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歴史散策まち歩きの記録
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横浜市電保存館を観る

2017-07-24 12:52:24 | 横浜歴史散策
かつて横浜の市電は「ちんちん電車」と呼ばれて市民の足として欠かすことのできない交通機関であった。
1904(明治37)年から1972(昭和47)年までおよそ70年間活躍したちんちん電車は、磯子区滝頭の保存館にその役目を変え、歴史の証人として展示されている。
館内には、7両の市電車両が保存、展示されている。



親しみを込めて呼ばれる「ちんちん電車」の名の由来には2つの説がある。
1つは車掌がヒモを引っ張って運転手に合図した音で、「チンチン」と2つ鳴らすのが発車、「チン」と1つ鳴らせば止まれ、3つ鳴らせば急停車の合図だったことからきた節。
もう1つは通行人への警報用に運転手が足で床下の鐘「フートゴング」を「チンチン」と鳴らしたことからきた説。ヒモで「チンチン」と鳴らす電車は1966(昭和41)年に消えた。

500型
1928(昭和3)年に60両購入した。定員75人
屋根は局面を持ち、社内の天井もアーチ型とする。
戦後15両を600型に改造、1969(昭和44)年廃車。

1000型
1903(昭和3)年に震災復興事業により20両購入。定員75人
中部に乗車専用扉を設けたが、のちに乗降共用とした。1951(昭和26)年、乗車専用自動ドアに改造した。
1969(昭和44)年廃止。

1100型
1936(昭和11)年に5台購入。定員75人。
バンパー(緩衝装置)の位置から流線型のなっており、ロマンスカーとも呼ばれた。
1967(昭和42)年ワンマンカーに改造、市電廃止まで活躍した。

1300型
1947(昭和22)年、終戦直後の時代に輸送力増強ため30両を購入。定員120人
出入り口が車両前後と中央部の3カ所にある。ツーマン者としては最後の車両で1971(昭和46)年に廃車。

1500型
1951(昭和26)年、300型の代替として20台購入。定員100人。
運転台の窓が大きく、台車には防振ゴムを使用して振動や騒音を少なくし、従来型よりも乗り心地を良くした。ちんちん電車の決定版とも云われ、市電廃止まで活躍した。

1600型
1957(昭和32)年市交通局工場にて製造、最後の新造車両。定員100人
乗降口が前部と中央部のバス型配置。室内灯は蛍光灯、床は軟質ビニール張り。
1970(昭和45)年に廃止。

無蓋(むがい)貨車
レールや砂利、枕木等の重量物を大量に運ぶための車両。荷重5t
また、中区北方町にキリンビール山手工場があった大正時代には、この貨車で近くの堀川に架かる西之橋の船着場まで運んだこともあり、最大で6両の無蓋貨車を所有していた。
キリンビール山手工場は関東大震災で壊滅的な被害を受けた。現在その地は、小学校とキリン園公園となっている。
ビールの輸送の役目は無くなった以降は、太平洋戦争で傷ついた市電の軌道を修理する際に活躍をしている。
祝い事の花電車でも活躍しており、1972(昭和47)年の市電全廃まで利用された。





かつて

明治時代麦田付近


吉田橋付近


久保山付近


関東大震災の被害




滝頭車庫

ジオラマ
横浜の街を背景に地下鉄、私鉄、JRの0ゲージ車両やかつての市電が走る。


今回近くに来る予定があったので、一緒に見学をした。
これほどの車両が保存されているとは思わなかった。
横浜の市電には乗ったことはないが、明治時代から高度成長期の横浜市内を走っていた頼もしさを感じた。

資料:横浜市電保存館
訪れた日:2017.6.22

ヨコハマ運河の風情を伝える掘割川の土木遺産

2017-07-05 15:14:34 | 横浜歴史散策
――港町ヨコハマの運河の風情を今に伝える近代土木遺産—―


掘割川は、明治初期に、横浜港と根岸湾を結ぶ人口運河として、1870(明治3)年、神奈川県知事の不達を受けて、吉田勘兵衛の末裔が苦労の末、開削し、舟運や治水対策などにも大きな役割を果たしただけではなく、往年は掃部山(かもんやま)、豊顕寺などと共に横浜の桜の名所として市民に親しまれていました。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって壊滅的な被害が受けましたが、「帝都復興事業」によって、石積護岸復旧され、各所に物揚場、昇降階段、意匠を凝らした親柱を持つ八幡橋、根岸橋、天神橋などの橋梁も造られ現在見る姿に生まれ変わり、市内でも有数の美しい水辺風景をみることができます。
しかし、近年の車社会化のながれにより、川の両岸を通る国道16号と市道が拡幅整備されるなど、市民にとって、ますます水面に近づきにくい存在となっております。
市内の河川や運河の多くが埋め立てられ、公園や道路になっていることからも、先人が築いてきた貴重な「掘割川」を、都市づくりの視点や市民の貴重な水辺として、その魅力を再発見し、次世代に残すべき財産として、保存、活用を図っていきたいものです。

