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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

祝・東京駅100周年

2014-12-20 00:00:00 | 東京散策
  
          
東京の鉄道網は、1872(明治5)年の新橋駅(汐留貨物駅) - 横浜(現桜木町駅)間が開通したことに始まる。
起点が新橋駅に決定されたのは、駅や車庫、鉄道工場を建設するために必要な広大な土地は廃藩置県で空き家同然となっていた大名屋敷を活用させることが可能であったと想像する。
また、当時から繁華街であった銀座が近かったことも理由とされている。
その後、横浜から延長する工事が始められ、1889(明治22)年に神戸まで東海道線が開通。ほかの鉄道網も上野-熊谷間(中山道鉄道)、東北本線、常磐線、中央線の前身・甲武鉄道、総武鉄道など明治後半になって次々と開通した。
しかし、各鉄道の起点が分散しており、鉄道の乗り換えには、人力車、馬車鉄道や徒歩で移動する不便さがあった。
                   
そこで、分散するターミナル駅を結んで中央停車場を設置する構想が始まり、1914(大正3)年12月20日に開業した。
今年が、丁度100周年。
当駅の位置は、江戸時代からの繁華街である京橋側ではなく、建設当時はまだ野原だった丸の内側に建設された。皇居の正面に設定され、丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口や専用通路が造られたことから分かるように、国家の象徴的な位置付けであった。
  

駅本屋は、辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て長さ330mの豪壮華麗な洋式建築である。開業年の1914年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、中国・青島周辺のドイツ租借地を占領した陸軍の司令官が凱旋して皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。
 
東京駅の丸の内駅舎は第二次世界大戦後何度も建て替えの計画が出ていた。1958(昭和33)年には地上24階、1981(昭和5)6年には35階建ての超高層ビルに建て替え構想が発表されたが、当時の経営破綻状態の国鉄にこれを実現する力はなかった。その後も東京駅の建て替えが話題になったが、日本建築学会から東京駅を慎重に取り扱うことを求める要望書が国鉄総裁に提出されたり、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」も発足して、復原を目指した要望書の提出などの活動が始まった。
国鉄部内においても、1978(昭和53)年頃から駅舎を巡って複数の案の検討が行われ、丸の内側駅舎については現在地での形態保存が適当との報告がまとめられた。
2007(平成19)年、5年半に及ぶ保存・復原工事が開始され2012年秋に完成した。
          
  
          
丸の内駅舎・南北ドーム内の8カ所のコーナーに、その干支の方位に従って十二支のうち八支の彫刻がガラス繊維強化石膏製で配置されている。
省かれた残りの子(ねずみ/北)、卯(うさぎ/東)、午(うま/南)、酉(とり/西)の四支は、東京駅開業と同年に辰野金吾が地元佐賀に建てた武雄温泉の「桜門」に表現されている。何故このような取り合わせになったのか調べたがわからない。辰野金吾の遊び心なのだろうか。
 
               駅長室                              東京ステーションホテル

丸の内駅舎は赤レンガが特徴であり、開業当時のレンガも移動通路に残されている。
                    
          
また、外観でも全体の色が以前と違った印象を受けるので、全体を交換したのかと思っていたら、部分的に古いレンガがそのまま残っているようにも見受けらられる。
 
全景は、丸ビル5階のオープンテラスで眺められる。7階に上がれば、東北新幹線や中央本線の車両も眺められる。


五街道の起点・日本橋には「道路元標」が置かれているが、鉄道の起点・東京駅には「0キロポスト」が表示されている。

             (左)1番線          中央本線ホーム             2番線(右)


(左)3番京浜東北線ホーム                     4・5番山手線ホーム(右)
  
