あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

「土用の日」に丹沢・大山を登る2015

2015-07-27 15:10:40 | 丹沢

バス停脇の登山口


右手の道は蓑毛から来る柏木新道 以前はよく利用して表尾根を通り塔ノ岳に


案内板「大山コース0(ゼロ)」 大山2.4KM 蓑毛3.4KMの案内も

 
山道の真ん中に樹木が                           クマザサが茂る


案内板「大山コース1」 大山1.9KMの案内も




案内板「大山コース2」 大山1.4KMの案内も


頭上注意                                  鎖場


案内板「大山コース3」


裏(北)丹沢の山々




「今日の富士山」に会えた


下社からの山道(右手)と合流


ヤビツ峠2.1Km 下社1.7Km 大山200m   標高1,174米                  頂上まであと10分

   

あと10分が急斜面




やっと鳥居


それでもまだまだ


ついに28丁目の鳥居に


振り向けば富士山


標高1,247米                             山頂奥の院



「大山詣り」が大流行をした江戸時代。人々は大山街道を通り、大山へ参詣した。
大山への参詣は元来、7月27日から8月17日までが「夏山」と呼ばれ、お詣りの期間とされていた。
この2週間余りの間に2万人を超える参詣者が大山を訪れたと伝えられている。
阿夫利神社の祭神は大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)で、山の神・水の神として、また大山が航行する船の目印となった事から産業・海運の神としても信仰されている。
また、富士山の祭神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のお父さんでもある。
尚、大山ケーブルカーは新型導入工事のため9月30日まで運休している。このためヤビツ峠からの大山登山は普段より多いと感じた。


須賀神社例大祭inいずみ

2015-07-22 15:17:33 | 横浜歴史散策
 
須賀神社は昔から「和泉の天王さま」と云われて信仰され親しまれている。
相鉄いずみ野線・いずみ中央駅より、徒歩3分、長福寺山門横に奉られている。
祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と櫛名田比売之命(くしなだひめのみこと)が祀られた須賀神社がある。祭神建速須佐之男命を牛頭天王(ごずてんのう)とし、明治の神仏分離までは牛頭天王社と称していた。
勧請年代は不明であるが、信濃国の住人泉小次郎親衡が、北条義時討たんと旗揚げのためこの地に築城した1212(建暦2)年、その鎮守として創建したと云われる。

神社
    

例大祭はお仮屋建7月12日、宵宮18日、本宮19日で行われる。
台谷戸神酒所
 
 
 

 

          

渡御(長後街道)
 

          

 

 

          
神輿の「御渡り」は昔から近郷に知られていた。
昔は、和泉中村、台谷戸、並木谷戸と、主水分、宮下、中和泉が氏子で、全域を担いで御渡りしていた。近年は九町内会・自治会が広大となり、交通事情もあって、大部分を車に乗せて廻るようになった。
そこで「御渡り」は、和泉台谷戸の神酒所から中和田小学校前の長後街道を通り、和泉川の和泉橋を渡って長後街道と別れ、相鉄いずみ野線・いずみ中央駅広場を経由して宮入する。およそ1.2kmを2か所の休憩含め2.5時間で渡御する。

渡御(いずみ中央駅前から)

駅前広場広場へは神輿が並行して進む。その1基には男の子が神輿の乗った。







神輿に灯が点る


すっかり暗くなり御渡りは神社に続く


中村橋を渡って左に曲がって屋台の間を進めば仮屋はすぐである

 
屋台が並ぶ和泉川の沿道を神輿は暗がりの中入って行った

神社の参道は屋台が並んで細くなっている。この参道を暗がりの中宮入りした。


以前は神輿保存会の百数十名の男女が揃いの半てんを着ての御渡りとなっていたと記されている。しかし、最近は御多分に漏れず担ぎ手不足から、応援を求めて様々な祭半てんが神輿を囲んでいる。
 
  神輿を担ぐには「神輿渡御参加証」の木札が必要

 

 

 

           

