた。その後は甲府藩の下屋敷として使用され、甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるようになった。
それは佃島の漁民が海を埋め立て築地を造った、明暦年間(1655~1658年)よりやや早い時であった。
綱重の子である家宣(いえのぶ)が徳川六代将軍になると、将軍家の別邸なり、浜御殿と改称して大幅な改修が行われた。
幕末には、幕府が海軍教育にために設けた機関・海軍伝習屯所が置かれている。

将軍お上がり場
1868(慶應4)年、鳥羽伏見の戦争で敗れた徳川慶喜は、松平容保、定敬兄弟を連れて軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰り、このお上がり場から上陸して江戸城に帰還した。
         

鴨場
徳川十一代将軍・家斉(いえなり)と十二代将軍・家慶(いえよし)の頃は、将軍の鷹狩の場であった。家斉は248 回、家慶は99 回鷹狩りを行った。
         
庚申堂鴨場
庚申堂鴨場は1778(安永7)年に造られた鴨の遊猟施設。
鴨場が使われた時代は園内に鷹部屋や鷹師宿舎、鷹匠小屋、調理所などがあった。鴨場が利用されたのは冬鳥が飛来する晩秋から翌年の春先である。
鴨猟は、元溜(水鳥のいる池)に放した囮のアヒルを呼び込むための幅の狭い「鴨引き堀」が設けられている。「覗き小屋」からエサを撒き、壁に掛けてある板木を叩いてアヒルの呼び込む。囮のアヒルは訓練されていて、撒いた餌を食べに引堀へ入ってくる。
アヒルの後には鴨もついて行く。狩猟者は、引堀の土手の陰に隠れていて、引堀に鴨が入ったところで、鷹匠が合図で拳にのせた鷹を一斉に放つ。飛び立った鷹は空中で鴨を捕獲する。
鴨猟は明治以降には叉手網(さであみ)で猟をし、捕獲しそこなった鴨を鷹匠が鷹を使い捕まえる方法になる。
鴨猟は、将軍家から皇室へ、その伝統行事は今も伝承されている。
 
 
          
新銭座鴨場
1791(寛政3)年に築造され、その後は幾度かの改修を経て現在の形になった。鴨場の西南側に新銭座町があることでこの名称となった。庭園の端の方にあり、庚申堂鴨場に比べるとこじんまりしている。
          

 
鷹狩は戦国武将の間で広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近としてついていた。
徳川三代将軍・家光も好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことでも知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子を伺うことができる。
五代将軍・綱吉の時代に「生類憐れみの令」によって動物愛護で鷹狩を段階的に廃止した。それを八代将軍・吉宗の時代に復活した。

横堀水門・潮入の池
浜離宮庭園の中心である「潮入の池」は、御茶屋のある中島や小の字島などのある「大泉水」と海岸に近くに横たわる「横堀」のふたつから成っている。それぞれの池の周囲には散策路があり、「お伝い橋」などの橋を渡りながら庭園の様々な景観を楽しみながら散策する。
「お伝い橋」は、1707(宝永4)年、松平綱重の長男・後の徳川六代将軍家斉が、園内大改修を行った時にこの橋を架けた。橋の長さは117.8mで総檜造り。現在の「お伝い橋」は1997(平成9)年に再築された。
 

         

         

松の御茶屋
十一代将軍・家斉の時代に建てられた茶屋のひとつ。「中島の御茶屋」と対を成す端正な外観の御茶屋。「潮入の池」の目の前に建っており、池への眺望が大変良い御茶屋である。2010(平成22)年復元。
                  

中島の御茶屋
1707(宝永4)年以来、将軍をはじめ御台、公家達がここで庭園の眺望を堪能した休憩所。現在の建物は1983年(昭和58)年に復元された。
         

海手茶屋(汐見の茶屋)跡
1707(宝永4)年、のちの六代将軍・家宣が舟遊びや漁夫達の様子を眺めるために建てた休憩所。また、公家や大奥の女中たちが、浜辺で遊ぶ時の基点となったと思われる。最も海の眺望に恵まれた場所に建てられたので、この名がついた。関東大震災で焼失した。
         

燕の茶屋跡
十一代将軍・家斉が在職中の1787(天明7)年から1837(天明8年)の間に建てられた。数寄屋風で、眺望にも
優れているため茶座敷として使われたようだ。
名前は、室内の釘隠しの金具の形が燕の姿であったという説と燕子花(かきつばた)の形でその一字「燕」を取ったという説もある。
1944(昭和19)年第二次大戦の空襲により焼失したが、今年度中再建される予定のようだ。
         

鷹の茶屋(藁葺の茶屋)跡
十一代将軍・家斉が、1795(寛政7)年、この庭園の鴨場で鷹狩りを行う時の休憩所として建てた。名前は、鷹狩りの休憩茶屋ということからついている。この茶屋の特徴は、鷹狩りの装束のまま休息するために、土間を広くとり、用材も松、杉を用いて農家の雰囲気を出すようしていた。土間の中央には囲炉裏があり、自在かぎには茶釜がかけてあった。「藁葺の茶屋」という別名は、そうした田舎屋の風情からである。
1944(昭和19)年第二次大戦の空襲により焼失した。
         

茶屋は過去に、この5つあった。

旧稲生神社
「旧・稲生(いなぶ)神社」創建時期は明らかではないが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に稲荷神社が描かれている。天明年間(1781~89)創建という説もある。
その後、明治時代に庭園内の現在の場所に移転したが、1894(明治27)年に東京湾を震源とする地震で倒壊した。翌年、同規模・同型式で再建された。
関東大震災で本殿は破損し、1931(昭和6年に大修理が行われた。そして、2005(平成17)年には文化財としての大掛かりな修理を行い、ここに明治時代の創建当時の姿を伝えている。
現在は”ご神体”が安置されていないという説もあるが、庭園側の案内にはその点は書かれていない。
 

灯台跡
かつては東京湾を照らしていた灯台があったが、どんなものかは全く分らない。
         

浜離宮には桜の樹が約百本あるが、ソメイヨシノは、その内、10本ほどしかない。
 

         
訪れた日はHPによると三分咲きとのことだ。

高層ビルと菜の花のコラボを観たいと思っていた庭園である。
秋は、コスモスが咲くお花畑になる。それもいいかな。
帰りは汐留の工事中の道路を通って新橋駅に向かった。
あとでその工事中の道路が、マッカーサー道路・環状2号線だということを知った。
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山の写真展のお知らせ

2014-03-25 11:00:23 | 丹沢
今年も丹沢をテーマにした写真展が開かれる






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久々の大倉尾根

2014-03-24 15:28:06 | 丹沢大倉尾根
久々の大倉尾根を駒f止茶屋まで登る。

以外にも、1か月前に降った雪が山道に黒い雪渓となって未だに残っている。








今週末にTVのBS-TBSの『日本の名峰・絶景探訪』の番組で「丹沢・塔ノ岳」が放送されるので、黒い雪渓が写っていると思うので、お楽しみに。土曜日、9時から。

今日の富士山
         

山道で、意外なものを発見。
綺麗な形のままのセミの抜け殻だ。
昨夏の抜け殻なのか。

               

里では、猪や鹿が横行。
これは、秦野市の農協で設置している捕獲檻ようだ。
                 
昨年、ここでタヌキは見かけたが。

里は、花盛り。
水無川流域は、菜の花と河津と思われる桜が真っ盛りで、鮮やかに表現している。

         

         

