あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

奈良名所の桜めぐり

2019-04-06 11:05:25 | 観光
奈良名所のをめぐる

興福寺




奈良公園


東大寺



山門前


大仏殿






鐘楼手前




法華堂


二月堂


若草山


春日大社






新薬師寺







この日の天候は、すごくて晴や曇りもあれば、雨もあった。奈良公園ではミゾレも降った。

訪れた日:2019.4.1
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横浜から一直線 川越の寺と神社

2018-10-26 15:18:34 | 観光
川越の寺と神社

横浜から東急・東横線――東京メトロ副都心線――東武東上線の路線で直通電車を利用して78分。そのまま座っていける便利さはありがたいものだ。これを広域鉄道の「ネットワーク化」と云うそうだ。





 
交通はフリー乗車券を利用


喜多院(慈恵堂)

平安時代の天台宗の僧・良源を祀る。良源は元三大師(命日から生まれた名前)、角大師(伝説の姿から生まれた名前)、慈恵大師(朝廷から贈られた名前)とも呼ばれることから喜多院は川越大師の別名でも知られる。
また、良源は「おみくじ」の創始者とも云われている。

山門


慈恵堂(本堂)


慈眼堂〔天海(慈眼大師)をまつる御堂。徳川三代将軍家光の命によって建てられた〕



喜多院は1638(寛永15)年の川越大火により山門を除き全焼。家光が再建の際江戸城の別殿を移築したことで「春日局の化粧の間」や「家光の誕生の間」が存在する。
春日局はお福と云い、明智光秀の重臣斉藤利三の娘であった。将軍家の乳母として江戸城に上がり、大奥の体制を築いた。化粧料として神奈川県の海老名市、綾瀬市、藤沢市にまたがる3,000石の領地を下付される。


五百羅漢
日本三大羅漢のひとつ。天明・文政年間のおよそ50年間にわたり建立。
羅漢とは仏教に於いて最高の悟りを得た、尊敬や施し受けるに相応しい聖者のこと。阿羅漢とも云われる。


川越熊野神社




当社は、室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。

境内には「宝池」と呼ばれる池があった。その宝池と水源が同じ井戸より水を引き、その水で金銭を洗い清め同時に心身を清めて行いを慎めば、不浄の塵垢(じんこう・よごれのこと)が消え清浄の福銭になる。



川越氷川神社
太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。
夏には境内に飾られた2,000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ2014(平成26)年から始まった祭事「縁むすび風鈴」で賑わう。 なお、川越市内に氷川神社は当社を含めて14社ある。

扁額の社号は勝海舟が記したもの


風鈴回廊








「恋あかり」夏の限定イベント



時の鐘
木造で3層のやぐらで高さは約16m、城下の頃の面影を残す建造物である。1日4回、現在も鐘は鳴る。
約400年前、当時の川越藩主によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や鐘が焼失したが、建て替えられ現在のは四代目に当たる。
その鐘の音色は、小江戸川越の情緒をたっぷりと味合わせてくれる趣を感じさせると云う。










しあわせ稲荷
なぜか「しあわせ稲荷」と呼ばれている本宗神社。
明治の初めに笠間稲荷大神を勧請した。








小江戸の町並み
度重なる大火のため、火事に強い建物として江戸の町では土蔵造りが流行した。江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになる。 現在の蔵の多くは、明治の中頃発生した川越大火以降に建てられたもので、今も30数棟が残る。







川越まつり会館
国の重要無形民俗文化財である「川越まつり(川越氷川祭)」は毎年10月14日に斎行される。
「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事(祭礼)」から成り立っている。



 



菓子屋横丁
「菓子屋横丁」は明治の始め頃、養寿院の門前町として栄えるこの町で、江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって、製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。現在では20軒ほどの町並みである。






訪れた日:2018.8.21

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鶴見川河岸のさくらを巡る

2018-04-05 17:12:20 | 観光
「鶴見川桜・緑化実行委員会」発行のおさんぽマップ片手に桜を巡る。

鶴見大橋~臨港鶴見川橋



鶴見大橋 雲のない晴れなのだがビルが霞んでいる天候(右岸)


生麦貝ノ浜緑地


生麦貝ノ浜緑地


JR鶴見線国道駅


JR鶴見線国道駅 ガード下


臨港鶴見川橋

臨港鶴見川橋~潮見橋



臨港鶴見川橋たもと付近


臨港橋東側


潮見橋

潮見橋~潮鶴橋











潮見橋


潮鶴橋~芦穂橋


対岸(左岸)の桜を対岸より眺めてから左岸に回る。









芦穂橋

芦穂橋~鶴見橋


右岸の桜を両岸より眺める(↑↓)



左岸


菅沢の庚申・元禄10年(1697)2月15日の庚申塔(六臂青面金剛、二鶏三猿を浮彫、施主善極坊講中8人、「奉庚申供養」)


鶴見橋

鶴見橋~鶴見川橋


左岸


右岸


右岸


テッチャンが数人京急電車の写真を撮っていた(右岸)






