あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

おどろおどろしい夏の京都へ

2016-09-26 14:11:14 | 観光

京都の夏といえば鴨川にかかる「納涼床」や貴船川の「川床」と言うのだが、おどろおどろしい怪奇な京都を夏にツアーする紹介もあり、TVでも取り上げている。
それは、江戸で云えば怪談ツアーだが、京都では代わりに陰陽道ツアーであり、一般的に名の知れ渡った安倍清明を中心としたツアーである。
と、云うことで、我々も今回の京都はこれまでと違ったコースを周った。


長仙院
六角通を西に入った繁華街に建つ長仙院へ予約をして拝観に伺う。対応された年配のご住職から木像の説明を伺う。
ここは安倍晴明((あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、921~1005年9月26日・偶然にも今日が命日)の木像が安置される寺。本堂の片隅に3体の木像が置かれている。廃仏毀釈に伴い、1877(明治10)年、本尊の阿弥陀如来像など5体と共に、清円寺から譲り受けられたものと言う。 清円寺は、松原通大和大路西入ルの場所のあって、境内にかつて、晴明を祀る社があったという 。



安倍晴明像


3体の木像は、前面左手が束帯姿の座像の晴明。右手の僧形像は蝉丸と住職が説明された。我々が知る蝉丸像は、百人一首に描かれているこんな姿である()。
                   

晴明神社
          
強力なパワースポット。平安中期の天文学者安倍晴明を奉る。当時の天文暦学から独自の陰陽道を確立。朝廷の祭政に貢献した。1007年一条天皇がその功績をしのび創祀した。ここは、晴明の屋敷跡でもある。

晴明像
晴明様が夜空の星をみて遠く天体を観測し、手を衣装の下で印を結ばれている様子をあらわしております。
陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職にあった
           

晴明の家紋
家紋は、桔梗の花を図案化した桔梗紋の変形で、「晴明桔梗(せいめいききょう)」と言い、五芒星とも言う。
            
五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克(そうこく=相いれないふたつのものが、互いに勝とうとして争うこと)を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。
              
大日本帝国陸軍の軍帽には五芒星が刺繍されていた。桜花の萼(がく)の形を模しているとも、弾除け(多魔除け)の意味をかついで採用されていたとも言われている。
            
晴明井
五芒星(晴明紋)が描かれた「晴明井」と称せられる井戸がある。
安倍晴明が霊力によって湧き出させたと伝えられ、この地が晴明邸であった時代には、洛中名水のひとつとされる。湧く水は「晴明水」と呼ばれ無病息災にご利益がある。
また、神社地付近は千利休が聚楽屋敷を有し、この水を茶の湯に用い、豊臣秀吉もその茶を服したと言う。 
            
厄除桃
古来、陰陽道では、桃は魔除、厄除けの果物といわれているという。 自身の厄をこの桃に撫で付けて厄を除く。
「桃」と云う字は、「木」に「兆」と書くこともあり、陰陽道では、厄除け、魔よけの果物とされている。
                   
境内末社・斎(いつき)稲荷社
1872(明治3)年に発布された「陰陽道禁止令」により陰陽道は社会的に抹殺されてしまう。
更に明治期の廃仏毀釈で廃社間近にまで追い込まれたという。
長仙院で頂いた資料によると、
『晴明神社は昔は晴明御霊と呼ばれた。晴明御霊神はあまねく貴賎の崇拝を受けたが、明治維新の際、廃仏毀釈でひどい目にあった。(中略)晴明神社は村社にも入れてもらえず廃社となる運命であったが、近くの紫野斎院(810~1212)の「斎宮」を主神とする神社をつくり、その社を前面に出すことで生き延びた。晴明神社はその傍らに、「稲荷神社」としてやっと残すことが出来た。その名残が摂社・斎稲荷である。(梅原猛著作)』(㊟清明の母は信田の森に住む狐とされている)
          