             
                                          いいネーミングの橋


追記
ブログを載せた2日後の朝刊に「早春の彩り」というテーマで水無川の写真が載った。
私と同じ橋からのアングルであったのが驚いた。
         
記事によると、この桜はオカメザクラという種類だそうで、1.1kmに300本が植わっているという。 
【14.03.27】


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幕末の深川を再現・深川資料館

2014-03-21 15:11:58 | 東京散策
常設展示室には、深川の江戸が再現されている。
街並みは、江戸・深川佐賀町下之橋の橋際一帯を、当時の沽券図(こけんず=土地家屋の間口・奥行に価格・地主名・家主名等を記入したもので、売買時の参考価格となった)を参考に、実物大のスケールで再構成した。
建物は商店(米屋、八百屋、船宿、油屋)、二棟九尺二間(土間と四畳半)と九尺二間半(土間と六畳)の長屋。
他に船宿、火の見櫓、水茶屋と屋台が置かれている。
時代は明治維新のわずか20数年前、天保も終わりを迎えた頃(1842年)の江戸の深川へタイムスリップ。
               

商店
大店(おおだな)・油問屋
               
舂米屋(つきまいや)・上総屋
舂米屋は長屋の大家でもある。家族は女房とふたりで子供はいない。通いの使用人ふたりと遠縁から預かっている小僧がいるという設定。米俵の入った蔵もある。
 
八百屋・八尾新
10年前から貸店舗で商いを始めた、地元、砂村新田の農家出身者。
砂村の野菜類は、当時江戸の生活には欠かせない物のひとつである。この時代に店売りが定着し始めたといわれる。家族は主人・才蔵と女房・うめと10歳の男児の設定。
 
船宿
船宿が2軒連なっている。
奥側は相模屋といい、主人と女房、16歳の女中と船頭3人を使用している。船宿といっても待合的な雰囲気があり、多様な客層が利用している店という設定。
手前の升田屋は、それに引き換え堅実な商いをしており、得意先も職人衆が集会などに利用する。信心深い亭主と律儀な女将、12歳の女中と船頭ふたりの使用人がいる。そのうちひとりの船頭はこの裏長屋に住んでいる設定。
         

長屋
棒手振職人の独身者の住い
天秤棒で荷を担いで行商する棒手振(ぼてふり=棒手売)職人・政助、木更津生まれで独身。この職人は河岸でアサリ、シジミを買いムキミにして朝晩行商する設定としており、当時の天涯孤独な地方出身者が江戸で始める商売のスタンダードだという。
棒手振は、このほか魚売り、花売り、火おこしに使う付木売り、虫売り、冷水(ひやみず)売りなどあらゆる生活用品を担いで売りに来ていた。
棒手振の職業は、雨が降れば商いはできず、また毎日同じような売上げがあるとは限らない。結局その日暮らしの生活となり、商店もその生活ぶりを知っていて、掛売りはしてくれなかった。一種の親心ということからか、そのため長屋の住人は借金がなく、収入に見合った健全な生活をしていたという。逆に当時の庶民のエリートは腕に技術を持つ大工だったという。四畳半二間の長屋に住むことが出来る収入があった。
         
独身の船頭の住い
升田屋のひとり住いの船頭・松次郎。投網や手網などの修理も自宅で行っている設定。
         
師匠の住い
住人は没落した町人の妻女か武家出身の於し津である。主人は死亡し、読み書き、裁縫、三味線などを教えて生計をたてている。娘は武家へ女中奉公に上がり不在。きちんとした生活ぶりの中に女所帯らしい空気がかもし出る設定。
ここの家には天窓があるが、明かり取るというより、煙を出す役目のようだ。
 
井戸
江戸市中の大半は、埋立て地であったので、掘っても塩辛い水であった。そこで当時の生活水は、井の頭池を水源とする神田上水や多摩川を水源とする玉川上水を利用していた。この水を石樋、木樋で長屋の井戸に送水される。
井戸は、竹のたがをはめた大きな桶を地中に埋め込み、木桶から呼樋と称する竹筒でつなげる。このため多量に水を使うと空となるため、そこで水がたまる間の待ち時間に、かみさん連がおしゃべりすることが井戸端会議の語源となった。
ただ、深川は幕府の鑑札を受けた水舟業者が現、中央区の呉服橋門内銭瓶(ぜにがめ)橋や一石橋の左右・竜閑(りゅうかん)橋下で濠に落ちる神田・玉川上水の水を舟に積み運び、水売りが天秤棒で売り歩いたようだ。
                   
雪隠(せっちん=トイレ)
長屋には、住民の数に応じて相当数の共同トイレがあった。扉は下半分きりない。
排泄する糞尿は畑の肥料となり、大家の臨時収入となった。その値段は食事の内容によって差があって、大名、武家、町屋の順位であった。江戸時代はリサイクルの社会であったが、糞尿までがリサイクルされことは世界でも珍しい。
    
長屋には、他に米屋の職人・秀次一家(女房・お久、長男・和)、木場の職人大吉・お高夫婦などが住んでいる。

屋台
7割が男の江戸社会にとって屋台に人気が集まり、外食産業が発達した。
二八そばの屋台
そばの値段は基本的には16文。追加料金を払えば油揚げなどをトッピングしてもらえる。屋号の「二八」とはうどん粉とそば粉の割合から来た説と、2×8=16(文)とそばの値段から来た説がある。
庶民が使用する銭貨の最低が1文で、その後4文銭できると数える手間が省けると重宝がられ、広く流通した。そばの値段が16文も、このためとも思える。
江戸ッ子に一番人気があったのがそばで、1町に1店舗ほどあって、それ以外に二八そばや夜鷹そばなどの屋台があった。
         
天ぷらの屋台
天ぷらも江戸の人気メニューであった。油を使っているのでカロリーが高く、腹もちがよいと大工など身体を使う職人に人気があった。天ぷらは串が刺してあり、大根おろしなどの天つゆにつけて食べた。
人気の屋台は他に寿司があった。
         

茶屋
江戸は、当時まれにみる観光都市であった。
江戸には寺社が多く、毎日のように、どこかで縁日や祭、市などが開かれていた。人が多く集まるところには休憩するための茶屋(水茶屋・掛茶屋)が多くあった。
茶屋の多くは現代でいう不法占拠のため、いつでも撤去できる葦簾(よしず)張りの簡単な造りであった。
         

猪牙(ちょき)
猪牙船は、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。九州から江戸湾まで広い地域で使われたが、浅草山谷の吉原遊郭に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。船体が細長く、また船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。そのため櫓でこぐ際の推進力が十分に発揮されて速度が速く、狭い河川でも動きやすかった。
語源は、明暦年間(1655~57)に押送船の船頭・長吉が考案した「長吉船」という名前に、形が猪の牙に似ていることとをかけて猪牙と書くようになったという説と、小早いことをチョロ・チョキということからつけられたとする説の2つがある。
         

火の見櫓
1657年の明暦の大火後、火事を見張るために火の見櫓が設けられた。火の見櫓には2名が常駐し、火事を発見すると太鼓を打ち鳴らして周囲に知らせた。
火の見櫓は木造黒塗りで、最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた。
また、櫓のない町には、自身番(自警団の屯所)の屋根上に梯子を立てて半鐘を吊るすだけの「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設けられた。
                

長屋には、長火鉢や七輪、鏡台、火縄箱のような生活道具類が全て揃っている。そして深川の一日の暮らしを音響と照明効果で演出されており、夜明けの照明に始まり、鶏の鳴き声、あさり売りや金魚売りの声、雨の音、虹や夕焼け等を表現し、下町情緒を盛り上げ、170年前の深川の世界へと誘ってくれる。
         

                                  参考資料 : 深川資料館
                                           ゼロからわかる江戸の暮らし
                                           お江戸の意外な生活事情
                                           お江戸でござる
                                                          他
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松平定信の墓所 霊願寺

