あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

日本橋界隈を歩く

2013-12-30 20:09:48 | 東京散策
日本のすべての道はお江戸日本橋が起点である。
道を歩き、楽しんでいる者として日本橋に行かないものはモグリと思われるが、今回やっとで、道の起点の橋周辺を歩いた。


スタートは、歩いても20分程度で着くと云われるJR東京駅からである。
東京駅から500m、一石橋に着く。橋の左たもとには迷子しらせ石碑がたっている。

一石橋
東京都中央区の東京都道405号外濠環状線(通称「外堀通り」)を通る日本橋川に架かる橋である。皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架橋されている。
この名前の由来が面白い。橋の両側に後藤家の屋敷があって、当時、橋が破損した際に、両後藤の援助により再建された。よって「後藤=五斗」と言い換えて、後藤(五斗)+後藤(五斗)=一石で、一石橋と呼ばれた。また、そのまま後藤橋ともいわれた。
一石橋(いちこくはし)はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。
橋上に立つと自身も含めて八つの橋が見渡せたことで、その名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれ、江戸の名所のひとつであった。

       
                   一石橋                              一石橋から見た景色・八橋
日本橋川は、千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分流し隅田川に合流する一級河川である。
日本橋川流域は水運の便がよかったことから、江戸から近代に至るまで経済・運輸・文化の中心として栄えた。周辺には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。
        

一石橋迷子しらせ石碑  住所: 八重洲1-11先
1857(安政4)年に建てられた石柱・庶民の告知板。柱の正面には「満よひ子の志るべ(まよいごのしるべ)」、右側には「志らする方(しらするかた)」、左側には「たづぬる方(たづぬるかた)」と文字が彫られている。
告知板に、年頃、面体、格好、履物、衣類などの特徴を書いた紙を貼り、それを見て思い当たる人が、迷子や尋ね人を知らせた。
先だってネットTVで「夜桜お染」という若村麻由美さん主演の時代劇ドラマに、迷子石が出てきた。火事で生き別れになった兄弟を探すと云う設定である。徳川の世のお江戸は火事が多かったからこの「迷子しらせ石」などが情報交換の手段として大いに利用されたことと思う。
        

日本橋西河岸地蔵堂・延命地蔵  住所:八重洲1-2-5
安置されている地蔵菩薩は、古く奈良時代のおよそ85cm(2尺8寸)の像である。
「至心に祈願し奉れば、日ならずしてご利益を蒙る」ということから日限地蔵尊と称される。
1718(享保3)年、西河岸と呼ばれていたこの地に移り、通称「西河岸のお地蔵様」と呼ばれるようになった。 鎮座して約300年に至るこの地蔵尊は、霊験あらたかな地蔵尊として、日本橋芸者衆や地元の人々から厚い信仰を集めてきた。
     
新派を代表する女形役者の花柳章太郎が板絵 お千世の図額を奉納した。当時まだ無名であった花柳章太郎が日本橋の花街を舞台とした日本芸者物語のお千代役を熱望、西河岸地蔵堂に祈願し起用され、出世作となった。
また、谷崎潤一郎が幼少時代にばあやに連れてこられたとの話もある。 谷崎は日本市人形町で生まれている。
              

一石橋を渡ると、右手に日本銀行が左手には常盤橋、常磐橋(旧常盤橋)、新常盤橋が日本橋川に続く。
日本銀行本店本館   住所: 日本橋本石町2-1-1
1954(昭和29)年、大判・小判を管理していた徳川金座跡に建てられた。以来、銀行の銀行としての役割をはたしている。本館の建物は、ベルギー国立銀行を参考に1896(明治29)年竣工した。明治時代の貴重な本格的洋風建築として、重要文化財に指定されている。
                

常盤橋・旧常盤橋(常盤橋公園)  住所:大手町2-7-2
常盤橋公園は、面積わずか1,420㎡の千代田区立の小公園だが、歴史的には大きな意味のある場所にある。
江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、1875(明治8)年に東京市の公園として公開された。園内には渋沢栄一の銅像が建っているほか、常盤橋門跡の石垣が残っている。
常盤(トキワ)は 本来「常磐 トコイワ」で、常に変わらない岩 の意味から、永久不変なこと、転じて 松や杉などの常緑樹が常に緑色の葉を保つことを表す。 
常磐橋は、元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り上に架かっていて、「浅草口橋」とも呼ばれた。
明治になってから、石造のアーチ橋の常盤橋が造営されたものの、手狭であることから後に現在の常盤橋が造営されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。
常磐橋は工事のためフェンスで閉ざされ、公園も渋沢栄一像が見えるだけで工事用の高い塀で囲われている。
          
                              常盤橋


                                   常磐橋(旧常盤橋)

              
                                        新常盤橋

              
                                      常盤橋門跡の石垣


十軒店跡   住所: 日本橋室町3-2-15
徳川五代将軍綱吉が、京都の雛人形師10人を招き、ここにお長屋10軒を与えた。3月、5月には節句人形が軒なみ飾られ、「十軒が十軒ながら公卿(くぎょう)の宿」とうたわれた。現在の室町3丁目付近。
十軒店跡の説明板が設置されている。
        

        

