あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

鵠沼皇大神宮例大祭2016

2016-08-27 13:40:16 | 神奈川民俗芸能
東海道・藤沢宿の西に位置するところに鵠沼・本村と呼ばれる地域がある。
現在は神奈川県立湘南高等学校があり、その南西には832年、社殿造立の皇大神宮(烏森神社)は建っている。その皇大神宮の例大祭が8月18日に行われた。



午後2時に9つに分かれている各町内の山車が集合、参道を進み社殿前の広場でお囃子の競演が行われる。
お囃子の曲目は各町内同様な囃子が伝承されているが、その曲目に大きな差異はないと云われる。



一番 宮ノ前町内会
                 人形:那須与一 製作:1887年(明治20年)頃







おかめのパフォーマンス


二番 上村(かむら)町内会
                 人形:源頼朝 製作:1884年(明治17年)





三番 清水町内会 
                 人形:神武天皇 製作:1890年(明治23年)頃





四番 宿庭(しゅくにわ)町内会
                 人形:源義経 製作:1892年(明治25年)頃





五番 苅田町内会
                 人形:徳川家康 製作:1887年(明治20年)





六番 大東町内会
人形:楠木正成 製作:年不明




                
七番 中東町内会
                 人形:浦島太郎 製作:1897年(明治30年)







おかめ・ひょっとこのパフォーマンス

八番 原町内会
                 人形:日本武尊 製作:1891年(名治24年)頃







カラス天狗のパフォーマンス


九番 堀川町内会
                 人形:仁徳天皇 製作:1908年(明治41年)頃







山車は、三層人形固定式で、下段は破風屋根で精巧な彫刻が施され高さ8m及ぶ総ケヤキ造り。前面は囃子の座になっている。廻り舞台となっていてかなりのスピードで回転する。。車輪は4輪固定していて、旋回は補助輪を軸の下へ入れて行う。





お囃子を演奏する顔が輝いている。
古くから伝わる芸能がある町に住む人たちを山林を切りひらいて造成された町に住む私は、うらやましく思う。
その土地に住む人にとっては、運営資金や人口減など悩む点は多々あるとは思うが末永く続けていただきたいと願う。

訪れた日:2016.8.17


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海南神社例大祭神輿渡御2016

2016-07-28 14:37:34 | 神奈川民俗芸能

提灯に吊り下がった南部風鈴の音が蒸し暑さを吹き流してくれる




先頭を一本歯の天狗が従者を従えて歩き稚児が続く



山車2基も木遣の歌い手によって進行する






胴幕長さ30mの雄雌2頭のお練り獅子が続く


お練り獅子の後は神社神輿1基に続き町内神輿2基が渡御する。
 
神主により神事が執り行われる

神社神輿







入船地区神輿
入船(入舩)は海南神社の南側の地域







仲崎地区神輿
仲崎地区は入船地区の南で東に海を接する地域である。

数人の浴衣の歌い手の木遣によって神輿が運行する






三崎昭和館
6年前に空き店舗であった蔵造りの商家を利用して三崎の伝統芸能・チャッキラコ(国指定重要無形民俗文化財)の資料や昭和の生活資料を展示している施設である。
月々展示内容を代えており、今月は海南神社例大祭関連の衣装等を展示している。










京急三崎駅からバスで15分、乗客が多くひとバス待つ状態だった。道路も混雑しており所要の2倍かかって三崎港で下車する。その乗客殆どが三崎のマグロ目当ての客であった。
祭りの写真を撮っていても地域外と思われる人物はほんの数人と思われた。
神社の創建は今から1100年以上と云われるので祭りの歴史も古いと想像する。本来の祭りは海上渡御であったが事故が発生したため陸上となった。
祭りのファイナルは神輿の宮入りであるが、木遣の歌い手と神輿の担ぎ手の駆け引きで、以前は宮入りが翌朝にまで及んだこともあったと聞く。
この祭り、TVの「日本の祭り」で紹介されて伝統ある行事に老いも若きもエネルギーを発散させることを羨ましく思い訪れた。


訪れた日:2016.7.17

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三崎海南神社例大祭 お練り獅子

2016-07-19 12:04:28 | 神奈川民俗芸能











うみの図                              天の岩戸の図


三浦三崎港近くに1150年前に建立された海南神社夏の例大祭が海の日前の土・日曜日に開催された。
ここの祭りの特徴は雌雄2頭の獅子が先導することと木遣歌によって祭りが進行することである。


本宮 866年この場(花暮)に祠が6年後に海南神社社殿が建てられる

祭りは2日間行われ、初日は宮出しして町内を回り、祭神が上陸された御座の磯海に設けられた仮宮(お仮舎)で終了する。
訪れたのは2日目で仮宮から町内を回り宮入りをする。



