あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

神田川おしまいの橋(柳橋)界隈を歩く

2017-05-31 15:10:39 | 東京散策
神田川はフォークにも歌われ親しまれている川のひとつである。
井の頭公園を源流とし、隅田川に流れ込む全長25km近くの一級河川である。神田川の散策はこれまでも源となる井の頭公園や、下流域の桜の名所でも曙橋から江戸川橋や後楽園橋から万世橋を巡っていた。しかし、神田川の末端域、隅田川に流れ込むところは歩いていないので、今回その地域を歩いた。
スタートは浅草線・蔵前駅からである。

楫取(かじとり)稲荷神社 台東区蔵前2-2-11
江戸幕府が開府した慶長年間(1596~1614)に米蔵造営の石を肥後熊本からの運搬の途中の遠州灘で、海が荒れ船が度々遭難した。そこで浅草御蔵内に稲荷社を創建した。既に400年余り。

第六天榊神社(第六天社) 台東区蔵前1-4-3









日本武尊が東征の折に、この地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としている。2010(平成22)年に建立1900年とされる。

また、この地には1881(明治14)年から関東大震災までの間、東京工業大学の前身である蔵前工業学園が建っていて、「工業教育発祥の地」と云われる。

原歯科医院 台東区柳橋


都営地下鉄浅草橋駅がある江戸通りの裏手は空襲で焼けなかった区域がある。そこに旧字体で病院名が掲げている原歯科医院の建物もある。
1928(昭和3)年、木造2階建築で、外壁は塗りなおしてきれいな外観を見せている。

人形店
浅草橋といえば人形の街。
かつては30数軒の人形屋があった。今日でも10数軒が、建ち並んでいる。
江戸時代、ここに浅草見附が置かれていて、ここから浅草寺までの参道の両側に並ぶ土産屋が、後に人形屋やおもちゃ屋になった。

芸者・市丸邸 台東区柳橋1-28-8


長野県松本市生まれ。16歳で浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、19歳で上京。浅草で芸者となる。清元・長唄・小唄の名取となり、その生まれつきの資質で美貌と美声を買われ、たちまち人気芸者となる。最盛期には一晩10数件のお座敷を掛け持ちすることもあった云う。
レコード産業の発展によってレコード歌手となり、「ちゃっきり節」「天竜下れば」など次々とヒット曲を出し、そのヒットにより契約会社がこの屋敷を市丸さんに贈った。昭和20年~30年代に建設、木造2階建ての住まいであるが、1997(平成9)年に他界したあと一時空き家になっていたが、2001年に改装、ギャラリーとしてオープンする。現在は、建物のその塀の壁面に『lucite gallery(ルーサイトギャラリー)』の看板が目につく。
 
火伏神・石塚稲荷 台東区柳橋1-1-15
創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したと云い、1688(元禄元)年、当地へ移転した。




鳥居前の玉垣には、左手に「柳橋料亭組合」を筆頭に数々の料亭名。右手には「柳橋芸子組合」に始まり、芸奴の名が赤く掘られている。

篠塚神社 台東区柳橋1-5-1




東京を代表する柳橋花街の痕跡は、この小さな稲荷神社にも見ることが出来る。玉垣には、「亀精楼」「柳光亭」などの料亭のほか、「横綱朝汐太郎」「花柳章太郎」と刻まれる。

正中年間(1324~26)に新田義貞の四天王のひとりである篠塚伊賀守重宏が足利氏との四国での戦いに敗れ逃れ、当稲荷の祠の傍らで仏門に入り、主家の再興を祈願したことが始まりとされ、いつしか篠塚稲荷神社となった。
篠塚伊賀守重宏は、強力で無双な武将でその豪傑ぶりは歌舞伎の演目や武者絵にもなったと云う。


亀清桜(かめせいろう) 台東区柳橋1-1-3
安政元(1854)年創業。
明治時代には伊藤博文が利用した柳橋の代表的な料亭だった。その名は、森鴎外、永井荷風や舟橋聖一の文学作品にも登場する。
国技館に近いことから、角界との関わりも深く、横綱審議委員会の定例会場にもなっている。
現在では、歴史あるその名と共に、【神田川と隅田川の出会う柳橋のたもとで、語り継がれた花街の江戸料理を】を売りにお食事処として昼間から営業している。