2014-03-20 11:12:51 | 東京散策
霊願寺に15歳で徳川十一代将軍・家斉(いえなり)の下で老中首座を務めた松平定信の墓がある。何故に領地の白川ではなく、この寺名のか東京都教育委員会や江東区の解説にも書かれていない。この付近に藩の屋敷があったのかとも思ったが、松平家の上屋敷は八丁堀、中・下屋敷は築地である。しかも、亡くなる前に大火があって、その大火は日本橋から芝まで広がり、松平家全ての屋敷も類焼した。当時定信は風邪で病床に着いており、松山藩三田の中屋敷に駕籠で避難し、そこで数日後に亡くなっている。享年72歳。墓は、東京都の史跡となっている。
領地の白川には定信が造った、日本初の公園といわれる南湖公園の一角に、祭神として大正期に創設された南湖神社がある。
定信は、徳川三卿のひとつ、田安家から白川松平家に養子にはいった人物である。次期将軍候補にもなっていたが、田沼意次の策略によって白川松平家に養子となったようである。
松平を名乗ってはいるが、家康の母の離婚後の嫁ぎ先で、後になって松平姓を許された外様であり、定信にとっては、格下げの気持ちであろう。
定信といえば、三大改革のひとつ、寛政の改革を実行した老中として知られている。祖父・八代将軍吉宗の享保の改革を手本に改革(1787~93)を行った。
その背景に、天明の飢饉(1782~88)、浅間山の噴火(1783)、江戸の大火などの社会環境の変化がある。
改革は、武士を頂点とした支配体制を立て直すため、商人、町人層に影響がある内容であった。このため、民衆や幕臣・大奥に不評で、6年で改革は失敗に終わっている。

その時代に、後世に名が残った人物が活躍している。また、影響をも受けている。
政策の中に、火付盗賊改方の長・長谷川平蔵(1745~95)が発案した石川島人足寄場(浮浪者の収容施設)の新設がある。
また、贅沢(奢侈)を禁止して倹約を推奨・強制するための奢侈(しゃし)禁止令よって、多才な摺版画、美人大首絵、花魁画などの華美な錦絵が禁止(1790)されたり、実在の女性の名前を表示することが禁止(1792)される。さらには、過度の重ね刷りや赤色の使用禁止が発令された(1792)。
このことによって、多くの浮世絵師、戯作家、狂歌師、出版元が影響を被った。名をあげると、喜多川歌麿(1753?~1806)、山東京伝(1761~1816・木場の質屋の子)、大田南畝(なんぽ・1749~1823)、出版元の蔦谷(つたや)重三郎(1750~1797)などがいる。
なお、歌麿と山東京伝は50日の手鎖の刑を蔦谷重三郎は財遺産半分没収の刑を受けている。因みにレンタルCD・DVDの大手であるTSUTAYA(蔦谷)は重三郎にあこがれて店名としているそうだ。
                  
たまたま、深川を歩いている時に歌麿の肉筆画「深川の雪」が発見された報道があり、直後にNHK歴史秘話ヒストリアで番組が組まれていたので、深川に墓がある寛政の改革の主導者・松平定信について調べてみた。
霊願寺のとなりにある深川資料館では「江戸の三大改革と松平定信」の企画展が10月まで開かれている。

霊願寺に訪れた際、入口門柱に被葬者の名前が大きく掲げられていた。葬儀があるのなら失礼しようと、隣の深川資料館に向かった。
しかし、史跡・松平定信の墓は見たいと、参道から葬儀のテントの裏を通って墓所に向かう。三脚を据えた大きなカメラが本堂入口中央にあるのが見えた。かなり大きな葬儀なのかなと思いながら、墓所までいった。
本堂の脇にもテントが張ってTV画面を見つめている複数の人物がいた。その後ろにもテントが張ってあった。
なにかおかしいな。と思いながら参道に戻ってきて、本堂前のこの風景を今一度見渡した。
故人への花輪の代わりのこの供物、名前を調べたのだが分らなかった。TVドラマの「赤い霊急車」ではよく見るものなのだが、関東では花輪のはずだがと思い、贈り主を見ると、祇園○○、四条○○、東山○○なんて京都関係の名ばかりが連なっていた。
どうもドラマの撮影現場に来てしまったようだ。京都の舞台を東京で撮影しているようだ。
そういえば、大きなカメラを中央に据えて葬儀をするのも可笑しなものだった。それに「カット!」って聞いたような気もするね。
         
前回の佃散策でも隅田川の橋下で撮影をしていたり、この辺りはよく使われているのだろう。
念のため、供物の贈り主名が実在する確認はした。ただ、供物の名が京都の葬儀社でも載っていないのは何故だろう。

追記
この撮影ドラマが分った。驚くなかれ、フジTVの赤い霊柩車「卒都婆小町が死んだ」であった。
この寺院に参って1ヶ月余後、フジTVの赤い霊柩車の放送で、葬儀のシーンが出てきた。撮影現場がもしやと思って確認したら、やはりここであった。
被葬者・島村かすみは料亭の若女将、能楽師・鷺村菊三郎、その恋人・藤川小蝶、被葬者の友人で元女優の美容室社長・梅溪美鈴などが登場する。
今回、第33作で、最近は年一の放送だとか。このあと名の知れた俳優が来たのかな、何せこの寺の三門の脇に幼稚園があって参った時は賑やかだったから。
 
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清澄庭園

2014-03-20 09:52:47 | 東京散策
この敷地の一部は江戸時代、豪商・紀伊國屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡といい伝えられている。そして享保年間(1716~1736)には、下総国関宿(しもうさのくにせきやど)城主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷となった。
しかしながら、紀伊國屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡であったという話は、文左衛門を好きな深川っ子がつくった昭和の伝説ではなかろうかという御仁もいる。この土地を所有する時代がラップするといいたいようだ。
それはともかく、江戸の古地図には、久世家の下屋敷が描かれていて、屋敷内に、庭園があったようである。
そこを1878(明治11)年三菱財閥創業者の岩崎彌太郎が買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、1880(明治13)年に「深川親睦園」として竣工した。鹿鳴館が落成する3年前のことである。
当時、三菱財閥は1874(明治7)年東京に本社を移し、台湾出兵や西南戦争を経て、一大産業資本に成長しつつあった頃である。
そして開園のパーティが開かれた。社員は圧倒的に土佐の人間が多く、桁はずれな酒飲み集団であるため、彌太郎は「公会式目」という、パーティーの心得を社員に配った。
パーティーは予想通り、土佐の飲ん兵衛たちは尋常ではおさまらなかった。翌日、公会式目違反で4人が馘首(かくしゅ)されたというからハメはずしもかなりのようだったと思われ、彼らは彌太郎のいう「酒は大いに飲むべし。酔うべからず。酒に酔い乱に及ぶ弱卒は用いるに足らず。」から大きく外れたのであろう。
庭園は彌太郎亡きあとも工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配している。
しかし、関東大震災では大きな被害を受けた。その後岩崎家では、破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を東京市に寄付し、市ではこれを整備して1932(昭和7)年に公開した。また、1977(昭和52)年には庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園した。
        当時の深川親睦園

涼亭
1909(明治42)年、英国の国賓を歓迎するために建てられた数寄屋風の建物である。現在の建物は、1985(昭和60)年の全面改修した。構造外見は往時の姿をとどめている。
 

「古池の句」碑
この句は1685(貞享3)年の春、芭蕉庵で詠まれた。芭蕉庵は、ここから北北西に400m行ったところ(常盤1-3)にある。
         

庭園
「清澄庭園」は、江戸時代の大名庭園に用いられた、池の周囲に築山や名石を配置した「回遊式林泉(りんせん)庭園」である。
庭園の主な植物はクロマツ・サクラ(カンヒザクラ)・アジサイ・ツツジ類・ハナショウブ である。
         

 