行導獅子
雌雄2頭のお練り獅子が悪魔はらいをつとめる。神輿と獅子は神社の社殿と狛犬の関係に当たると云う。



獅子の胴にあたる幕は長さ30mにも及び、その幕を両側を持って木遣歌に応えて威勢よく行動する。






">
細い路地にも()、民家の家の中にも()入って行く。






時には坂道を駆け上がることもあった。動きが激しいので殆どが若い衆が受け持っている。そして時にはアクシデントも発生する。








訪れた日:2016.7.17

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三崎"チャッキラコ"2016祭礼を観る

2016-01-26 18:55:12 | 神奈川民俗芸能
チャッキラコという小正月の行事が、毎年1月15日に三浦市三崎町の花暮・仲町地区で行われている。
4、5~12歳までの踊り手の少女たちと母親や祖母たちによる唄い手で構成されいている。
揃いに着物を着た少女たちは、6曲の素唄に合わせてチャッキラコや扇子を持って踊る。踊り手は20人ほどと云われているが、今年は30人近かった。
当日、会場での説明でチャッキラコとは、綾竹のことと説明されていたが、その綾竹がいったい何なのかがわからず、知識がないので孟宗竹や真竹のように竹の種類かとも思ったが、調べるとこのようなことだった。
そこでまた疑問、「綾織りの曲芸」とは何なのかである。それを調べると、「放下師(ほうかし)などのする曲芸の一種。 数本の竹を投げ上げて受け取る技。」とある。
ここに出てくる放下師の「放下」とはいったい何なのか?だんだん深みのはまってしまった。
放下とは「中国から渡来した田楽から転化した大道芸。品玉(しなだま)・輪鼓(りゅうご)などの曲芸や手品を演じ、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小歌などをうたったもの。」ということだ。
ここで疑問追及はやめておく。そこで綾竹とは「大道芸で使う道具のひとつ」のようである。また、放下師は室町中期、およそ千年ほど前に発生。現在では、その名は絶えている。
こちらでは、その綾竹(綾織竹とも云う)に色紙を螺旋形に巻き、端に同色の房をつけているとのこと。

祭礼の開始は、花暮地区に祀られている本宮への奉納である。











そのあとは海南地区の海南神社に奉納。









午前最後は仲崎地区の三崎昭和館前で行われる。







ここは、蔵造りの商家を利用し、チャッキラコの資料や昭和の生活用品を展示している。

 


午後は海を望む花暮竜神様にも奉納する。


こちらでは、烏帽子をかぶった衣装で踊ると昭和館で説明を聞いた。
          

三崎には花暮、仲崎、海南など7地区あって、海南神社の夏祭りでは7地区が持ち回りで「獅子番」と「神輿番」を執り行っている。この祭りも他にはない内容で、素晴らしいものある。
踊りは、はついせ・チャッキラコ・二本踊り・よささ節・鎌倉節・お伊勢参りの6曲で、全てを踊ってチャッキラコと称するようだ。

起源として、ふたつの伝説があるが、
ひとつは、源頼朝は三崎に三別荘(桃の御所、椿の御所、桜の御所)を所有しており、そこへ赴いたある日に、頼朝が、海辺で磯取りをしていた親子連れの女に踊りを所望したところ「私は年老いたので代わりに娘に踊らせましょう。」と、小竹を持って即席に娘が踊り、母が歌ったとされている。【綾竹伝説】
あとひとつは、海南神社の祭神藤原資盈(すけみつ)の奥方盈渡姫(みつわたりひめ)が村の娘に教えたという伝説である。【扇伝説】
藤原資盈とは、藤原鎌足の後裔(こうえい)にあたり、皇位継承争いで謀反人の濡れ衣を着せられ 、864年九州を船で脱出、途中シケに遭い、三崎に漂着した。当時、房総の海賊に三崎の人々は苦しめられていたのだが資盈がこの海賊を平定して地元民を守ったという。資盈が没すると祠(ほこら)を建てて祭った。祠は現在の本宮の場所に建立されたという。
                
1756(宝暦6)年、徳川九代将軍家重の時代に三崎史に「15日女児集り踊る」という記述があるので、江戸中期には大漁祈願の祝いの踊りとして行われていたようだ。
          
チャッキラコはユネスコ無形文化遺産に登録されている。
たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式であることと選定基準があって、日本では、能楽・雅楽・歌舞伎・京都祇園祭の山鉾が認定、最近では和紙がある。
チャッキラコは、これらと同列されるのだからすごい祭礼なのだ。
大手の旅行会社も観光バス2台仕立てている。昼飯はマグロかな。
          
