あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

平間街道を歩く(鶴見~多摩川・ガス橋)

2013-09-23 21:59:36 | わがふるさと
わが故郷の名「平間」を冠につける街道があった。
資料が乏しくて詳細が不明ではあるが、わずかばかりの資料を参考にして平間街道を歩く。
ちょっとマイナーな歴史散策かも知れないが懐かしさが現れる散策になると思っている。


スタートは京急鶴見市場から歩いて2分の熊野神社からとした。
熊野神社は平安時代初期に勧請された古い神社である。この神社の前の道は旧東海道である。また、神社の脇には古道も通っている。
         
それが平間街道である。その道を辿ると、塚越を経て多摩川・平間の渡しへと北上する。反対方向は、熊野神社角を曲って西に向かうと金川湊(かながわみなと・神奈川湊)を経て帷子宿(かたびらしゅく・程ヶ谷宿の一部)に通じていたと思われる。
平間街道は古く、1370年ほど前の飛鳥時代、646(大化2)年の政変、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)が発生した頃には既にあったといわれる。相州鎌倉街道の一部とされる。江戸時代の東海道以前の古東海道とか奥州街道の一部と書かれた資料もあるが・・・。
 
           旧東海道、金川湊へ                            正面、旧東海道川崎宿へ

スタートして熊野神社の脇の道を進む。東海道線の踏切に差しかかる。ここもラッシュ時は開かずの踏切なのか。脇の跨線橋で線路をを渡ると元宮一丁目。元宮と云うからお宮がここにあった。熊野神社が以前この辺りにあったが東海道線で分断されると云うので現在地に移転したようだ。
道はすぐにふたつに分かれる。平間街道は右手に進む。左手もまた古道である。
その古道は、横浜市水道局の鶴見配水地前にある鶴見貯水池前交差点(鶴見区馬場三丁目29付近)から別所熊野神社、森永製菓鶴見工場の北を通り先ほどの熊野神社の脇を通って東に折れ、川崎宿に向かうという。文化・文政期(1804~1829年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」という地誌にも掲載されている。
 
            熊野神社脇を入る                                 JR踏切

 
        右、平間街道 左、もうひとつの古道                        直線で続く平間街道
この先しばらく何もなく進む。第二京浜を渡り南武線の尻手駅前の国道を横切り北上して行くと、矢向地区に入る。
 
          最願寺に続く尻手銀座入口                           尻手駅前通り
日枝神社、斜向かいに最願寺、そしてその先には良忠寺がある。
日枝神社は現在神社殿を建設中で不似合いの仮拝殿が置かれている。祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、近郷(矢向村、市場村、江ヶ崎、塚越村、古川村、上平間村の七ヵ村)の鎮守として1638(寛永15)年に創建したと伝えられる。
 
境内の道に面したところに「水害に注意」の立看板があった。
『この地域は、鶴見川や多摩川が氾濫すると浸水するエリアとなっています。以前に比べ堤防の整備が進み、水害に対する安全性は格段に向上しましたが、近年の異常降雨や大型台風、地球温暖化による影響など水害の危険性がなくなったわけではありません。
ハザードマップを確認し、台風時の情報収集をしっかり行いましょう。』とある。
スタートした熊野神社も鶴見川や多摩川の被害を同様に受けていた。鶴見川の被害は受けるとは思うが多摩川の被害まで受ける地域なのかと驚きである。
先だっての京都・渡月橋付近の水害を思うと今日的なインパクトある立札である。日常の備えが大切だ。
         

最願寺は、真言宗寺院として1308(延慶元)年に創建、慶長年間(1596~1614)に東本願寺に帰依して真宗に改め中興したという。
        
境内には板碑(いたび)が祀られている。鶴見区の解説によると『緑泥片岩の板碑は鎌倉時代後期のもので、高さ165cm、彌陀三尊の種字(佛尊を表す梵字の組み合わせ)と観無量寿経の一節が刻まれている。寺の開山の墓とも云われる』とのことで、新編武蔵風土記稿にもその内容が書かれているという。
良忠寺は1240(弘安元)年の創建と云われ、鎌倉幕府北条執権時代の古い寺である。
境内には近くから移した矢止の地蔵が本堂左に祀られている。
1333(元弘3)年新田義貞が鎌倉北条氏を上州より攻め合戦となった際。義貞の次男義興が多摩川の矢口の渡しから放った矢が唸りをあげてとんでいき、塚越の塚を越え、矢向の老松の幹に突き刺さった。矢には地蔵菩薩の名号が書かれてあったのでこの松の下に地蔵を祀り、「矢止の地蔵」と名付けた。この地はこれまでの夜光村が矢向村と文字が変わったという地名のいわれにもなっている。
         
