あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

和服美人のお札まき 戸塚八坂神社

2014-07-15 17:53:38 | 神奈川民俗芸能
「和服美人がお札をまいて歩くお祭り」という祭りの紹介があったので、これをタイトルに使わせてもらった。
 
『江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていたが、やがて消滅し、現在では東海道・戸塚宿だけで伝え残されている、八坂神社の夏まつりに行われる踊りである。
男子十数人が姉さんかぶりにたすき掛けの女装をして、すそをからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取りひとりは、ボテカヅラをかぶって踊る。
音頭取りの風流歌に合わせ踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊る。
踊り終わるとボテカヅラの踊り手が左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らす。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼る。
神社境内で踊り終ると、町内各所で踊り神社に戻る。』と神社の案内に書かれている。
 

          
「さあ来い子供 天王様は 泣く子が嫌い 囃すのが大好きで・・・授かったものは 病を除ける コロリも逃げる」などと囃す。
天王様とは牛頭天王のこと。コロリはコレラのことで、祭りは疫病除けや御霊会(ごりょうえ)であり、祇園祭ということのようだ。
 
「そろそろまこか」 と歌ってみせて、「まだまだまかぬ」とフェイントして風流歌ははじめに戻る。
その後「そろそろまこか」で、ボテカヅラの音頭取りは、お札を持った左手を高々と上げ、渋うちわで撒きはじめる。
それにつれて、まわりの踊り手も渋うちわであおぐ。お札はあおられて舞い上がる。
          
境内でのお札まきは10分ほどで終わり、町内を回る。

          
神社前の道は、旧東海道。道筋で境内と同様に風流歌を歌いながらお札が撒かれる。
お札は20カ所で600枚が撒かれると女装の踊り手が話してくれた。
          

 

                     

 
幼稚園生くらいの女の子が、手にしたお札をみせてくれた。その後、ラッキーにも1/600のお札をゲットした。
宙に舞うほどなので、100×16サイズの思いのほか小さなお札であった。

 
お札はお賽銭を出せば争わなくとも頂ける。踊りが始まる1時間前から列をつくって頂いている。
          

 
近くの空き地で本番前に練習をしていた。音頭取りはボテカヅラ、つまりは紙で作った張り子のかつらというのだが、どうみても一般的な普通の高島田のかつらのようだが。
   
ボテカヅラの音頭取りの方は、旧東海道でこんな仕事をしている方のようだ。この店の前でもお札まきが行われた。作業場の奥に飾られていた切絵を撮らさせていただいた。
 

八坂神社のお札まきは、横浜市指定無形民俗文化財で、毎年7月14日に行われている。
女装した男たちのお札まきのお祭が現代まで続いていることは、もしかすると始まった当初は女性が踊っていて、阿国歌舞伎のように色気がありすぎて禁止され、男たちが踊ることで面々と歴史を重ねることが出来たのだろうかと勝手に想像する。

屋台がバスセンター近くから神社まで延々と続いていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スズメの餌づけ

2014-07-09 10:29:07 | 生きもの












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七夕灯篭祭り 2014

2014-07-07 17:49:58 | 長屋門公園
七夕灯篭祭り~東日本大地震被災地復興を祈って~

 




 

 



 

 

 

 
  

 

 

 

 


  

東日本大地震被災地復興を祈念した催しとしては、4回目となった七夕灯篭祭りが行われた。
年々燈籠の数は増えて、今年は830基が、相鉄線・三ツ境駅前の商店街から長屋門公園までの「長屋門プロムナード」と第二向原公園に飾られた。
この灯篭、岩手県釜石市に寄贈され、祭などに活用しているという。
復興のスピードが遅いと聞くが、政府・所轄官庁はもっと本腰をいれてもらいたいと念願する。

                       関連 : 七夕灯篭祭り 2013
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷根千に ふたたび

2014-07-06 15:07:47 | 東京散策
『谷根千に ふたたび』と、谷中七福神巡りを兼ねて田端駅から歩き始めた。

    
田端は文人の街、「りゅうのすけくん商店街」と垂れ幕が下がっている。この道は東覚寺坂、寺に向かう坂道である。
『明治から昭和初期にかけて芥川龍之介ら多くの文人や芸術家が暮らした街「田端」に出没します。坂が多く、閑静な住宅街が広がるこの街は、昭和の雰囲気の商店街をはじめ、懐かしい風景が数多く残されています。文化人たちの足跡をたどれば、独特の空気に魅了されることでしょう。』とTV東京「アド街ック天国」で以前紹介されている。

