あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鎌倉散歩・平家の赤旗とフジの花

2015-05-01 14:34:04 | 鎌倉巡り
GW突入の週にJR鎌倉駅に降り立つ、改札口前は中高生の待ち合わせで溢れ返っていた。
本日の主目的は補陀落寺「平家の赤旗」を見ることだが、それだけではもったいないのでフジの花を鑑賞することにした。

補陀落寺 材木座6-7-31
源頼朝の祈願所として1181(養和元)年に創建されたと伝えられる。門前にも「源頼朝公御祈願所 補陀落寺」と刻まれた石柱がたっている。別名「竜巻寺」とも言われ、竜巻で大きな被害を受けたようだ。
玄関を入って左手に畳敷きの本堂と脇部屋がある。参拝客は訪れておらず、ひとり占めであった。
須弥壇には本尊の十一面観音像と数体の仏像。案内によると日光・月光菩薩像(運慶作)、釈迦如来像(行基作)、不動明王(平家打倒を祈願したと言われている)、頼朝像(四十二歳の自作と言われている)、頼朝位牌(征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり文覚の書と言われている)となる。
左手の和机の上に5つの額が置かれ、目的の赤旗は中央にあった。
もっと大きなものかと思っていたが、意外と小さい。平家の総大将宗盛が持っていた旗と説明が記されている。
源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で敗れ捕虜となった平宗盛は義経によって鎌倉に護送された。但し、義経は頼朝の怒りをかい鎌倉には足を入れることが出来なかった。そこで「腰越状」とか「万福寺」が登場する。
赤旗は色あせて茶色となっており、「九萬八千軍神」と書かれている。清盛直筆とのことだが、文字の意味は?
余談であるが、水戸光圀が諸国漫遊ではないが、1674(延宝2)年5月に鎌倉の名所・旧跡を巡った際、家臣の者に記録させた「鎌倉日記」に、
『幅二布二尺アリ。長サマチマデ三尺五分、其下ハ切レテシレズ。地ハ赤布ニ、九萬八千軍神ト亭付アリ。』とこの赤旗が載っているようだ。
平家の旗の公開は、鎌倉市の案内でも「非公開」とされているが、鎌倉まつり~GWだけ公開されている様だ。その公開も年によっても期間が延びることもあるようだ。
また、本堂内の拝観は声をかけてくれればいつでも可能とのことだ。
 
          


         フジをながめる
先週末、フジの花の名所・亀戸天神に参ったが、神奈川にもフジの名所はなかろうかと調べると、鎌倉がヒットした。それではと「平家の赤旗」に引き続いてフジの花観賞で鎌倉を巡った。

別願寺 大町1-11-14
鎌倉における時宗の中心となった別願寺は、室町時代には足利一族が深く信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた。天正19年(1591)には徳川家康からも寺領を寄進され寺勢を誇ったが、次第に衰えていった。
境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした四代鎌倉公方・足利持氏のものとされる供養塔(宝塔)がある。供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。
立木仕立てのフジが有名。
          

          

          

          

安国論寺 大町4-4-11
日蓮宗の寺院、創建は1253(建長5)年。鎌倉時代の初期には、北条時政の屋敷・浜御所があった所。1253(建長5)年、安房から鎌倉に入った日蓮上人が松葉が谷に来て、初めて草庵を結んだ所のひとつで、北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩屋がある。
          

          

          

          

       
                             付近の山フジ


今回の鎌倉散歩も全てスマホのナビ頼りに歩いたのだが、安国論寺から浄明寺へと北上する際に、東日本大地震以来通行止めの釈迦堂切通を案内された。以前鎌倉七口で切通巡りをしてここは通行止めなことを承知しており、案内は釈迦堂切通方向に向かっているが、きっと手前で迂回してくれるだろうと思って進んで行った。しかし結局は迂回せずに通行止めの切通に突き当たった。御蔭で40分近く無駄に歩くことになる。4年も前に通行止めになった道を未だに案内するとはなんと不親切だ。近くの方は不便ではないのかな。

浄妙寺 浄明寺3-8-31
鎌倉五山第五位の禅宗の寺で、室町時代は境内に23の塔頭を持つ大寺院であった。
          

          

