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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

東京のタイ焼き老舗御三家をめぐる

2020-04-24 11:19:45 | 東京散策
タイ焼きの起源を調べると、国立国会図書館のレファレンス協同データベースには次のように書かれている。
『たべもの起源事典』によると、1909(明治42)年、創業の浪花家総本店の初代神戸清次郎が創作したのがはじまりとしている。その経緯は、「今川焼きを始めたが一向に売れず、亀の形の亀焼きも失敗する。ところが、めでたいタイの姿にしたところ、(略)飛ぶように売れたという」と紹介している。

また、『東京たいやきめぐり』の「たいやき事はじめ」には、(関西から東京に出てきた)神戸清次郎が「焼き物の菓子をはじめる」とあり、その際に焼型として鯛を選んだとしている。なお、なぜ鯛型にしたかについては、「鯛は「めでたい」で縁起物につながる。そして、ほんものの鯛は庶民の口になかなか入らない高級品であった、それを模した」ことを理由としている。
なお、誕生の地について同書に「東京麹町で誕生した。」とあり、現在の麻布十番に店舗を構える「浪花家総本店」の始まりとしている。

そこで、東京で昔ながらの一丁焼きの麻布十番「浪花家総本店」、 四谷「わかば」、人形町「柳屋」の老舗店である「タイ焼き御三家」を紹介する。
一丁焼きとは、タイ焼きの「焼き型」には、1匹ずつ焼き上げる型(一丁焼き)と、鉄板などで複数匹を一度に焼き上げる型の2種類があり、たい焼きの味にこだわる人達では(一丁焼き)で焼いた鯛焼きを「天然物」・「一本焼き」・「一丁焼き」、後者の複数匹のタイ焼きを「養殖物」・「連式」などと呼び、違いを明確にする場合があるという。


麻布十番「浪花家総本店」
コック帽と蝶ネクタイ姿が話題となり、それで1975(昭和50)年の大ヒットした「およげたいやきくん」のモデルとなった。







訪れた日:2017.12


四谷「わかば」
1953(昭和28)年創業。
JR四ツ谷駅から迎賓館に向かう道から2本ほど西を走る道にある「わかば」は住宅街の中に佇んでいる。
店内では職人さん2人が一本焼きの型で焼き上げては前面のトレーに流している。
流れてきたたい焼きを女将さんがハサミで形を整えてゆく。それからご主人がお客と対応しながら包む。
演劇評論家安藤鶴夫(1908~69)さんの「鯛焼きのしっぽにはいつもあんこがありますやうに」が社訓。

         
順番待ちの間、サラリーマン3人組のひとりが米倉涼子さんが出演している番組にこの店が出ていたことを話していた。今はやりの街をうろうろする食べ歩きの番組だろうと思ったが、家人に話すと前日放送した「ドクターX」の中で、若葉の店前で彼女と男優がたい焼きを食べるシーンがあったと云う。

 
訪れた日:2013.11

人形町「柳屋」
創業は1916(大正5)年。行列ができるたい焼き屋である。
東京都中央区日本橋人形町の400mほどの商店街である「甘酒横丁」の通りにある。
前の月に四谷わかばの店に寄ってたい焼きを食べたので、御三家であるここのたい焼きもと思い20分ほどは並ぶ覚悟をしていたが、それ以上かかりそうな行列であったため買うことをパスをした。 
 
人形町と云えば、TBS-TVドラマ「新参者」にたい焼き屋が登場するが、それは柳屋ではなく架空の店舗である。

訪れた日:2013.12



桜に誘われ駒場の前田邸に

2019-03-31 14:15:44 | 東京散策
加賀百万石の大大名、前田家第16代当主前田利為(1885-1942)は、関東大震災後の復興計画で、江戸期に上屋敷があった本郷の本邸と東京帝国大学農学部の土地を等価交換し、現在の駒場に新邸を昭和3(1928)年から5年にかけ建設した。
建物は、地上3階地下1階建ての英国邸宅風の洋館と、これを渡り廊下で結んだ木造2階建て純日本風の和館である。
この建物は当時の技術を駆使し、上流社会の生活が偲ばれるもので、家族は6人に加賀出身の使用人が136人いたと云われる。

洋館



玄関

1階



階段広間より玄関を眺める


サロン


大客室


窓から眺めた満開の桜


階段広間と蛇紋石の柱

2階



ステンドグラスがあしらわれている窓


夫人室


夫人寝室


会議室


書斎




2階から眺めた桜

渡り廊下
洋館側は洋風に、和館側は和風に、中間の東屋は洋風の建物に瓦屋根を載せるなどのそれぞれ趣を凝らしている。


和館
木造2階建て近代和風建築。派手さはないものの材料は吟味され、節のない上質なものが選ばれている。
内部は廊下まで畳敷きで、襖を外せば40畳以上の大広間に変化する。
洋館との渡り廊下側には茶室と待合が供えられており、外国からの賓客をもてなすための趣がでている。



