あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

高幡不動尊のアジサイ

2014-06-28 13:56:28 | 東京散策
 
泉区の石仏・石塔を巡っていた際に歩道にアジサイが咲いていたので撮った。
色彩が珍しいと思い撮ったのだが、季節がらアジサイの花のスナップもいいかなと思っていたら、日野市の高幡不動尊で「あじさいまつり」が開催されていることを知り、参った。
高幡不動尊には、250種類7,500株が植えられているという。


高幡不動尊では6月1日から7月7日(月)まで「第31回あじさいまつり」が開催されている。
自生の山あじさい、およそ3,300株や色・形が様々な山アジサイおよそ250種、700株や西洋アジサイなど合わせておよそ7500株が次から次へと山内八十八ヶ所巡りの沿道を中心として各所に咲いている。
  
  

  

             

  
        アナベル(南米)                   伊予こまち                 石化八重あじさい

 

  
           未来                     ババリア                       花火

   

  
        八重柏葉あじさい                   真紅                  城ヶ崎(がくあじさい)

    

     
          アナベル                  ラディアータ                    うずあじさい



  
       のりうつぎみなづき             ハワイアンストロベリー              八重かんこくあじさい 

 

  
          咲や姫                    廣瀬の華                天使のえくぼ(やまあじさい)

              

2時間余の観賞であった。
ところで、あじさいの品種はどの位あるのか、高幡不動で250種ということで、興味が出た。
フランスのノルマンディーにあるアジサイ園では、広さ12ヘクタール(東京ドーム3個分)に1,500種が植えられているという。また、「アジサイ百科」に栽培品種2,000種が紹介されている。
七変化といわれているあじさい、梅雨空のうっとうしさを晴らしてくれる。


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世界遺産・富岡製糸場

2014-06-21 17:26:00 | 養蚕・シルク
明治維新直後、日本の近代国家へのいしずえとして、緑茶、生糸が日本の外貨獲得のための最大の商品であって、重要な産業であった。
それまでの日本の製糸業は、伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸であったため、良質な生糸を大量生産できずに、粗悪品やにせものまでも輸出し、不当な利益を得ようとする商人たちが増えて問題となっていた。
          
さらに外国資本導入の動きもあった。
そこで、日本政府資本による器械製糸場の設立計画が打ち出され、尾高惇忠(あつただ)を創立責任者として、フランス人技師ポール・ブリュ―ナを迎え、上州(今の群馬県)富岡の地に、富岡製糸場の建築計画が始まり、1872(明治5)年、現在の金額で600億かけ工場が完成、操業を開始した。
          
しかし、開業当初は西洋人に近寄ると生き血を吸われると、工女が集まらず順調な出だしとは云えなかった。ワインの色が血だと思われたようだ。このことは「明治政府告論書」にも記されている。
尾高は知人を頼りに工女を探したが、集まらず、娘・勇(ゆう・14歳)が率先して工女1号になり、ようやく188人でスタートする。
          
開業の翌年には、「富岡日記」という工女生活を著わした横田英(えい)が信州からやって来る。
彼女は入所して8ヶ月で1級工女となる努力家で、1年4ヵ月の富岡生活を終えた後は、郷里に新設された民営の製糸場で指導工女を務めるなど地域産業にも貢献する。    
       
                尾高勇                              横田英
                    関連 : 横田家住居
                             (信濃国・真田家松代藩武家屋敷を訪ねる)  

労働時間は朝7時から夕方4時半で、休憩が3回あり、実働7時間45分であった。また休日は、週一で、夏休み・冬休みがそれぞれ10日間あり、富岡製糸場の官営時代は女工哀史とは一線を画す恵まれた労働条件であった。
女工は4ランクに分けられ見習いの等外から、糸取りが3、2、1等に分けられ、1日4束取れると1等工女となり赤いタスキと高草履が支給される。給料も等外9円に比べ1等工女は25円と高く、町中でもあこがれの的となり、錦絵にも登場している。但しその1級工女は全体の3%にすぎなかった。それも当然で、糸つぎの技術が難しく高度の技術を必要とした。これこそが、日本の品質の良い物づくりの原点である。
               

          

          

世界遺産の対象となったのは1872(明治5)年から75(明治8)年にかけて建てられた以下の施設である。
繰糸所
繰糸(そうし)工場とも呼ばれ、富岡製糸場の中心的な建物である。
敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140m、梁間12m余である。小屋組は木造のキングポストトラスである。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって電気のない時代の採光になっている。この作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。
操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された。なお、操業当初の器械を含む過去の器械類については、岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈されている。
          