柳橋 




神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋の最後の橋。

隅田川に合流

1698(元禄11)年に建設され、『川口出口之橋』とも、幕府の矢蔵があった事から『矢之倉橋』『矢之城橋』とも呼ばれていたが、橋のほとりの柳(小松屋の脇)から、いつしか『柳橋』となったと云われる。あるいは、江戸名所図会の「柳原提の末にある故に名とするとぞ」からとの説もある。 
現在の橋は、1929(昭和4)年に永代橋のデザインをまねた、ローゼ形式(弓なりの構造体を用いたアーチ橋の一種)のものが架けられ、戦災を免れ現在に至る。夜はライトアップされるようだ。
1991(平成3)年の修復時に、花街に因んで、欄干に芸子のかんざしのレリーフが飾られた。

江戸時代、この界隈には隅田川(大川)から運び入れた年貢米を納める浅草御蔵や米問屋があり、三河国岡崎藩邸や信濃国上田藩邸などの武家屋敷があった。その地域性によって、神田川の柳橋付近に花街が発達した、船宿や料亭が建ち並ぶようになった。

浅草橋




神田川に架かる柳橋のひとつ上流の橋である。
橋の袂には「浅草見附跡」の石碑が建っている。江戸時代からの歴史ある橋で、日光・奥州へ出る交通の要衝であった。
見附は橋の南側(中央区)にあったが、「浅草見附跡」の碑は、橋の北側(台東区)に設置されている。
見附門外には高札場があり、門内には郡代屋敷が置かれていた。
明暦の大火(1657年1月)では、「伝馬町の牢人が脱走した」という噂が伝わり、木戸が閉じられて、避難していた群衆が行き場を失い、多数の死者(焼死者、圧死者、溺死者などなど)を出した。という悲惨な過去もある。

左衛門橋
橋は1877(明治10)年頃になって架けられた(明治8年民間の有料橋として架けられた説も)。
江戸時代、酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があったため橋の名がつけられた。左衛門河岸とよばれる荷揚げ場もあった。
池上正太郎さんの「鬼平威犯科帳」に、雲霧仁左衛門一党の盗人宿があったという設定のストーリーがある。

花柳界
柳橋は、昔から新橋、赤坂と並ぶ三大花街の一つであった。芸奴もそれぞれ特徴があったようだ。
柳橋に芸奴が登場するのは江戸・文化年間(1804~18)で、記録によると14人が住んでいた。水野忠邦の天保の改革(1830~43)で、辰巳芸者で有名な深川などの岡場所から逃げてきた芸奴が移り住み、花街を形成した。やがて江戸市中の奥座敷として、また隅田川沿いの風光明媚な街として、栄える。江戸末期には、芸奴は150人ほどにもなっていた。
明治期には、新興の新橋と共に「柳新二橋」と称されるようになる。昭和に入ると、料理屋、待合併せて62軒、芸奴366人になる。代表的な料亭は伊藤博文が利用した「亀精楼」だったという。
東京オリンピック以降衰退した。
柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われる。
正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」などと歌われている。

屋形船


柳橋から浅草橋の間には数件の船宿があり、神田川には多数の舟が係留する。
花見、花見見物や夕涼みに、江戸情緒を楽しむために利用されている。

訪れた日:2017.5.26

カルガモの雛が11羽泳ぐ

2017-05-17 15:23:13 | 散策
黒い産毛のカルガモの雛が11羽群れて親と泳いでいた。



残念ながらスマホの画像なので細かには判断出来ぬが、産毛がけば立っているので今日生まれた思われる。
どこかの川でカルガモの雛が生まれたニュースが最近流れていたので、雛の誕生は気にして歩いていた。昨日の夕刻は気配がなかったし、産毛の毛立ちから素人目でも生まれてそんなに時間はたっていないのでと思った。



観衆が増えたことに気づいて、早々と葦の陰に隠れてしまった。多くの雛がすくすくと育ってもらいたい。
それは、横浜市瀬谷区を水源とし、泉区で境川に流れ込む和泉川の出来事である。