復元の一条戻橋
19995(平成7)年に一条戻橋を架け替えした際、使用されていた欄干の親柱を利用して、境内に縮小した戻り橋を復元した。
                     

一条戻橋・死者が蘇る橋
794年平安遷都と共に一条通の堀川に架けられた橋。
918年、修験道を極めた浄蔵貴所が父の臨終に間に合わず、この橋で葬列に出会う。父に一目合いたいと一心で祈ると法力が届き、父は一時的にこの世に戻ることを許された。それ以来、「土御門橋」から「戻橋」と呼ばれるようになった。
 
安倍晴明の式神は十二体の人形(ひとがた)で、あまりに醜く恐ろしい顔をしていて、晴明の妻は怯えていた。 そこで、晴明は十二体の人形を普段は、一条戻橋に置いた石櫃に閉じこめておき、必要なときだけ橋に向かって手を打ち呼び寄せたという。
また、式神を使って門扉を開閉させたり、お茶を運ばせたりしていた。また、ミカン16個をネズミ16匹に変えてしまった等の伝聞がある。

晴明神社の式神像

一条戻橋にはその他、幾つかの伝承がある。
同じく平安時代中期では、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所。
安土桃山時代には豊臣秀吉により千利休がさらし首されり、キリスト教禁教令のもと、日本二十六聖人が、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地・長崎へと向かわされた。
また、嫁入り前の女性は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋を渡りに来ることもあった。

一条戻橋の下を流れる堀川(橋の上流を写す)

安倍晴明公嵯峨墓所
平安時代1005年9月26日安倍晴明は85歳で亡くなり、嵯峨の地に葬られたという。ただ、実際には室町時代に数多く造られた「晴明塚」のひとつとみられている。
墓所は天龍寺が所管し、塔頭・寿寧院の境内にあった。その後荒廃したため、現在は晴明神社の飛び地境内のこの地に移転した。
 

六道珍皇寺
地元では「六道さん」で知られる、臨済宗建仁寺派。京都の盆はこの寺の迎えの鐘で開かれると言う。昔、この寺が鳥辺野の入口にあったことから、ここが、現世と冥界の接点、つまり「六道の辻」と考えられ、今昔物語にも出てくるが、当寺の梵鐘の迎え鐘によって精霊がこの世によみがえってくると信じられた。
本堂裏には、小野篁(おののたかむら・802年〜852年)が冥土へ通った「黄泉がえりの井戸」という伝説の井戸がある。
篁は昼間は朝廷に勤め、夜は冥界で閻魔大王の副官をし、夜ごとこの井戸を利用して地獄に通い、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
篁が冥土へ通い始めたのは、亡くなった母に会うためといわれる。
また、こんな逸話もある。
篁が参議となったある時、上司が重病となり他界し閻魔の前で裁かれる際、助けて欲しいと閻魔に掛け合い上司は蘇生した。
このことによって、篁が地獄の冥官であるという話が世間に広まり、篁を恐れたという。
篁は、遣隋使で知られる小野妹子(飛鳥時代)の子孫であり、孫に書家の小野道風がいる。また、美人の代名詞である小野小町も篁の孫という説もある。
また、身長六尺二寸(約188㎝)の巨漢でもあった。





綱を引いて鐘を撞く なんとも云えぬ響きが聞こえる
          《精霊迎え》
            綱の先には 冥土
            その綱を引けば鐘の音が響く
            遥か彼方のあの世まで届くと言われている
            京のお盆 人々はこの世に先祖の霊を
            迎えるため 「迎え鐘」を撞く



衆病悉除(しゅびょうしつじょ・心身安楽 病気が治るよう薬師如来に祈る)


閻魔堂に閻魔大王像と小野篁像が合祀


冥界への入口・篁が通った入口の井戸

篁は歌人としても知られており、百人一首に参議篁の名で選ばれている。
                 

嵯峨薬師寺
平安初期の818年、世に蔓延する悪病を憂慮した嵯峨天皇が、弘法大師に薬師如来像の彫刻を命じた。この像が本尊の薬師如来坐像である。大覚寺に属していたが、明治以降清凉寺の塔頭となっている。寺宝に嵯峨天皇像、阿弥陀三尊僧などと付近にあった福生寺の遺仏と伝えられる地蔵菩薩像や小野篁像を安置している。
「生六道」」と称された福生寺(明治期に廃寺)は、小野篁が冥土から帰り着いたところと伝えられ、冥土の出口という7基の井戸が発掘された(現在はない)。
境内には「生の六道 小野篁公遺跡」の碑が建つ。
珍皇寺の井戸は冥土の入口なので、「死の六道」、これに対して薬師寺は冥土の出口、つまりはこの世に戻ることを指し、生まれると考え「生の六道」と言われる。
                  