 

良忠寺からマンションと矢向幼稚園の間の道を進んでいくと、道沿いに二ヶ領用水跡碑がたてられている。
 
          二ヶ領用水跡碑                               用水を埋め立てた道
二ヶ領用水は橘樹(たちばな)郡稲毛中野島及び宿河原の2ヵ所に取水口を設け、多摩川より引水して橘樹郡に灌漑する全長32kmの用水路で、生活用水、農業用水に利用された。
1597(慶長2)年、小泉次大夫が用水堀総奉行となって開削した。次大夫の功績をたたえ別名「次大夫堀」とも云われる。この通りは二ヶ領用水を1972(昭和47)年に埋めたと云う。
この先も二ヶ領用水や小泉次大夫の話題が出てくる。
              関連 : 400年記念の二ヶ領用水を下る
                    400年の二ヶ領用水

貨物線の線路を渡り鋭角に右折、すぐに左折するとキャノンの事業所ビルが建っている。この辺りから塚越地区になる。
もと塚越村であるが、ここは昔古い塚があったため塚越という地名の由来と云われる。また、矢向地区で説明した新田義興が多摩川の矢口の渡しから放った矢が塚越の塚を越えて行ったことから塚越となったともいわれる。
 
             貨物線路                        キャノン事業所前の真っ直ぐに伸びる平間街道
南武線の変則六叉路と複雑な踏切を渡る。踏切を渡ると塚越地蔵が祀られている。年齢不詳で云われが分らない。
 
          変則五差路の南武線踏切                           年齢不詳の塚越地蔵
一週間後、ここを訪れた際、お彼岸で供養をされた様で、小さな塔婆に南武線事故被害者の供養と書かれていた。

旧道らしく寺社が道に面して並ぶ。
まず摂取山浄土院東明寺。東明寺は、1589(天正17)年、浄土真宗の僧侶が当地に住み浄円坊と称していたが、入寂。後に増上寺の僧侶が住み始めた。1613(慶長18)年、徳川家康が鷹狩りのため小杉の中原街道沿いの西明寺に泊まった際、給仕にあたったこの僧侶が家康から身分を問われ、東にある小庵の主と答えたところ、家康より東明寺と号すよう拝命、その僧侶が開山となる一寺となった。
この、寺のいわれは新編武蔵風土記稿にも書かれている。
         
またこの寺には、江戸末期の作といわれる酒造りの過程を描写した絵馬が残っている、と参道にたつ案内板に書いてある。
         
                         酒造り絵馬コピーの一部

東明寺の向かい側に塚越御嶽神社が祀られている。
創建時期は新編武蔵風土記稿の中でも「勧請の年代詳ならず。」と書かれており、不詳である。
また、この付近に塚越の地名の由来にもなった円墳があり、御嶽神社創建時にこの円墳を崩して神社のために築土したと川崎市歴史ガイドには書かれている。また、その際に刀剣と南北朝時代の板碑が出土されたとある。
小田原提灯のような桶型提灯をたくさん飾った万灯神輿の祭礼が催されている。
         
この散策の後で知ったのだが境内には近くから移された三方向を記す道標がたっているようだ。ひとつに南:かながわみち、右:いけがみみちと刻まれているとのことだ。池上道=平間街道と云うことがここで納得できた。後ほど記するが、品川宿から帷子宿辺りまでの街道の名称が池上道或いは平間街道と呼ばれていたようだ。
一週間後、再び御嶽神社を訪れた。道標を探すためである。その道標はすぐに解った。円柱という珍しい形で、市のガイド板の脇にたっていた。前回何故気にしなかったのだろう。
この円柱の道標に何故にエネルギーを費やしたかと云うと、鶴見の熊野神社から平間の渡しまで歩いて平間街道の証となるものがひとつもなかったからで、この道標が唯一の証と思いBlogに載せるため足を運んだのである。
平間街道とは書かれていないが、平間街道=池上道でも、道があったことが解った。

判別できにくいが『右いけがみみち』と刻まれている


その先下平間小学校の交差点を渡ると下平間地区となり、赤穂浪士ゆかりの寺、平間山称名寺が左手にある。
室町時代の創建で、赤穂浪士ゆかりの品々を所蔵しており、討ち入りの12月14日には公開されている。当日は住職の赤穂浪士の解説もある。
         
 

称名寺の斜向かいに軽部五兵衛の敷地内にある赤穂浪士寓居があった。軽部五兵衛は鉄砲洲にある赤穂藩上屋敷に出入りしていた百姓で、刃傷松の廊下事件以前から藩士とつながりがあった。
         
