あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

横浜金沢に野口英世博士の偉業をたずねる(2)

2022-11-20 14:57:06 | 横浜歴史散策




野口英世博士が従事したこともある横浜旧長濱検疫所一号停留所(厚生労働省横浜検疫所検疫資料館)が3年ぶりに一般公開された。
建物は1895(明治28)年に建てられ、横浜に外国船舶で伝染病を感染した際に上等船客を一時的に留め置く施設であった。横浜で最古級の洋風建物で2018年に登録有形文化財となった。
長濱での検疫検査業務が終了する為最後の公開となるかも知れぬ。





近くには野口英世博士に関連する「旧細菌検査室」と「横浜市長浜ホール」の施設もある。





関連ブログ:横浜金沢に野口英世博士の偉業をたずねる 2019.11.16

長屋門母屋屋根の茅を葺き替える

2022-01-31 13:25:34 | 横浜歴史散策
 2021年11月18日付タウン誌に長屋門公園に建っている安西家母屋の茅葺屋根吹替工事の記事が載っていた。
これによると、
 来年で開設30周年を迎えるにあたり始めたもので、同公演事務局によると、屋根の葺き替えは約12年ぶりだという。
 母屋の屋根は291㎡の茅がふき替えられる。工事の過程は熊手や竹ほうきなどを使用して表面を覆っている苔を落としてから、既存の茅を100~200mm引き抜く。
次に、手や木板で茅を持ち上げて隙間をつくり、新しいい茅を差し込む。ガンギと呼ばれる工具を使って差し込んんだ茅を叩き込み形を整え、丸太の足場を設置。一連の作業を軒先から棟まで繰り返すことで、徐々に屋根の表面が黄金色に代わっていくという。最後にトリマーやはさみなどで余分な茅を切り、表面をなめらかに仕上げていく。
 工事は来年(2022年)2月まで行われる予定。同公園事務局は天候などの状況によっいぇは変更の可能性もあると話す。』



2021.11.20








2021.11.20








2021.12.3








2021.12.20












2021.12.27

屋根の葺き替え工事は2021年内にほぼ完了したと監督者らしき人から聞いた。

2022.1.28











 総ての工事は数日前に完了してきれいに片付いていた。
ふき替えの職人さんは現在それほど多くないだろうが、今回は宮城県から来れれたようだ。12年前の前回は福島から来られたと聞いたことがある。



白梅が満開であった


小菊展



訪れた期間に菊の展示も開かれていた。

3月16日の例祭

2020-03-16 16:57:56 | 横浜歴史散策

参道を100mほど進み右手に山王社と稲荷社の小さな祠がある。
その先300mほどゆるやかな坂を上ると「六道の辻」にぶつかる。周辺は今も農地になっているが、山王社はその農地を開墾するにあたり安全祈願等のために祀ったものである。

社の貼られた沿革によると、
『創建はさだかではないが、江戸時代の初期、慶安年間(1648~52)より承応年間(1652~55)頃、徳川家康(1543~1616)の家来で旗本石川六左衛門は自らの石高を補う為、瀬野(現在の瀬谷)と和泉の間に荒地を見つけ石川家の役所(名主)上矢部村(現在の戸塚区上矢部町)の佐藤家の郎党数名(佐藤一族)が第一陣として入植させ和泉境より開墾をはじめる。まず心のより処として佐藤家の割り当てた処に山王社の祠を建て工事の完成、五穀の豊饒、家内安全等を日夜祈念したと思われる。
その後石川家の領地から石井、広瀬、山中の一族また上矢部の付近から岩崎、小川等が続々と入植し畑の耕地が出来上がったのが元禄年間(1688~1704)頃、当時の宮沢の中心に村社として神明社を奉戴される。
山王稲荷社は宮沢村の最古のお社です。先祖の方々のご苦労が忍ばれます。
明治の新政府の方針で神仏の資産没収を免れる為、佐藤家の名義にしたので難を免れた。』
(注:慶安年間~承応年間時代の将軍は三代家光と四代家綱
   また、沿革の内容が少々変更されている)