4・5番線の間にあるブロンズ製の「0キロポスト」は東京駅開業55周年を記念してたてられた。

           
7番東海道線ホーム

100年の歴史には様々なことがあった。
原首相遭難現場
1921(大正10)年、第19代内閣総理大臣原敬(はらたかし)首相は京都で開かれる京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口(現在の丸の内南口)の改札口へと向かっていたが、突進してきた山手線大塚駅職員に短刀を右胸に突き刺された。傷は右肺から心臓に達し、ほぼ即死状態であったという。
この事件は謎が多く、犯人も特別な処遇で釈放さ、戦時中には比較的安全な部署の兵となっていたなど本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多いとか。
現場付近の新幹線券売機の壁には、事件の概要を記したプレートが貼ってある。
  
濱口首相遭難現場
1930(昭和5)年、風貌から「ライオン宰相」と呼ばれていた第27代内閣総理大臣・濱口雄幸(はまぐちおさち)が、岡山へ視察で東京駅に訪れた際、愛国社社員から至近から銃撃された。一命は取り留め、一時は快方に向かったが9ヶ月後に治療の甲斐なく死亡した。謹厳実直さも相まって大衆からも親しまれていた。
現場は、現在の10番東海道本線ホームであるが、ホームには目印などはなく、真下にあたる中央通路の新幹線中央乗換口付近に、事件の概要を記したプレートがある。
 
戦災被害
1945(昭和20)年5月25日、B-29約250機による東京空襲が約2時間半に渡って行われ、この際に丸の内駅舎降車口(北口)付近に焼夷弾が着弾して炎上した。駅員総出で消火活動に当たったものの火勢が強く駅舎全体に延焼した。鎮火したのは翌朝で、最終的に丸の内駅舎、第1プラットホームのすべて、第2プラットホームの大半、第3プラットホームの事務室・待合室、第4ホームの一部、電車信号扱所などを焼失した。しかし駅員・乗客ともに1人の負傷者も出すことが無かった。
 
丸の内舎復興工事
丸の内駅舎が1945年10月1日から戦災復旧工事に本格着手した。、屋根組の鉄骨は焼けただれて垂れ下がり、床板コンクリートも穴だらけになっているような状態であった。被災度が激しく構造体の鉄骨や煉瓦の強度に不安の持たれるところであったが、最終的に赤煉瓦部分をできるだけ残しつつ被害の大きな3階を取り壊して2階建てにし、乗車口・降車口のドーム丸屋根はピラミッド型に、屋根の複雑な塔を廃して直線的にし、入手困難な鉄骨のかわりに木の角材を用いて工事を行うことになった。
            
特急こだまの出発式
1958(昭和33)年11月1日、東京と京阪神地区を結んで日帰りビジネスができるという構想で、特急こだま号はビジネス特急とも呼ばれ、画期的な列車としてスタートした。
            
東海道新幹線開通
1964(昭和39)年10月1日、世界初、日本初の高速鉄道である東海道新幹線が開業した。時速210キロメートルで走り、東京-新大阪間を約3時間で結んだ。
                     

                    
 

                  
                       高さ10mの丸ビルアナ雪「氷の城」
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初冬の等々力渓谷を行く

2014-12-15 20:17:58 | 東京散策
等々力駅から等々力渓谷に向かう歩道には、タイル製の案内板が地面に敷かれている。
          
ゴルフ橋
東急等々力駅を背に南に歩き、ひとつ目の十字路まで行く。と言ってもすぐ眼と鼻の先である。
目印の「けやきの大樹(区の銘木百選)」もすぐに目につく。 
右に曲がると橋が見える。欄干には谷沢川、ゴルフ橋とある。
 
ゴルフ橋は、昭和初期にこの近辺にあったゴルフ場に行く人達の為に作られたことから命名された。そのゴルフ場も1939(昭和14)年には閉鎖されている。
ゴルフ橋手前右手に渓谷へ降りる石段が設置されている。
石段と道路を隔てた反対側に広場があって、等々力渓谷の由来が書かれた案内板がたっている。
『等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置する延長約1kmの渓谷で、谷沢川が多摩川と合流する手前で、国分寺崖線を浸食してできた。台地と谷との標高差はおよそ10m。都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残しており、渓谷内には至るところから湧水が出現している。
「等々力」の地名は、渓谷内にある「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ことからついたとの言い伝えがある。
1933(昭和8)年、国は等々力渓谷を風致地区として指定し、1974(昭和49)年、世田谷区が渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園した。(所在地 世田谷区等々力二丁目外)』