                           赤穂浪士寓居跡 
元赤穂藩家老大石内蔵助は主君の仇打ちをするため京都を同志9人と立ち、鎌倉鶴岡八幡宮に参拝、川崎宿に1泊した後、下平間村の浪士寓居に着く。
下平間村には10日ほど逗留し、江戸日本橋の宿に向かう。この先内蔵助ら一行は幕府の目がとどき難い東海道の裏道である平間街道を進んでいったのではあるまいか。
ここからは大石内蔵助の気分になって平間の渡しへと進む。では、「各々方、お江戸に向けて出立しよう。」
その先の信号機の道は南武線鹿島田駅に通じる道で商店街である。近くには鹿島田東映(元富士館)や昭和館という3本立ての映画館があって、50円玉1個を親からもらってよく観に行った。駅近くには日活系の映画館もあった。
その先ちょっと道から外れると下平間天満神社がある。菅原道真の七世孫がこの地に定住、道真公を祀り一社を創建したと云う。
         
府中街道を直進する。右手は古市場地区、左手が上平間地区となる。旧上平間村は現在の上平間、北谷町、田尻町で、村名の由来は、「ヒラ」は平坦、「マ」は処を表す語で、たいらなところと云うことのようだ。沖積低地の平坦なところに立地する村と思われる。「カミ」は「シモ」に対するもので、古い平間郷が近世初頭の村切の際に上・下2村に分けられてからの呼称と思われる。県下には伊勢原市南部に上平間、下平間がある。

左手、二車線の道は通称新道と呼ぶ新しい道である。この道を造る際、障害となる数軒の市営住宅をジャッキーアップして移動する作業を学校帰りに見に行ったこともある。今は昔のこと。
 
        手前左右に走る府中県道 奥が新道                     左、新道 右、平間街道
市バスの営業所に着く。建物の位置が知っている時代と変わっている。前の交差点を右に行くと古市場に通じ、左に行くと母校、平間小学校に。
 
          市バス上平間営業所、古市場に                         平間小学校へ

上平間バス停の次は「天神台」。この名は、この辺り本村と呼ばれていた地域からガス橋通りまでの字名である。これから行く上平間八幡大神の斜向かい(上平間306番地)にかつて天神社という束帯姿の木造が祀られている小詞があったことからついたといわれる。バス停名に古い地名が残っていて歴史を大切にしていることがうれしい。
   
      天神台バス停前の変則四差路 直進が平間街道ガス橋へ 中が上平間八幡大神 左が西福寺・平間銀座へ
天神台地域をふたつに分けた道を進んで上平間八幡大神に向かう。この道はかつて川であった。田んぼの用水となる川であって、おそらく南武線の西を流れる二ヶ領用水から分れた川だと思っている。昭和30年代前半に田んぼは埋めたてられ、川は生活排水で汚れ、そのうち暗渠となり上に道が出来た。
 
            西福寺・平間銀座へ                           上平間八幡大神へ
 
上平間八幡大神に着く。
創立年月は不詳であるが、古くからの言い伝えによると多摩川大洪水の際、東京府下府中の上石原八幡宮の社殿が流失し、安置していた御霊が当村に漂着した。そこで住民が1祠を建立してを祀ったと云うことだ。
         
上平間八幡大神前にはかつてテレビ界を賑わした整体師が共同で店を開いていた。人気が出た後都内に移転したようだ。数日前死んだのではと噂が流れ、ツィターに私は生きてますとでて話題となった。
この店の場所には、はるか昔アイスキャンデーを製造販売する店があって、キャンデーやボンボンの製造が眺められて、時の忘れるほど見ていたこともあった。

ここから多摩川土手のガス橋に進む。
このガス橋通りも一方の平間街道である。江戸からの平間街道は多摩川を渡ってガス橋前あたりでふたつに分かれた。
ひとつはこれまで歩いてきた道である。あとひとつはガス橋通りを上平間八幡大神前を通り南武線を平間駅脇で越え、加瀬を通って綱島に至るルートである。

ガス橋に着く。
                  
ガス橋から100mほど下流に多摩川の渡しはあった。その辺りを萩原渕と名付けていたという。
『村の北、多摩川の中に渡船場あり江戸より往来の渡しにて平間の渡しといえり』とある。渡しは1766(明和3)年にはじまった。徳川十代将軍時代のころである。但し10月から3月の乾季は仮橋を架設した。大正期で舟の大きさは6mくらい、10~15人乗りであった。渡し賃は人が2銭、荷車4銭、馬6銭だったという。
         