山王社                                     稲荷社


横浜市名木古木「アカアガシ」 樹齢170年

例祭は昭和初期までは湯花神楽が奉納されており、開墾と湯花神楽の話は瀬谷の民話に『宮沢の開墾と湯花神楽』という題で残されている。

《民話・宮沢の開墾と湯花神楽》(『瀬谷の史跡巡り』より)
 江戸時代の初めのことです。上矢部村に石川と名乗る武士がいました。あるとき、三軒の家に対して新しい土地の開墾を命じました。
 その開墾は大事な仕事で、皆は朝は暗いうちに起きて木を伐り倒し、根を掘り起し、夜は月や星の光をたよりに草を刈り取って一所懸命働きました。
 こうした作業の甲斐もあって、いつか田畑も増え、分家も十数軒になりました。そこで、人々はこの土地に農耕の神を祭り、春には豊作を願う神楽を奉納することとなりました。
 これが、宮沢山王社の湯花神楽です。開墾の当時をしのんで、氏子たちは、山王様の境内に、切った野芝を積み重ねてかまどを作り、大釜を乗せてお湯を沸きたぎらせます。やがて、あたりに湯気がもうもうとたちこめるなか、神の使いとなった神主が天狗の面をつけて、のしのしと現れます。
 いよいよ神主が、四方から幸運の矢を放つ頃になると、神事も最高潮に達し、熱湯の湯気をくぐりぬけてくるその矢を拾って、この年の幸運に恵まれようと夢中になったということです。
 この神事も、今は見ることができなくなりました。 

   
                                            【参考】阿久和・熊野神社の湯花神楽

宮沢村の村社として山王稲荷社からおよそ300m北に神明社を鎮座した。

神明社


訪れた日:2020.03.16

横浜金沢に野口英世博士の偉業をたずねる

2019-12-15 13:55:50 | 横浜歴史散策
1879(明治12)年、コレラの蔓延を防ぐため三浦郡長浦(現横須賀市長浦)に消毒所が設けられ、外国からの船舶が入港する前に乗客・乗員を検査し、感染症が見られた場合には隔離し治療する施設が設けられた。のちに1895年に現在地の横浜市金沢区長浜に長濱検疫所(横浜検疫所の前身)として移転された。現在、この付近は日本の高度成長期に埋立られたが、当時は海岸線に、桟橋や、迎賓館など40棟ほどの建物が設けられていた。
1899(明治32)年、「横浜海港検疫所」と改名される。


伝染病研究所の北里柴三郎所長の助手であった野口英世博士は同所長の推薦により、22歳の夏の1899年5月から9月までここで検疫業務に携わった。

長濱検疫所時代の野口英世博士

神戸港経由で横浜港に入港しようとしていた「亜米利加丸」の乗員から、ペスト患者を発見、隔離という成果をあげた。防止されていなければ横浜中蔓延したのではなかろうかと云われている。
この偉業は大ニュースとなり、野口英世の世界的な活躍のきっかけとなる出来事であった。

旧細菌研究室
細菌検査室は、この地に1895(明治28)年、長浜検疫所が創設された時に、その建物群のひとつとして現在の位置に建てられた。1923(大正12)年の関東大震災で他の建物とともに倒壊し、翌年に再建された。
このとき、屋根は瓦葺屋根を在のかたちに変更した。それ以外の部材はそのまま使用されている。
野口英世博士の関係資料や当時使用された器具類が展示され、博士ゆかりの研究施設としては日本に現存する唯一のもの。




 

  
地下冷暗所:床下に2坪ほどの穴を掘り、医薬品などを保存した





一号停留所
一号停留所は、上等船客用が一定期間停留する施設として、明治28年(1895年)3月に完成。定員は16名。
建物は、東京湾を見下ろす高台に、ほぼ東西に長く、南面の両端が突出したコの字型、左右対称の平屋。所内には8つの部屋(一室2人用)、食堂及び談話室がある。
検疫資料館(一号停留所)は、長濱検疫所の建物のなかでも趣がある施設であり、長濱検疫所の建築の粋がこの建物にまとまっており、明治の面影を残すものとして評価される。
現在は、「検疫資料館」として検疫業務等に使用した資料が展示されている。
一号停留所と云うから二号停留所もあった。こちらは下等船客用であった。定員は100名