和館門



1階書院造





加賀梅鉢の家紋がついた襖金具






四季図が描かれている杉戸絵



茶室


渡り廊下


2階数寄屋風






2階や茶室を観たいならばガイドさんの案内が必要で、それがないと40畳を見るだけに過ぎない。


庭から眺めた和館 江戸式の雪吊りが見える


戦後は昭和32(1957)年まで米軍に接収されて洋館は事務所に和館は生活エリアに使用されていた。
平成25(2013)年重要文化財に指定される。


駒場公園の満開の桜








近くの建物

古賀政男音楽博物館


訪れた日:2019.3.28



池上七福神をめぐる

2019-01-05 13:03:51 | 東京散策

今年も新年最初は「七福神めぐり」である。今回は池上。始まったのは昭和56(1981)年。
利用駅は池上線・池上。「池上」の由来は本門寺のふもとまで洗足池があり、その周辺の村であったからも名の一因である。

曹禅寺 布袋尊 池上7-22-10



 


寛永年間時代(1624~45)の京都三っ城大橋の欄干


微妙庵 毘沙門天 池上3-38-23



 



馬頭観音堂 大黒天 池上3-20-4
2017年から改修中と云うのだがその気配もなさそうだ。


養源寺で祀られている大黒天

 


厳定院 弁財天 池上2-10-12

 

 
小祠に祀られる弁財天



本成院 福禄寿 池上1-35-3


 

ガラス越しの福禄寿を角度を変えて7枚写したが、これが精一杯。

妙見堂 寿老人(樹老人) 池上1-31-11


 



養源寺 恵比寿 池上1-31-1



 




獅子の面から顔をだすと中学生くらいの美男子だった



池上本門寺 池上1-1-1






池上本門寺へは午後になってしまったので、大変な込みよう。お清めの手水場も長い行列が出来ていた。
お墓の前で新年の交換を行っていたグループを2組ほど見かけた。こんな新年の迎え方もあるのだなと感ずる。


大山と富士山

富士山の降灰が積もっていたことを展示していた。今まで本門寺には数回訪れてているが、これまでは気がつかずスルーしていたようだ。


六郷用水
小泉次大夫の手によって慶長2(1597)年から14年の年月で、六郷用水掘削工事が行われた。
同時に川崎側の二ヶ領用水の工事も進められた。(当ブログ「平間街道を歩く(ガス橋~池上)」参照)



ここに用水が流れていた



道標
くず餅屋の前に徳川綱吉時代の道標が置かれている(元禄9(1689)年)。石碑の正面に「是よりひたり・古川道・かわさき道」と刻まれ、裏側には「是よりみき・こすきみち・新田道」と標されている。
近郊の農家が野菜を市場に運ぶ「平間街道」とされる。


訪れた日:2019.01.01

お江戸の富士さん巡り 2018

2018-07-05 12:07:43 | 東京散策
江戸時代中期、「江戸八百八町講中八万人」と云われた。この時代、富士のお山に対する信仰も盛んとなり、江戸を中心として冨士講が生まれ、それに伴い富士塚が数多くつくられた。
富士山の山開き7月1日にお江戸の富士さんを巡った。


品川富士
 標 高 :10m 
 と こ ろ:品川神社 品川区北品川3-7-15
 アクセス:京浜急行線・新馬場駅北口下車向かい

明治2(1869)年、北品川宿の講中によって築山された。その後神仏分離政策により破壊されたが、明治5年に再築、大正10(1922)年に現在の位置に移築される。
通年登拝は可能である。















下谷坂本富士
 標 高 :5m 直径16m 
 と こ ろ:小野照崎神社 台東区下谷2-13-14
 アクセス:東京メトロ日比谷線・入谷下車徒歩2分

江戸幕府10代徳川家治、11代家斉の天明年間(1781~89年)に、富士講の入谷東講の先達と講元らで築山。富士山から取り寄せた溶岩を船積みで隅田川岸まで運び、そこより荷車にて当地まで運送した。かつては富士五湖に見たてた池や胎内洞窟を模した横穴もあったそうだ。
原形を留めていることで国の重要有形文化財に指定されている。
山開きの前日と当日に登拝可能。










白山富士
 標 高 :3.5m 
 と こ ろ:白山神社 文京区白山5-31-26
 アクセス:都営三田線・白山駅下車徒歩2分

本殿裏にフェンスに囲まれて築山されている。
この富士さんは山開きの日でも登拝出来ず、門扉は閉ざされていた。
この富士さんは毎年あじさいの咲く時期に登拝出来るようだ。
以前も参拝している神社である。今回は近くに身禄行者の墓があるので一緒に訪れた。








身禄行者の墓
 標 高 :5m 
 と こ ろ:海蔵寺 文京区向丘2-25-10
 アクセス:東京メトロ南北線・本駒込駅下車徒歩5分

弥勒行者(寛文11(1671)~享保18(1733)年)は江戸庶民を中心に栄えた富士信仰の中興の祖として知られた。庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五灼の烏帽子岩(えぼしいわ)付近の石室で断食入定(食を絶って死ぬ)した。弥勒の教えは、広く信仰を集め、分骨埋葬されたと云われる墓の碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられている。