 
磯わたり

         

         

         
              石仏群 庚申塔2基 法印慶光供養塔[阿弥陀佛] 馬頭観音供養塔
         

ところで、「清澄公園」の「清澄」とはどこから来たのか調べてみた。
新編武蔵風土記稿によると、深川の開発は1596(慶長元)年に摂津出身の深川八郎右衛門に始まるといわれる。
1629(寛永6)年には同じく摂津の8人衆により、現在の清洲橋から門前仲町付近が埋め立てられて深川猟師町八町ができる。彼らは江戸前の魚を幕府に献上したり、舟に関する役務を負担する代わりに、年貢免除の特権を得た。そしてその8人衆の名前をとった町が生まれた。
そのひとりに清澄弥兵衛さんが居りこの辺一帯を開拓した。はじめは弥兵衛町といったが、1695(元禄8)年の検地で清住町となる。また昭和にはいって数町が合併し深川清澄町となった。
そこで、摂津出身の8人衆はどんな姓名の人がいたのだろうかと調べたが、全ては判明しなかった。他には熊井理左衛門、○○藤左衛門、○○次兵衛、相川○○○という人物のようで、それぞれがその町名の名主を務めた。
また、旧猟師町として、熊井、佐賀、相川、清住、諸(もろ)、大島、冨吉、黒江の町名が当時あったようなので、この中には開拓者の名がきっと含まれていると思う。
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深川を歩く 萬年橋~菊川

2014-03-16 20:48:41 | 東京散策
           芭蕉庵
相撲部屋が建ち並ぶ界隈を出て、清澄通りを右折する。
すぐに萬年橋が見える。橋の手前の左手には『古池や 蛙飛び込む 水の音』の句が書かれた、陶板が小名木川のフェンスの基礎コンに掛けられている。
         
いよいよ芭蕉の町に入るのだという気がした。
萬年橋を渡る。
萬年橋
あさみちゆきさんの歌に「萬年橋から清洲橋」がある。
        萬年橋から 清洲橋  
        路地の奥から 川風が  
        風鈴鳴らして 吹きぬける  
        今も 昔と 同じです
        浴衣の柄の 赤とんぼ 
        どこへ どこへ 飛んでいった

幼い日に愛に走った母親への思いを歌った曲。歌詞に下町の風景を感じさせる。
         萬年橋から清洲橋
                         関連 : 井の頭公園の歌姫・あさみちゆきさんの公園ライブ

橋の由来は、永代橋になぞらえて、末永く残るようにと思いを込めて、「萬年橋」という呼称となった。
歌の中に出てくるもうひとつの清洲橋は、すぐ南側にある隅田川に架かる橋で、萬年橋たもとからの眺めがもっとも美しく見える角度とされ、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を彷彿させることから「ケルンの眺め」と呼ばれている。また、その延長線上に、むかしは富士山が眺められたという。
清洲橋は関東大震災の復興計画に基づき、1928(昭和3)年の架けられたつり橋である。当時の深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから名付けられた。
         

           ケルンの眺め

川船番所跡
萬年橋が架橋された年代は定かではないが、1680(延宝8)年の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載がある。江戸時代初期、この橋のすぐ北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていたものの、この番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、1661(寛文元)年に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来する。
萬年橋の常盤側に「川船番所跡」の案内板がたっている。
         

芭蕉稲荷神社  住所:常盤1-3
俳聖芭蕉は、杉山杉風(さんぷう・1647~1732)に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して1680(延宝8)年から1694(元禄7)年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て「奥の細道」等の紀行文を著した。
芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま1917(大正6)年津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、1921(大正10)年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
1945(昭和20)年戦災のためにここが荒廃してしまったため、地元の芭蕉遺蹟保存会が1955(昭和30)年復旧に尽くした。
しかし、狭いため常盤北方の地に旧跡を移し、江東区によって芭蕉記念館を建設した。
         

 

新大橋旧橋標柱
標柱は、萬年橋北交差点の北西角にたっている。
新大橋が架けられた頃、新大橋の東詰近くの芭蕉庵に松尾芭蕉が住んでいた。
松尾芭蕉は、架橋中から架橋完了後の新大橋について、句を詠んでいる。 
「初雪やかけかかりたる橋の上」と架設工事中の様子を詠み、完成後には「ありがたやいただいて踏むはしの霜」と詠んでいる。
新大橋は、江戸時代には、何度も破損、流出、焼失している。明治になってからは、1885(明治18)年に西洋式の木橋が架け替えられ、1912(明治45)年には鉄橋として現在の位置に架け替えられる。
関東大震災の際には、新大橋以外の隅田川に架かる橋がすべて焼け落ちてしまい、新大橋だけが炎上を免れ、沢山の避難住民の命を救うこととなった。そのため、「人助け橋(お助け橋)」とも呼ばれた。
この明治の鉄橋一部分が、愛知県犬山市の明治村に移築、保存されている。
大橋は浮世絵でも、歌川広重の名所江戸百景の「大はしあたけの夕立」として描かれ、この絵に基づきゴッホが「大橋の雨」という絵を描いている。
この交差点から東に走る道を「芭蕉通り」と呼んでいる。南に100m余りのところに芭蕉稲荷、北に100mほどに江東区芭蕉記念館がある。
    

猿子橋跡(猿子橋仇討旧跡)  住所:常盤1-12
本所の竪川と、深川の小名木川をつなぐ六間堀に架かっていた橋が猿子橋。現在、六間堀は埋めたてられてしまったので、常盤一丁目交差点あたりに橋はあったのではと思い、常盤一丁目12番地の1区画を一周したが猿子橋跡の碑はないようだ。
また、1798(寛政10)年、崎山平内が、だまし討ちにした渡辺彦作の妻子にここで討たれ、入獄死した。
と、いうことからか、これをモデルにして、池波正太郎著『鬼平犯科帳』の第7巻「寒月六間堀」で、息子の敵討ちをする老武士を、鬼平が助太刀する場所として、猿小橋が登場する。
また、『居眠り磐音 江戸双紙』(陽炎の辻)の主人公である天才剣士・坂崎磐音が住む六間堀町の裏長屋・金兵衛長屋も猿小橋の近くである。
小説とは言え、橋跡から金兵衛長屋をイメージしたかったのだが、残念。
         

                  

江東区芭蕉記念館  住所:常磐1-6-3
江戸時代の俳人松尾芭蕉ゆかりの地に建つ記念館。
記念館では、芭蕉をはじめとする俳句文学関係の資料を随時展示。
屋根付きの門をくぐると小庭があって、芭蕉庵を模した茅葺の祠や句碑があり、句が書かれた札がところどころに掲げられている。
記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり、「奥の細道」のレリーフが飾られている。
         

         
         

         
「この俳画の素材は、堂板を用いた。時の経過に伴う酸化作用を狙い、侘(ワビ)・寂(サビ)の世界を意図しています。」と注釈が

芭蕉庵史跡展望庭園
この庭園は、芭蕉稲荷神社から奥にはいった、隅田川を望む場所にあり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。「門人が贈ったひと株の芭蕉がよく繁茂し、やがて草庵の名にもなった。草庵からは、遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。」と、案内には書かれている。
         

         

                  
          富獄三十六景 深川万年橋下  

深川めし
芭蕉記念館前の丁字路を深川神明宮目指して東に歩いて行くと、神社の手前脇道の両側に「本家 深川めし」の幟旗を見つける。深川を歩いているのでこの旗を見たかったのだが、ここまでは見つけていない。富ヶ岡八幡宮付近でも見当たらなかった。やっと見つけたという感じ。旗と店を写す。
         
