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歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鎌倉七口を辿る その3

2012-05-27 12:21:27 | 鎌倉巡り
鎌倉七口めぐりの3日目、今回は名越切通を辿った。


                           名越切通
                  

国史跡 名越切通(なごえきりどおし)は鎌倉時代に尾根を掘り割ってつくられたとされ、鎌倉から三浦半島を結ぶ重要な通行路の役割を果たしてきた。
「名越」の名は、この道が峻険なため「難越(なこし)」と呼ばれたことから由来するといわれている。
鎌倉時代には衣笠城(横須賀市)を拠点とする三浦氏の脅威からの防御手段として、切通をあえて狭くして通行しづらくしたり、「大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれる人工的な防衛の壁を築いている。
発掘調査によると、名越路は江戸時代も使われていたことが分かっている。明治に入り1883(明治16)年にトンネル道路が、1889(明治22)年に横須賀線が開通して、切通も幹線道路としての役割を終えた。
また、発掘調査では鎌倉時代の路面までは確認できてはいない。おそらくその道は、今よりずっと急坂で、高いところを通っていたかも知れないといわれる。


鎌倉七口めぐりは、鎌倉十井もあわせており、先ずは十井巡りと、今回のスタートは鎌倉駅から京急バス逗子行に乗り、「光明寺」バス停で下車した。

光明寺
浄土宗大本山。正式には天照山蓮花院光明時(てんしょうざん・れんげいんこ・うみょうじ)という。
開基は1243(寛元元)年、鎌倉幕府四代執権・北条経時(ほうじょうつねとき)で、開山は記主禅師然阿良忠(ねんありょうちゅう)といわれている。
三門は鎌倉において、現存するものとしては最大の二階建ての門で浄土宗関東総本山にふさわしい名建築。
江戸時代に、 徳川家康が浄土宗学問所関東十八壇林を決めた時に第一位になり、大変繁栄をした。
              

先日、TVの十津川サスペンスで亀井刑事が捜査のため鎌倉に訪れ、光明寺三門から出てくるシーンを見た。TV的にもこの三門の映像は良いのだろう。
三門は、五軒三戸二階二重門といい、一階が和風、二階が唐風の折衷様式で浄土宗関東総本山にふさわしい風格ある門である。扁額の「天照山」は室町時代の第102代後花園天皇の筆によるとされる。
団体予約すれば三門が拝観できるという。
  
      
本堂に上ると正面右手に弁財天が祀られている(本堂・・重要文化財)。
              

蓮池(大賀ハス)を中心とした小堀遠州の作の庭園。ほかに三尊五祖の石庭もあるという。
              

光明寺裏山に上ると、「かながわの景勝50選」の碑がある。1979(昭和54)年に選定された「光明寺裏山の展望」であるが、今は木々が景勝を覆ってしまっている。
              

その先、トンネルを潜って車道を下りて行くと、右手に内藤家の墓所がある。
陸奥国磐城平の藩主から国替えになって、日向延岡の領主になった内藤家歴代の墓所で、200基以上の石塔が建っている。
              


さらに、国道134号(横須賀市-大磯町)道路を潜り、海辺に出ると、国指定史跡「和賀江嶋」の碑がたっている。

和賀江島
和賀江島(わかえじま/わかえのしま)は、1232(貞永元)年に築造されたわが国において現存する最古の築港跡で、国指定の史跡になっている。
鎌倉の海岸が遠浅で、船からの荷の上げ下ろしが不便で、また波風が高い時は、着線が流されるなどの被害が多かったため三代執権・北条泰時の援助を受けて、石積みの提・和賀江嶋を築いた。
石積みの石材は、相模川や酒匂川、遠く伊豆半島より運んだ。その後、この港は鎌倉の海の玄関口として重要な役割を果たした。
築造時の姿は分かっていないが干潮時には島状の姿が現れる。

タイミング良く引き潮時であったため、石積みの和賀江嶋の遺跡を見ることが出来た。石碑の奥に黒く線が延びているのが石積みである。近くでは団体の小学生が、石の影に隠れているカニを探して騒いでいる。