鶴見川水難供養塔 


左岸


左岸


鶴見川橋

鶴見川橋~森永橋



旧東海道


江戸名所図会 鶴見橋




左岸


JR線


左岸


左岸


左岸








森永橋

森永橋~新鶴見橋



新鶴見橋

新鶴見橋~末吉橋



下末吉公園


下末吉公園


右岸


右岸


左岸


上末吉二丁目公園


真福寺


真福寺


真福寺


末吉神社


末吉神社


末吉橋

末吉橋~鷹野大橋





かぶと塚


かぶと塚


かぶと塚


鷹野大橋

鷹野大橋~鷹野人道橋

矢上川との合流地左岸


矢上川との合流地左岸




鷹野人道橋

鷹野人道橋~樽綱橋



左岸


右岸


右岸




樽綱橋

樽綱橋~大綱橋



右岸


右岸


右岸


左岸




右岸


大綱橋・東急東横線




訪れた日:2018.3.29


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横浜・山手のさくらを巡る 2018

2018-03-29 16:23:24 | 観光
横浜の桜(ソメイヨシノ)が3月19日に開花した。平年より7日早いと云う事だが、これは当然の事と思う。昨年と比較は6日早いと云うことだ。
今年は1月末から2月にかけては数年に1度の記録的大寒波に日本列島が襲われたので、昨年より早い開花は意外であった。
桜の開花は『600度の法則』があって「2月1日以降、毎日の最高気温を足してその累計値が600度を超えた日に桜が開花する」というもだそうだ。、これは気象予報士に云わせると精度の高い法則のようだ。
そして、満開は昔は開花から10日と云われていたと記憶するのだが、最近は1週間前後となった。これも温暖化の影響か。

と云うことで、開花から10日目の山手のさくら巡りとなった。
山手公園
日本初の洋風公共庭園であり、日本におけるテニス発祥の地でもある。
公園開設のきっかけは、1862(文久2)年に発生した生麦事件である。この事件は横浜居留地の外国人たちを震撼させ、安心してピクニックや馬の遠乗りが楽しめる場所が欲しいと、イギリス・アメリカ・フランスの3ヵ国の公使が、山手に遊歩道と公園を設置するよう江戸幕府に要求したが、当時の日本では散策のための道をつくるなどの発想はなく、「公園」という概念など持ち合わせてもいなかった。各国の領事たちは、何度も幕府に公園を設置することを要求し、その結果、幕府から遊歩道とともに公園建設を許可されるに至ったのである。

「麦田バス停」を降り山手公園入口の道を入る






足元にはシャガの花が咲いている






横浜雙葉高校前の通りからテニスコートを眺める

山手界隈
カトリック山手教会
横浜居留地(現在の山下町)にパリ外国宣教会が創建した横浜天主堂が、1906年現在地に移転した。1923年の関東大震災で倒壊し、1933年に再建された。







中央大学付近



汐汲坂
元町から山手の丘に登る坂のひとつで、元町3・4丁目境に位置し、長さは190mほどである。
坂の名は、横浜市史稿によると水利に乏しい丘の上へ、農夫が海水を汲んで登ったからとする説があるが、『横浜の坂』の著者は、塩害のおそれのある海水は農業には不向きで、「汐見坂」から転じたのではないかと推測してされている。また、農民が小規模な製塩を行ったのではないかと云う説もあるが、いずれも定かでない。1884(明治17)年には、山手居留地のひとつとして横浜区汐汲坂の町名があったが、1899(明治32)年に山手町に編入され、町名としては消滅した。

代官坂
古くは、元町から山手を越え上野町方面にかけての道を「箕輪坂」と呼んだ。箕の形のように丸く窪んだ土地を意味するとも、北方村の地主の箕輪家に由来するとも考えられているが、はっきり分かっていない。
「代官坂」と呼ばれるようになったのは明治20~30年代と考えられ、坂の途中に屋敷を構えた石川徳右衛門に由来する。徳右衛門は惣年寄を勤めたが、代官ではなかったが横浜の町政を司った有力者であることから、代官に相当するためとも考えられているが、はっきりとは分かっていない。
明治の一時期には、「箕輪坂」と「代官坂」の名称が併用されていたと考えられる。

雙葉高付近



元町公園











エリスマン邸
スイス人貿易商エリスマンが1926(大正15)年に建てた私邸。
邸内の「しょうゆ きゃふぇ」では話題の生プリンが食べられる。

山手80番館遺跡
元町商店街から山手にかけての谷戸と呼ばれる地形に位置する。
明治末乃至大正初期に建てられ、関東大震災で被害を受けたことから、震災の大きさを今に伝える「山手80番館跡」遺構である。煉瓦の壁を鉄棒で補強、耐震性を考慮した建物にもかかわらず、関東大震災で被害を受けている。また、浄化設備が整った住居でもあった。



横浜気象台
今回の山手の桜巡りの主目的は横浜の桜の標準木に会うことでであった。東京の標準木を2年前に先に観て地元を後回しにして大変失礼をした。









明治10~20年代頃の煉瓦造りの井戸 深さ25m


―――港の見える丘公園の桜は3年前に巡っているので割愛―――


谷戸坂
「谷戸坂」の名称は山手の丘陵から北に開けた谷戸と呼ばれる谷状の地形に由来するもので、北端の堀川の畔から、南の港の見える丘公園前交差点へ上る、長さはおよそ300m。
1859(安政6)年の横浜港開港以前から疱瘡大明神として知られた本牧岬付近にあった、本牧十二天へ至る信仰の道であった。









元町
1859年の横浜開港までは半農半漁の村落のであった横浜村住民がこの地に移住したことで「横浜元町」と呼ばれるようになる。明治維新の頃にはすでに外国人向けの商店街として栄え、町名も「元町」と改称された。
現在では150周年以上の歴史を持つ横浜を代表する商業地のひとつとなっている。



ビンコーラの自動販売機 懐かしくてパチリ

 
今日からプロ野球のペナントレースが開始 今年こそシリーズ優勝を


訪れた日:2018.3.29


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節句の旧安田邸からつつじまつりの根津神社へ

2017-05-07 14:37:13 | 観光

公開は水曜と土曜の週2日のみで、今回たまたま都内に予定があった水曜日に旧安田楠雄邸を訪れた。
JR日暮里駅より「夕やけだんだん」の谷中ぎんざ、よみせ通りを抜け向かった。