下の写真は年に1回の11月中旬の公開日にたまたま訪れた日に撮影。




長浜ホール
長浜野口記念公園の整備に際し、旧事務棟の外観をほぼ忠実に復元し、地下に音楽ホール(104席)をもつ施設としてよみがえった。








現在の長浜検疫所付近


検疫所前の海は埋め立てられ臨海工業地帯や住宅となっている。
僅かに野鳥観察園に海岸線の名残がある。


参考資料:野口英世細菌検査室保存会「長浜通信」
      厚生労働省横浜検疫所

訪れた日;2019.11.16
        12.03
12.14



横浜・都築区の古民家を訪ねる

2018-02-21 12:08:28 | 横浜歴史散策
昭和の末には横浜市内には280棟余りの古民家が確認されていたが、現在ではそれも数えるほどになってしまった。
その中で、今回は都築区の古民家3棟を訪ねた。

内野家住宅母屋
建設年代については、資料に乏しく明らかではないが、手法から18世紀後半とされる。
建物は、当初広間型三間の平面で、後に座敷及び納戸の外側に小屋根である下屋を付け足し、土間の外側には厩と味噌部屋を付け足し、広間に間仕切りをするなどの増改築が施されている。
かつては、現在の青葉区荏田町の小高い丘陵地の裾を切り崩したところに建っていたが、港北ニュータウン建設に伴って、現在のせせらぎ公園内に移築された。
公園(都筑区新栄町17)内には東京都目黒区に建っていた旧小杉家長屋門も展示されている。








時代的には徳川九代将軍家重から十一代将軍家斉のころで、田沼意次、松平定信の改革が進められた時代である。また、浅間山の噴火に代表される天災の続発の影響により農民層の困窮を招いていた時代である。ただ、地域的には大山参詣や富士山参りが流行し、大山道が賑わい宿場ができたといわれる。
内野家はもとは京都の出身で、大阪夏の陣の功績により荏田に領土を与えられ、それ以降現代まで続く旧家である。

長沢家住宅
かつては都築郡牛久保村(現在の牛窪1丁目)にあって、18世紀中ごろから後半にかけて建てられたと考えられる。土間に4つの部屋が隣接する5室広間型である。
通常は居間、寝間、座敷の3室で構成されているが、当家は名主や組頭を務めており、幕府の役人役人などの接待用のスペースも用意していた。廊下でつながる馬屋は、馬を飼育する厩と味噌部屋がある。
港北ニュータウン建設に伴って、現在の都筑民家園(大棚西2)内に移築された。
長沢家住宅は丘陵の南側の裾建っていた。















関家住宅
横浜市で唯一、現在も生活で使用されている古民家である。表門、母屋、書院が建つ。表門は19世紀中ごろに建つ、茅葺の長屋門で、1891(明治24)年に養蚕のために2階建てに改造した。
母屋は17世紀中ごろに建てられた、長沢家同様、土間に4つの部屋が隣接する5室広間型である。書院は主屋の西側に建てられた10畳2間の寄棟造りで、小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構えている。









関家は、「新編武蔵風土記稿」にも載る旧家で、江戸時代初めから名主を務め、後期には代官職も兼務した。

訪れた日:2017.12.2
     2011.10.7



横浜市電保存館を観る

2017-07-24 12:52:24 | 横浜歴史散策
かつて横浜の市電は「ちんちん電車」と呼ばれて市民の足として欠かすことのできない交通機関であった。
1904(明治37)年から1972(昭和47)年までおよそ70年間活躍したちんちん電車は、磯子区滝頭の保存館にその役目を変え、歴史の証人として展示されている。
館内には、7両の市電車両が保存、展示されている。



