神田川はフォークにも歌われ親しまれている川のひとつである。
井の頭公園を源流とし、隅田川に流れ込む全長25km近くの一級河川である。神田川の散策はこれまでも源となる井の頭公園や、下流域の桜の名所でも曙橋から江戸川橋や後楽園橋から万世橋を巡っていた。しかし、神田川の末端域、隅田川に流れ込むところは歩いていないので、今回その地域を歩いた。
スタートは浅草線・蔵前駅からである。
●楫取(かじとり)稲荷神社 台東区蔵前2-2-11
江戸幕府が開府した慶長年間(1596~1614)に米蔵造営の石を肥後熊本からの運搬の途中の遠州灘で、海が荒れ船が度々遭難した。そこで浅草御蔵内に稲荷社を創建した。既に400年余り。
●第六天榊神社(第六天社) 台東区蔵前1-4-3
日本武尊が東征の折に、この地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としている。2010(平成22)年に建立1900年とされる。
また、この地には1881(明治14)年から関東大震災までの間、東京工業大学の前身である蔵前工業学園が建っていて、「工業教育発祥の地」と云われる。
●原歯科医院 台東区柳橋
都営地下鉄浅草橋駅がある江戸通りの裏手は空襲で焼けなかった区域がある。そこに旧字体で病院名が掲げている原歯科医院の建物もある。
1928(昭和3)年、木造2階建築で、外壁は塗りなおしてきれいな外観を見せている。
●人形店
浅草橋といえば人形の街。
かつては30数軒の人形屋があった。今日でも10数軒が、建ち並んでいる。
江戸時代、ここに浅草見附が置かれていて、ここから浅草寺までの参道の両側に並ぶ土産屋が、後に人形屋やおもちゃ屋になった。
●芸者・市丸邸 台東区柳橋1-28-8
長野県松本市生まれ。16歳で浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、19歳で上京。浅草で芸者となる。清元・長唄・小唄の名取となり、その生まれつきの資質で美貌と美声を買われ、たちまち人気芸者となる。最盛期には一晩10数件のお座敷を掛け持ちすることもあった云う。
レコード産業の発展によってレコード歌手となり、「ちゃっきり節」「天竜下れば」など次々とヒット曲を出し、そのヒットにより契約会社がこの屋敷を市丸さんに贈った。昭和20年~30年代に建設、木造2階建ての住まいであるが、1997(平成9)年に他界したあと一時空き家になっていたが、2001年に改装、ギャラリーとしてオープンする。現在は、建物のその塀の壁面に『lucite gallery(ルーサイトギャラリー)』の看板が目につく。
●火伏神・石塚稲荷 台東区柳橋1-1-15
創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したと云い、1688(元禄元)年、当地へ移転した。
鳥居前の玉垣には、左手に「柳橋料亭組合」を筆頭に数々の料亭名。右手には「柳橋芸子組合」に始まり、芸奴の名が赤く掘られている。
●篠塚神社 台東区柳橋1-5-1
東京を代表する柳橋花街の痕跡は、この小さな稲荷神社にも見ることが出来る。玉垣には、「亀精楼」「柳光亭」などの料亭のほか、「横綱朝汐太郎」「花柳章太郎」と刻まれる。
正中年間(1324~26)に新田義貞の四天王のひとりである篠塚伊賀守重宏が足利氏との四国での戦いに敗れ逃れ、当稲荷の祠の傍らで仏門に入り、主家の再興を祈願したことが始まりとされ、いつしか篠塚稲荷神社となった。
篠塚伊賀守重宏は、強力で無双な武将でその豪傑ぶりは歌舞伎の演目や武者絵にもなったと云う。
●亀清桜(かめせいろう) 台東区柳橋1-1-3
安政元(1854)年創業。
明治時代には伊藤博文が利用した柳橋の代表的な料亭だった。その名は、森鴎外、永井荷風や舟橋聖一の文学作品にも登場する。
国技館に近いことから、角界との関わりも深く、横綱審議委員会の定例会場にもなっている。
現在では、歴史あるその名と共に、【神田川と隅田川の出会う柳橋のたもとで、語り継がれた花街の江戸料理を】を売りにお食事処として昼間から営業している。
●柳橋
神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋の最後の橋。
隅田川に合流
1698(元禄11)年に建設され、『川口出口之橋』とも、幕府の矢蔵があった事から『矢之倉橋』『矢之城橋』とも呼ばれていたが、橋のほとりの柳(小松屋の脇)から、いつしか『柳橋』となったと云われる。あるいは、江戸名所図会の「柳原提の末にある故に名とするとぞ」からとの説もある。