深川めしについて、資料館に置かれている「かわら版 深川福々」にこんな記事が載っているので紹介する。
『「深川めし」は今や有名になってしまったが、私の記憶の中では、母が鍋でササッとつくる料理の印象しかない。母は生粋の深川っ子でもなかったし、もちろん漁師の娘でもなかったが、普通によくつくっていた。
アサリの剥き身とネギを味噌仕立ての鍋で煮立て、ご飯にぶっかけて食べた(豆腐も入っていたかもしれない)。今から考えれば正統的な「深川めし」と変わらないようなものだったかもしれないが、子どもの私にはいつものちょっと寂しい夕食の一品だったようだ。』
本来、「深川めし」は、気の短い 江戸っ子の漁師が手軽に食べるために考案された、アサリのすまし汁を米飯に掛けたものであるはずなのだと筆者は言っている気がする。
そのアサリについて、「江戸前アサリ 受難」という見出しで昨日の夕刊トップに記事が載っていた。
それによると、江戸前のアサリも今や代表的な漁場が千葉県木更津になっているが、その海で「海の吸血鬼」の異名をとるウミグモが、7年前から3~7月のアサリの漁期になると大量発生し、漁が壊滅的な被害を受けているという。この原因は、地元以外から持ち込まれた稚貝に、ウミグモが混ざっていた可能性が高いという。
深川の江戸前といえば他にウナギがある。昔は、芝や深川で獲れたウナギだけが江戸前といわれていた。深川そのウナギであるが、稚魚が獲れずに高値となっていたが、今年は稚魚が昨年の10倍という豊漁で、早ければ秋にも値が下がるようだと、こちらはいいニュースがはいっている。      
 
こちらは アサリの佃煮店

深川神明宮  住所:森下1-3-17
深川神明宮は、深川で最も古い神社である。
大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近を開拓し、その鎮守の宮として、1596(慶長元)年伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。
徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたが名がないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由になった。
深川七福神のひとつ寿老神が祀られている。
         

 

 

六間堀跡と五間堀跡
六間堀は、小名木川と北に位置する竪川との二本の川を結ぶ900mの堀割で幅が六間(10.8m)あった。この跡地は今は道路と住宅になっているが、そのままの形状で残っている。
竪川は明暦の大火後の1659(万治2)に開削された堀割である。
五間堀は、現在の都営新宿線森下駅のやや北側で、六間堀から東に分かれる堀割。
現在、五間堀が六間堀から分れる付近には、六間堀児童公園(新大橋3-18-2)が、分れた先には五間堀公園(森下2-30-4)がそれぞれつくられている。
五間堀公園は、堀そのものの姿のまま細長い公園になっている。
           

         

           

長谷川平蔵屋敷跡(遠山金四郎屋敷跡)  
予定にはしていなかったが、ひと駅足を伸ばして菊川駅近くの屋敷跡に行った。
平蔵の屋敷は数カ所あったといわれるが、はっきり判明している屋敷跡はここだけだという。
長谷川家は家禄400石の旗本で、平蔵宣以(のぶため)が19歳の1764(明治元)年、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えにより、築地から本所三の箸通り菊川の1,200坪余りの屋敷へ移った。平蔵は火付盗賊改役として、50歳で没するまでの8年間在職し、盗賊逮捕に実績を上げた。 また、職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場を提案、実現させた。
その後、孫の代の1846(弘化3)年に屋敷替えによって、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)、または遠山金四郎景元の下屋敷になった。金四郎は江戸北町奉行に1840(天保11)年任命された。一度奉行職を罷免されるが、2年後に再び南町奉行として任命されている。
後の世に名を馳せる人物が2人住んでいた屋敷だいうのも奇遇だろう。
 

                           関連 平蔵の墓 : 寺町・四谷界隈を歩く

                           関連 金四郎の墓 : 駒込界隈を歩く


2回にわたった深川散策は、ひとまずここで終了。
余談だが、前回綴った「深川の雪」に関する話題
作者の喜多川写楽は時の権力に対し反骨精神旺盛であったようで、手鎖50日の刑で牢屋に入れられた後、その過労からか2年後に亡くなっている。
時代は徳川十一代将軍家斉、松平定信の寛政の改革によって武士を頂点とする支配体制を立て直すために、町人層を弾圧、風俗統制が行われた。
そこで、多色の華美な浮世絵が禁止された。この「深川の雪」をはじめとする、雪月花三部作は、江戸より遠く離れた栃木で描かれている。
この「深川の雪」は縦199、横341cmの歌麿最晩年の傑作とされている。
改革を行った定信の墓が、同じ深川にあることも面白い。
         

                           関連 深川を歩く前半 : 深川を歩く 門前仲町~萬年橋

                           関連 : 佃から深川に

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深川を歩く 門前仲町~萬年橋

2014-03-15 17:29:44 | 東京散策
「深川を歩く」は、門前仲町の駅を降りて江東区を北上するルートで散策する。
                              
門前仲町
江戸時代は永代寺門前仲町と呼ばれ、17世紀半ばから町屋が形成されはじめた。大正末期まで、深川富岡門前町と呼ばれるようになって、永代通りの北側には、深川不動尊、富岡八幡宮の参道があって、かつてはここが羽織芸者、辰巳芸者でならした花街であった。昭和初年には、芸妓置場54軒、芸者149人、料亭14軒、待合36軒があったという。
花街といえば旦那衆が出てくるが、ここの旦那衆は、木場の材木問屋の大旦那衆。ただここの旦那衆は花街には力を注いだようだが、政財界などへの食い込みは少なかったようで、木場の移転や衰退とともに、深川の花街の灯は、あっという間に消えていったそうだ。

富岡八幡宮前にあった二軒茶屋

深川ゑんま堂(法乗院)  住所:深川2-16-3
賢台山賢法寺と号し、ゑんま堂として有名。法乗院は、覚誉僧正が開山となり、1629(寛永6)年深川富吉町に創建、1641(寛永18)年当地に移転した。
近年、闇魔堂が改築され、お賽銭を入れると、コンピューター制御で、堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願いごとに応じてありがたいお言葉が流れてくるのというので、ハイテク闇魔とも呼ばれている。ぼけ防止の願いごとにお賽銭を入れた。
堂の前面には『御心は遠くにあるのではなく 自分自身の心の中にあるのです 幸せを願い 救いを求めるなら 信じることです』と書かれていた。
 

小津安二郎の地  江東区深川1-8-8
映画監督・小津安二郎生誕の地。生家は「湯浅屋」という肥料問屋であった。安二郎が10歳のとき、三重県松坂町に転居する。
1927(昭和2)年、監督デビュー、1962(昭和37)年の「秋刀魚の味」が遺作となっている。全部で54作品発表している。
         
           
東京物語の撮影場所は、彼が生まれた深川から江戸川にかけての下町一帯という。

伊能忠敬住居跡  住所:江東区門前仲町1-18
忠敬は千葉県に生れ、江戸に出て高橋東岡(高橋至時)に測量術を学び、1795(寛政7)年幕府の命をうけて全国を測量し沿海路程図を完成した。
その測量の原点は忠敬の居宅であった。忠敬ははじめこの付近に住み、のち中央区八丁堀に移り正確な地図を完成した。忠敬は1818(文政元)年74歳で死去し台東区源空寺に葬られている。
 

紀文稲荷神社  住所:永代1-14
江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門の下屋敷が直線で200m南、川の反対側の現在のみずほ銀行深川支店(永代2-36-16)あたりにあった当時、この付近一帯は運河が縦横に走り、ここに紀国屋文左衛門の船蔵があっった。神社は航海の安全と商売の繁盛を祈って京都伏見稲荷神社より御霊をこの地に祀ったもの。
紀国屋文左衛門は風浪を犯して紀州よりミカンを江戸に運び、また材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め、数年で巨万の財を築き、豪遊して紀文大尽と称された。
         

