あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

梅雨の晴れ間の三溪園2015

2015-06-26 13:16:28 | 三溪園
ほぼ平年並みの梅雨入り、梅雨の晴れ間の土曜日に三溪園に訪れる。桜以来である。
この季節の花は、半化粧、菖蒲、紫陽花それと蓮だろうか。
 
半化粧(半夏生)
ドクダミ科の植物で、日本では、生育に適した土地が減少していることから自生株は近年減少傾向にあり、地域によっては絶滅が懸念されていると云われる。
名前の由来は、花に近い葉っぱの一部が白く変化し、花よりも目立つので、「半化粧」とする説と、七十二候のひとつ、半夏生(太陽の黄経が100°になる日。7月2日頃)の頃に花を咲かせることに由来する説がある。
          
          

菖蒲
          
          
          

font color="green">●紫陽花
          
          
          
          
          
          
          
          
          


          
          

上海横浜友好園
友好都市・上海が、建築寄付のお礼に寄贈された。
六角形の二重屋根の建物は湖心亭。
池中には大理石の灯篭が配置され、白蓮の花が現在咲いている。
背景となっている三溪園の緑と崖が独特の雰囲気を醸し出している。
但し、老朽が激しく入園禁止になっている。
          
          
          


訪れた日:2015.06.20


見事! 関ヶ原のアジサイ

2015-06-24 13:07:12 | 散策
          
関ヶ原に咲いたアジサイの群れ、150mほどに植えられているのだが、今が見ごろとなった。
関ヶ原と云っても、歴史に残るところではなく、瀬谷区に流れる和泉川(いずみがわ)沿いの水辺の「関ヶ原の水辺」のこと。
なぜこの地名がついたかは、地元の歴史家でも分らぬようだ。
          
          
 
          
 
          
          

 
          
 
和泉川は、瀬谷区の東端にある瀬谷市民の森を源流として、瀬谷区、泉区を南下し、戸塚区で境川に合流する全長は9.42kmの二級河川である。
川沿いには緑地や屋敷林などの自然景観が多く残され、水と緑の谷戸景観をとどめている。
二ツ橋~宮沢の約2.8km区間では6つの水辺が整備されており、市民の散歩道となっている。ここ関ヶ原の水辺もそのひとつである。
また、水辺にはカワセミや冬の渡り鳥の住処にもなっていてバードウォッチングに訪れる人もいる。
「国土大臣賞」「第1回関東のいい川づくり」「手作り郷土賞」にも選ばれ、テレ朝の報道ステーションの番組でも松岡修造さんのレポートで紹介されている。

訪れた日:2015.6.22


赤坂・一ツ木通り・乃木坂をぶらり

2015-06-21 17:55:34 | 東京散策
今年もこの季節、ほんの数時間の限られた東京散歩。
スタートはいつものこの庭園から。
 
          

赤坂見附のプリンスホテルもこんな高さになった。完成は?
              

曲がる道をひとつ早めたら、一ツ木通りだった。
ムード歌謡にうかれ、今回は「赤坂・一ツ木通り・乃木坂」だ、なんて。
          
          

一ツ木通りを進むと、「地蔵尊」の提灯を掲げた山門に出会う。
予定外の寺院だが参詣する。
          
          
閻魔さまの石造が本堂前左側に構えている。
右を見ると、銅造のお地蔵さんが安置されている。
『地蔵尊は地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。
一般には、六道に合わせて「六地蔵」の名が親しまれたが、六体で一具とうい限定があるわけではない。』
と、教育委員会の解説が立っている。
このお地蔵さんは、「江戸六地蔵尊」を製作した鋳物師の1719(享保4)年の作だと。
脇に回るとお地蔵さんが奉られている。それもちょっと変わった顔つきだ。
このお寺、東京名所図絵には、「赤坂一ツ木町平河山浄土寺」と書かれている。増上寺の末寺のようだ。そして一ツ木通りは当区屈指の市街と書かれている。
      
          
               
境内を脇から広場に出ると2mはあろうかという大きなインコのオブジェが2匹。何故なのか?
赤坂サカス「憩いの広場」と名が付くようだ。
                  
広場を出て道なりに進むと、TBSの高い建物。
          

「三分坂(さんぷんざか)」を鍵の手に下っていくと、見かけたお寺に行き着く。昨年違ったルートで訪れたお寺である。
          
          
『急坂なため通る車賃を銀3分(さんぷん・100円余)増したためと云う。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もある。「さんぶ」では4分の3両になるので誤り』と解説がある。