アンテナショップ

にほんばし島根館  住所:日本橋室町1-5-3 福島ビル1F

奈良まほろば館  住所:日本橋室町1-6-2 162ビル


老舗の数々
日本橋三越  住所:日本橋室町1-4-1
現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904(明治37)年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。
その越後屋は、江戸時代の1673(延宝元)年に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせ、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。
   

にんべん 住所:日本橋室町2-3-1 創業:1699(元禄12)年  【下左】

さるや  住所:日本橋室町1-12-5  創業およそ300年  【上右】

鮒佐  住所:日本橋室町1-12-13  創業:1862(文久2)年  

「発句也 松尾桃青 宿の春」
日本橋の北に魚市場があった。朝から威勢のいい掛け声で賑わった。芭蕉はその近くに住んでおり、魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていた。


神茂(かんも)  住所:日本橋室町1-11-8  創業:1688(元禄元)年  【下左】

弁松総本店  住所:日本橋室町1-11-8  創業:1810(文化7)年    【上右】


山本海苔   日本橋室町1-6-3  創業:1849(嘉永2)年  【下左】 

栄太樓総本舗  住所:日本橋1-2-5  創業:1857(安政3)年  【上右】

西川産業  住所:日本橋1-5-3  創業:1566(永禄9)年

大学箱根駅伝のグッズを販売している。

千疋屋総本店  住所:日本橋室町2-1-2  創業:1834(天保5)年  【下左】 
        
うぶけや  住所:日本橋人形町3-9-2  創業:1783(天明3)年  【上右】   

日本郵便発祥の地・日本橋郵便局  住所:日本橋1-18-1
日本の近代的な郵便制度は、1871(明治4)年前島密(ひそか)の創意により、まず、東京-大阪間で始まった。ここに新制度発足当時、駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれた。
元旦の年賀出発式が新春の風物詩としてTVから流れるのがこの郵便局である。

 

鎧の渡し

                   
伝説によると、かつてこの付近に大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の折、ここで暴風、逆浪に会い、その船が沈まんとした時に、鎧一領を水中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることが出来た。以来ここを「鎧が淵」と呼んだと云われる。
また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられる。

兜神社  住所:日本橋兜町1-8
        

      
1878(明治11)年に、東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるにあたり、取引所関係者信仰の象徴
および鎮守として造立された。
ただし、当地には江戸時代から兜塚と称する塚があったらしく、境内に安置されている兜岩は、前九年の役(1051~62)の時に、源義家東征の折り、この岩に兜を懸けて戦勝祈願したと伝えらる。
兜町という地名の由来となっている。そのため、創建以前から何らかの祭祀の対象となっていたと思われ、魚河岸に出入りする漁民たちに信仰を集めていたと思われる。
一説には藤原秀郷(俵藤太)が平将門の兜を埋めた場所だともいわれる。

名水白木屋の井戸  住所:日本橋1-6-7
東京都中央区日本橋一丁目の日本橋交差点角に、かつて日本を代表した百貨店のひとつ、白木屋があった。
白木屋は、1662(寛文2)年創業。越後屋と並ぶ呉服の大店。1712(正徳2)年、二代目木村彦太郎が井戸を掘ったところ、土中より観音様が現れ、清水が湧き出したと伝えられ、以後「白木名水」と謳われた。
白木屋は1967(昭和42)年に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999(平成11)年閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。


日本橋1丁目1番地
         

日本橋魚河岸記念碑   住所: 日本橋室町1-8-1先
徳川家康の関東入国の後、摂津から佃島に移り住んだ漁師らが、幕府に日々上納する残りの鮮魚を舟板の上に並べて、売り出したのが日本橋魚海岸のはじまり。
関東大震災まで、江戸及び東京の台所として活況を呈していた。
「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味で、記念碑は、乙姫を表している。
 

日本国道路元標  住所:日本橋1-1先
1603(慶長8)年、徳川家康によって架けられた日本橋は、日本の中心、江戸繁栄の象徴となった。そして諸街道の起点と定められ、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれていた。
日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていたが、都電廃止後1972(昭和47)年の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設された。東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。また、日本国道路元標の直上の首都高速の高架橋上にも、東京市道路元標に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されている。
  

  

日本橋の由来
 
日本橋は1603(慶長8)年、徳川家康が江戸幕府を開いた折、城下を整備するため湿地帯だったここに木橋をかけたのがはじめ。その後五街道の基点を日本橋とし、各街道に一里塚を置いた。慶長8年(1603)に初めて 寛永初期(1630)にはすでに擬宝珠付きの橋となったが、その後も、度々架け替えが行われ、現在の橋は1911(明治44)年に架けられた十九代目のルネッサンス式石造りの橋である。

日本橋  
        

        

       
橋の中央に麒麟像がある。
麒麟は想像上の生き物で、本来翼はない。けれど「日本の道路の起点であるここから、日本中に飛び立っていけるように」という願いを込めて、日本橋の麒麟には翼が付けられている。
東野圭吾作『麒麟の翼』の物語はここから始まる。
「勇気を持って真実から逃げるな!
青柳の手にあった白色の鶴は麒麟となって飛んで行った。」
 