          

          

          
                             付近の山フジ

光触寺 十二所793
時宗の開祖・一遍上人が開基と伝えられる。
          

藤棚は光触寺奥の道路わき。
          

                   

          

              

浄明寺四丁目付近の山フジ
          

          

瑞泉寺 二階堂710
鎌倉公方の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ格式ある寺院。
開山の夢想国師は作庭にも才を発揮し、仏殿背後の庭園は国の名勝と指定されている。
 

 

          

          

          
                             付近の山フジ 

鎌倉宮カントリーテニスクラブ付近 二階堂148
                   

鶴岡八幡宮 雪ノ下2-1-31
八幡宮の源氏池の畔に藤棚がある。
跡で知ったのだが、白フジの棚も旗上弁財天にあったのだ。すぐそばを歩いていたのに気がつかなかった。残念。
          

          

          

          


          
段葛は来年3月まで改修中で、囲いのボードにはプリント写真が貼られている。


訪れた日:2015.04.28
       
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鎌倉涅槃会2015

2015-02-16 14:23:46 | 鎌倉巡り
旧暦2月15日は釈迦の入滅した日で、釈迦の遺徳をしのぶ法会が鎌倉各寺院で執り行われた。
その中で、建長寺と妙本寺を参拝した。

巨福山建長興国禅寺
法堂内に「釈迦涅槃図」を掲げて、法会が行われた。

          

          

          

          

          

          
「首楞厳神呪(しゅりょうごんじんしゅ)」の経本を持って、経を読みながら堂内を巡る、行堂をする。
          
この経は、祖師の遠忌(斉会)に読まれるもので、どんな誘惑に出会っても動揺しない本心(金剛堅固な本心)を説いている。
         

         
75分の釈迦涅槃会が終了する。
この日、涅槃会の前と、午後に法話が山門の下で特別に行われ、
『涅槃とは、人間の苦の本質である「煩悩」の火を焼きつくして知恵を完成させた悟りの境地』等の解説があった。


長興山妙本寺
          

          
本堂の左手にある事務所から本堂へと周り、江戸末期に書かれたという「仏涅槃図」を観賞した。
(下の「仏涅槃図」はネットから探した)

          

                     
「仏涅槃図」には多くの動物が描かれている。50種くらい描かれているのではなかろうかという解説者もいる。それほど多くても、その絵の中に猫は描かれていない。それには諸説あるようだが、猫は信仰がなかったので釈迦に嫌われていた。そこで天上から投げ下ろされた薬袋が、沙羅双樹の木に引っかかってしまい鼠が取りに行ったところ、猫がその鼠を邪魔した。そのため、釈迦が薬を飲むことができなかったということから「仏涅槃図」には描かれなかったという。また干支にも猫は入れて貰えなかった。
これについて、建長寺での法話では、中国は猫が嫌いだから、その絵がそのまま日本に伝わったと簡単に話されていた。。
それでも現存最古といわれる高野山の「仏涅槃図」には、唐獅子が1匹描かれているだけだという。それが徐々に動物が増えて、江戸末期に描かれた涅槃図には、猫も混ざったとのことだ。
          

          
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鎌倉・汐まつり

2015-01-11 15:06:10 | 鎌倉巡り
鎌倉・材木座海岸で毎年1月11日に「汐まつり」が開かれる。
会場は、鎌倉駅から徒歩で20分ほどのところで、目の前には鎌倉時代の港「和賀江島」がある。
残念がら潮の加減で今日は見られなかった。潮が引いていれば、200メートルほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせるのだが。
  
汐まつりは、もともとは地元漁師が、豊漁祈願、海上安全祈願をするための祭であったが、漁師の数が減少してしまったことで、五所神社が引き継ぎ、新春行事として継承されている。
     