「和賀江嶋」の碑の先にある海岸線に沿った小道を進んでゆくと右手に「六角の井」を見つける。民家の駐車場の脇にあった。

六角の井
保元の乱で敗れた源為朝(頼朝の父・義朝の弟)は、腕の筋を切られ大島に流された。
弓の名手であった為朝が自分の力を試すために、配流先の大島から18里離れた光明寺裏にある天照山めがけて放った矢がこの井戸に落ちたという。
井戸は八角であるが鎌倉側に六角、小坪側に二角であることから「六角ノ井」と呼ばれる鎌倉十井(じっせい)のひとつであるが、ここは現在逗子市小坪五丁目である。
別名を「矢の根ノ井」というが、これは、村人が矢の根を拾い上げると水の質が悪くなったので、元に戻したところ、もとのような清水が涌き出るようになったという伝説からこの名がついた。


「六角の井」から次は、本日の主要目的地である「名越切通」に向かう。
鎌倉七口プラス鎌倉十井が鎌倉散策のため、目的地が離れてしまうコース立てになってしまった。そこで、次の目的地、「名越切通」までは黙々と1時間近く歩く。

当初は名越切通を鎌倉側から入る予定であったが、どこかでターンしなければならないので逗子側から入ることとした。
直接、名越切通に来るのなら逗子駅から鎌倉駅行京急バスで「久木新道」バス停下車が逗子側入口に便利なようだ。鎌倉側入口は「緑ヶ丘入口」バス停を下車となる。

今回は、逗子側でも法性寺の裏をまわって名越切通に行くことにした。

法性寺
日蓮宗、猿畠山法性寺(えんはくさんほっしょうじ)は安房の清澄寺(せいちょうじ)で日蓮宗を改宗した日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を構え布教を行っていたが、様々な法難にあい、草庵を焼き討ちされた。その才、白猿に導かれ法性寺の岩窟まで逃げてきたという伝説がある。
三門の「猿畠山」と書かれた扁額には、日蓮を導いたとされる白猿があしらわれている。
              

 

                 

法性寺本堂脇を進んでいくと、上りはじめてすぐ右手にやぐらが見える。
              

ノラと思うネコが2匹いる。1匹は尻尾を高々と上げて威嚇してくる。その先でもノラネコが群れていた。
日蓮は白猿が案内してこの地に来たかも知れぬが、私はこの地でノラに追いかけられるのではと人気のない山道で恐ろしさを感じた。

法性寺の裏を上りきったところが鎌倉幕府防衛施設の「お猿畠の大切岸」の一部のようだ。
              

案内に辿って突き当たりに出る。切通の本道のようだ。先ずは逗子側の入口にと、足を進める。


改めて「名越切通」の案内板があるところからスタートする。
              切通入口

              第一切通

まんだらやぐら群
この先、危険で立入禁止となっている。その反面、期間限定で公開出来るのは何故なのだろう。
「まんだらやぐら群」とは何なのか、調べてみたが今ひとつ分からない。
かつて、この場所に死者を供養する「曼荼羅堂」があったという。
また、150穴ほどの「やぐら」があるという。やぐらとは、岸壁などをくりぬいた横穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓である。
百聞は一見に如かずで、実際に見れば分かるのだろうか。
               
次回の公開は、10月~12月上旬の土日祝日とのことで、詳細は逗子市社会教育課HPまで。
 

「まんだらやぐら群」を先に進むと「名越切通」がある。

名越切通
   

「名越切通」を過ぎると急坂となる。
     
苔むした岩が道の中央に座っている。右の画像は振り返って坂を見上げて写す。

JR横須賀線の電車の音が聞こえ始めると30分ほどの名越切通の散策も終りである。
     
(右画像)左側の通路が切通に通じる道、右下が横須賀線の線路


JR横須賀線の名越坂踏切を渡り、県道311号葉山鎌倉道路を鎌倉駅方面に向かう。
すぐに「十井之一銚子井」と書かれた石柱を見つける。
ここの十井は石柱だけで実物はないのかなと思い、路地から出てきた婦人に尋ねると気にしたことがないので分からないとの返事が返ってきた。予習が足りないなとアンチョコを読む。
「銚子の井」は、婦人が出てきた路地に石の蓋を被せてあるという。道路から3~4m入った場所にあった。そばに文字が消えうせて全く読めない案内板らしきものもたっていた。