          

          
          
          

          

          

東置繭所・西置繭所
東繭(まゆ)倉庫と西繭倉庫とも呼ばれる。
繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。
桁行104m余、梁間12m余、木骨レンガ造2階建てで、風通しなどへの配慮から2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設けてある。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていた。
          

          

          

          

首長館(しゅちょうかん。1873(明治6)年竣工)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)
繰糸所の東南に位置する、木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺きの建物である。平面はL字形を呈し、東西33m、南北32m余である。内部は後の用途変更のため改変されている。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。最も、この建物は面積916m2余と広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、フランス人教婦たちも女工館ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎としても使われた。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある。
          

女工館(じょこうかん)あるいは2号館
首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20m、南北17m余である。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、来日した4人の教婦は病気などで、4年の任期を全うできずに早期に帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった(前述のように、そもそも短期間さえフランス人が暮らしていなかった可能性もある)。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された。
          

検査人館(けんさにんかん)あるいは3号館
1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西11m、南北19mである。元々はブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、男性技術指導者は早期に解雇され、その後外国人医師の宿舎になっていたようである。正門近くにあり、現在は事務所になっている。首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の洋風住宅と規定されている。なお、1881(明治14)年の記録には第4号官舎、第5号官舎もあったようだが、現在は失われている。
          

蒸気釜所(じょうきかましょ)
繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が、後者は汽罐室の一部が残ったものである。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した単気筒式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は博物館明治村(愛知県犬山市)で展示されている。
蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており、蒸気釜所の「附(つけたり)」として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒(えんとう)基部 1基」)。
当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36mを備えていたが、1884(明治17)年に暴風で倒れてしまったため、現存しない。なお、現在の37.5 m高さの煙突はコンクリート製で、1939(昭和14)年に建造されたもの。
          

          

          
鉄水溜(てっすいりゅう)
鉄水槽とも呼ばれ、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15m、深さ2.4mであり、石積の基礎を有する。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる。
          

下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう)あるいは煉瓦積排水溝
いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠(あんきょ)である。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物に並行して東西に通じ、延長は186 m。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135 m。排水は鏑川に注がれた。
          


候門所(こうもんじょ)
正門脇で出入りする人々をチェックしていた建物で、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附(つけたり)」として指定されている。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した。のちに社宅に転用された。
                              

製糸場を入ってすぐ右手に記念碑が建てられている。そこには代々、工女たちに歌われた歌が碑に刻まれている。
『いと車 とくもめぐりて 大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ』
これは、明治天皇の皇后・昭憲皇太后が富岡製糸場に訪れた際に詠まれて歌である。
                  
皇室と養蚕は「日本書紀」にも記載があるほどで古くからの関係がある。、皇室が本格的に養蚕取り組んだのは昭憲皇太后からといわれ、養蚕を国家的事業にという力の入れようがわかる。
皇太后の行啓は1873(明治6)年6月19日に赤坂仮皇居を立たれ、4日間かけて富岡に到着した。丁度梅雨時のことであったが、今年の天候と同様豪雨に見舞われ、途中の2河川の橋が流されるほどのもので、一行100余人は大変困難を極めたという。
皇太后は富岡でもう1首読まれている。
『とる糸のけふのさかえをはじめにてひきいたすらし国の富岡』と、糸によって近代化を図る原動力が富岡にあるときっぱりいいきっている。
また、世間では、こんな歌が当時流行っていた。
『(前略) 音に聞こえし 富岡よ 糸とり車は 金車 17、8なる 女郎衆が 髪ははやりの 束髪よ 縮緬たすきを あやにとり もみじのように 手をだして 糸とる姿の 美しや (後略)』
伊勢音頭風の「富岡製糸場」という歌であるが、工女を美化している。
のちの時代には、信州諏訪地方の工女で流行り全国に広がっていった「糸ひき唄(工女節)」の中に、
男軍人女は工女 糸をひくのも国のため』『主は軍人わたしゃ工女 共にお国のためにする』 
単調な作業の中で歌われた糸ひき唄には、明治政府の政策「富国強兵」をずばり物語っている歌詞がはいっている歌もある。
明暗様々な歴史のある製糸業を代表する、富岡製糸場が世界遺産に選ばれた価値は十分あると感じ、喜ばしいことである。