汐まつりは天王謡(てんのううた)の奉納から始まる。
この謠は材木座が、「和賀」と呼ばれた鎌倉時代、源頼朝が鶴岡八幡宮を造営(1180年)、再建(1191年)の際に伊勢から木材を和賀江島で陸揚げしたのだが、その時に伊勢の職人が仕事唄として歌っていた唄が現在に受け継がれ、天王謡と称し神事や祝い事の席で歌われている。
   祝いますぞえ 氏神様よ アーラヨイ  氏子栄えて ヤレコラー  宮繁る オモシロヤ
この謡は、鎮守様にお参りし神々を大切にすることによって、氏子はご加護を受け繁栄するという祝唄であるそうだ。
天王謡の奉納は続けて3座唄われる。
 
 
                
祝詞の後は鎌倉神楽が奉納される。
神楽は、別名、湯立神楽、湯花神楽ともいわれ、笛、太鼓で音頭が取られ進行して行く。
 
 
 
           

最後は、赤い面(天狗)と黒い面(山ノ神)をかぶった舞で終わり、ミカンが投げられる。
 
 
 
ミカンは神楽が終わったあとも全員に3個づつく配られた。ひとり3個と指示されていたが、3という数に意味があるのだろうか。

引き続き、神官によって、正月の松飾り・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを積み上げてたどんどん焼きに火がつけられた。
この汐まつりは初神楽とどんどん焼きが一緒の行事になっていることが面白い。
  
 

また、鎌倉の西側の海岸・坂の下海岸でも同日、同時刻に汐まつりという神事が行われている。但し、こちらは神楽は行わないようだ。鏡開きという日に行われる神事が、鎌倉の海岸の2か所で行われることは何故なのだろう。
          超望遠で写す
汐まつりの主催が五所神社と知って、少々遠回りになったが、神社にお参りした。
五所神社は、明治末、もともとの三島神社の地に、諏訪神社、八雲神社、金毘羅宮、見目(みるめ)神社の四社を合併して五社神社と改名した材木座一帯の鎮守である。
 
境内には1262(弘長2)年の銘がある「不動種子(しゅじ)板碑」が完全な形で保存されている。この板碑はもとからあった訳ではなく、廃寺になった感應寺から五所神社創建時に移設したという。
このほか、摩利支天像、隠れキリシタンのお春像や庚申塔群などが並んでいる。
      
また、1847(弘化4)年に奉納された神輿(元諏訪神社所有)をはじめ3基が保存されている。
                    
神社の説明によると、この地方では、神輿を天王さまと呼んでいる。そして、天王さまを担ぐ際に天王謡が唄われていたといい、謡の一説には、
   来たらごらんよ諏訪社の神輿 八咫の鏡に 八咫烏
とある。
       

今日の富士山
          
まつりが終わるころには、雲に隠れてしまっていた。

陽春の空に泳ぐ
 
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鎌倉大仏と長谷寺の散歩

2014-11-03 16:54:34 | 鎌倉巡り
以前から家族の者が大仏を見たいというので、鎌倉巡りとなった。
我が家から丁度1時間、JR鎌倉駅に到着。ここから江ノ電の乗り換え長谷駅に。
 
休日とあって長谷駅には多くの乗客が降り立つ。


高徳院・鎌倉大仏
鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院・高徳院は、開山、開基が不明である。
宗派は初期は真言宗で、のちに臨済宗に属し、江戸時代中期には現在の浄土宗になって、「高徳院」の院号を称するようになった。
国宝・銅造阿弥陀如来坐像、所謂大仏様は、像高11m余、重量およそ121t。
角張った、平面的な面相と猫背気味の姿勢は、真言ないし天台宗系の阿弥陀像とのことだ。
鋳造に際しては金属組成から、中国銭が使用されたと推定されており、建像当初は表面に金箔を貼っていたとされる。また、重量は耐震補強工事でジャッキアップした際に計ったという。
大仏が建立されているこの場所は、元々長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏に限っては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合があるそうだ。作家の大佛次郎氏は、鎌倉大仏の裏手に住んでいたため、ペンネームを「おさらぎ」とした。
胎内のはいると、大仏像がおよそ40回に分けて鋳込まれていうこともわかるようだ。
 
 

観月堂
建屋はソウルの朝鮮王宮にあったものを、1924年に山一合資会社(後の山一證券)社長が寄贈した。内部には、江戸幕府・徳川二代将軍秀忠が所持していたとされる聖観音像が安置されている。
        