カルガモについて調べると、
『主に本州以南に周年生息(留鳥)する。和名は「軽の池」(奈良県橿原市大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている。』
とのことで、また、都市部のカルガモの多くがアヒルとの雑種であり、人を恐れていたはずのカルガモも人を恐れない行動をとるようになっていった。そこで、遺伝子形成からは、見た目はカルガモで、性格はアヒルに近いものと分析されているようだ。

確認した日:2017.5.17 12:30

怨霊の雷鳴が鳴り響いた雷神伝説の地を歩く

2017-05-14 11:52:03 | 東京散策
政治的野望の中で非業の最後を遂げ、その祟りを引き起こすと云う裏の歴史が東国・武蔵国にもあった。
新田義興雷神伝説
時は足利尊氏が室町幕府を開いた南北朝時代。今からおよそ700年近く前のことである。
場所は現在の大田区多摩川界隈である。
主人公は南朝方の勇将・新田義貞の次男(妾腹の子)・義興である。
1358(正平13)年、義興は足利勢に寝返った味方の謀略により討死する。
義興の死後、義興の絶望と恨みは雷神を操る怨霊へと変えた。
それは、矢口の多摩川下流域は七日七晩にわたって雷が鳴り続いたという。さらに謀略に手柄を立てた江戸遠江守(えどとととおみのかみ)が鎌倉の帰りに矢口の渡しにさしかかると、一天にわかに黒い雲の覆われて雷がとどろき、江戸は落馬。7日間も、もがき苦しみ狂死したという。
そのうえ、雷火によって民家や寺が燃えたり、矢口の渡しには夜ごと「光もの」が出るなど人々を悩ませた。

新田義興

矢口の渡し跡
大田区側の多摩川大橋西側のたもとにある矢口の渡し跡。義興が悲愴な最期を遂げた舞台として知られる。



矢口の戦い



大田区文化財 矢口の渡し跡
『新田義興が、矢口の渡しで延文3年(1358)討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、多摩川は、今より大きく湾曲していたと考えられる。
江戸時代に、平賀源内により戯作「神霊矢口の渡」が作られ、歌舞伎に上演されるに至り、この渡しは有名になった。
渡し場は、流路の変遷と共に、その位置をいくたびか変え、この付近になったのは、江戸中期からであると考えられる。
この渡しは、区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。』


東八幡神社  矢口の渡し跡碑(上写真中の位置にあり)



多摩川七福神 弁財天

頓兵衛地蔵(とろけ地蔵)
多摩川の渡し舟船頭だった頓兵衛が、義興をだまして舟の栓を抜いて沈めたことを悔いて造ったといわれる石造。または、義興の祟りで死んだ頓兵衛のために造られたという説もある。地蔵は怨念のためか、つくり直してもボロボロと解けたようになるため、別名とろけ地蔵ともいわれている。






多摩川七福神 布袋尊

 新田神社

13人の家臣と共に矢口の渡しで無念の死を遂げた義興。その後、怨霊となった義興の祟りを鎮めるために墳墓の前に社を造り、「新田大明神」として祀ったのが神社の起こりである。
義興の怨霊は火雷信仰と結びつき、火除け災難除け、必勝開運、人々を幸せへと導く神様として崇敬されるようになる。






破魔矢の元祖
宝暦年間(1751~1764)頃より「義興の矢」として門前の茶屋で売られていたものが、のちに平賀源内の提案により、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊を付けたものを魔除けとして売り出した。
そして、この矢を2本買い、1本を奉納し、1本を持ち帰り魔除けの「矢守」としたといわれる。






 Love神社のパワースポットと知られている

十寄神社
三体地蔵尊の3名のほか、義興と共に忙殺された10人の家臣がここに祀られている。その名も十寄神社。昔は「十時神社」といい、現在は、十騎神社「「とおよせ様」などとも呼ばれている。
10人の家臣は舟上で義興と共に潔く切腹し、そのまま沈んだといわれ、社殿の裏手に葬られている。






多摩川七福神 毘沙門天

三体地蔵尊
1358(延文3・天平13)年に義興と共に矢口の渡しで命を落とした家臣のうち3人が地蔵として祀られている。
多くの家臣は十寄神社に祀られているが、この3人は舟が沈められた時に対岸までたどり着き、交戦の末に討ち死にした。昔は三体地蔵と新田神社の間に多摩川が流れ、この位置は河岸であったとされる。