銚子の井
この井戸は「銚子の井」と呼ばれている。この画像では全く分からぬが、六角に造られた井戸枠の一端の水の出口が銚子の口に似ていることから名付けられたようである。
また、水戸光圀が命じて編纂した鎌倉地誌の新編鎌倉志によると、岩を掘った井あり、石井と呼ぶ。鎌倉十井の一と記すということが書かれており、またの名を「石井の井」とも呼ばれている。
    

名越踏切を渡ってすぐ右手の小道を進む。
白猿の法性寺で記述した松葉ヶ谷に草庵があったという安国論寺と妙法寺に向かう。

安国論寺
日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡のひとつとされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
この地にある岩屋に日蓮が初めて庵を結んだのが始まりとされている。ここを拠点に布教活動を行っていたが、反対を唱える人びとにより、1260(文応元)年、草庵は焼き討ちされた。日蓮は、迫害に耐えつつ鎌倉幕府第五代執権・北条時頼に建議した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)側に安国論窟寺を建てたのが始まりといわれる。
            三門

            本堂


            松葉ヶ谷草庵跡の碑

東芝社長や経団連会長を務めた土光敏夫の墓所がある。
                    

妙法寺
1253(建長5)年に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑があるが、実質的な開山はずっと後で、1357(延文2)年の日叡(にちえい)である。日叡は、後醍醐天皇の子・護良(もりなが)親王と藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)の間に生まれ、日蓮を偲び、かつ父・護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けた。

              
境内奥右手山頂には護良親王の墓が、左手山頂には母・南方と、日叡自身の墓がある。
江戸時代には、十一代将軍家斉はじめ将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされる。
また、現在の本堂は幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔うため文政年間に肥後細川家により建立されたものである。
              

              三門

                      みごとに咲くクレマチスの花

              本堂

              仁王門

             金剛力士像

薩摩屋敷焼討事件戦没者墓-同じく仁王門左にある。幕末の三田の薩摩藩邸焼討事件の戦没者を祀る
元は薩摩藩邸内の妙法寺の支院「清正公堂」にあり、1995年に現在地に移転。
              

苔石段-仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止、脇に新しい階段が作られている。
                      

奥の院御小庵趾-釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。
              

護良親王御墓-後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である。小庵趾より右手に登った山頂に
なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の理智光寺跡にもあり、そちらが正式とされる。
日叡上人御墓・南の方御墓-小庵趾より左手山頂にある。

(左)護良親王御墓  (右)日叡上人御墓・南の方御墓

              裏山からの眺め                             

松葉ヶ谷草庵跡のひとつとされ寺院には、今回寄らなかったが石井山長勝寺も近くにある。


逆川(さかさがわ)沿いの道を北上し釈迦堂切通に向かう。



釈迦堂切通(通行止)の看板が道すじにたっている。通行止といっても少しは釈迦堂切通の気配を感じることが出来るかな?という期待感をもって歩いて行った。


釈迦堂切通
釈迦堂切通は、鎌倉時代の面影をよく伝えている。この切通しは鎌倉と外の地域を結ぶものではないため鎌倉七口には数えられていない。
鎌倉幕府二代執権・北条義時の霊を祀る釈迦堂が建っていたため字名に「釈迦堂」が残っている。一帯は初代執権・北条時政の屋敷跡である。
                                          