現在の橋は、1929(昭和4)年に永代橋のデザインをまねた、ローゼ形式(弓なりの構造体を用いたアーチ橋の一種)のものが架けられ、戦災を免れ現在に至る。夜はライトアップされるようだ。
1991(平成3)年の修復時に、花街に因んで、欄干に芸子のかんざしのレリーフが飾られた。
江戸時代、この界隈には隅田川(大川)から運び入れた年貢米を納める浅草御蔵や米問屋があり、三河国岡崎藩邸や信濃国上田藩邸などの武家屋敷があった。その地域性によって、神田川の柳橋付近に花街が発達した、船宿や料亭が建ち並ぶようになった。
●浅草橋
神田川に架かる柳橋のひとつ上流の橋である。
橋の袂には「浅草見附跡」の石碑が建っている。江戸時代からの歴史ある橋で、日光・奥州へ出る交通の要衝であった。
見附は橋の南側(中央区)にあったが、「浅草見附跡」の碑は、橋の北側(台東区)に設置されている。
見附門外には高札場があり、門内には郡代屋敷が置かれていた。
明暦の大火(1657年1月)では、「伝馬町の牢人が脱走した」という噂が伝わり、木戸が閉じられて、避難していた群衆が行き場を失い、多数の死者(焼死者、圧死者、溺死者などなど)を出した。という悲惨な過去もある。
●左衛門橋
橋は1877(明治10)年頃になって架けられた(明治8年民間の有料橋として架けられた説も)。
江戸時代、酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があったため橋の名がつけられた。左衛門河岸とよばれる荷揚げ場もあった。
池上正太郎さんの「鬼平威犯科帳」に、雲霧仁左衛門一党の盗人宿があったという設定のストーリーがある。
●花柳界
柳橋は、昔から新橋、赤坂と並ぶ三大花街の一つであった。芸奴もそれぞれ特徴があったようだ。
柳橋に芸奴が登場するのは江戸・文化年間(1804~18)で、記録によると14人が住んでいた。水野忠邦の天保の改革(1830~43)で、辰巳芸者で有名な深川などの岡場所から逃げてきた芸奴が移り住み、花街を形成した。やがて江戸市中の奥座敷として、また隅田川沿いの風光明媚な街として、栄える。江戸末期には、芸奴は150人ほどにもなっていた。
明治期には、新興の新橋と共に「柳新二橋」と称されるようになる。昭和に入ると、料理屋、待合併せて62軒、芸奴366人になる。代表的な料亭は伊藤博文が利用した「亀精楼」だったという。
東京オリンピック以降衰退した。
柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われる。
正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」などと歌われている。
●屋形船
柳橋から浅草橋の間には数件の船宿があり、神田川には多数の舟が係留する。
花見、花見見物や夕涼みに、江戸情緒を楽しむために利用されている。
井の頭公園を源流とし、隅田川に流れ込む全長25km近くの一級河川である。神田川の散策はこれまでも源となる井の頭公園や、下流域の桜の名所でも曙橋から江戸川橋や後楽園橋から万世橋を巡っていた。しかし、神田川の末端域、隅田川に流れ込むところは歩いていないので、今回その地域を歩いた。
スタートは浅草線・蔵前駅からである。
●楫取(かじとり)稲荷神社 台東区蔵前2-2-11
江戸幕府が開府した慶長年間(1596~1614)に米蔵造営の石を肥後熊本からの運搬の途中の遠州灘で、海が荒れ船が度々遭難した。そこで浅草御蔵内に稲荷社を創建した。既に400年余り。
●第六天榊神社(第六天社) 台東区蔵前1-4-3
日本武尊が東征の折に、この地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としている。2010(平成22)年に建立1900年とされる。
また、この地には1881(明治14)年から関東大震災までの間、東京工業大学の前身である蔵前工業学園が建っていて、「工業教育発祥の地」と云われる。
●原歯科医院 台東区柳橋
1928(昭和3)年、木造2階建築で、外壁は塗りなおしてきれいな外観を見せている。
●人形店
浅草橋といえば人形の街。
かつては30数軒の人形屋があった。今日でも10数軒が、建ち並んでいる。
江戸時代、ここに浅草見附が置かれていて、ここから浅草寺までの参道の両側に並ぶ土産屋が、後に人形屋やおもちゃ屋になった。
●芸者・市丸邸 台東区柳橋1-28-8
レコード産業の発展によってレコード歌手となり、「ちゃっきり節」「天竜下れば」など次々とヒット曲を出し、そのヒットにより契約会社がこの屋敷を市丸さんに贈った。昭和20年~30年代に建設、木造2階建ての住まいであるが、1997(平成9)年に他界したあと一時空き家になっていたが、2001年に改装、ギャラリーとしてオープンする。現在は、建物のその塀の壁面に『lucite gallery(ルーサイトギャラリー)』の看板が目につく。