送り地蔵盆
生六道のまつり、地蔵盆が毎年8月24日に行われる。生御膳と呼ばれるお供えを供える。
            

          
本堂内の地蔵尊の前には、かぼちゃの舟に湯葉の帆が供えられている。
京都では16日に行われる「五山の送り火」によって精霊を送るのだが、その送り火で冥土に戻れない精霊、京都では「お精霊(しょらい)さん」を経木(水塔婆)の送り火で送るのが薬師寺の「地蔵盆」である。この火が京都最後の送り火となる。
この送り火は檀家に限らず一般の方も参加できる。残念ながら今回は時間の都合で送り火までは立ち会えなかった。
2年ぶりの送り地蔵盆の薬師寺である。あの日は、ここについて大雨に会い、その後の予定を中止して雨宿りをしたのだが、今回もいみじくも、薬師寺を向かう道で雨に見舞われた。濡れるほどではなかったが、嵯峨を歩いている時間帯は降り続いていた。ここは雨に縁があるようだ。

地蔵盆
嵯峨薬師寺の地蔵盆での法要に合わせて、京の町では町内の地蔵尊を囲み子供達の祭りが開かれる。私の姪が京都人と結婚しているが、その彼も地蔵盆のことを話すと懐かしがっていた。
今回、たまたま縁あって薬師寺から地下鉄の駅まで送って頂いた方との車内の会話にも地蔵盆の話題が出た。
40代の物静かに話されるライターを職業にする方で、NHKの番組も手掛けている。関東人の私が地蔵盆に興味を持っていることに驚いていた。何せ2年前にはある自治会の地蔵盆に密着取材させてもらった程であったから。
そして、私に地蔵盆に代わる行事が関東にあるのかと尋ねられた。
地蔵盆が子供のまつりと言う所だけをとってみると、地蔵盆の代わりは私にとっては「初午」であった。
それは、子供の頃の地域的な風習だったのかも知れぬが、初午前日に近くの屋敷稲荷の祠の前にトタン板で小屋が建てられ、中央にいろりが設けられる。夕刻になると三々五々子供たちが集まり、料理や赤飯、握り飯、お菓子などが持寄せられる。親たちは稲荷無尽講で席が設けられる。夜になると子供達は太鼓をたたきながら祭りの寄付やお菓子を募り近所を周る。その日、子供たちの一番の喜びは、曜日によるが一晩中起きてても良いことだった。小屋の中は炭火で汗がでるほどの暖かさであった。
これが地蔵盆に代わる私の子供時代の行事であった。
車内の会話に戻すが、「ふごおろし」という2階からくじ引きの景品を駕籠で下ろす風習が、現在京都では全く見られなくなってしまったことを嘆いておられ、「京都の地蔵盆」について掘り下げてみたいことも話された。
      
 ふごおろし(京都新聞):今は2階のベランダからだが昔は1階は出格子が虫籠窓(むしこまど)のある京町屋の2階から下ろしたのだろう

そして京都人についても祇園祭の宵山には行くのだが、山鉾巡行を見たことがない人が半数いるほどいt、京都人は京都に興味を持たなくなったとも話している。
京都の小中学校の遠足(社会見学)は寺巡りばかりだとのことだ。この教育が京都人を京都嫌いにしてしまったのかも知れない。私も修学旅行で訪れた時は、「またお寺かよ。」と思った(意見には個人差があるが・・・)。一方では観光客が増加していることも話された。
それは、承知する。清水寺では、日本人と同じ顔をしてるのに飛び交う言葉は訳もわからない。金閣や銀閣では白色系外国人が目立っていた。つまりは、観光客増加は外国人が支えているのである。
世界遺産・京都、「日本人の心」を味わって頂きたい。