この釈迦堂切通は上方を残したトンネル状になっており、切通としては例外的のようである。

           
通行止のバリケードがもう少々低ければ良い写真が撮れたのに、と思いつつ切通の気配も感じず引き上げた。
次に向かったのは北条政子ゆかりの寺、安養院である。

安養院
尼将軍といわれる北条政子が夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ヶ谷に建立した祇園山長楽寺が前身と伝えられる。建立1225(嘉禄元)年。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になった。安養院は政子の法名である。
徳川四代将軍家綱の時代の1680(延宝8)年に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱が建立した田代寺の観音堂を移し、祇園山安養院田代寺となった。
国の重要文化財・政子の宝篋印塔が建っているという。
              

                                         

安養院から150mほど先の路地を右折し、ぼたもち寺にむかう。

常栄寺
日蓮が、龍ノ口に護送される途中、この地に住んでいた「桟敷の尼」が、「胡麻入りのぼた餅」を捧げたという言い伝えから、「ぼたもち寺」と呼ばれている。
その後日蓮は、奇跡的に処刑を免れたことから、「頸つなぎのぼた餅」という逸話が生まれ、「御首継ぎに胡麻の餅」といわれるようになった。
              

              

つぎは本日最後の本覚寺にむかう。
古めかしい三門を潜る。
この三門は仁王門で江戸時代のものを明治の初期に三浦半島の寺院より移築したという。

本覚寺
現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂(えびすどう)と呼ばれる堂があった。この夷堂は、頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。1274(文永11)年に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。その後の1436(永享8)年に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したという。 後に身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。本覚寺が「東身延」と呼ばれる理由である。
              

             夷堂

             本堂は大正時代の創建

           鐘楼・・1410(応永17)年銘 

日蓮御分骨堂・・身延山の参拝が困難な信者のために日蓮の遺骨を久遠寺から分骨し、祀る。
                           


鎌倉七口巡りも5つとなり、あとは極楽寺坂切通と大仏切通が残るのみとなった。
鎌倉十井は、今回六角ノ井と銚子ノ井を巡り、7つを数える。あとは、8つ目の坂ノ下・虚空蔵堂の星ノ井を廻れば全てとなる(扇ノ井と棟立ノ井は見学不可)。
最終、4日目を期待しよう。

                関 連 : 鎌倉七口を辿る その1
                     : 鎌倉七口を辿る その2
                     : 鎌倉七口を辿る その4


鎌倉七口を辿る その2

2012-05-18 13:58:23 | 鎌倉巡り
鎌倉七口を辿る その2
 朝比奈切通(朝夷奈切通)

                

国史跡 朝夷奈切通は
鎌倉時代初期の武将・朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたことから朝比奈の名がついたと、伝説ではいわれる。
鎌倉幕府は、1240(仁治元)年六浦津との重要交通路(六浦道)として、路改修を議定、翌年4月より工事にかかった。
執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたという。
当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港であった。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越え鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増した。
また、鎌倉防衛上必要な防御施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されている。
鎌倉市境の南側には、熊野神社があるが、これは鎌倉の艮(うしとら・鬼門)の守りとして祀られたと伝えられている。
鎌倉七口の中、最も高く嶮岨(けんそ・けわしいこと)な路である。
と、横浜市の案内板に書かれている。


鎌倉駅から京急バスの金沢八景行きに乗り朝比奈峠を越え20分余り「朝比奈」で降りる。
鎌倉発は1時間に2本なく、後で分かったのであるが、金沢八景からは神奈中バスもあり本数も多いとのことだ。
ここは横浜市金沢区。今回の朝比奈切通への道は横浜市から鎌倉市に入る道を辿る。

朝比奈切通の入口はバス道路(環状4号線)を少々戻った左手にある。
「朝夷奈切通」の石柱を右に見て坂を上ると、すぐに庚申塔や石地蔵などの石仏群が迎えてくれる。
        
横須賀横浜道路を潜って先に進む。すぐそばには朝比奈のインターもある。
ひっきりなしに車が高速で走る音が聞こえてくる。
小切通、やぐら群を過ぎると熊野神社に続く分岐道に出る。ウグイスの鳴き声が聞こえる。この切通しの道が終わるまで、ここかしこでウグイスの鳴き声を聞いた。
              