この橋を訪れる2日前、偶然にも『麒麟の翼』がTBS-TVで放送された。
偶然の驚きである。だが私にはこの橋で確認しなければならない事項があった。
今から半世紀以上前のこと、私がまだ文字を覚えたばかりの幼少の頃、家族連れでこの橋に来たことがあった。
そしてこの橋の名を「にほんむし」と読んだ記憶がある。家族連れで何をしに遥々川崎から来たのか記憶にないが、「にほんむし」と読んだことだけが脳裡にはっきりと残っている。
そこで、本当に「にほんばし」がそう読めるのか、ここに来たならば確認したかった。
                 
上の写真が橋の名である。
「は」とは縦棒がない、「む」としては点がない。そこで、子供心に無理して「にほんむし」になったことは想像できた。
「にほんはし」と、濁らず読むのだろうか、今も解らない。


日本橋浮世絵の解説 
        
「お江戸日本橋」といえばとりあえず多くの人の頭に浮ぶのはこの絵だしょう。広重の出世作「東海道五拾三次」(天保年間、1930年代の作)の1枚目であり、今も「浮世絵」の象徴的な作品の1つとしておなじみの1枚です。
『左手に桶を担ぐ魚の行商人のそばに高札場が見えることから、橋の南詰だとわかります。今もこの位置には高札場をかたどった日本橋の由来碑がある。 道の反対側に犬が見えますが、こちら側は受刑者の晒し場となっていた場所です。』とのこと。現代のように、高速道路がないからスッキリしていていい。



井の頭公園の歌姫・あさみちひろさんの公園ライブ

2013-12-17 17:48:19 | その他
井の頭公園の歌姫、中高年のアイドルあさみちゆきさん。
ストリートミュージシャンとして活動。歌謡曲、フォーク、演歌、J-POPとジャンルを飛び越え、古きよき昭和を感じさせる歌を聴かせているといわれる。
2001年11月より井の頭公園で歌いはじめ、先月12年目を迎え、今回のライブは第177回目。
このライブを聞きに、バスや電車を乗り換え2時間かけてやってきた。
     
プロフィール
1978年1月11日、山口県生まれ。
2003年、テイチクエンタテインメントから「紙ふうせん」でレコードデビュー。
              
 
今回の曲目
①港のカラス ②井の頭線 ③青春のたまり場 ④娘から愛をこめて ⑤ふるさと ⑥井の頭公園  ⑦新橋二丁目七番地 ⑧兄弟船(リクエスト) ⑨悲しき口笛(リクエスト) ⑩愛染桜
およそ50分のライブ、デビュー以前からのファンの皆さんとの会話が楽しかった。
          
今年もNHK紅白歌合戦の出場者が決まったが、残念だが選に漏れしまった。
昨年、大物演歌歌手がひとり出場不可となり、あさみさんには話題曲があったので、その歌手のあとがまにと思っていたが叶わなかった。
いつかその日がと願う。
             

今回は歌わなかったが、

   十年ぶりに 降りた駅                 十年ぶりに この街で
    想い出たずねて ここは来た            あなたは誰かと 暮らしてる
    三本立ての 黄昏シネマ              ハッピーエンドの 黄昏シネマ
    学校帰りに 待ち合せたね             涙がぽろりと こぼれて落ちた

    固い座席に もたれたら               私は今でも ひとりだと
    あなたが隣に いるようで              あなたに伝える 人もない

    あなたの遠い 青春の                私の遠い 青春の
    私はきっと エキストラ                 あなたはずっと 主人公
    それでもいい それでもいい             まぶしすぎて まぶしすぎて
    同じ季節を生きた                   今も瞳をそらす

《黄昏シネマ》

この歌が好きだ。
青春時代の苦くも甘酸っぱい想い出。誰もが持っている青春時代の淡い1ページではないだろうか。
          
            
昨日の夕刊から「この演歌的人生」という連載記事がはじまった。
第1回目は藤圭子さんであった。
彼女の怨歌代表作といえば「圭子の夢は夜ひらく」である。この「夢は夜ひらく」は、園まりさんら4組の競作から始まり持歌として、カバー曲として50組以上の歌手によって歌われている。
あさみちゆきさんも2004年に「ちゆきの夢は夜ひらく」として発売している。
彼女の「夢は夜ひらく」をはじめて耳にした時、フォークから演歌までの幅広く歌う歌手の曲なのだろうかという驚きがあった。実に「圭子の夢は夜ひらく」以上の怨歌を感じたからである。
ただ、原曲が練馬少年鑑別所で歌われていた曲を補作したものというので、それもOKなのかな。
その「ちゆきの夢は夜ひらく」とは、

     うまれて来なけりゃ よかったと       ブランド(鞄)バックと ひきかえに
      寒い目をした おとうとよ           あの娘が散らした 青い花
      生きているよね 逢いたいよ         風の間に間に ヒラヒララ
      ・・・・夢は夜ひらく                ・・・・夢は夜ひらく
  
              
            

次回は、2014年1月11日。あさみさんの誕生日にライブ。
これからも活躍を!
          