訪れた日:2016.8.23,24


横浜港見学クルージング

2016-09-10 03:22:43 | その他


地元のコミスクで、横浜港見学の募集があったので、参加した。
横浜港見学は横浜港振興協会が青少年への海洋、海事思想の普及と、市民の港湾への理解を深めることを目的に市内の小学生と市民を対象に募集・開催している。
今回の見学はマリンシャトルに乗船して横浜港内を、そしてマイクロバスに乗車して港の施設を見学する2コースセットである。

横浜港は1859年、ペリーの来航によって開港したひとつで、249の岸壁と10のふ頭施設から形成している。
先ずは、マリンシャトルクルージングである。

13時30分、山下公園の岸壁を離れ、一時間のクルージングが始まった。一路横浜航路を進む。
正面に、全長860メートル、海面からの高さ55メートル、工費800億円の横浜ベイブリッジが現れる。クインエリザベス号の53メートルを上回る高さに決めたが、現在では60メートルを超える船も現れ、ベイブリッジをくぐれぬ船も出てきている。右手は山下ふ頭。
船は横浜ベイブリッジをくぐり、直進する。
右手は、本牧ふ頭。別名赤いキリンと言われるガントリークレーンが立ち並ぶ。その先には横浜港のシンボルタワーが白い姿を現している。



左手はこの後バスで訪れる大黒埠頭である。白とブルーの動く駐車場・パナマ船籍の自動車専用船が停泊している。乗用車3,000台が積めるという。

大黒ふ頭の沖合に進む。右手彼方が浦賀水道、正面が房総半島である。部分的に雨に煙っている。
開けた海原に船が数隻停泊している。ここは、検疫錨地(びょうち・停泊場)で、伝染病の有無(検疫所)、密輸品(税関)、密入国者(入国管理局)の調査、検査を受けた後、入港する。

ここから左に旋回し、鶴見航路を進む。
右手は川崎市の扇島。日本鋼管と川崎製鉄の統合会社である、JFE(東日本製鉄所)の建物が建ち並ぶ。
横浜ベイブリッジと並び、横浜を代表する橋の鶴見つばさ橋の下を通る。 全長1,020メートル。一面吊りの斜張橋としては世界最大規模で、大黒ふ頭と扇島を結んでいる。

高さ200メートルの ツインタワーが右手に見える。東京電力横浜火力発電所である。ここでは、横浜市民が一日に消費する電力が生産出来ると言われている。

その先には、「横浜さとうのふるさと」と書かれた建物が見える。太平洋製糖である。江戸時代、砂糖が初めてつくられたのも、白い砂糖を初めて輸入したのも横浜であると言うことで、砂糖のふるさとと言うそうだ。

赤灯台が見える。本来は ツインで、白灯台があったのだが、船舶事故で破損し、陸にあがっているそうだ。

船はゆっくりと航行し、みなとみらい21地区にさしかかる。ランドマークタワー、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、国際平和会議場、コスモワールド、レンガ倉庫などが建ち並ぶ。そしてクルージング最後は、大桟橋ふ頭である。
一時間のクルージングは終わりとなった。次はマイクロバスで大黒ふ頭に移動する。気温が高かい日であったので、車内のクーラーが心地よい。
途中、たくさんのはしけが停泊する景色に出会う。平ボデイの自力走行では航行できずタグボートのよって航行する船で、昭和40年代には2,000隻が航行していたという。それが現代では10分の1の200隻の登録となっている。私たちが小学校で歌った「みなと」の歌詞のなかの『はしけ(端艇)の通いにぎやかに 寄せ来る波も黄金なり』も遠い昔となった。
その先はYCC。日本で最初のヨットクラブと言うことだ。現在は係留施設が金沢区に移動している。
この先、大黒ふ頭へはベイブリッジの二段になる下層部の国道357号線である一般道を通っていく。この国道は地元業者の強い要望で橋の完成後16年経過して、ようやく完成した道である。

大黒ふ頭に降りる。ここは、地下鉄工事の土などによって全て埋め立てた土地である。 深さ60~70メートルの杭を打ち込んでいるが、完成直後は年間10センチメートルほど、現在も数ミリは沈下しているという。