                                         資料:富岡製糸場
                                             NHK-TV「ヒストリア」
                                             朝日新聞社「あゝ野麦峠」


 
わが家の蚕さま
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横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(岡津編)

2014-06-19 15:21:40 | 横浜歴史散策
097. 領家谷(りょうけやと・岡津町1294-3向かい)
          
①丸彫双体道祖神・・1794(寛政6)年
②角柱型文字「庚申塔」・・1859(安政6)年
③唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+三猿・・元禄??(1688~1704)
④角柱型文字「庚申塔」
⑤角柱型文字「猿田彦大神」塔
⑥唐破風笠付角柱型聖観音立像
⑦笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+日輪月輪+三猿
           
                   

       
                ②             ③       ④     ⑤        ⑥        ⑦ 

      
              ①                      ②                     ③

             
                      ④                       ⑤

              
                      ⑥                       ⑦
  
098.普光寺入口稲荷社(岡津町90)
          
①光背型地蔵立像+三猿
②駒型???塔
③自然石碑・・文字「筆塚」、原田右衛門の筆
④六地蔵
⑤駒型双体道祖神塔
 
        ①   ②                                    ④                    ⑤  

  
         ①                     ②                      ③

          
                                  

                        
                                  

99.稲荷社鳥居横(岡津町2467)
  
①丸彫双体道祖神+文字「道祖神」
②角柱型文字「庚申供養塔」+三猿・・1796(寛政8)年
           
                       ①                   ②

100.三嶋神社(岡津町2352)  【不明】
庚申塔・・道標:大山道、1796(寛政8)年

101.岡津小東稲荷社
①角柱型出羽三山供養塔
②石祠
  

102.西林寺(岡津町1432)
          
角柱型出羽三山供養塔・・正面-「月山 湯殿山 羽黒山供養」、道標:東-「かまくら ぐみょうじ道 江戸」、西-「あつぎ ほしのや 八王子道」
          
               左面                  中央                  右面

103.岡津町2259  【不明】
双体道祖神塔

104.岡津町2246(岡津バス停から北に入り岡津幼稚園側を右折、松本利夫氏宅の側の裏山)
【不明】
駒型双体道祖神塔

105.向導寺東三差路(岡津町2199)
駒型文字「道祖神」+双体・・1833(天保4)年


106.向導寺(岡津町2199)
          
①六地蔵
②光背型地蔵菩薩立像・・1659(万治2)年
③光背型地蔵菩薩立像・・1712(正徳2)年
          
                 
                      
                            ②          ③

107.向導寺富士塚(岡津町2199)
          
①角柱型文字「天下泰平萬民安■」石塔
②角柱型文字「ゑぼし岩 食行弥勒■」石塔
③角柱型文字「法華右經塔」石塔
④角柱型文字「祖師聖人百日行■」石塔
              
                        ①                        ②

                    
                         ③                ④
②、④は2011年2月に撮影

108.稲荷谷戸の道祖神(岡津町2648北・稲荷社鳥居横竹林内)  【不明】
舟形双体道祖神塔・・1819(文政2)年

109.岡津町2654  【不明】
双体道祖神塔?

110.岡津橋バス停(岡津町2245) 
          
光背型双体道祖神塔
                     

111.永明寺別院(岡津町1616)
          
①角柱型出羽三山供養塔・・文字「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
②仁王像道標・・文字「大山道」/右 ほしのや、1725(享保10)10年
③地蔵立像
                      
                           ①           ②

      
          

112.永明寺>(岡津町1554)
 

113.西田谷の道祖神(岡津町1582向かい)
          
①駒型双体道祖神・・1813(文化10)年
②角柱型文字「地神塔」・・文字「秋葉大権現」「庚申供養■■ 巳待祭神」
          
                  ①                               ②
 
114.岡津町2082  【不明】
舟型文字「道祖神」塔・・1912(昭和7)年

115.岡津町2050  【不明】
道祖神塔


      関連  :  横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(上飯田町編)        下飯田町編
                                    和泉町1編        和泉町2編
                                    和泉町3編        和泉町4編
                                    緑園・新橋町・ほか編        
                                    中田町編       
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横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(中田町編)

2014-06-12 14:28:35 | 横浜歴史散策
083.立場交差点(中田北1-1-1)
          
