今年もこの季節、ほんの数時間の限られた東京散歩。
スタートはいつものこの庭園から。
赤坂見附のプリンスホテルもこんな高さになった。完成は?
曲がる道をひとつ早めたら、一ツ木通りだった。
ムード歌謡にうかれ、今回は「赤坂・一ツ木通り・乃木坂」だ、なんて。
一ツ木通りを進むと、「地蔵尊」の提灯を掲げた山門に出会う。
予定外の寺院だが参詣する。
閻魔さまの石造が本堂前左側に構えている。
右を見ると、銅造のお地蔵さんが安置されている。
『地蔵尊は地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。
一般には、六道に合わせて「六地蔵」の名が親しまれたが、六体で一具とうい限定があるわけではない。』
と、教育委員会の解説が立っている。
このお地蔵さんは、「江戸六地蔵尊」を製作した鋳物師の1719(享保4)年の作だと。
脇に回るとお地蔵さんが奉られている。それもちょっと変わった顔つきだ。
このお寺、東京名所図絵には、「赤坂一ツ木町平河山浄土寺」と書かれている。増上寺の末寺のようだ。そして一ツ木通りは当区屈指の市街と書かれている。
境内を脇から広場に出ると2mはあろうかという大きなインコのオブジェが2匹。何故なのか?
赤坂サカス「憩いの広場」と名が付くようだ。
広場を出て道なりに進むと、TBSの高い建物。
「三分坂(さんぷんざか)」を鍵の手に下っていくと、見かけたお寺に行き着く。昨年違ったルートで訪れたお寺である。
『急坂なため通る車賃を銀3分(さんぷん・100円余)増したためと云う。坂下の渡し賃1分に対していったとの説もある。「さんぶ」では4分の3両になるので誤り』と解説がある。
このお寺、築地塀(ついじべい)が特徴の報土寺である。
築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀である。その中でも、塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」という。
幕府の用地取り上げにより1780(安永9)年に三分坂下の現在地に移転した。この築地塀はこのころに造られたものといわれている。塀が坂に沿って弓なりになっている。
氷川神社の脇を通り、南部坂を下って最初の目的である「久国神社」へ。
この辺りは、赤穂浪士関係で数年前に巡っているので、パスする。
最初の目的地、久国神社もその時に参拝したかも、と考えるが記憶にない。
この神社、住所を誤っていて少々遠回りをしたようだ。
久國神社、元は千代田村紅葉(現・皇居内)に鎮座していたという。1457(長禄3)年、太田道潅の江戸築城にあたって、溜池に遷座する。道灌が久国作の刀を寄進したところから、久国稲荷と称するようになったと云う。
1741(寛保元)年、現社地に遷座。1927(昭和2)年、社号を久国神社と改めた。港区七福神の布袋尊が祀られている。
皇居内にあったことからか、当神社発行の小冊子には皇后陛下の養蚕についての記事があった。生産性が低い「小石丸」と云う品種も育てているが、この絹糸は正倉院に収められている天平時代の織物の修復に役だっていると云うことだ。
この話は、以前TVでも放映されていたし、皇室のHPにも載っているので承知しており、小石丸の生産は中止することも検討されたが、皇后陛下の決定で継続していくとのことも紹介されている。
昨年の皇居の紅葉参観のブログにも記した記憶がある。
境内にはアジサイの花がきれいに咲いている。
氷川神社の正面を通って、檜坂にある「檜公園」に向かう。
ミッドタウンの裏にあたるこの公園、人工的に配置され、見事である。
池を配した写真を見ているが、これほどだとは思ってはいなかった。
都会の真っただ中、ビルの谷間にあって、和風のつくりは見事と思う。
この公園について調べると、
江戸時代は毛利家の下屋敷があって、「清水園」と呼ばれる大名屋敷の中でも名園のひとつがあった。
また、周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、のちの「檜町」という地名の由来にもなっている。
明治時代になり歩兵連隊の駐屯地となった。第二次大戦後は一時期、米軍に接収され、のち、敷地の大部分を防衛庁が占有し、残りが檜町公園として整備された。
今の公園になったのは、2007(平成19)年に東京ミッドタウンが開発されたからだという。
面積は4,200坪余(およそ14,011m
2)。
高層ビルはホテルのようで、有名人が滞在しているのか、望遠カメラを持ったアラフォー年代らしき女性が数人どなたかを待っている。
ミッドタウンガーデンの中を進んで外苑東通りに向かう。左手にはサントリー美術館も。
ミッドタウンの前に回り、次の神社に向かう。
その神社は、建設現場に囲まれていて、分かりにくいところにあった。
神社所有のビルを建てている、都会の社寺らしい。完成は来年2月。
「六本木天祖神社」
創建は1386(至徳元)年、芝西久保、飯倉城山(ホテル・オークラの南側付近)に祀られる。別名龍土神明宮。
その後、徳川二代将軍・秀忠の時、江戸城郭改修・街区整理で現在の地へ移った。
港区七福神のひとつ、福禄寿が祀られている。
工事中とういことで、落ち着く暇なくミッドタウン前の外苑東通りに再び出て、西に向かう。
すぐに乃木坂上の陸橋に着く。
乃木坂陸橋を渡ると、旧乃木邸が建つ乃木公園である。
旧乃木邸見学と思ったが、既に見学時間は過ぎていた。閉館時間が少々早いのでは?、夏時間でお願いしたいものだ。
旧乃木邸は日露戦争や学習院院長であった乃木希典の住まいであり、乃木は明治天皇の大葬の日に夫婦で殉死した人物である。長州藩の支藩である長府藩の藩士の三男として生まれる。
塀の外から写真を撮り、乃木神社に向かう。
夏越の大祓いの茅の輪が、鳥居に丸ではなく四角くに取り付けられている。
平日の午後4時を過ぎているからか参詣者は少なかった。
乃木神社は乃木夫妻を祀っているが、境内社に正松神社があり、同じ長州人の吉田松陰と乃木希典の師匠である玉木文之進正韞(たまきぶんのしんまさかぬ)が祀られている。
境内社にはこの他乃木夫妻が崇敬していた、王子稲荷神社を勧請して祀られている。
参詣を終えて乃木坂にでる。
乃木坂は、港区の赤坂八丁目と九丁目の境にある。江戸時代には幽霊坂と呼ばれており、行合坂(ゆきあいざか)、膝折坂とも呼ばれており、周辺は武家屋敷町であった。
大正期に入って、赤坂区議会が議決して、この坂を乃木坂と改名した。
今やこの辺り一帯を地名にはないものの「乃木坂」と呼んでいるようだ。
「乃木坂」は、ロスインディオス&シルヴィアのミリオンヒットとなった「別れても好きな人」の歌詞に登場し、乃木坂の名は広まり、アイドルグループ「乃木坂46」も生まれた。
♪歩きたいのよ高輪 灯がゆれるタワー
思いがけない一夜の 恋のいたずらね
ちょっぴり寂しい乃木坂 いつもの一ツ木通り
ここでさよならするわね 雨の夜だから
♪
予定では、広尾まで足を延ばす行程だが、この先はまた今度。
訪れた日:2015.06.02