 
等々力渓谷入口
石段を降りると、ここから下流1km、谷沢川のせせらぎと渓谷美の世界が広がっている。ゴルフ橋を眺めると、アーチ型橋脚となっており、赤の鮮やかさに驚く。
道はここからすぐに、すれ違うのもやっとの木製風の細い歩道となる。川は、時々段差があって渓谷らしい水音を立てて流れている。
木道を過ぎたところで振り返ると、はるか遠くにゴルフ橋が水面に写って一際鮮やかに見える。最初の橋が現れ、歩道は左岸から右岸に変わる。
          
橋の名は「渓谷橋」。橋の上に立つ女性とフラッシュを取りつけた一眼レフで撮る男性のカップルがいる。橋を撮りたかったのだが、直ぐには移動しないようなのであきらめて先に進む。橋の写真は帰り道で写す。
 
環状8号線の「玉沢橋」をくぐる。川へ近づけるように一段降りられる場も設けられている。
そのうち右手に「野毛大塚古墳」の案内が、石段の横にたっている。渓谷から別れ、野毛大塚古墳に向かう。
階段を登りきると正面は、大きな公務員団地となっている。地図では、古墳は一直線上の先なのだが、環状8号線に迂回する。
 
              

野毛大塚古墳
古墳はこんもりした小山状になっていて階段が整備され登れるようになっている。全体が公園になっていて、野球場にテニス場、プールまで備えている。
野毛大塚古墳は全長82m、後円部の高さ10mの帆立貝式の前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部(つくりだしぶ)が付設されている。墳丘の周囲には馬蹄形(ばていけい)の周濠(しゅうごう)が掘られており、周濠を含めた全長は104mである。三段に構築された墳丘(ふんきゅうは全体が川原石で覆われ、円筒埴輪(えんとうはにわ)がそれぞれの段にめぐらされている。
野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する五世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類や石製模造品は、この古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。
古墳に上がると、上部は舗装された広場になっていて、石棺と出土品を解説した案内板がある。
(所在地 世田谷区野毛1-25-1)
 

 

環状8号線で渓谷まで戻る。渓谷には下りず橋の上で写真を撮り、そのまま橋を渡って、横穴古墳に向かう。
          
等々力渓谷横穴古墳
等々力渓谷第1号横穴跡から順に2号横穴跡、3号横穴跡と続く。
3号横穴古墳は、完全な形で残っていて、照明が点きガラス越しに中が覗けるようになっている。
等々力渓谷の周辺では先ほどの野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴群が造られるようになる。
等々力渓谷横穴群は野毛地域の有力な農民の墓で、全部で6基以上の古墳がある。
横穴には、3体の人骨と共に、1対の耳環と土器が副葬されていた。墓の前には、道が延びていて、土器が供えられたり、火を焚いた跡があり、墓前祭が行われていそうだ。
          
     

横穴跡を下って行くと、トイレが設置してある広場に着く。広場には等々力渓谷公園の模型が貼り付けられた案内板が立っている。 
ここから渓谷に戻ると谷沢川に潜水橋が渡されている。
沈下橋
歩道から広場に渡るための一段下がった沈下橋が設置してある。木製橋が大雨で流されても、すぐ下流には補助用の飛び石が施されている。
 