角柱型文字「庚申塔」・・道標:「南 ふじ沢 南 八王子道」「東 (戸塚 柏尾) 西 (大山) 厚木道」
                      

084.広町会館入口(中田北1-25-25)
          
                     ④       ⑤    ⑥    ⑦     ⑧
                 ①              ②                ③
①光背型三猿庚申塔・・1666(寛文6)年
②角柱型文字「堅牢地神塔」 
③光背型六手合掌青面金剛塔+三猿・・1684(貞享元)年
④?
⑤駒型六手合掌青面金剛塔+三猿
⑥石祠
⑦石祠
⑧光背型六手合掌青面金剛塔+三猿
     
            ①                       ②                         ③

     
                ④                      ⑤                    ⑥

               
                        ⑦                    ⑧

085.中田北2-12  
 
自然石文字「道祖神」塔・・1871(明治4)年

086.立場テニスコート北西(中田西1-17)
①唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+邪鬼・・年号が欠けて「丑 十月」だけ読める
②角柱型文字「堅牢地神」塔・・1899(明治32)年
             
                    ①                       ②

087.葛野の道祖神(中田南5-41-25隣)
角柱型双体道祖神塔・・1807(文化4)年
   

088.踊場駅(中田東1-1)
角柱型文字「南無阿弥陀仏寒念仏供養」塔・・右面「三界萬霊等」、左面「相州中田村」
                           中田町の住職が寒中に広い地域を廻る念仏修行
    

089.三大稲荷(中田東1-11)  【稲荷が撤去】
水掛地蔵

090.しらゆり公園(中田東1-41-1)
角柱型出羽三山供養塔・・文字「月山 湯殿山 羽黒山」「四国八十八ヶ所百番 観世音菩薩」
  

091.しらゆり公園西(中田東2-7-2隣)
          
①地蔵2体
②光背型六手合掌青面金剛塔+三猿・・1673(元禄6)年
          
                       ①                               ②

092.中田東2-17付近  【不明】 
文字柱「庚申塔」・・道標「西-大山道、東-かしわ道」、1853(嘉永6)年

093.「東中田小学校入口」交差点(中田北4-58)
             
①角柱型文字「庚申塔」・・道標:「■ ふじ沢道」「北 八王子道」、1860(安政7)年
②唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+三猿・・1702(元禄15)年
                    
                          ①             ②

094.中田御霊神社(中田北3-42-1)
          
①角柱型文字「庚申塔」・・1852(嘉永6)年
②笠付角柱型文字「南無阿弥陀仏」塔+三猿・・1666(寛文6)年、泉区最古の庚申塔
③角柱型庚申供養塔・・1734(享保19)年 【不明】
              
                       ①                        ②

095.中田町4259付近  【未確認】
庚申塔・・道標:「西-大山道、北-八王子道、東-かしを道、南-ふじ沢」、1809(文化6)年

096.介護老人保健施設「きらら」前(中田町3462-4) 
          
①宝篋塔
②駒型文字「馬頭観音」塔
                              
                          ①          ②


                    関連  :  横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(上飯田町編) 
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(下飯田町編)
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(和泉町1編)
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(和泉町2編)
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(和泉町3編)
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(和泉町4編)
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(緑園・新橋町・ほか編)
                           横浜泉区石仏・石塔115箇所巡り(岡津町編)
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彦根藩井伊家中屋敷庭園を鑑賞

2014-06-05 10:49:13 | 東京散策
大名は、参勤交代が制度化されてからは江戸に屋敷を持つことが義務づけられた。江戸には1000を越える大名屋敷があったと言われている。
大名屋敷には上屋敷、中屋敷、下屋敷があり、中屋敷は隠居した藩主や世継ぎが住む屋敷で、上屋敷よりは江戸城から離れた場所にあった。
また、彦根藩上屋敷は現憲政記念館に、下屋敷は現大隈会館庭園と明治神宮の場所にあった。
          

          
ここは江戸時代初期、加藤清正の下屋敷があったため、清泉池は、通称「加藤清正公の泉」と呼ばれ、清正当時からの大木の化石が置かれている。清正は、地元熊本では「せいしょこ(清正公)」さんと親しまれている。
          

          

庭園内を小川として流れ、やがて江戸城の外堀・弁慶堀に注がれていく。夏には、小川周辺でホタルが飛び交うという。
          

井伊家の歴史を見つめてきた、樹齢220年といわれるイヌマキとカヤの木が残っている。江戸時代の樹木が殆ど残されていない千代田区にとっては、皇居以外にあっては最も古く貴重な樹木で、区の天然記念物に指定されている。