親しみを込めて呼ばれる「ちんちん電車」の名の由来には2つの説がある。
1つは車掌がヒモを引っ張って運転手に合図した音で、「チンチン」と2つ鳴らすのが発車、「チン」と1つ鳴らせば止まれ、3つ鳴らせば急停車の合図だったことからきた節。
もう1つは通行人への警報用に運転手が足で床下の鐘「フートゴング」を「チンチン」と鳴らしたことからきた説。ヒモで「チンチン」と鳴らす電車は1966(昭和41)年に消えた。

500型
1928(昭和3)年に60両購入した。定員75人
屋根は局面を持ち、社内の天井もアーチ型とする。
戦後15両を600型に改造、1969(昭和44)年廃車。

1000型
1903(昭和3)年に震災復興事業により20両購入。定員75人
中部に乗車専用扉を設けたが、のちに乗降共用とした。1951(昭和26)年、乗車専用自動ドアに改造した。
1969(昭和44)年廃止。

1100型
1936(昭和11)年に5台購入。定員75人。
バンパー(緩衝装置)の位置から流線型のなっており、ロマンスカーとも呼ばれた。
1967(昭和42)年ワンマンカーに改造、市電廃止まで活躍した。

1300型
1947(昭和22)年、終戦直後の時代に輸送力増強ため30両を購入。定員120人
出入り口が車両前後と中央部の3カ所にある。ツーマン者としては最後の車両で1971(昭和46)年に廃車。

1500型
1951(昭和26)年、300型の代替として20台購入。定員100人。
運転台の窓が大きく、台車には防振ゴムを使用して振動や騒音を少なくし、従来型よりも乗り心地を良くした。ちんちん電車の決定版とも云われ、市電廃止まで活躍した。

1600型
1957(昭和32)年市交通局工場にて製造、最後の新造車両。定員100人
乗降口が前部と中央部のバス型配置。室内灯は蛍光灯、床は軟質ビニール張り。
1970(昭和45)年に廃止。

無蓋(むがい)貨車
レールや砂利、枕木等の重量物を大量に運ぶための車両。荷重5t
また、中区北方町にキリンビール山手工場があった大正時代には、この貨車で近くの堀川に架かる西之橋の船着場まで運んだこともあり、最大で6両の無蓋貨車を所有していた。
キリンビール山手工場は関東大震災で壊滅的な被害を受けた。現在その地は、小学校とキリン園公園となっている。
ビールの輸送の役目は無くなった以降は、太平洋戦争で傷ついた市電の軌道を修理する際に活躍をしている。
祝い事の花電車でも活躍しており、1972(昭和47)年の市電全廃まで利用された。





かつて

明治時代麦田付近


吉田橋付近


久保山付近


関東大震災の被害




滝頭車庫

ジオラマ
横浜の街を背景に地下鉄、私鉄、JRの0ゲージ車両やかつての市電が走る。


今回近くに来る予定があったので、一緒に見学をした。
これほどの車両が保存されているとは思わなかった。
横浜の市電には乗ったことはないが、明治時代から高度成長期の横浜市内を走っていた頼もしさを感じた。

資料:横浜市電保存館
訪れた日:2017.6.22

ヨコハマ運河の風情を伝える掘割川の土木遺産

2017-07-05 15:14:34 | 横浜歴史散策
――港町ヨコハマの運河の風情を今に伝える近代土木遺産—―


掘割川は、明治初期に、横浜港と根岸湾を結ぶ人口運河として、1870(明治3)年、神奈川県知事の不達を受けて、吉田勘兵衛の末裔が苦労の末、開削し、舟運や治水対策などにも大きな役割を果たしただけではなく、往年は掃部山(かもんやま)、豊顕寺などと共に横浜の桜の名所として市民に親しまれていました。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって壊滅的な被害が受けましたが、「帝都復興事業」によって、石積護岸復旧され、各所に物揚場、昇降階段、意匠を凝らした親柱を持つ八幡橋、根岸橋、天神橋などの橋梁も造られ現在見る姿に生まれ変わり、市内でも有数の美しい水辺風景をみることができます。
しかし、近年の車社会化のながれにより、川の両岸を通る国道16号と市道が拡幅整備されるなど、市民にとって、ますます水面に近づきにくい存在となっております。
市内の河川や運河の多くが埋め立てられ、公園や道路になっていることからも、先人が築いてきた貴重な「掘割川」を、都市づくりの視点や市民の貴重な水辺として、その魅力を再発見し、次世代に残すべき財産として、保存、活用を図っていきたいものです。

