日本のすべての道はお江戸日本橋が起点である。
道を歩き、楽しんでいる者として日本橋に行かないものはモグリと思われるが、今回やっとで、道の起点の橋周辺を歩いた。
スタートは、歩いても20分程度で着くと云われるJR東京駅からである。
東京駅から500m、一石橋に着く。橋の左たもとには迷子しらせ石碑がたっている。
●一石橋
東京都中央区の東京都道405号外濠環状線(通称「外堀通り」)を通る日本橋川に架かる橋である。皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋されている。
この名前の由来が面白い。橋の両側に後藤家の屋敷があって、当時、橋が破損した際に、両後藤の援助により再建された。よって「後藤=五斗」と言い換えて、後藤(五斗)+後藤(五斗)=一石で、一石橋と呼ばれた。また、そのまま後藤橋ともいわれた。
一石橋(いちこくはし)はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。
橋上に立つと自身も含めて八つの橋が見渡せたことで、その名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれ、江戸の名所のひとつであった。
一石橋 一石橋から見た景色・八橋
日本橋川は、千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し隅田川に合流する一級河川である。
日本橋川流域は水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。
●一石橋迷子しらせ石碑 住所: 八重洲1-11先
1857(安政4)年に建てられた石柱・庶民の告知板。柱の正面には「満よひ子の志るべ(まよいごのしるべ)」、右側には「志らする方(しらするかた)」、左側には「たづぬる方(たづぬるかた)」と文字が彫られている。
告知板に、年頃、面体、格好、履物、衣類などの特徴を書いた紙を貼り、それを見て思い当たる人が、迷子や尋ね人を知らせた。
先だってネットTVで「夜桜お染」という若村麻由美さん主演の時代劇ドラマに、迷子石が出てきた。火事で生き別れになった兄弟を探すと云う設定である。徳川の世のお江戸は火事が多かったからこの「迷子しらせ石」などが情報交換の手段として大いに利用されたことと思う。
●日本橋西河岸地蔵堂・延命地蔵 住所:八重洲1-2-5
安置されている地蔵菩薩は、古く奈良時代のおよそ85cm(2尺8寸)の像である。
「至心に祈願し奉れば、日ならずしてご利益を蒙る」ということから日限地蔵尊と称される。
1718(享保3)年、西河岸と呼ばれていたこの地に移り、通称「西河岸のお地蔵様」と呼ばれるようになった。 鎮座して約300年に至るこの地蔵尊は、霊験あらたかな地蔵尊として、日本橋芸者衆や地元の人々から厚い信仰を集めてきた。
新派を代表する女形役者の花柳章太郎が板絵 お千世の図額を奉納した。当時まだ無名であった花柳章太郎が日本橋の花街を舞台とした日本芸者物語のお千代役を熱望、西河岸地蔵堂に祈願し起用され、出世作となった。
また、谷崎潤一郎が幼少時代にばあやに連れてこられたとの話もある。 谷崎は日本市人形町で生まれている。
一石橋を渡ると、右手に日本銀行が左手には常盤橋、常磐橋(旧常盤橋)、新常盤橋が日本橋川に続く。
●日本銀行本店本館 住所: 日本橋本石町2-1-1
1954(昭和29)年、大判・小判を管理していた徳川金座跡に建てられた。以来、銀行の銀行としての役割をはたしている。本館の建物は、ベルギー国立銀行を参考に1896(明治29)年竣工した。明治時代の貴重な本格的洋風建築として、重要文化財に指定されている。
●常盤橋・旧常盤橋(常盤橋公園) 住所:大手町2-7-2
常盤橋公園は、面積わずか1,420㎡の千代田区立の小公園だが、歴史的には大きな意味のある場所にある。
江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、1875(明治8)年に東京市の公園として公開された。園内には渋沢栄一の銅像が建っているほか、常盤橋門跡の石垣が残っている。
常盤(トキワ)は 本来「常磐 トコイワ」で、常に変わらない岩 の意味から、永久不変なこと、転じて 松や杉などの常緑樹が常に緑色の葉を保つことを表す。
常磐橋は、元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り上に架かっていて、「浅草口橋」とも呼ばれた。
明治になってから、石造のアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、手狭であることから後に現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。
常磐橋は工事のためフェンスで閉ざされ、公園も渋沢栄一像が見えるだけで工事用の高い塀で囲われている。
常盤橋
常磐橋(旧常盤橋)
新常盤橋
常盤橋門跡の石垣
●十軒店跡 住所: 日本橋室町3-2-15
徳川五代将軍綱吉が、京都の雛人形師10人を招き、ここにお長屋10軒を与えた。3月、5月には節句人形が軒なみ飾られ、「十軒が十軒ながら公卿(くぎょう)の宿」とうたわれた。現在の室町3丁目付近。
十軒店跡の説明板が設置されている。
●アンテナショップ
◆にほんばし島根館 住所:日本橋室町1-5-3 福島ビル1F
◆奈良まほろば館 住所:日本橋室町1-6-2 162ビル
●老舗の数々
◆日本橋三越 住所:日本橋室町1-4-1
現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904(明治37)年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。
その越後屋は、江戸時代の1673(延宝元)年に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせ、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。