松代藩真田家下屋敷跡(佐久間象山砲塾跡)  住所:江東区永代1-14
松代藩士佐久間象山はこの地で砲術塾を開いた。
象山は藩主真田幸教の命により軍議役として神奈川・横浜方面の警備に就くことになった。その折に、大砲5門と新式の銃を装備した百人を含め400人余りの武士を伴って横浜へ向かった。
その大砲は今も中華街近くに展示されている。
                     関連 展示の大砲 : 絹の道・浜街道を歩く 4日目 ●シルク通り


赤穂浪士休息の碑  住所:江東区佐賀1-6-2
永代橋たもとにあった味噌屋乳熊屋の主人竹口作兵衛は、1702(元禄15)年吉良邸に討ち入りし、仇討ちを果たし後、高輪泉岳寺に向かう赤穂浪士一行をこの地で、甘酒を振舞ったという。
赤穂浪士大高源吾と作兵衛は俳諧の友であった。
 
赤穂浪士はここから永代橋を渡って、泉岳寺に向かった。
永代橋は、徳川五代将軍綱吉の50歳を祝して1698(元禄11)年に架けられている。当時は現在よりも100m上流にあって、名称は、当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説がある。
橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。                     下図は永代橋
          
                              関連 : 時は元禄15年 赤穂浪士吉良邸に討ち入る

佐賀稲荷神社  住所:佐賀2-4-8
江戸時代初期の深川は小島の点在する遠浅の海であったが1629(寛永6)年永代島付近の埋立て、佐賀町の前身が出来る。町名は地形が肥前之国(佐賀長崎)佐賀湊に似ていたことに因むと云われる。
干潟を埋め町造りの基礎を固め漁村から海上運送の起点として繁栄する。 
1630(寛永7)年佐賀町に住む人々の除厄招福を願い佐賀稲荷神社を建立する。
 

平賀源内電気実験の地  住所:清澄1−2−1
案内によると「わが国最初の電気学者にして1777(安永5)年エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行なった」とある。
丁度というか、偶然というか、NHKのEテレ「知恵泉」で先週と今週で平賀源内を取り上げている。
俄か勉強の私にとっては、タイミングの良い番組内容である。
この番組によると、中学の社会科にも登場する「エレキテル」、静電気の発生装置で、源内は「ゐれきせゑりていと」と表記して、医療器具に用いた。
源内は長崎の古道具屋で、破損したエレキテルを求め、それを模索完成した機械であるが、パクリのような作品にも思える。
番組によると源内は、多芸多才の持ち主で、あらゆる分野でイノベーション(技術革新)を行っている。郷里・讃岐で、唐三彩をまね源内焼きを考案。南北アメリカ大陸をデザインした焼き物を輸出したというから、奇抜な才能があったようだ。
また、浮世絵の多色刷りも考案しており、その後の西洋画にも影響を与えている。
肩書きは、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家と多才、竹トンボの発明家ともいわれる。享年52歳で獄死している。


    
         源内が描いた油絵                               エレキテル                 

セメント工業発祥の地
官営深川工場は、東京府下深川清住町仙台屋敷跡に建造された。現在の江東区清澄 1 丁目付近である。この地には現在、アサノコンクリート㈱深川工場、読売・日本テレビ文化センター本部などがあり、その一角に「本邦セメント工業発祥之地」の記念碑がある。


滝沢馬琴生誕の地  住所:江東区平野1-7
江東区平野の深川老人福祉センター(平野1-2-3)の一角に滝沢馬琴(曲亭馬琴)生誕の地を示すモニュメントがある。
江戸時代後期の戯作者・滝沢馬琴(曲亭馬琴/1767~1848)は、1767(明和4)年、この地で誕生した。
当時この地には、旗本・松平鍋五郎の屋敷があり、馬琴の父は松平家の用人だった。1775(安永4)年幼くして父を亡くし家督を継ぐが、1780(安永9)年15歳の時に松平家を 去り放浪生活に入ると、門前仲町に住む。1790(寛政2)年に山東京伝(1761~1816)に弟子入りし、戯作者として出発した。
山東京伝(さんとうきょうでん)は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。寛政の改革における出版統制により手鎖50日の処罰を受けた。
         

小名木川や仙台堀川・大島川などの運河
1590(天正18)年、秀吉から関東の地を与えられた家康は、道灌の築いた江戸城を根拠にして、領地の経営に乗り出した。
家康の事業は、根拠地としての江戸の町づくりで、その政策のひとつとして、陸上よりはるかに効率の高い舟運による経済基盤の整備を行った。
千葉の行徳から塩を運ぶために小名木川の運河を整備。東の低地に運河を掘り、その土で湿地をかさ上げして市街地を造成した。
江東区を流れる河川で旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつ、仙台堀川も寛永年間に開削された。この堀の北岸(現在の清澄公園の西隣)には仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から米等を輸送した。このことから「仙台堀」と呼ばれる。
その後も幕府は六間堀や五間堀などの開削事業を行っている。
 
               大島川                                   仙台堀川

          
                             小名木川

霊願寺   住所:江東区白河1-3-32
1624(寛永元)年、霊巌雄誉(れいがんおうよ)上人が隅田川河口を埋め立てて霊巌島(現在の中央区新川)に霊願寺を創建された。明暦の大火(1657)後に、徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、1658(万治元)年現在地へ移転した。
         
徳川十一代将軍家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った、陸奥国白河藩松平定信の墓所があり、白河の地名も名付けられた。
その他、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。
また、境内には江戸六地蔵の第五番が安置されている。
 
         陸奥国白河藩松平定信の墓所                         江戸六地蔵 

                                  もっと詳しく霊願寺を読む

深川江戸資料館  住所:江東区白河1-3-28
江東区立の江戸時代に関する資料等を収集、保存及び展示している資料館。
江戸時代(天保年間頃)の深川佐賀町の街並みを再現した展示。街並みは小ぶりではあるが必見である。
 
         
                                  もっと詳しく深川江戸資料館を読む

清澄庭園  住所:江東区清澄3-3-9
江戸時代、ここは下総国関宿藩主久世家の下屋敷であったが、後に三菱財閥の岩崎家へ渡り、都へ寄贈、整備が続けられ、近世庭園史上貴重な回遊式築山泉水庭園として完成された。
全国各地から収集した豊富な奇岩名石、広大な池水を囲んだ大小の島々の配置や涼亭と池のみぎわの美しさはまさに白眉といえ、都内屈指の名園として知られている。
1979(昭和54)年には、との名勝第1号に指定され、新東京百景のひとつにも選ばれている。

                                   もっと詳しく清澄庭園を読む

深川稲荷神社  住所:江東区清澄2-12-12
布袋尊のまつられている深川稲荷神社は、1630(寛永7)年の創立。深川地区では、創立の古い神社で、西大稲荷ともいう。この付近の旧町名は、深川西大工町といい、その旧名から西大稲荷と称した。
神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていたので、町名が生まれたといわれている。1932(昭和7)年深川清澄町と改称した。
                   

相撲部屋
深川富岡八幡宮は、江戸勧進相撲発祥の地でもあってか、深川は相撲部屋が連なって建っている。
生憎、場所中しかも大阪とあって、部屋は人がいないのかと思うほど静まり返っていた。
萬年橋への道筋なので歩いた。この近くの相撲部屋はこれ以外に尾車部屋(清澄2-15-10)がある。
 