再び川沿いの歩道に戻る。
湧水
小橋を渡り歩道に戻ると「等々力渓谷の湧水」について解説板がたっている。
等々力渓谷では30ヵ所を超える湧水が確認され、谷沢川に流れ込んでいる。そして、湧水を観察するための場所が設けられている。
不動の滝のように多量に湧き出る場所もある。
等々力渓谷および等々力不動尊の湧水は、東京の名湧水57選に選ばれている。
橋の横に「おもはせの路」(国分寺崖線散歩道)と記されたひどく汚れた案内板が設置してある。
世田谷区には豊かなみどりに覆われた崖の連なり「国分寺崖線(がいせん)」があり、「みどりの生命線」とも言われている。多摩川は10万年以上の歳月をかけて武蔵野台地を削り取って出来た段丘で、その周辺には樹林や湧水などが多く残り、生き物にとっても重要な生息空間となっている。国分寺崖線には玉川地域の「おもいはせの路」と砧地域の「きしべの路」のふたつの散策ルートがある。右下に書かれた字をやっと読むと、
『都市を聴く。走り去る車のエンジン音と子供たちの歓声、そして人々の繰り広げる生活の響きが、多摩川の木々のざわめきと、渓谷の水面に融け込む。この道を歩くとき、人はこの都市の奏でる調和にひたることになる。』とあった。
     
              
湧水地を抜けてしばらく行くと等々力不動尊の敷地に入る。
道は二股に分かれており、右に行く。見事な手水舎(ちょうずや・てみずしゃ)をみかける。
稚児大師堂 
稚児大師とは弘法大師の幼い時の呼び名である。
境内に入ると御影堂の中に稚児大師像が見える。手を合せた幼いときの弘法大師の姿である。
弘法大師は、1774(宝亀5)年に讃岐(さぬき)の国(今の香川県)に生まれた。
弘法大師は、その頃世界の国際都市の長安(中国の西安)に行って、真言の教えを伝え、日本に広められた。
その教えは、すべての人々の生命の中に、佛の尊い生命が備わっているので、その生命に目覚めるとき、豊かな心で、力強く生き、そのことで、まわりの人をも幸せにするという教えである。
文化の面でも学芸、教育、文学、書道、絵画、彫刻、工芸、建築、治水とあらゆる分野で活躍された。 
教育では、その頃、貴族のための大学しかなかったのを日本で始めて庶民のための大学を造られた。これが綜芸種智院である。その大学は、月謝もなく、教校から学生まで宿舎も完備して給食付であった。
綜合的に幅広く学んで、知識としてではなく本当の智恵を自分のものとすることを目指したのである。こうして人々の幸せのために尽くされた弘法大師は、あらゆる面での日本文化の恩人として、お大師さまと仰がれ、慕われているのである。
 

利剣の橋が見えてきた。
  
等々力稲荷堂・不動の瀧
利剣の橋を渡ったところに弘法大師と観音様の像がある。その先に南無不動明王の旗が立つ稲荷が見える。その右手に不動の瀧である。龍の口から湧水が流れ落ちている。これが等々力不動尊発祥のもととなった不動の瀧である。数千年もの間、湧水が途絶えることは無いそうだ。
不動の滝は、修験者・役の行者(えんのぎょうじゃ)、役の小角(えんのおづぬ)が不動尊を彫ったとされる伝承から、役の行者霊場として、各地から修験者も多く訪れた。
かすれて読みにくくなっている解説板によると、
『利剣の瀧、等々力の瀧とも呼ばれる等々力不動の瀧は、八百数十年の歴史を持ち、役の行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられ、かつては滝に打たれ行をする修験僧が各地から訪れたという。
現在は、蛍の生息地になっており、「蛍祭り」が開かれている。
「等々力」の地名は、一説、瀧の轟く音に由来すると言い、瀧轟山(りゅうごうさん)という山号にもなっている。他の一説は、満願寺が深沢免々呂城内におり免々呂城(とどろき)の満願寺と呼ばれ、現在地に移転後もとどろきの満願寺と言った事から地名になったという。
だが、現在は、不動の滝の音が響き渡り轟くほどの流れではない。
不動の滝の左手奥には、稲荷堂がある。
          