◆にんべん 住所:日本橋室町2-3-1 創業:1699(元禄12)年 【下左】
◆さるや 住所:日本橋室町1-12-5 創業およそ300年 【上右】
◆鮒佐 住所:日本橋室町1-12-13 創業:1862(文久2)年
「発句也 松尾桃青 宿の春」
日本橋の北に魚市場があった。朝から威勢のいい掛け声で賑わった。芭蕉はその近くに住んでおり、魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていた。
◆神茂(かんも) 住所:日本橋室町1-11-8 創業:1688(元禄元)年 【下左】
◆弁松総本店 住所:日本橋室町1-11-8 創業:1810(文化7)年 【上右】
◆山本海苔 日本橋室町1-6-3 創業:1849(嘉永2)年 【下左】
◆栄太樓総本舗 住所:日本橋1-2-5 創業:1857(安政3)年 【上右】
◆西川産業 住所:日本橋1-5-3 創業:1566(永禄9)年
大学箱根駅伝のグッズを販売している。
◆千疋屋総本店 住所:日本橋室町2-1-2 創業:1834(天保5)年 【下左】
◆うぶけや 住所:日本橋人形町3-9-2 創業:1783(天明3)年 【上右】
●日本郵便発祥の地・日本橋郵便局 住所:日本橋1-18-1
日本の近代的な郵便制度は、1871(明治4)年前島密(ひそか)の創意により、まず、東京-大阪間で始まった。ここに新制度発足当時、駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれた。
元旦の年賀出発式が新春の風物詩としてTVから流れるのがこの郵便局である。
●鎧の渡し
伝説によると、かつてこの付近に大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の折、ここで暴風、逆浪に会い、その船が沈まんとした時に、鎧一領を水中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることが出来た。以来ここを「鎧が淵」と呼んだと云われる。
また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられる。
●兜神社 住所:日本橋兜町1-8
1878(明治11)年に、東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、取引所関係者信仰の象徴
および鎮守として造立された。
ただし、当地には江戸時代から兜塚と称する塚があったらしく、境内に安置されている兜岩は、前九年の役(1051~62)の時に、源義家東征の折り、この岩に兜を懸けて戦勝祈願したと伝えらる。
兜町という地名の由来となっている。そのため、創建以前から何らかの祭祀の対象となっていたと思われ、魚河岸に出入りする漁民たちに信仰を集めていたと思われる。
一説には藤原秀郷(俵藤太)が平将門の兜を埋めた場所だともいわれる。
●名水白木屋の井戸 住所:日本橋1-6-7
東京都中央区日本橋一丁目の日本橋交差点角に、かつて日本を代表した百貨店のひとつ、白木屋があった。
白木屋は、1662(寛文2)年創業。越後屋と並ぶ呉服の大店。1712(正徳2)年、二代目木村彦太郎が井戸を掘ったところ、土中より観音様が現れ、清水が湧き出したと伝えられ、以後「白木名水」と謳われた。
白木屋は1967(昭和42)年に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999(平成11)年閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。
●日本橋1丁目1番地
●日本橋魚河岸記念碑 住所: 日本橋室町1-8-1先
徳川家康の関東入国の後、摂津から佃島に移り住んだ漁師らが、幕府に日々上納する残りの鮮魚を舟板の上に並べて、売り出したのが日本橋魚海岸のはじまり。
関東大震災まで、江戸及び東京の台所として活況を呈していた。
「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味で、記念碑は、乙姫を表している。
●日本国道路元標 住所:日本橋1-1先
1603(慶長8)年、徳川家康によって架けられた日本橋は、日本の中心、江戸繁栄の象徴となった。そして諸街道の起点と定められ、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれていた。
日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていたが、都電廃止後1972(昭和47)年の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設された。東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。また、日本国道路元標の直上の首都高速の高架橋上にも、東京市道路元標に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されている。
●日本橋の由来
日本橋は1603(慶長8)年、徳川家康が江戸幕府を開いた折、城下を整備するため湿地帯だったここに木橋をかけたのがはじめ。その後五街道の基点を日本橋とし、各街道に一里塚を置いた。慶長8年(1603)に初めて 寛永初期(1630)にはすでに擬宝珠付きの橋となったが、その後も、度々架け替えが行われ、現在の橋は1911(明治44)年に架けられた十九代目のルネッサンス式石造りの橋である。
●日本橋
橋の中央に麒麟像がある。
麒麟は想像上の生き物で、本来翼はない。けれど「日本の道路の起点であるここから、日本中に飛び立っていけるように」という願いを込めて、日本橋の麒麟には翼が付けられている。
東野圭吾作『麒麟の翼』の物語はここから始まる。
「勇気を持って真実から逃げるな!