公開時間を気にせず向かったのだが、10時半からと門の前で20分待つ。
旧安田楠雄邸は、1919(大正8)年に豊島園の創始者である実業家・藤田好三郎氏によって造られ、1923(大正12)年に旧安田財閥の創始者・安田善次郎氏の女婿・善四郎氏が買い取り居住。  
1995(平成7)年に当主の楠雄氏が亡くなられたのち、2007(平成19)年から一般公開される。
関東大震災と第二次世界大戦の被災を免れた外見は和風建築で、ほぼ改造されることなく創建当時の姿を残している。
唯一の洋間にはサンルームやマントルピースも配置されている。





猫間障子と云い、ガラスがはまっている部分の障子が左右に開く構造になっている。はじめは、猫が抜けられるようにガラスはなかったのだが、次第に気密性を考えガラスがはめられた。専門家によると、一般的に関東で使われていると云われる。
素透視ガラスは波を打っていたり、気泡があったりして年代を感じるが、すりガラスは、きれいな模様が描かれたり、中間に素透視を入れたりして古い時代のガラスとは思えないほどシャレている。




旧安田楠雄邸では、五節句のイベントが行われていて、今回は端午の節句で五月飾りが飾られていた。







根津神社裏門から森鴎外記念館や旧安田楠雄邸前を通り駒込方面に通じる古くから自然にできた道を「薮下道」と呼ばれ親しまれた道で、森鴎外や夏目漱石などの多くの文人が散歩をした道ともいわれている。
むかしは道幅も狭く、両側は笹薮で雪の日には、その重みで笹が垂れ下がって道がふさがれて歩けなかったと云われている。


薮下通りを通って、根津神社へは裏門から入る。屋台がずらっと参道に並んでいた。

根津神社は日本武尊が1900年近く以前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。
1706(宝永3)年に徳川五代将軍綱吉が現在に残る社殿を造営、権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、楼門、透塀は国の重要文化財に指定されており、江戸の神社建築としては最大規模のものである。

















女性ばかりの根津権現太鼓が華を添えていた。



根津神社のつつじまつりも2日後に終りを控え、つつじの盛りはとうに過ぎていた。隣に建つ大学院の通路に咲くツツジが見事だったので、撮らせていただいた。

訪れた日:2017.5.3

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冬至に高尾山山頂で

2016-12-26 15:48:26 | 観光
毎年冬至の高尾山山頂は太陽と富士山が彩なすダイヤモンドショー「ダイヤモンド富士」が現れる日である。
ダイヤモンド富士に関心を持ったのは5年前で、江の島弁天橋でそのショーを待ちうけたことが始まりである。その時は沈む30分ほど前に一気に黒雲が富士を覆い隠し、期待が一瞬に消えてしまった。
それからは地元で見ようと調べスーパーの屋上にたったこともあるが、いかんせん地元では年2回のチャンスは季節の変わり目で晴れることもままならず「ダイヤモンド富士」は見られぬ5年が過ぎた。
では、見る確率が高い冬は何処で?と探した場所が高尾山であった。
その確率高い高尾山の当日の天気は、「晴れのち曇りで翌日は雨」と云う週刊予報であった。そこで今年はパスするつもりであった。
そうであったのだが、当日の昼前の天気予報で「今日は穏やかに晴れるでしょう。」と放送したものだから、急遽支度をして高尾山に向かった。




山頂まで徒歩では間に合わないと、初めてのケーブル登山となった。
ケーブルの中間から高尾山駅近くは日本一急勾配の31.8度を体験。前向きに座っていたが、背中に重荷重を感じる。


高尾山薬王院の参道を進み、108段の男坂を上がると、最近つくられた新しいルート、「三密の道」がある。人間の日常生活では、身体・言葉・心の3つの働きから成り立っている。これこそが煩悩の元になるものなので、煩悩を消すことを念じてこの道を歩けと解説されている。

日没20分ほどの前の景色。太陽は丹沢蛭ヶ岳の間にボヤケテ見えている。
これでは、と思った。

それでも太陽は左から傾斜して富士山頂へと下がって行く。

太陽が山頂に降りはじめると、近くで、
   「今、入り始めた。」
     「今、半分。」
       「今、四分の三。」
         「完全に入った。」
           「今年はこれで終わり!」
                       なんて、解説があった。
残念ながら、薄い雲のフィルターを通しての輝きで、せめて一条か、二条の光が前面に差し込んで欲しかった。
光がほし~い。


登山者と云うより、観衆が見守る中、太陽は沈んだ。
 

太陽が沈み始めたころから、後ろでスピーカーからの声が聞こえてきてはいたが、何の放送か耳を傾けていなかった。帰る時になってミニパトが泊まっていたことを知る。
599mの低い山ながら山頂は山頂であるから、山頂でも車がはいるんだ。
帰りもケーブルカー。この混み具合だと1本待つかなと思ったが、最後のひとりで乗れる。ダイヤモンド富士の期間、9日間は時間を延長して輸送している。


ダイヤモンド富士が望めるのは年に2回あるはずなのに、高尾山だけは1回、しかし他の地域は1日か2日きり見えないのに、ここでは9日間も見えることが今回解った。方角的にここが折り返しなのか。
それで17日のダイヤモンド富士は見事であったことをネットで知る。
次があるか、来年考えよう。

訪れた日:2016.12.21

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おどろおどろしい夏の京都へ

2016-09-26 14:11:14 | 観光

京都の夏といえば鴨川にかかる「納涼床」や貴船川の「川床」と言うのだが、おどろおどろしい怪奇な京都を夏にツアーする紹介もあり、TVでも取り上げている。
それは、江戸で云えば怪談ツアーだが、京都では代わりに陰陽道ツアーであり、一般的に名の知れ渡った安倍清明を中心としたツアーである。
と、云うことで、我々も今回の京都はこれまでと違ったコースを周った。