橋の欄干の左手には銘板、右手には橋史が掛けられている。
橋史によると1929(昭和4)年、東京瓦斯が輸送管を架する際に、地元の要望を容れ、巡視用を兼ねて人道橋を併設した。瓦斯橋の名はこれによる。橋は木造幅員1m半であるが橋脚は広年の拡充を予想して鉄骨鉄筋造りで施工した。
これが初代のガス橋であるが、補足すると架橋2年後に荷車が通れる工事をおこなったとされる。私が記憶するガス橋は木造の床で、数か所幅が広くなっていて、荷車が通行する際の避難スペースが設けられていた。戦後間も間もない当時のことで、床が欠けていて多摩川の水面が覗けるようなところもあり子供心に怖さを感じた。
1960(昭和35)年、現在の形の橋となる。全長387m。こんなに長かったかなと思いながら進む。


ガス橋開通の当日、二眼レフにて撮影。三代夫婦の渡り初めも行われた


多摩川を写す。この写真の中間あたりに夏になると飛び込み台が組まれたこともかつてあった。貧しさの中で遠くに行けない庶民のために娯楽として飛び込み台が出来たのか。川向うの川崎側から眺めた光景が思い出す。
         

平間の渡しは、大石内蔵助一行が渡った以外、赤穂藩お家断絶の際には軽部五兵衛もここを渡り鉄砲洲の屋敷に馳せ参じたという。
また、戦国時代の1569(永禄12)年、武田信玄の武田軍が小田原北条氏攻めの際に矢口の渡しから舟で稲毛・平間に渡った記述が川崎市が発行する歴史本にある。
甲斐の武田軍がこんな遠回りをしたのかと疑問もあった。
たまたま来月10月に横浜市のある歴史資料館が行う歴史散策で南区の蒔田周辺を歩く予定で、その予備知識で調べた中に関連の文章を見つけた。
永禄12年9月武田信玄が北条領に侵攻し、 本体は相模川沿いに南下して小田原城を直撃し、支隊は多摩川沿いに川崎方面から横浜市港北区方面に進撃してきた。とある。
当時、小田原北条氏の出城、蒔田城があって、この城を攻めるときに平間の渡しを武田氏の支隊が利用したようだ。
蒔田城についは改めて。

平間街道も東京都に入った。左手にはキャノン本社のビル群、右手は高層マンション群が建っている。多摩川をはさんで東京都大田区と神奈川県川崎市の風景がこんなにも違うのかと景色の違いに驚く。
         
         
上段が東京都大田区、下段が川崎市中原区の風景


この先の散策は「平間街道を歩く(ガス橋~池上)」に続く。

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歴史シンボジウムを受講して

2013-05-10 20:09:37 | わがふるさと


昨年、歴史シンボジウムを二ヶ領用水の講演が行われ、これが縁でとなって、今年は案内のハガキが届くようになった。

道しるべ

今年の演題は
    (1) 江戸の発展を支えた多摩川と川崎市域
    (2) 塩と砂糖からみた川崎
    (3) 川崎と多摩を結ぶ道と渡し
の3つであった。

今回の講演を参考に散策コースを練ってみたい。楽しい散策ができそうだ。

会場は、今注目されている武蔵小杉駅前
の、パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー2階にある中原市民館ホールである。
ミッドスカイタワーとは、2009年4月建った地上62階地下3階のタワービルで、周辺には同じような建物が全部で9棟が建つという。全てが建てば壮観であろう。

中原市民館が入ったタワービル


それから、東急武蔵小杉を挟んで反対側に新聞にも取り上げられた新装なった中原図書館がこのほどオープンした。
駅にも直結した利便性がありる高層複合ビル「KOSUGI CORE TOWN」ビルの5階と6階を使用。下の階にはショッピングセンター「東急スクエア」が入居と、これまた便利である。
45万冊までの蔵書が可能になる書棚を配置、最新の自動装置をいくつも備えたすごい施設ということだ。


エスカレーターだと4階で終わってしまうので、図書館に行くには、エレベーターに乗って直行したほうがよい。           
館内は読書をするテーブルスペースも大きくとられているように感じた。
興味ある郷土史のコーナーは45万冊収納からみて、想像していたより本の量が少ないかなといった個人的な感じである。それと「蚕」に関する書籍も・・・。
書棚に空間があるのでこれから期待したい。
よその街だが、良い本を読ませて貰いたいと思う。

          

武蔵小杉は中原区に属する街であり、中原区は地理的に川崎市の中ほどに位置する。
今後は武蔵小杉を中心としたこの辺りが中心なって川崎は動くのではなかろうか。講演でもそのような話が出ていた。
武蔵小杉は新宿発特急「スーパービュー踊り子」の停車駅にもなった。


                   
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400年記念の二ヶ領用水を下る

2011-04-15 16:10:08 | わがふるさと
     
 