青柳の手にあった白色の鶴は麒麟となって飛んで行った。」
この橋を訪れる2日前、偶然にも『麒麟の翼』がTBS-TVで放送された。
偶然の驚きである。だが私にはこの橋で確認しなければならない事項があった。
今から半世紀以上前のこと、私がまだ文字を覚えたばかりの幼少の頃、家族連れでこの橋に来たことがあった。
そしてこの橋の名を「にほんむし」と読んだ記憶がある。家族連れで何をしに遥々川崎から来たのか記憶にないが、「にほんむし」と読んだことだけが脳裡にはっきりと残っている。
そこで、本当に「にほんばし」がそう読めるのか、ここに来たならば確認したかった。
上の写真が橋の名である。
「は」とは縦棒がない、「む」としては点がない。そこで、子供心に無理して「にほんむし」になったことは想像できた。
「にほんはし」と、濁らず読むのだろうか、今も解らない。
●日本橋浮世絵の解説
「お江戸日本橋」といえばとりあえず多くの人の頭に浮ぶのはこの絵だしょう。広重の出世作「東海道五拾三次」(天保年間、1930年代の作)の1枚目であり、今も「浮世絵」の象徴的な作品の1つとしておなじみの1枚です。
『左手に桶を担ぐ魚の行商人のそばに高札場が見えることから、橋の南詰だとわかります。今もこの位置には高札場をかたどった日本橋の由来碑がある。 道の反対側に犬が見えますが、こちら側は受刑者の晒し場となっていた場所です。』とのこと。現代のように、高速道路がないからスッキリしていていい。
道を歩き、楽しんでいる者として日本橋に行かないものはモグリと思われるが、今回やっとで、道の起点の橋周辺を歩いた。
スタートは、歩いても20分程度で着くと云われるJR東京駅からである。
東京駅から500m、一石橋に着く。橋の左たもとには迷子しらせ石碑がたっている。
●一石橋
東京都中央区の東京都道405号外濠環状線(通称「外堀通り」)を通る日本橋川に架かる橋である。皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋されている。
この名前の由来が面白い。橋の両側に後藤家の屋敷があって、当時、橋が破損した際に、両後藤の援助により再建された。よって「後藤=五斗」と言い換えて、後藤(五斗)+後藤(五斗)=一石で、一石橋と呼ばれた。また、そのまま後藤橋ともいわれた。
一石橋(いちこくはし)はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。
橋上に立つと自身も含めて八つの橋が見渡せたことで、その名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれ、江戸の名所のひとつであった。
一石橋 一石橋から見た景色・八橋
日本橋川は、千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し隅田川に合流する一級河川である。
日本橋川流域は水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。
●一石橋迷子しらせ石碑 住所: 八重洲1-11先
1857(安政4)年に建てられた石柱・庶民の告知板。柱の正面には「満よひ子の志るべ(まよいごのしるべ)」、右側には「志らする方(しらするかた)」、左側には「たづぬる方(たづぬるかた)」と文字が彫られている。
告知板に、年頃、面体、格好、履物、衣類などの特徴を書いた紙を貼り、それを見て思い当たる人が、迷子や尋ね人を知らせた。
先だってネットTVで「夜桜お染」という若村麻由美さん主演の時代劇ドラマに、迷子石が出てきた。火事で生き別れになった兄弟を探すと云う設定である。徳川の世のお江戸は火事が多かったからこの「迷子しらせ石」などが情報交換の手段として大いに利用されたことと思う。
●日本橋西河岸地蔵堂・延命地蔵 住所:八重洲1-2-5
安置されている地蔵菩薩は、古く奈良時代のおよそ85cm(2尺8寸)の像である。
「至心に祈願し奉れば、日ならずしてご利益を蒙る」ということから日限地蔵尊と称される。
1718(享保3)年、西河岸と呼ばれていたこの地に移り、通称「西河岸のお地蔵様」と呼ばれるようになった。 鎮座して約300年に至るこの地蔵尊は、霊験あらたかな地蔵尊として、日本橋芸者衆や地元の人々から厚い信仰を集めてきた。
新派を代表する女形役者の花柳章太郎が板絵 お千世の図額を奉納した。当時まだ無名であった花柳章太郎が日本橋の花街を舞台とした日本芸者物語のお千代役を熱望、西河岸地蔵堂に祈願し起用され、出世作となった。
また、谷崎潤一郎が幼少時代にばあやに連れてこられたとの話もある。 谷崎は日本市人形町で生まれている。
一石橋を渡ると、右手に日本銀行が左手には常盤橋、常磐橋(旧常盤橋)、新常盤橋が日本橋川に続く。
●日本銀行本店本館 住所: 日本橋本石町2-1-1
1954(昭和29)年、大判・小判を管理していた徳川金座跡に建てられた。以来、銀行の銀行としての役割をはたしている。本館の建物は、ベルギー国立銀行を参考に1896(明治29)年竣工した。明治時代の貴重な本格的洋風建築として、重要文化財に指定されている。