長仙院
六角通を西に入った繁華街に建つ長仙院へ予約をして拝観に伺う。対応された年配のご住職から木像の説明を伺う。
ここは安倍晴明((あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、921~1005年9月26日・偶然にも今日が命日)の木像が安置される寺。本堂の片隅に3体の木像が置かれている。廃仏毀釈に伴い、1877(明治10)年、本尊の阿弥陀如来像など5体と共に、清円寺から譲り受けられたものと言う。 清円寺は、松原通大和大路西入ルの場所のあって、境内にかつて、晴明を祀る社があったという 。



安倍晴明像


3体の木像は、前面左手が束帯姿の座像の晴明。右手の僧形像は蝉丸と住職が説明された。我々が知る蝉丸像は、百人一首に描かれているこんな姿である()。
                   

晴明神社
          
強力なパワースポット。平安中期の天文学者安倍晴明を奉る。当時の天文暦学から独自の陰陽道を確立。朝廷の祭政に貢献した。1007年一条天皇がその功績をしのび創祀した。ここは、晴明の屋敷跡でもある。

晴明像
晴明様が夜空の星をみて遠く天体を観測し、手を衣装の下で印を結ばれている様子をあらわしております。
陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職にあった
           

晴明の家紋
家紋は、桔梗の花を図案化した桔梗紋の変形で、「晴明桔梗(せいめいききょう)」と言い、五芒星とも言う。
            
五芒星は、陰陽道では魔除けの呪符として伝えられている。印にこめられたその意味は、陰陽道の基本概念となった陰陽五行説、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克(そうこく=相いれないふたつのものが、互いに勝とうとして争うこと)を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。
              
大日本帝国陸軍の軍帽には五芒星が刺繍されていた。桜花の萼(がく)の形を模しているとも、弾除け(多魔除け)の意味をかついで採用されていたとも言われている。
            
晴明井
五芒星(晴明紋)が描かれた「晴明井」と称せられる井戸がある。
安倍晴明が霊力によって湧き出させたと伝えられ、この地が晴明邸であった時代には、洛中名水のひとつとされる。湧く水は「晴明水」と呼ばれ無病息災にご利益がある。
また、神社地付近は千利休が聚楽屋敷を有し、この水を茶の湯に用い、豊臣秀吉もその茶を服したと言う。 
            
厄除桃
古来、陰陽道では、桃は魔除、厄除けの果物といわれているという。 自身の厄をこの桃に撫で付けて厄を除く。
「桃」と云う字は、「木」に「兆」と書くこともあり、陰陽道では、厄除け、魔よけの果物とされている。
                   
境内末社・斎(いつき)稲荷社
1872(明治3)年に発布された「陰陽道禁止令」により陰陽道は社会的に抹殺されてしまう。
更に明治期の廃仏毀釈で廃社間近にまで追い込まれたという。
長仙院で頂いた資料によると、
『晴明神社は昔は晴明御霊と呼ばれた。晴明御霊神はあまねく貴賎の崇拝を受けたが、明治維新の際、廃仏毀釈でひどい目にあった。(中略)晴明神社は村社にも入れてもらえず廃社となる運命であったが、近くの紫野斎院(810~1212)の「斎宮」を主神とする神社をつくり、その社を前面に出すことで生き延びた。晴明神社はその傍らに、「稲荷神社」としてやっと残すことが出来た。その名残が摂社・斎稲荷である。(梅原猛著作)』(㊟清明の母は信田の森に住む狐とされている)
          
復元の一条戻橋
19995(平成7)年に一条戻橋を架け替えした際、使用されていた欄干の親柱を利用して、境内に縮小した戻り橋を復元した。
                     

一条戻橋・死者が蘇る橋
794年平安遷都と共に一条通の堀川に架けられた橋。
918年、修験道を極めた浄蔵貴所が父の臨終に間に合わず、この橋で葬列に出会う。父に一目合いたいと一心で祈ると法力が届き、父は一時的にこの世に戻ることを許された。それ以来、「土御門橋」から「戻橋」と呼ばれるようになった。
 
安倍晴明の式神は十二体の人形(ひとがた)で、あまりに醜く恐ろしい顔をしていて、晴明の妻は怯えていた。 そこで、晴明は十二体の人形を普段は、一条戻橋に置いた石櫃に閉じこめておき、必要なときだけ橋に向かって手を打ち呼び寄せたという。
また、式神を使って門扉を開閉させたり、お茶を運ばせたりしていた。また、ミカン16個をネズミ16匹に変えてしまった等の伝聞がある。

晴明神社の式神像

一条戻橋にはその他、幾つかの伝承がある。
同じく平安時代中期では、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所。
安土桃山時代には豊臣秀吉により千利休がさらし首されり、キリスト教禁教令のもと、日本二十六聖人が、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地・長崎へと向かわされた。
また、嫁入り前の女性は嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習がある。逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋を渡りに来ることもあった。

一条戻橋の下を流れる堀川(橋の上流を写す)

安倍晴明公嵯峨墓所
平安時代1005年9月26日安倍晴明は85歳で亡くなり、嵯峨の地に葬られたという。ただ、実際には室町時代に数多く造られた「晴明塚」のひとつとみられている。
墓所は天龍寺が所管し、塔頭・寿寧院の境内にあった。その後荒廃したため、現在は晴明神社の飛び地境内のこの地に移転した。
 

六道珍皇寺
地元では「六道さん」で知られる、臨済宗建仁寺派。京都の盆はこの寺の迎えの鐘で開かれると言う。昔、この寺が鳥辺野の入口にあったことから、ここが、現世と冥界の接点、つまり「六道の辻」と考えられ、今昔物語にも出てくるが、当寺の梵鐘の迎え鐘によって精霊がこの世によみがえってくると信じられた。
本堂裏には、小野篁(おののたかむら・802年〜852年)が冥土へ通った「黄泉がえりの井戸」という伝説の井戸がある。
篁は昼間は朝廷に勤め、夜は冥界で閻魔大王の副官をし、夜ごとこの井戸を利用して地獄に通い、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
篁が冥土へ通い始めたのは、亡くなった母に会うためといわれる。
また、こんな逸話もある。
篁が参議となったある時、上司が重病となり他界し閻魔の前で裁かれる際、助けて欲しいと閻魔に掛け合い上司は蘇生した。
このことによって、篁が地獄の冥官であるという話が世間に広まり、篁を恐れたという。
篁は、遣隋使で知られる小野妹子(飛鳥時代)の子孫であり、孫に書家の小野道風がいる。また、美人の代名詞である小野小町も篁の孫という説もある。
また、身長六尺二寸(約188㎝)の巨漢でもあった。