ご神木が太くて社が陰で見えない


光明寺
天平年間(720~749)、行基によって創始され、のちに空海が再興。寛政年間(1229~1232)に浄土宗に変わって関東弘通念仏最初の道場となった古刹。
義興の伝説は、義興の怨霊に襲われた江戸遠江守が寺に逃げ込んだことや、切腹した義興が内臓を投げた時、境内の巨木に引っ掛かった話などがある。










延命寺
もともとは、蓮花寺という名の寺で、義興の怨霊が雷火なって堂宇を焼き尽くしたという伝説が残る。
その際、聖徳太子が国家安穏衆人救護のために彫った地蔵尊だけは難を逃れたという。以後その地蔵は「火雷除子安地蔵尊」「延命地蔵」とも呼ばれて、人々の信仰を集め、寺の名も延命寺と変わって再建された。






多摩川七福神 寿老人


神霊矢口渡
エレキテルで知られる平賀源内が福内鬼外(ふくうちきがい)筆名で軍記物語『太平記』を元に370年後に人形浄瑠璃の戯曲に書き下ろした5段の作品。その後歌舞伎でも上演される。
中心は矢口の渡しに伝わる新田神社の縁起を描いた四段目「頓兵衛内(とんべえうち)」通称「矢口渡」。義興が滅んだあと、義興の弟義岑(よしみね)は落武者となり、愛人のうてなを連れて矢口の渡しの渡し守頓兵衛の家に泊まる。かつて義興を謀殺した頓兵衛は、義岑をも討ち取って賞金を得ようとするが、娘お舟は義岑を恋して彼を逃がし、身替りに父の刃にかかる。頓兵衛は飛んできた新田家の神矢に貫かれて最期を遂げるというストーリー。



足利勢の謀略によて、無念の最期を遂げた新田義興の『雷神伝説』が残る多摩川下流域(東急多摩川線鵜ノ木駅~矢口渡駅)を歩く。

資料:裏・東京魔界散歩(三栄書房)
訪れた日:2017.5.5



二十五の阿弥陀様がお練る「おめんまつり」 2017

2017-05-10 14:14:16 | 東京散策



浄土宗 九品仏浄真寺

3年に1度の浄眞寺(九品山唯在念仏院淨眞寺)の「おめんかぶり(二十五菩薩来迎会)」が行われた。
前回までは真夏の8月16日に行われていたが、お面をかぶって歩くにはあまりにも暑いということで、気候の良い5月5日に変更された。
1700年代末期に建てられた仁王門(紫雲楼)の楼上には「おめんかぶり」に登場する阿弥陀如来と二十五菩薩が安置している。特別の日だけ開扉され仏像が拝める。

二十五菩薩来迎会は、信者の臨終に際し、阿弥陀如来が二十五菩薩を従えて来迎し、 極楽浄土に導く様子を行事化したものという。 本堂を現世(娑婆)に、正面の上品堂を西方浄土に見立て、この間に特設の橋が架けられている。これを極楽浄土に通じる白道(びゃくどう・二河白道の略)と云い、浄土往生を願う信徒の白い道である。余談だが、徳川三代将軍家光時代の大久保政談に登場する、一心太助が腕に「一心如鏡、一心白道」の刺青をしていたとされる。

お練りは二往復する。
最初は本堂より梵字袈裟をまとった信徒たちが上品堂に渡る。

上品堂に入るとお面を被り、阿弥陀如来と二十五菩薩に扮し本堂に渡る。これを「来迎」という。




お顔は同じであるが、持っている道具によって菩薩が区別され、多くは鼓、琵琶や笛など楽器を持たれている。
最後に渡られるのは、我々もおなじみ右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩である。

本堂に入ると、本尊の釈迦如来像のまわりを回わる。
次に、往生人にみたてた住職衆僧と開山の「珂碩(かせき)上人坐像」を載せた逗子、菩薩や導師を守る役目の稚児らが上品堂に渡る。これを「往生」という。
先頭を2基の万灯が進む。