田端村の鎮守・田端八幡神社に参り、本日の道中安全を祈願する。
田端八幡神社
 
神社は、源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋の帰途、鶴岡八幡宮を勧請した。
 
境内社の冨士浅間社(右)では、毎年2月に「冨士工の初拝み」の神事が行われている。          

谷中七福神の福禄寿・東覚寺、恵比寿・青雲寺、布袋尊・修性院を巡る。その道筋のは、開成中学校、開成高校の建物を見かけた。
富士見坂
この坂下にかつて花見寺と呼ばれていた妙隆寺があったことで、「花見坂」「妙隆寺坂」と呼ばれていた。現代で都心で数少ない富士山が眺められる坂ということで「富士見坂」とも呼ばれている。
 
                                            上部中央に富士山が
しかし、2013年11月、賃貸マンションが建設され富士山が消えてしまった。荒川区は「眺望の予約」と将来を見据えた街づくりを考えており、近い将来、ふたたび富士山が眺められるかも知れぬ。

富士見坂を上がって左に進むと諏方神社(諏訪社)となる。
諏方神社
 
木々がうっそうと生い茂り都会とは思えない雰囲気である。しかし、崖下がJR西日暮里駅で、電車の音や発車メロディー(ベル)が聞こえることが残念である。
境内に茅輪(ちのわ)が設けられていた。これは、6月末と12月末に行われる「大祓」神事である。
6月を夏越の祓(なごしのはらい)といい、夏に流行しがちな病気を予防し、年の後半を健康で過ごすようにとされる。また、12月を年越の祓と呼んでいる。
菅(すが)や薄(すすき)などで出来た茅輪を「水無月の 夏越の祓 する人は 千歳の命 延ぶといふなり」と唱えながら、8の字に3回ずつくぐる。
        
源為朝の人形で、祭の山車にとりつけて巡行していた。明治の終わりころまでは、牛と子供連中に曳かせていたという。

江戸六地蔵のひとつが安置されている淨光寺が諏方神社の隣にある。
淨光寺
     
銅製の地蔵尊は、江戸東部6カ所に空無上人によって1691(元禄4)年に開眼された。高さ3m。
淨光寺は、眺望に優れた諏訪台上にあり、雪景色が素晴らしいことから、「雪見寺」とも呼ばれている。
 
しばらく諏訪台通りを南下する。

養福寺仁王門

朱色の仁王門は、宝永年間(1704~711)の建立と伝えられる。
江戸時代、多くの文人たちが日暮らし里を訪れており、養福寺にもその足跡が残され、俳諧の中心を占めた談林派の句碑がたてられている。談林派が衰えた後、芭蕉の蕉風が盛んになる。
    
                               トケイソウ

諏訪台通りが御殿坂にぶつかった角に経王寺がある。
経王寺
 
本堂右の大黒天堂には日蓮上人作と伝えられる、大黒天が祀られている。
1868(慶応4)年の上野戦争の時に敗走してきた彰義隊をかくまい、新政府の攻撃を受け、その銃弾の跡が山門にあるとか・・・。

経王寺前を西に進むと谷中ぎんざやよみせ通りに進む。
夕やけだんだん
    

よみせ通りの延命地蔵
     

       
                  地蔵の絵は谷中になじみがある俳優・中尾彬さんの作

夕やけだんだんの脇の坂を上がって経王寺前の道に戻る。
七面坂
       
坂上北側の延命院七面堂に因んで坂名がつけられている。

初音小路
       

毘沙門天・天王寺、谷中霊園をへて観音寺に出る。
観音寺・築地塀
 
寺の南面をおよそ40m、江戸時代に築造された土塀・築地塀(ついじべい)である。土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいた珍しいもの。「台東区まちかど賞」を受賞している。
向かい側の寺も築地塀に合わせたような新しい塀が続いている。

旧蒲生家                         
 

通称小町通りを寿老人・長安寺をへて都道452号まで南下。
 

 