と、八幡橋の脇に建つ碑に土木遺産の由来が書かれている。
磯子の史話によるとこの時吉田勘兵衛の末裔は九代目で先祖の偉業を思い、掘割埋め立てを自費負担で施工したという。




土木学会選奨土木遺産制度は、土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、平成12年度に創設された。掘割川は、平成22年度に構造物が「土木遺産」として設定された。

「掘割川魅力づくり実行委員会」主催の「掘割川の日」のイベントが開催されたこともあったようだ。

荷揚場、昇降階段、繋船柱(けいせんちゅう)が施されている


八幡橋は掘割川唯一のこる震災復興橋


掘割川の開削(南区の歴史より)


訪れた日:2017.6.22


横浜・瀬谷にあった旧日本海軍の防空壕は

2017-03-08 18:40:39 | 横浜歴史散策
瀬谷の軍事施設と云うと、2015年に返還されたアメリカ海軍上瀬谷通信施設と思うことであり、その前身は旧横須賀海軍資材集結所であったことは承知のこと思う。
瀬谷にあった防空壕は、そこから2kmちょっと南に下った場所の位置する海軍施設である。

それは、瀬谷区の相沢川東岸の丘陵地に「旧日本海軍機器格納庫」と謂われている防空壕(地下壕)で、西に4km近く行くと帝国海軍厚木飛行場があり、また、資材集結所もあったのでそのほかの海軍関連施設があってもおかしくはない。
が、何が置かれ、どの機関が使用していたのだろうか???


防空壕についてはネットの「はまれぽ」にも、
『南瀬谷中から南台方面につらなる公園ですが、公園になる前は雑木林で立ち入り出来ないようにフェンスが張られていました。
今から40年も前の話ですが、小学生だった私たちはフェンスの切れ目から侵入して、中間辺りにあった防空壕に出入りしていました。
中ほどに換気塔がありましたが、通路はかなり狭く、かまどうまやら怪しげな虫たちが這っていて、インディジョーンズの世界でしたね。
その後崩落を防ぐために入り口は埋めら れましたので、今となっては知っている人もいなくなったかな。
2011年12月22日 14時31分  とうさんさん』と、書かれている。
文中の「かまどうま」とは、キリギリスやコオロギ、ウマオイに似る昆虫で、跳躍力は非常に強く、飼育器の壁などに自ら激突死してしまうほどである。姿や体色、飛び跳ねるさまが馬を連想させ、古い日本家屋では竈(かまど)の周辺などによく見られたことからこの名前が付いた。俗称として「便所コオロギ」などと呼ばれることがある。日本列島及び朝鮮半島の一部に分布する。

文中の公園とは「南台こどものもり公園」のことと思われる。
この防空壕は、先ほどの海軍の格納庫とは別で、すぐ近くにも一般民間人以外が造ったと思われる、当時としては堅牢な防空壕が戦時中造られていたようだ。


「旧日本海軍機器格納庫」と謂われている防空壕(地下壕)の資料展示は、南瀬谷小学校コミスクで開催された「やよいまつり」の『横浜・瀬谷地図くらぶ』出品で、先ほどの?が知りたい目的もある展示である。
開催中に展示物を見た方が、格納庫近くには、これとは別に地下の試射場があったとの話も聞く。
中原街道挟んで南側に終戦近くこちらに移転してきた、旧大日本兵器(株)の弾薬等の第5製作所があり、試射場は、その旧大日本兵器(株)の所有である。