与謝野晶子歌碑
『鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな 』と刻まれている。
ただ、歌に「釈迦牟尼」とあるが、鎌倉大仏は「阿弥陀如来」とのこと。
               

庚申塔・石仏



長谷寺
古くから「長谷観音」の名で親しまれている長谷寺は、奈良時代の736(天平8)年の開山と伝えられる。

観音堂
本尊は十一面観音像、楠の大木で2体の十一面観音を造り、その1体が大和の長谷寺の本尊、もう1体は海に流したところ、15年後に三浦半島に流れ着き、鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。
 

大黒天像
江の島・鎌倉七福神巡りのひとつ。
          

弁天堂・弁天窟
弁財天像は、弘法大師が岩窟で彫ったとされる。
                
     

聖観世音菩薩像と玉手箱
境内に安置されている聖観世音菩薩石像の脇に玉手箱らしき石造物が置かれている。観音像の解説には一言も玉手箱については触れていない。
そこで調べたが、聖観音像と玉手箱が登場することいえば、浦島太郎伝説きりなさそうだ。だが、それが鎌倉長谷寺とどう結びつくのかは不明。
太郎が竜宮を離れる際に、乙姫が玉手箱と一緒に聖観世音菩薩像を渡したという話しである。
                    

地蔵
 
             和み地蔵                                良縁地蔵

見晴らし
鎌倉八景「長谷の晩鐘」と詠われる景勝地で、相模湾を望む眺めは、鎌倉随一とも称せれる。
                 
              はせでらへ まいりて沖を ながむれば 由井のみぎわに 立はしら浪(御詠歌)

菊花展
四季を通じて花木が彩を添えている。今は菊、それに冬桜も咲いていた。


 




鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、頼朝の絶頂期であった1191(建久2)年に勧請した。それまであった、これも頼朝が勧請した由比ガ浜の八幡宮(元八幡)と上下宮の姿に整えたのである。
幕府の儀式や行事はすべてここを中心に行われ、常に鎌倉のシンボルであった。のちに戦国武将や徳川幕府からも手厚い信仰を受けていた。
 

本宮(上宮)
 

菊花展
     
                       八幡宮や富士山を表現
 

舞殿
 
                         挙式がすすめられていた

 
小町通り
JR鎌倉駅前からおよそ360m北に延びる通りである。通りと脇の路地には250軒の店舗が構えている。
この通りは、八幡宮参拝客のほとんどが往復のどちらかに利用しているのではなかろうか。通りを歩くと、新店舗がたくさんあることに驚く。
                

近くの映画記念館で小百合さんの映画を上映する案内が掲示されていた。
                    


JR鎌倉駅
                
再び鎌倉駅に戻り、帰宅。

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鎌倉龍口寺輪番八ヶ寺

2014-04-25 12:08:50 | 鎌倉巡り
日蓮の龍ノ口法難の地に建つ龍口寺は、1886(明治19)年まで住職をもたず、輪番制で、近隣(片瀬・津・腰越)8つの寺が順番で日蓮の霊場である龍口寺を守ってきた。
このことを知ったのは、腰越の満福寺を訪ねようとした際、万福寺の狭い地域に寺院が多く点在していたので何故なのか調べる中で「輪番制」が出てきた。

龍口寺のはじまりは、日蓮の弟子が「龍ノ口法難霊蹟」として、敷皮堂という堂を1337(延元2・建武4)年建立したという。敷皮とは、日蓮が処刑される際に石の上に敷いた皮のことだという。
本格的な寺としての格式を整えたのは、それから300年余りの1601(慶長6)年、江戸に幕府が誕生する頃であった。
日蓮宗徒からは龍口刑場の地は、龍口寺建立以前から神聖視され、護持のために腰越の六寺が順次建立された。その後、片瀬の寺院が日蓮宗に改宗され、輪番に追加され八ヶ寺となった。龍口寺は聖地ということで敢えて住職は置かずに輪番寺が管理していたようだ。
8つの寺はすべてが山号を「龍口山」といい、「龍口寺八ヶ寺」「片瀬龍口寺八ヶ寺」「片瀬八ヶ寺」「腰越龍口寺八ヶ寺」などともいわれている。
龍口寺といえば日蓮が処刑されそうになった龍ノ口の処刑場跡に建てられた寺院で、歴史的にも古いお寺であって、まさか住職が明治の世まで住職がいない寺院だとは思ってもみなかったが、こういうことのようだ。
住職を置くことも、1886(明治19)年当時の明治政府最高行政機関・太政官布告によってである。