 
  中野島・上河原堰と取水口                         宿河原・宿河原堰と取水口
  許容取水量は中野島約45万t、宿河原35万tの合計80万t

       2011年3月1日、二ヶ領用水が分岐の堀を含めて完成し400年を迎えた。
       そこで、記念すべき二ヶ領用水を花の季節に2日かけて現在の用水縁を歩いた。


              
              ゴールの旧平間浄水場

400年の長い歴史についてはリンクしたこのBlogを参考願って、ここでは500枚余りの写真を撮りながら二ヶ領用水を旧平間浄水場までの流れをどうぞ。


     

スタートの中野島駅
中野島駅には半世紀ぶりに降り立った。小学校の恩師が実家から独立してこの中野島に家を建てたので遊びに行った以来のことだ。
その当時、先生の家までの道沿いには小川が流れてせせらぎの音を聞いたことを覚えている。先生の手料理のカレーライスをごちそうになった。今も健在だと聞く。

先ずは中野島の上河原堰に向かう。

          


草堰   遠くに南武線の電車が走る
草堰は杭を打って、石・土・草などで堰を築く工法で、洪水時にはその堰をくずして用水が流れる。
この辺りの流れは、河原堀と呼ばれており。少々下って二ヶ領本川となり、久地の円筒分水まで流れる。




自治会の掲示板に貼ってある「枡形城・落日の舞い」のポスターが眼にはいった。頼朝の家臣稲毛三郎を劇化したようだ。第3弾と云うことで二ヶ領用水の完成100年後に大改修を行った川崎宿の本陣主・田中休愚も扱ったようだ。川崎市は地域史を大切にしているのだなとポスターを眺めるとそこに懐かしい名前が書かれていたのには驚く。


自転車が4台投げ込まれていた。当時の領民が嘆いているよ。


石積みの堀、木製の橋、散策路 風情があるね。




二ヶ領本川                                   旧向ヶ丘遊園地の虹の階段
二ヶ領用水もこの辺りはコンクリートの堀で変哲もない川だ。向ケ丘遊園も二ヶ領用水沿いにあったのだなと今になって思う。

ここからは二ヶ領本川を終えて、第2の取水口、宿河原堰に向かう。


せせらぎ館


タイル貼りの橋  多摩川堤沿いの道



          
          2kmに渡って400本のソメイヨシノなど桜の花のアーチが続く


二ヶ領用水が南武線の線路下を流れる


宿河原駅付近


緑化センターの桃の花と菜の花


久地の合流点 ここで中野島と宿河原堰で取りいれた用水が合流し、久地の円筒分水を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した


東日本大震災の影響で様々なイベントが中止となった。ここの「桜まつり」中止になったようだ。来年は日本中の皆なが笑顔で桜まつりを楽しめることを望みたい。  がんばれ 日本

       
         
江戸時代、久地で合流した二ヶ領用水は「分量樋(ぶんりょうひ)」で稲毛・川崎領4つの堀に分けられた。分量樋とは田中丘隅が設計した堰から流れ出る水を一定の比によって配分しようとしたものだが、正確な分水が出来ず、紛争が絶えなかった。
サイホンの原理を利用した現在の円筒分水になったのは、1941(昭和16)年のことだった。


久地円筒分水から分岐した直後の水路


高津の枝垂れ桜 長く並木が続く


田園都市線を潜る

 
二子塚橋の脇に旧用水堀の流れが見れる


石橋供養塔
江戸時代、用水堀には木製の坂戸橋があったが1793(寛政5)年、村民の寄進よって石橋に架けかえられた。供養塔はこの時に建てられた。村民の中には宗徒もおり供養塔に「南妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」が刻まれている。


川崎産の果物と云えば"梨"。その梨の花が盛りである




桜に交じって赤い桃の花             白の桃の花”残雪しだれ”
ここ上小田中地域は桜の樹より桃の樹が多い


等々力緑地                                    桜の樹が広場を囲う   正面の建物が”とどろきアリーナ”
現在、とどろきアリーナは原発被災のいわき市、南相馬市の方々の避難場所となっている。避難生活が1日でも早く終止することを願いたい。川崎市の旗が半旗となっていた。


武蔵小杉駅手前の南武線高架下を流れる


渋川分岐点


渋川の堀                      今井桜
渋川はここで分岐して日吉、住吉地区の農業用水として利用されていた。沿川には250本の桜が植わっている。


この堀の形を見ると子供のころ、家の近くを流れていたドブ川を思い出す。今では暗渠となってしまったが、それでも1950年代半ばまでは田んぼの用水に利用されて綺麗な水が流れていた。それが上平間堀と云われる堀なのであったのだろうか。