江戸の水源「井之頭」を散策

2013-12-16 16:43:11 | 東京散策
都立井の頭恩賜公園。
「井の頭」という地名の由来は、江戸時代にさかのぼる。
江戸城周辺に生活用水を供給していた神田上水の水源が井の頭池だったことから、タカ狩りに訪れた徳川家光が、コブシの木に井戸の水源という意味の「井の頭」と記したとされている。
この地の豊富な湧水は貴重なもので、京橋以北、神田川以南に神田上水として給水され、当時は、江戸っ子の産湯から将軍の茶の湯まで、すべてここの水だった。
今は、池が公園の中心地となっている。
江戸時代は幕府管轄だったが、明治維新後、東京府の管轄となり、1889(明治22)年には、宮内省(現・宮内庁)によって皇室財産に編入された。(いわゆる御料林)
1917(大正2)年に再び東京市に戻され、1917(大正6)年に、日本で最初の郊外公園として開園した。


これまで神田上水や玉川上水を江戸の生活用水として取り上げてきて、今回もその一環として神田上水の水源地として井の頭恩賜公園を訪れた。
京王井の頭線の井の頭公園駅を降りると目の前が井の頭公園の入口である。右脇には神田川が流れている。
しばらく進むと神田川の起源である、水門橋に到着する。目の前には、ひょうたん橋が、そしてその先には井の頭池が見える。時間が早いからか、スワンのボートが一艘だけ池面を進んでいる。





ここが神田川の起源

玉川上水と並んで有名な神田上水は、江戸時代、1590年日本最初の水道として造られた。
現在の神田川は井の頭恩賜公園の井の頭池を水源とし、池尻のひょうたん池から流れ出て、杉並区、中野区、新宿区、豊島区、文京区、千代田区、台東区を横断し、両国橋で「隅田川」に注ぐ東京の中心部を西から東に流れる全長24.6kmの一級河川である。途中で善福寺川、妙正寺川と合流している。
徳川三代将軍・家光のころ、神田川は平川と呼ばれており江戸の町に飲料水を供給する大事な川で、治水や江戸政権防備のために流れを変えたりする工事も行われていた。


ひょうたん橋を渡って、ここから井の頭池を離れ弁財天の入口である、黒門に向かうため左手の住宅街に進んだ。玉光神社があるが一般人は入れないのかガードされている。
比較的広めの敷地を持つ家並みが続く。

黒門の手前に「神田御上水 井頭辨財天(弁財天)」の道標がある。隣には、三鷹市唯一の大黒天石像が小祠に納められている。
   
井の頭池の水の恵みを受けた江戸町民の厚い信仰によって弁天信仰は盛んとなり、参詣人が絶えることがなかった。そのため道標が各所に建てられた。江戸の人々はそれを頼りに甲州街道から高井戸、久我山を通って井の頭弁財天に参詣した。1745(延享2)年建立。
道標の石の長さだけでも2.4mあり、その下の基盤の台石は2段となっていて、現存する井の頭への道標、5基のうち、最も大きい。と書かれたBlogを幾つか目にしたが、その5基が何処にあるのか、一覧が見当たらない。それで、不確定ながらこれが残り4基ではないだろうかという井の頭への道標を探し出した。2基目はこの後予定している、武蔵野八幡宮の境内。
あとは、牟礼神社(三鷹市牟礼2-6-12)。牟礼村の巳待講が建てた常夜灯・巳待講燈籠に井の頭辨財天への道標が刻まれている。4基目は、京王線芦花公園駅付近の曲がり角にたっている。もうひとつは甲州街道沿い、杉並区上高井戸1-23にたっている。その道標には「是ヨリ一里半」の文字も刻まれている。
初代の黒門                   

道標の右側面には「是より社まで一丁半」とある。黒門から160m余りの参道を進む。
左手に1652(承応元)年創建の大盛寺が、右手には石灯籠二対がたっていて、下る石段がある。
石段の両脇一対の灯篭が「紫灯篭」と呼ばれている灯篭である。
紫草という雑草の根からとった江戸紫の染物問屋とその根を薬にした薬種問屋が1865(慶応元)年に寄進した。
向かって左側の石灯籠には薬種問屋が、右側の石灯籠に染物問屋が寄進している。それぞれに寄進者名が刻まれている。

石灯籠の間の石段を下りると、池に井の頭弁才天の建物が。


井の頭池中の島に鎮座し、神田上水源の水神として江戸の人々に広く信仰された音楽・芸能の守護神である。武蔵野吉祥七福神巡りのひとつ。小さいながらも荘厳な雰囲気に包まれる朱塗りのお堂。この弁財天は、秘仏として12年に一度(巳年)のご開帳がある。

社の左手に回ると、このほど紫灯篭近くから移転した宇賀神像と七井不動尊の小さなお堂がある。
「井之頭辦財天石鳥居講中」と「明和四年(1767)」が台座に刻まれている。宇賀神は、胴体が蛇で頭は人間、農業の神様。
  

弁才天の境内を出ると目の前に徳川三代将軍家光が「井の頭」の文字をコブシの木刻んだと云う碑が目についた。
                   
                         「徳川家光御切付旧跡」の碑
ここからは時計回りに池を巡る。
御殿山遺跡の碑、お茶の水、野口雨情の碑と続く。
          
池を見渡す高台は、鷹狩りの急速に使用された御殿が設けられていたと云うことで「御殿山」と名付けられた。
その御殿山から、1962(昭和37)年に直径5mの竪穴住居跡や多くの遺物が彫り出され、この地域には、3~4千年以前の集落があった。