              
熊野神社に立寄るため熊野神社の石柱がある左手の参道を進む。右手の山側には小さなやぐら群がある。
鎌倉付近では、山腹をくりぬいた穴を「やぐら」と呼んでおり、鎌倉時代から室町時代における上層階級の墳墓とされる。
              
4~5分で熊野神社に着く。鳥居を潜り石段を上って拝殿に向かう。今回の鎌倉切通散策の安全を祈願する。賽銭箱が見つからない。奥の本殿に参拝したがここでも見つからない。
 
熊野神社は源頼朝が鎌倉に幕府を開くと朝比奈の開削にあたり、守護神として祀ったとある。
本殿の奥には横井戸がある。説明によると、昭和初期に権現山の水脈を見つけ井戸を掘り、この水で礼大祭の湯立神楽や日々参拝の手水に使用しているとのこと。
                  
再び切通の道を辿る。ごつごつした岩がうまる坂を上ると大切通にさしかかる。ここは横浜と鎌倉の市境でもある。この辺りが朝比奈切通の頂点のようだ。
          
その先を下ってゆくと左手に人工的に削ったような石壁に子供の大きさほどの仏像一体が掘られている。横浜側から来ると見過ごすような位置である。仏像に名はついていないのだろうか。
         
鎌倉市に入ると湧水が多いようで坂道を濡らしている。そしてこのあと湧水はせせらぎが聞こえるほどの小川となって流れてゆく。そして太刀洗川、滑川と名を変えてゆく。
              
              
              
この切通を開削・補修工事の際に亡くなった人への供養なのだろうか、道の脇には南無阿弥陀仏・道造供養塔や石地蔵が祀られている。
              
              
この切通も終りとなり、三郎の滝、朝比奈切通碑に辿り着く。これで4つ目の鎌倉切通散策が終わった。
                  
              

このあとは、太刀洗水を通り、寺社巡りながら鎌倉駅まで辿る。


太刀洗水
鎌倉幕府初期時代の御家人、梶原景時がこの近くにあった上総介広常(かずさのすけひろつね・正式名称は平広常)の屋敷に押し入り広常を斬った際の血刀をこの水で洗ったという伝説の場所である。この水は江戸時代より鎌倉五名水のひとつに数えられている。
上総介広常は、頼朝の父義朝時代からの従者で、謀反を起こしたということで頼朝が梶原景時を討手に命じたという。
                   


十二所神社
光触寺の境内に祀られていた熊野十二所権現社が前身とされ、江戸時代末、1838(天保9)年に村民の呼びかけによって、現在の地に社殿が建立されてと伝えられる。
明治初めの神仏分離によって「十二所(じゅうにそ)神社」と改名された。



光触寺
光触寺(こうそくじ)は、もと真言宗の寺であったが時宗の開祖、一遍上人を開山に迎え時宗に改め念仏道場として栄えた。
境内の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)は六浦の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびこの地蔵に塩を御供えしていたといい、いつも帰りにはその塩がなくなっていたことからその名の由来となった。
   
                 


明王院
鎌倉幕府四代将軍、藤原頼経が将軍の祈祷寺として1235(嘉禎元)年に建立した。
幕府の鬼門除け祈祷寺として本尊の五大明王がそれぞれ堂に祀られていたことから、古くから五大堂と呼ばれていた。
鎌倉幕府西医大の危機である、元寇の時も明王院で異国降伏の法要が行われた記録があるという。



浄妙寺
源頼朝が伊豆挙兵した以来の重臣、足利義兼(あしかがよしかね)が高僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として建立した。
鎌倉五山の禅宗の寺で、室町時代は境内に23の塔頭を持つ大寺院であった。現在は総門、本堂、客殿、庫裏が残っている。


浄妙寺には、足利貞氏の墓がある。貞氏は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人で、室町幕府初代将軍・足利尊氏(高氏)の父。
              