この祭礼の見物は昨年予定していたのだが、風邪で半月余り外出を控えたので今年になった。また、この神社の夏祭りが素晴らしい。
「お練り獅子」と知られる伝統ある祭りで、神輿を先導する2頭の獅子が、木遣り(きやり)に合わせて悪魔や災いを祓いながら商店街や住宅地を勢いよく練り歩く。
2日目の宮入がすごく、最近では、道路交通法の関係で午後9時までに境内に入り、深夜12時までにお宮に納める決まりになったそうだが、昔は日付が変わることもザラの様だ。この時間までは無理としても初日だけでも見物したい。

訪れた日:2016.1.15


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鎌倉御霊神社の例祭と面掛行列

2014-09-18 18:05:14 | 神奈川民俗芸能
鎌倉・御霊(ごりょう)神社の例祭と面掛行列が9月18日に行われた。
坂ノ下にある御霊神社は通称、鎌倉権五郎(ごんごろう)神社として知られている。9月18日は権五郎影政の命日という。
          
JR鎌倉駅西口を降り立ち御成通りを南に行き、観音大通りを西に向かい、六地蔵・味わいある鎌倉彫店・庚申塔前を過ぎて25分、長谷観音前の交差点に着く。左折してすぐ右の路地が御霊神社の参道であるが、最近はそのまま長谷観音の参道を直進して、駐車場西角の出入口を出て向かうルートを覚えた。
だが、フェンスが更新されていて、出入口はあるものの常時閉鎖されていた。前を歩いていた御仁も同様だったようで、戸惑っていた。
紙垂(しで)を荒縄に挟んだ飾りが、参道を這わして祭を知らせていた。
御霊神社の創建は、平安時代後期とされており、元は関東平氏五家の始祖である鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏の霊を祀った神社であったとされていて、五霊神社と言われていた。
その中で、源義家の臣で、相模の武士・鎌倉権五郎が後三年の役での武勇が広く知れ渡り、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神が集約され、五霊から御霊と名も変わり、祭神の名から権五郎神社と呼ばれる。
  
   鎌倉権五郎神社の扁額     海側の参道は江ノ電が横切る


>祭礼の儀 
拝殿内で40分ほど祭礼の儀が執り行われた。
 

        

鎌倉神楽(湯立神楽)
鎌倉神楽は湯立神楽ともいわれ、鎌倉・藤沢・横浜南部で、清め、祓いを中心とした12座が舞われる。
後段、「かき湯」が笛・太鼓・大胴の演奏で演じられたが、この舞は、煮えたぎった湯釜を御幣(ごへい)で掻き回し、渦を生じさせる。その渦の中に発生した湯玉の上がり具合によってこの年の吉凶を占う。
今年の結果はというと、「メガネが曇ってよく見えなかった。」とのことだった。
          

 

 

 

伊勢神宮の式年遷宮の時には、トップバターで神楽を奉納したという。

面掛行列・神輿渡御
神奈川県無形文化財に指定され『はらみっと行列』とも言われる。
笛、太鼓のはやし連中の後に白い幟旗(のぼりばた)の竹をかつぐ白装束、わらぞうりばきの少年が、そのあとに猿田彦(さるだひこ)が天狗面をかぶって先導、枠に載った獅子頭(ししがしら)が続く。
そのあとに続くは、爺(じい)・鬼・異形(いぎょう)・鼻長(はななが)・烏天狗(からすてんぐ)・翁(おきな)・火吹男(ひふきお・ヒョットコ・火男)・福禄寿(福禄寿)・おかめ・女の順の十面である。
おかめが「はらみっと」、つまり孕み女(妊婦)で、続く女は「産婆」である。
また、福禄寿は、鎌倉・江の島七福神に含まれている。







おかめの腹に触れると「安産祈願」となる





「鎌倉天王唄」によって神輿渡御が行われる。
ルーツは伊勢音頭で、鶴岡八幡宮造営の折、材木座海岸に海上輸送された木材を、この唄を勇ましく歌いながら境内まで運んだ。その後天王祭で天王唄として歌われるようになった。
         私しゃ 鎌倉 荒波育ち 波も荒けりゃ 気も荒い
         相州 鎌倉 けさ掛松は 幹は 枯れても 名は残る


                 

天狗と十面


先導の猿田彦と同一視される天狗

  
一番 爺                  二番 鬼                 三番 異形

 
四番 鼻長              五番 烏天狗 

 
六番 翁               七番火吹男             八番 福禄寿

 
九番 おかめ              十番 女


面掛行列は鎌倉時代初め、京都の石清水八幡宮に倣って、鶴岡八幡宮で始まったが、明治に入って、仏教的神号の「八幡大菩薩」を政府によって禁止されため、面掛行列が御霊神社に移された。
行列は、極楽寺坂下の虚空蔵堂前と星の井通りの交差点の間を往復する。
この祭りとともに鎌倉に秋が訪れる。
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和服美人のお札まき 戸塚八坂神社