この弥勒行者像は富士吉田口登山道三合目に祀られたもの。たまたま登山中に調査が行われていた。詳細は当ブログの「富士吉田口歴史の道 三軒茶屋」(2010.09.05)を参照

音羽富士
 標 高 :7m 
 と こ ろ:護国寺 文京区大塚5-40-1
 アクセス:東京メトロ有楽町線・護国寺駅下車すぐ

都内で唯一のお寺の境内にある富士さん。少なくとも200年以前に築山、むかしのままの姿を残していると云われる。通年登拝可能である。














江古田富士
 標 高 :8m 直径30m
 と こ ろ:江古田浅間神社 練馬区小竹町1-59-2
アクセス:西武池袋線・江古田駅下車すぐ

江戸時代後期この辺一帯の4村連合の講中により築山。大正12(1923)年の関東大震災で損壊し再築された。富士山の溶岩が使用されている。
登拝は正月三が日、9月の例大祭そして富士山山開きの7月1日である。
国の重要有形民俗文化財に指定、練馬区はこの他4基の富士塚が存在する。










池袋富士
 標 高 : 5m
 と こ ろ:氷川神社神社 豊島区池袋本町3-14-1
 アクセス:東武東上線・下板橋駅下車徒歩6分

1912(明治45)年、池袋の冨士講により築山。通常は登拝出来ぬが山開きの7月1日のみ可能。












長崎富士
 標 高 :8m 直径約21m
 と こ ろ:浅間神社 豊島区高松2-9-3
 アクセス:東京メトロ有楽町線・千川駅下車徒歩6分
 
幕末の1862(文久2)年に富士講の一派によって築山、狛犬の代わりに天狗の像が一対立ち、頂上に大日如来の石像が祀られ、塚全体が富士の熔岩でおおわれている。
長崎富士は国指定の重要文化財の富士塚に指定。
7月第一土、日曜日のお山開きのみ登拝可能。









午後3時に閉鎖予定であったが登拝者が後を絶たなかったためか、私が出た際に閉鎖された。時は4時半であった。ありがとうございます。

今回12山の富士さんの登拝を目指したが、予定以上に時間がかかったことで8山となった。


富士山頂からのご来光、詳細は当ブログ「富士山に挑戦 リーダー中ちゃんとチームひよこ」
(2015.8.10)参照

吉原遊郭に祀られる弁財天に参る

2018-05-31 16:55:56 | 東京散策

浅草七福神巡りでは、吉原遊郭に関連する弁財天を祀る「𠮷原神社」が存在する。

吉原神社
江戸時代、郭には守護神として五つの稲荷社が存在していた。廓の入口である大門(おおもん)の手前にひとつ、そして郭内には四隅にそれぞれ祀られていた。
その後、明治5(1872)年に、これら五つの稲荷社が合祀され、吉原神社と名付けられ当初は大門手前に祀られていた。
関東大震災を経て昭和9(1934)年に現在地へ遷座された。その際に廓外の吉原弁財天を合祀した。但し本宮(もとみや)はそのまま残した。




吉原弁財天本宮・花園池(弁天池)跡
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3(1657)年の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋人形町の吉原遊郭が移された。以来、売春防止法の施行(昭和32(1957)年)までの340年間、巨大な遊郭新吉原の歴史が始まった。特に江戸時代には、遊女を描いた美人画や遊女の髪型が町娘の間で流行したり等、様々な風俗・文化の発信源となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主や遊女たちの信仰を集めた。
池は、花園池・弁天池と呼ばれたが、大正12(1923)年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死した。
境内の築山には、溺死した人々の供養のため大正15(1926)年に観音像が造立される。また、花園池は昭和34(1959)年埋立てられた。










吉原遊郭跡
見返り柳
京都の島原遊郭の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったことから、「見返りの柳」の名がある。

衣紋坂
日本堤より五十間道に降り大門に至る坂。遊客がこの辺で衣紋をつくろうところからくる。

新吉原遊郭
明暦の大火以降、日本橋人形町の元吉原から幕府の命令によって浅草浅草寺北の新吉原に移転するにあたり、1万5千両(現代換算で15億円)を付与したり、風俗営業の銭湯を200軒取り壊し、夜間営業の許可など便宜を図った。
その吉原は吉宗時代の調査では、8千人余が居り、その内遊女2,105人、禿(かぶろ、かむろ=童女)941人がおよそ2万坪の郭に存在していた。
遊郭は大門口一カ所の出入口で、周辺はおはぐろドブが回らされている。但し臨時に使用するはね橋が7or9カ所用意されていた。遊女の棺はここから出たと云われる。