こうしてみると、上記地図上の狭い地域には相沢川丘陵地を利用して一般民間人以外の手で造られた防空壕が集中していたことを知った。

『横浜・瀬谷地図くらぶ』が「さくらまつり」の展示した資料はこのほかに瀬谷地域での米軍機による空爆被害の展示もあった。
戦後71年だが、戦争の生々しい記憶を掘り起こしている。










横浜港防衛の台場跡を歩く

2016-12-08 14:56:51 | 横浜歴史散策
台場(お台場)と云うと品川の台場と認識するが、神奈川宿近くにも存在したことはあまり知られていない。台場が建築されるまでを鎖国の開始からその歴史を考える。

1624年 南蛮(スペイン)船入港禁止
1637年 島原の乱
1639年 南蛮(ポルトガル)船入港禁止

       徳川幕府は禁教政策の徹底と植民地政策をとる諸外国と断行し、200年近くの長い眠り
       につく「鎖国」の時代に入る。
1804年 ロシア国ニコライ来航 通商の要求
1808年 英国長崎港侵入

       19世紀に入ると諸外国の船舶が航行し、尚且つ通商・開港の要求を迫り世情があわただ
       しくなる。
1811年 浦賀・灯明堂、平根山台場設置
1812年 富津台場設置

       全国で100~200もの台場や見張所が大名各藩に設けられ、江戸湾の防衛も開始され
       る。ただし、当時の和製大砲の威力はお粗末なもので三浦、房総の両岸から撃ったとして
       も届かず、楽に航行出来たようだ。
1825年 異国船打払令 
       海外の出来事が日本にも影響した事件に伴って徳川幕府から発令された法である。
       18世紀末、フランス革命戦争が勃発し、オランダ国はフランスに占領される。オランダ国
       王はイギリスに亡命した。当時アジアの制海権はイギリスが握っており、オランダ船を拿捕
       する目的で長崎港内にイギリス海軍がオランダ国旗を掲げて入港してきた。一時はオラン
       ダ人が拿捕されることもあった。これを侵入したイギリス海軍の船名からフェートン号事件
       といわれる。
       結果的には日本側の被害はなかったが、長崎奉行の焼き打ち命令に対し、警備担当の鍋
       島藩は対抗する力はなく手薄な兵力を露呈した。
       その後もイギリス船が出没したため異国船打払令を出し、日本沿岸に接近する外国船を
       見つけ次第発砲、追い返した。
1840年 アヘン戦争
1842年 薪水(しんすい)給与令
1847年 猿島台場
1853年 ペリー来航
1854年 品川台場
       徳川幕府は強国と信じていた清国がアヘン戦争で敗れたことでこれまでの大平の眠りから
       覚め、攘夷派と開国派に分れ歴史は進んで行く。
       当面、薪水給与令によって幕府は諸外国船に対し穏便に済ます対応措置を取った。この
       法令が後の開港への布石となる。
       一方で江戸湾警備のため猿島に台場を設けた。のちに猿島は終戦まで帝都防衛のため
       の要塞化が進む。
       ペリーの最初の来航は琉球王国、小笠原諸島を経て浦賀沖に現れる。4隻の艦隊はこれ
       までの帆船の外国船と違い黒煙を上げた蒸気機関でも航行する黒塗りの船(うち2隻)であ
       って、見物に来た町民はそれを黒船と呼んだ。大砲は合わせて73門。
       この時ペリーは浦賀から20マイル(32km)北上、アメリカ大統領の開国親書を幕府に渡し
       1年後に再来航すると引き上げた。10日間の滞在であった。
       世情益々不安となり、幕府は品川に台場を設置することを代官・江川太郎左衛門に命じ
       た。
       江川家は代々太郎左衛門を名乗った。伊豆の韮山に本拠を置き、豊臣秀吉が小田原北
       条氏征伐の折り家康に寝返り、明治維新まで駿河、甲斐、相模、武蔵の天領最大で26万
       石の代官として治めた家系である。この時代の太郎左衛門は、西洋の沿岸防衛の知識を
       得て、反射炉を築き、洋式の台場を品川に築いた。そのためペリーの二度目の来航の際
       は江戸湾奥深く入れずに横浜に上陸したと云う。
1858年 日米修好条約締結
1858年 浦賀・宮津台場廃止
1859年 横浜港開港
1859年 桜田門外の変
1860年 神奈川台場
       日米修好条約が締結されたことのよって、江戸湾防衛の台場が不要となった。翌年横浜・
       神戸・箱館が開港し、神奈川台場の建設が始まった。
1868年 明治元年