2014-07-15 17:53:38 | 神奈川民俗芸能
「和服美人がお札をまいて歩くお祭り」という祭りの紹介があったので、これをタイトルに使わせてもらった。
 
『江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていたが、やがて消滅し、現在では東海道・戸塚宿だけで伝え残されている、八坂神社の夏まつりに行われる踊りである。
男子十数人が姉さんかぶりにたすき掛けの女装をして、すそをからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取りひとりは、ボテカヅラをかぶって踊る。
音頭取りの風流歌に合わせ踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊る。
踊り終わるとボテカヅラの踊り手が左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らす。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼る。
神社境内で踊り終ると、町内各所で踊り神社に戻る。』と神社の案内に書かれている。
 

          
「さあ来い子供 天王様は 泣く子が嫌い 囃すのが大好きで・・・授かったものは 病を除ける コロリも逃げる」などと囃す。
天王様とは牛頭天王のこと。コロリはコレラのことで、祭りは疫病除けや御霊会(ごりょうえ)であり、祇園祭ということのようだ。
 
「そろそろまこか」 と歌ってみせて、「まだまだまかぬ」とフェイントして風流歌ははじめに戻る。
その後「そろそろまこか」で、ボテカヅラの音頭取りは、お札を持った左手を高々と上げ、渋うちわで撒きはじめる。
それにつれて、まわりの踊り手も渋うちわであおぐ。お札はあおられて舞い上がる。
          
境内でのお札まきは10分ほどで終わり、町内を回る。

          
神社前の道は、旧東海道。道筋で境内と同様に風流歌を歌いながらお札が撒かれる。
お札は20カ所で600枚が撒かれると女装の踊り手が話してくれた。
          

 

                     

 
幼稚園生くらいの女の子が、手にしたお札をみせてくれた。その後、ラッキーにも1/600のお札をゲットした。
宙に舞うほどなので、100×16サイズの思いのほか小さなお札であった。

 
お札はお賽銭を出せば争わなくとも頂ける。踊りが始まる1時間前から列をつくって頂いている。
          

 
近くの空き地で本番前に練習をしていた。音頭取りはボテカヅラ、つまりは紙で作った張り子のかつらというのだが、どうみても一般的な普通の高島田のかつらのようだが。
   
ボテカヅラの音頭取りの方は、旧東海道でこんな仕事をしている方のようだ。この店の前でもお札まきが行われた。作業場の奥に飾られていた切絵を撮らさせていただいた。
 

八坂神社のお札まきは、横浜市指定無形民俗文化財で、毎年7月14日に行われている。
女装した男たちのお札まきのお祭が現代まで続いていることは、もしかすると始まった当初は女性が踊っていて、阿国歌舞伎のように色気がありすぎて禁止され、男たちが踊ることで面々と歴史を重ねることが出来たのだろうかと勝手に想像する。

屋台がバスセンター近くから神社まで延々と続いていた。

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大磯左義長・ヤンナゴッコ2014

2014-01-14 18:55:28 | 神奈川民俗芸能

セエトバレエとヤンナゴッコ


左義長当日、朝早くから大磯北浜海岸に、注連縄やお飾り、両眼の入ったダルマなどの縁起物が運ばれ9つの円錐型のサイトがつくられる。サイトはなまってセエトとか云われたり、オンベと書かれているようだ。
サイトは、道祖神が祀られている1~9番所ごとの9つがつくられている。
         

そもそも、この祭りの由来は、昔この辺りで目一つ小僧と呼ばれる厄神が、村人のおこないを帳面に書いてまわっていたところ、夜が明けてしまいあわてて帳面をセエノカミサンに預け、そのまま帰ってしまった。
帳面を預かったセエノカミサンは困り果て、自分の家とともに帳面を燃やしてしまう。
という話からきたという。

カウントダウンの掛け声とともに そのサイトに、定刻に火が点けられる。
火は代々家に、火付け役は受け継がれ、火付け役の家の人が点けると関係者が話されていた。しかも、点火はその年の神様がおられる恵方から行われると云い、東方向から点けていた。今年の恵方なのかだろう(厳密によると今年の恵方は東北東やや右ということだ)。
定刻6時、点火された火はあっという間に広がった。9つのサイトに一斉に火がつけられている。セエノカミサン(道祖神)の火祭り、セエトバレエの開始だ。
今年は点火時刻が1時間早まった。来年は解らないと云う声を聞いた。遠くから来た私のために”おもてなし”をしてくれたのかと手前ミソで思ってしまう。