茶室・喜泉庵と枯山水の庭は1991(平成3)年に復元された。
              


鎌足稲荷神社
浄妙寺の裏山にあるこの神社には、鎌倉の地名の由来ともされる藤原鎌足の「鎌槍伝説」がある。
645(大化元)年の大化の改新で活躍した藤原鎌足が、鹿島神宮に参詣する折に、由比の里(鎌倉)に宿泊した。その夜、夢に現れた老人から「あなたに授けた鎌槍をこの地に奉納しなさい」といわれ、白狐に案内されるまま浄妙寺の裏山にお護りの鎌槍を埋め、祠を営み祀ったという。この「鎌槍」から「鎌倉」という地名が生まれたという説がある。
        


報国寺
臨済宗建長寺派の寺院で、1334(建武元)年に建立。孟宗竹の竹林が有名で竹の寺と呼ばれている。また20種余の苔が生息している。
 




杉本寺
鎌倉最古の天台宗の寺で、鎌倉幕府が開かれる500年以上前の734(天平6)年、行基によって開山。行基はそれより3年前、東国を旅していた際に「この地に観音様を置こう」と決め、自ら観音像を彫って安置した。
その後、聖武天皇の妃、光明皇后(こうみょうこうごう)が夢の中で「財宝を寄付し、東国の治安を正し、人々を救いなさい。」というお告げにより、本堂を建立したといわれる。
本尊は十一面観音三体で、本尊の手前にも頼朝が寄進した十一面観音が祀られている。

また、仁王門があり、阿形、吽形(うんぎょう)の2体の金剛力士像が警護している。
             

この地には杉本城があったので、城跡にも行きたかったが、寺の方に尋ねると今は辿る道もなくなっているとのことで残念である。
杉本城は、三浦義明の長男・杉本吉宗によって築かれた。六浦道を抑える要衝で、杉本寺の上にあった。
南北朝時代、朝夷奈切通から鎌倉に入った北畠顕家(きたばたけあきいえ)によって落城した。北畠顕家は南北朝時代の公家・武将であり、「風林火山」の旗印を武田信玄よりも先に使ったとされる。


鎌倉宮
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王を祭神とし、1869(明治2)年、明治天皇が、建武の中興に尽くし若くして命を奪われた護良親王の遺志を後世にと創設した。別名大塔の宮と呼ばれている。



覚園寺
鎌倉宮の鳥居の前を左に800m進むと、 正面に見えてくるのが覚園寺の山門である。
覚園寺(かくおんじ)は鷲峯山真言院覚園寺(じゅうぶせんしんごんいんかくおんじ)と号する。 古義真言宗。吾妻鏡に1218(建保6)年、源実朝が鶴岡に参拝した折り、 随行した北条義時が夢の中に薬師十二神将の戌神(いぬがみ)のお告げがあり、この地に薬師堂を建立した。
この薬師堂が現在の覚園寺になったのは、北条貞時が1296(永仁4)年に心慧上人を開山としたことによる。 境内には薬師堂、愛染堂、地蔵堂などがある。


境内の薬師堂裏に鎌倉十井のひとつ、棟立ノ井(むねたてのい)がある。 井戸の形が家の棟の形をしていることからこの名がついたといわれている。 また、屋根の形から破風の井(はふうのい)ともいわれている。
現在は山崩れのために土中に埋もれてよく確認できないそうだ。
              
棟立ノ井はこの先にあるという。鑑賞は時間が決められて1日6回受け付けている。


荏柄天神社
古くは荏柄山天満宮とも称し、菅原道真を祀り、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに日本三大天神のひとつと数えられている。
荏柄天神社は、源頼朝が鎌倉に入る以前からある古社で、1104(長治元)年の創建と伝わる。鎌倉幕府の鬼門の守護神でもあり、中世より足利、北条、豊臣、徳川の各氏によっても守られ、寄進を受けて近世に至っている。
本殿は、1622(元和8)年の鶴岡八幡宮の造営の際、古い社を貰い受け、移築し社殿にしたということで鎌倉最古の木造建築物とされている(国指定文化財)。
荏柄の社号は、当地「荏草郷(えがやごう)」が転じて「えがら」となり「荏柄」と表記されたと考えられている。