庭園には、たくさんの灯篭があるが、そのなかに春日灯篭と寛永寺灯篭がある。
寛永寺灯篭には、「東叡山 大猷院殿(だいゆういんでん) 尊前  従五位下井伊兵部大輔」と刻まれている。
大猷院殿とは徳川三代将軍家光の法名で、徳川四天王のひとり、井伊直政の嫡子・直継が家光法要で徳川家菩提寺である東叡山寛永寺に奉納した燈籠なのであろう。



寛永寺灯篭                             春日灯篭

                  

滝の落差およそ6m、土地の高さの違いを活かして1974(昭和49)年に設けたもの。
滝壺からの景観は迫力があり、現在の庭の最大の見どころとなっている。
滝の上部である清泉池は、こんこんと水が湧き、大滝となって流れ落ちる。
          

                               

桜の季節、名所の千鳥ヶ淵から靖国神社、そして外堀に出て市ヶ谷から四谷を歩いて最後にこの庭園の桜を眺めると千代田の春を堪能できるという。
この庭園の桜は多くの種類を植え、50本ほどの桜が2月末から4月末まで楽しむことができる。
          

          

井伊家のルーツは、静岡県西部・遠江(とおとうみ)国を治め、今川家の配下である国人武士であった。
戦国の世、井伊家の一人娘がいいなずけとの悲劇の果てに、出家から女当主・直虎となる。
直虎は生涯独身で、いいなずけの忘れ形見を養子と育て、その後、遺児寺の藩祖直政は徳川家に仕え、譜代大名の筆頭にまで上り詰め、幕末まで国替え、廃藩にもあわず脈々と続く名家として歴史に名を残している。
先週、NHKヒストリアでたまたま井伊直虎が取り上げられたので付け加えた。



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暑さの下 2014丹沢ボッカ開催さる

2014-06-02 14:28:21 | 丹沢大倉尾根
第28回丹沢ボッカ駅伝競争大会が暑さの下120チームがエントリーし、114チームが疾走した。

   
今年も第3区中継所で大会進行のお手伝いをした。

6月1日(日) 大会当日の日の出


大倉バス停前がスタート地点、大倉高原山の家を周って見晴茶屋までの2,707m、標高差320mを走る


雑事場(ぞうじば)からの平坦な山道を進むと第2区中継所の見晴茶屋に到着


早朝6時には競技役員のミーティングが始まっていた


この先、お手伝いをした第3区中継所までのコースを紹介する。
見晴茶屋前を通過して茶屋裏の階段に入る


木道を上がる


木道の先


一本松下では見ごろのツツジが迎える


一本松地点 ケルンがつくられている


石畳に入る


この区間唯一の平坦地


横浜の山岳会が整備した登山道 石が敷き詰めてあり歩き難い


駒止茶屋下の登山道となる


この区間最大の難所が始まる


急勾配の登山道が続く


左前方に中継点の駒止茶屋が見えてくる もう少し


リレーするチームの選手の姿がが見える 中継点の横断幕も


トップチームが伴走者もなく黙々と走っている 20kgの選手


リレー風景


トップ選手から1時間半近く 最後の40kgの選手が大会役員の伴走で走って行く この先中継所は堀山の家 1,054m標高差50m

堀山の家の先4区は1,185m標高差350mの花立山荘まで
暑さの影響で2チームが途中棄権完走は112チームであった


第3中継所での成績
     クラスA(40kg)     1位 TEAM吉田
       出場12       2位 富団付R
                   3位 草食動物
     クラスB1(20kg)    1位 ハムサム団A
       出場74       2位 青竹荘B
                   3位 武山自衛隊RC-A
     クラスB2(高校20kg) 1位 鎌倉学園A
       出場15        2位 鎌倉学園H
                   3位 鎌倉学園E
                     (鎌倉学園は10チームが出場) 鎌倉学園山岳部HPへ
     クラスC(女子10kg)   1位 T-GIRL
       出場13        2位 ひとめぼれ
                   3位 麦酒倶楽部@女子

4区間の競技を終えて表彰式に下山する先週と応援者たち お疲れ様


関連:2013ボッカ駅伝競争大会  

鹿の一家も観戦に出てくる 距離があったのでボケた 昨年も大会日に出会っている


今日の富士山

残雪が例年より多くて山開きが危ぶまれている



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