このお寺、築地塀(ついじべい)が特徴の報土寺である。
築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀である。その中でも、塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」という。
幕府の用地取り上げにより1780(安永9)年に三分坂下の現在地に移転した。この築地塀はこのころに造られたものといわれている。塀が坂に沿って弓なりになっている。
          
 
氷川神社の脇を通り、南部坂を下って最初の目的である「久国神社」へ。
          
この辺りは、赤穂浪士関係で数年前に巡っているので、パスする。
最初の目的地、久国神社もその時に参拝したかも、と考えるが記憶にない。
この神社、住所を誤っていて少々遠回りをしたようだ。

久國神社、元は千代田村紅葉(現・皇居内)に鎮座していたという。1457(長禄3)年、太田道潅の江戸築城にあたって、溜池に遷座する。道灌が久国作の刀を寄進したところから、久国稲荷と称するようになったと云う。
1741(寛保元)年、現社地に遷座。1927(昭和2)年、社号を久国神社と改めた。港区七福神の布袋尊が祀られている。
          
          
皇居内にあったことからか、当神社発行の小冊子には皇后陛下の養蚕についての記事があった。生産性が低い「小石丸」と云う品種も育てているが、この絹糸は正倉院に収められている天平時代の織物の修復に役だっていると云うことだ。
この話は、以前TVでも放映されていたし、皇室のHPにも載っているので承知しており、小石丸の生産は中止することも検討されたが、皇后陛下の決定で継続していくとのことも紹介されている。
昨年の皇居の紅葉参観のブログにも記した記憶がある。

境内にはアジサイの花がきれいに咲いている。
          
          

氷川神社の正面を通って、檜坂にある「檜公園」に向かう。
          
ミッドタウンの裏にあたるこの公園、人工的に配置され、見事である。
                    
池を配した写真を見ているが、これほどだとは思ってはいなかった。
都会の真っただ中、ビルの谷間にあって、和風のつくりは見事と思う。
 
           
この公園について調べると、
江戸時代は毛利家の下屋敷があって、「清水園」と呼ばれる大名屋敷の中でも名園のひとつがあった。
また、周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、のちの「檜町」という地名の由来にもなっている。
明治時代になり歩兵連隊の駐屯地となった。第二次大戦後は一時期、米軍に接収され、のち、敷地の大部分を防衛庁が占有し、残りが檜町公園として整備された。
今の公園になったのは、2007(平成19)年に東京ミッドタウンが開発されたからだという。
面積は4,200坪余(およそ14,011m2)。
                  
          
          
          
                 
高層ビルはホテルのようで、有名人が滞在しているのか、望遠カメラを持ったアラフォー年代らしき女性が数人どなたかを待っている。
ミッドタウンガーデンの中を進んで外苑東通りに向かう。左手にはサントリー美術館も。
          

 
ミッドタウンの前に回り、次の神社に向かう。
                  
その神社は、建設現場に囲まれていて、分かりにくいところにあった。
神社所有のビルを建てている、都会の社寺らしい。完成は来年2月。
「六本木天祖神社」
創建は1386(至徳元)年、芝西久保、飯倉城山(ホテル・オークラの南側付近)に祀られる。別名龍土神明宮。
その後、徳川二代将軍・秀忠の時、江戸城郭改修・街区整理で現在の地へ移った。
          
          
港区七福神のひとつ、福禄寿が祀られている。
          
工事中とういことで、落ち着く暇なくミッドタウン前の外苑東通りに再び出て、西に向かう。
すぐに乃木坂上の陸橋に着く。
乃木坂陸橋を渡ると、旧乃木邸が建つ乃木公園である。
 

旧乃木邸見学と思ったが、既に見学時間は過ぎていた。閉館時間が少々早いのでは?、夏時間でお願いしたいものだ。
旧乃木邸は日露戦争や学習院院長であった乃木希典の住まいであり、乃木は明治天皇の大葬の日に夫婦で殉死した人物である。長州藩の支藩である長府藩の藩士の三男として生まれる。
          
 
          

塀の外から写真を撮り、乃木神社に向かう。
夏越の大祓いの茅の輪が、鳥居に丸ではなく四角くに取り付けられている。 
平日の午後4時を過ぎているからか参詣者は少なかった。
          