長く続くと云われた梅雨が明け、クソ暑い夏となったが、祭りの季節でもある。


参考資料:泉区小史「いずみ いまむかし」

やっと晴れて江の島に

2015-07-11 21:57:34 | 散策
7月10日間の連続降雨もやっと一段落。
晴れの土曜、11日に江の島に足を運ぶ。

行きは江ノ電で



行き先表示のイラストが可愛い 花火にアサガオ 季節によって様々あるようだ



江の島・江の島弁天橋
歩道橋が江の島弁天橋と名付けられたのは1949(昭和24)年である。鉄筋コンクリートの橋脚に上部は木製の橋であった。
それから遡ること、1891(明治24)年には江の島桟橋と云う名の橋があったと云う。
          

 

          


明日は江の島神社境内社の八坂神社が例祭
本日は宵宮、明日は神輿が腰越・小動神社まで出かける「神幸祭」、江ノ電電車を避けながらの渡御となる。




神輿は島を出る前に禊プラス海中の神を迎えるためにここから30分海中へ。


江の島神社は日本三大弁天のひとつに数えられる。
奥津宮、中津宮そして辺津宮(へつみや)の3宮から構成され、それぞれに女神を祀り、江の島大神と総称する。



辺津宮


中津宮


奥津宮拝殿天井・八方睨みの亀


奥津宮


奥津宮・灯篭の彫刻


龍宮


道標・庚申塔
この石柱は、江の島への道筋に杉山検校の寄進によって建てられた道標
江ノ島弁財天にたどるすべての人の現世と来世での安穏と極楽の願いが込められた文言が記されている。





店先の水連の花


群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)は、四面に「見ざる、言わざる、聞かざる」をはじめとする36匹の猿が浮き彫りにされている江戸時代の庚申塔。
これは神猿が山王神の神徳に奉賽(謹んで神を奉る)している図となっている。
     


岩屋
かつては、信仰の場所となって、弘法大師が訪れた際には、弁財天が現れ、江の島弁財天信仰の発祥地と考えられている。また、源頼朝は奥州平泉の藤原氏征伐の際、ここに祈願した。
第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)のふたつの洞窟から構成される波によって浸食されてできた洞窟。江の島弁財天信仰の発祥地と考えられている。
 
左画像には昔の壊れた順路の石段が見える







昔の岩屋の入口の写真

岩場に咲くスカシユリ

イワユリとも云われる海岸の岩場に咲く多年生草 6~8月にかけて開花する

 
波高し



台風の余波か波が橋の壁に打ち上げられている



江の島東浜
この一帯をかつては東洋のマイアミと売りこんでいたが、久々に見る東浜は海の家もまばらだ。
1日に海開きを行って以降はじめての好天の休日と云うのに海岸には殆ど人がいない。
サーフィンやウインドサーフィンに興じている人の方が多いのでは?






トンビに注意
 

帰りは小田急で
         

レトロな昭和の香りの通天閣

2015-07-10 16:31:23 | その他

          
          

展望台に通じるエレベーターを待つ建物に飾られている看板や映画のポスターは「昭和」である

初代の通天閣は近くにあった映画館からの延焼火災で焼け落ち、1956(昭和31)年に二代目が再建された。
通天閣は新世界と云う繁華街に建つ高さ100mの展望台である。
初代は1912(明治45)年に建設された。電灯工事にはパナソニック創業者の松下幸之助(当時17歳)さんも携わったと云う。
日立のネオンが映える夜景はイコール「大阪」と代表され景色である。初代の塔になると、ライオン歯磨きや阪神電車の広告だった。
また、正午には「日立の樹」のCMソングが流れる。以外にも知られていないのでは。
聞きたかったナ!
          

                    この木なんの木 気になる木
                     名前も知らない 木ですから
                     名前も知らない気になるでしょう

『この木なんの木』で知られている曲である。

        
          
展望台に上がるのには一旦地下に  それから円筒形のエレベーターで2階に上がる(左)          歩いてきた商店街(右)
2階で展望台へのエレベーターをもう一度待つ・・・
        

          
30分待ちでエレベーターは2階から展望階の5階に上がった



     
帰りは福のトビラから鉄製の階段を下りて行った
    
階段はすりガラスのを通す外からの灯りと部分照明で暗くは感じなかったがここで地震が来たら?そう思う通路だった
それがいけなかったのか その夜 震度5弱の地震が発生した
予定よりも早く帰途についていたので新幹線には閉じ込まれることはなかった
これが予定通りだったら・・・



