あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

横浜・山手のさくらを巡る 2018

2018-03-29 16:23:24 | 観光
横浜の桜(ソメイヨシノ)が3月19日に開花した。平年より7日早いと云う事だが、これは当然の事と思う。昨年と比較は6日早いと云うことだ。
今年は1月末から2月にかけては数年に1度の記録的大寒波に日本列島が襲われたので、昨年より早い開花は意外であった。
桜の開花は『600度の法則』があって「2月1日以降、毎日の最高気温を足してその累計値が600度を超えた日に桜が開花する」というもだそうだ。、これは気象予報士に云わせると精度の高い法則のようだ。
そして、満開は昔は開花から10日と云われていたと記憶するのだが、最近は1週間前後となった。これも温暖化の影響か。

と云うことで、開花から10日目の山手のさくら巡りとなった。
山手公園
日本初の洋風公共庭園であり、日本におけるテニス発祥の地でもある。
公園開設のきっかけは、1862(文久2)年に発生した生麦事件である。この事件は横浜居留地の外国人たちを震撼させ、安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと、イギリス・アメリカ・フランスの3ヵ国の公使が、山手に遊歩道と公園を設置するよう江戸幕府に要求したが、当時の日本では散策のための道をつくるなどの発想はなく、「公園」という概念など持ち合わせてもいなかった。各国の領事たちは、何度も幕府に公園を設置することを要求し、その結果、幕府から遊歩道とともに公園建設を許可されるに至ったのである。

「麦田バス停」を降り山手公園入口の道を入る






足元にはシャガの花が咲いている






横浜雙葉高校前の通りからテニスコートを眺める

山手界隈
カトリック山手教会
横浜居留地(現在の山下町)にパリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が、1906年現在地に移転した。1923年の関東大震災で倒壊し、1933年に再建された。







中央大学付近



汐汲坂
元町から山手の丘に登る坂のひとつで、元町3・4丁目境に位置し、長さは190mほどである。
坂の名は、横浜市史稿によると水利に乏しい丘の上へ、農夫が海水を汲んで登ったからとする説があるが、『横浜の坂』の著者は、塩害のおそれのある海水は農業には不向きで、「汐見坂」から転じたのではないかと推測してされている。また、農民が小規模な製塩を行ったのではないかと云う説もあるが、いずれも定かでない。1884(明治17)年には、山手居留地のひとつとして横浜区汐汲坂の町名があったが、1899(明治32)年に山手町に編入され、町名としては消滅した。

代官坂
古くは、元町から山手を越え上野町方面にかけての道を「箕輪坂」と呼んだ。箕の形のように丸く窪んだ土地を意味するとも、北方村の地主の箕輪家に由来するとも考えられているが、はっきり分かっていない。
「代官坂」と呼ばれるようになったのは明治20~30年代と考えられ、坂の途中に屋敷を構えた石川徳右衛門に由来する。徳右衛門は惣年寄を勤めたが、代官ではなかったが横浜の町政を司った有力者であることから、代官に相当するためとも考えられているが、はっきりとは分かっていない。
明治の一時期には、「箕輪坂」と「代官坂」の名称が併用されていたと考えられる。

雙葉高付近



元町公園











エリスマン邸
スイス人貿易商エリスマンが1926(大正15)年に建てた私邸。
邸内の「しょうゆ きゃふぇ」では話題の生プリンが食べられる。

山手80番館遺跡
元町商店街から山手にかけての谷戸と呼ばれる地形に位置する。
明治末乃至大正初期に建てられ、関東大震災で被害を受けたことから、震災の大きさを今に伝える「山手80番館跡」遺構である。煉瓦の壁を鉄棒で補強、耐震性を考慮した建物にもかかわらず、関東大震災で被害を受けている。また、浄化設備が整った住居でもあった。



横浜気象台
今回の山手の桜巡りの主目的は横浜の桜の標準木に会うことでであった。東京の標準木を2年前に先に観て地元を後回しにして大変失礼をした。









明治10~20年代頃の煉瓦造りの井戸 深さ25m


―――港の見える丘公園の桜は3年前に巡っているので割愛―――


谷戸坂
「谷戸坂」の名称は山手の丘陵から北に開けた谷戸と呼ばれる谷状の地形に由来するもので、北端の堀川の畔から、南の港の見える丘公園前交差点へ上る、長さはおよそ300m。
1859(安政6)年の横浜港開港以前から疱瘡大明神として知られた本牧岬付近にあった、本牧十二天へ至る信仰の道であった。









元町
1859年の横浜開港までは半農半漁の村落のであった横浜村住民がこの地に移住したことで「横浜元町」と呼ばれるようになる。明治維新の頃にはすでに外国人向けの商店街として栄え、町名も「元町」と改称された。
現在では150周年以上の歴史を持つ横浜を代表する商業地のひとつとなっている。



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訪れた日:2018.3.29



瀬谷にも昔はあった田園地帯を歩く

2018-03-07 17:56:40 | 我がまち
横浜市の西に位置する瀬谷区は南北に長く、南西方向になだらかに下る相模原台地の上に境川とその支流が刻む谷戸に位置している。
その川の両岸に昭和30年代では水田が広がっていた。現在では消えてしまった境川に面した水田地帯を昭和30年代の地図を片手に歩いた。