          
          
          
   
乃木神社は乃木夫妻を祀っているが、境内社に正松神社があり、同じ長州人の吉田松陰と乃木希典の師匠である玉木文之進正韞(たまきぶんのしんまさかぬ)が祀られている。
          
境内社にはこの他乃木夫妻が崇敬していた、王子稲荷神社を勧請して祀られている。
                    
参詣を終えて乃木坂にでる。
乃木坂は、港区の赤坂八丁目と九丁目の境にある。江戸時代には幽霊坂と呼ばれており、行合坂(ゆきあいざか)、膝折坂とも呼ばれており、周辺は武家屋敷町であった。
大正期に入って、赤坂区議会が議決して、この坂を乃木坂と改名した。
今やこの辺り一帯を地名にはないものの「乃木坂」と呼んでいるようだ。
 
「乃木坂」は、ロスインディオス&シルヴィアのミリオンヒットとなった「別れても好きな人」の歌詞に登場し、乃木坂の名は広まり、アイドルグループ「乃木坂46」も生まれた。

          歩きたいのよ高輪 灯がゆれるタワー
           思いがけない一夜の 恋のいたずらね
           ちょっぴり寂しい乃木坂 いつもの一ツ木通り
           ここでさよならするわね 雨の夜だから

                     
予定では、広尾まで足を延ばす行程だが、この先はまた今度。


訪れた日:2015.06.02

北條氏八王子城

2015-06-17 15:18:46 | 東京散策
2006年八王子城跡は、戦国時代末期の山城の特徴をよく残し、歴史の重要舞台となったことから、日本100名城のひとつに選ばれた。
北條氏照は、戦国時代この地に山城を築いていた。そして、八王子城は、歴史の転換期となる合戦の舞台となった。
氏照は、小田原に本拠をもつ北條氏三代の当主・氏康の三男で、 戦上手と云われ、北條氏の勢力を広げる働きをするなど、兄の氏政らと共に北條氏の中心的人物であった。
          
戦国時代の多くの武将たちは、山に城を構えて守りを固めた。
北條氏照は八王子市丹木町にあった滝山城に本拠を構えていたが、豊臣秀吉との戦に備えるため、敵が攻めにくく、少人数で守れる八王子城を築いたと云われる。
          
滝山城は関東一の規模を持った城であったが、標高170mの低い丘に築かれていた。
これに対し八王子城は標高460mの深沢山の複雑な地形を利用して築かれた。山の麓には御主殿と呼ばれる館を構え、貝のように敵の攻撃に備えてたてこもれる城を築いた。
当時、山頂の本丸からは関東平野が見渡せ、敵の軍勢の動きをいち早く知ることが出来たと思われる。そして、山には尾根や谷などの地形を利用して、砦や石積、堀などを築き、敵の兵隊の侵入を防いでいた。
          
天正18年、6月22日夜、前田利家・上杉景勝らが率いる数万の大軍が八王子城に迫っていた。
織田信長亡き後、天下を握ろうとしていた豊臣秀吉は、前田利家に小田原城籠城の見せしめとして、八王子城を全滅させるよう命じた。
この時、城主・氏照は、主要部隊を連れて小田原城にたてこもっていたので、八王子城はわずかな武将に率いられた留守部隊しか残されていなかった。
          
こうして一線の火ぶたが切られた。
豊臣勢は、圧倒的な兵力で思いを言わせて攻め込んだ。しかし、八王子城は攻めにくく、少ない兵力で予想以上の抵抗があり、攻める軍勢を悩ませ、多くの犠牲者をだした。
しかし決戦の末、1日で八王子城は落城した。御主殿は火を放たれ、逃げ場を失った者は自害した。
八王子城の落城は、もはや、抵抗は無駄と思わせるのには十分であった。ほどなく北條氏は降伏し、小田原城は秀吉に明け渡された。そして北條氏照は、兄・氏政と共に切腹が命ぜられた。こうして五代続いた小田原北條氏は滅亡した。
北條氏が治めていた関東は、徳川家康に与えられた。その後、家康は江戸を本拠として、のちに江戸幕府を開くもとを築いていくのである。
          
八王子城の戦いは、歴史の大きな転換期となった。北條氏を滅ぼした秀吉は、名実ともに天下統一を成し遂げる。
そして戦国時代と云うひとつの時代が幕を下ろした。
(八王子城跡ガイダンスより)
          
