横浜の桜(ソメイヨシノ)が3月19日に開花した。平年より7日早いと云う事だが、これは当然の事と思う。昨年と比較は6日早いと云うことだ。
今年は1月末から2月にかけては数年に1度の記録的大寒波に日本列島が襲われたので、昨年より早い開花は意外であった。
桜の開花は『600度の法則』があって「2月1日以降、毎日の最高気温を足してその累計値が600度を超えた日に桜が開花する」というもだそうだ。、これは気象予報士に云わせると精度の高い法則のようだ。
そして、満開は昔は開花から10日と云われていたと記憶するのだが、最近は1週間前後となった。これも温暖化の影響か。
と云うことで、開花から10日目の山手のさくら巡りとなった。
❤山手公園
日本初の洋風公共庭園であり、日本におけるテニス発祥の地でもある。
公園開設のきっかけは、1862(文久2)年に発生した生麦事件である。この事件は横浜居留地の外国人たちを震撼させ、安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと、イギリス・アメリカ・フランスの3ヵ国の公使が、山手に遊歩道と公園を設置するよう江戸幕府に要求したが、当時の日本では散策のための道をつくるなどの発想はなく、「公園」という概念など持ち合わせてもいなかった。各国の領事たちは、何度も幕府に公園を設置することを要求し、その結果、幕府から遊歩道とともに公園建設を許可されるに至ったのである。
「麦田バス停」を降り山手公園入口の道を入る
足元にはシャガの花が咲いている
横浜雙葉高校前の通りからテニスコートを眺める
❤山手界隈
カトリック山手教会
横浜居留地(現在の山下町)にパリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が、1906年現在地に移転した。1923年の関東大震災で倒壊し、1933年に再建された。
中央大学付近
汐汲坂
元町から山手の丘に登る坂のひとつで、元町3・4丁目境に位置し、長さは190mほどである。
坂の名は、横浜市史稿によると水利に乏しい丘の上へ、農夫が海水を汲んで登ったからとする説があるが、『横浜の坂』の著者は、塩害のおそれのある海水は農業には不向きで、「汐見坂」から転じたのではないかと推測してされている。また、農民が小規模な製塩を行ったのではないかと云う説もあるが、いずれも定かでない。1884(明治17)年には、山手居留地のひとつとして横浜区汐汲坂の町名があったが、1899(明治32)年に山手町に編入され、町名としては消滅した。
代官坂
古くは、元町から山手を越え上野町方面にかけての道を「箕輪坂」と呼んだ。箕の形のように丸く窪んだ土地を意味するとも、北方村の地主の箕輪家に由来するとも考えられているが、はっきり分かっていない。
「代官坂」と呼ばれるようになったのは明治20~30年代と考えられ、坂の途中に屋敷を構えた石川徳右衛門に由来する。徳右衛門は惣年寄を勤めたが、代官ではなかったが横浜の町政を司った有力者であることから、代官に相当するためとも考えられているが、はっきりとは分かっていない。
明治の一時期には、「箕輪坂」と「代官坂」の名称が併用されていたと考えられる。
雙葉高付近
❤元町公園
エリスマン邸
スイス人貿易商エリスマンが1926(大正15)年に建てた私邸。
邸内の「しょうゆ きゃふぇ」では話題の生プリンが食べられる。
山手80番館遺跡
元町商店街から山手にかけての谷戸と呼ばれる地形に位置する。
明治末乃至大正初期に建てられ、関東大震災で被害を受けたことから、震災の大きさを今に伝える「山手80番館跡」遺構である。煉瓦の壁を鉄棒で補強、耐震性を考慮した建物にもかかわらず、関東大震災で被害を受けている。また、浄化設備が整った住居でもあった。
❤横浜気象台
今回の山手の桜巡りの主目的は横浜の桜の標準木に会うことでであった。東京の標準木を2年前に先に観て地元を後回しにして大変失礼をした。
明治10~20年代頃の煉瓦造りの井戸 深さ25m
❤谷戸坂
「谷戸坂」の名称は山手の丘陵から北に開けた谷戸と呼ばれる谷状の地形に由来するもので、北端の堀川の畔から、南の港の見える丘公園前交差点へ上る、長さはおよそ300m。
1859(安政6)年の横浜港開港以前から疱瘡大明神として知られた本牧岬付近にあった、本牧十二天へ至る信仰の道であった。
❤元町
1859年の横浜開港までは半農半漁の村落のであった横浜村住民がこの地に移住したことで「横浜元町」と呼ばれるようになる。明治維新の頃にはすでに外国人向けの商店街として栄え、町名も「元町」と改称された。
現在では150周年以上の歴史を持つ横浜を代表する商業地のひとつとなっている。
ビンコーラの自動販売機 懐かしくてパチリ
今日からプロ野球のペナントレースが開始 今年こそシリーズ優勝を