          
上は御殿山の写真だが、公園利用者の駐輪場になっている。先週のTBS「噂の東京マガジン」で公園の放置自転車の問題が紹介されたので遠景で駐輪場を写した。
むかしから吉祥寺駅付近の放置自転車がワーストワンとなっており、駅周辺の駐輪場の収容能力が足りず、駅近くの公園内に放置自転車が最大1600台も置かれ公園を利用している人たちが困っていとのことだ。
それで公園の機能を奪っているところもあるというが、今回は報道もあってか少ないようだ。

          
井の頭池の西端にうっそうとした木立に囲まれたところにその昔、地下水が湧き出していた。
当地へ鷹狩りに来た徳川家康がこの良質な湧水を好んで、よく茶をたてたとのことで、以来この水は「お茶の水」と呼ばれている。その際に使用した茶臼が弁財天に残されている。現在は残念ながらポンプアップされている。かつては水泳場があった。

          

          
大正から昭和初期に活躍した詩人、童謡・民謡作詞家・野口雨情の碑である。雨情は、1924(大正13)年から晩年の1944(昭和19)年まで、20年間吉祥寺に住んだ。1944(昭和19)年に疎開と療養のため宇都宮に転居し、翌1945(昭和20)年没。雨情はこの公園を好んだという。碑の詩は「井の頭音頭」で、「鳴いて さわいで 日の暮れごろは 葦(よし)に 行々子(よしきり) はなりゃせぬ」記されている。

お茶の水から井の頭池を眺める。

湧水池として知られる井の頭池は、徳川家康の命によって江戸の飲料水確保のために作られた日本初の水道・神田上水の水源となったことは記しているが、井の頭池は湧水口が7ヶ所あったことから、かつては「七井の池」とも称される。右の橋は七井橋と呼ばれる。
春の井の頭池は、七井橋から見える池に被さるように迫出す桜の美しさが格別で、日本さくら名所百選にも選らばれている。
昭和に入り、周辺の開発が進み、豊富であった湧水も涸れ、現在は園内8カ所の井戸から汲み上げ、池に補給している。ただし、井水に含まれる成分によって、植物プランクトンが大量に発生している。そこで、「よみがえれ井の頭池」と称して浄化装置をはじめとして様々な取り組みをしている。

        

ここから、井の頭公園を離れ道標のたっている武蔵野八幡宮へ向かう。
JR中央・総武線寺地上寺駅の脇を通る。
                  
吉祥寺の地名は1657(明暦3)年の明暦の大火のあと、小石川水道橋際にあった吉祥寺門前周辺を幕府が都市開発する際に、住民を五日市街道沿いのこの地に移住させたことが発祥である。
当の吉祥寺は文京区本駒込三丁目に移転しており、「駒止界隈を歩く」の際に参拝している。

関連 : 駒止界隈を歩く

また、先週のNテレ「ぶらり途中下車の旅」の番組でで、元オリンピック水泳選手が駅周辺をまわり、ビル中のお地蔵様が出てきたり、パノラマレストランで食事を執るシーンがあった。
そのお地蔵様は恋愛成就で関係ないので、駅前はハーモニカ横町をぶらりとした。
間口が1間あるかないかの狭い通路が縦横に走っている。駅への近道とある。

ハーモニカ横丁の名前の由来は、狭い間口の2階建の店が建ち並ぶ様子がハーモニカの吹き口に似ていることから名付けられたといわれる。

武蔵野八幡宮に到着。
目的の弁才天への道標は、鳥居のすぐ左手にたっている。
        
武蔵野八幡宮周辺は、旧武州多摩郡吉祥寺村として、江戸時代より畑作農業が盛んであった。
ウドは、数少ないわが国原産の野菜のひとつで、江戸時代後半の天保年間(1830~44)にこの地で栽培されるようになった。冬から春にかけての野菜が不足した季節にはウドは独特の歯触りと香りで、江戸庶民に歓迎された。
明治、大正、昭和と栽培が盛んとなり「吉祥寺ウド」として知られ、その後「東京うど」として全国に知られるようになった。


        
正面に「神田御上水 井之頭瓣財天」と刻まれたこの道標は、台座を含めると約2mある。左側面には天明5年(1785)の年号と、「これよりみち」と記されている。
小石川水道橋からこの地吉祥寺を開村し際に鎮守として信仰した。


吉祥寺は古くから安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺という4軒の寺が集まる寺町として知られる。 特に寺が集中している武蔵野八幡宮付近の地域を四軒寺と呼ぶようになっていったと語り伝えられている。
        
安養寺は真言宗の寺院。1773(安永2)年に鋳造された市内で最も古い梵鐘がある。
また、1665(寛文5)年に建立された市内で最も古い庚申塔がある。この庚申塔には吉祥寺の開発に従事した人の名が刻まれ、特に女性の名が十数人記されていることは珍しい。

   


        
月窓寺 曹洞宗の寺院。市内最古の「乾漆造白衣観音坐像(かんしつづくりびゃくえかんのんざぞう)」(非公開)がある。

再び、井の頭恩賜公園方向に向かう。玉川上水である。
この辺りは、神田上水の起源もあり、その上に玉川上水があるという素晴らしいところだ。

1654(承応3)年に多摩川から四谷の水門まで43kmに達する玉川上水を開設。 当時のロンドンを凌ぐ世界最高と言える給水システムを作り上げた。 ポンプなどを使わず、高低差のみで水を運ぶしくみを「自然流下式」と呼ぶが工法である。
関連 : まちの受け継ぐ財産「玉川上水」を歩く