 
等々力不動尊御本堂と書かれた案内板が立つ階段あり、横手には、甘味どころの「雪月花」である。
          
階段を登り始めると階段の途中に祠のようなものが見えてきた。左に入る小さな階段といくつかの小さなお堂などがある。正面上には等々力不動尊の舞台が見える。
 

等々力不動尊御本堂への階段を登る途中、左への小さな石段を入ると役の行者の神変窟がある。
役の行者・神変窟
神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)が祀られているようだ。
修験道の開祖とされている、役小角(えんのおづの/おづぬ/おつの 634年~701 役行者)のことであって、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。没後1100年を迎えることあたり、当時の天皇が神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう=おくりな)を贈った。小角の生涯は伝説によることが大きい。
神変窟付近にはほかにも小さな御堂が奉られている。
           
石段を上がり切ったところが、満願寺の境内である。
等々力不動尊・満願寺別院
           
満願寺の別院で流轟山明王院と称するが一般には等々力不動で親しまれている。交通安全、学業成就などの願いごとに御利益があると言われている。開山は高野山を再興して和歌山県に根来寺を開創した興教大師。真言宗中興の祖であり本尊不道明王は役の行者の作と伝えられ、奥の院に祀られている。本堂の山門をくぐり、満願寺は、山門前の目黒通りを北上、等々力駅の先にある。
 

等々力不動尊の山門から目黒通りを挟んで、向かいに御岳山古墳がある。周りは住宅地になっている。
御嶽山古墳
もと御岳神社があったので、この名で呼ばれている直径42m、高さ5mの円墳。
五世紀後半から六世紀中葉の築造を考えられている。
世田谷区野毛から大田区田園調布にかけての多摩川左岸の台地一帯は、荏原台古墳群と呼ばれていて、多くの古墳が存在する。
扉は閉まっていて、土、日の日中のみ開いているそうだ。古墳の頂上には、御岳大権現の本尊蔵王大権現、等々力不動尊像が祀られているそうで、参道の両側には多くに石仏が安置されている。
 
再び等々力不動尊の境内に戻り、石段を降り中段の分岐を左手に行く。等々力渓谷の紅葉はこの辺りだけのようだ。
弁天堂明王台
朱塗りの橋があって、お堂の周辺は池のようだ。
弁天池と弁天島に建つ弁天堂である。
『このお堂に祀られている七福神の一人であられる弁財天であるご本尊様は世界中の人々を守ってくださる女神様です。
そのお人柄は、世界中の人々の福祉と知恵を増し、寿命を延ばし、弁論の自由を保障し、災いや厄を取り除いてくださいます。
弁財天様は、元々水神様であるので、多くは河岸や、島に祀られています。ここの弁天堂も、その形式に
従って、池を「弁天池」と命名し、島を「弁天島」と命名してあります。』
      
周辺の明王台は梅と桜の名所のようだ。
明王台より高くなっている谷沢川側の空き地が児童公園と言うことのようだが、地蔵菩薩を祀る小祠があるだけである。
 
        
不動滝近くの利剣の橋まで戻る。少々下流に下ったところに日本庭園がある。
日本庭園
ここも等々力渓谷の一画になっていいるようだ。
紅葉も終わってみるべき場所はなかった。
 
 
日本庭園を過ぎると住宅が見えて、渓谷も終わりとなる。谷沢川もここから500mほど先で多摩川に合流する。
 
帰宅は等々力駅まで戻ることにした。


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紅葉の九品仏・浄真寺を巡る

2014-12-13 12:16:10 | 東京散策
浄真寺の境内には、本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれの堂に阿弥陀如来像が印相の異なった3体、合計9体が安置されている。
印相(いんそう、いんぞう)とは、ヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すジェスチャーによって、ある意味を表現するものである。浄真寺の阿弥陀像で例えるなら、両手をへその前で組む型が上品、両手が胸と膝に違っている形が下品を表しているそうだ。

東急大井町線の九品仏駅から参道を進むと、まずは銅板葺きの総門(高麗門)。文政年間以前は茅葺き屋根と伝えられる。
門をくぐると、右手に六地蔵、閻魔堂、延命地蔵が乗っている江戸十夜講の三界万霊塔が並んでいる。そして、左手は、紅葉の赤が目につく。鮮やかと言いたいところだが、盛は過ぎてしまっている。本来ならば、11月末に予定していたので残念だ。
          