二ヶ領用水は東急線を横切る


平和公園付近 住吉高校生徒の通学路


東急線を潜って大きく右に迂回したあと堀は左右にうねっていた


昭和橋 ホタルがデザインされている


この辺りの堀はセメント製で人工的な石積みのデザインが施されている


横須賀線の下を流れる
歩行者は行く手を遮られ大きく迂回せざるを得なかった。


さくら橋と長寿橋
橋の名が地名には関係ないのだがネーミングがよかったのでパチリ。

南武線のガード

南武線のガード
南武線も二ヶ領用水同様、川崎市を南北に流れているのでこのふたつは絡み合って走り、流れている。ここで4回目の交差である。
再び大きく迂回。
小学校時代、この辺りに旧友がいて遊びに来ていた。その時は大きくは迂回しなかったと思う。記憶が定かではないが、ガード下を潜ったようにも思え、それがここだったのかなとフト思う。


昭和14年 設立当初の図
平間浄水場は昭和14年から平成15年の60年余り工業用水を供給していた。
この図には載っていないのだが安定した水圧の工業用水を供給するため円筒形の水圧調整塔と云う浄水場のシンボルと云うべき建物があった。
この施設の北側に母校の小学校があるが校庭で調整塔を何時も眺めていたものだ。
工業用水は、現在生田浄水場で供給しているそうだ。


旧平間浄水場があった時代はここで大師堀と矢向方面の町田堀に分れた


配水場の貯水池
小学生の頃、この貯水池にザリガニを釣りに来た。その頃は、係員に注意をされもせずのんびりした時代だったのか。


踏切に「川崎堀」の名が




新たなる出発
川崎堀の水がポンプアップされて「大師堀」、「町田堀」となって短い距離だが流れている。
偶然にも、ここを歩いた日にテレ朝の「ちい散歩」で地井さんが鹿島田を歩く放送があった。その中で「大師堀」を紹介していたのでこの先の水路の映像は省略。

        

2日にわけて中野島・宿河原堰から旧平間浄水場まで完歩した。
以前から一度歩いてみたかった散策路だった。丁度400年を迎え記念すべきこの年に歩けたことは嬉しい。
今回、花の咲く時期に歩いたが、これほど多くの花があるとは想像しなかった。堀沿いのボランティアの方々が整備されているのでこれからも人々の日々の憩いの場として美しい二ヶ領用水であってもらいたい。
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二ヶ領用水 400年

2011-03-01 00:00:00 | わがふるさと
                    二ヶ領用水 竣工400年


川崎を縦断して流れる二ヶ領用水は3月1日で竣工400年を迎えた。
当初は農業用水として米(水田稲作)を生産し江戸に貢献した。そして近年は工業用水として工都川崎の下支えとなって世界に貢献している。


                   
                        画像は久地円筒分水と幸区用水路
                 
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二ヶ領用水久地円筒分水

2010-08-14 17:21:56 | わがふるさと
川崎市の南北流れている二ヶ領用水のシンボル的存在 「久地円筒分水」を巡った               
               
                「久地円筒分水」全景

二ヶ領用水は徳川家康の命を受け小泉次大夫が14年をかけ完成させた全長32kmの用水で別名「次大夫堀」と云われている

               

二ヶ領用水とは橘樹郡稲田領と川崎領を指しそこを流れる用水でありこの用水の恩恵によって上質の「稲毛米」を産した
この米は徳川三代将軍家光も食したと云われる

        
        奥方左の久地堀  右の六ヶ村堀  手前の根方堀の3堀に分かれる        分水された川崎堀

久地円筒分水はサイホンの原理を利用して灌漑面積の割合に応じて4つの堀に分水している
完成は昭和16年で当時は画期的な手法であったそうだ

            
             二ヶ領用水 久地円筒分水図

これより前は堰が設けておらず水争いがあったとか
そこで完成した100年後あたりで竹かごに石を詰め堰を設け分水をしたが洪水の度に流れていた(久地分量樋)
それでも水は農民の命であり水争いは絶えなかったと云う

               
                右手の二ヶ領用水と平瀬川が合流

               
                川崎堀 綱島街道「川崎市平和館」付近

水争いは各地で発生しているが「器は神奈川 水は静岡」と云う芦ノ湖の水争いを社会科で習ったことも久しい

                    
                大師堀 二ヶ領用水が鶴見川北岸一帯に流れる町田堀と別れた後の鹿島田付近

               
                下平間用水絵図

水の配分で信玄が築いたとの伝説で「三分の一湧水」がある
戦国の世で水争いが絶えなかった3つの村へ堰の中に三角柱を置いて等分に水を配分したとしてその堰が残っている(3年前に訪れた)