山谷堀と今戸橋
江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から大門近くまで猪牙舟(ちょきぶね)が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。猪牙舟とは、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。江戸市中の河川で使われたが、浅草山谷にあった吉原遊郭に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。長さが約30尺(およそ9m)、幅4尺6寸(およそ1m40cm)と細長く、また船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋でまさに「おだいじん」遊びであった。界隈には船宿や料理屋なども建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった。乗舟は神田川の河口柳島あたりだが、神楽坂から神田川を下って新吉原に行った明治の文化人もいたようだ。
明治時代に入って遊興の場は吉原から新橋などの花街に移っていった。
今戸橋は隅田川から入って最初の橋で、大門までのおよそ700mには9つの橋が50~150mおきに架けられていた。
今は、埋めたてられて「水と緑の憩いの公園」となっている。








訪れた日:2017.12.30


「麻布ってどんなまち」を歩く

2018-05-10 15:01:30 | 東京散策
麻布(あざぶ)の地名の由来は、昔、アサを栽培し、布を織った土地であることにより、麻布という字が当てられるようになったのは江戸時代の元禄期からといわれる。
東京都港区5地区のうちのひとつで、東麻布、麻布狸穴町、麻布永坂町、麻布十番、南麻布、元麻布、西麻布、麻布台、六本木で麻布は形成される。
地理的には麻布地域の縁を沿うように古川が流れており、この川によって山と谷、高台と低地が形成され起伏に富んだ坂道の多い地形である。
近年まで麻布地域内の鉄道駅は反対運動があったため、交通ののアクセスが悪かった。



そこでどんな「まち」
およげたいやきくんの店
モデルとなったのは3代目の御主人。コック帽と蝶ネクタイ姿が話題となり、それで昭和50(1975)年の「およげたいやきくん」のモデルとなった。







「東京たい焼き御三家」と呼ばれている店がある。店の特徴は1匹づつ手焼きが条件という。
麻布の浪花屋、四谷のわかば、そして人形町の柳家である。

四谷のわかば2013.11


人形町の柳家2013.1
TBS-TVドラマ「新参者」に人形町のたい焼き屋が登場するが、柳屋ではなく架空の店舗である。


鬼平犯科帳(池波正太郎著)の世界  
麻布ねずみ坂・麻布暗闇坂・麻布一本松などがよくドラマに登場している。現在の麻布十番あたりまでが江戸と云われる領域のようだ。だが、登場する麻布は当時は江戸と云っても山の中のようである。


暗闇坂


鼠坂


一本松


坂が多い
ここ港区は坂が多く80余りを数え、その半分余は麻布地域だと云うからおどろく。

鳥居坂


狸坂


植木坂


狸穴坂


外国大使館が居並ぶ
日本にはおよそ140ヵ国の大使館があり、その内90ヵ国近くの大使館が港区に存在する。

ロシア大使館


フィージー大使館


昭和の家並みが僅かに残る



近代的なタワーマンションと昭和のかおりがするトタン屋根の家がひとつのアングルに納まる


戦火をくぐりぬけたビーンテージマンション(1937年築)(↓↑)




赤い靴・きみちゃん
赤い靴のモデルきみちゃんが明治44(1911)年麻布十番(旧永坂町50)の孤女院で9歳の生涯を閉じた。


寺が多い
江戸の街ができるはるか以前の西暦1000年よりも前の時代に神社仏閣がこの地に建立された。
麻布地域は海を見下ろす南向きの高台で神仏を祀るのに相応しいと判断され、現在の寺は1000年以上続くものと、その後にできたものとが麻布のまちに混在し形成されている。
慈眼山光林寺 臨済宗妙心寺派 南麻布4丁目 延宝6(1678)年創建

日東山曹渓寺 臨済宗妙心寺派 南麻布2丁目 元和9(1623)年創建

法久山安全寺 日蓮宗下総小金井本土寺末 元麻布3丁目 寛永元(1624)年創建

多聞山天現寺 臨済宗大徳寺派 南麻布4丁目 享保4(1719)年創建


更科蕎麦の名店
更科堀井(麻布永坂更科一門)・・ 元麻布三丁目
寛永元(1789)年創業。
信州出身で信州特産晒布の保科松平家御用布屋だった八代目清右衛門が、保科家の江戸屋敷傍の麻布永坂町に、そば屋「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業したのが始まり。当初は、大名屋敷や寺院などに出入しており、明治時代半ばの最盛期には、皇室や宮家などにも出前を届けた。

麻布永坂更科本店・・麻布十番一丁目
昭和25(1950)年創業のそば屋店舗。



永坂沿いで太平洋戦争前に営業していた建物


「永坂更科発祥之地」碑

永坂更科布屋太兵衛・・麻布十番一丁目
昭和34(1959)年創業。

更科(さらしな)は、江戸の蕎麦屋の老舗で、「藪(蕎麦屋)」、「砂場(蕎麦屋)」と並び、蕎麦御三家のひとつである。
更科の特徴は蕎麦殻を外し、精製度を高め、白く高級感のある蕎麦である。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。


初代米国大使や連合国司令官が関係する店
最初のアメリカ公使宿館跡 麻布山善福寺
安政6(1859)年、それまで伊豆下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、明治8(1875)年までこの善福寺に公使館を置いた。
善福寺は都内では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹。天長元(824)年、空海によって創建、浄土真宗本願寺派。