                             総門(高麗門)

 

      
                  閻魔大王の右横には「奪衣婆(だつえば)」が置かれている

                     
                      延命地蔵が乗っている江戸十夜講の三界万霊塔

参道は、丁字になっており、右には東門が建っている。東横線自由が丘駅から来るとこちらの門をくぐることになる。
左に曲がると「紫雲楼」と呼ばれている仁王門(楼門)が現れる。建立は1793(寛政5)年で屋根以外は大掛かりな修理の痕跡がないということから、当時そのままの構えのようだ。楼門ということで、二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像を据えている。上層は中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されているそうだ。
          
                               東門       

仁王門手前右手には、開山堂が建ており、開山珂碩(かせき)上人(1617~94)の像が安置されている。
仁王門を潜ると、赤や黄の紅葉が目にはいる。スケッチをしている人も数人いる。この寺は、紅葉だけではなく、桜も見事だという。
左側に鐘楼が建っている。近くに寄れないが、仁王門同様、立派な彫刻が施されている。江戸後期の装飾という。
 
                              開山堂

          
                               仁王門

          
                                鐘楼

          

          


参道は再び丁字路となる。右に進むと、本堂である。5間(約19m)の正方形に近い建物で、堂内には1760宝暦10)年に再建した、大きな金色の下品堂が安置されていて、境内からもその姿には目を見張る。
          
                               本堂

       


反転して境内を眺めると、正面に上品堂(じょうぼんどう)、右手が中品堂(ちゅうぼんどう)、そして左手が下品堂(げぼんどう)の三つのお堂(三仏堂)が配置されている。
それぞれのお堂には、三体の阿弥陀如来像が安置されていて、三堂合わせて九品仏となる。この仏像は、上品堂には、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、が安置され、同様に中品堂には中品上生、中品中生、中品下生が、下品堂には下品上生、下品中生、下品下生の阿弥陀如来像が、中央、右、左の順で安置されている。
仏事に疎い者にとっては、何とも不思議なお寺である。
 
              下品堂                                    中品堂

 
                              上品堂
この9体は、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これをあわせて九品、或いは九品往生という。この九品の仏から、この寺を通称「九品仏」と呼ばれている。このような九体の阿弥陀を安置している寺は、他に京都の浄瑠璃寺にしかない。
          
                           上品上生阿弥陀如来像

      
              上品下生阿弥陀如来像                  上品中生阿弥陀如来像        

この寺は、徳川四代将軍家綱の1678(延宝6)年に開山と言われ、戦国時代は、小田原北条氏の一門・吉良氏の
奥沢城が建っていた。豊臣秀吉の小田原攻め以降に廃城となっている。
このため、中品堂の裏側、歴代住職の墓辺りが奥沢城の土塁だという。吉良氏は、世田谷城と蒔田城を所有し、この奥沢城は世田谷城の出城として、家臣の大平氏が守っていたようだ。なお、忠臣蔵に登場する吉良上野介は本家筋にあたるようだ。
            
                         歴代僧侶の墓

大平氏には常盤姫がいて、今年の「世田谷城主 吉良氏ゆかりの寺社を巡る」の駒留八幡神社の項でも書いたがサギソウ伝説という悲話がある。
大平氏の娘、常盤は世田谷城主・吉良頼康(きらよりやす)の側室になった。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていたが、それをねたんだほかの側妾たちは、つくり話を頼康につげ口をしました。 度重なるつげ口から頼康も本気にして常盤姫に冷たくあたるようになった。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがっていた白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へと放した。 白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、射落とされてしう。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知り世田谷城に帰えったが、姫は息をひきとっていた。 その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、白さぎに似た白いかれんな花が咲いた。これがサギソウと呼ばれるようになった。
このサギソウは、世田谷区の花で、浄真寺の近くに建つ八幡中学校の校舎には常盤姫が描かれている。
          