蓮はすの花びらの形をした散華を巻きながらお練る。



最後に、珂碩上人の逗子、僧侶、稚児、そして信徒らがお面を上品堂で脱ぎ、素顔で本堂に帰る。
これは、来迎をうけた往生人が浄土よりこの世に帰り、世のためにつくすという「還相(げんそう)」を表している。








お練りの最後を進む僧正が白道上でお念仏を唱え終わる。



本堂の釈迦如来像と上品堂の三躰の阿弥陀仏とは、白道に通された白い帯とひもで結ばれている。


おめんかぶりの行事の一環で巨大な「南無阿弥陀仏」の虫干し法要も行われる。

境内の閻魔大王と葬頭河婆(奪衣婆)が祀られた閻魔堂でも念仏が唱えられている。

このおめんかぶりは、1827(文政10)年に当時の寺の厳しい経済状況から宗教及び経済的な理由によって始めたとされるが、事前に寺社奉行に届け出を出さなかったようで、それ以降中止され、復活したのは明治になってからのようである。
関西ではいくつかの寺院でこの法要が行われているが、関東ではこの寺院だけである。
浄眞寺の土地は、もともとは世田谷吉良氏系の世田谷城の支城となる奥沢城であった。秀吉の小田原征伐後廃城となり、1675(寛文5)年に当地の名主が寺地として貰い受け、珂碩が同地に浄眞寺を開山した。
境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに三体、合計九体の阿弥陀如来像が安置されている。この仏像は、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(くほん)と云い、浄眞寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
また、自由が丘駅は、開業当初は「九品仏前駅」という名であったという歴史もある。現在では、東急大井町線に「九品仏駅」が自由が丘駅の隣駅として存在している。


訪れた日:2017.5.5


節句の旧安田邸からつつじまつりの根津神社へ

2017-05-07 14:37:13 | 観光

公開は水曜と土曜の週2日のみで、今回たまたま都内に予定があった水曜日に旧安田楠雄邸を訪れた。
JR日暮里駅より「夕やけだんだん」の谷中ぎんざ、よみせ通りを抜け向かった。


公開時間を気にせず向かったのだが、10時半からと門の前で20分待つ。
旧安田楠雄邸は、1919(大正8)年に豊島園の創始者である実業家・藤田好三郎氏によって造られ、1923(大正12)年に旧安田財閥の創始者・安田善次郎氏の女婿・善四郎氏が買い取り居住。  
1995(平成7)年に当主の楠雄氏が亡くなられたのち、2007(平成19)年から一般公開される。
関東大震災と第二次世界大戦の被災を免れた外見は和風建築で、ほぼ改造されることなく創建当時の姿を残している。
唯一の洋間にはサンルームやマントルピースも配置されている。





猫間障子と云い、ガラスがはまっている部分の障子が左右に開く構造になっている。はじめは、猫が抜けられるようにガラスはなかったのだが、次第に気密性を考えガラスがはめられた。専門家によると、一般的に関東で使われていると云われる。
素透視ガラスは波を打っていたり、気泡があったりして年代を感じるが、すりガラスは、きれいな模様が描かれたり、中間に素透視を入れたりして古い時代のガラスとは思えないほどシャレている。




旧安田楠雄邸では、五節句のイベントが行われていて、今回は端午の節句で五月飾りが飾られていた。







根津神社裏門から森鴎外記念館や旧安田楠雄邸前を通り駒込方面に通じる古くから自然にできた道を「薮下道」と呼ばれ親しまれた道で、森鴎外や夏目漱石などの多くの文人が散歩をした道ともいわれている。
むかしは道幅も狭く、両側は笹薮で雪の日には、その重みで笹が垂れ下がって道がふさがれて歩けなかったと云われている。


薮下通りを通って、根津神社へは裏門から入る。屋台がずらっと参道に並んでいた。

根津神社は日本武尊が1900年近く以前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。
1706(宝永3)年に徳川五代将軍綱吉が現在に残る社殿を造営、権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、楼門、透塀は国の重要文化財に指定されており、江戸の神社建築としては最大規模のものである。

















女性ばかりの根津権現太鼓が華を添えていた。



根津神社のつつじまつりも2日後に終りを控え、つつじの盛りはとうに過ぎていた。隣に建つ大学院の通路に咲くツツジが見事だったので、撮らせていただいた。

訪れた日:2017.5.3