綱を引いて鐘を撞く なんとも云えぬ響きが聞こえる
          《精霊迎え》
            綱の先には 冥土
            その綱を引けば鐘の音が響く
            遥か彼方のあの世まで届くと言われている
            京のお盆 人々はこの世に先祖の霊を
            迎えるため 「迎え鐘」を撞く



衆病悉除(しゅびょうしつじょ・心身安楽 病気が治るよう薬師如来に祈る)


閻魔堂に閻魔大王像と小野篁像が合祀


冥界への入口・篁が通った入口の井戸

篁は歌人としても知られており、百人一首に参議篁の名で選ばれている。
                 

嵯峨薬師寺
平安初期の818年、世に蔓延する悪病を憂慮した嵯峨天皇が、弘法大師に薬師如来像の彫刻を命じた。この像が本尊の薬師如来坐像である。大覚寺に属していたが、明治以降清凉寺の塔頭となっている。寺宝に嵯峨天皇像、阿弥陀三尊僧などと付近にあった福生寺の遺仏と伝えられる地蔵菩薩像や小野篁像を安置している。
「生六道」」と称された福生寺(明治期に廃寺)は、小野篁が冥土から帰り着いたところと伝えられ、冥土の出口という7基の井戸が発掘された(現在はない)。
境内には「生の六道 小野篁公遺跡」の碑が建つ。
珍皇寺の井戸は冥土の入口なので、「死の六道」、これに対して薬師寺は冥土の出口、つまりはこの世に戻ることを指し、生まれると考え「生の六道」と言われる。
                  

送り地蔵盆
生六道のまつり、地蔵盆が毎年8月24日に行われる。生御膳と呼ばれるお供えを供える。
            

          
本堂内の地蔵尊の前には、かぼちゃの舟に湯葉の帆が供えられている。
京都では16日に行われる「五山の送り火」によって精霊を送るのだが、その送り火で冥土に戻れない精霊、京都では「お精霊(しょらい)さん」を経木(水塔婆)の送り火で送るのが薬師寺の「地蔵盆」である。この火が京都最後の送り火となる。
この送り火は檀家に限らず一般の方も参加できる。残念ながら今回は時間の都合で送り火までは立ち会えなかった。
2年ぶりの送り地蔵盆の薬師寺である。あの日は、ここについて大雨に会い、その後の予定を中止して雨宿りをしたのだが、今回もいみじくも、薬師寺を向かう道で雨に見舞われた。濡れるほどではなかったが、嵯峨を歩いている時間帯は降り続いていた。ここは雨に縁があるようだ。

地蔵盆
嵯峨薬師寺の地蔵盆での法要に合わせて、京の町では町内の地蔵尊を囲み子供達の祭りが開かれる。私の姪が京都人と結婚しているが、その彼も地蔵盆のことを話すと懐かしがっていた。
今回、たまたま縁あって薬師寺から地下鉄の駅まで送って頂いた方との車内の会話にも地蔵盆の話題が出た。
40代の物静かに話されるライターを職業にする方で、NHKの番組も手掛けている。関東人の私が地蔵盆に興味を持っていることに驚いていた。何せ2年前にはある自治会の地蔵盆に密着取材させてもらった程であったから。
そして、私に地蔵盆に代わる行事が関東にあるのかと尋ねられた。
地蔵盆が子供のまつりと言う所だけをとってみると、地蔵盆の代わりは私にとっては「初午」であった。
それは、子供の頃の地域的な風習だったのかも知れぬが、初午前日に近くの屋敷稲荷の祠の前にトタン板で小屋が建てられ、中央にいろりが設けられる。夕刻になると三々五々子供たちが集まり、料理や赤飯、握り飯、お菓子などが持寄せられる。親たちは稲荷無尽講で席が設けられる。夜になると子供達は太鼓をたたきながら祭りの寄付やお菓子を募り近所を周る。その日、子供たちの一番の喜びは、曜日によるが一晩中起きてても良いことだった。小屋の中は炭火で汗がでるほどの暖かさであった。
これが地蔵盆に代わる私の子供時代の行事であった。
車内の会話に戻すが、「ふごおろし」という2階からくじ引きの景品を駕籠で下ろす風習が、現在京都では全く見られなくなってしまったことを嘆いておられ、「京都の地蔵盆」について掘り下げてみたいことも話された。
      
 ふごおろし(京都新聞):今は2階のベランダからだが昔は1階は出格子が虫籠窓(むしこまど)のある京町屋の2階から下ろしたのだろう

そして京都人についても祇園祭の宵山には行くのだが、山鉾巡行を見たことがない人が半数いるほどいt、京都人は京都に興味を持たなくなったとも話している。
京都の小中学校の遠足(社会見学)は寺巡りばかりだとのことだ。この教育が京都人を京都嫌いにしてしまったのかも知れない。私も修学旅行で訪れた時は、「またお寺かよ。」と思った(意見には個人差があるが・・・)。一方では観光客が増加していることも話された。
それは、承知する。清水寺では、日本人と同じ顔をしてるのに飛び交う言葉は訳もわからない。金閣や銀閣では白色系外国人が目立っていた。つまりは、観光客増加は外国人が支えているのである。
世界遺産・京都、「日本人の心」を味わって頂きたい。