点火









最上の飾りまで火が点いた
今年の左義長は、大磯だと昨年の鎌倉八幡宮の左義長を終えてすぐに決めていた。それをセエトカミサンがお聞き頂いたのだろう。おまけに地方版の新聞から情報も頂け有難いことである。
来年の左義長も当然決まっている。
                    関連 : 鶴岡八幡宮左義長2013
                        : 鎌倉荏柄天神左義長2013

大磯の左義長は、単に小正月の火祭りだけではない。
サイトの火が燃え盛るころにヤンナゴッコが始まる。
                   
若い衆やメタボなむかし若い衆が下帯び姿で木ソリに載せたセエノカミサンの仮宮を壊して海に引き入れる。さらに海方の若い衆とお陸(おか)方の観衆とが木ソリの前後に分かれた綱を引き合いはじめる。
仮宮には、その町内の1年の災いを閉じ込めているとガイドが説明していた。仮宮を第4番所で見たが、ほぼ四角の宮で網が巻かれている。
つぶされた仮宮を乗せた木ソリは、これでもかというほど何度も何度も、陸と海を往復していた(実際には海に3回、陸に3回引きあうようだ)。
私も陸組に入って綱引きに混ざったが、砂にまみれて、汐の香りがする綱は重かった。前年の災いを捨て、新しい福を呼び込むのであろう。





浜での引き合いを終えると、宮入である。
木ソリの上に海に入った若い衆を乗せて、観衆の面々が綱を浜から神社までを曳いていくのである。
幾つの木ソリが出たか分らぬが左義長が始まる前には浜で2機、神社で1機を見ている。
私が見た木ソリは北下町の浅間神社付近の旧東海道に路地から出てきて、旧東海道を上下に浜と同じ動作を若い衆を乗せて、繰り返し繰り返し行った。一気に引かれて、若い衆が木ソリから転倒する場面もあった。





一定以上進まぬように電柱に縄をくくる
 
上りに或いは下りに方向を変える前には、木遣や甚句のような歌がうたわれる。どこかで聞いた歌だなと思ったら、伊勢音頭が入っていたようだ。
♪ 伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ  尾張名古屋は城で持つ 
 お前百まで  わしゃ九十九まで  共に白髪の生えるまで 

そこが終わると大磯駅に通じる道を1本渡って、道祖神社の前の路地に入って、再び路地を上下する。
いいかげん若い衆を乗せて走り、木ソリも疲れたのか、木ソリの下の鉄プレートが外れて、直に舗装道路を滑って走り、焦げ臭くなった。それに、長い間下帯一枚の若い衆は風邪をひかないかなと余計な心配も出るくらいである。
           

           
ようやく、気勢をあげながら道祖神社に入って行った。
最後は、シャンシャシャンではなく胴上げで終わる。
終わった後に木ソリを見ると、ヤンナゴッコの宮は、若い衆の尻の下になって、残っていた。 





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大磯ななとこまいり(左義長)2014

2014-01-13 18:05:54 | 神奈川民俗芸能
およそ400年以前から続くと云われる、大磯町の道祖神(どうそじん、どうそしん)の火の祭・左義長が1月12日に北浜海岸で行われた。

この左義長に先立って、3日にかけて、各町内ごとにある道祖神、七ヶ所を参る「七所参り(ななとこまいり)」が行われていた。明治末に道祖神は、一ヶ所増えて八カ所になると「七所参って八所 (やあとこ) せ」などと言われるようになった。最近になっては、九ヶ所となった。
この地方では、道祖神を「セエノカミサン」と呼ぶそうだ。道祖神の呼び名のひとつである「塞の神(サエノカミ・サイノカミ)」がなまったのではとも云われる。
村や集落の境や村の中心、道の辻(三叉路)などに石碑や石像の形で祀られ、はじめは道の安全の神であったものが、子供達の守護神となり、更に男女生殖神にもなった。
大磯の九ヶ所のセエノカミサンは、旧東海度沿いに祀られている。

第一番所  南下町坂下
国道1号線の照ヶ崎海岸入口信号を海岸側へ80m入った交差点を左に曲がる。この道が旧東海道である。少々歩いた左手奥の住宅に囲まれるように第一番所がある。
朱い鳥居と祠がある小さなもの。ここのセエノカミサンは石の御神体ではなく、御弊(ごへい)。





海岸につくられた第一番所のオンベ(セエト・サイト)


第二番所  南下町浜之町  住所:大磯142付近
第一番所から平塚方面へ進む。右手の芦川酒店の角を入ると、第二番所がある。
社と鳥居は石造りのもの。
左の赤い屋根の社は、お稲荷さん。
この道祖神の左隣に、もうひとつ鳥居が付いた空の社がある。これは一体何だったのか。