          錣山部屋 清澄3-6-2                           高田川部屋 清澄2-15-7

 
          大鵬部屋  清澄2-8-3                         北の湖部屋  清澄2-10-11


小名木川の萬年橋を渡り、芭蕉の世界にはいる。
                     深川・萬年橋~菊川に進む。


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裕次郎灯台へ 葉山・堀内地区を歩く

2014-03-07 10:39:38 | 歴史散策
         
真名瀬から海岸に降りて森戸神社に向かう。目指す裕次郎灯台が見えてくる。
一色地区から堀内地区に入る。

裕次郎灯台と名島(なじま)
森戸神社の磯辺より沖合い700メートルに浮かぶ小さな島が名島。赤い鳥居が目印。
名島には裕次郎灯台が建っている。夕陽によって茜色に照らし出される夕景は美しく、神奈川の景勝50選に選ばれている。
裕次郎さんの三回忌を記念して、兄の石原慎太郎さんが約1億円の基金を集めて建設した。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれている。
森戸神社の境内の磯辺近くにも石原裕次郎記念碑がたっている。

         
         
             

森戸神社
今から約840年前の1160(永暦元)年、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願した。
1180(治承4)年、その加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝は、鎌倉によるとすぐさま信仰する三嶋明神の分霊を、鎌倉に近いこの葉山の地に歓請した。
 
千貫松(せんがんまつ)
神社裏手の磯辺の岩上に切り立つ松の木で、その枝ぶりは見事なもの。
源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられている。
         
石原裕次郎記念碑
神社裏手の海岸入り口には、湘南で青春を過ごし、この地をこよなく愛した俳優、故石原裕次郎さんの記念碑。
石碑には裕次郎さんを偲ぶ文字が刻まれている。
「夢はとおく 白い帆に のって 消えていく 消えていく 水のかなたに 太陽の季節に 実る 狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで」
遠くに裕次郎灯台が見える。
          
みそぎ橋(かながわの名橋100選)
この森戸の海浜は、鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとにお祓いやみそぎが行われたと「吾妻鏡」に記されている。
このような故事により、この海辺で「みそぎ」が盛んに行われ、神社から海辺に通じる橋を「みそぎ橋」と呼ぶようになったと言い伝えられている。
 
詩人・堀口大学詩碑 「花はいろ 人はこころ」 堀口大學
この詩は女優の森光子さんが好んで色紙に書いたそうだ。また鎌倉の日本料理屋の紙袋にも書かれているという。堀口大学は1950(昭和25)年から亡くなるまで葉山町に住んでおり、葉山の名誉町民にもなっている。家族が今も住んでいる。因みに大学は本名だとか。この碑は町制50周年を記念して建てられた。
         
               
マルチーノ公使ベルツ博士記念碑
マルチーノ公使・ベルツ博士は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言し、1894(明治27年)に葉山御用邸が造営される。

境内には、他に昭和天皇の即位50年記念の「昭和天皇即位の御大典記念碑」「大正天皇即位の御大典記念碑」明治天皇・照憲皇太后の歌碑や高橋是清の歌碑「堪忍の 股からのぞけ 富士の山」などがたっている。
また、「源頼朝公別野跡」の碑も立っている。
源頼朝がこの地に別邸を建て、笠懸(かさがけ)を催したり、三代将軍・源実朝や四代将軍・藤原頼経なども来遊した記録が「吾妻鏡」に残されている。
笠懸とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の 伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い。

庚申祠 1843(天保14)年
      

森戸海岸
昭和30年代の太陽族ブームで全国有数の海水浴場となり、葉山の一時代を築いた。
「頭を慎太郎狩りにした太陽族が肌をギラギラさせてワイワイ騒いでいた。」と、当時のことが書かれている。実に60年も前のことだ。
         

葉山コロッケ・旭屋牛肉店  葉山町堀内898
裕次郎さんのなじみの店でもあるようだ。
         
以前、葉山コロッケを求めに、今回と同じ道を辿って、ここを訪れたことがある。その時に、勉強していれば森戸の裕次郎灯台を見ていたはずだった。

森戸川・亀井戸橋
         
橋の中央に飾られている。調べると葉山工芸美術集団の磁器板ということ。この集団は、三浦半島の風景をモチーフにした磁器製品、磁器板、及び油彩、水彩等の絵画を制作している。

長徳寺(臨済宗)
1675(延宝3)年造立の庚申塔。六字の名号(南無阿弥陀仏)を主尊とする。庚申の文字はない。三猿が刻んである(左)。
名号(みょうごう)とは、仏・菩薩の称号をさしていう。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。
                
庚申塔群にも、明和、安永、天明など江戸中期の年号が刻まれている。

六地蔵
         

古き魅力ある建物
県道沿いの狭い範囲で魅力ある古い建物が並ぶ。中には江戸時代から続く商店もあるとか。
        

 

脇町の庚申塔(道標)
1772(明和9)年造立。碑型。正面に「庚申講中」とあり、向かって右側面に「右みさきみち」、左側面に「左うらがみち」とある。三崎街道と浦賀道の岐路にあったものが移設されたと思われる。道標の庚申塔は中央奥に安置されている。
          

諏訪神社
江戸の昔に、「お諏訪様」が祀られたと云われる。
諏訪の大神は、風占いの神として漁の安全を祈る漁師たちから篤い信仰があり、古くから守護神として祀られていた。
社殿の前には狛犬の代わりに猿の親子がいる。猿は古代では神の使いを務めていたという。
          
 

鐙摺須賀神社(天王社)
葉山郷堀内邑の神社。祭神は須佐之男命。
ご神体は、歴史の古い神社によくある、海辺の漂着物だが、その名が珍しく「肥びゃくし」という。
         
 
社前参道には古めかしい常夜灯が建っている。
神社の隣は、海宝寺(戒宝寺)である。以前の本堂は鈴喜三郎助(味の素創始者)邸敷地内の2階屋を移築した建物だったという。

旗立山(伊東祐親供養塔)
1180(治承4)年に源頼朝が挙兵。それに呼応した三浦党が小浜から出港し、その帰りに畠山軍と由比ヶ浜で小競り合いしたとき、この小山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名がついたという。
小田原北条氏と戦った三浦道寸がこの山から敵を偵察したので、軍見山ともいう。伊東祐親(すけちか)を祀ったとされる供養塔がある。
伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159(平治元)年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、助命嘆願があり、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
子孫には、富士の巻狩りの場で仇討をした曾我兄弟がいる。

旗立山を上ろうとしたら、後ろから「独歩の記念碑がこの上にありますか。」と、50がらみのご婦人が声をかけてきた。武蔵野を書いてる作家が逗子とどう関係するのだろうかと思った。
そのご婦人、服装からしてプロの散策家という感じがして。私も負けそうとうい気がした。
気になって、調べると、『初冬の逗子の浜辺の暮れなずむ頃の情景を、叙情的にうたいあげた詩「たき火」の中の一遍が刻まれています。   
葉山町との境にある逗子市浄水管理センターの敷地内にあります。』とのことで、この旗立山の海側になるようだ。 ただ、立ち入り禁止の公園にたっているようである。

葉山マリーナ・ヨット発祥の地
葉山マリーナの先に「鐙摺(あぶずり)葉山港入口」という信号がある。ここを左(東)に折れて入った所が 葉山港の管理事務所近くに、ヨットの帆の形をした発祥碑がある。
日本にヨットが伝えられたのは、横浜の居留地に住む外国人がヨットクラブを作ったのが最初とされるが、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎伯爵の子息が 1882(明治15)年にヨットを建造し、葉山で楽しんだことが日本人による最初のヨットと言われる。
葉山港はかつて鐙摺港と呼ばれる小さな漁港だったが、これを契機に多くのヨットが集まるようになり、1955(昭和30)年には国体ヨット競技会場になり、ヨットハーバーとして名を知られるようになった。
 

            

         

>「太陽の季節」文学記念碑
渚橋の先。逗子海岸東浜
逗子海岸の葉山より渚橋のたもとに石原慎太郎の芥川賞を記念した文学記念碑「太陽の季節」がたっている。
記念碑の左上のゴールドの太陽のモニュメントは印象的。岡本太郎作「若い太陽」である。
         