龍口寺輪番八ヵ寺
龍口山常立寺(元身延山久遠寺末、潮師法縁、1532年改宗)、藤沢市片瀬3-14-3
龍ノ口で処刑された罪人を弔うために建てられた真言宗の寺で、第一の元寇である文永の役の翌年、1275(建治元)年、長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸し、高麗等の各国と同様に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名も処刑されこの地に葬られた。
モンゴル出身の朝青龍や白鵬ら力士らは藤沢に巡業で訪れる際には、元使塚を参拝している。
         

         

          
          元使塚の五輪塔には英雄を意味する青色の布が巻かれている 力士参拝からはじまったという

龍口山本蓮寺(元大光山本圀寺末、潮師法縁、嘉元年間(1303~1306)頃改宗)
藤沢市片瀬3-4-41
『かまくら子ども風土記』によると、595年に高句麗から来た僧で、聖徳太子の師である恵慈の弟子の義玄が開山と伝えている。1184(元暦元)年に源頼朝が再興したと伝えられており、当時は真言宗の寺院で「弥陀山大御堂源立寿寺」と号していたが、1304(嘉元2)年日秀が日蓮宗に改宗させ本蓮寺となった。
         

         

         
                     マンサクの生け垣 広い範囲に植えられていた

龍口山法源寺(元正中山法華経寺末、1319年建立)、鎌倉市腰越(旧津村)5-1-17 
通称ぼたもち寺。
日蓮龍ノ口法難の際、龍ノ口刑場に引かれて日蓮に鎌倉大町にある常栄寺の桟敷尼(比企能員(よしかず)夫人の妹)がぼた餅を捧げた。その桟敷尼の実家の菩提寺だったことで、この寺も「ぼたもち寺」いわれている。
         

         

龍口山本成寺(ほんじょうじ)(元妙厳山本覚寺末、1309年建立)、鎌倉市腰越2-19-9
                   

         

龍口山勧行寺(元経王山妙法華寺末、1203年建立)、鎌倉市腰越2-19-15
土橋八貫町に住む漁師の若者が一体の仏像を釣上げ、家に持ち帰って安置していたところ、家の者が毎夜うなされるようになった。若者は恐ろしくなり、仏像を勧行寺に勧請したといわる。それが本堂に祀られている、文殊菩薩の胎内仏である海中出現文殊菩薩といわれている。本尊は三宝祖師。
         

龍口山妙典寺(元長興山妙本寺末、1300年建立)、鎌倉市腰越2-20-5
岩山を切り開いて創建されたことから、かつては「腰越の谷戸寺」とも呼ばれていた。
本堂右側に真っ黒な大黒天像が安置されている。
         

         

                 

龍口山東漸寺(元正中山法華経寺末、1325年建立)、鎌倉市腰越(旧津村)2-22-13
この薬医門(三門)は、龍口寺の門前で饅頭屋を商う店の主人が早逝した妻の菩提を弔うために寄進したもの。
江戸時代には、宝善院の僧が龍口明神社の別当に任じられ、それ以来、村の御嶽大権現社、春日社、第六天社、観音堂など多くの神社や寺の仕事を引き受け宝善院は地元の信仰を集めて栄えていた。
         

         

龍口山本龍寺(元長興山妙本寺末、1302年建立)、鎌倉市腰越(旧津村)2-26-2
境内にはその昔、鎌倉幕府の重臣比企能員の末子・比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)の一族とも、能本本人ともいわれる比企大学三郎高家の屋敷があったといわれている。
         

         


寂光山龍口寺(日蓮宗の本山(霊蹟寺院))片瀬3-13-37
         

         

                   
                           欅造り瓦屋葺大書院 
        明治初年信州松代で蚕糸業で財をなした窪田家が造った蚕糸御殿 1935(昭和10年)移築(龍口寺公式HP)
        旧松代藩藩邸と書かれていることもあるが