訪れた日:2016.8.23,24

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修学旅行コースの奈良の旅

2016-09-08 10:31:03 | 観光
京都駅から座席指定の特急で30分余、奈良駅に降り立つ。奈良は40年以上の御無沙汰だ。
駅前の噴水広場に托鉢の僧侶が建っていた。その僧侶を帰りにも見かけた。食事は?水分補給は?熱中症対策は?と気になってくる。

近鉄奈良駅・行基菩薩の噴水
          
               行基:奈良時代の僧侶で禁を破り民衆に仏教を広め大仏を造立した責任者
               
平城宮跡朱雀門
          
「なんと○○な平城京。」710年遷都年号の覚え方である。
車窓からその平城京の朱雀門を写す。こんな位置に建っていたとは全く知らなかった。「へいじょうきょう」と呼んでいるが、歴史学者は「へいぜいきょう」と呼ぶ人もいるそうだ。それは51代天皇に平城(へいぜい)天皇がいるからだとか。但し、遷都当時の造成土からは「奈良京」と書かれた木簡が発掘されてもいるようだ。

興福寺
五重塔、東金堂と宝物館の仏像を拝観する。
五重塔はどっしりとして、東寺の五重塔に並ぶ日本最大級。そして、今回期待は阿修羅像。この表情は20代に白血病で亡くなった女優の夏目雅子さんそのものである。今回は、朝日新聞出版社刊「日本の名寺をyく・興福寺」を持って、時間をかけて拝観した。
現在、中金堂を再建中でもある。釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂であるが、火災で7度も焼失していると云う。完成は2018年。





東金堂 本尊・薬師如来像 日光菩薩像 月光菩薩像が安置



国宝館 阿修羅像他が安置


南円堂

東大寺
聖武天皇が日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた、1,200年以上の歴史を持つ寺院である。

南大門


築地塀


大仏殿




奈良時代には大仏殿(金堂)の両脇に七重塔(推定高さ約70メートル以上)が整備

子供たちが柱の穴潜りに挑戦している。この穴、大仏様の鼻の穴と同サイズだそうで、造られた時は、大人でも潜り抜け出来たという。その当時の大人は今に比べて華奢の様だった。
柱の穴潜りといえば、弥次喜多が潜れたの、挟まったのとひと騒ぎしたのは、この穴と思っていたのだが、大違いのようだ。
                   
弥次喜多の穴潜りは京の大仏様の柱が正解のようだ。京に大仏が?と思われるが、思い起こせば50年以上前に参拝した記憶がある。バカでかいと思った覚えがある。そのあと、家族を連れて訪れたことがあったが、その時は火災で焼失した翌年であった。
その寺院は方広寺。方広寺は豊臣秀吉が大仏を建てた寺だという。その後秀頼が鐘楼を寄進するのだが、鐘楼に刻まれた文字がきっかけで、豊臣と徳川が戦う事になる。詳しい内容は大河ドラマ「真田丸」をおたのしみに。確実に出てくる話だ。
寺域には南大門・本坊経庫・開山堂・鐘楼・三月堂・二月堂・転害門の国宝に指定されている歴史的建造物や文化財がある。



二月堂


二月堂


二月堂のそばに休憩所があって、セルフの冷えた麦茶のサービスがあった。有難いことで、御馳走さまのひとことも発する。
1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。今回、奈良の世界遺産は、興福寺と春日大社を巡る。
          
                 文化交流の象徴として中国の船大工10人が参道で公開制作した船(南大門前)

春日大社
春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社で、全国に約1000社ある春日神社の総本社である。
藤原氏と云えば飛鳥時代から平安時代にかけて権勢を誇った氏族でもある。







戦国の武将宇喜多秀家(左解説板)と直江兼続が寄進した釣灯篭

春日大社の朱(赤)色は、他の神社と違った独特の色をしている。
社殿と回廊の釣燈籠、昔は油料の続く限り毎晩点燈され、特に雨乞祈願には万燈が行われたようだ。しかし明治時代になると、人員不足と油料が途絶え毎夜の点灯が不可能になった。近年では年2回、2月の節分と8月のお盆の14、15日に点灯するようになった。
その灯は、幻想的で、優美な光景であるそうで、今はそれを北回廊にある藤波之屋(江戸時代まで神職の詰所)で見れるようになっている。
          
また、今年は20年毎に行われる式年造替(しきねんぞうたい)という儀式が行われる年である。これは、神社の社殿の一部または全部を建て替える制度。訪れた時も本殿の壁画を描き直す作業が行われていた。

浮見堂・鷺池
奈良公園の南側にある。
浮見堂は、大正5年に建てられた、檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根が美しい東屋。鷺池の岸から純和風の橋がかかっている。鷺池の岸から眺める、水面に映る浮見堂は絵になると云われるのだが。
          

          

猿沢の池
「興福寺五重塔と池の柳が水面に映える猿沢池の景観は、奈良公園の代表的な名勝地」と云われているが、この時期、水は緑色に濁り、見られたものではなかった。
          
池端に采女神社(春日神社の末社)が祀られている。帝の寵愛が衰えたので、采女(うねめ)は衣を柳に掛けて入水してしまった悲しい伝説がある。猿沢の池はカメの話だと思ったが、歴史が古い町だけあって悲話があるようだ。采女の故郷、福島県郡山市にも采女神社があると云う。
          

          
采女を祀る社は、我が身を投じた池を見るにしのびないと一夜のうちに後ろ向きにしたと云われる。
9月14、15日には「采女祭」が開かれる。花扇奉納行列があり、秋の七草で飾られた2m余りの花扇と数十人の稚児、御所車に乗った十二単姿の花扇使や姉妹都市 福島県郡山市から参加のミスうねめ、ミス奈良などが天平衣装をまとって市内を練り歩く。その後春日神社の神官による神事がおこなわれて、花扇が奉納される。 猿沢の池では、雅楽が流れるなか、2隻の管絃船が、40余りの流し灯籠の間をぬ って池をめぐり、最後には花扇を池中に投じる。
          