ここの取扱品目は、車、鉄鉱石で、車の量は名古屋、三河に次いで全国3位。メーカーは 三菱・いすゞ・日産ディーゼル・富士重工である。それと中古車の輸出量はナンバーワンである。 輸出先は、東南アジア、中近東、アフリカである。

その先正面に、スカイウォークの施設が見える。 平成元年から12年間営業 していたが、赤字のため現在閉鎖している。
海沿いにはガントリークレーン(大型クレーン)がみえる。横浜港には46機が立つ。1機10億円と言うからすごい金額である。しかしこの大型クレーンは 公共性が高いので七~八割ほど国の補助があるのだと。 自治体が整備して貸し出すのだが、全国で62港大型クレーンが設備化されているが不要な港が多く全国的に無駄をばらまいているとガイドの方が話していた。

Y―CC横浜港流通センターに向かう。 平成4年横浜市が主体となって設立、 輸入貨物の流通確保を目的として、 事務所棟と物流棟がある。5階建ての建物にはループ式ランプウエイ設備されて、各階にトレーラーで移動できる。屋上はコンテナートラックの駐車場になっている。



横浜港のコンテナの取り扱いは昭和60年代から平成初期にかけては世界のベスト一10に入っていたが、現在は港湾行政の問題で、東京港28位、横浜市42~3位まで落ちている。
次に本牧ふ頭のシンボルタワーに向かう。このタワーは出入港の信号と展望施設を兼ねた施設で、48メートルの高さである。上階からの天候が良くなったので眺めが大変良かった。
ここから発する信号は、O(アウト)=出るだけ、I(イン)=入るだけ、X(エックス)=入出共不可となっている。

これですべての見学は終了。海釣り公園の脇を通って横浜駅東口に向かう。到着は予定通りの16時30分。
お疲れさまでした。

訪れた日:2016.8.3


修学旅行コースの奈良の旅

2016-09-08 10:31:03 | 観光
京都駅から座席指定の特急で30分余、奈良駅に降り立つ。奈良は40年以上の御無沙汰だ。
駅前の噴水広場に托鉢の僧侶が建っていた。その僧侶を帰りにも見かけた。食事は?水分補給は?熱中症対策は?と気になってくる。

近鉄奈良駅・行基菩薩の噴水
          
               行基:奈良時代の僧侶で禁を破り民衆に仏教を広め大仏を造立した責任者
               
平城宮跡朱雀門
          
「なんと○○な平城京。」710年遷都年号の覚え方である。
車窓からその平城京の朱雀門を写す。こんな位置に建っていたとは全く知らなかった。「へいじょうきょう」と呼んでいるが、歴史学者は「へいぜいきょう」と呼ぶ人もいるそうだ。それは51代天皇に平城(へいぜい)天皇がいるからだとか。但し、遷都当時の造成土からは「奈良京」と書かれた木簡が発掘されてもいるようだ。

興福寺
五重塔、東金堂と宝物館の仏像を拝観する。
五重塔はどっしりとして、東寺の五重塔に並ぶ日本最大級。そして、今回期待は阿修羅像。この表情は20代に白血病で亡くなった女優の夏目雅子さんそのものである。今回は、朝日新聞出版社刊「日本の名寺をyく・興福寺」を持って、時間をかけて拝観した。
現在、中金堂を再建中でもある。釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂であるが、火災で7度も焼失していると云う。完成は2018年。





東金堂 本尊・薬師如来像 日光菩薩像 月光菩薩像が安置



国宝館 阿修羅像他が安置


南円堂

東大寺
聖武天皇が日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた、1,200年以上の歴史を持つ寺院である。

南大門


築地塀


大仏殿




奈良時代には大仏殿(金堂)の両脇に七重塔(推定高さ約70メートル以上)が整備

子供たちが柱の穴潜りに挑戦している。この穴、大仏様の鼻の穴と同サイズだそうで、造られた時は、大人でも潜り抜け出来たという。その当時の大人は今に比べて華奢の様だった。
柱の穴潜りといえば、弥次喜多が潜れたの、挟まったのとひと騒ぎしたのは、この穴と思っていたのだが、大違いのようだ。
                   