武蔵の雰囲気が漂う公園を歩き、ジブリ美術館に行く。
        


正式名称は、三鷹市立アニメーション美術館。宮崎駿の断面スケッチを元にデザインした建物。
2001年に開館した美術館の運営と、2007年から三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーとして世界のアニメーション映画の配給やテレビ放送を行っている。入館は、完全予約制。


再び、井の頭湖に戻り、井の頭公園の歌姫・あさみちゆきさんの公園コンサートを聞きに向かった。
今回の散策は、二の次で本来の目的はあさみちゆきさんの歌である。





関連 : 井の頭公園の歌姫 公園ライブ

最後は、公園の初冬風景を。







サバ神社巡り

2013-12-07 15:58:11 | 歴史散策
かなり以前のことだが、通勤時に車のナビに様々な「サバ神社」が表示していることに気づき、「なんだ、これは。」と驚いたことがあった。そしてバラバラではあるがサバ神社12社に参ったことがあった。
今回、あらためて『12サバ巡り』として、1日で巡ることとした。
サバ神社とは、神奈川県中部の境川中流域、横浜市瀬谷区・泉区、大和市南部、藤沢市北部にかけて12社ある、「サバ」と読む社名を持つ(あるいは過去に持っていた)神社である。


今回、12社のうち、西俣野の左馬大明神社と石川の佐波神社は最寄駅からバスを利用し、残る10サバは小田急線の湘南台駅からテクで通してサバ巡りをした。12月初旬の暖かな日であった。

最初の左馬大明神社には小田急線湘南台駅東口より、神中バス・湘27ドリームハイツ行に乗って西俣野BSで下車、すぐ。
左馬大明神社   藤沢市西俣野837辺り
この神社は神奈川県神社庁には登録されていない。新編相模風土記稿には、高座郡大庭庄西俣野村、神禮寺持とある。




次の佐波神社は小田急線六会日大前駅西口より、神中バス循環バスで4号西BSで下車、西方向へ徒歩6分。
佐波神社   藤沢市石川141
由緒
祭神は源義朝公で、1611(慶長16)年頃創立。一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆によって勧請されたと伝えられる。社名については初め左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めた。
石川六人衆とは入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏だが、六人衆がなぜ義朝を祭神としたのかは不明。






ここからは、小田急線湘南台駅より徒歩で進む。今田鯖神社には10分ほどで到着。
鯖神社   藤沢市湘南台七丁目201
由緒
1702(元禄15)年当地井上瀬兵衛発起より「鯖大明神」造立。1826(文政9)年改築。1873(明治6)年村社列格。
地元では「今田鯖神社」と称して、保存会が小冊子を発行している。



 
次は境川を渡り、藤沢市より横浜市泉区にはいる。
途中、道筋には石仏が祀られている。


中には双体道祖神らしき石仏もあった(右)


道端に祀られている石仏群が泉区には沢山あるようなので、改めて訪れたい。
20分少々で旧字名鍋屋の鯖神社に着く。

鯖神社   横浜市泉区下飯田町1389
由緒
勧請年代は不詳であるが、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。
また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。
1873(明治6)年に下飯田村の村社に列せられた。
社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。
またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上の道」または「西の道」が通っている。




次の鯖神社には25分ほどかかる。
鯖神社   横浜市泉区和泉町705
由緒
慶長年間(1596~1615)に当地の郷士、清水、鈴木の両氏が勧請したと伝承されている。1689(元禄2)年に氏子住民の浄財で社殿の修復が行われたと記された棟札が保存されているが、1836(天保7)年に神祇管領卜部朝臣良長(じんぎかんれいうらべあそんよしなが)が京都から参向奉弊し「鯖大明神」の額を奉納した旨を記した棟札も保存されている。








再び、境川を渡って藤沢市に。境川は美しい木製の渡戸橋を渡る。

先代の橋の一部が先ほどの鯖神社に保存されている(右)


30分ほどで七ツ木神社に到着。
七ツ木神社   藤沢市高倉1128
由緒
文禄年中(1592~96)渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。1826(文政9)年再建。新編相模風土記稿に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。1873(明治6)年村社列格。



先ほどの神社同様 両部鳥居という特徴ある鳥居が迎えてくれる

ここの神社も双体道祖神らしき石仏が祀られている


境川沿いの道を遡ると、田んぼの脇に石祠が祀られている。

三度、境川を渡り環状4号線にさしかかる。信号機は「左馬神社入口」名。


七ツ木神社から30分近く、旧字名中宮の左馬神社に到着。

左馬神社   横浜市泉区和泉町3253
由緒
伝承では源氏隆盛の頃の勧請という。昔から「相模七サバ」の一社と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記している。1625(寛永2)年に三河松平氏の分家・能見松平(のみまつだいらけ)の勝左衛門昌吉が和泉村の領主になった時に村の鎮守として再興、また能見松平家累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、1816(文化13)年、1835(天保6)年の棟札が残されている。1873(明治6)年に和泉村の「村社」に列せられた。