          
当時、横浜・芝生(しぼう)村から川崎にかけて警備を担当していた松山藩は新町(現子安付近)に新町台場を築いたが、藩主がその規模では物足らなかったのか、改めて神奈川宿の猟師町に台場を築くことを幕府に申請した(幕府が命じたと云う説も)。
          
神奈川台場の形状は西洋の城や要塞に用いた稜堡(りょうほ)形式で5段積み。この形式は五稜郭の星型が有名で、外に向かって突き出した角のような形状をしている。設計者は、なんと幕末の事柄になると必ず顔を出すあの勝海舟(1823~99)。蘭学、兵学に優れており、オランダの書物を参考に設計したと云う。工事請負は幕末から維新にかけて活躍し、品川台場にも関与した江戸の平野弥十郎(1823~89)。北海道開拓にも貢献しており、弥十郎の名は北海道時代で、その前は弥市と名乗っていた。この人、タレントの中川翔子さんの祖先でもある(NHKファミリーヒストリー)。
費用はおよそ6万700両で、これは松山藩の1年分の予算に当たると云う。台場の西側の権現山を削り埋めたてして、伊豆や真鶴の安山岩などの堅石を切り出し、船で運搬してきた。
台場は延27万人の作業員でわずか1年足らずで完成した。
砲台の向きが横浜港に向いており、江戸湾警備と云うよりも横浜港に付随する施設の世である。但し、威力は横浜港までとどかない大砲のようであった。幸い、軍事には使用されず、祝砲、礼砲に用いられた。1873年の岩倉使節団が横浜港から出港する際にも祝砲を放ったと云われる。
その台場も1899年、横浜居留地の廃止と共に台場も閉鎖され、1921年頃から埋め立てが始まり、貨物線の線路が敷線され、現在はJR貨物の東高島駅となっている。

台場跡を歩く

 諏訪社の跡に会館が建つ


                                       西取渡り道がそのまま路地として残る
                                       突き当たりに石垣の一部と石碑が建つ
 花壇の土留めに石垣が






 石垣を金属で止めた穴

 船溜りの一部が残る

 
                                 船溜りの水路と西渡り道部分の公園・台場公園
台場の殆どが東高島駅敷地

 東高島駅は貨物線

赤矢印の先に石垣が展示
2012年マンション・ヒストリアレジデンスヒストリア海舟の工事現場から台場の石垣が発掘され一部が保存されている。マンションの一画に資料室が開港資料館の協力のもと設けられているが、開設期間はわずかで現在は閉鎖されている。
 上赤矢印の展示の石垣

 星野公園の碑

 宗興寺 
台場公園から徒歩4分の宗興寺に招魂之碑が建つ。宗興寺と云うと、江戸時代末期の横浜開港時にはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が、当寺に施療所と開いていたといいます。
  招魂之碑 
                              石碑左には「為神奈川砲臺死者建之」と刻まれている

1885年に建立された砲台死者慰霊のための招魂之碑には39名の名が刻まれている。中尉から二等兵のであるが、当時の砲台の隊員と思われるが、ひとりだけ異質の人物が刻まれている。砲台用達商人の小野籐八で、現在は閉めたが国道1号線沿いに建つオノトー薬局の先祖である。
 オノトー薬局
品川台場は第三と第六がそのままの形を留めており遺跡として保存されている。それに比べ同じ時代の台場でありながらそのほとんどが埋もれたままになっており、再開発によってタワーマンションが建つ計画もあるようだ。消えゆく歴史の証言遺跡となってしまうのか。


開港横浜之全図


明治30年代の神奈川台場


訪れた日:2016.11.26
2016.12.19
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