先ずは、本郷の田圃を潤したであろう大門川を目指す。
神奈中バスを降りて、海軍道路の上瀬谷小東の交差点まで歩いたが川は見えず少々海軍道路を瀬谷駅方向に歩いてゆくと道路下に川を見つけた。
   
奥に上瀬谷農業振興地域が広がる 手前の窪地が大門川

川沿いを歩きたいので消防署前から蛇行する川を目指し脇道に入る。
大門川には栗、粟、麦、男、女と名の付く橋があって興味があった。どなたが、どのようにしてこの名を付けたのだろか。お堅い役人ではないような気もする。









本郷2丁目。
川はこの先、鍵の手に曲がって流れるのだが、そこは昔製糸場があった住所と一致する。この川は製糸の生産用の水としても使われたのか、でも水量が足らないかな?
この先にはもうひとつの川口製絲(本郷館製絲場)が存在したが、そこでは井戸を掘って製糸製造用に利用したと関係者の話をある講演で伺っている。

さらに川を下ると、かつて水田が広がっていた瀬谷本郷公園に至る。

境川の深瀬橋付近の公園の一角に「農地改革の記念碑」が建っている。

それによると、
『1982(昭和57)年の台風18号(静岡県御前崎付近に上陸)により、相模鉄道線の上下流沿岸で約2.2kmにわたり、852戸の床上、床下浸水の被害が発生した。』
昔、東映映画で「米」という映画があったが、農家の人々は、水害と日照りとの戦いで米を生産していたことを思い出す。

日照りの戦いは、近くの神社で昭和の初めまで、行われていた儀式があった。
瀬谷の民話にもなっている「雨乞い」である。
明治の始めに書かれた瀬谷村々誌によると、瀬谷の土地は土の質で言ったら「中の下」と記されていた。このため水対策は農民にとっては重要な問題であった。
夏になって日照りが続くと、村の百姓は丹沢や大山の峰に出る雨雲を朝に夕に待ち、やがては雨乞いに至った。
橋戸の雨乞いは、『選び抜かれた若者二人が竹筒を持って、雨降山とも云われる大山の阿夫利神社にお水を頂きに参ることから始まる。そして村中の大人が総出でワラで作った龍を持って、境川の橋戸堰(相鉄線の上)に向かう。橋戸の堰では水の中に四方に青竹を立て、しめ縄を飾り、ワラの龍を祀る。そのあと、西福寺から借りた半鐘にお水をかけ、「六根清浄」のかけ声で雨が降るよう祈った。そのあと鎮守に出かけ再び祈った』とされる。

雨乞いの様子


龍は水や川の使い


本郷の日枝社の境内でも雨乞いの神事が行われていた

境川には大和市と瀬谷の交互の堰がいくつか設けられ「あげ堀」と呼ばれる用水が田圃を潤していた。

堰は30×180の木製の板を組み合わせていて人が通ることもできる堰もあった

堰は大和市と横浜市瀬谷区で交互に幾つか設けられていた。
瀬谷本郷公園と日枝社の間には南北に走る道路があるが、それが昔はあげ堀であった。

直線に延びたあげ堀のなごり

その道を進むと大門川にぶつかる。この辺りの字名が大門と呼ばれ、そこから川の名がついた。およそ4kmの川筋である。



大門の字名の由来は、隣町、大和市にある相模13座のひとつ深見神社の大門があったからだと云われる。また、神田もあったとも伝えられる。
現代の川筋はこの辺りから直進して境川に直進しているが、水田があったころは一旦南に曲がって合流していた。その名残なのか、住宅地のはずれに小さな堀が今も存在する。

ここからは境川に沿って歩く。境川は全長52km余の2級河川である。
入村橋となる。以前はこの辺りに大和市側に流れる堰があった。
その名残が、相鉄線の堤に残っている。今はふさがれているがあげ堀のトンネルである。
線路をくくりぬけると、あげ堀の名残のような堀があって、田圃も住宅地の隅に残っている。



相鉄線の上流と下流での流れ

境川は相鉄線の手前で大きく曲がる。このカーブが抵抗となって洪水の原因になっているので、それを解消するためここに直線のトンネルを施設する計画が出てきた。

相鉄線の上流側に瀬谷側に流れ込む堰が設けられていて、相鉄線をくぐり橋戸側の田圃に流れていた。今はそのあげ堀が道路に変わっている。

この先の下流の川筋は昔は九十九曲がりなどと呼ばれるほど大きく蛇行していて、梅雨時や台風期には、大雨が降るたびに氾濫し、水田は冠水し川沿いの低地を湖底のようにしていたという。その曲がりも住宅開発と共に直線の川に変化した。



かつては田圃であった


田圃を潤すあげ堀であった

中原街道に至った。

この先下瀬谷にも少々水田が続いていたが、今回はここで終了。

境川の水田地帯を歩いたが、瀬谷区には境川等の支流の流れが他に相沢川、和泉川と阿久和川という川があり、相沢川と和泉川には沿岸に細長く水田が耕作地があった。
それぞれの地域は、川が小さいだけに日照りとの戦いは境川以上に一層厳しかったと思われる。


                                       資料:横浜・瀬谷地図くらぶ講座
第7回瀬谷の埋もれた歴史を探る 

訪れた日:2018.1.10
        1.31
2.03
2.27