●常盤橋・旧常盤橋(常盤橋公園) 住所:大手町2-7-2
常盤橋公園は、面積わずか1,420㎡の千代田区立の小公園だが、歴史的には大きな意味のある場所にある。
江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、1875(明治8)年に東京市の公園として公開された。園内には渋沢栄一の銅像が建っているほか、常盤橋門跡の石垣が残っている。
常盤(トキワ)は 本来「常磐 トコイワ」で、常に変わらない岩 の意味から、永久不変なこと、転じて 松や杉などの常緑樹が常に緑色の葉を保つことを表す。
常磐橋は、元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り上に架かっていて、「浅草口橋」とも呼ばれた。
明治になってから、石造のアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、手狭であることから後に現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。
常磐橋は工事のためフェンスで閉ざされ、公園も渋沢栄一像が見えるだけで工事用の高い塀で囲われている。
常盤橋
常磐橋(旧常盤橋)
新常盤橋
常盤橋門跡の石垣
●十軒店跡 住所: 日本橋室町3-2-15
徳川五代将軍綱吉が、京都の雛人形師10人を招き、ここにお長屋10軒を与えた。3月、5月には節句人形が軒なみ飾られ、「十軒が十軒ながら公卿(くぎょう)の宿」とうたわれた。現在の室町3丁目付近。
十軒店跡の説明板が設置されている。
●アンテナショップ
◆にほんばし島根館 住所:日本橋室町1-5-3 福島ビル1F
◆奈良まほろば館 住所:日本橋室町1-6-2 162ビル
●老舗の数々
◆日本橋三越 住所:日本橋室町1-4-1
現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904(明治37)年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。
その越後屋は、江戸時代の1673(延宝元)年に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせ、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。
◆にんべん 住所:日本橋室町2-3-1 創業:1699(元禄12)年 【下左】
◆さるや 住所:日本橋室町1-12-5 創業およそ300年 【上右】
◆鮒佐 住所:日本橋室町1-12-13 創業:1862(文久2)年
「発句也 松尾桃青 宿の春」
日本橋の北に魚市場があった。朝から威勢のいい掛け声で賑わった。芭蕉はその近くに住んでおり、魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていた。
◆神茂(かんも) 住所:日本橋室町1-11-8 創業:1688(元禄元)年 【下左】
◆弁松総本店 住所:日本橋室町1-11-8 創業:1810(文化7)年 【上右】
◆山本海苔 日本橋室町1-6-3 創業:1849(嘉永2)年 【下左】
◆栄太樓総本舗 住所:日本橋1-2-5 創業:1857(安政3)年 【上右】
◆西川産業 住所:日本橋1-5-3 創業:1566(永禄9)年
大学箱根駅伝のグッズを販売している。
◆千疋屋総本店 住所:日本橋室町2-1-2 創業:1834(天保5)年 【下左】
◆うぶけや 住所:日本橋人形町3-9-2 創業:1783(天明3)年 【上右】
●日本郵便発祥の地・日本橋郵便局 住所:日本橋1-18-1
日本の近代的な郵便制度は、1871(明治4)年前島密(ひそか)の創意により、まず、東京-大阪間で始まった。ここに新制度発足当時、駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれた。
元旦の年賀出発式が新春の風物詩としてTVから流れるのがこの郵便局である。
●鎧の渡し
伝説によると、かつてこの付近に大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の折、ここで暴風、逆浪に会い、その船が沈まんとした時に、鎧一領を水中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることが出来た。以来ここを「鎧が淵」と呼んだと云われる。
また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられる。
●兜神社 住所:日本橋兜町1-8
1878(明治11)年に、東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、取引所関係者信仰の象徴