この寺を知ったのは3年前の中原街道を歩いた時であった。
洗足池から1km近く下ったところに庚申供養塔を兼ねた道標を見つけたことだった。「従是九品佛道」と刻まれていた。「これより九品仏道」、この道標は、中原街道の分岐にあるようだ。そんな寺があるのだと調べ、いつかは訪ねてみようと思っていた。
立派な寺である。3年に1度「お面かぶり」という仏事が夏にある。菩薩の来迎の様子を表すもので、本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩の面をかぶった僧侶らが渡るというものである。
奈良の寺で行われている映像を何回か目にしたことがるが、東京でこのような仏事が行われているとは驚いた。残念ながら次回は3年先のことである。

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神宮外苑前の銀杏並木を歩く

2014-12-08 00:44:32 | 東京散策
四並列の銀杏の大木がつくり出した世界に誇り得る並木の景観美





銀杏並木は、1926(大正15)年に造成された。一番背の高い樹は28m、低い樹は17m。そして幹周りで一番太いのは290cm、細い幹は180cmという。













12月8日まで軟式球場前の噴水池の広場では、明治神宮外苑が主催する「いちょう祭り」が開かれて、60もの屋台が出店し賑わっていた。
しかし、銀杏並木奥に建つ、白亜の聖徳記念絵画館が写る景色が消えてしまい、この季節の美観を自ら消していると思う。
絵画館と色づいた146本の銀杏並木が一体となってこそ、ラブストリーが始まるのである。




外苑東通り
通りには、結婚式場で知られる明治記念館が建っている。
もとは、赤坂仮御所の別殿であって、帝国憲法の草案審議が明治天皇の臨席のもとで審議された場所であり、憲法記念館と命名されていた。
黒漆塗りのマントルピースが部屋の中央に設置され、壁には金鶏が描かれており、現在は金鶏の間として利用されている。




銀杏は、現存する樹木で最も古く、有史以前の世界の植物のひとつ。恐竜が生息していた古生代に地球上の広域に分布、生育していた。
氷河期到来により、多くの地域で死滅していったが、温暖な気候を保った中国だけは生き残り、我が国のいちょうも中国から渡来している。
     
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横浜の紅葉を眺める

2014-12-07 00:44:44 | 散策
横浜公園
横浜港が開港された時代1858(安政5)年、この場所には港崎遊郭(みよざきゆうかく)があった。しかし1866(慶応2)年の大火によって焼失した。明治維新の影響によって復興が遅れ、ようやく1875(明治8)年、外国人の環境改善の目的で、跡地に公園が出来た。また、公園から港に向かって新道路・日本大通が建設された。なお、この折に馬車道や海岸通りも整備されている。
敷地内には、横浜DeNAの本拠地、横浜スタジアムや日本庭園などがある。
          

             


日本大通
日本大通は、横浜公園より海岸までおよそ450m、幅36mで延焼防止の目的で造られた。
道の両脇には60本余りのイチョウの木が植えられている。
          
横浜公園から望む


          
日本銀行横浜支店(右)


                                   
横浜地方裁判所


          
神奈川県庁・葉が落ちて淋しい  落ちはじめると一揆だと

  
          
横浜開港資料館



山下公園通
山下公園通は、文字通り山下公園に沿った道路で、開港広場から山下橋までを称する。
沿道のイチョウの木はおよそ200本といい、新・日本街路樹100景、日本の道100選や神奈川景勝50景に選ばれている。全国で街路樹で、イチョウが最も多く植えられているという。
また、東京の都道府県の木として、イチョウが選ばれていることは有名だが、神奈川県もシンボルとなっており、大阪府もそうだと云うので、3大都府県が同じイチョウの木ということも面白い。
          
シルクセンター前の桑の木


          
産業貿易センター前


          
県立県民ホール


          
ポーリン橋より


                   
マリンタワー


          
人形の家前



山下公園通には、横浜の顔と言うべく「ホテルニューグランド」が建っているのだが、その前のイチョウの木は枝ぶりが悪いのか、落葉が早かったのか、絵にならなかったので、残念ながら写していない。
全体に日本大通のイチョウに比べ選定されていた、枝の張りが小さい。
昨年の紅葉時期から判断して12月頭に訪れたのだが、1週間ほど遅かった感がある。