氏康が構想していた城郭は壮大で落城時、未完成であったとされる。
広大な地域を、深沢山を中心とした「要害地区」、その麓にある「居館地区」、城下町にあたる「根小屋地区」、そして外郭の防御施設群からなっている。

八王子城跡へは、休日には管理棟近くまでバスルートがある。平日は、JR高尾駅北口の1番バス停からバスに乗り、霊園前バス停で下車し、徒歩でおよそ20分。

《 根小屋地区 》
稲荷神社
稲荷神社としか分らない。
寄進者に遠く、神田区の地名があったので記録した。
 
          

宗関寺
氏照が1564(永禄7)年に再興した寺が前身とされる。梵鐘は氏照百回忌で寄進され、市指定の文化財。
 

北條氏照及び家臣墓
氏照百回忌を機にたてられた。
 
 
          

居館地区
 
                  

大手門跡
階段の上の平地が大手門が建っていた辺りで、八王子城の正面口であったと考えられる。
発掘調査時には門の礎石や敷石が見つかっている。
木橋の部分は、敵方の攻撃を阻止するために掘削された堀切。
 

大手道(古道)
御主殿に通じる道。
 

曳橋
城山川を古道から御主殿へ渡るために曳橋が架けられていた。曳橋は、戦の時には取り外せる構造になっていた。
その雰囲気を出すために橋が架かっていたが、いたみが激しいため、現在は撤去されこの先は通行止めとなっている。新しい曳橋は2016年3月に完成の予定。
 

御主殿の滝
落城時に御主殿にいた北條方の武将や婦女子らが、滝の上流で自刃して身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる。
訪れた日は、滝の流れは細かった。
 
                 滝                               慰霊の碑 

虎口
曲輪(くるわ)の出入口のことを虎口(こぐち)と云い、直進できないような工夫がされている。
曲輪の周辺を土を盛り上げた部分を土塁と云い、その土塁の内側の平地を曲輪と云う。軍事的な意図を持った平地であって
 
                                     石段を左に曲がって上がると冠木門である

冠木門
御主殿入口の門は冠木門と云う。
屋根が無く、2本の柱に腕木をのせ、扉を付けた質素な門である。
 

御主殿跡
氏照の館などがあった場所。建物の礎石や水路跡、多数の異物が残っていた。
 
            (想像図)
会所(左)と主殿(右)に囲まれたところには、池を配し、庭となっていた。
 
   

石垣
そびえる石垣は、八王子城の大きな特徴であり、見どころのひとつでもある。
「野面(のづら)積み」という手法で、城を築く際に発生した石を加工せずに積み上げている。
 

福善寺観音堂
     
       
       聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)        千手観世音菩薩         如意輪観世音菩薩

要害地区
深沢山頂の本丸までは40分ほどの道のりである。
          
 
鳥居を過ぎるとすぐに、道は新道(左手)と旧道に分れる。登りは新道を行く。
先ほどの福善寺観音堂が見える。
 

金子曲輪
金子三郎右衛門家重が守備していた曲輪で、金子丸と呼ばれていた。
尾根をひな段状に造り、敵の侵入を防ぐ工夫がなされてる。
 

棚門跡
山頂の本丸に続く道の尾根上に築かれた平坦地で、棚門跡と呼ばれている。
名前の由来など詳しいことは不明。
 
棚門跡で新道と旧道がひとつになる。
やがて展望が広がるところに出る。
          
                        八王子城跡へ歩いて来た道を眺める

小宮曲輪
狩野一庵が守っていたと云われている曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。
狩野一庵は、はじめ北條氏三代当主・氏康に馬廻りとして仕えるが、氏照の側近となり、氏照支配下の国人衆との連絡役を務めたり、八王子城の留守居役などを任されていた。
          

松木曲輪
中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)らが、この辺りを守備していたと云われる。八王子攻めでは、奮闘したが、多勢に無勢で守りきれなかった。
中山家範は馬術の使い手として名高く、また戦術にも優れた人物であった。攻め側の前田利家もその武勇を惜しみ、助命を申し入れたが戦死する。
 
          
                    向かい側の高尾山・ケーブルカー高尾山駅を眺める

八王子神社
氏照が、城の守護神とした「八王子権現」を祀った。
仏教の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)には頗梨采女(はりさいじょ)との間に8人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。
氏照がこの深沢山に城を築いた際、「八王子城」と名づけたこともここから由来すると云われる。
          