および鎮守として造立された。
ただし、当地には江戸時代から兜塚と称する塚があったらしく、境内に安置されている兜岩は、前九年の役(1051~62)の時に、源義家東征の折り、この岩に兜を懸けて戦勝祈願したと伝えらる。
兜町という地名の由来となっている。そのため、創建以前から何らかの祭祀の対象となっていたと思われ、魚河岸に出入りする漁民たちに信仰を集めていたと思われる。
一説には藤原秀郷(俵藤太)が平将門の兜を埋めた場所だともいわれる。
●名水白木屋の井戸 住所:日本橋1-6-7
東京都中央区日本橋一丁目の日本橋交差点角に、かつて日本を代表した百貨店のひとつ、白木屋があった。
白木屋は、1662(寛文2)年創業。越後屋と並ぶ呉服の大店。1712(正徳2)年、二代目木村彦太郎が井戸を掘ったところ、土中より観音様が現れ、清水が湧き出したと伝えられ、以後「白木名水」と謳われた。
白木屋は1967(昭和42)年に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999(平成11)年閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。
●日本橋1丁目1番地
●日本橋魚河岸記念碑 住所: 日本橋室町1-8-1先
徳川家康の関東入国の後、摂津から佃島に移り住んだ漁師らが、幕府に日々上納する残りの鮮魚を舟板の上に並べて、売り出したのが日本橋魚海岸のはじまり。
関東大震災まで、江戸及び東京の台所として活況を呈していた。
「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味で、記念碑は、乙姫を表している。
●日本国道路元標 住所:日本橋1-1先
1603(慶長8)年、徳川家康によって架けられた日本橋は、日本の中心、江戸繁栄の象徴となった。そして諸街道の起点と定められ、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれていた。
日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていたが、都電廃止後1972(昭和47)年の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設された。東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。また、日本国道路元標の直上の首都高速の高架橋上にも、東京市道路元標に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されている。
●日本橋の由来
日本橋は1603(慶長8)年、徳川家康が江戸幕府を開いた折、城下を整備するため湿地帯だったここに木橋をかけたのがはじめ。その後五街道の基点を日本橋とし、各街道に一里塚を置いた。慶長8年(1603)に初めて 寛永初期(1630)にはすでに擬宝珠付きの橋となったが、その後も、度々架け替えが行われ、現在の橋は1911(明治44)年に架けられた十九代目のルネッサンス式石造りの橋である。
●日本橋
橋の中央に麒麟像がある。
麒麟は想像上の生き物で、本来翼はない。けれど「日本の道路の起点であるここから、日本中に飛び立っていけるように」という願いを込めて、日本橋の麒麟には翼が付けられている。
東野圭吾作『麒麟の翼』の物語はここから始まる。
「勇気を持って真実から逃げるな!
青柳の手にあった白色の鶴は麒麟となって飛んで行った。」
この橋を訪れる2日前、偶然にも『麒麟の翼』がTBS-TVで放送された。
偶然の驚きである。だが私にはこの橋で確認しなければならない事項があった。
今から半世紀以上前のこと、私がまだ文字を覚えたばかりの幼少の頃、家族連れでこの橋に来たことがあった。
そしてこの橋の名を「にほんむし」と読んだ記憶がある。家族連れで何をしに遥々川崎から来たのか記憶にないが、「にほんむし」と読んだことだけが脳裡にはっきりと残っている。
そこで、本当に「にほんばし」がそう読めるのか、ここに来たならば確認したかった。
上の写真が橋の名である。
「は」とは縦棒がない、「む」としては点がない。そこで、子供心に無理して「にほんむし」になったことは想像できた。
「にほんはし」と、濁らず読むのだろうか、今も解らない。
●日本橋浮世絵の解説
「お江戸日本橋」といえばとりあえず多くの人の頭に浮ぶのはこの絵だしょう。広重の出世作「東海道五拾三次」(天保年間、1930年代の作)の1枚目であり、今も「浮世絵」の象徴的な作品の1つとしておなじみの1枚です。
『左手に桶を担ぐ魚の行商人のそばに高札場が見えることから、橋の南詰だとわかります。今もこの位置には高札場をかたどった日本橋の由来碑がある。 道の反対側に犬が見えますが、こちら側は受刑者の晒し場となっていた場所です。』とのこと。現代のように、高速道路がないからスッキリしていていい。