と、八幡橋の脇に建つ碑に土木遺産の由来が書かれている。
磯子の史話によるとこの時吉田勘兵衛の末裔は九代目で先祖の偉業を思い、掘割埋め立てを自費負担で施工したという。




土木学会選奨土木遺産制度は、土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、平成12年度に創設された。掘割川は、平成22年度に構造物が「土木遺産」として設定された。

「掘割川魅力づくり実行委員会」主催の「掘割川の日」のイベントが開催されたこともあったようだ。

荷揚場、昇降階段、繋船柱(けいせんちゅう)が施されている


八幡橋は掘割川唯一のこる震災復興橋


掘割川の開削(南区の歴史より)


訪れた日:2017.6.22


東京湾の要塞・猿島を歩く

2017-07-03 11:43:20 | 歴史散策

鎖国をしていた19世紀中ごろ、江戸幕府は異国船の江戸湾侵入を防ぐために、全国初の大砲を据える台場を猿島に建設した。
以後、明治から昭和にかけてその時代に応じた軍事防衛施設として活躍した。

発電所
蒸気機関による発電所として1895(明治28)年に完成した。
ここでつくられた電気は、建物の裏から切通しを伝わって島の中央部高台にある照明所に送られていた。



兵舎
この部屋は小窓があるので兵舎。
室内はかまぼこ型に造られている。


兵舎には高窓が施されてあり、余裕がある時代の建物と感じる。

第二砲台塁道(露天掘り幹道)


壁にもいたずらに彫られた跡がある。
発電した電気は幹道の壁に埋め込まれた土管内を通って送られている。

トイレ跡
兵舎のはす向かい幹道沿いに設けられている。これもレンガ造り。

弾薬庫1
幹道にはいくつかの部屋が掘られており、兵舎と弾薬庫が交互に並んでいる。窓がない部屋が弾薬庫である。



弾薬庫内部


井戸のような竪穴があり、これを使って弾薬を真上の砲台に運び上げた。
現在のように整備、管理する前に心無い観光客がいたずら書きをした。これも遺産だとそのまま残している。





愛のトンネル
トンネル内は暗いためカップルは自然と手をつないで歩くため「愛のトンネル」と云われていて、それが拡大解釈され、ここでお祈りをすると恋愛運アップや縁結びにご利益があるとなったのでは?







司令室
長さ90mほどのトンネルの壁沿いにも兵舎、弾薬庫、病室や司令室が設けられている。壁はフランス積レンガで化粧されている。代表的なものとしては富岡製糸場で、明治初期の建物に多い。



連絡通路
西側斜面へ上がるための階段。山頂付近にあった司令所や照明所への通路であった。

天空の城ラピュタ
この風景が「天空の城ラピュタ」の廃墟に似ているとの評判で、アニメファンのコスプレイベントが戦艦三笠を含めた会場で催されている。




弾薬庫を利用したトンネル




8cm高角砲砲座跡


スマホやタブレットのアプリを利用すると高射砲が画面に再現され、現代の人物と合体写真が撮れる。

12.5cm高角砲砲座跡



展望台
TVドラマ「仮面ライダー」でショッカーの基地として撮影されたこともある。




今回の猿島巡りはある公共施設が主催したツアーで、事前の座学もあり、現地のガイド説明のほか、横須賀市教育委員会職員の説明付きというこれ以上ないというものであった。
兵舎、弾薬庫内の見学もたっぷりあった。内部写真はフラッシュを使用せず、PCの画像処理を行った。

日本海海戦の記念日まで2日に迫った日に訪れたので、船首に日の丸、船尾には旭日旗、そして連続旗の小旗が全体を飾っていた。今年は112年の記念だそうだ。
日露戦争では、ロシアの太平洋艦隊が東京湾内に入ることも想定して、猿島の要塞を造ったとも聞く。


訪れた日:2017.5.25