源頼朝の墓
頼朝は1180(治承4)年、平家打倒のため挙兵、1185(元暦2)年に平家を滅ぼした。鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治寺の基礎を築いた。以降、江戸時代が終わるまで700年にわたり、武家による政権が続いた。
頼朝は、1199(建久10)年に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、墓所として信仰された。法華堂はその後廃絶したが、この丘一帯がその跡である。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備したものとされる。
と鎌倉市の案内板に書かれている。
島津重豪は、島津氏第二十五代の当主で薩摩藩第八代藩主である。島津家に伝わる史料では、初代当主忠久(鎌倉幕府御家人)は頼朝の落胤(らくいん・隠し子)であるといわれている。そのため子孫の重豪が1779(安永8)年に墓を建てたということのようだ。しかし忠久落胤説は史実ではないということが現在歴史家の定説になっているとのこと。


また、頼朝が葬られたという法華堂も、現在の墓下に祀られている白旗神社に建てられていたと白旗神社の由緒に書かれている。法華堂はどちらにあったのだろう。
白旗神社は明治維新の神仏分離によって法華堂から改められ、源頼朝を祭神にして祀られている。
                  


腹切りやぐらと宝戒寺
新田義貞の鎌倉攻めにより、最後の執権・北条高時をはじめ北条一族870余名が宝戒寺の南東にある腹切りやぐらで自害したと伝えられる。

宝戒寺は、滅亡した北条氏の霊を弔うため、また諸行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条氏の屋敷があったとされる地に寺を1335(建武2)年、建立させた。



紅葉やぐら
紅葉やぐらは、1935(昭和10)年に発見され、五輪塔や納骨、それに海蔵寺十六井と全く同じものが出土されている。その時代考証から北条執権ゆかりの納骨とされる。
海蔵寺十六井とは、やぐら内に4個ずつ4列に16個の丸い穴で、清水をたたえている。弘法大師が掘ったとされる。
                  


鎌倉七口も今回で四つ巡った。七口の感想は全てを巡ってからにするが、これなで鎌倉巡りは大仏と八幡宮程度に過ぎなかったが、今回の巡った竹藪と苔の美しい報国寺と十二面観音が祀られている杉本寺は印象深い。
杉本寺本尊の十一面観音三尊をほのかな明かりで格子越しに拝むと心が大きくなったような気がしてまた訪れたいと思う。

次回は、名越切通と七口には数えられていないが、釈迦堂切通を辿る予定である。


                関 連 : 鎌倉七口を辿る その1 
                      : 鎌倉七口を辿る その3   
                       : 鎌倉七口を辿る その4


旧安田庭園散策

2012-05-04 14:54:47 | 東京散策
旧安田庭園
              
                横網公園側出入り口

              
                スカイツリーも眺められる

旧安田庭園は、1691(元禄4)年、下野(しもつけ)足利藩主本庄氏下屋敷として造られた。
安政年間(1854~59年)に大規模な改修が施され、中央に「心」の文字を模った池を配し、隅田川の水を引いた汐入回遊庭園としてつくられている。小規模ながら江戸時代における大名屋敷の庭園の典型をなしている。
1889(明治22)年、安田財閥が所有し、1922(大正11)年、当時の東京市に寄贈された。
関東大震災でその姿を失ったが、その後復元され1927(昭和2)年、市民の庭園として開園された。

              
               背景のドーム型建物は両国公会堂

              
                バックは国技館

この池を造成した折は、隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満によって水位を上下させ、それによって見え隠れする岩や護岸、島等の景観の変化を楽しむ庭園であったが、昭和30年代に隅田川のよごれが園に及ぶようになったため直接の接続は停止、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し、ポンプで人工的に潮の干満を再現している。