麻布I.B.KAN
創業は文政元(1818)年、現存する理髪店では日本最古。ハリス公使の髪を切ったという記録もある。

マッカ-サー元帥家族御用達の小林玩具店
創業は明治の初め。アメリカ大使館が近いことでマッカーサーファミリーがよく来ていた。


日本経緯度原点
駐日アフガニスタン大使館(旧国土交通省狸穴(まみあな)分室)脇の空き地に設置。
明治7(1874)年に海軍水路寮がこの地に観象台を設置した。後に帝国大学付属東京天文台(現・国立天文台)に移管され、明治25(1892)年に参謀本部陸地測量部がこの天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として定めた。




不思議がいっぱい
昔より「七不思議」は江戸の各地に伝わっている。中でも「麻布七不思議」「本所七不思議」「八丁堀七不思議」は江戸の三大七不思議と謂われている。
麻布は巻頭でも述べたように、起伏に富んだ地形で坂や寺社が多くあり、それで『不思議』がありそうな雰囲気を醸し出していそうだ。


がま池の図


広重・一本松


訪れた日:2017.11.10
        12.14


麻布の七不思議を尋ねる

2018-02-18 15:04:05 | 東京散策
麻布地区総合支所地下1階には、次のものを江戸時代「麻布の七不思議」として取り上げ壁面のレリーフに取り上げている。

永坂の脚気石(五嶋家門前の要石)
都営環状3号線を鳥居坂下交差点から鳥居坂を上ってゆくと5分ほどで右手に麻布地区総合支所の建物がある。かつてこの地には五嶋近江(または大和)守の屋敷があり、その門前に「かなめ石(永坂の脚気石)」があったという。
この石に塩を供えて願いをすると、足の病に霊験があるとの評判であった。江戸時代江戸では上流階級を中心に白米が流行ったことで、ビタミンB1欠乏症となった。これを「江戸患い」と呼ばれた。このためこの脚気石の人気も高かったと想像する。
しかし、道の中央にあって通行の邪魔であったので移動しようとしたが、掘っても掘っても底が見えず、明治になって、露出した上部だけを取り除いたという。このため殆どの部分は今も地中に存在していると云われる。

要石が埋まる道の前に建つ麻布地区総合支所

狸穴の古洞
麻布地区総合支所の建物前をさらに進むと外苑東通りの六本木5丁目交差点にぶつかる。ここを左折し麻布通の飯倉交差点も直進すると左手に麻布郵便局があり、その向かい側の坂が狸穴坂である。
狸穴坂
タモリさんが書いた東京の坂の本を持って坂道散歩をする年配のご夫婦が歩いていた。
坂道は工事していて、掘った土がトラックに載っていたが、それはきれいな砂であった。
坂を下り切った辺り(坂の途中という説もある)に江戸時代大狸が住む洞穴があったという。当時は、狸が住むに相応しい場所であったと考えられる。それが「狸穴古洞」といい、「麻布狸穴町」の地名の発祥ともなっている。現在はこの町名はごく一部で、その多くは「麻布台」と現代的な地名になっている。
以前も「狸穴」の歌詞が含む歌謡曲について書いたことがあるが、「狸穴」は古き名称になってしまったのか?
参考までに「狸穴」の歌詞が含む歌謡曲は、都はるみさんの「東京セレナーデ」、ロス・インディオス&シルヴィアさんの「別れても好きな人」の原曲。それとサザンオールスターズさんの「愛と欲望の日々」である。
坂の近くに狸穴公園がある。狸に関するものがあるかな?と思ったが、その公園には小さな社が祀られていたが、「狸穴稲荷大明神」ということで狸ではなく狐であった。
狸穴大明神

一本松
十番通りの麻布十番の人気ストリートから暗闇坂を上がると一本松になる。たぬき坂、大黒坂からも登り切ったところである。ここからは一本松坂の登り道が、氷川神社方向へと続く。一本松を中心に四方が坂となっている。
中央に一本松。奥の坂が一本松坂、手前が大黒坂、右手が暗闇坂と狸坂に分かれている。

一本松とは、様々な由来があるが、古くは閻魔庁の役人を務めたという小野篁(たかむら・802~53)が京都から旅した高貴な松の宮がここで亡くなったので埋葬し、松を植えたといわれる。その後の時代では平家の落人が自害した場所とか、源経基(つねもと・平安時代中期)がこの松に衣冠をかけた。関ヶ原の戦いで送られてきた多くの首級を埋めた首図塚、人を呪う丑の刻参りに使われた、元麻布の氷川神社のご神木、秋月邸の羽衣の松、etc。
またまた、一本松の呼び名も多種あり、冠松、呪いの松、羽衣の松と由来に関係する名がついている。
江戸名所図会 麻布一本松
池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」に一本松の茶店が登場し、配下の木村忠吾が何気なく蹴った小石がドラマの発端となる。
そして、浪人集団に一本松に呼び出された長谷川平蔵が、途中の鼠坂で襲われるシーンもある。
麻布狸穴町、麻布永坂町の間の坂で、江戸では、細長く狭い道を、ねずみ坂と呼んだそうだ。
「江戸名所図会」の「麻布一本松」に描かれている茶屋「ふじ岡」は「鬼平犯科帳」にも登場する。