奈良公園の鹿
 

我々の世代の中学の修学旅行は修学旅行列車・日の出号で京都・奈良の旅行であった。

川崎のひので号(卒業アルバムより)
が、孫が通う中学校では飛行機で熊本空港に降りて、北九州を周る贅沢な修学旅行である。そこで、私の京都旅行計画にあたり、奈良のポピュラーなコースを加えた同行二人の旅となった。
同行の中二の孫もいつの間にか歴女となっていた。

訪れた日:2016.8.22

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開業北海道新幹線の青函隧道

2016-03-26 00:00:00 | 観光
東北新幹線は新青森駅から延長されて、念願の津軽海峡を青函トンネルで一路函館へとつながり、北海道新幹線となった。
青函隧道着工から実に半世紀後の2016年3月のことである。

津軽海峡・・海底に青函トンネルが対岸の北海道に向け走っている


竜飛の"津軽海峡冬景色"やや右手に青函トンネルが走る

思い起こせば東海道新幹線が東京~新大阪間を4時間(現在2時間22分)で結んだ同じ年の1964年に青函トンネルが着工する。新幹線が通るトンネルとして工期10年の目標であったが、その後オイルショックや国鉄の財政難から計画は一時凍結にもなった。
工事の経験はそれまで、関門トンネル(3.6km)きりなく、53.85km(海底部23.3km)のトンネルは難航した。
ようやく24年かかって1988年に世界最長のトンネルは完成した。また、この年は瀬戸大橋の開通もあって、日本がひとつに結ばれ、「にほん列島」が「一本列島」と呼ばれた。
ここで青函トンネルは世界一長い?と疑問視、英仏海峡に設けられたトンネルの方が長いのでは思った。だが、海底部分については、英仏海峡トンネル37.9kmと遥かに長いのだが、全長となると青函トンネルが3kmほど長いようで、トンネルとしてはやはり世界一であった(英仏海峡トンネルは全長50.49km)。
青函トンネル開設の発端は昭和29(1954)年に発生した、死者・行方不明者1,155名(岩波総合年表)の洞爺丸沈没事故である。





延長された新青森~新函館北斗駅間は1時間余り、東京からは最速で4時間2分(平均4時間19分)。これは羽田~函館空港間2時間20分に比べれば比較にならぬが、昔の青函連絡船青森~函館間4時間30分に比べれば早いものだ。因みに青函トンネル内では、並走する在来線の関係で、当面140km/h走行となるため所要時間は24分かかるという。と云っても在来線は電圧が新幹線対応になるため貨物便だけが走るようだ。



新幹線と在来線が共用する線路のため3本レールが敷かれている


青函トンネル記念館・・青函トンネルについて展示 海面下140mの坑道にも行ける




健さん・小百合さんの映画"海峡"・・青函トンネル工事の紆余曲折を男女間のからみを交えて描いている(1982年作品)

新青森駅を出ると38.5km走って奥津軽いまべつ駅で、その後6kmほどで青函隧道に突入する。奥津軽いまべつ駅は、人口2,700人ほどの今別町に新設された駅で、「津軽海峡の四季が体験できる」ということが大まかな駅のキャッチフレーズのようだ。

北海道新幹線奥津軽いまべつ駅・・建物の窓は青函トンネルをデザインしている




駅駐車場には近くの在来線駅の案内も

以前はここに津軽今別という無人駅があったそうだ。その無人駅が新幹線が通るということで一気に昇格し、13往復中7往復が停車する駅となった。町長は10往復が希望だったようだ。

新幹線駅の並びにはいまべつ道の駅がある

この駅の先で北海道新幹線は在来線と並走して青函トンネルを潜る。

"青函隧道"の文字は開通当時の首相・中曽根康弘氏


H5系北海道新幹線(Net画像)

ようやく北海道へ新幹線が走り出した。
新幹線で五稜郭見物と思っていたが、所要4時間は思いのほか時間がかかる。そこには建設費用を安くした整備新幹線・最高時速260kmの壁があるようだ。
しかし、日本技術の新幹線、東海道新幹線が当初より4割時間短縮されたように、いずれは短縮されるだろう。
期待したい。

訪れた日:2015.8.22
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八戸義経伝説を訪ねて

2016-03-20 14:22:53 | 観光
                 〈平泉・義経堂 2014.9.28〉
義経は、平泉・高館で自害せず、密かに脱出したと云う伝説が東北各地に広がっている。
その中で今回旅した八戸市を中心に青森の義経伝説を探った。

脱出後、義経一行は岩手県久慈市の侍浜(さむらいはま)から海路で北に向かった。
義経一行の青森での第一歩は、この神社の近くである現在の種差海岸上陸したと伝えられる。
1.熊野神社
同神社は、種差海岸から数百メートル山手にはいったところである。
 

種差海岸上陸後、義経が一時かくまわれていた場所が大字白銀町字源治囲内(げんじかこいない)という地名で残っている。
そこから一行は新井田川を遡り現在館越山と呼ばれている地に移動する。そこに館を建て1年余住んだ後、高館に移動する。
高館に引っ越したことで、住んでいたところの地名は「高越」と呼ばれ、次の「高館」の地名は、先の館越山より高くて見晴らしがよい場所であった意味でそう呼ばれている。
2.小田(こだ)八幡宮
この神社は高館山の麓に位置する。
義経が写経したと云われている大般若経が保存されており、京都から持参していた毘沙門天を安置する毘沙門堂を建てたと云われている。毘沙門天は北方を守護する軍神である。
入り口の楼門には義経ゆかりの笹竜胆と源氏車の紋がはめ込まれている。
また、義経がこの周辺に田んぼを段々に開いたことから、「小田(こだ)」と命名されたといわれている。
 