谷中小のレトロな時計塔
    

谷中小の時計塔から2つ先の交差点を左に折れる。ここがへび道。
へび道
 
へび道は藍染川が暗渠(地下の水路)になった場所で、くねくねしているから名付けられた。
藍染川の名の由来は、川筋に染物屋が多くあって、川が染まったことからだという。川はしばしば反乱したので1921(大正10)年から暗渠の工事がすすめられていた。藍染川は不忍池に流れていた。

根津神社
 

乙女稲荷神社
 

玉林寺
      
元横綱千代の富士関(九重親方)の両親、義父そして娘さんがここに眠っている縁で像が建てられているという。

井戸ポンプ
 
井戸ポンプの脇の階段を上がり、ヒマラヤスギ・みかどパン店に向かう。道筋の家に今が盛りとアジサイが咲いていた。
ヒマラヤ杉
 
樹齢90年、高さ20mの大木・ヒマラヤ杉が、開発によって存続の危機が持ち上がっているとひと月半ほど前の新聞に報道された。
ここはテレビや映画の撮影にもよく使われている場所で、平日でも大勢の観光客が訪れるという。今回も外国人の観光客を数組見かけている。
昨年秋に1910(明治43)年に建てたのこぎり屋根工場が消えたといい、たくさんの古い建物が谷中から消えているという。
この一画は江戸時代には三宝地店(さんぽうちだな)と呼ばれていた歴史ある地域だとのこと。
谷中のシンボル的な存在であるヒマラヤ杉は、いつまでも残ってもらいたい。

ヒマラヤ杉から東に進む道を進む。
自性院愛染堂
 
自性院は神田で創建され、1648(慶安元)年に当地に移転した古寺である。当院の愛染明王像は古くから有名で、江戸中期ごろには、別名愛染寺と呼ばれるようにもなった。
愛染明王は縁結びと家庭円満の対象として信仰されている。昭和はじめの文豪・川口松太郎の「愛染かつら」は当院の愛染明王と本堂前にあった桂の木にヒントを得た作品といわれる。

岡埜栄泉                         カヤバ珈琲店
 

上野桜木交差点に至る。
旧吉田屋・下町風俗資料館展示場
 
谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた1910(明治43)年に建てられた酒店「吉田屋」を移築しいずれも建築様式は、江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を示しているという。  
屋内には、秤・漏斗(じょうご)・枡・樽・徳利・宣伝用ポスターや看板など酒類の販売に用いる道具や商いに関する資料が展示されている。

上野桜木交差点から大黒天・護国院を経て不忍池に向かう。
都電
 
           池之端児童公園の都電                         旧池之端変電所

不忍池
 
弁財天・不忍池弁天堂で今回の「谷中七福神巡り」を兼ねた谷根千散策は終了。

6月29日はちい散歩の故地井武雄さんの三回忌に当たることで、遺作となった「大崎郁三の事件散歩」の舞台の谷根千を歩き、偲んだ。

                    関連 : 谷中七福神をめぐる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中七福神をめぐる

2014-07-04 13:15:18 | 東京散策
          
七福神参りとしては時季外れだが、谷根千散歩を兼ねて巡った。
谷中七福神と称されているが、JRの駅でいうと、田端、西日暮里、日暮里、上野と距離的に離れている。
また、行政区でも、台東区・荒川区・北区と3区にまたがり広い地域に祀られている。谷中七福神は、およそ250年前、江戸時代中期である宝暦年間(1751~1764年)に始まったといわれる江戸最古の歴史ある七福神。
今の組み合わせが、江戸時代から固定されていたわけではなく、大黒天、恵比寿は神田明神、清水観音堂、大黒天は経王寺、毘沙門天は谷中本通寺、弁財天は北町の養泉寺とするもあった。そして、この地域の数多な寺院の中で、何故に現在の七ヶ寺なったのか知りたいのだ。しかも寺院だけでの七福神を形成していることも珍しいし、いかにも寺町らしい。

 
七福神参りは北から南下のルートをたどり、JR田端駅をスタートする。   

 東覚寺 【福禄寿】
真言宗豊山派。本尊は不動明王像です。北区史によれば源雅和尚が不動明王を勧請して本尊とし、神田筋違に一寺を建立、後に根岸に移転、更に慶長の初めごろ田端に移転した。また、この寺は「新編武蔵風土記稿」によると、寺領7石の朱印を受けていたという。
山門前の全身に赤紙が貼られている、石造金剛力士立像は、1641(寛永18)年、宗海という僧侶が願主となって江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立されたと伝えられる。江戸時代の末期までは、田端村の鎮守である八幡神社の社前にあったが、明治維新の神仏分離を契機に、別当寺であった東覚寺の境内に移され、以後、都内に現存する比較的古い時代の石造の仁王像としても広く知られている。
通称赤紙仁王とも呼ばれている金剛力士立像は、身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、今なお、祈願する人が絶えない。横の草鞋(わらじ)は、祈願して病気の回復したとする人々によって供えられたもの。
 