一本松から通づるたぬき坂(旭坂)の由来は、大正の頃までこの坂には石塔や石地蔵を使ってイタズラをする古狸が住んでいた。この坂は、昔から樹木が鬱蒼としていたため、昼中でも婦女子は通るのをためらったほどであった。
ちなみに、狸坂の先には狐坂も存在する。この坂には明治の初め頃まで1匹の狐が住んでいて、狸坂の狸と化け比べをしていたと。また、美しい娘に化けて人さまを化かしたという。

蟇池
江戸時代後期の大名、備中国成羽藩(びっちゅうのくになりわはん)の屋敷が現在の港区元麻布2丁目にあった。その屋敷には大きな池があり、そこに巨大な蟇(がま)が棲んでいた。ある時、2人の家臣に毒気を当てて殺してしまったため、断った主税助(ちからのすけ)は池の水を抜いて巨大な蟇を退治しようとしたところ、主税助の夢枕に立ち、詫びを入れた上で命乞いをした。今後は火災から屋敷を守ると約束し、火傷の薬を伝授した。
数日後、山崎家の屋敷に火の手が迫った時、この巨大な蟇が火災を防いだことから「上(じょう)の字さま」と呼ばれるようになり、防火・火傷にご利益があるといわれるようになった。
池の広さが500坪(1,650㎡)あり、四面が深い樹林に囲まれ、いかなる日照りでも枯れたことはなかってといれれていたが、現在、埋め立てられマンションの敷地の一部として残っており、竹やぶの隙間よりわずかに眺められる。コンパクトカメラでは焦点が合わず、池を写すことはできなかった。




「上の字さま」は麻布十番稲荷神社に祀られ、「〇〇かえる」のお守りとして授与されている

蟇池の近くの旧渡辺千冬邸に「七色椿(化け椿)」咲いていた。枝を四方に張り、七色の椿の大輪の花を咲き誇っていたと言う。「朝晩、花の色を異にする」とか「花の色が異なっていた」などと噂されていたが、1937(昭和12)年に枯死した。これも七不思議に数えられている。
近くに椿の生け垣が植えられていたので写す


柳の井戸
氷川神社の前の道を100mほど南に向かうと仙台坂上の交差点となる。ここを左折し仙台坂を下ってゆく。2つ目の信号が「麻布山入口」。ここを左折するとすぐに善福寺の広い参道が左手にある。
「柳の井戸」は山門手前右手にある。
この井戸は、弘法大師が鹿島大明神に祈願して、手に持つ錫杖(しゃくじょう)を突き立てると、そこから清水が湧き出したという。その代わりに常陸の国の鹿島神宮にあった霊水「七井」のひとつが空井戸なってしまったという。
これも各地にある空海伝説のひとつなのか?ただ、関東大震災や太平洋戦争時の東京大空襲の際には多くの人がこの水によって救われたという。清水は今も湧き出ている。
柳の下に清水が湧き出ている


善福寺の逆さ銀杏
善福寺の山門から境内に進むと右手に東京都天然記念物の大銀杏の巨木が立っている。乳根(気根)が多数垂れさがって、幹が逆さに伸びているように見えることから「逆さ銀杏」と呼ばれている。
樹齢770年、幹回り15m。こちらは親鸞上人が立てた杖が、そのまま地に生えて大木となったと云われる。空襲で本堂と共に罹災した。
善福寺は最初のアメリカ公使館が設けられた。
江戸名所図会 善福寺

善福寺山門 左手に逆さ銀杏が見える

乳根が垂れ下がる逆さ銀杏

広尾の送り囃子
江戸名所図会 広野原
天現寺橋交差点を中心とした恵比寿2丁目から古川を挟んで広尾5丁目から南麻布辺りを以前は広尾の原、土筆ヶ原と呼ばれ、江戸時代には江戸名所図会にも描かれた庶民の散策の地であった。
秋の名月のころになると、どこからともなくお囃子の音が聞こえてきて、近づいてはいつの間にか消えたという、「送り囃子」が聞こえる一帯である。
交差点前には多聞山天現寺で、毘沙門天を安置している。
広尾毘沙門堂

古川には「狸橋」と名の付く橋が架かっているが、その由来は、
むかし、橋の南西にそば屋があって子供を背負い手ぬぐいをかぶったおかみさんにそばを売ると、そのお金が、翌朝は木の葉になったという。
麻布七不思議のひとつ。狸そばと呼んだのが、それが橋の名になった。ほかに、江戸城中で討たれた狸の墓があったからとも(由来碑より)。
親柱に擬宝珠が乗った狸橋