通天閣といえばビリケンさん。
笑っているのか怒っているのか、不思議な表情で、これが関西人には受けているようだ。
このビリケンさん、日本で生まれたのではなく1908(明治41)年にアメリカの女流美術家の夢に現れた神様だという。以外だ。
そしてたちまちのうちに「幸福のマスコット」として、世界中で大流行したとのこと。

足の裏をなでると幸運が訪れると云う

もうひとつ。
通天閣と云えば、明治から昭和初期にかけて活動した将棋棋士・阪田(坂田)三吉(1871~1946)さん。
塔の下には、碑がたっている。
三吉の妻と云えば「小春」とおもいきや、これは戯曲作家の創作で実名は阪田コユウ(1881~1927)さん。
長年の苦労や三吉の眼病の看護などで病に倒れる。臨終の床で「お父ちゃん、あんたは将棋が命や。どんなことがあっても、アホな将棋は指しなはんなや。」と三吉に云ったと。 


         
通天閣には高三の夏休みに一度訪れたことがある。その時は下で眺めただけであった。
半世紀前のことである。


訪れた日:2015.5.30

返還された上瀬谷通信施設に大戦の遺物  終戦70年にあたって-3

2015-07-03 12:09:24 | その他
          
6月30日に在日米軍上瀬谷通信施設(横浜市瀬谷区・旭区)が、日本に返還された。歓迎すべき話である。しかも戦後70年の節目の年に。
1951(昭和26)年に接収されたこの施設は、242ヘクタールで、返還面積では横浜市最大のもので、瀬谷区面積の14%余をも占めるという。
横浜市では、根岸住宅地区と池子住宅地区と海軍補助施設の返還が今後予定されている。

返還された米軍上瀬谷通信施設の敷地内には、現在は環状4号線の一部になっている「海軍道路」が南北に走っている。
その海軍とは、米軍施設の道路なので、てっきり「Nevy」かと思うかもしれぬが、この海軍、「日本海軍」のことである。
          

海軍厚木航空基地の敷地には、明治時代から火薬火工工場があった。その後太平洋戦争を控え、多量の火薬類を扱う必要となり、久里浜・池子・瀬谷に弾薬、火薬庫の新設計画があがった。
瀬谷は厚木基地に近く、人口も少なかったから候補地になったと思われる。そして、1940(昭和15)年から3年をかけて農地から海軍施設へと生まれ変わった。
その海軍施設とは、海軍第二航空廠瀬谷瀬谷補給火薬庫で、高座郡寒川町にあった毒ガス製造工場で生産された毒ガスも保管されていたようだ。
、また、第二海軍航空廠瀬谷補給工場も併設されていた。
敷地の中央を引込線が通っていた。引込線跡は現在の「海軍道路」であり、相模鉄道瀬谷駅の北側から当時桑畑であった瀬谷中学校敷地内をカーブした後およそ2.8km、直線で敷設され、蓄電池車(AB10型)が荷を運んでいた。
この道、一説では緊急用の滑走路だったという話もあるが、その真偽は定かではない。
          
資料:横浜・瀬谷地図くらぶ

          
戦後軌道はなくなり、平和のシンボル桜が植えられた。今や桜の名所となっている。
          
          

施設敷地の四方にはコンクリート製の門柱が建ち、昭和40年代までは残っていたという。
          

戦後は米国海軍に接収されたが、一旦は使用価値がないため返還されるが、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発によって再接収される。
東西冷戦の時代の米国情報収集艦プエブロ号事件発生時、この通信基地が通信を傍受したことで、「上瀬谷」の名が全世界に知れ渡った。これも今や遥か昔となった。

2003(平成15)年、当施設の司令部が青森県三沢基地に移転され、ようやく返還の運びとなった。
基地フェンス近くには、何に使われていたかわからぬコンクリート構造物も存在する。
          
          
          
コンクリート構造物は、家庭菜園の畑の奥で、米軍通信施設のフェンスの手前に存在する。

返還された敷地の活用については、広く市民に意見を求めている。
そこで、歴史の名を道路にしか残していない、弾薬庫をはじめとする旧日本海軍の施設がここにあったことを専門家が検証することを期待したい。
また、コンクリート構造物は、旧日本海軍施設の部分的なものではあるが、平和の大切さを語る遺構として残して頂きたいものだ。

        戦後70年
        今年は節目の年
        平和の尊さを改めて見直す機会にしたい
        平和日本を