 
今度は、境川の支流である和泉川沿いを遡ること20分余り。
佐婆神社   横浜市泉区和泉町4811
由緒
勧請年代は不詳であるが、伝承では、寛文年中(1661~72)に伊予河野氏の後裔、石川治右衛門が当地に往来した時、一統の守護神として奉斎したのが創祀という。また1878(明治11)年に当地に伝わる伝承類をまとめた「和泉往来」の文書には「慶長年中(1596~1615)の勧請という」とある。
おそらく当社も境川の両岸に祀られている境の神としての性格を持つ古い社と思われる。当地字名の「神田(かみだ)」は当社の「神饌田(しんせんでん)」があったからという。1835(天保6)年に社殿修復をした時の棟札が残されている。境内の「たぶのき」は推定樹齢380年で、横浜市の名木古木に指定されている。
通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。
199(平成11)年に湘南台まで延伸した相鉄いずみ野線の線路が、社殿の背後を高架で通っているため、神社の環境は著しく変わった。






環状4号線を渡って、25分ほど。
飯田神社   横浜市泉区上飯田町2517
由緒
勧請年代は不詳であるが、社伝に「1239(延応元)年に飯田三郎能信(よしのぶ)、当時の地頭に復するや篤き奉幣(ほうへい)の儀あり猶知行平山源太郎の崇敬特に深かりし社なり」と伝え、1800(寛政12)年、式部権大輔菅原長量(ながかず)が「飯田大明神」と刻まれた銅製の神号額を奉納、また1816(文化13)年に神祇管領占部朝臣良長が当社に幣帛(へいはく・神前に奉献するものの総称のこと)を献上して祝詞を奏上している。
新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」と記され、鯖明神とあるように昔から境川沿いに多く祀られているサバ神社の一社で、「相模七鯖」のひとつに数えられている。
1873(明治6)年に村社に列した。








四度目の境川渡り、境川沿いに社があることを体感。川を渡ると大津家の長屋門が見えてくる。
         
大津家の長屋門は、桁行き11間(およそ20m)、梁行き2間半(4.5m)、屋根は寄棟造りで妻側を切り上げた鉄板葺き(建築当時は茅葺き)。建築年代は江戸時代末期と考えられる。長屋門は家格の象徴として村役人層の屋敷に設けられていた。大和市の重要文化財(有形文化財)に指定。


20分弱で次の左馬神社に。
左馬神社  大和市下和田1110
由緒
『新編相模国風土記稿』には「鯖明神社、村内鎮守とす。1670(寛文10)年の棟札あり。眞福寺持、 鐘楼・鐘は1670(寛文10)年造」とある。
1789(寛政元)年銘の常夜燈には「鯖大明神」と記されている。
『新編相模国風土記稿』に記述がある眞福寺は鯖宮山と号する真言宗の寺で、かつては左馬神社と深いつながりがあったようだが、大正末期に廃寺となり、詳しいことはわかっていない。左馬頭義朝を祭神とし七サバ参りの一社にあたる。










次のサバ神社までの距離が一番遠い。しかも車の往来が激しくセンターラインがない車道を進む、35分余りである。
左馬神社   大和市上和田1168
由緒
桃園天皇の1764(宝暦14年)、徳川九代将軍家重の代に当村の名主渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に宮を建立したと伝えられる。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神修養道場となるや漸次庶民の崇敬の的となる。
1816(文化13)年、上和田信法寺十四世住職の憧挙上人が氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたところ其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与え、以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬をえて来た。
古くより相模の七鯖神社のひとつに数えられ、境川流域を挟んで位置しており、神社名も鯖大明神(1764(宝暦14年)・左馬大明神(1816(文化13)年)・和田左馬大明神(1866(慶応2年)と変遷し、1909(明治42年)に現在の左馬神社となり村社に列せられる。








上和田の左馬神社北を走る中原街道で五度目の境川を渡り、最後の左馬神社に20分余りで到着。
左馬社   横浜市瀬谷区橋戸三丁目20-1
由緒
瀬谷左馬社の創建年代は不詳である。
当社近くの境内の岸に古宮と呼ぶ森があり、往昔その社を源家縁りの人等が当地に移し、源義朝公を斎ったものと伝えられる。
その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」が盛んであった。 当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり、祭神は左馬頭源義朝である。
隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願したとのことである。






境川の中流域に、点在して源義朝(みなもとのよしとも・左馬頭:サマノカミ、サバノカミ)、或いは源満仲(和泉川沿い3社)を祀る神社が何故12社もサバ神社の名であるのだろうか。江戸時代にはもう1社、東俣野(現在の横浜市戸塚区の俣野と東俣野をあわせた地域)に在ったといわれている。
これらの神社の中で、飯田神社(上飯田)、鯖社(下飯田)、左馬神社(中の宮:和泉)の3社の創建は特段に古く、鎌倉時代中期には在ったと言われている。
その時代にこの地を治めていたのは源氏に縁が深い飯田氏である。そこでサバ神社の創建に飯田氏が関わっていたのではないかとの説がある。
また、何故和泉川沿いの3社だけが源満仲を祀っているかだが、和泉地区に信濃国出身の泉小次郎親衡(ちかひら)という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、居住していた。そこで、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうということだ。
その他サバ神社には諸説あるようだが、下和田付近の伝承を紹介しておく。
「大雨による洪水が発生した後、水が引くと、木に沢山の鯖が引っ掛っていた」ことがあり、それから鯖を祀ったと云われ、サバ神社となったのではと。