                   
          全国的にも数少ない明治期の五重塔 木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一

         
         御霊窟 龍ノ口法難の際に日蓮が入れられていたとされる土牢 中に祖師像が安置されている

         
                             龍ノ口刑場跡

江ノ島弁財天道標
江ノ島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校(けんぎょう・1610?~94)が、江ノ島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにとの配慮から寄進したものと伝えられている。
もとは48基あったといわれているが、現在は11基が残っている。
道筋で見つけた。
片瀬市民センター前
         
湘南モノレール「江の島駅」近く三差路
         

                  杉山検校・江ノ島神社関連 : 江の島を歩く
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義経腰越状の満福寺

2014-04-23 16:40:55 | 鎌倉巡り
1185(元暦(げんりゃく)2)年、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経主従は、平宗盛親子を捕虜として鎌倉に凱旋しようとしたが、腰越の満福寺で止められた。
(1185年は平家方の元号としては寿永4年でもあり、資料によっては元暦と寿永が使われている。)
義経は、頼朝の側近で幕府創設に貢献した公文所別当・大江広元に書状を送り義兄・頼朝に許しを得ようとした。この書状が、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」、「平家物語」や「義経記」にも記載されている、義経の「腰越状」である。
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。・・・」ではじまる和様漢文体の長文で、当時の切々たる義経の心情をよく表したものと言われる。
義経主従は満福寺に5月15日から6月9日まで滞在した。しかし思いは届かず京に戻った。
それから4年後、義経は逃亡の果てに奥州藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ自刃した(1189(文治5)年4月30日享年31)。
その後、腰越の海岸で首実験が行われ、死んでも義経は鎌倉に入ることが出来なかった。
首実験のあと義経の首は腰越の海岸に晒され、海に打ち捨てられた。ところが、義経の首は潮に乗って境川を遡り白旗神社近くまで辿り着いた。その首を里人がすくい上げ、井戸の水で首を清め、近くに塚を設け葬った。
義経は死して伝説を残し、頼朝は死して歴史を遺したとどなたかが言ったとか。その井戸は「義経首洗井戸」と呼ばれている。
その後、鎌倉御所は義経の怨霊に悩まされ、頼朝の命により現在の小田急・藤沢本町駅付近にある、白旗神社に義経は祀らる。一緒に戻った弁慶の首は、白幡神社近くの八王子社に祀られたと、神社の伝承にある。
          関連の義経首洗井戸・八王子社・白旗神社旧東海道「藤沢宿」を歩く 2(クリック)に掲載

         
腰越状の寺・満福寺は、744(天平16)年、行基が開山した京都大覚寺派真言宗の寺院である。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ・668~749)は、朝廷が仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き、人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池、溝と堀、架橋や困窮者のための布施屋(ふせや=旅行者の一時救護・宿泊 施設)の設立など数々の社会事業を各地で行った。しかし、朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、聖武天皇により奈良の東大寺大仏造立のため勧進活動を行い、日本で最初の大僧正に任じられ、また、東大寺の「四聖」のひとりに数えられている。 



行基加持瑠璃光水



義経・弁慶に因む数々

日本最大級の「寿老人」・「腰越状の下書き」をベースにしてに作った版木(1820(文政3)年)から刷ったもの


「腰越状」を書く時に墨を摺る水を汲んだ硯の池


義経の手洗い井戸


義経供養碑(左)と弁慶手玉石


弁慶腰掛石


義経公屋島大合戦勝軍御帰陣之図(歌川芳藤)


京五条橋の牛若丸 右に弁慶もいるが人形の影になっている


義経 静御前 吉野の別れ


義経 弁慶


静御前は義経と別れた後捕らわれ鎌倉に送られる 静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられる
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