 
                            八王子神社
 
              横地社

本丸跡
城の中心で、最も重要な曲輪である。平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと考えられる。
ここは、城代・横地監物吉信(よこちけんもつよしのぶ)が守っていたと云われる。
横地吉信は、落城前に逃げ、奥多摩小河内村で自害。神として祀られたが、ダム建設により深沢山の八王子神社隣に横地社として遷座する。
 
  

小田原北條氏関係の城巡りは、これで6城目であるが、八王子城の整備、保存は嬉しい限りだ。北條氏の城はまだまだあるので、続けて巡りたい。

訪れた日:2015.05.20



赤坂日枝神社の夏越の大祓い

2015-06-15 16:46:14 | 東京散策
          
赤坂日枝神社の創建は不詳であるが、1478(文明10)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の鎮守である日枝神社を勧請したのにはじまりという。徳川家康が江戸に移封された時、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
徳川二代将軍・秀忠による江戸城改築の際、江戸城外の麹町隼町に1604(慶長9)年に遷座し、庶民が参拝できるようになった。





大祓は、6月と12月に宮中をはじめ全国神社で、一斉に行われる伝統的な神事で、日々の生活の中で、知らず識らずのうちに犯した罪や穢(けがれ)を祓い清めて、清く明るく正しい神ながらの人間生来の姿に立ち返るために「茅の輪」をくぐり、罪穢(つみけがれ)・災厄を祓い、延命長寿と無病息災を 祈る神事である。
神事は、この日14日、午後3時から行われた。



茅の輪


御幣をかつぐ猿(中央)


諫鼓鶏(かんこどり)は、諫鼓(太鼓)の上に鶏が乗った山車のこと。
「大坂夏の陣」で豊臣氏がほろび徳川氏が天下を取った。秀忠は、翌月の山王祭を前に「太平の世を祝って、諫鼓鶏の山車を末代に致るまで一番で渡せ」と上意を下し、それまでの「御幣猿」に代えて「諫鼓鶏」が先駆けとなった。
山車の巡行である神幸祭は来年6月の予定。



金幣を捧げる美少年






鳥居の上に山形が乗る一風変わった鳥居、「山王造り京風二重鳥居」、俗に「山王鳥居」或いは手を合わせたその形から「合掌鳥居」と呼ばれる。この形は、滋賀県の日吉大社を総社とする山岳信仰神社の特徴と云われる。

絵馬
絵馬の種類の多さに驚く。








日枝神社(ひえじんじゃ)は、千代田区永田町2丁目にある。日本三大祭・江戸三大祭のひとつである山王祭が今月7~17日から行われている。
徳川時代、江戸城内に入御した御神輿を、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する「天下祭」と称された祭礼である。

地下鉄の最寄り駅は、赤坂駅、赤坂見附駅、溜池山王駅、国会議事堂前駅、永田町駅である。

訪れた日:2015.06.14


丹沢ボッカ駅伝大会終わる2015

2015-06-08 16:43:11 | 丹沢大倉尾根
第29回丹沢ボッカ駅伝競争大会が6月7日(日)、好天の中109チームが参加して行われた。




大倉バス停前のスタート地点


第2区中継地点、見晴茶屋の競技役員


駒止小屋前第3区中継所


駒止小屋前のリレー風景


ニュース番組に使用するのかTVK-TVクルーがリレーの場面を撮影していた



第3中継所での成績
     クラスA(40kg)     1位 草食動物
       出場10       2位 金盃登山チーム
                   3位 MSC-B 

     クラスB1(20kg)    1位 ハムサム団A
       出場84       2位 武山自衛隊
                   3位 怪足アーバン 

     クラスB2(高校20kg) 1位 鎌倉学園A
       出場5         2位 鎌倉学園B
                   3位 鎌倉学園C

     クラスC(女子10kg)   1位 麦酒倶楽部@女子 
       出場10        2位 ひとめぼれ
                   3位 ゆるゆるドリーム


1987(昭和62)年に32チーム参加でスタートしたこの大会は、5回までは小学生5Kgの部や、12回までは中学生10Kgの部があったようだ。それに仮装して走ったチームが多かったともいわれる。
来年は30回、節目の大会である。