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赤穂浪士討ち入りの日に因み ふるさと平間周辺散策

2009-12-14 20:52:10 | わがふるさと
「拙者宿所は平間村にあい究め候間、此所より同志の衆中へ、自身諸事申し談べき事」
浅野家国家老大石良雄はこの書き出しで討入令書を江戸の同志へ発した。

今日、12月14日は赤穂義士四十七士が吉良邸に討ち入った日である。我がふるさと平間村も赤穂浪士ゆかりの地となっているので歩いてみた。     


武州平間村の隠宅 屋敷、前面右端が浪士の隠家
赤穂浪士と軽部五兵衛の関係は「平間の渡し」(クリック)で触れているのでここでは省略する。
大石良雄等一行8名はここ平間村に10日間滞在している。この滞在中に討ち入りのための10ヶ条を起草するなどして十分なる確認と準備を固めた討ち入りへの重要な期間であったようだ。

称名寺の斜向かいの軽部五兵衛の屋敷跡には「義士隠家之跡」の碑があったが現在は県営住宅の団地になって今は跡形なし


称名寺は平間山歓喜院と称する浄土真宗大谷派の寺院 赤穂浪士の遺品と伝えられる品を30点余所蔵している 
称名寺では年に一度だけ12月14日に赤穂浪士の遺品と伝えられる品々を一般公開しているので訪ねた。
称名寺は昭和20年4月の川崎大空襲により残念ながら消失してしまったが遺品は農家の土蔵に預けてあったため消失を免れた。
遺品は大石良雄愛用のおかめの面(木製)と書、富森助右衛門愛蔵の銚子と盃、浪士の書簡などがある。
展示だけではなく本多住職の丁寧な解説やNHKの大河ドラマ赤穂浪士作品の平間村が出てくる回のビデオ上映などがあった。
今年の見学者は例年になく多く訪れているようで住職も驚いていた。このあと称名寺から泉岳寺に向かう見学者もいるようで交通手段を訪ねている人もみうけられた。この日だから出来る「赤穂浪士見学のはしご」かも知れぬ。
また神奈川新聞の若き美人記者が一眼レフのシャッターを切ったり住職にインタビューをしている姿もあった。

          
          紙本着色四十七士像
四十七士像の詳細は川崎市教育委員会の解説(クリック)に委ねる。
討ち入り後41年後にこの四十七士像の掛け軸は描かれている。但し描かれているのは46人で寺坂吉衛門が欠けているのだ。それは討ち入り後本懐を遂げ泉岳寺に参ったときには抜けていたからだ。何故抜けているかは諸説あるようだ。


北加瀬日蓮宗頂竜山了源寺山門 山門手前に軽部五兵衛一族の墓 向かって左端の墓石が五兵衛の墓碑。


銚子塚 赤穂義士冨森助右衛門から大工渡辺喜右衛門が別離にもらった銀の銚子を義挙後弔うため埋め銚子塚とした
南武線平間駅西側、銚子建設の裏手に小さな鳥居があってそこに奉られている。



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