●火伏神・石塚稲荷 台東区柳橋1-1-15
鳥居前の玉垣には、左手に「柳橋料亭組合」を筆頭に数々の料亭名。右手には「柳橋芸子組合」に始まり、芸奴の名が赤く掘られている。
●篠塚神社 台東区柳橋1-5-1
東京を代表する柳橋花街の痕跡は、この小さな稲荷神社にも見ることが出来る。玉垣には、「亀精楼」「柳光亭」などの料亭のほか、「横綱朝汐太郎」「花柳章太郎」と刻まれる。
正中年間(1324~26)に新田義貞の四天王のひとりである篠塚伊賀守重宏が足利氏との四国での戦いに敗れ逃れ、当稲荷の祠の傍らで仏門に入り、主家の再興を祈願したことが始まりとされ、いつしか篠塚稲荷神社となった。
篠塚伊賀守重宏は、強力で無双な武将でその豪傑ぶりは歌舞伎の演目や武者絵にもなったと云う。
●亀清桜(かめせいろう) 台東区柳橋1-1-3
安政元(1854)年創業。
明治時代には伊藤博文が利用した柳橋の代表的な料亭だった。その名は、森鴎外、永井荷風や舟橋聖一の文学作品にも登場する。
国技館に近いことから、角界との関わりも深く、横綱審議委員会の定例会場にもなっている。
現在では、歴史あるその名と共に、【神田川と隅田川の出会う柳橋のたもとで、語り継がれた花街の江戸料理を】を売りにお食事処として昼間から営業している。
●柳橋
隅田川に合流
1698(元禄11)年に建設され、『川口出口之橋』とも、幕府の矢蔵があった事から『矢之倉橋』『矢之城橋』とも呼ばれていたが、橋のほとりの柳(小松屋の脇)から、いつしか『柳橋』となったと云われる。あるいは、江戸名所図会の「柳原提の末にある故に名とするとぞ」からとの説もある。
現在の橋は、1929(昭和4)年に永代橋のデザインをまねた、ローゼ形式(弓なりの構造体を用いたアーチ橋の一種)のものが架けられ、戦災を免れ現在に至る。夜はライトアップされるようだ。
1991(平成3)年の修復時に、花街に因んで、欄干に芸子のかんざしのレリーフが飾られた。
江戸時代、この界隈には隅田川(大川)から運び入れた年貢米を納める浅草御蔵や米問屋があり、三河国岡崎藩邸や信濃国上田藩邸などの武家屋敷があった。その地域性によって、神田川の柳橋付近に花街が発達した、船宿や料亭が建ち並ぶようになった。
●浅草橋
橋の袂には「浅草見附跡」の石碑が建っている。江戸時代からの歴史ある橋で、日光・奥州へ出る交通の要衝であった。
見附は橋の南側(中央区)にあったが、「浅草見附跡」の碑は、橋の北側(台東区)に設置されている。
見附門外には高札場があり、門内には郡代屋敷が置かれていた。
明暦の大火(1657年1月)では、「伝馬町の牢人が脱走した」という噂が伝わり、木戸が閉じられて、避難していた群衆が行き場を失い、多数の死者(焼死者、圧死者、溺死者などなど)を出した。という悲惨な過去もある。
●左衛門橋
橋は1877(明治10)年頃になって架けられた(明治8年民間の有料橋として架けられた説も)。
江戸時代、酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があったため橋の名がつけられた。左衛門河岸とよばれる荷揚げ場もあった。
池上正太郎さんの「鬼平威犯科帳」に、雲霧仁左衛門一党の盗人宿があったという設定のストーリーがある。
●花柳界
柳橋は、昔から新橋、赤坂と並ぶ三大花街の一つであった。芸奴もそれぞれ特徴があったようだ。
柳橋に芸奴が登場するのは江戸・文化年間(1804~18)で、記録によると14人が住んでいた。水野忠邦の天保の改革(1830~43)で、辰巳芸者で有名な深川などの岡場所から逃げてきた芸奴が移り住み、花街を形成した。やがて江戸市中の奥座敷として、また隅田川沿いの風光明媚な街として、栄える。江戸末期には、芸奴は150人ほどにもなっていた。
明治期には、新興の新橋と共に「柳新二橋」と称されるようになる。昭和に入ると、料理屋、待合併せて62軒、芸奴366人になる。代表的な料亭は伊藤博文が利用した「亀精楼」だったという。
東京オリンピック以降衰退した。
柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われる。
正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」などと歌われている。
●屋形船
花見、花見見物や夕涼みに、江戸情緒を楽しむために利用されている。
訪れた日:2017.5.26