          

 

 
高館付近に義経が暮らしたのは、4年ほどと推測される。

3.おがみ神社
義経は正妻・北の方(京都の公家、久我(こが)大臣の娘)を伴ってここまで逃げ延びて来たのだが、元久2年(1205)にその正妻が亡くなった。亡骸を当時京ケ崎と呼ばれていた地に葬ったと云われていて、その地が現在はおがみ神社になっている。同社にはその正妻・北の方が使用したと云われている手鏡が保管されている。また、義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝えられている。
          

 

 

4.長者山新羅神社
義経が藤原秀衡死後、脱出先を探るため、家臣の板橋長治を八戸に派遣したと云われている。その板橋は、市中心部の小高い丘に居を構えたと云われており、当時は長治山と呼ばれていた。そこに、長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)が建立されている。
周辺には、板橋長治にちなんだ「板橋」という地名や、米の糠を捨てた場所ということから名づけられた「糠塚(ぬかづか)」という地名が残されている。
 

 

5.藤ヶ森稲荷神社
京都の稲荷神社を日頃信心していた義経は、家来の常陸坊を京都へ派遣し、藤ヶ森稲荷神社を勧請し、自ら神事を執り行ったと云われる。
 

八戸市にはそのほか多くの義経伝説が残っている。
6.三八城神社の弁慶石
三八城(みやぎ)神社には力自慢の弁慶の足跡が刻まれていると云われいる「弁慶石」が現存している。また、現在は行方不明であるが、「義経石」と云われる石もあったと。
「弁慶石」とは、一目惚れしたオナツという娘と巡って弁慶が、村の若者と力比べをした時に放り投げた岩と云われている。

7.帽子屋敷
義経が、藤ヶ森稲荷神社に来た際に、烏帽子を掛けたといわれたことから、その一帯が帽子屋敷と命名されている(現在の類家2丁目付近)。なお、現在は芭蕉堂公園になっている。

8.矢止めの清水
義経が、高館からどこまで遠くへ矢を放つことができるか弁慶に命じたところ、4km先の馬淵川を越えて刺さり、その矢を抜くと水が湧き出たことから、そこを矢止めの清水と云われている。

9.ほたる崎
高館に住んでいた義経が、蛍が飛び交う姿に興味を持ち、現在の八太郎山の東端を「ほたる崎」と名付けたと云われている。

義経主従一行八戸から蝦夷地に向かうため県内を点々ととしており、義経伝説は続いてゆく。
その後の義経一行は各地に残る言伝えから、現在の国道4号線沿いを北上したようで、青森市では貴船神社、善知鳥神社に立ち寄ったと云われている。
10.貴船神社
大同2年(807)、坂上田村麿の勧請と云われるが、義経伝説では、義経が蝦夷地へ渡海する時に、家来の鷲尾経春が京都鞍馬の貴船明神を勧請し、その無事を祈ったとも伝える。また、義経を慕って河内の国から追いかけてきた浄瑠璃姫は、この地・野内で義経と再会する。しかし、長旅の疲れから病に倒れたため義経は家臣の鷲尾三郎経春に看病を命じ、この地を後にしたと伝えられる。
この伝説が刻まれた石碑が、以前は山頂の公園に建っていたという。



義経は貴船神社に渡海の安全祈願をした後、善知鳥村(うとうむら)に向かう。善知鳥村は青森市の古名。
11.善知鳥神社
善知鳥村附近一帯は広々とした原野だったので、義経は七戸通平沼(現在の六ヶ所村平沼)から供をしていた橋本与兵衛に、この地に留まって開拓するよう告げた。与兵衛はその通りここに留まり、荒野を開拓してその地を支配し、この地を橋本と名付けた(青森市の中心部)。義経が隠れ住んだ土蔵も以前はあったと云われる。
善知鳥神社は、貴船神社同様、大同2年(807)、坂上田村麿の勧請。義経はこの神社にも参拝したと云う。





12.十三湊
当時は奥州藤原氏三代目秀衡の弟である秀栄が、十三湊の有力豪族安東氏の養子となって治めており、義経はそこに立ち寄った。
十三湊は奥州平泉の北の玄関港だったとも云われる。

               十三湖を望む・・この辺りに中世から近世にかけて天然の良港・十三湊があった

一行は津軽半島の突端、竜飛岬に向かう。
13.義経寺
津軽半島の突端までやって来た義経一行は、ここから渡海しようとしたが海は荒れ狂い、不可能であった。そこで海を静めるために義経は、母の常盤御前から授けられた正観音像を三日三晩祈り続けると、満願の朝、白髪の翁が現れ3頭の白い竜馬を授けると話す。そして一行は、その竜のごとき馬に乗って北海道へ飛び渡ったという。3頭の馬が、3つの岩の馬屋(厩)につながれていたことから、この地を三厩(みんまや)と呼ぶようになり、津軽半島の突端から義経一行が北海道目指して飛んでいったので、その地を竜飛岬と名がつけられた。





義経関連の碑と村名の記念碑


地名の起源ともなる伝説の三頭の龍馬がつながれていた厩岩(まやいし)

蝦夷へ渡った義経一行はその後、大陸へ渡り、チンギス・ハーンになったという伝説へとつながっていく。
その蝦夷地では、日高地方の平取(びらとり)町の小高い丘に、義経神社が建立されている。
御神体は「ハンガンカムイ」、つまりは義経である。その設立は江戸時代にさかのぼるようだ。
義経がこの地を訪れ、アイヌ民族に農耕や舟の作り方、海上の操法、機織りの技術を指導したと伝えられている。
義経伝説は一本の線で平泉から蝦夷地までつながっている。しかも地名まで残っている。
そうなると平泉で亡くなったのは、影武者だったのかと思いたくもなる。

訪れた日:2015.8.22、24

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