              
    この水門は、当初の機能を失っているが、往時の姿をとどめる遺構として保存されている

              

              

              
               伏見稲荷が祀られている

小島が浮かぶ「心」字池を老樹と散策路が囲む構成。
雪見灯篭が配置され、池には鯉、亀が遊ぶ。 訪れた時にはシラサギもいた。

              
               国技館側出入口

両国公会堂は安田財閥の寄付によって1926(大正15)年に鉄筋コンクリート4階建て円形ホールを中心とした劇場として建てられた。関東大震災後間もなく建てられたということで、復興の象徴のような存在であった。
第二次世界大戦中は食料配給所として、終戦後は進駐軍のクラブとして接収されるという歴史を語る建物である。
800席たらずの劇場で、現在は老朽化により使用していない。

              
               両国公会堂

庭園は両国国技館の北側に接しており、また斜向かいは、関東大震災で甚大な被害を被った旧被服厰跡地の横網公園がある。
アクセスは、両国駅より徒歩5分である。

              

浅草寺 大絵馬寺宝展と庭園を鑑賞

2012-05-02 15:14:50 | 東京散策
      

                      

              
               特別展示館

              


伝法院庭園
寺伝によれば、寛永年間(1624~44)に、幕府の作事奉行を勤め茶人としても有名であった小堀遠州によって築庭されたといわれる。約1万平方メートル(3千坪)ものこの庭園は、回遊式庭園として、園内を逍遥(散歩)すれば一歩一歩その景観を異にする。
池には方生された鯉や亀などが泳ぎ、木々には野鳥が集まり、賑わう浅草にあって閑寂な佇まいをみせる。江戸から明治までは法親王(出家した後に天皇が親王と下した皇子)ご兼帯寺の庭として秘園とされていた。
平成23年9月には国指定の名勝に指定された。(「金龍山 浅草寺」解説より)

              

              

              

                   

              
                  

              
                  春は枝垂れ桜の咲くころが良かったようだ
              

伝法院
浅草寺の本坊。当山僧侶ならびに信徒の回向・修行道場である。
江戸時代、浅草寺は法親王の兼帯寺で、徳川家の祈願寺ということもあり、宮様をはじめ将軍の御成がたびたびあった。御成の本堂参拝後は、ここ伝法院にて休息し、浅草奥山の大道芸を楽しんだ。。
(「金龍山 浅草寺」解説より)       



大絵馬
現存する浅草寺の絵馬・扁額は約250点で、五重塔の絵馬堂内にそのうちの主要な作品が保存されている。
絵馬とは社寺に奉納して祈祷や報謝の意を示す絵の額である。もとは神馬を奉納したが、のちに土馬、木馬に変わり、次いで馬の絵に転じた。さらに馬以外の画題も取り上げられるようになった。。(「金龍山 浅草寺」解説より)

                    

画像がなくて残念だが、印象に残った絵馬を紹介すると

「蜀三傑人形」・・・蜀の三傑、諸葛孔明、関羽、張飛を高浮彫の人形として板面に取りつける。1851(嘉永4)年奉納。別に「関羽」だけを大きく描いた絵馬(1849(安政6)年奉納)もあり、江戸時代に中国の三国志に登場する人物が描かれていることに驚く。
「堀河夜討」・・・源頼朝の命で義経を討とうとして宿所に夜襲した時の弓の弦をはる絵(1848(嘉永元)年奉納)。
他に、「五条橋の牛若と弁慶」、「陣幕土俵入」、「坪坂霊験記・四世澤村源之助の澤市」など。
また、幕末時代の勝海舟、山岡鉄舟の書額もあった。


今回、東日本震災大震災復興支援を兼ねて、寺宝の大絵馬の展示と伝法院の庭園の公開があった。
となりが仲見世通とは思えないほど静かな庭園であった。
伝法院で出されたお茶が美味しかった。
寺宝の絵馬類も大きなものであってそのみごとさも驚くものであった。