江戸時代末期から大正年間にかけて7サバ巡りという、1日に7カ所のサバ神社を参る風習があった。子供の疱瘡、麻疹、百日咳に御利益があるとされたと云う。
「相模七サバ」と呼ばれていたのは、上和田、下和田、高倉、今田、下飯田、上飯田、瀬谷のサバ神社である。
今回、1日に7サバを上回る12サバ巡りを行ったが、それにはどんな御利益が現れるか楽しみだ。


                                            参考資料:神奈川県神社庁
                                                   横浜市泉区
                                                   下和田左馬神社


京都の紅葉を愛でる2013 東福寺~正伝永源院

2013-12-02 12:42:55 | 京都
東福寺
臨済宗東福寺派大本山。関白九條道家が1236(嘉禎2)年創建。
2000本を超えるカエデがあり、通天橋が架かる洗玉澗辺り一面紅色が支配する景色は日本一と絶賛される。通天橋は京都を舞台にしたドラマによく登場する。








即宗院(そくしゅういん)
東福寺塔頭のひとつで、境内の東端にある。。薩摩藩ゆかりの寺として知られていて、 西郷隆盛と清水寺の勤皇派僧侶・月照が境内の茶亭に隠れ、幕府転覆の策を謀かったが大老・井伊直弼(なおすけ)の大弾圧によりふたりは鹿児島に逃げる。月照は失意の中、錦江湾に身を投じる。西郷は大島に流刑される。維新の大業を成したのは10年余り後のことである。








戊辰戦争の薩摩藩犠牲者を祀る「東征戦亡の碑」が建立されている。
島津藩524名の犠牲者の功を永く讃えるため、西郷自らが筆をとり、建碑の監督をした。

清水寺
778(宝亀9)年、延鎮上人が音羽の滝辺りに草庵を結んだことが始まり。その後坂上田村麻呂が仏殿を寄進し、千手観音を安置した。
4万坪の境内に紅葉したカエデと堂塔が渾然一体と並び立つ風景は抜群である。










知積院(ちしゃくいん)
徳川家康の寄進によって紀州より当地に再興した、真言宗智山派(ちさんは)総本山。成田山新勝寺、川崎大師平間寺や成田山新勝寺が本山に準じた別格本山して系列にある。
参道の右手の鐘楼周辺は紅葉園として整備されている。










正伝永源院(しょうでんえいげんいん)
もとは正伝院と永源院との2寺であり、臨済宗建仁寺の塔頭である。
織田信長の弟・織田有楽斎が大阪冬の陣以降に再興し、境内に「如庵」を建て茶道三昧の悠々自適の生活を送った。
徳川家康が江戸開府の際に現在の数寄屋橋付近に土地を拝領し、有楽斎が数寄屋風の茶室を建てた。それで、数寄屋橋や有楽町と云う地名が出来たと云う。ただし、有楽斎が江戸に住んだという記録はないようだ。
また、肥後細川家の菩提寺ともなっており、十八代当主細川護熙(もりひろ)氏の襖絵や焼き物が飾られている。
期間限定の特別公開で、テレ朝「モーニングバード」の番組で久保田アナが取材して紹介した。




京都駅付近
         


                    関連 : 京都の紅葉を愛でる2013 下鴨神社~曼殊院
                         京都の紅葉を愛でる2013 嵐山~嵯峨野
                                 

京都の紅葉を愛でる2013 嵐山~嵯峨野

2013-12-01 16:38:38 | 京都
嵐山・渡月橋
渡月橋は、亀山上皇(1249~1305)が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから名付けられた。
今年の台風18号襲来の際、桂川が氾濫して橋周辺が冠水する被害が出たが現在は公園の川沿いにバリケードが置いてある程度でその被害の名残は一見見当たらない。






嵐山公園




御髪神社(みかみじんじゃ)
日本で唯一頭と髪の神社。


常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
小倉山の中腹の地形を利用して慶長年間(1596~1615)に建立された日蓮宗の寺院。








祇王寺(ぎおうじ)
小じんまりとした苔の庭園。
平家物語に登場する白拍子・祇王が母、妹と住んだ尼寺。
ここで云う白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した歌舞を演ずる舞女を指す。






化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
1200年ほど前、弘法大師が五智山如来寺を開創し、野ざらしの遺骸を埋葬したことが始まり。
境内には8000体の石仏・石塔が祀られている。








愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)
千二百羅漢の天台宗の寺院。羅漢様は昭和製。
奈良時代の末、聖武天皇の娘・称徳天皇(718~770)が建立した。平安時代に入って鴨川の洪水により廃寺となり、それを復興した僧侶がいつも念仏を唱えていることから念仏聖人と呼ばれ、寺名も愛宕念仏寺呼ばれるようになった。
嵯峨野めぐりの出発点。




「あたご」と書いて「おたぎ」とは読めない。この地を愛宕(おたぎ)と云う。

愛宕神社一之鳥居付近の茅葺建物




土佐四天王
右から中岡慎太郎、坂本竜馬、武市瑞山、吉村寅太郎。
彼らは討幕の密議を交わし、薩長同盟を成立させ、無血の大政奉還を実現させた。
下の像は落柿舎と畑を挟んだ南に位置する。

右の写真は、河原町通の坂本竜馬遭難之地碑(近江屋跡)

11月27日に訪れる


                    関連 : 京都の紅葉を愛でる2013 下鴨神社~曼殊院
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