古川に架かる「四之橋」は土屋相模守下屋敷があったことから、「相模殿橋」ともいわれた。この橋の近くに尾張屋藤兵衛が商う「狐しるこ」の店があった。そこに時々狸が化けて買いに来た。翌朝お金を数えると、中に発破が混じっていた。これが評判となって、大変に繁盛したという。



土屋相模守の下屋敷が描かれている四之橋

橋は、天現寺橋、狸橋、五之橋、四之橋と続く。

港区麻布は不思議話の多い地域であって、知られているだけでも40近くある。その中で七不思議に取り上げられている話だけでも30以上あり、どれが麻布七不思議なのか諸説あるので、区では7話を選択しているが、それだけではでは収まらないのでプラスアルファで列記した。

資料参考:(東京の「怪道」をゆく)
訪れた日:2017.11.10
        12.14

花川戸の姥ヶ池

2018-02-12 11:21:07 | 東京散策
浅草寺を二天門から出て東に向かうと、
「花川戸」という町名が目についた。昔の名が残っていることがうれしい。
と、言っても以前は「浅草」が頭について「浅草花川戸」と呼ばれていたようだ。
町名の由来は、
『川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのであろうか。』
とのことである。

「花川戸」からイメージする人物となると、「お若えの、お待ちなせえ」の幡隋院長兵衛が出てくる。
この人、歌舞伎でも有名だが、江戸時代前期の町人で、ここ花川戸で口入屋を営んでいたとされる。が、片や、日本の侠客の元祖とも云われる人物でもある。
旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門に呼び出され、罠で、殺されることも承知で屋敷に出向き、湯殿で裸でいるところを襲われ、殺害されたという。享年36歳。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺。

少々進むと、大きな公園があった。
花川戸公園(台東区花川戸1丁目4-15)である。
ここにはいくつかの碑が立っている。

姥ヶ池旧跡の碑
ここに1891(明治24)年に埋め立てられるまで、姥ヶ池というかなり大きな池があった。池は隅田川まで通じていたと言われているので、相当な面積であったと推測される。
浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。
この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。
あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。
そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。
その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。                                     (「一ツ家伝説」・日本伝承大鑑より)
この伝説に出てくる「石枕」が浅草寺の子院・妙音院に所蔵されている(非公開)。


社に祀られているのは、福壽稲荷大明神である。

助六歌碑
1879(明治12)年、9世団十郎が中心となり、日ごろ世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、菩提寺の仰願寺に建立した。(大正12)年の関東大震災で崩壊し、しばらくは地中に埋没していたが、その後関係者の子息によって、この地に再造立された。
碑面には、『助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲』と刻まれている。
団洲は、9世団十郎の雅号である。
「助六」は歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番のひとつで、中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目である。
助六は実在の人物であるが、その実態は不明である。関東大震災までは浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間)に墓がある。

履物発祥の地碑
下駄、草履時代からの履物問屋が並び発祥の地として栄えている。
12月には履物のみならず、財布、小物、バックなどが販売される「花川戸はきだおれ市」が開かれ、賑わっているそうだ。
私も独身時代に一度父に連れられ靴の問屋に来たことがあり、それ以来よく足を運んでいた。
帰りは、銀座を通り、東京タワーまで歩いて帰った思い出がある。半世紀も前のことである。


公園の前の道を東に進むと隅田川沿いとなる。



訪れた日:2017.12.30



9社の浅草名所七福神を巡る

2018-01-01 06:18:35 | 東京散策
新年最初は、おめでたく「七福神巡り」をとりあげた。
七福神とは・・・。
大黒天・恵比寿・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋尊の七人の福徳の神をいう。
福禄寿・寿老人は同じであるとして、吉祥天を入れることもある。
七福神は室町時代末期に京都の町衆文化の中ではじまり、確立したする説が有力である。 但し、初期の七福神の構成は必ずしも一定ではなく、現在の構成が確立したのは江戸時代になってからといわれている。 
上野寛永寺の住職天海僧正の進言に従い、徳川家康が祭祀したものが、全国に広まり、固定化したともいわれるが、その間の事情については必ずしもはっきりとはしない。



浅草名所七福神巡り
古くは江戸時代末期に始まり親しまれてきたが、戦後一時中断、1977(昭和52)年に復活した。その際に寿老人と福禄寿が2社づつに追加され、9社で七福神を祀っている。


浅草寺<浅草観音>(大黒天・・出世、開運の神)
東京都内最古の寺で、山号は金龍山、本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。
浅草寺の顔である表参道入口の雷門は向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式な呼び名は「風雷神門」である。現在の雷門は実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願し病気平癒したための恩返しで寄進したものである。像は風神雷神像は頭部のみが古く他は補作している。また、門の背面には、「金龍・天龍」像が安置されている。
雷門からの参道の両側には、「仲見世」と呼ばれる土産物、菓子などを売る90軒ほどの商店が立ち並んでいる。寺院建築風の外観を持つ店舗は、に鉄筋コンクリート造で再建されたものであるが、現在賃貸料値上げの話題が生じている。
また、シンボリックな五重塔も鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きで位置を移動し、戦後再建された。