腰越は、中世の鎌倉―京間を結ぶ街道の宿駅で、鎌倉からの西の門戸(もんこ=出入口)であった。
腰越という地名の由来は、「天女と五頭龍」伝説がある。それは、
昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていた。津村の港に来ては子どもを食べてしまうため、人々は泣く泣くこの地を離れたことから この辺りを「子死越」「子死恋」と云うようになったと。
また、その五頭竜の難を逃れるために人々が腰まで水に浸りながら避難したことによるという説などもあるようだ。
このはなし、2月に江ノ島を周った際に、恋人の丘「龍恋の鐘」の案内板に書かれていた。『かまくら子ども風土記』にも載っているようだ。
このはなしの続きは、子死越前方の海上に密雲が何日もわたってたてこめたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島ができていた。これが現在の江の島とか。
この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天と云われ、五頭龍は腰越の瀧口明神社に祀られている。



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鎌倉義経まつり 2014

2014-04-19 22:00:55 | 鎌倉巡り
「義経まつり」は、4月の第2日曜日から第3日曜日にかけての「鎌倉まつり」に併せて、第3土曜日である19日に開催された。
平家を滅ぼした主人公であったにもかかわらず、兄源頼朝の怒りをかい、奥州平泉で不遇の死を遂げた源義経の偉業を偲ぶ祭。
源義経ゆかりの満福寺で慰霊法要が13時に行われた。
         
                         満福寺義経慰霊法要

               

14時からは、龍口寺前から小動神社までパレードが行われた。
スタートは龍口寺前 お分かりのようにパレードのコースは江ノ電が走っている右手遠くには江ノ電が写っている。電車が来たら端に避けなければならない。
 

定刻14時、パレードはスタートした。トップは県立鎌倉高校吹奏楽部
         

         
ミス鎌倉を乗せた日産のオープンカーが後に続く。
         

         

                 
3番手は、武者姿で集うとんぼの会の甲冑(かっちゅう)隊。
         

         
4番手は、県立七里ヶ浜高校吹奏楽部。
         

         
その次は実行委員会。おエラさんのグループ。
         
6番手は市立腰越中学吹奏楽部
         

         
ラストは、市立腰越小学校よさこいキッズ。
         

         

         

                   


パレード中に電車が来たヨー
         

         

         

         

         

 

スタート前のひと時 
 

 

                          
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鎌倉の桜を観る

2014-04-13 13:30:41 | 鎌倉巡り
北鎌倉駅から県道21号・横浜鎌倉線から県道204・金沢鎌倉線を歩き杉本寺までの桜をながめる。

 
円覚寺

 
建長寺

 
鶴岡八幡宮・源平池

 
鶴岡八幡宮・静桜

 
横浜国大付属小学校

 
頼朝の墓参道

 
荏柄天神参道


春爛漫ほかの花も













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鎌倉 花御堂 2014

2014-04-13 13:29:15 | 鎌倉巡り
釈迦の誕生を祝う花まつり(灌仏会(かんぶつえ))の日、鎌倉を歩く。

成就院
山門前からは、由比ヶ浜、材木座海岸が一望でき、参道の石段の両側には、「般若心経」の文字数と同じ262株のアジサイが植えられ、アジサイの名所として知られている。



これからひと月ほど鎌倉の各所のお寺でシャガな花を観ることが出来る(右)

おだやかな海が見渡せる この日多くの学校で入学式が行われ両親に連れられた新入生を見かる


極楽寺
花まつりに合わせて、本尊・木造釈迦如来像の開扉(かいひ)と開山である忍性(にんしょう・1217~1303)の墓の公開がある。






光則寺
長谷寺通りの一歩北の道 いつもは人通りはないのだがこの日は多かった。
四季折々の花を咲かせている寺院だが、本堂前にみごとに咲き誇っているハナカイドウ(花海棠)がここのメインの花といわれる。樹齢200年以上だとか。





参道脇の長谷幼稚園にも花御堂が飾られている


本覚寺
 
鎌倉えびすで知られている本覚寺は、現在本堂も夷堂も工事中である。昨年は三門が工事をしており、工事続きである。
               

妙本寺
鎌倉の桜の名所のひとつとなっており、境内も日ごろの静けさとは一味違う華やかな雰囲気につつまれている。
身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ750年余の歴史を有する日蓮宗最古の寺院のひとつ。
 

                
 
建長寺
鎌倉の桜の名所で、三門前の桜は幾多のポスターや表紙を飾った景色である。優美な桜が今年も建長寺を飾っている。
 

                  