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北の丸公園の紅葉

2014-12-05 16:37:07 | 東京散策
ここは、名前のとおり江戸城の北の丸であった。
歴史的には、太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(つくどじんじゃ・旧田安明神)の旧地であった。
江戸時代中期には、徳川御三卿での田安徳川家と清水徳川家が上屋敷を構えるようになった。
明治維新後、近衛師団の兵営地が設置され、第二次大戦まで続く。
戦後、皇居周辺の緑地として整備された後、森林公園となった。1969(昭和44)年、昭和天皇の還暦を記念して開園、一般公開される。



















東京の気象観測地点・露場の移動
今月2日には、大手町にある気象庁庁舎内から気象観測地点・露場(ろじょう)が、この公園内に移設された。東京の気温が下がり、年間の最低気温が1.4度低くなるという。また、夏より秋、冬の差が大きくなって冬日が増えそうだと話題になった。
といっても、移動は900mだけなのだが。
          

          

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桜に次いで紅葉の皇居乾通りを歩く

2014-12-04 15:37:34 | 東京散策
 
天皇陛下の傘寿を記念して、春に引き続き秋も今日、12月3日から一般公開された。
初日は雲ひとつない上天気であった。

 
(↑左)8時20分二重橋広場に到着、最後尾に加わる。観光会社の小旗が目立つ。開門まで80分。
9時すぎ、列に変化が、前列では持ち物検査や、身体検査が始まった。このまま入門か?(↑右)
報道ではこの時間で5千人が来場。


(↑左)検査を終わると列は坂下門前でストップした。
多くの警察バスが駐車している。門の外の整理は警視庁か。(↑右)

 
  9時30分先頭が入場。10分後には私も坂下門を潜った。(↑)

        
           赤い紅葉の奥に富士見櫓が映える。(↑)

          
この道は「山下通り」 。(↑)
皇居参観で戻ってくる道でもある。3年前の参観での記憶では、奥右手に1914(大正4)年に建てられた「紅葉山御養蚕所」がある。
皇室での養蚕事業は古く日本書紀にも登場している。1871(明治4)年に皇室で長く途絶えていた養蚕を昭憲皇太后が復活した。以後代々の皇后陛下がその役目を引き継いでいる。美智子様も1990(平成2)年から始められている。春から初夏にかけて、掃立て・給桑・上蔟(じょうぞく)、繭かきなど養蚕の各段階の作業に携わっておられる。飼育されている蚕は、小石丸(純国産種)、白繭(はっけん・日中混合種)、黄繭(おうけん・欧中混合種)、天蚕(てんさん・国産野生種)の4種である。
このうち小石丸の生糸は、正倉院宝物の絹織物の復元に最もふさわしい糸として役立っていると言う。

                     小石丸(↑左)と天蚕(↑右)

          
          道灌濠の水面に映える紅葉。(↑)

                  

        

        

 
        

        

        
       扉の奥には陛下のお住まい「御所」や「吹上大宮御所」が建っている。(↑)

        


               入口側(↑左)と出口近く(↑右)の報道陣。

        
  出口の「乾門」、その先の色づいたイチョウは北の丸公園。10時10分、所要30分であった。(↑)

  
   皇居東御苑から眺めた乾門に向かう参列者。(↑) 

          

2種類のモミジ60本を中心に通りの両側に色づいた樹木が植わっている。入口(坂下門前)で整理していた警察官が「見ごろを過ぎたと云う説もあるとか・・・」なんて、早起きして来場した者の腰を折るような案内をしていたが、正直、あと1週間早ければと感じた。
でも、通常では目にする景色ではないし、一般には歩くこともできない場所を、実感できたことだけでも喜ぶべきこと思う。
みごとに外れてしまったが、春、秋に公開された特別参観に来ることができたら、「言うことなし」であったのに。
この日の来場者は5万7千人であった。

    
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