                    大黒天像が納められている影向堂(ようごうどう)

                           恵比寿・大黒天堂



浅草神社(恵比寿・・長寿の神・・商売繁盛、五穀豊穣の神)
三社祭で有名な通称三社様。社殿は徳川三代将軍家光が寄進した建物が現存しており、拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されている。








 
    
待乳山聖天(まつちやましょうてん)(毘沙門天・・病魔退散、財宝富貴の神)
正式名称は待乳山本龍院で、浅草寺の子院のひとつである。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音から待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称される。
この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は出現したもので、そこを龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号「金龍山」の由来となったと伝えられる。
待乳(まつち)は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海であったが、ここだけは真の土であったことで由来とする説がある。





                                広重の絵にも描かれた築地塀
大根まつり
お供えの大根を信者の手によってふろふきに調理されお神酒と共にふるまわれる。
当日は長蛇の列ができる。 




                                   1781(天明元)年製造銅製宝篋印塔(右)  



                        4人乗りのスロープカー

今戸神社(福禄寿・・知恵の神)
戦前合祀された白山神社の祭神に夫婦の神を祀っていることから、近年になって縁結びにゆかりがあるとアピールされている。また、絵馬もまんまるで、縁=円の語呂を合わせた形になっている。
江戸時代末期に猫の姿の焼き物を製作、それが今戸焼となったことで、招き猫の発祥と名のっている。
また、新撰組の沖田総司の終焉の地とされているが、それは他の地にもあるようだ。











橋場不動院(布袋尊・・家庭円満の神)
鎌倉時代以降は浅草寺の末寺であったが、今は比叡山延暦寺の末寺となっている。
数々の火災にも免れ、霊験あらかたな橋場不動尊として多くの庶民に信仰されている。現在の本堂は、1845(弘化2)年の建立である。
当寺の不動尊は相州大山寺の不動尊と一木三体のひとつである。
本堂右前にある樹齢700年の大銀杏、奥の細道へ深川から出発した松尾芭蕉も見上げたであろう。









石浜神社(寿老人・・長寿の神)
源頼朝が藤原氏討伐の折りに祈願し、大勝をしたことで社殿を造営されたと云われる。
隅田河畔の名所として江戸庶民の信仰厚く、「隅田名勝八景」「江戸名所図会」などにとりあげられている。 








石浜城址
室町時代中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に100年余り続いた城址である。天正年間(1573~91年)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に北条氏滅亡後廃墟となった。
石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地のひとつである・


𠮷原神社(旛上弁財天・・芸の神、在運を招く神)
祭神のひとりが市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、つまり弁天様であることは遊女が数多く生活していた吉原遊郭とともに歩んだ神社である。




 

新吉原弁財天池跡(弁天池)
境内入口近くに築山が設けられており、その上に観音様が祀られている。そこには「大震災殉死者追悼記念碑」がはめ込まれている。大火で逃げ場を失った遊女490人が犠牲となった。また、戦災で亡くなった遊女の慰霊碑も近くにはある。









鷲神社(寿老人・・長寿の神)
11月の例祭「酉の市(とりのいち)」は広く知られており、そのため「おとりさま」の通称でも呼ばれている。日本武尊が東征の折に戦勝を当神社で祈願したとされ、祈願した日が11月の酉の日であったことから、その日に祭礼が行われるようになり、それが酉の市のはじまりとされる。








「なでおかめ」 の云われ

おでこをなでれば賢くなり 目をなでれば先見の明が効き 鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就 左の頬をなでれば健康に 口をなでれば災いを防ぎ
あごから時計まわりになでれば物事が丸く収まる
と云われている。



矢先稲荷神社(福禄寿・・知恵の神)
徳川三代将軍家光公がこの地に三十三間堂を建立した。
三十三間堂では「通し矢」が行われたが、社殿が的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられた。今からおよそ360年前のこと。
しかし、約60年後に浅草を中心とした大火で焼失してしまい、三十三間堂は深川に移転を命ぜられた。












天皇誕生日2017皇居参賀

2017-12-23 18:15:23 | 東京散策
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平成天皇陛下への参賀は数年前から実現したかったことであった。
予定では2回目のお出ましを目標にして家を出たのだが、運悪く1回目の最終グループになってしまった。
手荷物検査に続き、新体検査。ここでは万歩計が反応した。
長い行列の末、中門から宮殿前の広場に着いた時には皇族方々はお出ましになっており、あっという間の参賀であった。
参賀者は午前中だけでも昨年を上回ったようだ。

参賀は1956年の二重橋事件以来のことであるから、実に60年ぶりのことになる。それ以前にも2度ほど親に連れられて来ていた。それで事件当日の混雑は異常なことを子供心にも感じた。
その時は参賀はせずに人混みの中からやっと抜け出して帰宅した。帰宅してから重大な事故が発生したことを知った。

訪れた日:2017.12.23