弥次喜多の穴潜りは京の大仏様の柱が正解のようだ。京に大仏が?と思われるが、思い起こせば50年以上前に参拝した記憶がある。バカでかいと思った覚えがある。そのあと、家族を連れて訪れたことがあったが、その時は火災で焼失した翌年であった。
その寺院は方広寺。方広寺は豊臣秀吉が大仏を建てた寺だという。その後秀頼が鐘楼を寄進するのだが、鐘楼に刻まれた文字がきっかけで、豊臣と徳川が戦う事になる。詳しい内容は大河ドラマ「真田丸」をおたのしみに。確実に出てくる話だ。
寺域には南大門・本坊経庫・開山堂・鐘楼・三月堂・二月堂・転害門の国宝に指定されている歴史的建造物や文化財がある。



二月堂


二月堂


二月堂のそばに休憩所があって、セルフの冷えた麦茶のサービスがあった。有難いことで、御馳走さまのひとことも発する。
1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。今回、奈良の世界遺産は、興福寺と春日大社を巡る。
          
                 文化交流の象徴として中国の船大工10人が参道で公開制作した船(南大門前)

春日大社
春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社で、全国に約1000社ある春日神社の総本社である。
藤原氏と云えば飛鳥時代から平安時代にかけて権勢を誇った氏族でもある。







戦国の武将宇喜多秀家(左解説板)と直江兼続が寄進した釣灯篭

春日大社の朱(赤)色は、他の神社と違った独特の色をしている。
社殿と回廊の釣燈籠、昔は油料の続く限り毎晩点燈され、特に雨乞祈願には万燈が行われたようだ。しかし明治時代になると、人員不足と油料が途絶え毎夜の点灯が不可能になった。近年では年2回、2月の節分と8月のお盆の14、15日に点灯するようになった。
その灯は、幻想的で、優美な光景であるそうで、今はそれを北回廊にある藤波之屋(江戸時代まで神職の詰所)で見れるようになっている。
          
また、今年は20年毎に行われる式年造替(しきねんぞうたい)という儀式が行われる年である。これは、神社の社殿の一部または全部を建て替える制度。訪れた時も本殿の壁画を描き直す作業が行われていた。

浮見堂・鷺池
奈良公園の南側にある。
浮見堂は、大正5年に建てられた、檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根が美しい東屋。鷺池の岸から純和風の橋がかかっている。鷺池の岸から眺める、水面に映る浮見堂は絵になると云われるのだが。
          

          

猿沢の池
「興福寺五重塔と池の柳が水面に映える猿沢池の景観は、奈良公園の代表的な名勝地」と云われているが、この時期、水は緑色に濁り、見られたものではなかった。
          
池端に采女神社(春日神社の末社)が祀られている。帝の寵愛が衰えたので、采女(うねめ)は衣を柳に掛けて入水してしまった悲しい伝説がある。猿沢の池はカメの話だと思ったが、歴史が古い町だけあって悲話があるようだ。采女の故郷、福島県郡山市にも采女神社があると云う。
          

          
采女を祀る社は、我が身を投じた池を見るにしのびないと一夜のうちに後ろ向きにしたと云われる。
9月14、15日には「采女祭」が開かれる。花扇奉納行列があり、秋の七草で飾られた2m余りの花扇と数十人の稚児、御所車に乗った十二単姿の花扇使や姉妹都市 福島県郡山市から参加のミスうねめ、ミス奈良などが天平衣装をまとって市内を練り歩く。その後春日神社の神官による神事がおこなわれて、花扇が奉納される。 猿沢の池では、雅楽が流れるなか、2隻の管絃船が、40余りの流し灯籠の間をぬ って池をめぐり、最後には花扇を池中に投じる。
          

奈良公園の鹿
 

我々の世代の中学の修学旅行は修学旅行列車・日の出号で京都・奈良の旅行であった。

川崎のひので号(卒業アルバムより)
が、孫が通う中学校では飛行機で熊本空港に降りて、北九州を周る贅沢な修学旅行である。そこで、私の京都旅行計画にあたり、奈良のポピュラーなコースを加えた同行二人の旅となった。
同行の中二の孫もいつの間にか歴女となっていた。

訪れた日:2016.8.22