             東覚寺山門                          護摩堂前に赤紙仁王の阿像(右)と吽像(左)






 


 青雲寺 【恵比寿】
臨済宗妙心寺派寺院の青雲寺は、老中・堀田相模守正亮(まさすけ)が宝暦年間(1751-64)に中興したといい、正亮の法号である青雲院殿をとって浄居山青雲寺と称する。もともとは、佐倉藩堀田家代々の祈願寺だった。
江戸中頃より、この地は「ひぐらしの里」と呼ばれ、四季折々に様々な花が咲き、花見寺として庶民に親しまれてきた。境内には「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴の筆塚碑(1809(文化6)年)などの碑がある。
「ひぐらしの里」はつまりは、現代の町名「日暮里」である。
 
山門の右手に「花見寺」の石標が                   本堂の左手に馬琴の筆塚が右手に硯塚がある


筆塚の碑                           硯塚の碑
 

  修性院 【布袋尊】
修性院(しゅしょういん)は、1573(天正元)年、豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建、1663(寛文3)年、当地に移転したと伝えられる。境内に仮山を造り多数の花樹を植えた景勝地として、先ほどの青雲寺や妙隆寺(世田谷に移転し身延山関東別院玉川寺と改称)とともに「花見寺」と称されていた。山号も花見寺と称す。
浮世絵師・歌川広重の「名所江戸百景」日暮里寺院の林泉は、ここの境内の春景色が描かれている。
                     

 
寺の塀には、四季の「ひぐらしの布袋」が描かれている。



 天王寺 【毘沙門天】
日蓮上人がこの地に泊まった折、自分の像を刻んだ。その像を奉安し、草庵を結んだことが、天王寺草創の起源であると伝承される。それは、室町時代・応永(1294-1427)頃という。
江戸時代、目黒不動滝泉寺、湯島天満宮の富くじとともに、ここで”富くじ”興行が開催され、江戸三富と呼ばれた。
 
                                             毘沙門堂

1699(元禄12)年、幕府の命令で、天台宗に改宗した。その後1833(天保4)年、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとして知られていた。関東で一番高いとうであっって、関東大震災や戦火で被害が免れたが、1957(昭和32)年、放火心中事件で焼失した。
 
                              五重塔跡


 長安寺 【寿老人】
もともとは、安藤右京亮屋敷内に長安軒として創建、1712(正徳2)年、大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したという。
安藤右京亮(うきょうのすけ)とは、寺社奉行などを務め、1719(享保4)年には老中に就任。将軍徳川吉宗のもとでいわゆる享保の改革を推進した人物と思われる。
 
長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。板碑(いたび)とは、死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に供えて供養を行うために建立した、塔婆の一種。関東地方では秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。


 護国院 【寿老人】
護国院は寛永寺の子院で、寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創。その後数回、寺地を西方へ移転し、1709(宝永6)年、当地へ移転したという。
大黒天画像は、徳川三代将軍家光から贈られたと伝えられる。
 


 東慶寺・不忍池弁天堂 【弁財天】
不忍池にあるのは弁天堂は、1625(寛永2)年、江戸の鬼門を護るため、京の比叡山延暦寺に倣って寛永寺を創建した天海が、不忍池を琵琶湖に見立てて池の中に竹生島をなぞらえた小島を築かせ、竹生島宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を建てた。
当初は離れ小島で船を使って行き来していたようで、のちに石橋が架けられ、庶民の行楽の場となった。
弁天堂の本尊は、八臂大弁財天。
 


七福神だけを巡るのであれば、5.5km、およそ2時間のコースだという。
正月元旦から10日までの期間は、七福神がご開帳されているそうだ。
          


         七福神関連 : 日本橋七福神を巡る
                    鎌倉七福神巡り
                    東海七福神
                    川崎桜本 九福神
                    瀬谷八福神巡り

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする