あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

江戸の面影を伝える上野東照宮

2015-04-29 15:12:51 | 東京散策
1627(寛永4)年、津藩主藤堂高虎と天台宗僧侶天海僧正により、東叡山寛永寺境内に徳川家康(東照大権現)を祀る神社として創建。
現存する社殿は1651(慶安4)年に三代将軍・家光が造営替えをしたもの。その後の戊辰戦争や関東大震災でも焼失せず、第二次世界大戦でも大きな被害は被らず、江戸の面影を現在に残している。
祭神は家康のほか八代将軍・吉宗、十五代将軍・慶喜。
藤堂高虎は、江戸城改築や大坂冬の陣・夏の陣に功績を挙げた人物。家康は高虎の才能と忠義を高く評価し、浅井・豊臣家に仕えた外様大名でありながら、譜代大名格(別格譜代)として重用した。墓は上野動物園内。


社殿
1651(慶安4)年造営。国指定重要文化財。
金色殿とも呼ばれ、参道側から拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成される権現造りである。社殿外壁には豪華な彫刻が施されている。
          

          

          

          

          

唐門
1651(慶安4)年造営。国指定重要文化財。
正式名称は唐破風造り四脚門(からはふづくりよつあしもん)。
柱内外の四額面には左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻があり、頭が下を向いている方が昇り龍と呼ばれている。
上部の錦鶏鳥・銀鶏鳥の透彫は精巧で美しく、室町桃山時代の技術を集大成したものとして高く評価される。 天下泰平の願いを込めて彫られたと考えられている。
          

          

          

 

透塀
1651(慶安4)年造営。国指定重要文化財。
菱格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名となっている。 社殿の四方を囲んでおり、上段には野山の動物と植物、下段には海川の動物の彫刻が内外両面に200枚以上表現されている。
          

 

 

 

 

 

銅燈籠
全48基。国指定重要文化財。
諸大名、徳川御三家より寄進されたもの。
          

          

石灯籠
200基以上あり、ほとんどが社殿の建築年、1651(慶安4)年に諸大名より奉納されたもの。
名古屋の熱田神宮、京都南禅寺の大石灯籠と合わせて日本三大石灯籠のひとつに数えられている。
          

          

水舎門
1651(慶安4)年、三代将軍・家光のもとで老中を務めた阿部重次が奉納した。社前右側にあった御水舎の上屋だけを1964(昭和39)年に門として移築した。
「東照宮」の扁額が掛かっている。
          

旧寛永寺五重塔
二代将軍・秀忠が徳川幕府の安泰等を祈願するため天海僧正に命じ、寛永8(1631)年に創建したが、1639(寛永16)年に花見客の失火により焼失、現在の塔はその後再建されたもの。
この塔はもともと上野東照宮の一部として建てられたが、明治になってから神仏分離令により寛永寺の所属となり、さらに1958(昭和33)年に東京都に寄付され、現在では上野公園の管理下にある。
塔の高さは32m。江戸時代の五重塔の多くは、初層から四層までを和風、最上層のみ唐様風とするのに対し、この塔は全層和様式という。塔内には、弥勒、薬師、釈迦、阿弥陀の四体が安置されていた。





桜の季節の東照宮

前回訪れた際は、社殿を修復工事(2009~13)が行われており、社殿をプリントした幕が下りていた。

2012年修復中の東照宮



上野といえば動物園で、この日も家族サービスで動物見物がメイン。





パンダ舎からすぐの「慰霊碑」奥に藤堂家の墓がある
「上野」の地名も藤堂家の領地「伊賀上野」から来たともいわれる





訪れた日:2015.04.27
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桜花の下 玉川上水緑道を歩く

2015-04-26 11:02:50 | 東京散策
玉川上水は、急増する江戸の人口に、神田上水では足りなくなったため、多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653(承応2)年、玉川兄弟が工事を請け負い、わずか8カ月で築いた。
四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所(水番屋)」からは、石樋、木樋による地下の配水管によって、江戸城や大名屋敷をはじめ庶民へと江戸市中に給水をした。
その玉川上水路を桜が咲く季節に、多摩都市モノレールの駅「玉川上水」から歩く。
玉川上水駅は、西武鉄道の拝島線の接続駅となっている。
 
玉川上水は、地下道をくぐって南側に進む。「自転車はおりて通りましょう。」と大きな注意書きが目立つ。こんなに幾重にもガードされていれば、自転車も降りざるを得ないだろう。と思っているそばから若い女性が乗った自転車がそばをすりぬけていった。
 
あとでわかったのだが、この地下道は電車だけではなく、玉川上水をもくぐっていた。車専用の地下道には「玉川上水立体」と名がしっかりと記されていた。
 
駅前の清願院橋の上・下流には、今が見ごろの桜が咲いていた。
左岸を歩く。すぐに都の水道局小平監視所にあたる。
 
ここは表流水中に含まれる土砂やゴミの沈殿・除去及び水質監視を行っている。
その先で道はふたつに分れる。左手は野火止用水をたどる「雑木林のみち・野火止コース」である。

野火止用水は、小平監視所から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。
用水が流れる川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途(かんと・かんど=官吏としての仕事や地位)名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになった。8km余の野火止用水を歩く散策コースもある。
右側の玉川上水沿いの道を行く。右手に「清流の復活」の碑がたっている。
 
ここには上水の流れの際まで望める唯一の場所もある。
降りると、当時の建設大臣・扇千景さんの筆によるものだろう「甦る水」の文字が書かれている碑がたっている。現在は、玉川上水の取水所の下流にある多摩川上流水再生センターで処理した水がここまで運ばれ、昔の清流の姿を取り戻していると解説されている。
 
出発点から3つ目の橋「西中島橋」の先に小川分水が右手に現れる。
   
小川分水は、玉川上水完成2年後に開削された分水であり、開削当初の分水口は次の小川橋付近であった。
その後この地から分水され、明治初期には先ほどの野火止用水に分水口・新堀用水が設けられ、ここまで暗渠で流れて来る(上右)。
 
車道も兼ねている「小川橋(上右)」でしばらくは玉川上水から離れ、800mほど南西にある「川越道緑地古民家園」に向かう。
 
古民家は、幕末の上層農家で、6つの部屋からなる六間型という民家である。奥の間は、武家屋敷の様式に匹敵する欄間や建具となっている。立川市の有形文化財に指定されている。
                 
次は、150m南の「砂川八番組馬頭観世音」に行く。
全長2.3mの馬頭観世音文字塔は立川一の大きさとか、1840(嘉永元)年に建立された。文字塔の脇には朽ちた石像も並ぶ。
 
砂川八番組呼ばれているが、近くを走る五日市街道・都道7号線沿いには西から一番から十番までn地名があり、この順に開発が進められたという。現代では、砂川七番に新しい交通手段であるモノレールの駅がある。
ここからは、五日市街道を東に進む。沿道には桃の花や桜が咲いている。
 
砂川十番組に「出羽三山供養塔」と地蔵が祀られている。
      
出羽三山供養塔は1826(寛政9)年建立。地蔵は寛保年間(1741~43)年建立、本来「右ハ府中・左ハ江戸」と刻まれていた「地蔵道標」であったのだが、昭和20年代に盗まれたため再建したという。バチ当たりもいたものだ。寛保年間は徳川八代将軍吉宗の時代。
             
五日市街道を800mほど東に進むと、国分寺高校北交差点にある「妙法禅寺」に着く。
五日市街道沿いには薬医門形式の門が構えられており、敷地内には市指定重宝の「川崎・伊奈両代官謝思塔」が建立されている。薬医門のいわれは、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたとも言われている。 また、医者の門として 門の脇に木戸を つけ、扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもと言わる。
    
謝恩塔は、1722(享保7)年に始まった武蔵野開発にあたって功績があった代官に感謝して建立したものである。農民は開発初期に窮乏し餓死者が続出したほどであったため、代官が様々な施策によって農民を救った。
次は、交差点を渡って、「鳳林院」へ。
   
門を入ると左手に馬頭観音と庚申塔。馬頭観音は道標も兼ねており「是より八王子・ふちう道」と。そして何故か樽型の毘沙門堂も。毘沙門天は村の鎮守という。
1722(享保7)年、この辺り一帯の新田開発(野中新田)と一寺建立の願を幕府(徳川八代将軍吉宗の頃)に提出し許可を得たが、新田開発の権利金(冥加金)が納められず窮地にたった。しかし江戸の穀物商の援助で新田開発が行われ、鳳林院も創建できたという。新田開発には大金が必要で、一説には250両(3,000万前後)だとか。
玉川上水の緑道に戻り、8つ目の「いこい橋」から再スタート。
 
 
緑道脇には引き続き新堀用水が流れている。また、上水公園はみごとに桜が咲いていた。
創価学園専用の「栄光橋」をくぐる。創価学園は小学校から高校まで玉川上水の両側に校舎がある。新堀用水を渡る橋も「希望の橋」と命名している。ふたつの橋ともいかにも学校関係らしいネーミングだ。
  
新堀用水に架かる橋にも名が付いているようで、「あざみはし」なんて可愛いネーミングなのでパチリ。ついでに個人のお宅の石橋も絵になるようなのでパチリ。
次は「水車橋」、「新小川橋」が架かっている。
 
その先に青空ギャラリーがあったのでのぞいた。
 
1両編成で走る「多摩湖線」。30分間隔で運行、「桜堤駅」という名の駅があったと掲示されている。調べると、多摩湖線は1928(昭和3)年に開業、1940(昭和15)年に武蔵野鉄道と合併、その後西武鉄道に吸収される。当時はやたらと駅が多い鉄道だったようで、桜堤駅は1945(昭和20)年に休止、その後廃液となった。「電車を降りなくても花見が出来ます」と小金井桜が見物出来る駅だったようだ。
西武国分寺線の踏切を渡る。「鷹の台駅」が見える。西武多摩湖線はこの先1.8km東。
 
渡ってすぐ左の「小平市立中央公園」でひと休み。
 
 
ここも桜がきれいである。
 
「木もれ日の径・新堀用水」の立杭をみる。道幅が少々広いのかベンチも見かける。
ここから商大橋の間をかつてラーバーズレーン(恋人たちの小径)と呼ばれたことも。学生がいてベンチがあればこう呼ばれるかな。
「九右衛門橋」を通過、素掘りの玉川上水が続く。
 
JR武蔵野線が地下を走る「玉川上水立坑(たてこう)」に至る。
   
「新堀用水・鎌倉橋エリア」と刻まれた大きな石が置かれている(下右)。このエリアは津田塾大から鎌倉橋間100mほどを指しているようだ。先ほどの「木もれ日の径」も中央公園の脇の通りわずかのエリアを指すようだ。このほか小平市では色々な愛称をエリアに付けている。
 
鎌倉橋から玉川上水を少々外れる。「上鈴木神社」。
この神社に「南天櫻」がある。染井吉野の木に南天が宿り木のように寄生しており、そのご利益についての解説板が立てられている。
   
この稲荷神社は鈴木新田のなかに祀られている。1723(享保8)年勧請。
「小松橋」を過ぎる。ようやく小金井桜の大木が植わっている用水沿いに到達する。
   
桜は老木で花がまばらであり、落胆感がでる。老木の桜並木が続く。「商大橋」も過ぎる。
商大橋のたもとに小金井桜の解説板がたっている。
 
この解説によると、玉川上水が完成した時の堤には、杉と松が植えられていた。それが、70年後徳川八代将軍吉宗の時代に大岡忠相の命により、大和の吉野山と常陸から桜の苗種を取り寄せ6kmにわたり植えた。
当初は花見客は少なかったが、およそ60年後紀行文、案内記などを通じて関東随一の桜の名所と知れ渡った。
 
        
「桜橋」に着く。この電車が「西武多摩湖線」である。その次が「八左衛門橋」。脇道にそれると緑道は進めないので、一路玉川上水沿いを歩く。
 
緑道わきに石仏が祀られている。謂れは分らない。
 
「山屋橋」、「喜平橋」。
   
「喜平橋」の五差路のひとつに「喜平町桜通り」があって、みごとな咲で、桜の本家が負けている。
      
ここから若木だが咲方の良い右岸を歩く。
 
「小桜橋」、奥は小平第三小学校。左岸の桜の花が淋しい。それに引き換え、右岸は見事に咲いている。こちらに移動して正解だ。
 
「茜屋橋」。創設の橋は、材木を3本架け渡しただけであった。このあたりは染料の茜草が栽培されて、その元締めを「茜屋」と呼んでいたことから橋の名がついた。ここからは桜の花がデザインされているフェンスが続く。
 
「貫井橋」。
そして「小金井橋」、少なくともここまでは歩きたいと考えていた。橋のたもとに小金井桜の石碑と説明がたっている。 
       
1924(大正13)年、奈良県の吉野、茨城県の桜川そしてここ小金井の桜が名勝と指定された。小金井の桜は若葉の色、花の色、大きさ、早咲き・遅咲きなど1本1本異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地だという。
下の絵は1826(文政9)年小金井橋付近を描いたもの。
 


明治30年代の小金井橋の花見風景色彩写真


一昨年前の桜の季節に玉川上水取水口の羽村を訪れた。桜の季節には引き続き玉川上水を歩こうと計画はしていたが、昨年は「皇居の桜」見物があって、小金井の桜は1年遅れとなった。

訪れた日:3月31日



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亀戸天神の藤見物

2015-04-25 18:29:18 | 東京散策

天神様と言えば「梅」がつきものだが、亀戸天神は境内に梅の木はあるものの、何故か「藤」が有名になっている。
歌川広重作の名所江戸百景(夏の部)「亀戸天神境内」に描かれている太鼓橋をバックにした藤の花の浮世絵が有名であるが、何時だったか、境内のどの位置から描いたのかTVの放送があった。そんな番組の印象が強く、今回亀戸天神の藤の花見物になった。

この浮世絵について調べていくと、初擦り(上の浮世絵)で摺師がミスをしていたようだ(?)。太鼓橋下の色を見ると池の色で塗っている。ここは空のはずだ。
下の後刷りの浮世絵では太鼓橋の下は空と同様な色となっている。

亀戸天神は菅原道真の末裔であった神官が、天神信仰を広めるため諸国を巡り1661(寛文元)年、江戸の本所亀戸村にたどり着いた。村には元々天神の小祠あり、そこに道真ゆかりの天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時、徳川幕府は明暦の大火による被害から復興を目指しており、四代将軍家綱がここ本所の鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662(寛文2年)、太宰府天満宮にならって造営される。
          
大鳥居をくぐると、心字池があり、3つの橋が架けられている。池と橋を人の一生に見たてている。
最初の太鼓橋(男橋)は生きてきた過去を、次の平橋は今が見える現在を、最後の太鼓橋(女橋)は希望の未来を現わしている。



男橋                                       女橋





























幸運を招く鷽(うそ)
普段から知らず知らずのうちに使う「嘘」を、天神さまの「まこと」に替えていただき、正しい幸運を招く意味から初天神の1月24、25日に、家で祀っていた木彫りの「鷽」を新しい「鷽」に取り替える神事が鷽替え神事。現在では、凶事をうそにして幸運に替える開運、除災招福のお守りとして授かっている。
鷽は天神ゆかりの鳥といわれる。
          
塩原太助奉納石灯籠
愛馬「青」との別れで知られる塩原太助が奉納した石灯籠1基、本来は1対であったようだ。1781(天明元)年奉納。
太助は上野国沼田出身で、本所相生町で薪炭問屋を営み成功した人物。
           

TVの報道で見ごろが週末と話していたので急いで予定を組んだのだが、藤の花を観ると満開にはなっていなかった。

訪れた日:4月24日

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丹沢山開き2015

2015-04-19 17:27:24 | 丹沢大倉尾根
今年も山沢の山が開いた。

曇天の空の下、山開きを知らせる横断幕が揚げられている。
山開きの日としては、曇天でもまずまずである。昨年はガスって寒い日であった。一昨年は雨であった。
          
この横断幕、毎年丹沢小屋組合のメンバーが揚げている。この丹沢小屋組合もご多分にもれず高齢化が問題となっており、来年は幕を揚げられるかという話まで出ているようだ。

春到来で、野生も花開いている。
 
               スミレ                                 ワスレナグサの一種


マムシ草


色がでないが高原の家前のピンクに咲く桜

              観音茶屋前の大島桜            甲斐犬が主人と降りて来たので撮らせてもらった

塔ノ岳山頂で交換される鍵が上がってゆく。
 


正午を過ぎると天気予報「所によりにわか雨」が降り始めた。やはり丹沢の山開き日である。
山開きが過ぎると本格的な登山シーズンとなる。
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日本橋の桜を眺める

2015-04-13 13:33:18 | 東京散策
東京のど真ん中、東京駅・八重洲から茅場町方面に伸びる、およそ1kmの細い通りがある(起点・八重洲1丁目5番~終点・日本橋3丁目1番)。
桜の季節には約169本の桜の花がトンネルを作り出している。中央区内のさくらの名所では 最多のさくらが植えられている並木だそうだ。
桜の歴史は古く、最初は1936(昭和11)年に植樹されたが戦災で焼失し、改めて1956(昭和31)年に植樹されて、その時に「さくら通り」と命名される。日本橋付近では、老舗の高島屋を望みながら桜並木は続いている。日没後にはライトアップでさらにその美しさを際立たせるという。

日本橋際にたつ桜


中央通りからと日本橋さくら通りからの高島屋






前方が東京・八重洲


ビルの窓に桜が映り借景となっている


♪ さても 南京玉すだれ ♪


都立高校のOB・OGのグループ 法螺貝が楽器に使われている


日八会とは日本橋の「日」と東京八重洲の「八」を指すこの辺りの連合町会青年部の名称


外国人も和服に着替え桜を楽しんでいる


東京のど真ん中で路上にシートを敷いて花見が楽しめるとは





訪れた日:2015.4.4


関連 : 日本橋界隈を歩く
      http://blog.goo.ne.jp/tetthan/e/7d13ec1e49a8a65e015a95975f7eda44
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深川から日本橋へ船で巡る

2015-04-12 16:46:03 | 東京散策
昨年、深川の大横川の桜を和舟で楽しんだ。
今年は同じ場所から出発する日本橋への動力船でのクルーズを楽しんだ。以前から一度は日本橋を水上レベルから眺めたいと思っていたので楽しみな遊覧である。
生憎満開からは数日たってしまっており、少々残念であったが船は休日のみの運航なので致し方がない。平日でも日本橋発着の予約クルーズもあるが、満開がいつか予想がつかないので、結局は天気任せとなってしまう。
大横川
          

          

          

          
          
          

          

隅田川
          

          

          

日本橋川
          

          

          

       

               

          

          

日本橋川沿いはほとんど桜はなかった。少々イメージが違っていた。
訪れた日:2015.4.4


関連 : お江戸深川さくらまつり
          http://blog.goo.ne.jp/tetthan/preview?eid=465f5fd048c1ccaae49a01ccca4642d3&t=19801043675528d1858dbf4?0.9811377573009232
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桜の九品仏

2015-04-11 11:11:18 | 東京散策
浄土教では極楽往生には、九つの階位があるといわれ、上品・中品・下品であり、さらにそれぞれは上生・中生・下生と別れ、合計9ランクの往生があるという考え方である。そして、それぞれの階位に阿弥陀如来がおられ、その9体の阿弥陀如来を九品仏という。
九品仏浄真寺には、「上品(じょうぼん)堂」・「中品(ちゅうぼん)堂」・「下品(げぼん)堂」の三仏堂があり、それぞれの堂には「上生」・「中生」・「下生」3体の阿弥陀如来像が安置している。





















境内には50本ほどの染井吉野と八重桜が植えられている。
昨年紅葉にひかれて参拝した折、桜も見事だということを知り、春も訪れた。花の盛りは少々過ぎ、前日の強風で境内はピンクのじゅうたんが敷かれていた。

訪れた日:2015.4.4

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横浜の桜をめぐる-4 三溪園

2015-04-10 11:28:20 | その他
生糸貿易により財を成した実業家・原富太郎(三溪)によって、1906(明治39)年に公開された日本庭園。
失われようとしている京都や鎌倉の歴史的建造物を、三渓園一帯の自宅敷地内に移築保存し、1906(明治39)年無料で開放した庭園。三重塔など各所に配された歴史的建造物と桜が絶妙な調和をみせ、「日本人の春」を感じさせてくれる。





























訪れた日:2015.3.30
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横浜の桜をめぐる-3 港の見える丘公園

2015-04-09 17:14:08 | その他
江戸時代末期、横浜が開港した際に、イギリスとフランスの軍隊が当地に駐留した。
太平洋戦争後も、アメリカ軍など進駐軍がこの地を接収した。接収が解除になってから、横浜市が公園用地として手に入れ整備し、1962(昭和32)年開園した。
この公園は、終戦直後の1948(昭和23)年にヒットした流行歌『港が見える丘』にちなんで命名された。
山下公園と並んで、横浜市の観光地の公園のひとつで、横浜港を見渡せる高台に位置している。
港が見える丘公園といえば、バラの花なのだが、今回は桜を求めてこの公園に上がった。







スタジオジブリ作品『コクリコ坂から』では、主人公が毎朝、下宿屋の庭で信号旗を揚げるシーンがある。その下宿屋・コクリコ荘がある場所はこの公園がモデルといわれる。
公園に2枚の旗がたなびいている。旗の意味は「安全な航海を祈る」だそうだ。











『港が見える丘』がベースとなって誕生した歌がザ・ピーナッツの『手編みの靴下』(作詞:岩谷時子/作曲:宮川泰)ということ。この曲はそれほど知られていないが、詞を代えて大ヒットしたのが園まりの『逢いたくて逢いたくて』である。日活で園まり主演の映画化がされて、相手役にはなんと渡哲也というからスゴイ。
また、横浜の代表的なご当地ソングとなっている1969(昭和44)年に大ヒットした、いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はこの公園から見た、横浜と川崎の工業地帯の夜景をイメージしたものだという。


訪れた日:2015.3.30
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釈尊降誕花まつり 満願寺別院・等々力不動尊2015

2015-04-08 18:11:25 | 東京散策
旧暦4月8日は、釈迦が生まれたという伝承に基づき、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、灌仏会(かんぶつえ)、花会式(はなえしき)、花祭(はなまつり)と呼んで多くの寺院で祝っている。
ここ等々力不動尊も「子供花まつり」や「釈尊降誕花まつり」として行われる。
花まつりは、様々な花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たす。釈迦の誕生仏像をその中央に安置し、柄杓(ひしゃく)で像に甘茶をかけて祝う。
甘茶をかけるのは、釈迦の誕生時、産湯を使わせるために9つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説に由来している。甘茶で習字をすれば上達するとも言われている。
          
等々力不動尊は、真言宗中興の祖・興教大師が夢のお告げで開かれた霊場である。
大師が役の行者(えんのぎょうじゃ)作の不動尊を背負いこの地に入ると、夢と同じ渓谷であり、不動尊をここに安置したのがはじまりとされている。
















等々力不動尊は桜の名所でもある






満願寺
満願寺は、1470(文明2)年、吉良氏によって開基された祈願所である。戦国時代、吉良氏は小田原北條氏の傘下であった。









満願寺は、等々力不動尊から北に800mほど歩いたところに建っている。
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