               
             山梨県北杜市長坂町の「三分の一湧水」 八ヶ岳南麓高原湧水群で日本名水百選に指定

今や当初の農業用水の目的は終え市民の憩いの場 散策路となっている
来年は この用水が完成して400年がたつ TVK朝の番組でも取り上げていた
この節目の時期に近々二ヶ領用水の沿堀を散策してみたい

               
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川崎七福神めぐり

2010-01-29 17:22:02 | わがふるさと
    

      
      




       
       此処はひとつのところで七福神めぐりができるお寺である。
       そのお寺の名は天台宗 薬王院医王寺である。
       場所は川崎市南部 京急大師線港町駅下車にある。
       開山は延暦22年と古く平安時代と1200年以上の昔である。

                    
             その古いお寺にはふたつの伝説がある。
             ひとつは「塩とけ地蔵」で もうひとつは「赤いカニ」の伝説である。



「塩とけ地蔵」の伝説
 医王寺の境内に骨と皮だけになったまっ白い塩どけ地蔵があります。昔、村でできものが流行し子供たちが大変難儀をしました。子供達はイタイヨー、カユイヨーと泣いていました。村人は地蔵さんに身代わりに成って下さる様、願をかけました。すると子供達のできものはたちまち治り、これを聞いた親たちが我も我もと願掛けをし地蔵さんはやせほそってしまいました。今日でも塩どけ地蔵様に皆んなのお詣りが絶えないと言われております。


               

     
「赤いカニ」の伝説
医王寺の山門を入った所に池があり、そのそばに鐘つき堂がありました。池には色んな魚が住みほとりには、たくさんのカニがくらしていました。池の上を白いサギが群れをなして、はるかに飛んで行くのを見てカニ達は「つり鐘さまのおかげです」と喜んでいました。あの恐ろしいサギの群れが来るたび鐘がひびき、ゴーンゴーンと鳴るたびサギはおどろいて空高くにげて行くからです。おかげでカニ達も安心してくらしていました。
 ある日、寺近くで火事が起こり風にあおられて医王寺本堂、山門を焼けつくし鐘つき堂にせまりました。池のカニ達がぞくぞくと現われ、あぶくを出しながら鐘つき堂によじ登り、炎とたたかい、堂を守ろうとしました。炎とすさまじい戦いでした。一面焼野原の中に鐘つき堂のみが残りました。皆んなよく助かったと喜び、みんな集まって来ました。和尚さんは、堂の下に死んでいる何百とゆうカニを見つけ、おまえ達が堂を守ってくれたと合掌し池のほとりにカニ塚を立て供養しました。
 それかた医王寺のカニは、どうした事か背中を炎を浴びた様に赤くなったそうです。
                                    薬王山 天台宗 医王寺 住職



              川崎市の七福神めぐりはあと中原にある。
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川崎桜本 九福神

2010-01-22 20:21:36 | わがふるさと


 西暦二千年をま近に控えた九九年、九人の福神さま達がこの桜本の街にやって来られました。
 福神さま達の中には 以前から桜本を見守り続けてきた招き猫や"九ちゃん"の名でこの地で親しまれた元気な少年に似た顔もあります。
 健康、成績、商売、景気、暮し、金運、運勢、家運、勝負運・・・・・・ あらゆる願いを上向きにして下さるのがこの九福神。
 そういえばどなたのお顔も上を向いています。


                  
                  


















            
            川崎桜本商店街
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赤穂浪士討ち入りの日に因み ふるさと平間周辺散策

2009-12-14 20:52:10 | わがふるさと
「拙者宿所は平間村にあい究め候間、此所より同志の衆中へ、自身諸事申し談べき事」
浅野家国家老大石良雄はこの書き出しで討入令書を江戸の同志へ発した。

今日、12月14日は赤穂義士四十七士が吉良邸に討ち入った日である。我がふるさと平間村も赤穂浪士ゆかりの地となっているので歩いてみた。     


武州平間村の隠宅 屋敷、前面右端が浪士の隠家
赤穂浪士と軽部五兵衛の関係は「平間の渡し」(クリック)で触れているのでここでは省略する。
大石良雄等一行8名はここ平間村に10日間滞在している。この滞在中に討ち入りのための10ヶ条を起草するなどして十分なる確認と準備を固めた討ち入りへの重要な期間であったようだ。