杉本寺
              
杉本寺は、三体の十一面観音像を本尊とした鎌倉最古の寺院である。また、運慶作と伝えられている仁王が安置されている茅葺の三門がある。
本堂に花御堂が飾られていたが、残念ながら本堂は撮影禁止である。
本堂屋根茅葺き替え工事が行われており、苔の階段も観ることができない。
 

花御堂(はなみどう)とは、釈迦の母が、咲き誇る無憂樹(むゆうじゅ)の花の下で釈迦を産んだという花園をなぞられた。
無憂樹は、インドでは乙女の恋心をかなえる木、また、出産、誕生・結婚にかかわる「幸福の木」として愛好されている。
甘茶を注ぐことは、釈迦が生まれたときに八大竜王のうちの九頭竜王が天から香ばしい水を吐いて、釈迦に産湯を使わせたという言い伝えに基づいている。昔は五香水とか五色水という香水を使っていたが、江戸時代になって甘茶を甘露になぞらえて使うようになったといわれている。
日本ではお盆とともに仏教伝来からの歴史があり、推古天皇時代、聖徳太子の提唱で元興寺で行われたのが最初とされるというが。




この日に巡った鎌倉の桜
 
   円覚寺                    鶴岡八幡宮・源平池              横浜国大付属小学校
拡大の画像はここをクリック(残念ながら画像をクリックしても拡大しない)
       
建長寺             鶴岡八幡宮・静桜          頼朝の墓参道            荏柄神社参道


関 連 : 鎌倉花まつり2013

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花まつり降誕会 建長寺2014

2014-04-08 22:51:56 | 鎌倉巡り
降誕会       花まつり


待てば甘露の日和あり
意味は「待っていれば、甘露が降ってくるような日和もある。あせらずにじっくりと待っていれば、やがてよい機会がめぐってくる。」
これは釈迦が、降誕され天から甘露の降雨がふりそそぎ祝福したということから来た言葉である。変形したのが『待てば海路の日和あり』である。
         

         

降誕会大法要
降誕会(ごうたんえ)とは、4月8日の釈迦の誕生を祝う法会で、花祭りとか、灌仏会(かんぶつえ)ともいわれている。法堂に釈迦の誕生仏が安置された花御堂を置き、一山の僧侶50名ほどが会して法会が行われた。
         
               中央の花で飾られた花御堂には見えにくいが、誕生仏が安置されている

         

         

         

降誕会を調べていて、失敗して物をダメにする事を「おしゃかになる」と表現するが、一説によるとこの言葉は、降誕会(灌仏会)に因んだことだと書かれていたので、余談であるが紹介する。
この言葉は、江戸の鍛冶(かじ)職人の隠語として、あぶり過ぎて鈍ってダメにしてしまった金物に対して、江戸っ子訛りで「しがつよかった(火が強かった)」→「四月八日だ」→釈迦の誕生日、とそれぞれ変化して成立して「おしゃかになる」が生まれたとされる。

花まつり
午後は、三門前で、鎌倉仏教会が主催する法会が催された。
             

         

         
読経の最中、僧侶が散華(縦8.5cm、横5cmほど)を撒かれた。

         

         

                 

花供養
引き続き、「花供養」碑の前で、建長寺館長を交えて行われた。
会場は参拝客の献花で飾られているが、祭壇前は昨年よりも簡素であった。
         

              

         

         

         

         

         

大花展
6日の日曜日から、生け花で境内を飾る大花展(だいかてん)が今日の花まつりに合わせて開かれている。
昨日に新聞によると、展示の作品は小笠流をはじめとする各流派や個人など、公募で集まった23作品で、大使館夫人の作品も出品されている。
「お釈迦様の誕生を祝うとともに、様々な花を楽しんでもらい、平和な生活が続くよう祈る一日になってもらえば」と建長寺関係者が話されている。
         

         

          

         

         

         
                    生け花の出品者と僧侶の記念撮影

平家物語版画展(方丈)
         

         

この日は、鎌倉の他の寺院の花まつりも回った。

                    関連 : 建長寺花まつり・花供養2013
                    前回の鎌倉巡り : 鎌倉へ初詣2014     
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