6月30日に在日米軍上瀬谷通信施設(横浜市瀬谷区・旭区)が、日本に返還された。歓迎すべき話である。しかも戦後70年の節目の年に。
1951(昭和26)年に接収されたこの施設は、242ヘクタールで、返還面積では横浜市最大のもので、瀬谷区面積の14%余をも占めるという。
横浜市では、根岸住宅地区と池子住宅地区と海軍補助施設の返還が今後予定されている。
返還された米軍上瀬谷通信施設の敷地内には、現在は環状4号線の一部になっている「海軍道路」が南北に走っている。
その海軍とは、米軍施設の道路なので、てっきり「Nevy」かと思うかもしれぬが、この海軍、「日本海軍」のことである。
海軍厚木航空基地の敷地には、明治時代から火薬火工工場があった。その後太平洋戦争を控え、多量の火薬類を扱う必要となり、久里浜・池子・瀬谷に弾薬、火薬庫の新設計画があがった。
瀬谷は厚木基地に近く、人口も少なかったから候補地になったと思われる。そして、1940(昭和15)年から3年をかけて農地から海軍施設へと生まれ変わった。
その海軍施設とは、海軍第二航空廠瀬谷瀬谷補給火薬庫で、高座郡寒川町にあった毒ガス製造工場で生産された毒ガスも保管されていたようだ。
、また、第二海軍航空廠瀬谷補給工場も併設されていた。
敷地の中央を引込線が通っていた。引込線跡は現在の「海軍道路」であり、相模鉄道瀬谷駅の北側から当時桑畑であった瀬谷中学校敷地内をカーブした後およそ2.8km、直線で敷設され、蓄電池車(AB10型)が荷を運んでいた。
この道、一説では緊急用の滑走路だったという話もあるが、その真偽は定かではない。
資料:横浜・瀬谷地図くらぶ
戦後軌道はなくなり、平和のシンボル桜が植えられた。今や桜の名所となっている。
施設敷地の四方にはコンクリート製の門柱が建ち、昭和40年代までは残っていたという。
戦後は米国海軍に接収されたが、一旦は使用価値がないため返還されるが、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発によって再接収される。
東西冷戦の時代の米国情報収集艦プエブロ号事件発生時、この通信基地が通信を傍受したことで、「上瀬谷」の名が全世界に知れ渡った。これも今や遥か昔となった。
2003(平成15)年、当施設の司令部が青森県三沢基地に移転され、ようやく返還の運びとなった。
基地フェンス近くには、何に使われていたかわからぬコンクリート構造物も存在する。
コンクリート構造物は、家庭菜園の畑の奥で、米軍通信施設のフェンスの手前に存在する。
返還された敷地の活用については、広く市民に意見を求めている。
そこで、歴史の名を道路にしか残していない、弾薬庫をはじめとする旧日本海軍の施設がここにあったことを専門家が検証することを期待したい。
また、コンクリート構造物は、旧日本海軍施設の部分的なものではあるが、平和の大切さを語る遺構として残して頂きたいものだ。
戦後70年
今年は節目の年
平和の尊さを改めて見直す機会にしたい
平和日本を