称名寺の斜向かいの軽部五兵衛の屋敷跡には「義士隠家之跡」の碑があったが現在は県営住宅の団地になって今は跡形なし


称名寺は平間山歓喜院と称する浄土真宗大谷派の寺院 赤穂浪士の遺品と伝えられる品を30点余所蔵している 
称名寺では年に一度だけ12月14日に赤穂浪士の遺品と伝えられる品々を一般公開しているので訪ねた。
称名寺は昭和20年4月の川崎大空襲により残念ながら消失してしまったが遺品は農家の土蔵に預けてあったため消失を免れた。
遺品は大石良雄愛用のおかめの面(木製)と書、富森助右衛門愛蔵の銚子と盃、浪士の書簡などがある。
展示だけではなく本多住職の丁寧な解説やNHKの大河ドラマ赤穂浪士作品の平間村が出てくる回のビデオ上映などがあった。
今年の見学者は例年になく多く訪れているようで住職も驚いていた。このあと称名寺から泉岳寺に向かう見学者もいるようで交通手段を訪ねている人もみうけられた。この日だから出来る「赤穂浪士見学のはしご」かも知れぬ。
また神奈川新聞の若き美人記者が一眼レフのシャッターを切ったり住職にインタビューをしている姿もあった。

          
          紙本着色四十七士像
四十七士像の詳細は川崎市教育委員会の解説(クリック)に委ねる。
討ち入り後41年後にこの四十七士像の掛け軸は描かれている。但し描かれているのは46人で寺坂吉衛門が欠けているのだ。それは討ち入り後本懐を遂げ泉岳寺に参ったときには抜けていたからだ。何故抜けているかは諸説あるようだ。


北加瀬日蓮宗頂竜山了源寺山門 山門手前に軽部五兵衛一族の墓 向かって左端の墓石が五兵衛の墓碑。


銚子塚 赤穂義士冨森助右衛門から大工渡辺喜右衛門が別離にもらった銀の銚子を義挙後弔うため埋め銚子塚とした
南武線平間駅西側、銚子建設の裏手に小さな鳥居があってそこに奉られている。



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平間の渡し

2009-09-17 00:50:20 | わがふるさと

渡し場跡碑


わがふるさと 平間
平間の地名は多摩川と加瀬山の中間にひらけた平地と云うことから来ているようだ

平間に多摩川の「渡し」があったことを最近まで知らなかった
学校の歴史でも習ったと云う記憶はない
だが調べていくうちに歴史的にも重要なポイントであることを知った


いつ頃のものなのか辻の守り神の祠に「上平間村」の文字が刻まれている


多摩川に「渡し」が45ヶ所あったと云う
平間の「渡し」の上流には丸子が下流には古市場の「渡し」があった
そして徳川家康が江戸に幕府を開く以前は藤沢、腰越、鎌倉から弘明寺を経て平間に続く街道(古東海道)として鎌倉、戦国時代には多くの軍勢が通った歴史ある街道であり渡し場であったようだ 
     

       50数年前に七五三のお祓いを受けた平間八幡宮神社 手水の水盤に明治11年と刻まれている

百姓軽部五兵衛(橘郡下平間村)は浅野家の堀部弥兵衛、大高源吾らの家臣と親交が深かった
刃傷事件が起きた際も即刻明け渡しに「渡し」を使って馬、荷車、人夫を卒いて上屋敷に駆けつけた
事件後も五兵衛を頼り浅野家浪士が平間村で談合、酒食していたようだ
事件当初饗応役に就き後に四十七士の一員になった冨森助右衛門も五兵衛の地に寓居(仮宅)を建て寺子屋を開いた
この寓居を建てた大工が義士神社と呼んでいた家の先祖であった
この大工は寺院の改築に棟梁として手掛けており今も各地に記録が残されている
義士神社の疑問が50年にしてやっと解けた感じだ


        東京都大田区下丸子方面を望む                 多摩川大橋方面の多摩川河川敷

四十七士の御大将大石良雄(ヨシタカ)が江戸入り前に10日間平間村に滞在した
この時が子供の時に平間村が時代小説に出た場面である

大石一行は京都を出発東下りをし江戸へすぐ入らずに片田舎の平間に止まった
なぜに平間に止まったのだろうか
それは江戸であると幕府の監視の目が厳しくなる
そして討ち入りの十分な確認と準備を行った
討ち入り時の決めごとである討ち入り十ヶ条の訓令の草案をしている
また江戸に入ったらすぐに討ち入りと血気に騒ぐ急進派の浪士の気を静めた目的もあったようである

10日後大石一行は平間の「渡し」を通って江戸に入ったようだ
そして討ち入りの日がやってくる 


        上平間方面                               武蔵小杉方面  ノッポビルを望む

下平間に称名寺と云う四十七士にゆかりのある寺がある
四十七士と云うと泉岳寺となるが称名寺も浪士の遺品を12月14日討ち入りの日に一般公開しているという

時を越えて浪士と同じ平間の地を歩いていたかと思うとロマンがあり赤穂浪士の物語がまた違った趣となる

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