 

文学碑がたつ渚橋付近は、昔逗子駅から幾度となく歩いたところなので、ここから歩いて駅に向かう。
珠屋洋菓子店
「昭和」の感じが残った建物が並ぶ駅前通りに、数年前改装されたケーキショップがこの店である。
1950(昭和25)年創業。創業以来、長く老舗の洋菓子屋として地元の人々を中心に人気のある洋菓子屋であり、石原慎太郎や石原良純、石原伸晃ら石原家各氏の御用達のお店として、たびたびメディアに取り上げられている。 添加物無添加の高級感のある身体に優しい洋菓子を提供していることが特徴という。
個人的には、半世紀近く前の初夏に、この店に訪れたことがある思い出の店である。
しばらく忘れ去っていた喫茶店だったが、10余年前に、担当の医師がこちらに移動したことで、検診のために逗子駅に、定期的に降り立つことが、思い出させたきっかけとなった。
思い出の喫茶店は、改装して当時と店内のレイアウトが少々変わってはいるが、私の「昭和」がそこには残っている。
 

定期的に葉山に来ているのに、裕次郎灯台にはこれまでお目にかかっていなかった。今回こそは予定に入れようと、睡眠前の床の中で思った。
翌日、朝刊の土曜特集にその裕次郎灯台の記事が載っていた。
それは、1月末のことであった。



                              関連 : 葉山の海岸通りを歩く・一色編

                              資料:葉山を歩こう3  堀内 葉山まちづくり協会

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葉山の海岸通りを歩く・一色編

2014-03-06 11:32:32 | 歴史散策
今回の「葉山・一色から堀内の海岸通りを歩く」は、御用邸近くからスタートし、県道207号線の周辺を歩きながら逗子市渚橋までを北上するコースである。(葉山公園通りは国道134号線)
         

下山口神明社
由緒は、
『1704(宝永元)年に現在地の伊勢山に祭祀される。御神体は衣冠束帯姿の木像で、長者ヶ崎の海中より引き上げられた。
元の名主 沼田八右衛門が村に悪い病気が流行り病魔に倒れる人が多いのを憂い、悪疫退散を天神地祇に祈願し、その満願の夜、白衣の老翁が枕頭に立ち現れ「爾吾を念ずること久し、洗心の懇祈により悪疫退散心身安泰疑いなし」と仰せになり、長者ヶ崎の方へと去って行った。八右衛門が翌朝その跡を訪ねて長者ヶ崎に行くと、海上に木片が漂流していて引き上げてみると、それは衣冠束帯姿の御神像であった。
御神像を現在地の伊勢山に奉安したところ、御神徳により悪疫は忽ち退散し村は無事平穏に復した。』
と、ある。なお、「伊勢山」の地名は、「天照皇大神宮」=「お伊勢さま」から伊勢山と命名されたものと思われる。
         
参道入口の階段脇に祀られている2mを超すと思える庚申塔はみごとである。
         
平成7年に落雷によって落雷で本殿が全焼してしまい、そのせいで神明社を守ってきた人達の気持ちが随分沈んでしまった。そこでみんなの元気が交流する場所にと「あさいち」が毎月第1日曜日に開催されている。と地元の方のブログに書かれていた。

         
葉山御用邸
イタリア公使・マルチーノ、ドイツ人教授で皇室お抱え医師・ベルツの勧めで一色打鯖(うつさば)に御用邸が造立。
昭和天皇はここで皇位継承し、昭和が始まった。生物学者としての昭和・今上天皇のご研究も葉山の海がフィールドとなっている。
   

玉蔵院(真言宗)
奈良の東大寺別当良弁(ろうべん)僧正の開基で1250年以上の歴史を持つ葉山町最古の古刹。
海の近くであることから、恵比寿さまが祀られている。(湘南七福神)
         
境内にある庚申塔は、1665(寛文5)年で、町内最古とされる(左)。
   
宝篋塔は、1775(宝永4)年造立で、地元では「ほうき星さま」と呼ばれている。造立当時接近したハレーすい星の関連か。右の祠は熊野、秋葉、金毘羅の三権現を祀っている。
   

森山神社
創建は749(天平勝宝元)年で、1300年近い歴史を持つ神社で、奇稲田姫(くしなだひめ=櫛名田比売)が祭神。
33年ごとに催される行合(ゆきあい)祭は、逗子市小坪の須賀神社の須佐之男命(すさのおのみこと)が妻のもとに訪れ「夫婦水入らずの」一時を過ごす形で執り行われる珍しいもので、町重要文化財・無形文化財になっている。近年では1996(平成8年)に三十三年大祭が行われている。なぜ33年ごとに催されるか、理由は不明。
 

桂太郎別荘跡
日露戦争前後には、政府要人による重要会議が別荘を中心に度々開かれている。司馬遼太郎原作「坂の上の雲」でも「葉山会議」と称して登場している。
         
県道沿いのレストランの塀に「桂太郎別荘・長雲閣跡」の案内が掛かっていた。が、
私が聞いた話では、県道から少々入った建物である。
下の写真は、「長雲閣こみち」と、中央に建物が写っているが、その建物が、数年前まで桂太郎別荘とされていた。しかし地元歴史家よると、ここではなく、向かい側の建物ががそうだと変更になった。
今回、その住所に行ったが古い建物は見当たらなかった。
         

しおさい公園
旧御用邸附属邸あと。
御用邸附属邸で崩御された大正天皇に代わって昭和天皇が皇位継承されたのがこの地で、昭和の元号はここから始まった。正門前に昭和天皇皇位継承の碑がある。
 

engawa cafe&resraunt
 
ちい散歩で地井さんが立ち寄って、至福の一時を過ごした店である。
築80年以上している、昭和天皇の主治医の別宅だとか。この地域は先ほどの桂太郎の別荘といい、元別荘が多く建ち並んでいてツアーを組んで歩くグループもある。

現役の円柱ポスト
         
ちい散歩で「本当に見られなくなってきたが、妙に可愛く感じる。色といい、形といい、痛み具合といい。」と地井さんが感心したポスト。
今回、遠方からポストに貼り紙があるのが見えたので、「現在使われておりません」の貼り紙と思ったが「ペンキ塗りたて注意」だった。まだまだ現役で頑張るのだな。 

小村寿太郎終焉の地碑
「蓬莱こみち」の手前の路地を入る。奥に建つ、民家のこんもり茂った松の木の下に碑はあった。見つかりにくい。
日露戦争後のポーツマス条約の立役者、小村寿太郎が退任後3ヶ月の療養生活を送り、亡くなった借家の門脇に、故郷宮崎に向ってたっている。
 

ワカメ漁
県道134号線から海側の道に入り、真名瀬という所から富士山を眺めた。時期であればしらす干しの作業をしているはずである。
現在は、ワカメ漁が盛んのようで、釜でゆでたワカメを洗濯バサミで挟んで干している光景が見られる。ワカメ漁は2月から解禁、しらす漁は3月11日に解禁という。
 

         

         
訪れた前後の日は雨模様、中1日の晴れの日に、富士山を三ヶ下海岸付近で眺めることが出来た。
とても温かく感じられ、皇族の別荘地に薦めたことが、よくわかる。
葉山5時間半の散策は、ボリュームが大きくなってしまったので、2つに分けた。後編の『堀内編』をお楽しみに。


雛段飾り
病院内で飾られていた。季節ものなので写す。
この病院、全てにゆとりがあって段飾りが置けるのだ。
          

                              資料:葉山を歩こう4 一色 葉山まちづくり協会
                                  ちい散歩 テレビ朝日
 

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