今年は1月末から2月にかけては数年に1度の記録的大寒波に日本列島が襲われたので、昨年より早い開花は意外であった。
桜の開花は『600度の法則』があって「2月1日以降、毎日の最高気温を足してその累計値が600度を超えた日に桜が開花する」というもだそうだ。、これは気象予報士に云わせると精度の高い法則のようだ。
そして、満開は昔は開花から10日と云われていたと記憶するのだが、最近は1週間前後となった。これも温暖化の影響か。
と云うことで、開花から10日目の山手のさくら巡りとなった。
❤山手公園
日本初の洋風公共庭園であり、日本におけるテニス発祥の地でもある。
公園開設のきっかけは、1862(文久2)年に発生した生麦事件である。この事件は横浜居留地の外国人たちを震撼させ、安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと、イギリス・アメリカ・フランスの3ヵ国の公使が、山手に遊歩道と公園を設置するよう江戸幕府に要求したが、当時の日本では散策のための道をつくるなどの発想はなく、「公園」という概念など持ち合わせてもいなかった。各国の領事たちは、何度も幕府に公園を設置することを要求し、その結果、幕府から遊歩道とともに公園建設を許可されるに至ったのである。
「麦田バス停」を降り山手公園入口の道を入る
足元にはシャガの花が咲いている
横浜雙葉高校前の通りからテニスコートを眺める
❤山手界隈
カトリック山手教会
横浜居留地(現在の山下町)にパリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が、1906年現在地に移転した。1923年の関東大震災で倒壊し、1933年に再建された。
中央大学付近
汐汲坂
元町から山手の丘に登る坂のひとつで、元町3・4丁目境に位置し、長さは190mほどである。
坂の名は、横浜市史稿によると水利に乏しい丘の上へ、農夫が海水を汲んで登ったからとする説があるが、『横浜の坂』の著者は、塩害のおそれのある海水は農業には不向きで、「汐見坂」から転じたのではないかと推測してされている。また、農民が小規模な製塩を行ったのではないかと云う説もあるが、いずれも定かでない。1884(明治17)年には、山手居留地のひとつとして横浜区汐汲坂の町名があったが、1899(明治32)年に山手町に編入され、町名としては消滅した。
代官坂
古くは、元町から山手を越え上野町方面にかけての道を「箕輪坂」と呼んだ。箕の形のように丸く窪んだ土地を意味するとも、北方村の地主の箕輪家に由来するとも考えられているが、はっきり分かっていない。
「代官坂」と呼ばれるようになったのは明治20~30年代と考えられ、坂の途中に屋敷を構えた石川徳右衛門に由来する。徳右衛門は惣年寄を勤めたが、代官ではなかったが横浜の町政を司った有力者であることから、代官に相当するためとも考えられているが、はっきりとは分かっていない。
明治の一時期には、「箕輪坂」と「代官坂」の名称が併用されていたと考えられる。
雙葉高付近
❤元町公園
エリスマン邸
スイス人貿易商エリスマンが1926(大正15)年に建てた私邸。
邸内の「しょうゆ きゃふぇ」では話題の生プリンが食べられる。
山手80番館遺跡
元町商店街から山手にかけての谷戸と呼ばれる地形に位置する。
明治末乃至大正初期に建てられ、関東大震災で被害を受けたことから、震災の大きさを今に伝える「山手80番館跡」遺構である。煉瓦の壁を鉄棒で補強、耐震性を考慮した建物にもかかわらず、関東大震災で被害を受けている。また、浄化設備が整った住居でもあった。
❤横浜気象台
今回の山手の桜巡りの主目的は横浜の桜の標準木に会うことでであった。東京の標準木を2年前に先に観て地元を後回しにして大変失礼をした。
明治10~20年代頃の煉瓦造りの井戸 深さ25m
―――港の見える丘公園の桜は3年前に巡っているので割愛―――
❤谷戸坂
「谷戸坂」の名称は山手の丘陵から北に開けた谷戸と呼ばれる谷状の地形に由来するもので、北端の堀川の畔から、南の港の見える丘公園前交差点へ上る、長さはおよそ300m。
1859(安政6)年の横浜港開港以前から疱瘡大明神として知られた本牧岬付近にあった、本牧十二天へ至る信仰の道であった。
❤元町
1859年の横浜開港までは半農半漁の村落のであった横浜村住民がこの地に移住したことで「横浜元町」と呼ばれるようになる。明治維新の頃にはすでに外国人向けの商店街として栄え、町名も「元町」と改称された。
現在では150周年以上の歴史を持つ横浜を代表する商業地のひとつとなっている。
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今日からプロ野球のペナントレースが開始 今年こそシリーズ優勝を
訪れた日:2018.3.29