御神体 双体道祖神



第三番所  南下町大泊 熊野神社  住所:大磯1532
更に平塚方向へ歩くと、左手に熊野神社がある。
三番所はこの境内にある双体道祖神で、銘文、年代は不明。






第四番所の二  南下町子之神
そのままずっと旧東海道を平塚方向へ歩く。熊野神社から、海側最初の路地を入る。この路地は防潮堤を潜るのだが、その手前左側にある防潮堤に昇る階段があり、左脇に第四番所の二がある。鳥居も、お社もなく、双体道祖神の輪郭が解る石柱が露座の状態で置かれている。
現在は、祠が次の「第四番所の一」に新設されている。


第四番所の一  南下町子之神  住所:大磯1545付近
旧東海道に戻り、左手すぐの路地を入る。両手を広げられないほどの路地を50mほど進むと、第四番所の一がある。旧東海道からは社は見えず、案内もないので解りにくい住宅に囲まれたところにある。
祠が3つ、どれが道祖神が祀られているのか解らない。多くの道祖神が左義長のために海岸に移動しているので空の社がそうであろう。






第五番所  北下町中宿
平塚方面へ進み、右手ふたつ目の路地を海側へ入る。ここも防潮堤上の道沿いに五番所がある。






第六番所  北下町浅間町  住所:大磯1592
旧東海道をさらに平塚方面へ。道沿い左手にに浅間神社がある。木の傍らに祠があり、中の石には「庚申」と書いてある。




第七番所  北下町大北 塞神社  住所:大磯1681
大磯駅入口の交差点に通じる道を横断する。すぐ右手に第七番所がある。その名の通り道祖神社である。
左義長の準備をしている関係者に聞いたら、左義長はここから始まったという自負があるようだ。だが、肝心の道祖神は盗まれてないとのこと。
だが、案内板には「祭神は猿田彦命社殿内に祀る」とある。真偽はどちら。






第九番所  山王町日枝神社境内  住所:大磯1825
そのまま旧東海道を進んで、突き当たった日枝神社が、第九番所である。ここは、ここは庚申。
境内右手に沢山の庚申塔が祀られている。





右から2番目が青面金剛、左義長のシンボル



第八番所  長者町老人憩いの家前  住所:大磯1922-22
第九番所が先になったが、第八番所は日枝神社の前の道を海側に進み2つ目の左折し、山王町信号機の道と交差する角にある。
道祖神は既に海岸に移動して祠内には団子が置かれていた。双体道祖神が祀られている。テントが張られ、提灯が飾られている。








左義長開催の前日、新聞の地方版に左義長に関する記事が載っていた。
『大磯の「左義長」存続ピンチ』『毎年の運営費、地方住民の負担に』『保存会、清酒販売し資金集め』との見出しで報道されている。
これによると、この祭りの準備や運営を担ってきたのが、地元の約400世帯だ。親から子へノウハウは伝承してきたものの、材料費など毎年2百万円が毎年負担となっている。各戸で1~5千円工面しているが、高齢化も進み支えられなくなってきた。
そこで清酒「大磯左義長」の売り上げの一部を運営費に充てることとしたと云う。
たまたま第1番所と第2番所の近くで店を構える芦川酒店のご主人と話ができたのだが、自治体に資金援助を陳情しても政教分離で援助はできないと云う。「国指定の重要無形民俗文化財」に指定されていても、金を出すとなると建前論がでてくるようだ。政治家は使い分けが上手である。
この辺りは、5千円どころか7~8千円負担しているとも話された。
報道のおかげか、ここの酒店では、予定の販売数を終了したと喜んでいた。これからも協力者が続けて頂きたいものだ。
 



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牛込の獅子舞

2013-10-15 21:10:42 | 神奈川民俗芸能
神奈川県・横浜市指定無形無形民俗文化財
牛込の獅子舞


先週の川崎市宮前区菅生の初山獅子舞に引き続き、今週は横浜市青葉区に祀られている驚神社の牛込の獅子舞を見物に行った。

         

牛込とは、現在の横浜市青葉区美しが丘、あざみ野や新石川と言った地域の旧名で、江戸時代にさかのぼると、武蔵国都筑郡石川村で小字に牛込の地名がある。
その石川村は徳川二代将軍・秀忠の正室・江姫の化粧料地となっている。江姫が亡くなった時は、石川村など化粧料地の村々から、江姫の棺を担ぐ人々が結集したと云う。その後は芝・増上寺の御霊屋領(みたまやりよう・徳川家の菩提を弔うための費用を賄うための領地)になった。
旧石川村の金剛山満願寺(青葉区あざみ野4-27)には、江姫と、夫・秀忠の位牌が安置されている。

驚神社の由緒によると、創立は不詳だが奈良時代に造られたとの伝承があり、石川牧の鎮守と云われる。その当時のこの地域は、一定地域の農民が共同で使用した秣(まぐさ)を刈り取る草地であって、御料牧場もあり、朝廷に献上する馬を飼育していて、馬が大事にされていた。
秣場は、1939(昭和14)年、横浜市に合併当時まで残っており、直線コースで200mぐらいの競馬場もあって、第2次世界大戦前まで草競馬も盛んに行われていたとも云われる。
神社前の道は鎌倉街道にあたり、鎌倉時代には、源頼朝の名馬・するすみと畠山重忠の名馬・三日月もこの石川村から献上されたと伝えられる。
石川村は、名馬が生産された場所から「馬を敬う」の二字を合成して「驚」となったという社名の由来もある。
漢字と云うものはうまくできているなとつくづく思うが、逆に「驚」には、「馬を敬う」意味合いが全くないことも不思議である。
話は逸れるが「峠」と云う漢字、これは日本(大和国)で生まれた文字だが、漢字の造り方も意味合いもそのものズバリだと思う。こんな漢字も造られているのだから不思議だ。漢字は中国からの伝来ばかりではなく、日本で想像した文字もあった。
         
      
そういった歴史を背景の地域に、牛込の獅子舞が神社に奉納されている。
神社にたてられている市教育委員会の説明によると、
『この獅子舞は関東・東北・信越地方に分布する一人立ち三頭獅子舞の横浜における代表的な存在。約300年前、元禄年間の悪疫流行の際に始まると伝えられている。
獅子頭は三個で、剣角(けんかく)と巻角(まきつの)を持つ雄獅子二個と宝珠(ほうじゅ)を戴く雌獅子一個である。鶏の羽で飾り、赤い布が垂れている。
獅子の舞手三人は裁著(たつつげ)・白足袋・草履履きで締太鼓を胸につけ、バチを打ちながら舞う。その他に、はい追い(幣負い)、ササラ子、万灯持、小万灯持などの役目が加わる。
この他にホラ貝三人、笛数人、歌上げ数人は大人で古老があたる。
当日は獅子宿で支度をして、道行きの曲に合わせて神社まで練って行き、神前に祭詞を述べてから曲に合わせ三角形になったり、一列になったり、また円形になって舞う。』
とある。





舞は道行(みちゆき)からはじまる。
幣負い(へいおい)が大万灯を従え参道の階段を上がり境内に入る。
『ヨイヤサノ、コレハイサ、ドッコイサ』の掛け声をかけながら拝殿前まで進む。
祝詞(のりと)を奉上すると三匹の獅子舞い開始される。
 
         
五穀成就、天下泰平、悪霊・疾病退散を願って舞う。
前半は岡崎、入庭(いりは)、御舞(みまい)、舞つめと、笛によって各曲が流れて三匹の獅子と幣負いが舞う。
         
         
         
         
         
間に休憩が入り後半は、歌も交る。
『わが国でわが国で、雨が降る気で雲が立つ。おいとま申していざ帰られる。おいとま申していざ帰られる。』で最後の舞となり、ホラ貝の音を合図に終わる。
         
         
         
         


牛込の幣負いは天狗の面を以前は被ったが最近は持つようになった

舞終えると祭神に向かって礼をしたあと、ホラ貝に導かれながら、大万灯持ち、小万灯持ち、ササラ子、笛方、獅子、笛方たちの順で列をなして、ゆっくりと屋台が立ち並ぶ細い参道を降って、神社前の鎌倉街道へと出てゆく。



舞に合わせて演奏するササラ摺であるが、簓と書くが、風流系の獅子舞などで使用する楽器のこと。
ここで使用しているササラは、先を細く割ったササラ竹と、のこぎりの歯のような刻みをつけた棒のササラ子とをこすりあわせて音を出す棒ザサラ(摺ザサラ)タイプである。 余談であるが、富山のこきりこ節で使用されるのは、板を連ねたビンザサラと云われる。また、北海道の冬の風物詩でもあるササラ電車もこれを応用したものだ。
  
         

神社下の通り、鎌倉街道では保木、平川、荏子田、船頭、宮元の各谷戸から旧村社に大太鼓、お神輿、お囃子連が繰り出している(獅子舞終了前には終わっている)。



         
         
          

牛込の獅子舞は、丘陵を隔てた川崎市宮前区菅生神社の初山の獅子舞と芸態や歌詞が酷似しており、18世紀中頃に移入されたと推定さているが、印象は全く別の獅子舞と受けた。
それは、牛込獅子舞にはササラ摺、大万灯や小万灯が加わって、土俵のないところで舞うと云う相違点もあるが、画像を比べると判るのだが、役目の多さの違いだけではなく、全体の色彩の鮮やかさと云う視覚に訴え華美な印象を大きく受けたことによる違いが大きい。
初山の獅子舞の移入の時期が元禄時代と云う時代背景で大きく変わったのではないかと素人ながら感じた牛込の獅子舞である。
ただ、舞の形は初山の獅子舞よりも単調と感じ、雌獅子をめぐって2匹の雄獅子が争う絡みもこの舞にも表現されているとのことだが、それは感じ得なかった。


牛込の獅子舞は、新石川の驚神社で日曜日に、その前日の土曜日には驚神社から1km北西に祀られている神明社の宵宮で神前に奉納される。
更に400mほど先に江姫と夫・秀忠の位牌が安置されている満願寺もある。
         


                           関連 : 初山の獅子舞

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初山の獅子舞

2013-10-07 17:31:19 | 神奈川民俗芸能
田園都市線宮前平駅から1時間に1本の川崎市バスに乗って10分余りの菅生(すがお)中学校で下車。大都市川崎なのに何故に1時間に1本きりバスがないのだろうかと不思議に思いながら乗って行った。

鳥居をくぐると狭い参道には屋台がぎっしり、お祭の大きさを物語っている。
宮前区菅生二丁目に鎮座する菅生神社、住時は若宮八幡大神と称して、元武州橘樹郡下菅生郷、ジ蔵敷の鎮守であった。1233(天福元)年、同郡平村白幡八幡大神からの分霊を奉斎して創建された。
明治の末に小字初山の正八幡大神、長沢の神明神社、水沢の旭稲荷神社、枝谷の御嶽神社など15社を合併して菅生神社と改称し菅生全域の鎮守となった。
獅子舞奉納の前に子供みこしの宮入りがあった。
 

初山の獅子舞は、3頭の獅子と幣負い(へいおい)からなる。

獅子は2頭の雄獅子と1頭の雌獅子からなる。
雄獅子は角が剣の形をした剣獅子、角が捻じれている巻獅子と呼ばれる。
雌獅子は玉(たま)獅子と呼ばれる。





上から剣獅子、巻獅子、玉獅子

幣負いとは御幣(ごへい)を担いで先導するのでそう呼ばれ、この神社では、天狗面をつけている。
御幣とは幣束(へいそく)の敬称。白色や金・銀の紙などを細長く切り、幣串(へいぐし)にはさんだもの。お祓いのときなどに用いる。おんべ、おんべいと呼ぶ。

舞は境内に設けられた15尺(4m55cm)の円形土俵を舞場として行なわれる(大相撲と同じ土俵の広さ)。

         
前半は篠笛のお囃子で進行する。後半は歌もはいる。
岡崎・入端・渡り笛・変り笛などいろいろなお囃子によって舞う。




 
間に休憩も

観客から投げられたおひねりを元にサイコロ賭博が開かれ天狗が独り勝ちをする。
 

         
終盤のハイライトは1頭の雌獅子を巡り、2頭の雄獅子が争いを始める。
 

争いは天狗の仲裁で和解となる。

納めの舞で初山の獅子舞は幕となる。



初山の獅子舞は、身体を低くして地を這う動作とその動きの素朴さが特徴であり、古い形式を伝えるものと思われる。
江戸時代初期の製作と考えられる獅子頭が保存されていることから、その頃からすでに行なわれていたと思われ、現在は10月最初の日曜日の例祭に菅生神社に奉納されている。
菅生神社に合祀される前にはこの辺り5カ所の鎮守で舞が行われていたという。
ある資料によると、
『3頭の獅子舞は関東から東北、北海道にかけての東日本にだけ広く分布する特徴がある民俗芸能で、その数1,400カ所とされている。
とりわけ武蔵国(埼玉、東京、神奈川東部)は獅子舞王国ともいわれる。現存する数300を超えるようだ。
この舞は徳川幕府の成立当初から江戸を中心にはじまり、これを東国の領主が限られた村々に伝えさせたと推定される。』
とある。
神奈川県内も無形民俗文化財の指定されている同様な獅子舞としては、
横浜市青葉区の神明社・驚神社の牛込獅子舞、鉄(くろがね)神社の鉄の獅子舞が、川崎市には幸区の八幡大神の小向の獅子舞、多摩区の子之神社・薬師堂の菅の獅子舞がある。
それと江戸時代武蔵国の領主の飛地であった相模原市緑区でも御嶽神社(下九沢の獅子舞)、諏訪神社(鳥屋の獅子舞)、諏訪明神(大島の獅子舞)に3頭の獅子舞があり、また県央の愛川町にもあって、県内では9カ所を数える。

福島県内にも3頭の獅子舞が残されている。
が、東電の原発被害によって地域住民が散ってしまい継承者がいなくなったと云う報道もある。
放射能被害は伝統芸能の継承まで脅かしている。


                                      参考資料:川崎市教育委員会
                                             神奈川県 ほか
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